ネタ帳Webアプリを夢想する

2008-05-30 00:00



最近得た結論。Webアプリとして構築された「ネタ帳」がいるのだ。


い寿司屋は、魚の本当にいい部分だけを残して、他は惜しげもなく捨てますよね。自分でルールを作り、同じことを情報について行う。するとウェブ上のプライベート空間に、最高のネタがびっしり敷き詰められます。グーグルに淘汰されない情報空間を自分で作るわけです。そしてそのネタを使って最高の寿司を握る、つまり知的生産に繋げていくのです。

グーグルに淘汰されない知的生産術 - My Life Between Silicon Valley and Japan グーグルに淘汰されない知的生産術 - My Life Between Silicon Valley and Japan




自然石構築法では、アイデアを「石」として使う。おもしろいと思った文章、写真、図、引用、絵、参考書などの断片である。これらの「自然石」を集めて、論文、レポート、本、台本といった「壁」を作る。


「文章読本by G.M.ワインバーグ」より



日常生活で何かについて考えたとき、ブログに書くことにしている。メリットはいろいろあるが、読み返してみて自分の浅はかさを思い知ることができる点が一番大きい。私にとっては何かを作るより批判する方が楽だし得意なのだ。その批判を自分の文章に向けてみると、あーら不思議。一番馬鹿なことを言っているのは自分でした、と落ち込むことができる。うれしくないですね。


そんなことはどうでもよい。問題は、思いついたことを適当に並べただけではちゃんとした文章にならない、ということだ。ブログのエントリーにする前に、まずネタを集めなくてはいけない。そのネタを組み合わせて初めて文章ができる、、、と少なくとも私個人に関していえばそうらしい。


というわけで、netagoro.com(仮称)はこんなものでなければならんのかな。



と要件を書いただけで満足してはいかんのだが。どうです。これ社内のイントラで共有しても面白いと思いませんか?と先日某会社に言ったが没になったな。


ちなみに↑の要件で、多分あまり普通の人は取り入れないだろう機能は


「閲覧しているネタと「関連がなさそうな」RSSを自動的にどんどん表示する機能」


なぜこれがあるかといえば、私の考えでは「嗜好にあった情報を提示」というのは蛸壺を量産する行為であり、好ましくないからだ。おそらくこれについては別に書くことがあるだろう。




つまるところ足りないのは何なのか?

2008-05-27 00:00



先日行われた「近未来テレビ会議」に出席した人は↓の文章を読んでどのように感じるだろうか。


「ああそれね、わかっちゃぁ、いるんだよ。でもね...実際に製品にするとなると、ね...」一昨日行われた百式田口さん主催のBRAVIA会議には出席できなかったが、おそらくは参加者のブレストで出てきたアイディアの大半が議論し尽くされたものだろう。そして、その中のいくつかは、実際に効果的な手法であることもわかっている。一見すると実装が簡単そうに見えるのもわかる。でも、でも...という技術者・商品企画者の心の声を、冒頭の一文で代弁してみた。

キャズムを超えろ!キャズムを超えろ!


私の感想は「実際そうなのだろう」である。日本の家電メーカーには優秀な技術者、商品企画者が山ほど存在しており、「アイディアだし」に費やされている時間もまた膨大なのだろう。そうして生み出された多数のアイディアは「さまざまな理由」で商品化されない。結局、従来の延長線上にある商品か、あるいは誰もが「これ何につかうの?」と思う新機能だけが搭載され続ける。


そうした中、「大人の事情」「業界の常識」に対して「無知」なメーカーがあっと驚く製品をリリースする。それらに対する日の丸家電メーカーの反応は概ね


「技術的にたいしたことはない」「うちでもすぐできる」


といったものになる。古くは2004年


ライバルと目されるアップルのiPodについても、「HDDウォークマンは半年、1年でiPodを追い抜く」「一社独占状態への挑戦だ」と強気を見せた。

ITmedia ライフスタイル:「HDDウォークマンは半年、1年でiPodを追い抜く」――ソニー・安藤社長ITmedia ライフスタイル:「HDDウォークマンは半年、1年でiPodを追い抜く」――ソニー・安藤社長


ソニーの社長は力強く宣言したが、いまだにHDDウォークマンがiPodをしのいだ、というニュースは聞こえてこない。あるいは、


とはいえ、あからさまに嫉妬にとらわれて不平を言う技術者ほど笑えるものはない。私が気に入ったのは以下のコメントだ。「技術的にすごいと感じるところは1つもない。われわれならもっと安く作れる」ぜひそれを作ってほしい。大勢の欧米人が(私も含め)、MacBook Airのコピー製品を1000ドルで購入できるのを待ち望んでいる。

日本の技術者チームが『MacBook Air』を語る「中身は無駄だらけ」 | WIRED VISION日本の技術者チームが『MacBook Air』を語る「中身は無駄だらけ」 | WIRED VISION


と自分達の「技術力」をベースに力強く宣言し、尊敬よりは、ひやかしの対象になったりする。


と考えるとだよ


今日のエントリーの標題、「つまるところ足りないのは何なのか?」という問題に突き当たるわけだ。日本にはすばらしい「製造技術」がある。そして(恐らくは)新しい製品、サービスのアイディアも豊富に生み出されている。


それでありながら「特徴のない、特に購買意欲をそそらない」製品が延々と生産され続けているのはなぜか?ごく一部のメーカーがユーザにインパクトを与える製品を作り出し、そこからキャッシュを生み出しているのを横目で見ながら「うちでもできる」と言い、結局何も新しいことができないのはなぜか?


冒頭引用した文章を書いた人は、松下電器を辞め、家電のベンチャーを立ち上げたという。あるいは


SPIDER PROでいちばん面白いと思ったのは,テレビの視聴体験が劇的に変わる点です。大げさに言うと,テレビに「自由」と「発見」を導入するのです。

テレビの自由を妨げるもの - 日経エレクトロニクス - Tech-On!テレビの自由を妨げるもの - 日経エレクトロニクス - Tech-On!


私も見せてもらったことがあるが、この製品は楽しい。というかGoromi-TVを使って感じるのと同じ楽しさをもっとちゃんとした製品として体験することができる。これを作っているのもベンチャーだ。


となると問題はどこにあるのか?


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ちょっと追記


でも、コントロールすることに慣れ切った各業界は、おいそれとはこれを手放さない。オールドメディア(古参のマスコミ)とはそんなものである。今のこの時代になっても未だにコントロールを維持しようと奮闘している。情報の受け手(オーディエンス)との間の関係性が変わってしまったことはオールドメディアも承知しているのだが、それにどう対処していいか答えを探しあぐねているのだ。

TechCrunch Japanese アーカイブ » マスコミはまだコントロール体質から抜け切れていないTechCrunch Japanese アーカイブ » マスコミはまだコントロール体質から抜け切れていない


自分達はコントロールが可能だし、コントロールしなければならないという脅迫観念を捨て去らない限り、オールドメディアとその関連業界(TVメーカーもそのひとつだが)からは何も生まれてこないかもしれない、、、




「近未来テレビ会議 sponsored by SONY」で私が提案したもの

2008-05-22 00:00



というわけで「近未来テレビ会議 sponsored by SONY」に出席した



例によって例のごとく、ちゃんとしたレポートは他の方が書くと思うので、私は記述を以下の2点に絞りたい。



これらは私が会議の間中考えていたことではあるが、一項目目については最低限しか発言していない。二項目目は私の心の奥深くしまっておいた。


あの会議において、私が重要だと思うのは、各個人が忌憚のない意見を述べ合い、そして最後にはひとつの意見に集約することだ。私の提案は他のグループメンバーの提案から乖離していたので(これについては後述する)最終的な意見に一部を取り入れることも難しいと思った。そしてああした場で悲観的な意見を述べることについては何のメリットもない。


というわけで会議での発言は控え、こうしてブログに書き出すわけだ。ではまず「私が提案したアイディア」から。


お題は「新しいTVを考えましょう」というものだったと思う(うろ覚え)私の提案は、「TVは鏡であるべきだ」だった。


TVははPCでもなければ携帯でもない。PCや携帯にできることをしても勝ち目はないのだ。


ではTVの特徴は何か?



ここから「TVは鏡である」と考えた。今のTVにカメラを取り付け、ひたすらリビングルームの人の姿を撮影し続ける。それをそのまま画面に映し出せば本物の鏡だが、そこはそれ。こんなシナリオを考えてみよう。


夜遅く親父が帰ってくる。もうみんな寝ており、テーブルの上には晩御飯がおかれている。なんとはなしにTVのスイッチを入れる。


この状況で画面上に表示される細かい文字で「Yahoo News!」なんか読みたいと思うか?十年一日のごとく繰り返される特徴のないTV番組なんか見たいと思うか?


そうではない。親父は昼間、あるいは夕方リビングルームではしゃぎまわる子供の姿を見たいのだ。この「鏡」は時間を越えてその姿を映し出す。子供達、なんとか夕飯の席につかせようとキーキー叫び続ける妻の姿を見ながら親父はご飯を食べる。


そのうち、子供が「鏡」に向かってかけより「これ今日幼稚園で作ったんだよー」と見せてくれる。親父は笑顔になった後頭をたれしばし物思いにふける。


そして「すごいねえ。こんなの作ったんだねえ」と「鏡」に話しかける。


翌朝、子供はTVをつけると、まず親父の姿を鏡の中に見る。そして父親が自分の作品をほめてくれたと知り、わーいわーいと喜ぶ。


時間をずらした「鏡」であることにより、リビングにおかれたTVは失われがちな家族間のコミュニケーションを図る手段となるのだ。


あるいは、人によっては自分の姿を「鏡」の中に見るかもしれない。いつも時間がない、時間がない、と言っていながらTVの前で何時間も過ごしている姿をみて愕然とするかもしれない。


最近多くなった「ツルピカ液晶」を使った人は、PCの電源をオフにした瞬間、そこに自分の顔が写っていることに気がつかないだろうか?そして日ごろあまり見ない「自分の素のまま」の顔をみて愕然としないだろうか?


人間が自分の姿を客観的に見ることはとても難しい。そしてリビングに置かれた「鏡」はその手段となるのだ。


あるいはこの「魔法の鏡」は遠くにいるおじいちゃん、おばあちゃんの姿を映し出してくれるかもしれない。能動的に話をするのではない。ただ映し出すのだ。そして子供は年老いた両親の姿を見て安心し、孫達はおじいちゃん、おばあちゃんの背中から何かを学ぶかもしれない。


この提案に対して、グループのメンバーからこういうコメントをもらった。


たとえば、番組表の脇に、そのときみていた人の画像をサムネイルで出すと面白いんじゃないだろうか。誰が何を見ていたか、一目でわかる。これを聞き、私は「をを」と思う。なるほど。確かにそれができると、自分が、家族が何を見ているか客観的に一目でわかるわけだ。それは自省のネタになったり、コミュニケーションの手段となるかもしれない。


ちなみにグループの合意案は、ソーシャルネット的な機能とTVを結合するものだった。TVを見ている間に仲間内でチャット、あるいは「盛り上がり」を入力することで、他のチャンネルが盛り上がっているかどうかを共用できる、、とかなんとか。


こうした提案をするたび思うことだが、どうも私は「友達とつながる」という概念が薄いのではないかと思う。「SNSの機能を取り入れてはどうですか」と指摘を受けるたび「僕友達少ないんです」といっているが、それは本当なのかもしれない。


またちなみに、先ほどのアイディアは私のオリジナルではない。慶応大学の渡辺氏の研究ReflectiveClockのパクリである。


さらにちなみに、昨日11時すぎに家に帰ると机の上に子供の手紙が置いてあった。


「ログハウスつれていって。ログハウスだいすき」


「クイズ おレがいきたいのはどこでしょう」


「メッセージ おとうさんは ばんがったね」




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さて二項目目「私がTVメーカーに絶望した訳」については明日。


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参加された方のブログ


近未来テレビ会議


近未来テレビ会議で恥をかく


僕らもテレビを作ろう「SONY BRAVIA アプリキャスト」


「近未来テレビ会議」に行ってきました




「近未来テレビ会議 sponsored by SONY」に出席します

2008-05-16 00:00



というわけで来週の水曜日、近未来テレビ会議 sponsored by SONYに出席します。


「家電とネットの融合」は以前から議論されていましたが、今、本当に生活者が求めているのは何でしょうか。そこにはさまざまな可能性があるでしょう。単に「テレビでネットが見れる」だけではないはずです。

『近未来テレビ会議 sponsored by SONY』へのお誘い | IDEA*IDEA『近未来テレビ会議 sponsored by SONY』へのお誘い | IDEA*IDEA


TVとネットの融合は、ずーーーーっと前から語られている。しかしまだ何も形になっていない。(TVメーカーの皆様がいろいろがんばっているのは承知しておりますが、消費者の目から見ると何も存在しないも同然)


とかなんとかしている間に、私個人に限って言えば、TV視聴の時間はどんどん減少している。もはやNHKと(これは時報および子供向けに必要だ)のだめカンタービレ(ということはフジか)さえ見られれば何の問題もない状況。のだめもDVDを買えばいいから、NHKだけか。しかし動画像を見る時間はそれほど減っていない。見ているのはもちろんニコニコ動画とYoutube。


でもって今回の会議はBRAVIAを作っている人たちなのだそうで、また違う視点があるのかもしれないが、先月はこんな記事を読んだ。


お話を聞いていると、やはり映像の質、にとことんこだわられているご様子。brancoはNTTフレッツ光でなくてはつなげない、無線LANは×、マッキントッシュも×、と結構ユーザを選ぶタイプのサービスです。それもすべて映像のため、というカンジ。美しい動画を安定再生できないなら×で、そのポリシーの中でサービスインまでの時間を考え、対応機種を刈り込んでいったんだな、と感じました。

newzy.jp - AMNの「branco」ブロガーミーティングに参加newzy.jp - AMNの「branco」ブロガーミーティングに参加


このブロガーミーティングの反応をいくつか読んだが、素直に「?」をつけているものが多かった。


これも今まで語られてきたことではあるが、TVというものにかかわっている人の「価値観」と視聴者の「価値観」に大きなずれが生じてきているように思う。


作り手、送り手側は、大画面で美しい映像を見せることが生命線だと思っている。いまだに過去の苦を解消することに血道をあげている。残像が残りません。水平線が1080本あります。世界一の大きさです。それまでにして送った大事な映像だからもちろんコピーなんてもってのほかだ。


一方見る側は「正解がなく、ばらばらで移ろいやすい」真、善、美、楽を求めているように思える。サイズは512x384の画面で十分。フルハイビジョンって何のこと?画質が悪いflvでもそれなりに楽しいけど、mp4なら神画質。プロが作ったワンパターンのバラエティより、野良神たちが創った2分の動画。ごみみたいな動画も、コメントを付け合えばそれで盛り上がれる。


あるいは典型的なイノベーションのジレンマをそこに見ればいいのかもしれない。もう技術の進歩はユーザニーズを追い越してしまっているんだよ。


もうひとつ思うのは、TV関係者というのはとてもまじめな人たちなのだと思う。自分たちが「これだ」と思った価値観にひたすら突き進んでいるように思う。


対して、消費者の心をつかんでいるサービスはどこか「ユルさ」を持ったものが多い。ニコニコ動画は決して日本の大企業が率先して作ることのないサービスだった。なぜなら「違法動画をどうするんだ」という質問がでたところで企画がとまるから。しかしそこに人は集まり、大量の時間を消費する。


「きまじめさ」だけで生きてきたメーカーは「ユルさ」に集まる消費者の心をつかむことができるのか?自らの価値観を問い直すことができるのか?来週の水曜日はそんな課題意識を持って臨みたいと思います。


と問題だけ指摘するのもなんなので、私が主張する「ユルさ」はこれだ。


<object width="425" height="336"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/6yWZ9cjiJLA"></param><param name="wmode" value="transparent"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/6yWZ9cjiJLA" type="application/x-shockwave-flash" wmode="transparent" width="425" height="336" FlashVars="movie_url=http://d.hatena.ne.jp/video/youtube/6yWZ9cjiJLA"></embed></object>


D


気がむくままてきとーーーーーにあれこれ見るのがいいんじゃない?地デジはチャンネル切り替えに4秒かかると聞いているが、そんなの論外(私にとっては)




Time is more than Money

2008-05-15 00:00



このブログで何度か取り上げた、ランディ・パウシュ教授がUniversity of Virginiaで行った講演"Time Management"を見始めている。


<embed style="width: 425px; height: 350px;" id="VideoPlayback" type="application/x-shockwave-flash" src="http://video.google.com/googleplayer.swf?docId=-5784740380335567758&hl=en">


D


まだ最初の数分をみただけなのだが、既に目から「鱗がごっそり」落ちている。


パウシュ教授はなぜTime Managementなのか、ということについて語る。(私のヒアリング能力+いいかげんな記憶で書いているから嘘も多いと思いますが、指摘いただければ幸いです)



多くの人が、お金は大事だと思っている。しかし時間をお金より重要と考える人は少ない。たとえばMaster courseに行くと年300万円かかるとしよう。2年で600万。もし学生が私のところに来て


「ここにいても600万円の価値があるとは思えません」


と言ったら、その学生を学校から放り出してやる。


しかしもし学生が


「ここで2年間過ごす意味が見出せません」


と言ったとしたら、その学生が納得できる解をみつけられるまで議論するだろう。なぜならそれは正しい疑問だからだ。


仮に学費として600万円使ったとしても、それは後で十分埋め合わせられるかもしれない。しかし時間を取り戻すことはできない。





「余命数ヶ月」と宣告されたパウシュ教授だからこその重みがこの言葉にはある。


ちなみに自分の病状についてはこう語っていた。



癌が転移したのを発見して、医者はなんといったかと言うと


「あなたはあと数ヶ月健康的な生活をおくれます」


このポジティブな言い方が好きだ。ディズニーランドに行って


「閉園時間は何時?」


と聞けば


「8時までやってます」(We are open till eight.)


というだろう?





さて、私がこのビデオを見たのと前後して、こんな記事を見つけた。



何事についても、僕が考えるときの軸はまず時間なんですね。いわば「唯時間論」。知的生産の工夫についても、全部時間を切り口に説明できます。自分の自由にできる時間をいかにたくさん生み出すか。そればかり考えている。


(中略)


僕は最近寿命が延びたような感じさえするんですよ。効率がよくなって時間がますます凝縮されたから、でしょうね。


グーグルに淘汰されない知的生産術より



子供が生まれてからというもの、私は10円単位でケチるようになった。朝コンビニでおにぎりを買うとき、125円という値札を見ると「これは高すぎないだろうか」と悩む。いつもは105円じゃないか、と。


そうやって10円に固執しながら、会社ではものすごい単位で時間を無駄に使っている。無駄と思える惨めな時期にもちゃんと学んだことはあるのさ、と強弁してみるし、そこにある程度の真実はあると信じているが、それでもやはり無駄が多すぎると思う。


仮に時間がリニアに経過しているとしても、おそらく私は人生の折り返し地点を過ぎていると思う。「将来」について考えることは「残り」について考えることになりつつあるのだ。


いや、そんなことがなくても今の「鱗がごっそり」をなんとか忘れないようにしたいと思う。金と時間は確かにある程度連動している。恒産なくして恒心なし(無恒産、因無恒心)、とは孟子が残した数少ない聞くべき言葉だ。


しかし恒産がある程度達成されていれば、財に執着するより、時間を自由に使う、そのことに執着するべきなのだ。


梅田氏が言うとおりだ。物理的な時間を延ばすことは誰にもできないが、人間が日々感じる時間というのは所詮主観的なもの。であれば、工夫によって伸ばしたり、縮めたりできるはずだ。


というわけで今朝は「迷わず」240円のおにぎりを買いました。さて、今日どうやって自由になる時間を作り出し、それをどうやって使おう。


最近やり始めたもうひとつの工夫については、また別の日に。




カラオケで歌う事について考える

2008-05-14 00:00



記事の内容については同意するものの、「おっさん。一番難しいところをさらっと流してくれたな」と思う。


できれば、そこでヘタに歌うことです。わざわざヘタに歌わなくても、上手に歌おうとしないことが大切なのです。

気配りのできる人は、カラオケで最初に歌う。|中谷彰宏の人生道場|ダイヤモンド・オンライン気配りのできる人は、カラオケで最初に歌う。|中谷彰宏の人生道場|ダイヤモンド・オンライン


私は日本の伝統的な


「いやいやいや」


「どうぞどうぞどうぞ」


(n回繰り返し)


という譲り合いが大嫌いだ。そして私の限られた経験からいえることだが、この点に関して日本の将来には希望が持てる。いまやこうした譲り合いは減少しつつある。


とはいっても「カラオケで最初に誰が歌うか」というのは以前としてデリケートな問題である。その昔、みながまだ着席とかゴソゴソしている最中にすでに歌っている女性がいた。それはそれですがすがしいことなのだが、彼女がいない場合にはどうすればよいか。そうした場合にはごちゃごちゃいわずに歌うのだ。


問題は


↑の記事で言っている「ヘタに歌うことです」これだ。最初にたとえば故パパロッティのような歌声を披露すれば


「あの野郎、ちょっと自分がうまいと思いやがって、、曲を入れにくくなったじゃないか」


と非難の視線を向けられる。しかしあまりにヘタで場が凍りつくような事態も避けたい。


となれば


「ヘタでしかも盛り上がる」歌唱を目指さなくてはならない。しかも「客席が暖まっていない」状況においてだ。これはプロのお笑い芸人ですらいやがる過酷な状況ではなかろうか。


こうしたときに私がいつも思い返すのは、My Best Friend's Weddingでのキャメロン・ディアズ*1の歌である。



D


この歌はすばらしい。誰もが認める音痴でありながら、場内大盛り上がりである。しかしこれが簡単なことであるとも思わない。


かくして最初に引用した文章が提示した問題は残されたままである。


「カラオケで最初に歌うことについては異存ない。しかし何をどう歌うべきなのか」




*1:このころ彼女は可愛かったなあ




「音楽を楽しむ」」いろいろなやり方

2008-05-13 00:00



「ぼかりす」による動画が発表されてからというもの、ネット上でさまざまな反響を目にした。


その中に「調教の楽しみがなくなる」「ミクは人間っぽくないところがよかったのに」といったものをかなりの数目にした。


そして


「なんだか閉じた世界の理屈だなあ」


と思った。そうした楽しみは確かに存在すると思う。しかし「Vocaloidを上手に歌わせることが難しいことを知っている人限定」の楽しみ方だけに執着してどうするのだ、と。


そうした「前提知識を要求する楽しみ」だけにとらわれると、喜ぶ人が限定されひいては衰退の道をたどるのではなかろうか。某ワークショップである人が言った名言


「萌えの形骸化」


もそんなところから来たのではなかろうか、と。


そこからあれこれ例を考え始める。たとえばCDが普及し始めたころも同じような言葉が聴かれたのではなかろうか。「アナログレコードの味わいが失われた」(これはある程度正しい部分もある) 「アナログレコードをどうやって音質良く聞くかが工夫のしどころだったのに」とかね。*1


しかし↑の例は別として、そうした「音楽の楽しみ方」は何もVocaloidに始まった事ではないことにも気がついた。


仮にVocaloidを「演奏が難しい楽器」と捕らえたとしよう。何も予備知識を持っていない人は、「ああ、きれいな曲だね」と感心する。演奏の難しさを知っている人は、それに加え「なんとあの難しい楽器をこんなに弾きこなすとは」と感動する。


具体例を挙げよう。私は小学生のころ「下手なホルン吹き」だった。だから今でもホルンが旋律を奏でると緊張する。ああ、音が外れるのではなかろうか。そしてそれが見事に決まったときの感動は、ホルンが難しい楽器であることを知らない人より深いのではなかろうか。


知らない人でもそれなりに。知っていればもっと深く楽しめる、というのは広く受け入れられているものに共通する要素であろう。そう考えれば「ぼかりす」がVocaloidを用いて作れたら作品群の盛り上がりに水を差すなどというのはまずありえないことだ。私などの貧弱な想像力を超えて広がり続けるVocaloidの世界において、「調教の楽しみ」などは一つの要素でしかない。


仮に「ぼかりす」が広く使用可能になったとしてそれがVocaloidを用いた創作物にどんな影響を与えるかは誰にもわからない。野次馬としては例によってあさっての方向への進化が起こってほしいと思っているのだが。


ちなみに


なお本技術は、 より多くの方々が、 より容易に歌声合成技術を使って楽曲制作を楽しめることを意図したものです。 現在多くの方々が歌声合成技術を用いて優れた楽曲を生み出している状況を 支援することは望んでいても、阻害することは意図していません。 科学技術の発展と文化の発展のために、 本技術をどのように世の中に出していくのが望ましいか、 熟慮しながら今後の展開を進めていきますのでどうぞよろしくお願い致します。

VocaListener (in Japanese)VocaListener (in Japanese)


私が知っている限り、後藤一派のこのメッセージは文字通り受け取るべきものである。後藤一派はとても音楽を、そしてニコニコ動画に代表される「みなが音楽を作り発信する現象」を愛していると思う。そして彼らは自分達の行動がどのような影響をもたらすかについて思考し、かつ意見に耳を傾けるだけの賢明さを持っている。


さらにちなみに


どちらかと言うと本当に興味深いのは1ヶ月に1回は話題や問題を振りまいて陳腐化しない「初音ミク」という存在そのものではないだろうか。実体はなくても確かに存在している、そんな気がする。

rerofumiのつぶやき ≫ 「ぼかりす」で何を創るのかrerofumiのつぶやき ≫ 「ぼかりす」で何を創るのか


この意見にもまったく同意する。それが何であったかを分析するのは好きな人にまかせておいて、今はその騒動をリアルタイムで体験できることを幸運だと思おう。そんな私が最近「幸運」を感じたのはこの動画


<script type="text/javascript" src="http://ext.nicovideo.jp/thumb_watch/sm3264508" charset="utf-8"></script>


D


原作もすばらしかったが、それに演出を加えるとこれほどまでにすばらしい作品になるのか、と驚かされる。コメントにもあったが、曲にあわせて最初から最後まで忠実にモデル化された指の動きをここまで大胆にカットするとは。




*1:私が知っている限りでもそれは大変だったのです。レコードにスプレーかけて、埃を丁寧にとって、ターンテーブルが縦になっているものもあったような




「ぼかりす」に関する仮想的な対話

2008-05-01 00:00



新人:”あの歌”を聴きましたか。


ベテラン:ああ。


新人:あれは本当に初音ミクの声なんでしょうか?それとも人が歌った声に何のエフェクトをかけてVocaloidっぽくしたとか


ベテラン:.....


新人:そもそも誰が何の目的であんな動画をアップしたんでしょうか


ベテラン:俺にはわかってる。


新人:は?


ベテラン:俺には誰がやったのかわかってる。後藤一派だ。こんな真似ができるのは彼らしかいない。


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この「こんな真似ができるのは○○しかいない」ってのは巨人の星*1(多分それ以前)からのフィクションの定番だが、現実世界でこの台詞を使う機会はほとんどない。いや、一度やってみたかったんですよ。では続き。


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新人:何を根拠にそんなことを。


ベテラン:元歌はRWC研究用音楽データベースにあったものだ。今までニコニコ動画にRWCの曲がアップロードされたことがあったか?ほとんどのpはRWCなどという言葉すら知らないだろう。RWCを使っているのは音楽関係の研究者だ。


となれば、犯行グループは音楽情報処理の研究者でかつ、ニコニコ動画、Vocaloidに深い興味を持っている人間だ。そんな人間がどこに集まるか?


去年Yamahaで行われた音楽情報処理研究会では、Vocaloidの発表に対して熱い議論が巻き起こっていただろう。犯行グループはあの出席者の中にいる。


新人:でも、あのときはすごく盛況で、参加者もたくさん、、そもそもあなただって出席してたじゃないですか!


ベテラン:私がこれを作るなんてことは、実年齢30歳の女性が22歳であることを証明することくらい難しい。あの研究会に出席していた人間の中でもこんなことができるのはほんの一握りだ。


新人:ほんの一握り


ベテラン:そして犯行グループは、「わざと」手がかりを残して行った。PROLOGUEという曲名、それに謎の「ぼかりす」という単語だ。この単語でググれば、ほらでてきた。やはり後藤一派だ。


新人:...でも、どうして彼らはこんな事をするんですか。しかもこれだけ大騒ぎになっていながら、うp主からはコメントの一つもありません。


ベテラン:彼らはオタの心を読み切っているのだよ。仮に「研究成果を披露します。詳細は研究会で」などと書こうものなら


「売名乙」


「税金つかって何やってんだ」


とか罵詈雑言が飛び交うに決まっている。自分から出てはいけないのだ。情報の断片だけ放り出しあとは何もださない。情報飢餓状態におかれたオタは狂ったように情報をあさり、ブログに書き、ニコ動画にコメントし、そして5月に行われる研究会に関心を持つ、というわけだ。


新人:(しばらく考えた後に)彼らはプロの研究者ですよね。研究者がこんなことして何の意味が有るというんですか?論文の数、特許の数にカウントされるわけじゃないし、ベンチャーが立ち上がるわけじゃないし、、


ベテラン:熱だよ。


新人:熱?


ベテラン:後藤一派に一度会ってみるといい。彼らから感じるのは研究に対する純粋な「熱」だ。それは論文や特許で数えられるものじゃない。学会の塔の中に閉じこもり、権威としてふんぞり返るなんてことは考えた事もないだろう。


「熱」はひたすら発散し、伝搬してく。「ぼかりす」が巻き起こした騒動を考えてみろ。これは彼らの熱が伝搬し増幅されたものなのだ。


しかし感心ばかりしているのも面白くない。ここで一つ戯言を書いておこう。もうすぐ首になる貧乏サラリーマンにも独り言をいう権利くらいあるだろう。


「初音ミクのオリジナル曲を歌わせる事ができるか?」


さあどうだ?