ロジックと数値データがイノベーションを殺す(場合もある)

2008-06-24 00:00


先日書いたエントリーにはてなブックマークでコメントをいただいた。


中原先生は知恵もあわせた戦略もロジックの中に入れること、数値に裏付けされたエビデンスを持てといつもおっしゃいますよ。

はてなブックマーク - パッション+ロジックが招く大惨事 - ごんざれふはてなブックマーク - パッション+ロジックが招く大惨事 - ごんざれふ


「知恵もあわせた戦略もロジックの中にいれること」という内容は前回引用したエントリーからは読み取れなかった。私の狭い考えでは「知恵」というのは往々にして「明快な論理」の形をとらないものなのだが、それをロジックの中にいれる方法についてはぜひ調べてみたいと思っている。


さて、2番目の点「数値に裏付けされたエビデンスを持て」という主張。これについては「注意」が必要だと常々思っている。この例をみてほしい。





p121-123


(引用者注:持続的イノベーションについて)


「どういう人がこれを買うだろうか」


「ワークステーション業界のある分野全体です。毎年、六億ドル以上をドライブに投資している分野です。いままでの製品はそれほど大容量ではなかったので、この市場には手が届きませんでした。この製品なら、この市場に参入できると思います」


「このアイディアを潜在顧客に見せてみたのか」


「はい、先週カリフォルニアに行ってきました。各社ともできるだけ早くプロトタイプがほしいとのことで、設計までの猶予は九ヶ月です」


(後略)


(破壊的イノベーションについて)


「どういう人がこれを買うだろうか」


「わかりませんが、どこかに市場があるはずです。かならず小型で安いものを求める人はいますから。ファックスとかプリンターに使えるんじゃないかとおもいますが」


「このアイディアを潜在顧客に見せてみたのか」


「ええ、先日のトレードショーに行ったとき、アイデアをスケッチして、いまの顧客の一人に見せてみました。興味はあるが、どういうふうに使えばいいかわからないといっていました。」


(後略)


「イノベーションのジレンマ」から引用





上記二つの仮想的な対話で、どちらが「数値に裏付けされたエビデンス」を持っているかは明白だろう。じゃあ前者の勝ちかといえば、そんなに世の中単純ではない。「イノベーションのジレンマ」に書かれている内容を私になりに解釈すると


「数値に裏付けれたエビデンスに基づき合理的に技術、商品開発を進めていった結果、”どこに市場があるかわからない=当然数値化なんかできない”技術にやられてしまうこともありますよ」


となる。


市場があるかどうかわからない。何に使えるか事前に予測できない技術の効果を数値化するなどということは誰にもできない。いや、もちろん良心に蓋をすれば、数値はなんとでも作り上げられるが、それこそ「絵空事」にすぎない。ちなみに「ニューエコノミー」を煽っていたアナリストたちも立派な「数値に裏付けられたエビデンス」を持っていた。


私の主張はこうだ。現実世界というのは、単純な数式で表すにはあまりにも複雑であり、ある変化がもたらす結果というのは誰にも予測がつかない。もちろんその一部を単純化して取り出し、数値モデルを当てはめることはできるが、それはあくまでも「単純化したモデル」にすぎない。


つまり複雑な現実世界の一部を取り出したモデルというのは、仮に数値化できる形式を持っていたとしても、主観的な主張にならざるを得ない。何を前提とし、どのように単純化するかというのは主観的な判断によるものだからだ。「数値化=客観的」などというのは大嘘なのだ。


私がここで挙げた例にあてはまらないものも当然ある。ある程度モデルが確立している分野。あるいは比較的小規模なモデルを対象とする場合には、「数値に裏付けされたエビデンス」が必要であり、有効な場面ももちろんある。


しかし


そうした「モデル化、数値化の限界」を考慮せずになされた「数値化されたエビデンスの重要性」の主張には無条件には同意しかねる。たちが悪いのは、人によっては「数値化という皮をかぶった主観的な意見を、気に入らないイノベーションを殺すのに用いる」ことがあるからだ。繰り返しになるが私はそんな例をいやというほどみてきた。会社に「電子メール」というすばらしいツールを導入してもらおうと申請書を出したとき


「導入効果が数量的に示されていない」


と却下されたことなど、、今の若い人には笑い話に聞こえるかな?もちろん数値的検討もやっていたんだよ?でも「新しいことは何もしたくない」人間を説得できる「電子メール導入の経済効果推定」ってどうやればいいのか未だにわからない。それは合理的議論ではなく、政治的、感情的な世界の話なのだ。




パッション+ロジックが招く大惨事

2008-06-18 00:00



「非理法権天」という言葉を聞いたことがあるだろうか。非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権力に勝たず、、だと思った(うろ覚え)これがあるべき姿かどうかについては論じるつもりはない。しかし「理」が下から2番目というのは希望的にみて妥当、現実的にみれば「最下位が妥当」ではないかと私は考えている。そこでこういう文章を見ると脊髄反射的に書き出す訳だ。



思うに、研究は「パッション」からはじまります。


 世の中では、○○に実践されているけど、本来、それはおかしい。~のように考えれば、もっとよくなるはずだ。


 巷では、こんな風に思われている常識があるけれど、どうもそれは違う。実態は~であるはずだ。


(中略)



 そうやって、自分が取り組む「問題」がわかったら、次に必要なのは「ロジック」です。


(中略)


 実践としての価値はあっても、ロジックが立たなければ、研究としての価値は疑問符がついてしまいます。



今日は、「研究の世界」の事を書きました。あくまで僕の専門分野の話であり、また僕の信念です。何の一般性もないことを断っておきます。 ですが、実は・・・小さい声で本当のことをいうとね・・・これは「研究の世界」だけにあてはまることでしょうか? 研究の世界だけでなく、いわゆる実務の世界でも、企画をたてるとき、新しいことをはじめようとするときには、実は、同じようなことをやっていないでしょうか。

NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: パッションとロジックNAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: パッションとロジック



パッション+ロジックが「必要」である、という主張にはある程度同意する。*1私がここで言いたいことは



「パッション+ロジックは必要条件かもしれないが十分条件ではない」



ということだ。


歴史を紐解けば「パッション+ロジックが招いた愚行」の例はごろごろしている。一番身近なものとして「日本が米英に戦争をしかけた」を挙げれば十分と思う。彼らには帝国の防衛、大東亜共栄圏の確立という立派なパッションがあった。そして今も昔も優秀な官僚達は「開戦に踏み切るべきロジック」をきちんと作り上げた。



あるいはThe Best and The Brightestに記されるケネディ政権に集まった賢者たちの愚行、あるいは足利軍を京都に引き入れるとはけしからん、出撃せよ、というのもロジックとしては正しかったのかもしれない。



関係ない歴史上のエピソードを持ち出しているって?ではこれはどうだろう。



たとえば某自動車会社。 企画書をつくるときには、上司や同僚から「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と、理由を何百回も問われます。企画はA3用紙1枚にまとめることになっています。ロジックがすっきりしていれば、A3一枚で、まとまるのです。

NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: パッションとロジックNAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: パッションとロジック



この世界一の自動車会社のグループ会社に関してはこんなニュースを聞いた。



昨年9月、30年ぶりに富士スピードウェイ(FSW、静岡県小山町)で開かれたF1日本グランプリを巡り、シャトルバスのずさんな運行・管理でレースを観戦できなかったり、体調を崩したとして観戦者109人が16日、FSWに約3200万円の賠償を求め東京地裁に提訴した。チケット購入者がイベント主催者を訴えた集団訴訟はまれ。

<集団訴訟>F1日本GP観戦できず 109人が損賠求め - cybozu.net -<集団訴訟>F1日本GP観戦できず 109人が損賠求め - cybozu.net -



かけてもいいが、富士スピードウェイでは「トヨタ流の仕事のやり方」を徹底していたに違いない。現にF-1開催前には「シミュレーションは完璧」と胸をはっていたのだ。ロジックは「完璧」だったのだ。





ではパッション+ロジックに加えて何が必要だろう?



一つは「運」特にWeb関連の事業に関してはこの要素が大きい。パッションはあるだろう。ロジックはなんとでも組み立てられる。しかし何があたるかは所詮「運」まかせなのだ。パッション+ロジックが完璧でもあたらないものはあたらない。



もう一つは「知恵」だ。いかにパッションが熱かろうが、いかにロジックが完璧だろうが、間違いは間違い。米英を相手に開戦せよ、などというのは狂人の戯言、こう言えるだけの「知恵」というのは定義が難しいが、現実世界においてはとても重要なものではなかろうか。



「研究」の世界においてはどうか知らないが。






*1:正直言えばロジックがたてられる部分とそうでない部分があると思っている。本来ロジックで割り切れない部分にロジックを適用することで「気に入らない意見をつぶす」例をいやというほどみてきた私としては




iPhoneをめぐるさまざまな評価

2008-06-06 00:00


日本導入が正式発表されたことで日本人がiPhoneについて語る言葉を多く目にするようになった。


知識の欠如による勘違いを除けば、「iPhone売れる」という意見も「iPhone売れない」という意見もそれぞれもっともだ。しかし昨日あることに気がついた。


「iPhone売れない」という意見は基本的にロジックで組み立てられている。Felica,モバゲー、ワンセグがない((iPhone発表当初には「絵文字がない」だったか))。日本にはもうLISMOがある。日本には携帯向けサイトが発達しているのでフルブラウザは不要。うん。確かにそうだ。


それに対して


「iPhone売れる」(あるいは「iPhone買いたい」)意見は感情の吐露である。端的に言えばiPhoneという製品に対する愛だ。それを端的にあらわしたのがこの文章


iPhoneって恋愛と同じで、要素要素にばらしてみるとそこまで強く購入を刺激するところってあんまりないんだよね。EMONSTERで済んじゃうんじゃないかってくらいに。でも総体としてみるとやっぱりiPhoneは魅力的なわけで、そんなところが恋愛に似ているのだ。

iPhoneは(あまり)売れないかもしれないという話 - Thirのはてな日記iPhoneは(あまり)売れないかもしれないという話 - Thirのはてな日記


じゃあiPhoneが「愛」を掻き立てるのlはなぜなのか?ということになるのだが、いまだかって「愛情」を論理的に説明できた人などいない。ただひとつ引用するならば


iPhoneの魅力は、コレなんだろうと思う。「これまでの携帯電話やブラックベリーでできていた」機能を並べると、一つ一つは見劣りするところもある。でも、忙しい朝食時、パソコンのないキッチンでもすぐに、はるかに遠い日本で少し前にはやった「ねこ鍋」を見つけて、キレイな画面で見ることができる。「わー、こんなことができるの!」という、自分の世界が一気にひろがったときのあのフシギな気分。iモードを初めて使ったとき、YouTubeを初めて見たとき、ブログを書き始めた頃などに感じた、あの「ひろがり感」「ワクワク感」なんだろうと思う。

「日本でのiPhone」に私が期待するもの - Tech Mom from Silicon Valley 「日本でのiPhone」に私が期待するもの - Tech Mom from Silicon Valley


この「わーこんなことができるの!」という感覚を体験することなしに説明することは難しい。「そんなことは今の日本の携帯でもうできている」という言葉はロジカルだし正しいからだ。


しかし多くの人が経験的に知っていると思うが、「愛」というものは「正しさ」とか「ロジック」とは無縁の存在だ。というわけで議論は感情と理論のすれ違いに終始する。


ここで建設的に考えるとすれば、なぜiPhoneは人々の「愛」を掻き立てるのか?どのようにすればそのような製品を作り上げることができるのかまじめに考えることではないか、と思うのだがあまりそうした観点の議論を見たことがない。しかしiPhoneを少し離れてみればどうだ?


「すべては“自分が楽しい”から始まるんですよ」 KISSA SPORTシューズの販売、KISSAブランド管理、そして、KISSAの革靴を愛用するファンのために修繕を請け負うキサの高田邦雄さんは、「どの靴も“喜佐の楽しい”が原点」と語る。

Business Media 誠:郷好文の“うふふ”マーケティング:私のマーケティング物語 (1/2)Business Media 誠:郷好文の“うふふ”マーケティング:私のマーケティング物語 (1/2)


作り上げる人間の目が「正しい愛情」*1できらきらと輝いていること。ばかげた話と思われるかもしれないが、それが本質的に重要なのではないかとまじめに考え始めている。「正しい愛情」は製品を、サービスを媒体として人々に伝播するのだ。


10年前の私がこんな文章を読めば「この○○」と言うところだが、今はまじめにそう考えている。




*1:PS3生みの親のように輝いていてもだめである




一年半遅れの衝撃波

2008-06-05 00:00



2008年06月04日 kskmeuk apple, iphone, ケータイ, softbank 「この度、ソフトバンクモバイル株式会社は、今年中に日本国内において「iPhone」を発売することにつきまして、アップル社と契約を締結したことを発表いたします。」ちょwww 本文ブコメに収まりますがなww

はてなブックマーク - 「iPhone」について | ソフトバンクモバイル株式会社はてなブックマーク - 「iPhone」について | ソフトバンクモバイル株式会社


6月3日、auとソフトバンクが夏モデルの発表を行った。2chなど見ているとその前に行われたdocomoのプレゼンは悲惨だったようだ。


これには「日本の大企業は内向きの言葉しか持たない」という深遠な問題に通じることなのだが、そんなことはどうでもよい。


3社合わせて、何機種発表されたのだろう。その発表会に費やされたお金はどれほどのものだったのだろう。しかしこのたった2行のプレスリリースはそれらをすべて吹き飛ばしてしまった。


同じことは2007年初頭に米国で起こっていた。


ラスベガスで開催されている世界最大の家電ショーであるCES。このレポートを綴ろうと考えていたのだが、完全にやる気を失った。世界中の家電メーカーが集まり、新製品やコンセプトモデル展示で話題性を競い合ったこの日、数百キロ離れたサンフランシスコでAppleたった1社が主催するMacWorld2007にて発表された、たった2つのデバイスによって*1、CESは話題を完全に掻っ攫われてしまった格好だ。言葉がない、というかグゥの音もでない。誰が何といおうと、完敗である。

全世界の家電メーカーが力を合わせてもApple1社に勝てなかった日 - キャズムを超えろ!全世界の家電メーカーが力を合わせてもApple1社に勝てなかった日 - キャズムを超えろ!


iPhoneについて、夏モデル発表と一日ずらしたのは、賢明なことだったと思える。というかもし私が夏モデルの関係者で、同じ日に発表されていたら遠いところに旅立っていたと思う。そうだよ、広告なんて、、、マーケティングなんて空しいことさ、、とつぶやきつつ。


さて、これで晴れてソフトバンクユーザとなることが決定いたしました。どこかのタイミングでIntel Macを手に入れて、さあ何を作ろう?iPhone上で何が作れるか、という問題ほど想像力を試されるものはない。Webネタアプリでしょ。あとリアル世界でのアドベンチャーゲームもずっとおもしろくなりそうだし。まずはGoromiの移植かな?