題名:35歳

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日付:1999/5/2

トシちゃん25歳 釈迦 曹操 チャーチル ヒトラー 芥川龍之介 イーゴリ・A・ブリタノフ


曹操:西園八校尉に任ぜられる。35歳の時。(蒼天航路;参考文献参照

後漢が実質的に滅びようとしていたとき、黄巾の乱が起こった。このとき曹操は騎都尉に任ぜられている(30歳の時か)三国志武帝紀によれば彼はここで戦功をあげ済南群の相に転任。その後あまりの官界の腐敗ぶりにいやけがさしたか、郷里に帰って「春夏は書籍を読み、秋冬は狩猟をして慰みとした」生活を送っていた。

そこに再び反乱が起こり、曹操は西園八校尉に任ぜられる。それから彼は死ぬまで戦乱の世の中に暮らすことになる。

同じ正史、武帝紀にある「原注:魏武故事」によれば、このとき曹操は「最初凶悪な者、汚濁にみちた者を除去し、公平な心で官吏の選抜推挙を行ったが、宦官たちの意にさからうこととなった。権力者・勢力家を怒らせたため、家に災難を招くことが心配となり病気を理由に帰郷した。」「まだ自分は若い。これから20年隠居して世の中が清くなるのを待ってもよかろう。」と思い「ごく目立たぬ地位を求め、泥の中で満足している亀のような暮らしをしたい。世間との交際は断念しよう」と思ったと書いてある。

あまたある三国志の解説書でこの「若くしての引退」にふれている物はあまり多くないようである。だから、特に魏武故事の部分はあまり信頼の置ける話ではないのかもしれない。しかし私はこういう事柄に関しては、アマチュアの門前の小僧の弟子の草履取りの足ふきのようなものだから、ここの記述を実際にあったこととしてちょっと考えてみよう。

曹操と言えば「治世の能吏、乱世の姦雄」という言葉で有名な男である。一般的に言って治世と乱世の両方において有能であることは難しいと思える。乱世の英雄は平和な世界においては過激な人間となるのが落ちである。逆に治世において有能な人間はともあれば人間的に小さくまとまり、自分の意図を隠し他人におもねることのできる人物、乱世においてはあまり役に立たない人間であることが多い。曹操はそのどちらにもなれる人物という評価が一般になされているようだ。

「乱世の姦雄」のほうはあまり異論はないだろう。もっとも「姦雄」という言葉が何を意味しているかあまり定かではないが。問題は「治世の能吏」のほうである。

この言葉を「治世において能吏として活躍できる人間」という意味にとってみよう。(普通こういう解釈をすると思うが)彼は本当にその言葉に値する人間だったのだろうか?

治世というのは「治まった世」という意味である。治まった世にはある程度の安定がある。社会の仕組みが存在し、それがある程度有効に機能している世の中である。「社会の仕組み」というのは多くの場合事故安定性をもつ。その存在をおびやかすものを「異分子」として排除する傾向をもち、そのことにより、安定性を確保しようとする。

柔軟性をもち、いろいろな局面に適応していける組織、仕組みというものは、本来ある程度の「不安定性」を持っていなくてはならない。常に少しずつ動揺しており、時局が別の方向を目指せばそちらに適応できるような不安定性である。

しかしながら「治世」においては、不安定性は常に唾棄するべきものとなる。組織は存在することそれ自体が第一の目標となる。従って治世が長かった組織は、たいていの場合硬直化し、変化に対する適応力をうしない、、、いつの日か崩壊することになる。

さてこうした「治世」において「能吏」であるということはどういうことか?それは事務能力において優秀であるとともに(これはあまり重要でない条件のほうだ)、絶対の条件として他人と摩擦を起こさないことが必要とされる。仮に周りの人間がみんな不正を働いていたら、それを摘発する、なんてことは間違ってもしてはいけない。自分も周りと同じように不正を働ければいいのだが、それができなければ「いやー、みなさんうまくやってらっしゃいますな。私どうも不器用でいけません」と言って頭をたたくくらいでなくてはいけない。前述した「最初凶悪な者、汚濁にみちた者を除去し、公平な心で官吏の選抜推挙を行った」なんてのはもっての他である。つまり彼は優秀な事務官であったかもしれない。しかし「治世の能吏」にはなれなかったのである。曹操に向かって前述の評価を下した人間は、あるいは「治世の能吏」たるものの必要条件を誤って考えていたのではないか。

当時の人生の標準的なスケジュールがどのようなものであったかは知らない。しかし曹操は30前半を隠遁生活を送ってくらしたのだ。いつの時代でも働き盛りであろう30前半をである。私は治世の能吏にも乱世の姦雄にもなれない小さな人間だ。しかし彼が「やりすぎていやけがさし、隠遁生活を送った」事を考えるとちょっと彼に対する親しみを感じたりするのである。

 

さて次は上記の曹操について書いているときに、たまたま読んだ政治家の生涯についてだ。

 

ウィンストン・チャーチル:内務相に就任。(チャーチル:参考文献参照

35歳の時に彼は若くして政府の中でも重要なポジションである内相になっている。そしてその後に第一次世界大戦が勃発した。その過程において彼はいくつかの行動を起こし、それが元で40歳の時に「隠遁生活」をよぎなくされたのである。

何故かと言えば、彼はつまるところ「やりすぎた」のである。そしてその発案が裏目とでたときにその責任をすべて負わなくてはならなくなり、そして誰も助けてはくれなかった。彼自身の言葉によれば「下の地位から共同大作戦を実行しようとしたために、私はしばらく破滅させられることになった。このような冒険はするべきではない」ということだ。彼は自分が気がつかないうちに多くの人間から怒りを買っていたのだろう。

彼はどちらかといえば「治世の能吏」であるよりは「乱世の姦雄」である人であったようだ。第一次大戦が勃発しようというとき、戦争の準備に異常な熱意をもって取り組んでいる。当時彼が妻にあてて書いた手紙には次のような記述がある。

「すべてが破局と崩壊に向かっています。私は興味津々、調子よく、そして幸せです。このように出来ているのは恐ろしいことではないでしょうか。戦争の準備は私にはひどく魅力的です。」

これは武の人としても一流であった曹操の姿とどこか重なる。そしてその「隠遁生活」に追い込まれる様子もこれまたどこか似ている。隠遁生活の最中チャーチルを見ることは「まるで聴力を失ったベートーベンを見るよう」だったそうだ。彼は彼の言うところの「黒犬を飼い慣らす」こと(つまり失意と共存すること)のために、絵を描くことを試みるようになる。匿名で出展した彼の絵にはちゃんと値が付いた。

しかしながら彼は長い間ほおってはおかれなかった。私はあまりこういう言い方は好きではないが、時代がまさに彼を必要としたからである。第一次大戦の間に彼は閣僚に戻り、戦争に決定的な影響を与えた「戦車」の開発に関わることになる。

第一次大戦が終結した後に訪れた「治世」は長く続かなかった。アドルフ・ヒトラーが政権を掌握し、次から次へと領土的要求を出してきたとき、最初にとられたのは「融和政策」であった。そしてその努力が無意味なことである、ということが誰の目にも明らかになるまで(それまでにいくつかの国が存在しなくなっていたが)彼は「時代遅れの政治家」として無視され続けることになる。

しかしヒトラーの意図がどこにあるかについて疑問の余地が無くなったとき、彼は首相の座につくことになる。そして彼は次のように言っている。「ついに私は、全局面にわたって指導していく権力を握ったのだ。私は運命とともに歩いているかのように感じた。そして過去の私の生涯は、すべてただこのとき、この試練のための準備に他ならなかったと感じた」

今度は彼は(大戦終了間際の一時期を除けば)自ら引退するまで政権から追われることはなかった。ここでは深い分析はできないが、彼はおそらく自分が隠遁生活においこまれたという経験から何かを学んだのではなかろうか。失敗から学ぶこと、というのは大変難しいことで、私は実生活で(自分も含めて)これがきちんとできる人をあまり見たことがない。しかし彼はその難しいことを成し遂げ、そして戦争に勝利することになる。大英帝国は大戦後存在しなくなったが、戦争の目的は見事に達成されたのだ。

しかしながら、彼は彼にふさわしいステージが与えられた、という点でかなり幸運だったと言えるかもしれない。もしアドルフ・ヒトラーなかりせば、彼はそのまま平和時にはちょっと過激な事をいうだけのうるさい政治家として一生を終えたかもしれない。ヒトラーの最後の言葉に

「あの老化した動脈硬化のイギリス人にとっては、こんな大酒のみのユダヤ化した半アメリカ人ではなくて、ピットのような人物が天の配剤として与えられるべきであったのだ」

という言葉があるのは皮肉である。そのチャーチルを登場させたのはつまるところ彼自身だったように思えるからだ。

これが必然だったのか偶然だったのかは知らない。しかし何故かドイツにヒトラーがいるときに英国にはチャーチルがいた。人の巡り合わせというのはこのようなものかもしれない。彼らのどちらかだけが存在していたとき、彼らの人生はどのように違ったものになっていただろうか。私がぼんやりと思うのはチャーチルはおそらく知る人ぞ知る政治家として一生を終えたのではないか、ということだ。そして私、そして多くの人がが彼のことについて考えることもなかっただろう。それが彼にとってどのような意味をもっていたか、というのは彼のストーリーだが。

次は彼を首相にし、そして破滅した男について

 

アドルフ・ヒトラー:獄中で「わが闘争」を執筆。(参考文献:アドルフ・ヒトラー

「卑しむべき偏狭と個人的怨恨の裁判は終わった。−そして今日からわが闘争が始まる。

ランツベルク4月1日 1924年」

1889年4月20日生まれであるから、正確に言えばこの文句を書いたときは彼は34だが、実際に出版されたのは1925年だから35歳の時と言ってもよかろう。

このとき彼はビヤホールを起点とした政権奪取−ビヤホールプッチの失敗によって獄中にあった。この非業法的な暴力による政権奪取の失敗は彼にとってひどい打撃であったことは確かだ。彼は刑務所で2週間近くも食事を受け付けず、餓死する危険があった。しかし彼は多くの人の説得によりそこから立ち直り、そしてこれはたぶん恐ろしい事なのだがこの失敗から貴重な経験を学んだのである。彼は後に合法的にドイツの政権を握ることになる。そして日本の首相とは違い、彼の存在-彼がドイツの総統であったという事実-は確かに歴史のコースに影響を与えたのだ。

彼は口述筆記それに彼自身の2本の指でのタイプにより「わが闘争」を獄中で記述することになる。そしてその過程は彼自身の言葉によれば

「獄中生活は私の哲学に自然な、歴史的根拠を与える機会を提供した。彼らはわたしに休息期間を与えずに、ずっと演説を続けさせておく方がはるかに賢明だっただろう!」

ということになる。彼は彼の自身の考えをこの執筆という作業を通じてまとめあげていったのではないかと思える。その内容の「正しさ」やあるいは学術的根拠についてここで書く必要はない。ハウスホーファー教授によれば、彼が何度も使っている生活圏や地政学という言葉について「わたしはヒトラーがそれらの概念を理解していないし、理解するための正しい展望を持ち合わせていないという印象を受けたし、またそう確信した」そうである。刊行された本を読んでの感想は「それはアジテーションの目的で発行されてはすぐに消えていく刊行物の一つにすぎないような気がした」である。ヒトラー自身も「わが闘争」についてこういっている。

「一つだけ確かなことがある。もし私が1924年にやがて首相になることを知っていたら、あの本は書かなかっただろう」

 

さて、私は「我が闘争」を一度だけとてもとばしながら読んだことがある。彼が35歳の時に書いたこの本はいくつかの考察を与えてくれる。まず彼はこの中で彼は国家社会主義の外交政策が「われわれは600年前に停止した地点から再出発する。すなわちわれわれは南と西に向かう永遠のゲルマン民族の移動を中止して、東方の土地に視線を転じる」と述べている。彼は剣の力によってユダヤ、ロシア、マルクシズムを取り除くことを明白に宣言している。またこの本の中では日本についてふれられていて「模倣はできるが創造はできない民族」に分類されている。(もっとも戦前に日本で出版された日本語訳ではこの部分は削除されていたそうだが)

さて彼はこれほど明白に自分が世界をどのように見ているか宣言している。そしてその考えは終身変わることはなかった。しかしその後世界が彼の考え方をどのようにうけとったか、というのは実に興味深い。日本は脳天気にヒトラーを英雄扱いし、軍事同盟を締結し、米英と決定的に対立してしまうことになった。また何を考えたのか(たぶん何も考えていなかったのだと思うが)日ソ中立条約まで締結している。ソ連も独ソ不可侵条約を締結し、(日本はこのことに驚愕したが)ドイツがソ連に(宣戦布告なしに)侵攻し始めたときもスターリンは当初その知らせを信じようとしなかった。

彼は実にストレートに自分の考えを述べ、そして実行したわけだが周りはそれを額面通りとらなかったわけだ。人の世とはこのようなものであろうか。みな自分の願望を相手の言葉の上にかぶせてみてしまうものなのだろうか。

 

もう一つはこの本、あるいはこの本に書いてある事を述べていた彼に対する大衆の支持である。この本についての専門家あるいは本人の評価は前述したとおりだ。しかし大衆の支持は圧倒的であった。このことは人間が何を支持するか、ということに関して何かを考えさせずにはいられない。人間は対象の内容の正確さを合理的に評価して支持するのではない。多くの場合にはそれが(きわめて感覚的に)妥当(にみえる)であるか、で支持を行う。この例に関して言えば、ある本に書いてある以下の記述が的を得ているように思える。

「ビジョンは伝染性である。見当違いのビジョンすら、たとえばヒットラーのビジョンがそうであったように人々を引きずっていくものなのだ」

ここでいうビジョンとは「する価値のあることが存在することは間違いないが、私だけが提供できる独自の部分もあるはずなのだ」ということである。彼には限られた知識や、大間違いのロジックで組み上げられたものではあるが、そうしたビジョンが存在した。彼がした行動が彼自身の富等の追求にあったものでないことはよく知られている。つまり彼は「無私」で「人類の為、ドイツの為の」を考えたビジョンによって行動する人だったのだ。

そしてそれは驚異的な大衆の支持をとりつけた、ということなのである。その結果は恐ろしいものだった。彼は戦争において勝利を得ることができないことが明白になった後も、自分のビジョン達成-東方への生活圏獲得、というビジョンは実現不可能になったが、もうひとつのビジョンはまだ達成の見込みがあった-に邁進していた。

そして彼の死後、彼が持っていたビジョンは全く逆の方向として実現することになる。ユダヤ人はとうとう自分たちの国を持つことになったのだ。そして彼のビジョンに引きずられてしまった人たちはとんでもない負債をかかえることになった。彼がこのことを知ったら、などという設問は無意味だ。彼は死んでしまったのだから。

彼は死ぬまで自分のビジョンに忠実だった。そしてそれは神の意図に沿うものだと信じていた。普通であれば「死ぬまでゆるがない信念をもっていた幸せな人間」とされるところかもしれない。実際そうした人は幸せそうだ。しかしこの場合はそういうわけにはいかない。

 

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注釈

曹操:(トピック一覧)三国志の主人公の一人。最強力でありながら、中国を統一しそこねた魏の太祖。本文に戻る

 

三国志武帝紀:ここの記述は列伝選によった。(参考文献一覧へ本文に戻る

 

そこに再び反乱が起こり:余談だが、武帝紀の本文の記述と「原注:魏武故事」では若干食い違いがあるように思える。「原注:魏武故事」では「(隠遁生活を送っていたが)それも意のごとくならず、後、召されて都尉となり、典軍校尉に昇進した」とあり、隠遁生活は都尉になる前にあったことになっている。どちらが正しいか私には判断がつかないが、ここは本文の記述に従った。本文に戻る

 

原注:魏武故事:ここの訳文は「正史 三国志」(参考文献一覧)によった 本文に戻る

 

「治世」において「能吏」:この件に関するもっとながったらしい考察は「マキアヴェッリと私」にある。本文に戻る

 

失敗から学ぶこと、というのは大変難しい:(トピック一覧)私にもこのことができることを本文に戻る

ある本:スーパーエンジニアへの道(参考文献参照)に記載されている。本文に戻る