題名:私のMacintosh

Duo280c-part3

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日付:1999/2/11


Duo280C-part3

さてこのころから世間ではインターネットなるものがだんだんと有名になりつつあった。我々が留学から帰ってきて「インターネットの利点」をさかんに説いていてから4年しかたっていないが何があったのか?

一番大きな変化はWWWの普及である。それまでの私にとってのインターネットとはメールであり、ニュースグループであり、FTPでアクセスできるアーカイブであり、といったところだった。これだけでは普通の人がインターネットを使おうとは思うまい。しかしWWWの普及とともに情勢は急激に変わった。

さてうちの父は結構新しい物が好きである(私にも幾分遺伝しているかも知れない)そしてどこから吹き込まれたかしらないが、「インターネットをやってみたい。金はだすからセットアップしろ」という命令が下ったのである。

私はそれまで自分では接続をしていなかった。当時からNiftyはインターネット接続サービスを始めていたから、やろうと思えばできたのであるが。なんといっても高いし(当時は確かNiftyは時間制の料金のままだったのではないか)私は流行と言われるものに対してちょっと斜めにかまえてしまうタイプの人間なのである。

とは言っていても父の希望とあればがんばってかなえねばならない。当時Niftyで所属していたPatioとよばれる内輪の会議室でこの話題を持ち出したところ、さっそく山のような返答が帰ってきた。聞けばだいたいどこの店でもインターネット接続セットとかいって、Performaとモデム、それにブラウザ(Netscape navigator2.0だった)をセットにして売っているとのこと。あまり何も考えずにそれを買ってくれば話は簡単にすみそうである。PPPの設定に関してもあちこちで、「こうやれば一発接続」という体験談がアップされているから、その通りやればまあ問題はなかろう。

さて、父が使うということもあり、Performaを買うことにしていた。セットアップも維持も簡単だから、こちらのほうがよかろう。選択肢は二つ。ディスプレイと別置き型の6210かディスプレイと一体型の5XXXである。(型番をちゃんと覚えていない)当時一番の決め手になったのは、ディスプレイ別置きのほうが、あとで大きなディスプレイを使いたい、とか言ったときに便利だろう、ということだった。何と言っても父が使うのだから、あまり細かい字で表示するのは考え物だ。とはいっても結局今に至るまでこのディスプレイを大型のものに交換しよう、という考えはおきていないのだが。

さて例によって例のごとく大須に行くと、なるほどインターネット接続キットと一緒にPerformaを売っている。さっそく買い込んで家に持ち帰りセットアップを始めた。今からちょうど3年前、1996年2月12日のことである。セットアップが簡単が売り物のPerformaだから何も苦労はしなかった。ただしインターネットの接続は、プロバイダから申し込みOKの情報がとどくまでできない。思えばしばらくこのコンピュータは父の遊び道具として私の実家の居間に鎮座していたのではないか。

さて待ちに待ったその情報が届きIDやらパスワードが届いたのは3月にはいってからであった。理論的には簡単につながるはずのインターネットなのだが、いろいろと問題がおきる。やれ接続するポートを間違えていた(プリンタポートとモデムポートだ)とか、やれスクリプトがおかしいだの(loginがどうのこうの、というスクリプトの設定が必要だったのである)。やはりこれは「必勝方法」がNiftyにアップされるくらいだから一筋縄ではいかないか。。。などとあれこれやっているうちに見事つながった。

最初にどこのページを見たかは覚えていない。しかしあるボタンを押したときに英語のサイトに飛んだことはちゃんと覚えている。URLを見れば、確かに米国のサイトだ。これこそがインターネットの偉大なところだ。いざプロバイダまでつないでしまえばそこからは米国のサイトだろうがブラジルのサイトだろうがなんでもありである。私はしばらく時間がすぎるのも忘れて遊んでいた。3月10日、33歳の誕生日の2日前である。この日父は家にいなかったから、私はメモを残した。その文句は「インターネット接続に成功しました。めちゃくちゃおもしろいです。大坪家の電話代が心配です」と書いてあったことは覚えている。

もう一つこのPerformaを使っていて驚いたのはその早さであった。このPerformaのCPUは603@75Mhzである。いまこの機械をつかうとのその遅さは筆舌に尽くしがたいほどだが、当時使っていたDuo280とくらべるとなんとなくテキパキ動くきがしたのである。603というのはノートに搭載が見送られたことからもわかるとおりあまり速度を重視したCPUではないし、実際速度面ではほとんど評価されたことがなかった。しかしPowerPCの力を侮ってはいけない。このころから68040は内部でクロックを倍にしているとかいう理由からやたらと68040@66MHzとAppleは書くようになったが、それを勘定にいれても603@75MHzはあなどれない早さをもっているではないか。考えてみればこの経験も私がDuoに見切りをつけることに一役かっていたのかもしれない。

さてその翌日理由は不明だが私はまた大須をふらふらしていた。そしてあるMacintoshの店でCyberDogのデモビデオを見て目がつぶれそうになった。当時からOpenDocなる技術をAppleが開発していることは広く知られていたのだが、CyberDog はその基盤上でメーラー、ブラウザなどを実現するものだった。そのデモビデオをみて私は目がつぶれるような思いをした。こんなに感動したのはいつかのMacWorldでQuicktimeのデモをみてからのこと、という気がする。普通のドキュメントにインターネットと連動したページを張り込むことができるのだ。インターネット上に流れる様々な情報を一ページのドキュメントにまとめることなど自由自在だ。この技術はどのような可能性をもたらしてくれるのだろう?私は当時とても期待したことを覚えている。たとえば個人のメモ帳のようなものを作って、そこに自由に書き込みもできる。時刻表のページを開ければそこにはインターネット経由で常にアップデートされる情報が、なんてことができそうではないか。従ってそれからしばらくの後にOpenDocが開発中止になり、それと共にCyberDogもアップデートされなくなったときは大変悲しかったものである。

 

さて転勤して半年たった4月に私は主任になった。実はこの前後私は試験機の設置で長崎に行っていた。私はこうした大工作業とかそういうものが下手なことに関しては自信がある。なのに私は屋根の上にのぼって大工さんに怒られながら設置作業におおわらわだった。その時私の上司だった主任から私の同僚に来た電話というのが開口一番「おい、大坪君が主任になるぞ」だったそうだ。○○重工ではできの良い人間は一年前に主任になっている。よほどのどじを踏まない限り、同じ学齢で大卒の人間はこの年になれば主任になる。では何故私の上司はそれほど驚いたか?

答えは簡単で「私は”よほどのどじ”だった」のである。私が転勤してきたときに私の上司は私の成績係数を見て驚いたらしい。これではよほどのことが無い限り来年主任になるなんてのは無理だ。。。と思ったらしいのである。そしてそれが前の事業所の私に対する評価でもあったわけだ。なるほど。前の事業所を抜け出してきた判断はあまり意味のないことではなかったのか。みんながどんなにがんばっても、どれほど私からみて見事な働きをしたとしても、結局評価は「よほどのどじ」なわけだ。

さて主任になると、この事業所では強制的に机の上にMacintoshをおかれてしまう。私は最初「自分のを使うからソフトだけインストールしてくれればいいよ」と言ったのだが、そういう事は一切受け付けてもらえないようだ。私の机の上にはスケジューラーとメール用のPB190とDuo280が並んで置かれることになった。このPB190というのは、大変期待されて登場し、かつすぐに非常な失望を買ったPB5300と同じ筐体に何故かこの時期に68040をつっこんだ変わった機種であった。正直言って「何故いまさら68KのCPUをつんだ機種を出すのか」と誰もが不思議に思ったのではないだろうか。そしてこのPB5300というのもPowerPC搭載とはいいながら、少しも早くなく、おまけに故障続きで大変多くの人間の失望を買ったものである。そしてPowerBookのPowerPC化はそれからしばらくしてからPB1400が発売されるまで持ち越されることになる。さて私の方としても今更PB190など使う気もしない。第一白黒だし(○○重工が支給するものは常に一番安い機種だ)Duoより画期的に画面が広い訳じゃないし、環境を移すのも面倒だし、というわけでPB190は一応立ち上げてはあるが、ほとんどの場合単に電力を消費するだけの存在となっていた。

さてそんなある日、5月29日のことだが私の実家に友達のMr.KがPB100を取りに来た。この事についてはちょっと説明を加えなくてはならない。Duo280が完全に稼働し始めてからというもの、PB100は全く使用されることがなくなっていたのである。大変よく働いてくれたコンピューターだったが、同じ様な携帯性を持ち、Duo280のほうがはるかに性能が高い、ということになればPB100は出番がない。さて何かの機会に私はMr.Kにその話をして、Mr.Kが「それほしい」と言った。そして私は「よし。君にあげよう」と言った、といったところなのではないだろうか。

実はこのころPB100はある問題に直面していたのである。私はいつも出勤する前にニフティにアクセスをする。冬の間などはまだ外が真っ暗でとても寒い時間だ。そうすると何故かしらねど彼はお亡くなりになるのである。彼から来た「早くPB100とモデムをくれ」という問い合わせに対して当時の私は「PB100はとりあえずReadyだ。なぜ「とりあえず」かというと、通信するときに40%くらいの確率で再起動が必要となるからだ」と答えている。何がわるかったのかは未だに解らない。ただしこの症状は回りが暖かくなるにつれて緩和されたところを見ると、何かの機械的な部品の故障だったのではなかろうか。

さてなんだかんだと交渉の後に、彼にPB100を引き渡す日取りが決まった。会社が終わった後に私のアパートに彼はコンピューターを取りに来た。もう結構暑くなっていた時期だったから私はTシャツに短パンで彼をでむかえた。そうすると彼が言うのは「大坪さんふとったねえ」だそうである。実際私は見事な中年体型になっていたのだが。

そこで彼は「Niftyのつなぎかたを教えてよ」と言った。彼はこれからNiftyにはいってメールなんぞを使いたいらしいのである。私はいいよ、と言ったが、適当な場所といえば自分の部屋しか思いつかない。しかしあの雑然とした埃のかたまりである自分の部屋に人をあげるのは。。。私は彼に十分な警告を与えたが、彼はそれでもいいという。しょうがないから自分の部屋でひとしきりNiftyに接続するソフトの設定などを教えた。彼は礼を言って去っていった。例によって長年使ったコンピュータとのお別れは大変あっけないものである。彼にはPB100関係の備品はいっさいがっさいゆずりわたしたが、外付けフロッピーだけは別である。これはDuo280にも必要なのである。このあと彼がNiftyにはいってメールでもおくってくれないかと待っていたが、それは大分後になってからのことになった。

さてこのPB100を譲り渡すときの交渉で、彼は「いつ電話してもいない。あの留守電を聞くとメッセージを入れる気がなくなって受話器をおいてしまう」と最初ぼやいていた。何時に電話してるんだ?と聞くと午後7時だという。私はこう答えた

「私は毎日やることを探すのに苦労するくらい暇だが7時ははやすぎだ。というか今の職場では月に12時間残業をせねばならんし、私の上司は”仕事をする=残業をする”という見事な信念の持ち主なのだよ」

前述したがこのころは私はゴミ捨てくらいしかやることはなかった。従って毎日定時の5時どころか、帰ろうと思えば3時にでもかえれたのである。しかし課の一員として私には予定通り残業時間を消化する任務があった。月12時間残業しようと思えば毎日6時くらいまでは机にいる必要がある。やることは何もないのだから、私の残業時間など本当に働いている人にあげてほしい、と思ったが例によってそういうことはできないのである。

おまけに課長は前述した信念の持ち主だ。口では「残業や、休日出勤をしてはだめだ」と言う人であったが、人間いくら厚く化粧をしていても素顔は隠せないものである。その後のことであるが、彼が別の課の課長になったときに部下に説教したセリフというのが「君は真面目に仕事をするきがあるのか。私が君くらいの時は2晩続けて徹夜したぞ」だそうである。

ここに面白い事実がある。この職場に一人、精神的にちょっとまいってしまって仕事ができなくなってしまった男がいた。多分鬱病か何かなのだと思う。そのうち会社にもなかなかでてこなくなった。親愛なる課長はこの男がまれに会社にでてきたときに「おい。○○。こっちにこい!」と怒鳴りつけて席に呼びつけ、しばらくの間怒鳴り声で説教していた。(彼にとっては鬱病というのは、単にやる気がない、というだけのことらしい)そしてその男の直接の上司に「彼に残業、休日出勤。どんどんやらせてちょー」(課長は名古屋弁でしゃべるのだ)とわめいていた。

さて私が入ったときの部長も同じく鬱病で出社ができなくなった人に、肩をたたきながら「おい。俺だって会社に来たくないことがあるんだから、元気をだして会社にこにゃならんぞ」と説教をしていたらしい。社内報の「メンタルヘルス」の欄を読むと、この二人がしたことは、鬱病の相手に「最もしてはいけないこと」だったのだが。その後部長は出世して所長になり、取締役になり、そして課長もおそらくどう間違えても部長にはなるだろう。会社というのはそういうところである。鬱病なんてのは気合いがはいっていないだけのことだ。活を入れてやればたちまち回復だ。そう信じる人間が出世をしていく。

 さてこのプロジェクトは半年に一度くらい全体の報告会をやる。私は誰がどうみても売れない製品の捕らぬ狸の売り上げ計画ばかりつくっていて完全にあほらしくなってしまった。課長は紫外線と言われるくらいで、一度概念が頭に焼き付けられるとROMのごとく紫外線でも当てない限り何を言おうが、どんな事実をつきつけようがその概念から逃れられない人である。従って彼と会話するのは実に無意味だった。私は「何か他の仕事はありませんか?」と聞いた。彼にとっても「何言ってんだ。この○○」と顔に書いてある部下はさっさとどこかに飛ばしたい気持ちだっただろう。(実際ここに転属してすぐ「長崎に半年ばかりいかないか。あるいはどっかの研究室でも行って論文でもかいてこないか」と言われたものである。そんなに必要なければ公募で採用しなければよかったものを)

さて私は部長と話をすることになった。彼は「では考えよう」と言った。そしてその後音沙汰がなくなった。まあ上司の言うことなどこういうものだ。

 

さて1997年になった。さて年明けの初日には、この事業所では宗教的な行事が行われる。「安全のための気合い一発」というやつである。工場の一角に全社員が集合させられる。そこで前にははちまきを締めた幹部の方、それに相対して社員が整列させられる。そして腰をかがめて「俺がやらねば誰がやるー。やるぞーやるぞーやるぞー」という台詞とともに拳を前に突き上げるのである。これをやるとその年一年工場内の災害がへる、という霊験あらたかな行事だ。去年私はこれに参加させていただいて大変楽しい思いをした。

実際のところ叫んでいるのは前のほうの10人くらいだけで、あとはみんな腰をかがめてだまっているだけである。あまりのノリの悪さにもう今年はやらないだろう、と思っていたらまたやるという。私は年始の初日は休暇をとることにした。

さてひさしぶりに出勤してみれば、課長が部長のところに行こう、という。そこで私は「カーエアコンをやるように。これは業務命令だから」と言われた。実のところその事業所でやっていた製品のうち、カーエアコンとは一番やりたくない製品だったのだが、業務命令と言うことは「いやなら辞めろ」ということである。なるほどね。

さてここからの事情は別の文章にゆずるとして、簡単に言うと、今まで○○自動車としかカーエアコンの取引はしていなかったが、これから米国GM社に売り込もうとしたらしい。その意気は大変すばらしいのだが、英語が話せるエンジニアがいない。ではゴミ捨てをして英語がしゃべれる大坪君、あちらにいきたまえ、ということらしかった。

 

さてこの話については別の文章で書くことにしよう。とにかく私は2月の8日には「米国に行くように」と言われ、その3日後には苦虫をかみつぶしたような顔をして極寒のデトロイト空港にたっていたのである。それまでの一月も睡眠時間が確保できないような状況だったし、3日でこの先何ヶ月になるかわからない米国出張に行くのはあまり簡単な事とはいえない。私は大わらわで荷造りをした。そして大切なDuo280cも持っていくことにしたのである。これ無しでは日本とのメールのやりとりも、仕事もできないから当然の判断だ。問題は持って行き方にあった。

コンピューターは「絶対」手荷物として持ち運ばなくてはいけない、というのは飛行機に乗る際の鉄則である。なのに私はなにを考えたのか、ジュラルミン性のアタッシュケースの中にDuoを入れ、そしてそのアタッシュケースをスーツケースの中に詰め込んで荷物としてあづけてしまった。未だに自分がなにを考えていたのかわからない。この事業所に転勤してからというもの、窓際になってみたり、あるいは米国にとばされてみたりとろくでもないことが続いて頭にきていたのかもしれない。とにかく私はホテルに着くとおそるおそるアタッシュケースをあけてみた。(そんなにおそるおそる開けるくらいなら最初から手荷物として持っていけばいいものを)

外観は特に問題なさそうである。さてふたを開けてみると、、、液晶が見事に割れている。なるほど確かにちゃんと「手荷物にしなさい」とは言ったものだ。今後おそらく2度と私がコンピュータを預けることはないだろう。これは貴重な教訓と言うべきだ。しかし問題なのは目の前のコンピュータである。覆水盆に返らず、割れた液晶は元に戻らず。どうしたものだろう?

さて液晶はわれているが、文字は何とか判別できる。ホテルのモジュラージャックにつっこんで、あれこれ設定をいじくったあげく、私はCompuserveのアクセスポイント経由でNiftyにアクセスすることに成功した。思えば遠くスタンフォードにいたときも同じような手段で父とメールのやりとりをしていたものだ。あのときは全部手動で、7bit Parity Evenと8bit non parityの切替などしていたものだが。今回さすがにそれを手動でやるのはいやだったので、出発前のあわただしい時間のなかで、一応米国からのアクセス方法だけはNiftyserve上で調査して、設定はしておいたのである。(もっともこれが動くかどうかは米国につくまでわからなかったが)ホテルからのアクセスだから、頭に外線発信の0をつけなくてはいけない、とかあれこれの試行錯誤の上に(割れた液晶でこれをやるのはちょっとした運も必要とされたが)なんとか接続に成功した。

してみると何通がメールが来ている。なんとか文字は判別できるが、細かいところはわからない。どうやらこのコンピュータは修理にださなくてはならないようだ。

 

さて米国について最初のミーティングだけはやったものの、結局次の週まで場所がないからくるな、という。しょうがないから4名で(私と同じ時に米国に放り込まれたのは4人だった)あちこち回っていた。私はその間を縫ってYellow PageでMacintoshの修理屋を探していた。このデトロイトにもありがたいことにMacintoshの修理をやっている店は何軒かある。さて電話をかけて修理をうけおってくれるかどうか確かめねばならんのだが、ここに問題が一つあった。私は過去5年間英語をほとんど使っていなかったのである。

という話を詳しく書き出すと、また他の文章のネタになってしまうから書かない。とにかく冷や汗をかきながら電話した最初の店では「ちょっと待て」と言った後、しばらーくたってから「その修理はAppleに送らないとできない。だからうちでは扱えない」と言った。私はThank you と言ったが、そういわれたところでどうやってこのコンピューターをAppleに送ればいいのか見当もつかない。だいたい下手な包装などすると、今度は半端じゃなく壊れてしまうかもしれないじゃないか。

もう一軒のコンピュータ屋に電話をすると、だいたい同じ事を言う。ここでまた「Sorry,うちではあつかえないよ」と言われる前に、こう切り出した。「わかった。でも正直言ってどうやってAppleに送ったらいいかわからないんだ。そちらに持って行くからそこからAppleに送ってもらうわけにはいかないかな」

すると相手は「いいよ。持っておいで」と言った。

 

さてこれでほっとしたのもつかの間、このコンピュータ屋を探すのは並大抵の苦労ではなかった。とまたもや別の文章のネタにはいってしまいそうになるので、深くは述べないが、この修理代は米$で約$1500,日本円にして約20万円はしたのである。当時はとにかくコンピュータを使えることにすることが最優先で、この値段の重みには全く気が付かなかったが今にして思えば、とんでもない高い授業料を払ったものだ。

さて首尾良くこのコンピュータが使えるようになると、こちらとして大変助かる。事務所はGMのなかにあり、コンピューターの類の持ち込みは大変厳しく制限されているからそこに持って行くわけにはいかない。しかし基本的には定時退社だから家に帰ってからの時間はたっぷりある。ところが外はまたまだとても寒いから(5月の母の日に雪が降るような気候なのだ)外に遊びに行くわけにはいかない。しょうがないから家に閉じこもってインターネットとNiftyばかりやることになる。

さてこのインターネットであるが、最初は何ヶ月いるか全く予想がつかない状態だったので、地元のプロバイダにはいることは全く考えなかった。ではどうやって接続したかというと、Compuserve経由で接続したのである。この手順をさぐりあてるまでにはあちらの会議室に行き、こちらの会議室に行き大変苦労をした。さていったんつながってしまうと結構あちこちを見たくなる。そしてついつい長い時間ネットサーフィンをやってしまうことになる。米国はよく知られているように、一定距離内のローカルコールは只だから、それこそ電話料金を気にせずに接続ができる。しかしCompuserveのほうはそうはいかない。こちらは(私が間抜けな設定をやったせいなのかどうか知らないが)時間制の料金なのである。3ヶ月がすぎ、ビザ更新のために一時帰国した私はCompuserveの料金を見て仰天することになった。しかしよくよく考えてみれば日本で電話料金+プロバイダ料金を払ったのより、ちょっと高い程度だったのだが。

さてこの米国の電話であるが、ローカルコールがただだ、ということでいいことばかりとは言えない。私のモデムが(Duo内蔵の14.4kbpsだが)わるいのかなんだか知らないが、一般的に電話回線の品質は日本のものよりはるかに悪く、いきなり切断されてしまうことが何度もあった。こちらとしてはそのたびにつなぎ直しである。このときばかりは日本の電話の品質が懐かしかった。しかし日本に戻ってしばらくすると今度は米国の電話の「ローカルコールただ」という利点ばかり思い出すことになるのだが。人間の心理とはこうしたものであろう。

 

さてこの時期のデトロイトは連日雪かみぞれがふり、とても寒い。ようやく緑が見え始めるのは5月の中ばごろからである。そして私のお先も真っ暗であった。

このまま受注が成功してしまえば(6月13日にその決定がなされるはずであった)私が有無をいわせず米国駐在になってしまうのは火を見るよりもあきらかだ。そうするとそのまま自動的に私は一生カーエアコンを作ってくらすことになる。この事業所で一番やりたくなかったカーエアコンをだ。おまけに私は34になっていた。最初に駐在の期限がどれだけと切られるかしらないが(実際は3年半だった)その期限がすぎても帰れないことだけは確かである。実際私の前に駐在になった人間は3年といいながら、もう5年も駐在しているのだ。おまけに延期の理由がいつも「代わりがいない」なのだが、かといって代わりを育てる気も毛頭ないようだ。これは本当に技術者が不足していたためではない。実際それから新しいプロジェクトがたちあがるたびに、どこからともなく米国にとばされる人間がわいてきたのである。要するに「英語がしゃべれるやつは、すり切れるまで使おう」というまことに現実的な考え方の現れであった。

つまりこのまま黙っていればこの極寒のデトロイトに私は40になるまで幽閉されること確実、という状況だったのである。この状況で心楽しく暮らせるわけがない。仕事は例によって一緒に働いている仲間はいい仕事をしたのだが、日本からのファックスをみるたびに私の血圧は200を越える毎日である。

さてこの状況で、日本とのネットワークを通じた通信というのはなによりもありがたかった。Niftyserveの中にはPatioという私設の会議室のようなものがある。インターネットの掲示板とにたようなものだが、こちらのほうが自動で新しい発言をとってこれて、オフで返答がかけるところが便利である。Newsgroupのほうにより近いだろうか。私はほとんどそのPatioに文章を書く鬼と化した。そのPatioで、インターネットのチャットをやっていると、海外駐在員の奥様がよく出没する、という話がかたられたことがあった。さもありなん。毎日英語の環境で暮らしていると日本語でしゃべったり筆談することがなによりも懐かしくなるのである。以前Stanfordにいたときはやたら日本に国際電話をかけて、月の電話代が$100を切ったことがなかったものだが、今の時代はインターネットという便利なものが普及している。これがあれば、問題も解消だ。この滞在中DuoとNiftyserve,インターネットがなかったら私はとうの昔に発狂していたかもしれない。

 

さて、そうやって危うく精神の平衡を保ちながら季節は夏へと移り変わっていった。そして運命の6月13日がやってきたのである。

 

この少し前から我々の作業場は、GMの内部からGMの関連会社とでも言うべきMegatechに移っていた。このMegatehというのは、早い話がGMの設計とか模型の制作の一部を請け負っている会社なのである。仕事はGMと同じ事をやっているのだが、Securityのチェックはずっとゆるやかだ。そこの一角に真っ暗な洞窟のようなスペースをあてがわれ、我々はそこで働いていた。なぜ真っ暗か?こちらの人間は本質的に日の光を嫌うのではないかと思うことがある。特にCADを使うスペースというのは、信じられないほど暗い。彼らの弁によるとディスプレイへの写り込みを嫌う、ということらしいが、とにかくその暗さは異常だ。そしてその暗い場所で我々は日長何かをしていた。あまり大きな声ではいえないが、私はDuoを持ち込んでメールを書いたり、Patioへの文章を書いていたりもした。だって暇な時だってあるんだもん。そしてさらにあまり大きな声ではいえないが、Megatechからネットに接続していたことも何度かあったのである。表向きは関連情報をチェックするとかなんとかだったが、実はメールを送受信したり、Patioに書き込みをしたりしていたのである。

さて6月13日、私はGMの本社があるであろうダウンタウンの方向を向いて、こうお祈りを捧げていた。

「天にましますGMの神様。どうぞ我々に日々の仕事をお与えにならないでください」

洞窟に3人がそろい、何かを始めた。他の人間はどうだったか知らないが、私はきもそぞろでなにも手に着かない状況である。最終決定をする会議は朝から行われるという。なぜ結果の連絡がこないのだろう。じりじり結果をまつ間に昼になった。私はもうひとりとごはんを食べに言った。ここは通路に食べ物がおいてあって、適当にとって食べるタイプの食堂がある。とはいっても通路にあるやつだからろくな食い物があるわけでもない。ふたりで外においてあるいすと机でそれを食べた。デトロイトでこれができる時期は一年のうちの4週間くらいではないか。

食事が終わり部屋にもどった。そこに電話がなった。最初は元々一緒にデトロイトに来たメンバーだがその後Los Angelsに行った男から。次は米国人のManagerからであった。○○重工はCongratulations!の言葉を受け取ってしまったらしい。わたしにはその言葉は「真珠湾奇襲成功おめでとう」という言葉のように響いたが。私は前途に暗澹たる未来を想像して暗い顔をしていたが、回りの人達は「受注おめでとう」とか「これだけしかとれなかったが、まあ上出来だ」とか騒いでいる。私の目にからみると彼らのように単純に現実を忘れて喜べる性格というのはとてもうらやましく思える。そして私のこれからの進路もこの時決まった。

それからのことは詳しくここでは書かない。いずれにせよ私は12月5日にこの場所を離れることになった。それまでの期間は、特に10月頃からGMとの仲があまりうまくいかなくなってからは、毎日「誰がへまをしたんだ。絶対おれではないぞ」と唱えるような状況だった。さて仕事の話は暗くなるから書かない。この季節は私が愛するFootballの季節でもあるのである。週末は気候がゆるせばドライブにでかけ、許さなければ(許してもだが)部屋でFootballを見る、という週末に限っては夢のような生活が続いたのである。もっとも仕事のストレスの蓄積はそれすらもそのうち許さなくなったが。

さてMacintoshの話しに戻ろう。8月から長期滞在が確実となったので、地元のプロバイダと契約した。月$20である。時間は無制限。これで名実共に「月$20でインターネット使いたい放題」になったわけだ。日本でもプロバイダにこういう売り文句は踊っているが、米国では電話料金込みである。

9月の初めに私は1週間帰国した。これはもともと人事課から米国駐在の手続きで必要だと言われて帰ったものだが。帰りには私は28.8kbpsのモデムを持参していた。これはこの前の年の11月に、いきなり思い立って買ったものである。私が愛するStanfordは、毎年シーズン最後には不倶戴天の敵、C○Lと試合をする。その様子はごくまれにTVで放映されるが、放映されないことも多い。日本に於いてそれを見ることなどまず不可能と思って良い。ところがインターネットというのはありがたいもので、ラジオであればほとんどの試合の様子を聞くことができるのである。

Real Audioとかなんとかそういうアプリケーションを使うと聞けるのだが、一つだけ問題があった。14.4kbpsでは音がとぎれたり、おなくなりになったりと非常に不安定だったのだ。いいところで「ぶちっ」などと切れた日にはそのストレスは耐え難いものがある。The BIG GAMEの前日(日本では土曜日だ)こんなことをつらつら考えていた私はいきなりコンピュータ屋に走った。愛するStanfordが憎きC○Lをたたきのめすところを聞くためには(試合が始まっていないのになぜこんなことがわかるか?これは定義によって決まっているのである)モデムの代金など(2-3万だっただろうか)ゴミのようなものである。

さて試合はめでたくStanfordの勝利に終わった。当時私が働いていた事業所は太陽が西から昇って北に沈むような常識を持つ場所だったが、幸いにしてCaliforniaでは世の中の理はしかるべきようになっていたようである。それから一年後、私はDuoの内蔵モデムの性能にまたもやフラストレーションを感じるようになっていたのである。娯楽の少ないデトロイトではインターネットくらいしかやることがない。私はそれからの数ヶ月28.8kbpsモデムのおかげで「大坪のところはいつかけても話し中だ」と呼ばれるような生活をおくることになったのである。

 

さて、この年のThe BIG GAMEは生で観戦することができた。Californiaはまだシャツ一枚でFootbalを見ることができる気候なのである。そこからDetroitにかえれば、また雪と氷の世界だ。そこからThanks Givingの連休もあったから、実質何日も働いたわけではないのだが、その期間は永遠と思われるほど長かった。試作器を納めれば性能が8割も出ない。現地で調べられることは調べたが原因はわからない。GMからはがんがん文句を言われる。日本に対策の立案を依頼しても何も返答がない。私はGMに対して世の中に存在すると思われるありとあらゆる言い訳を使ったが、もうそれもネタ切れだ。日本からたまにファックスがきたと思うと、およそ自分の責任を解さないとしか思えないような恥知らずな内容だ。

いつか私に楽しい連絡票を送ってくれた開発GrのGr長は、人手がたりなくなり、GMのプロジェクトに回ってきた。しかし彼は気の毒なほど役にたたなかった。開発Gr長の時には大変堂々とした態度でいろいろなことを得意げに話していたものだが、端から見ればその姿は痛々しいかも知れないが、私はそれに同情することはできない立場にあった。最前線でGMの攻撃を受けているのは結局私なのだ。

最後はあとでなくてはいけない会議を円グラフにして塗りつぶしていくような日々だった。期待したほど早くはなく、絶望するほど遅くはなく。いつしかその円グラフは全て塗りつぶされた。その晩見た映画はAnastasiaだった。私はその映画をみながら、昨日までありとあらゆる頭痛のねただったことが少しずつ頭から消えていくのを感じていた。仕事は失ったが私はようやく自由の身になれた。とにかく日本に帰って休もう。

 

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注釈

Anastasia:(参考文献へ)この映画の最後に"This is the perfect beginning"というセリフがある。その言葉は当時の私にとても深く響いた。本文に戻る