「痛い」ことをしないために

2008-09-30 00:00


そうするためには、強くなるしかない。自分を捨てるには、強くなるしかないのだ。だから、強い人間になりたいものだと思う。説教をしようが同情しようが憐れもうが、そこで自分が気持ち良くなろうとはしていないから、痛くはならない、本当の意味で自分を捨てられた、強い人間に。

説教をたれるから痛いのではない - ハックルベリーに会いに行く


この文章を読んで、荘子に書いてある言葉を思い出す。「万物斉同」であるとか、なんとか。己と彼の区別はどこにあるのか。であれば、己というイメージにすがり、彼を見下すことにより自分が優越感を得ようとする行為は「痛い」ものではないのか。


この「痛い」という言葉は昨今よくつかわれるがその意味は私にとって明確ではない。しかし↑の文章を起点に考えれば、


「小人が“あいつはあんなに可哀そうなやつだ。俺はそんなのとは違う”と叫んでいるのを、少し離れたところから見ている気持ち」


と定義することもできそうだ。


我を捨てるとはよく聞く言葉ではあるが、そこに「強さ」が必要である、と説く人は少ない。↑の文章を読んでいて、この文を思い出した。


本当の謙虚さは、立場をわきまえることでもなく、身分にふさわしいことをすることでもなく、立場を乗り越えて人間の価値を対等に認める「心の習慣」だと思います。習慣である以上、言葉によって教えられません。残念ですが、傷つけられたり恐怖に怯えたり、苦難に遭ったりしないと、なかなか心に宿ってくれない習慣です。 


偉くない人が謙虚に見えることは、偉い人が傲慢に見えることと、そう変わりません。偉くても弱い人と対等につき合える人こそ、謙虚な人だと思います。弱くても偉い人に媚びない人こそ、謙虚な人だと思います。 


謙虚の心を持つには、かなりの人生経験を通じて勝ち取った自信を持つことが必要です。この自信は地位、金銭などの成功によってもたらされるものではなく、その人に内在するものが成熟することによってもたらす絶対的なものです。

「謙虚」を説く人の「不謙虚」:NBonline(日経ビジネス オンライン)


↑の文章でいっている「かなりの人生経験を通じて勝ち取った自信」が最初の文章で言っているところの「強さ」ということになるのだろうか。


ーーー


これは幾多の失敗を経て悟ったことだが、考え方がしっかりとしているのに、とても腰が低い。こういう人には注意をしなければならない。相手の肩書きや名前を知らないで会話しているときはなおさらだ。



ーーーー


話はまた飛ぶが、ここまで述べてきたような判断基準では「とても痛い人」にあたるが、世の中では偉人、というか有名人になっている人はたくさんいる、というかその方が多いのではなかろうか。


今ぱっと頭に思いつくのは第2次大戦中の英国の将軍、モントゴメリーである。うろ覚えでかくが、アイゼンハワーが彼についてこう述べたという。


「英国で有名学校を卒業していない人間は、生涯そのことをひけめにかんじ、なんとか自分がひとかどの人物であることを示そうとする」


そのために、自分がいかに有能な人間であるか、他人がいかに無能であるかを力説する。こうした態度はその人の真の目的ー自分が偉大な人間であることを示すーには何の役にも立たないどころか、逆効果なのだが、それをせずにはいられない。


こうしたはたからみて「痛い」行為というのは、自尊心と虚栄心のアンバランスから生まれる。この自尊心というやつがまた難しいのだが、それについはまたいつか書くことがある、、かもしれない。



PS3の後始末

2008-09-29 00:00


 Cell B.E.を拡張してPS4に載せようと構想するSCE。しかし、ゲームデベロッパの多くは、現在のCell B.E.のCPUコア数を単純に増大させる方向は望んでいないと見られる。Cell B.E.は、未だに多くのゲームデベロッパから積極的な支持を得られているわけではない。にも関わらずSCEがCell B.E.にこだわるのは、そうしなければならない事情があるからだ。

後藤弘茂のWeekly海外ニュース


この記事にもあるが、ゲーム業界にには一時「セオリー」なるものが存在したそうだ。


 Cell B.E.を拡張してPS4に載せようと構想するSCE。しかし、ゲームデベロッパの多くは、現在のCell B.E.のCPUコア数を単純に増大させる方向は望んでいないと見られる。Cell B.E.は、未だに多くのゲームデベロッパから積極的な支持を得られているわけではない。にも関わらずSCEがCell B.E.にこだわるのは、そうしなければならない事情があるからだ。

後藤弘茂のWeekly海外ニュース



こうしたセオリーを得意げにかたる「事情通」がたくさん存在したのだろう。そしてこのセオリーは「イノベーションのジレンマ」を拡大させるものだった。それに気がついた任天堂は、社長のリーダーシップのもと、異なる方向にカジを切った。その結果は今のところ見事だったとしかいいようがない。


一方のソニーは、Cellへの膨大な投資の後始末に苦しむことだろう。先日ゲームの開発者と話す機会があった。Cellは理論上のピークパフォーマンスはすごいが、実際にはそんな性能はでないとのこと。結局「7人の小人」ことSPEに働かせようと思うと、メモリをやりとりをああやってこうやって、、とやっているうちにSPEの演算能力が相殺されてしまう、と。接触判定とかやるためには結局CPU間でデータ(というかメモリ)を密に共有しないといけないしね。


というわけでクタラギ氏の「美学」で決まった8個のSPEもあまり役には立たないということらしいのだ。げんに未だに「PS3でなければこのゲームは実現できない!」というものは発表されていないように思う。(Blue rayの大容量を生かすものはあるようだけどね)


しかし「将来を見越した膨大な投資」をやってしまったからには、その路線を捨てるわけにはいかない。この「将来を見越した膨大な投資」は性能向上の線がユーザニーズを超える手前であれば有効に機能したかもしれないのだ。


ーーーー


しかし「イノベーションのジレンマが招く滝壺に向かって一直線」の組織の中で何ができるのだろう、と考えると暗澹たる気持ちになる。所詮将来のことは誰にもよくわからない。将来は予測するものではなく、描くものなのだ。そして組織の長が「Cellが作り上げるバラ色の未来」を語っている以上(それが何を意味しているか理解できなくても)そちらに進むしかない。


いや、たいていの組織では「夢を語る組織の長」すらいないことが多いのではなかろうか。ただなんとなくみんなが幻想を共有している。ソ連を仲介とする和平交渉。誰もがそんなことはあり得ないと思いながら、とりあえずその幻想にすがる。そして破綻が来る。


サブプライム云々も誰もが破たんすることを知っていながら、結局破たんするまで誰も何もできなかった。こうした「幻想が肥大し破裂する過程」には常に興味をひかれる。いつか引退したら調べて本を書きたいとかなり真面目に思っている。



Android携帯の動画をみて考えること

2008-09-26 00:00


Android搭載のHTC T-Mobile G1が発表されたばかり。そのAndroidについて詳しく解説したデモビデオがこれだ。iPhoneと比較してみよう。シンキング、ロック、Gmailサポート、ストリートビュー、何でもありだ。キミの知りたいことはほとんど分るはず・・・

TechCrunch Japanese アーカイブ » [CG]このグーグルAndroidデモビデオは必見だ


この動画を見ていると、考えることはいくつもある。プロダクトデザインに全く配慮しないとここまで「普通の携帯」に見えるのだな、とかなんとか。しかし一番感じたのは次のことだ


しかし忘れてはいけない。つまるところこれは、Android対iPhoneという話ではない。ウェブフォン対「非スマートフォン」なのだ。様々な機能、特にウェブ閲覧とメールに関してiPhoneに対抗しようとするだけでも、モバイル市場が再定義されるきっかけになる。

TechCrunch Japanese アーカイブ » Androidを使ってみた:iPhoneではない。が、かなり近い


Androidの紹介動画の中では音声通話がでてこない。これは徹底的に


「Googleが提供しているサービスをPCの前に座っているとき「以外」に使うためのデバイス」


なのだ。


日本ではそんなことあたりまえだ、、、と誰かは言うだろう。しかしGoogleが提供しているサービスと、日本のケータイサイトが提供しているサービスを同列あるいは日本のサービスを上位に語る、、、人もいるんだろうねえ。日本ケータイ小説大賞を見ていると、そこには「独自の文化」があることを感じる。


もうひとつ気がついたこと。iPhoneが提供しているサービスの多くの部分が、Googleあるいは他のwebサービスに依存している、ということを改めて感じた。そうしている限り、たとえばAppleはAndroid携帯上のGoogle MapがiPhone上のそれよりも多機能であるのを指をくわえて眺めているしかない。


元となるWebサービス、それへのインタフェースたる端末、それら両方を高いレベルで提供しない限り勝者にはなれない。。いや、もちろん両方とも(見方によっては)低いレベルであっても数で圧倒すれば勝ちだ、という考え方もあるだろうけどね。


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ちなみにiPhoneが日本(あるいはアジア)で苦戦しているという報道をよく目にするようになった。予想された販売台数と、実際のそれがどの程度乖離しているのか私にはわからないから、その認識が正しいかどうかはわからない。


ただ使っていて「あ、iPhoneだ。いいなあ」と言われる頻度が非常に高いことも確かだ。ということはおそらく「興味はあるが様々な理由で手が出ない」人が多いのではないかと思う。そう考えると、Softbankがやっている


「パケット代の入り口だけ下げて、敷居が低くなったように見せる」


とか


「企業向けに無料で貸し出す」


というのは正しい売り方なのだろうな。



文句ばかり言っているくらいだったら自分で創れ

2008-09-25 00:00


と他人に対して考えるのであれば、自分でも実行しましょう。


というわけでこんなものを作った。(IE Ver6,7では見えません。Safari, Firefoxでは動きます。IE8ではそれなりに動きます。)


てきとーに「こんな感じ」「もっと別の情報は」「これ気に入った」と指定していくことで、200以上にわたる珍スポットの情報を閲覧できます、というインタフェース。一番上の情報をクリックすれば、本家サイトのコンテンツにジャンプします。


「珍スポット情報のブラウジング」にどれほどの需要があるかと問われれば「いや、趣味です」としか答えようがない。ちなみに画面が小さくなっているのは、もともとiPhone上でこんなことができたら楽しいだろうと考えからである。ところが実際iPhoneで使ってみるとアニメーションがあまりきれいに再現されず楽しくないのであった。orz



ポケモンセンターに行った

2008-09-24 00:00


子供をひきつれてポケモンセンターに行く。


ポケモンカードとやらがどのような仕組みになっているのかいま一つ理解していない。しかし驚いたのはその価格だ。


「11枚いりで315円」


カードの原価はいくらなのだろう? それを11枚いれて315円。利幅はいくらだ?


発行元にとってはまさに「お札を刷っている」状態なのだろう。この商売を考えだした人間は天才だ。しかし良心はいたまなかったのだろうか?


というわけで、我が家ではポケモンカードとやらを絶対に購入しないことになったのだ。


逆に良心的だと思ったのは「缶入りポケモンソーダ100円」


ポケモンのライセンス料を乗せて150円くらいでうるかと思えば、これには感心。



酔ったサラリーマンのくだまき

2008-09-22 00:00


酒の席とか、あるいは夜遅い時間の電車とか。とにかくサラリーマンのくだまきを聞かされる機会には事欠かない。


そこでよく聞くパターンとして


「俺はね、今度絶対言ってやるよ」


とか


「俺はね、言ってやったよ」


というのがある。


私が思うにこの二つは等価だと思う。「言ってやった」と本人が言っている内容は、たぶん相手に伝わっていない。というか本人以外の誰もそれを言ったと思っていないだろう。



関係ない第3者に「俺は言う」と宣言を繰り返すくらいなら、さっさといえばよいのに、などと過去の私のようなことを考えるのも「優しさ」にかける。



サラリーマンにとって「言ってやる」ことはとても難しい。特にがっちりした組織の中では何も聞かず、何も言わないのが一番だ。どう考えても船は滝にむかってまっしぐら、という状況でも最初に声を上げては立派なサラリーマンとは言えない。上司が「この船は滝に向ってるじゃないか!なぜ誰も気がつかない!」と怒鳴られてから「いや、これはさすが上司様。気がつきませんでした(お前以外はみんな知ってたんだよ」といい、そこで初めて舵をきることが許される。


そう思えば、せめて酒に酔った時くらい「言ってやるよ」と言わせてあげようではないか。


以前mixiに書いたことだが、そういう意味からするとガリレオはとても立派なサラリーマンとは呼べない。真実とは会社が、組織が決めることであり「地球の方が動いてるんじゃないっすか?」などと声を上げるなどというのはサラリーマンの風上にもおけない不埒なふるまいだ*1。いいんだよ、えらい人が「星星が地球の周りをめぐっている」と言ってるんだからさ。あんた何がしたいわけ?ちょっとくらいモデルが単純になってそれであんたの給料あがるの?




*1:ガリレオがサラリーマンだったかどうかなどこの厳粛な事実の前では些細なこと。



打席に立ち、とにかくバットを振る

2008-09-19 00:00


とにかく人に出会ってトライアンドエラーじゃないっすかね!

恋人をつくるために大切なたった1つのこと - iGirl


家族持ちになり、恋人ってなんすか?という私であるが、過去を振り返ればこの言葉には深くうなずかざるを得ない。


社会人になっていろいろな人に出会った。そこで気づいたことがひとつ。



どーんな変な男であっても彼女ができる(場合がある)



その昔米国のラジオでこんなことを聞いた。未婚女性に聞いてみました。彼氏に求めるものは何でしょう?


その1)清潔さ


その2)ユーモアのセンス


あと「羊たちの沈黙」には


「滑稽であること。どんなときでもお行儀がよいこと」


があげられていた。



しかーし



それら全部を大幅に逸脱した男でありかつ容姿もどう考えても、、、という場合でもちゃんと彼女がいたりする。若いころの私なら、「あんな奴とつきあう女なんているわけない」と言い放っていたところだろう。しかし事実は認めなくてはならない。ちゃんと彼女がいて楽しそうにしていたりするわけだ。


ということから考えると、結局のところ


つきあう、つきあわない、というのは双方が了解して成り立つこと。第3者がなんと思おうが全く関係のないことなのだ。(周りが迷惑する、とかそういうことは別の話)


というわけで、本日の標題「とにかく打席に立ち、バットを振る」しか手はないのではないか、という結論にいたる。人間というのは私なぞの想像をはるかに超えて、様々なものだ。とにかく自分が付き合える相手に出会うまでバットを振りまくるしかない。打率は1割以下でも、1%でもいいのだ。とにかく一発あたればそれで。



しかーし



やはりここにも問題がある。先ほどのエントリーに対してついているブックマークを見てもらえばわかるが



「そもそも打席にどうやって立つのか」



というところで躓くことが多いからだ。特に私のような人間は。大学にはいったら、男性数十人のクラスに女性は二人だった。はいったのは空手のサークルで女性など近寄りもしないところだった。さて、問題です。この状況でどうやって打席に立てばいいのでしょうか?



私の場合は合コンだった(昔の話だから今は状況が違うかもしれないけどね)



なんだかわからないが、大学生活の後半、および会社にはいってからやたらと合コンの話がくるようになった。一つには私の顔に「合コンやりたい」と書いてあったからだとも思う。


というわけで、20代後半から打席にたつ回数はとても増えた。そしてこれは自慢なのだが、私が主催した合コンで出会って結婚したカップルが3組ある。どうですすごいでしょう。



とかいいながら結局、合コンで自分の彼女はできなかった。


母さん、あの合コンに費やしたお金と時間はどこにいったんでしょう。  などというネタは誰もわからないか。



iPhoneをVer2.1にアップデートしてしばらくたった

2008-09-18 00:00


気がついたこと&考えたこと


・日本語入力は「劇的に」快適になった。増井さんが作っているから、間違いなく改善されるだろうと思ってはいたが、実にすばらしい。両親指で打てるように、親指の爪はこまめに切っています。iPhoneは爪では反応してくれないからね。


最初はしばらく50音入力を使っていたが、最近はすっかりフルキーボード入力ばかりになった。


・自宅の室内で、前は一つか二つしかアンテナの針がたっていなかったのが、3-4本立つようになった。その割には「圏外」と表示される頻度はあまり変わらない気がする。


・他のアプリの安定度合いは「言われてみれば改善されたかなあ」という程度。Safariは例によってよく落ちるが、まあ気にしない。


・電池の持ちは、、少しよくなったかな?前はうかつにWifi onにしているとものすごい勢いで電池が減ったからなあ。最近はWifi On にしっぱなしになった。とはいえ、これだと電車にのるたびに「どれ使いますか?」とポップアップがでるのが鬱陶しい。


・Genius機能は、最初は感動したが、どうも私は「ジャンルがぽんぽん変わる」シャッフル機能のほうが性にあっているようだ。最初は「をを、この渋い選曲はなかなかのものではないか」と思ったが、80年代ロックが続くとちょっと飽きてくる。


そもそもiPhoneにはいっている曲しか出せないわけだからどうしても範囲はせまなる。「全部入り」のiPod Classicとかなら話は違うかもしれないが。


あとまだユーザ数が少ないせいか「この曲ではGeniusのリストを作れません」といったメッセージが多く出る。まあクラシックの楽曲はリスナーも少ないししょうがないか。。これからGeniusの利用者が増えてこうした問題が解消されるといいのだけど。


ーーー


というわけでとっても快適になったのだが、おそらく多くの人がこう考えていると思う。



「最初からこれで出せよ」



とはいっても、もうすぐ20年になるApple Userの私はこんなことではめげない。これくらいの「初期の未完成さ」は「想定内」なのだ。


アプリも充実してきてうれしい限りである。最近登録してよくつかっているもの


・はてなタッチ:はてなダイアリー、ブックマークのインタフェース。もっぱらブックマークの閲覧ばかり使っている。


・Wikipanion:Wikipediaの快適閲覧インタフェース。暇つぶしに最適。そうか、戦艦伊勢ってこんな作戦に従事していたのか。。


・2tch:以前Janeを使っていて「これで2tchに移行だ!」と思ったが、そうはなっていない。スレッド選択後に異常に待たされることが多いのが原因。結局未だJaneのほうが使用頻度が高い。


・計算機:いや、私は2度しかつかわないんですけどね。最近算数に興味を持ち始めた子供がよく使っている。ほら、8を5回足すと40になるだろ?これを「はちごしじゅう」といって覚えるんだよ


あとHot Pepper,食べログ、Y!地図などをいれて比較しようかな、と思っているところ。地図+情報アプリケーションは数は多いがどれが決定打になるのか未だにわからない。共通の地図PFアプリの上に、いろいろなレイヤーの情報が載せれる形になってくれてもユーザとしては一向に構わないのだが。



年をとると

2008-09-17 00:00


ああ、これは見たことがあるなあ、と思うことが増える。


俺の父親がテレビを見ながら「金融のプロなんだろ? サブプライムなんとかって、貧乏人に貸すだけ貸して焦げ付かせるなんて、こいつらバカか?」と言ってましたけども、それは正論だと思いますが、日本だって15年前には似たようなことやって壮大にコケてたわけで……。

たけくまメモ : いろいろもう死んでいる(株価暴落編)



今回のサブプライム関連の話はどうにも素人目に理解がしがたい。いや、


「住宅を買っておけば値段があがる」


という神話によりかかり、支払い能力のない人たちにどんどん金を貸し付けた、というところまではわかる。しかしそれが破たんすることは誰でも知っていたはずだ。そこまで理解できる。


問題はその結果が何故ここまで大きくなるのか、ということだ。


信用の拡大と、リスク評価のテクニカルな側面を一手に担ったのが金融業界だった。あらゆるマーケットを創造することで、流動性という新しい価値をすべてのものに付加し、わけのわからない金融工学的手法でわけのわからないリスクをわけのわからないなりに定量化して、マーケットに引き入れるということをしてきた。

はてなーにもわかる金融業界の栄枯盛衰※追記あり - よそ行きの妄想


経済の話を聞くと結局わけのわからない「指標」が意味を持っている、と感じることがある。それは私が素人なせいか、と思っていたが、結局それらの「指標」はわけのわからないものだ、ということなのだろう。


何かが根本的におかしいとはだれもが感じているところだと思う。ではどうなる、、という問いには誰もが答えを持っていない。


少なくとも「何も生み出していないのに金を儲ける人たち」の数が少し減ってくれないかなあとは思っている。羽振りがよかったころのエンロンがどのような会社だったかはなんとなく覚えている。知識と小手先の技術はあるが、知恵がない人達があぶく銭を稼ぐ構図には生理的な嫌悪感を感じる。


ーーー


私の友達にNTTからメリルリンチに転職した男がいる。2年前の同期会で会った時


「俺は、もう一生分稼いだ。もう一度学生をやろうかと思う」


と言っていた。彼がそれを実行に移していれば、彼は「勝ち逃げ」に成功した組ということになる。彼はどうしたかな。



「誰もが見ている」映画

2008-09-16 00:00


週末家族で外食した。比較的安いのだが、ピアノを演奏してくれる人がいる。


誰がリクエストしたのか「トトロ」を演奏してくれた。そのあとに続いたのは「ポーニョポニョポニョ」のメロディ。


その瞬間、レストランのあちこちから小声で歌う声が聞こえる。


私が住んでいるのは最近できたニュータウンだから、子供づれが多い。そのせいもあるだろうが、これには少し驚いた。


ーーー


ほんの時たまだが「誰もが見ている映画」というのが出現することがある。私の記憶の範囲内だと「タイタニック」がそうだった。あまりに多くの人が見ているので話題に上ることが多く、見ていないと会話についていけない。


おそらく「ポニョ」もそうした映画になりつつあるのではないだろうか。少なくとも小さな子供のいる家庭ではかなりの割合の人が見ている気がする。


またポニョの場合、大人が見ても「あれはこう解釈すべきだ」という想像を膨らませる余地がたくさんあるので、大人の話題にも事欠かない。少なくとも私が徘徊している範囲であれほどたくさんの映画評がかかれた映画はここしばらくなかったように思う。


トトロのように10年たっても、幼稚園児が踊る音楽になるかどうかはわからないが。



地平を広げる偶然とは

2008-09-12 00:00


AppleのiTunesがバージョンアップされGeniusという機能がついた


 こうしてGeniusのレコメンドにしたがって、iTunes Storeの深い森に入り込んでいくと、本当にたくさんの偶然が落ちていることに気がつく。これは、iTunes Storeのトップページを自発的に開いたときの体験とはまったく異なるものだ。あれだけ頻繁にタワーレコードに立ち寄っているのに、どうしてあの時期に、このCDに出会わなかったんだろうと不思議な気分にもなる。おそらくは、ジャンルに対する先入観が売り場から足を遠のかせていたのだろう。そこでは、偶然がそぎ落とされていたのだ。

山田祥平のRe:config.sys


インターネット上の販売サイトは、ほしいものが明確な場合、リアル店舗が逆立ちしても及ばないような威力を発揮する。


しかし「地平を広げる偶然」をもたらすことはほとんどない。


幸せな偶然というのは、いつも思いがけない形でもたらされる。本屋をぶらぶらしていると、ふとある本が目にはいる。手に取ってみると面白い。買ってみようか、こんな世界があったのか。こうした体験はAmazonでもiTunes Storeでも不可能だ。


AppleのGenius機能は、こうした「思いがけない偶然」を目指したものなのだろうか?


Appleがどの辺を狙っているかは彼らに聞かないとわからない。しかし私はこう主張したい。



地平を広げる偶然を与えるためには、アルゴリズムとインタフェースの両方が必要であると



すでに持っている知識から出発するにせよ、その関連性の糸を手繰っていくことで思わぬ場所にたどり着く。こんな世界があったのか、と驚きを得る。


これを実現するためにはアルゴリズムだけでは不十分。インタフェースが必要なのだ。



D


未だによい名前を思いついていないが、興味をひけばそちらに進む。気にいらなければ簡単に取り換える。このスピードがなければそうした偶然を誘発する情報探索は行えないのだ。


と過去に作った動画ばかり出している場合ではない。



企業にとって利益とは何か

2008-09-11 00:00



利益は、企業の行動や判断の説明、根拠、理由ではなく、正当性を検証するための材料なのだ。


マネジメント ピーター・ドラッカー著



おそらくドラッカーと対局の位置に立っていたのが村上君や堀江君だったのだろうな。村上君にとっては利益とはまさに「企業の行動や判断の説明、根拠理由」だった。



選挙における女性候補の役割

2008-09-10 00:00


というわけで太平洋の西側と東側で選挙である。いろいろと議論もあるだろうが、とにかく勝たないことには失職し発言もできなくなる。勝つことが絶対の前提条件の世界だから、使えるものはなんでも使えうわけだ。



ヒラリー氏で「ペイリン封じ」? オバマ陣営、女性票狙い動員 米民主党のヒラリー・クリントン上院議員が8日、フロリダ州で集会を開き、同党の大統領候補であるオバマ上院議員への支持を呼び掛けた。共和党の副大統領候補ペイリン・アラスカ州知事の人気が高まっていることから、危機感を抱いたオバマ陣営が女性票獲得のためクリントン氏を駆り出したようだ。

NIKKEI NET(日経ネット):主要ニュース-各分野の重要ニュースを掲載


正直いってマケインがペイリンを副大統領候補に指名したのには驚いた。しかしどこにでもすごい人というのはいるわけで、子供を5人育てながら州知事をやる、ってのはなあ。。


先日夫のクリントンのほうが現役大統領だったころのドキュメンタリーを見た。今より若いヒラリーがインタビューに答えていたが、その顔からは「野心満々」といった雰囲気がうかがえた。彼女の野心は今のところ志半ばで折れているわけだが、今後がどうなるかは誰にもわからない。


ただ私は彼女のあまりにも見え透いている野心にいつも嫌悪感を感じる。予備選開始前には圧倒的有力候補だったヒラリーが結局敗退したのも、同じように感じた米国民が多かったせいではないか、と勝手な想像をしているのだ。


そのドキュメンタリーにはジョンソンの姿も何度か出てきた。何でもホワイトハウスのシャワーを自分の家のものと同じように設定してくれ、と頼んだのだそうな。水圧は通常の10倍だったとか。


副大統領は閑職といわれるが、一朝有事の際には大統領に就任する立場でもある。ペイリンにその力があるかどうかはまだわからない。


一方太平洋の西側である。


永田町では「立候補が麻生氏1人だけだと“禅譲説”が浮上してしまうだけに、対抗馬が欲しかった。森氏の中には野田氏か石原氏という思いがあったが、女性の方が話題づくりにもなるということで野田氏になったのだろう」との見方が出ている。

森元首相 野田聖子議員に出馬要請していた(社会) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース


ああ、もうなんと言おうか。小池氏にしても、私が覚えている唯一の姿は、記者会見でおたおたしながら原稿を棒読みしていた姿だけだが。


日本の政治における「女性議員」の多くはまだ「お飾り」の域をでないのだな。。



映画評を読みながら考える

2008-09-09 00:00


m@stervisionという映画評サイトがある。長らく更新が停止されていたが、最近復活した。掲示板を読むと、この映画評サイトのファンは多い。私もその一人だ。ただ


「ではなぜこの映画評をよいと思うのか?」


という問いには明確な答えがない。たとえば、Star Wars EP2についてはこう書かれている。


ある。以前にもまして冒険映画や史劇や西部劇の古臭いクリシェを意図的に多用した宇宙大活劇。2時間22分の目のご馳走。「エピソード1」に疑問符をつけた人にも自信を持ってお勧めできる。てゆーか、観なきゃバカだ。 

m @ s t e r v i s i o n | archives 2002c


この映画に対する私の評価は文句なしのー1800円。金返せである。


これほどまでに評価が異なりながら、なぜ「なるほど。こういう見方もあるのか」と氏の映画評を読むことができるのか?昨日ある文章を読んでいて、その回答の一部が見えたような気がした。


そして生半可でない理解というのは、結局「おれにはおまえが理解できないよ」ということを受け入れることなのです。「理解できないこと」というのを肯定し、受け入れる。そしてそれを表明し、そのことを貫き通すことなのです。

理解することではなく、理解しないことが大切なのです - ハックルベリーに会いに行く


氏の映画評では、自分がどのような観点から、どうしてそのような評価を下したかがかかれている。その意見の表明は明快であり、決して生半可に「○○な人にはいいんじゃない(俺はつまんないと思ったけど)」とか書かない。それゆえ評価が180度反対であっても「なるほど」と読むことができるのだろう。


書きたい放題書いているようにみえながら、常に自分を客観視し、自分の映画評を読む人、という視点を忘れない。それゆえ多くの人に読まれ、愛される映画評になるのだろうな。


その反対の映画評は、、特に職業として映画評を書いていると思しき人に多く見受けられるのは皮肉なことだ。



大きくなったら

2008-09-08 00:00


子供にいろいろなことを聞かれる。記憶に残っている難問の一つに


「電気って何?」


というのがある。5歳児にわかるようにどうやって電気を説明するのか。そもそも手に触れたり、目に見えたりできないし。。


あと


「中国の言葉が中国語でしょ。日本の言葉が日本語。じゃあ「英」っていう国があるの?」


そういえばそうだ。なぜ「英国語」と言わないのだ。



さて、最近時々聞かれる質問にこんなのがある



「お父さん。大きくなったら何になりたいの?」



この質問をされるたび、お父さんは遠くを見て物思いにふけってしまう。ここで彼の質問が


「何になるの?」


ではなく


「何になりたいの?」


であることに注意しよう。G.M.ワインバーグのコンサルタントの道具箱にもあったが



実現性とか可能性を「無視」して、そもそも自分が何を望んでいるのか、とということはとても重要だ。そして自分の内なる願望を知る、ということはとても難しい。とくに年を重ねれば重ねるほど、「なりたいもの」を頭の中で「なれるもの」に置き換えてしまいがちだ。


完璧に合理的なのだがどうにも自分にしっくりこない話というのはある。そういう時は自分の「望み」と合致していないのだと思う。


というわけで改めて自分に問うてみよう。



私の能力とか年齢とか経歴とかまあそれは「脇に置いておいて」お父さんは何になりたいのだろうね?



これについて最近一つの結論がでたのだが、それはまだ書かないのであった。とりあえず五択


1)ビル・ゲイツ


2)スティーブ・ジョブス


3)宮崎駿


4)任天堂の岩田社長


5)イチロー



iPhoneの家庭における意外な使い道

2008-09-05 00:00


昨日子供に言われたことだが、


「おとうさん。iPhoneがあると、ぱそこんでできることなんでもできるね」


子供がどこまで理解して言ったのかわからないが、確かに家で使えると便利だ。何が便利といって、子供たちがやれ


「ぱそこんでポケモンみせて」


とか


「ぱそこんでピッケみせて」


と言われた時でも、「はいはい」と貸してあげ、自分はiPhoneで2chなど読んでいられるからだ。


などということをやっていて最近気がついたのが、見る内容によっては、PC上でみるよりiPhone上で見たほうが快適、と思うことが増えてきた。2chやYahooのヘッドラインを見ていると特にそう思う。


この快適さがどこからきているかはまだよくわかっていない。指ではじくだらだらスクロールのおかげかな。。



予測について

2008-09-04 00:00



ごく短期についてはともかく、「将来は予測できる」などという妄想にいまだにとらわれている人がいたら、昨日の新聞に載ったニュースを見せて、10年くらい前にどれを予測できたか尋ねてみるがよい。


マネジメント ピータードラッカー著より



前の会社で働いていた時、次の研究テーマを決めるため、10-15年先の将来を予測しようなどという試みがあった。↑で引用したのとほぼ同じことを言ったのだが、軽く無視された。


ここで言いたいのは


ドラッカーがこのように述べたのは1970年代である。たぶん探せば同じことを主張した人はもっと前にもいるのだと思う。アランケイが言った


"The best way to predict future is to invent it."


という言葉は、ドラッカーの「事業戦略」に関する言葉と奇妙なほど一致している。未来を予測するのは、暇つぶし以上の意味を持たない。発明するか、あるいは事業によって影響を与えるか。いずれにせよ自ら作っていくしかないものだ。


にもかかわらず、未だに「将来を予測して、計画を立てよう」などという愚かな試みは後を絶たないこれはなぜだろう?



一番大きな理由として考えられるのは、将来になったとき、誰も数年前にやった予測なんか覚えていない、ということではなかろうか。



嘘だと思うなら、3か月前、気象庁が夏の天候についてなんと言っていたか思い出してみればよい。誰か検索せずにソラで言えます?おまけにそれについて気象庁に文句を言おうなどとは誰も考えないでしょ?だいたい暑いし。そんなことやってらんないし。


遠い昔のことだが、「ソ連」の脅威について、2005年、2015年にはこうなるに違いない、という予測を見たことがある。その予測がなされてから数年で「ソ連」は存在しなくなり、その脅威予想は紙くずと化した。


でもその頃にはもう次の仕事が始まっていたから誰もそんなことは気にしなかった。


これらの例に示されるとおり「将来の予測」は役に立たないが、多くの場合害もなく、そして誰もそのことを覚えていない。その割には、やっている間は「理論整然と解析をしている」印象を与えられる、という点で重宝するのではなかろうか。



というわけで



「未来予測アナリスト」と名乗り商売にできないか、、と3秒くらい考えた。でもなあ予測だけしていてもつまんない。今ある線を延長して金をもらっている人を失業させるくらい、違う線を書くほうがずっと面白い、、と5秒くらい考えた。


今日はオチはありません。



キャズム会議 Vol.3に半分だけ参加した

2008-09-03 00:00


というわけで、「正式名称:ネットと家電のキャズムを超えろ!会議」に前半だけ参加してきた。


タニタヘルスリンク」の社長さんが最初にプレゼンを行う。最初に何に感心したといって、この社長さんの経歴が面白かった。外資系のコンサルから「なんておもしろそうな可能性をもった業界だろう」ということで、タニタに転職。でもって今年からタニタヘルスリンクの社長さんをしているだそうな。(間違っていたらごめんなさい)


いろんなキャリアパスがあるものだなあ、と感心するとともに、社長さんが、本気でこの業界、タニタという会社にほれ込んでいるのが伝わってきた。いや、社長たるもの当然そうだろう、、という意見もございましょうが、なんというか大会社の子会社だと、上から片道飛行で落ちてきた人が社長やっていたり、、、ごにょごにょ。


プレゼンの途中で競合製品をいくつかあげていった。


プレイヤーとしてはTOSHIBA、OMRON+DOCOMO、最近ではauなどが取り組んでいる。


どれもまだ、月額料金が結構かかる仕組みだったりする(Freeで使える良いスキームができればいいなぁ...)

キャズム会議 Vol.3終了 まとめ - キャズムを超えろ!


この「月額料金」を聞くとびっくりするほど高い。確かにFreeで使えない限り普及は難しいと思う。


↑には上がっていないが一つだけ「説明を割愛」」された競合製品があった。Wii Fitである。これに関しては社長さんのコメントがおもしろかったのだが、マイクを口から離して言った言葉だったのでオフレコ扱いと解釈し、ここには書かないでおく。


しかし既存の「計測器」メーカーがビジネスにしようと四苦八苦しているところに、任天堂が、あさっての方向からガツンとぶつかってくる、というのは面白い図柄だと思う。


「業界」なる言葉がある。それができると「業界の常識」ができあがり、それを知らない人間をなんとなく見下すようになる。


そしていつしか「業界の常識」が「世間の常識」から遠く離れていき、「非常識な参入者」が支持を得る。そして業界が衰退していく。



歴史上数え切れないほど繰り返されたパターンだが、プレゼンを聞いていてタニタという会社に好感をもった身としては、なんとかタニタの健闘してほしいところなのだが。


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私は参加できなかったが、「もっと面白いからだ管理データの活用方法(APIをOPENにして面白く、便利に使う)はできないか?というブレスト」が実施されたらしい。そこで出たアイディアは、主催者のサイトに列挙されている。


私は三つほどアイディアを送った。考え方の基本は


「人間は理不尽な欲求と結びついていない限り、運動なんかしない」


である。人間は理性でなく、感情で動く。そして感情は常に理不尽なものだ。


というわけで、理不尽な欲求に運動を結び付ける提案を二つだした。




「あるコミュニティに属したい」「自分の金がなくなる!」という動機でもなければ、人間は運動しないと思うのだ。自分の金がかかってれば、そりゃ狂ったように走ったり踊ったりすると思う。



映画評-ダークナイト

2008-09-02 00:00


福田君については、いつか書くこともあろう。というわけで本家からの転載+改編


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バットマン ビギンスと 主演はともかく監督が同じだ、というのが信じがたい。


グロイシーンは意図的にカットされているように思う。しかし観客にちゃんと何が起こっているかは伝えられているし、そもそもこの映 画が目指 した「恐ろしさ」とはそんな次元のものではない。(シャマランはこの映画を100万遍見直して、反省するように)観ているうちに気がつく。 悪も善も人間の一部であり、どちらかだけがなくなることはあり得ない事を。そして自分がなんとなく寄りかかって日常を過ごしている「善悪の判断」が足下か ら崩れるような気がしてくるのだ。


ジョーカーという悪役をやっつければ、ゴッサムシティに平和が訪れました、という単純な話ではもちろんない。映画のなかで狂犬と 表現されるジョーカーは周囲の人間から狂気を引き出していく。私はここで「狂気」と書いたが、それはもちろん善男善女たちの一側面でもある。ジョー カーはただの触媒であり、結局人間とは恐ろしいものではないか。そんなことを考えだす。ミ ストを観たとき感じた恐怖に似ている。舞台となるゴッサムシティがこれまでのバットマンシリーズと異なり、普通の町に見える事も、 「絵空事ではない恐怖」を感じさせる一因だ。


いったんジョーカーが逮捕され平和に話が終わるやに思う。ああ、よかった。いや、それにしてもなぜこの映画がそんなに評判なのか、 と思ったあたりから ジョーカーが巻き起こす狂気は加速していく。話の終わりが見えなくなり、加速していく狂気がどこでとどまるのか、誰をどう信じればよいのか。ジョーカーがしかけた壮大な「囚人のジレンマ」の決着の仕方はいかにもアメリカ映画(軽い意味ではないよ)とも思えるが、そ こでちょっとほっとしたのも確かだ。


執事役として、前作に引き続きマイケル・ケインが好演。ちょっと皮肉を利かせた演技がすばらしい。主役は前作と同一人物とは思えな い影のある演技。「光の騎士」たるべきアーロン・エッカートがこのメンバーの中ではちょっと薄く感じられる。この役柄がもっと迫力を持っていれば、、と思 わ ないでもない。今は亡きヒース・レジャーの演技はジャック・ニコルソンが演じたものとは次元の違うジョーカーを作り出した。薄っぺらで純粋な狂気。そんな 言葉を並べたくなる。ジョーカーは金を儲けたいわけでもバットマンを目の敵にしている訳でもない。犯罪そのものが彼の目的なのだ。こんな見事な演技をして しまうと、、やはり寿命が縮んだか。


後から考えれば、でてくるだけでてきて機能していなかった役ももいくつかある。(香港のマフィアとかね)エンディングも台詞で説明 はいかがなものか、と理屈では考えられるのだが、ジョーカーがかもしだす狂気の前にはそんなことは些細なことのように思える。


とかなんとかいいながら、最後に映し出される英語の題名を観るまで


Dark Night(暗い夜)


という題名だと思っていたのは内緒だ。いや、だって夜のシーン多いし、演説の中でも「夜明け前が一番暗い」とかそんな台詞あった し。



ミク。誕生日ありがとう

2008-09-01 00:00


初音ミクは2007年8月31日に発売されたそうだ。だから昨日は発売一周年、ではなく、ネットの上では「誕生日」となっている。


実のところ全く売れなくて販売中止になった製品であっても「発売一周年」でも二周年でも何周年でも迎えることができる。



初音ミクは一年後に「誕生日」を多くの人に祝ってもらえた。これはすばらしいことだ。一年と一日前、世の中に登場したミクは今日も歌って踊って元気一杯だ。



このブログで何度か書いたことだが、私はここで「初音ミク」といったときにそれは誰を、何を指しているのか考えてみたい。



それはあたかも、潜在的に不安定だが、表面はおだやかな水面に、一粒の種が落ちたかのようだ。その種を中心として、液体の中に潜在していた歪み、熱、叫びが形を作り始め、いつのまにか液体の中には多種多様な結晶構造ができあがっていく。


「文化を尊重するとは、作品の流通を厳重に管理すること」


と声高に主張する人たちがいる。


その人たちと別のところでは、自由に飛び交う初音ミクの音楽、映像が、感動と熱気の連鎖が思いもかけない世界を作り出している。それは私にとってとてもExcitingなことだ。


だから私はこの日に「おめでとう」ではなく「ありがとう」と言いたい。一年前、ネットの上でこんな興味深い人々の熱気を体験することができるとは夢にも思っていなかった。


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というわけで今日は秘蔵のマイリストから私の想像のななめ上をいってくれた作品群を紹介。



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500万再生を突破した「みくみくにしてあげる♪」の別アレンジ。とても同じメロディとは思えない。



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オリジナルも素晴らしかったが、演出を加えると、これだけ異なる印象を与えるかと驚かされた作品。いや、その道の人は先刻承知のことかもしれませんが、私のような人間には驚きなんですよ。



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私がここで紹介したいのは16:20分からの「世界をめぐる感動の連鎖」著作権管理団体にお伺いを立てなくても、動画をつけ、歌い、発表できる自由がこのスペイン語版ココロを生み出したのだ。



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最初にこの動画を見たときの驚きは多くの人たちに共通するものだと思う。最後のウィンクのところで


「俺にだ」


「いや、俺にだ」


「おまえら。キモすぎるぞ!。今のはおれのだ」


という不毛なコメント争いにも笑わせてもらいました。




*1:MMD,ぼかりす‥