題名:私のMacintosh

2400c

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日付:1999/2/1


2400c-Part1

さて私は米国からDuo280cと共に帰国した。実際このコンピュータは米国を発つ最後の最後まで使用した機器であった。しかしながら私はこのDuoを日本で既に5月に発売されていたコードネームCometことPowerBook2400Cに買い換えようと決心していたのである。

いままでは実用上支障が出ない限りは買い換えなかった。今回に関して言えば、Duoにそれほど不満があったわけではない。多少遅さを感じるようになっては来ていたが、実用上は問題ない。私が主に使用するアプリケーションはClaris Works, Hyper Cardなのだ。この二つに関して言えば、それこそPB100を使っていた時以来実に快調に動いてくれる。動かないアプリケーション-Power PC Required-が増えてきたのは気がかりだがまだ大多数はちゃんと動く。

やはり失業して暇になったから、というのが一番大きな理由だろう。コンピュータを買い換えて環境を写したりするのは結構な仕事である。なぜか知らないが一日仕事になってしまう。仕事が忙しい状態ではとてもそんなことをするわけにはいかない。

おまけにもう一つ。失業祝いという意味もあったかもしれない。言葉が適当かどうかわからないが、とにかくあの忌まわしいDetroitから抜け出して自由の身になれたのである。米国を去る際に「これからどうするんだ?」と聞かれる度に「いや一週間寝てから考えますよ」と答えていた。先の事を考える気も起こらないほどDetroitでのストレスは強烈だったのだ。

そのストレスのたまる生活ももう過去の物となった。職は失ったがご機嫌になったのだからちょっとは買い物でもしてみようではないか。

そう思った私は12月の11日に大須にいって、数件Macintoshを扱っている店を回ったあげく、PB2400Cをメモリを80MBに増設して購入した。未だに「メモリは必ず最大限に増設すること」という原則は生きている。おうちにかえるとさっそくセットアップを始めた。とはいっても大抵のものはインストールされているから、必要なのはDuo280Cから作成した書類などを移動させることなのだが。いつもこの作業は2台のMacintoshをLocaltalkで接続して行う。このときばかりではないがLocaltalkを標準としてくれた人に感謝の雨霰である。遅いといわれようがなんと言われようが標準でネットワーク機能を搭載しているのと搭載していないのでは全く状況は違う。

Macintoshと合わせてカードモデムも購入した。TDKの56k対応の奴である。最初はLANカードと一体になった奴を買おうかと大分考えたのであるが、まあしばらくLANが使える環境にはいないだろうし、もし会社に入ったとしても勝手にMacintoshをつないでいいかどうかは定かではない。このモデムのセットアップほどWindowsとの差異を実感したことはない。米国幽閉中に○○重工業が供給してくれたパソコンはIBMのThinkpadであった。どこまでも杓子定規に供給をする○○重工は会社では必要であるが、当面(少なくとも私がいた間は)必要のないLANカードをつけてくれた。となれば皆が電子メールなどに必要なモデムカードは自分で買ってセットアップしなければならないわけだ。

私がいる間はこういうセットアップの類は私がやっていた。Windows95が発表されたときは「これでWindowsのセットアップのMacintosh並の容易さに」と言われたもので、当時の私は「ふーん。Macintoshのモデムカードのセットアップこれくらい面倒なのだろうか」などと思っていた。

ところが今回PB2400cにモデムカードをセットアップしてそのWindows95の宣伝文句が「大嘘」であることを発見した。Windowsにモデムをセットアップするときは、一応ウィザードがサポートしてくれるが10分以上かかった。Macintoshの場合は基本的にファイルを一つコピーして、差し込めばはい終わりである。新しいモデムはたちまちのうちに使用可能になった。

他の機器-たとえばCD-ROMとか-のセットアップの時にも痛感したことだが、Windows95がPlug-and -Playを実現したなどというのは、Macintoshユーザーの目から見れば大嘘である。システムに最初から付属している機器以外のものを二つ以上インストールしようとすると必ずシステムの細かい分けの分からない番号を目にすることになる。私の「Privateでは絶対Windowsなんて使うもんか」という信念がより強固になったのは言うまでもない。

しかし、、、一体いつになったらWindowsはもっとセットアップが楽になるのだろうか。それともMicrosoftはそれをやる気がないのだろうか。。Windows98は95のバグフィックス版とでも言うべき物で機能的な進歩はなかった。次に起こることもNTとの融合で、ユーザー側にとっての大きな進歩はないだろう。

さてあっさりとモデムをインストールし、あれこれ設定をいじり回して(モデムポートの変更くらいはしなくてはならない)インターネットに接続してみるとこれが素敵に早い。この早さは今までDuoの内蔵モデム(14.4kbpsである)から33kbpsにスピードが向上したことによるものだけではないようだ。Duo280cの時にはNetscapeNavigator3.0を立ち上げるのはほとんど永遠とも思えるほど時間がかかったのだが、これが瞬く間に立ち上がる。確かにDuoだけ使っている時にはスピードに関する不満はなかったものの、こうしてPowerPC@180MHzに触れてみると68040@33MHzとは雲泥の差がある。私は基本的にスピードは速ければ早いほど良いと思っている。作業効率云々よりもとにかく操作が快適になるからだ。コンピュータがこちらの思った通りきびきびと動いてくれるのは全く気分がいいものだ。

さて私がご機嫌になった要素がもう一つあった。画面が広くなったことに加え、32000色での表示が可能となったことである。広い画面はほとんどそれに比例する以上の割合で作業を快適にしてくれるし、Duoで32000色の表示を行おうと思えば640×400にまで画面を縮めなくてはいけなかったのが夢のようだ。実写の画像ファイルを見ようと思えば256色と32000色の間には深くて長い溝がある。何の画像ファイルかって?オフとかの写真に決まってるじゃないですか。

さて早さに感激しながらも入らなくなったファイルを捨てたり、必要なファイルをインストールしたりと細かな調整はどうしても必要なのである。おまけにPB2400は最初System7.6.1がインストールされている。それと共にSystem8.0のCDも付属してくる。System8.0へのアップグレードは自分でやってください、というわけだ。某Windowsと異なり、システムのアップグレードはとても簡単だ。問題はインターネット関連のファイルが7.6.1 のものと8.0のものが両方とも残ってしまい、訳が分からなくなったことだ。

もともとインターネットに接続しようとすれば、どうしたって人はネットワークにはLayerがあるということを意識せざるを得なくなる。Macintoshでさえ、「モデム」「PPP」「TCP/IP」と三つのコントロールパネルが存在する。それぞれの物を柔軟に変更できると言えば言えるのだが、最初の設定はある程度簡単だが、変更や維持はとても面倒だ。三つを一つにまとめたパネルでもあれば話は簡単だと思うのだが、何故かそうはしていない。インターネットの設定に関してはまだまだ改良の余地がありそうである。

さてそうした日々も数日たってようやく落ち着いてきた。全くこのPBには満足していたのだが、そのうちだんだんと欲がでてきた。まず考えたのは外付けキーボードである。PB2400のキーボードは通常のものよりもピッチが狭い。指が巨大な米国人にうけなかったのはこのせいだとも言われているほどである。米国の雑誌のレビューには「ブラインドタッチはできない」と書いてあるが、実際私は何の問題もなくブラインドで打っている。前に使っていたDuoに比べればかえってキータッチは良好な位だ。

しかしそうはいっても同じ時に考えついた「ホームページ作成」を目指すのであれば外付けがあったほうがよろしい。おまけに私はキーボードとポインティングデバイスが一体となった外付けキーボードに妙にあこがれていた。

もう一つはビデオ入力カードである。何でも聞くところに寄ると2400,3400はZoomed Videoなる規格をサポートしており、PC Cardを通じてビデオの入力ができるらしい。私は別にこのPBでビデオを取り込んでQuick timeムービーを作ろう、などとは思わなかったが、これができるとPBがTV代わりになるじゃないか。

私は以前からパソコンだの、TVだのやたら巨大なブラウン管が部屋の中に複数あることに不満を抱いていたのである。以前Stanfordで16inchのディスプレイを運んで死にそうになって以来というもの、私は奥行きをたくさんとるブラウン管自体にも嫌悪感を抱くようになっていた。なんだこの奥の深いデッドスペースはというわけである。そこで今回失業したのをきっかけに液晶TVでも買ってやろうかと思っていた。こうなればあのブラウン管とはおさらばできるが、TVとパソコンと(ただでさえ高価な)液晶が二つも必要となってしまう問題は残る。

しかしこのビデオ入力カードさえ手に入れば全ては解決だ。実はDuo280に対しても同じような製品がないか探したことがあったのである。結果は否定的だった。どうも画像なるものはやはりたくさんのデータ量があるので、Duoのインターフェースではまかないきれないものらしい。

さてPB2400に関してだが、いろいろ探してみると、米国の会社からビデオキャプチャーボードが一種類。日本のインタウェアから一種類発売されている。どうも価格は少し米国製が安そうだが、注文だのなんだの考えると面倒だ。日本のインタウェア製にしよう、、と思って再び大須に行った。

この時は他にもいりいろ買うものがあったのである。まずは外付けキーボードだ。それまでAppleからも巨大な妙な形をしたキーボードというのは発売されていたが、そのタイプで、かつポインティングデバイスを兼用しているものがあったので、それを購入した。ただしこのデバイスはThnakPadにみられるようなジョイステック方式である。このジョイステック方式は米国幽閉時代に使っていたThnkPadでなれていたこともあり、まあ使えるかと思って購入した。結果は期待はずれだったが。マウスでもトラックボールでもそうだが、ただハードウェアをまねするだけでは使い勝手はよくならない。ドライバなどの開発が実に重要だということを思い知らされた。

次にはビデオカードである。一番品数が豊富なMacintosh専門店に行ってみたのだが、おいてない。ここにないということは、通販か何かに申し込まねばならんかな。。。などと考えて「ここにあったら奇跡だ」という店に行ってみた。すると陳列ケースの中にちゃんと飾ってあるではないか。まよわず購入した。何事もあきらめてはいけないし、相手をあなどってもいけない。

さて家にかえるとあれこれセットアップである。外付けキーボードはシフトキーのききが悪い。しかしそのうちなれて気にならなくなった。ビデオのほうは快調に動く。欲をいえばソフトの関係で画面サイズが640×480になってしまうのが悲しいところだが(おまけに本来は320×240のデータを拡大しているらしく、ちょっとジャギーだ)まあ実用上は支障がない。これで私の家に鎮座していた14inchのTVもめでたくお払い箱だ。(ちなみにこのTVは実家で母専門のTVとなって余生を送っている)

 

さてこれでPB2400本体周りの話はひとまず落ち着いた、、と思っていたところに新たな注文が舞い込んだ。父が長年愛用していたワープロ機、OASYSがとうとうお亡くなりになったのである。正確に言うと、ほとんどの機能はちゃんと動いているのだが、バックライトが本格的に死んでしまったらしい。OASYSはいまでは見られないような不鮮明なDSTNの液晶を使っており、しかもバックライト無しではほとんど字が判別できない。昭和一桁生まれで戦中派、「贅沢は敵だ」という言葉をリアルタイムで覚えている父が「これはもう使えない」というのだから、本当に使用不能と思って間違いない。私は父に「どうしましょう。いくつか選択肢があるけど。OASYSを買い換えるという手もあるし、この際にmacintoshに乗り換える、という手もあるよ」と言った。正直言って父がどの選択肢をとるか定かではなかったのだが、「Macintoshに乗り換えよう」と言った。

さてそれまでAt Easeという「簡単ファインダ」を使っていたperformaははれて、本来のFinderを使って、ClarisWorksが稼働するマシンとなった。ところがここに問題が一つあった。今まで父がOASYSで作成した膨大な数の文章をどうするかである。私の文章を書く習性はもろに父から遺伝しているのである。文章などあまりかかない母の遺伝子が半分まざってこの始末だから、元祖の父の作成した文章の量というのは偉大なものだ。それからしばらく私はOASYSの文章をMacintoshのファイルに変換する方法について思い悩むことになった。

OASYSはここ数年、ようやくMS-DOS形式のファイルをサポートするようになったが、それまでは独自のファイルフォーマットを使っていたのである。インターネットや、Niftyで情報をあさってみたが、どうもPC←OASYSのコンバートツールは存在するが、OASYS←Macintoshはないようである。次には父が購入はしたが、現在は使われなくなっていたOASYS liteという機械を使って変換することを考えた。ところがこの機械はプログラムをバッテリバックアップされているメモリ上に持っており、バッテリが切れると同時にすべてのプログラムを忘れてしまうのである。そして使われなくなって数年がたっていた彼は(彼女かもしれないが)すべてを忘れて安らかにお休みのモードに入っていた。

そこで次善の策として私の頭に浮かんだのが、「Macintosh上で動くPCエミュレータを導入し、その上でPC-OASYSコンバーターか、あるいはWindows版OASYSを動かす」という計画だった。

実はこのことがある以前から、なんとなくMacintoshにWindowsエミュレーターを導入することは私の頭の中にあったのである。ことのはじまりは、私がStanfordにいたころにさかのぼる。当時からMacintosh上で動くPCのエミュレーションソフトというのは存在した。(製品名は忘れてしまったが)とは言っても当時のことだからDOS ベースだった。起動すると、Macintoshユーザーにとっては、斬新で、DOSユーザーにとっては見慣れた暗い画面が現れて、なおかつ起動の時の音(多分フロッピか何かのおとかもしれない)がなる、という凝った作りだった。

さてそれを見てから数年。ようやく私のコンピューターにもWindowsがはいることとなった。世の中には2種類のWindowsエミュレーター(というかIBM-PCエミュレーター)が存在している。Soft Windowsと後発のVirtual PCである。この2製品の比較というのは何度もあちこちの雑誌で見たが、つまるところ一長一短のようだ。ただし今後新しいWindowsに載せ換える必要が生じた場合(そんなことがあるかどうか知らなかったが)をちょっと考慮し、それよりも重要な要素としてVirtualPC+Windows95のほうがちょっと安かったこともあって、私はVirtual PCを購入した。そしてそれとあわせてWindows版のOASYSも購入したのである。この媒体はCD-ROMだった。

 

さて家にかえるとさっそくインストールだ。VIrtual PCのインストールはなんなく終わった。さてまずWindows版OASYSを使う前に試してみることがあった。NiftyserveのOASYSのフォーラムにあった、DOS版のOASYS-DOSコンバートを試みることである。エミュレーターだからその動きは結構のんびりだが、一応プログラムは立ち上がった、、、しかしこの方法では読み込むことはできなかった。

WindowsからCD-ROMをアクセスしようとした。すると帰ってくるメッセージは「読み込めません」という無情なものだ。うげげげげと思って、ケーブル接続や、電源を確かめてみるが問題はないようだ。おまけにこのVirtual PCには「CD-ROMの取り出し」なる別メニューがあるのだが、それはちゃんと稼働する。これはいったいどうしたことか。

そう思ってVirtual PCのホームページを見てみたり、説明書を見てみたり、あれこれ見て判明した結果というのはなんとVirtual PCはApple純正のCD-ROMドライバと、CD-ROM TOOlkitという製品版のCD-ROMドライバしかサポートしていないということだ(実際これは説明書に書いてあるかもしれないのだが、その記述はとんでもなく解りづらい)

Apple純正のCD-ROMドライバというのは、Apple純正のCD-ROMドライブしかサポートしないことで悪名高い。(もちろんAppleにはそれないの理屈はあるのだろうが)私は愕然とした。なんとこのままではVirtual PC上でOASYSコンバートどころか、これからVirtual PCを使ってCD-ROMを使ったソフトを使うこともできないではないか。

逆上した私は、CD-ROM Toolkitの購入に走った。これは一つのかけであった。販売されているソフトが私が使っていたCD-ROMドライブをサポートしているかどうか、今ひとつ自信がもてなかったからである。とにもかくにも購入して、立ち上げをやってみるが、、、やはりこのドライブは認識してくれないようだ。ソフトには対応しているドライブの種類が列挙されていて、おまけに「だいたいのメジャーなドライブには対応しているよん」と書いてある。列挙されているメーカーは確かにメジャーなメーカーなのだが、乗っているドライブ自身はどれもこれも一昔前のドライブだ。確かにドライブがでてから、アップデートをするのだから、対応が遅れてもおかしくはない。おまけに当時私が使っていたのはCD-ROMドライブの世界ではメジャーとはいえない、AIWAの2倍速のドライブだった。こんなマイナーなドライブに対応していないからといってソフトメーカーをせめることは難しいかもしれない。

 

さてNiftyserveの関連フォーラムを見てみると、同じ悩みを抱えている人は何人もいるようである。が決定的な解決策は未だみつからないのである。次には「中古のApple純正外付けCD-ROMドライブを探す」という行動に出た。今ではAppleはCD-ROMドライブを売っていないが、以前は確かに売っていたのである。中にはPowerCDという何の役に立つのかわからないが、とにかく格好は異様なCD-ROMもあったのだ。大須のMacintosh中古専門店に行ってみた。すると店内にありとあらゆるMacintoshがうずたかく積まれている。画期的なスペックをもっていながら、商業的には成功しなかったLisaもごろごろしている。しかし外付けCD-ROMドライブは存在しないのである。店の人に聞いてみたところやはりないとのこと。私はがっかりして店をでた。

さてこの日はもう一つ目的があった。System7.6.1を探すことである。前述したようにAppleのCD-ROMドライバは、純正以外のドライブを頑なに拒否することで有名だったが、なぜかしらないがCD-ROM DriverのVe7.5.3(だったかな?)だけはそのプロテクトがはずれていたのである。この実にありがたい特徴はバージョンが上がるとともに、また消え去ってしまったが、この理由からSystem8が出た今となってもこのバージョンのMacOSは価値を持っていたのである。

さてそう思って探してみたが、何故か(というかあたりまえかもしれないが)このバージョンのOSは見つからない。Osが2-3万しても、CD-ROMドライブよりは安い、と思ってはいたのだが、いかんせんみつからなくてはしょうがない。

さて次にやったことはCD-ROMドライブの購入である。

私は確かに当日異様な精神状態に陥っていたに違いない。確かに私が使っていたCD-ROMドライブは、2倍速で、最近24倍速などがでている最新ドライブに比べれば亀のようなスピードで動く。しかし家に帰ってCD-ROM Toolkitが対応しているドライブを確認してから購入するドライブを決めても何も遅くはなかったのだ。しかし何を考えていたかしらないが、私は自分の野生のカンに従ってPioneerのドライブを購入してしまったのである。

さて家に帰るとさっそく新しく買ったCD-ROMドライブにWindows版OASYSをつっこんでインストールしようとした。このCD-ROMはスピードが今まで使っていた倍速よりも速くなったのはいいのだが、その音もすさまじいものがある。ポータブルジェット機という感じだ。うーむ、世の中の人はみんなこんな騒がしいCD-ROMを使っているのだろうか、、と思いながら。しかし(当然のことだが)またもやwindowsからCD-ROMにアクセスすることができないのである。私ががっかりとして、疲れ切ってねてしまった。

この日は私が○○重工に行った最後の日になった。挨拶などをする気もなく、種種の手続きをしただけである。そしてこの日は世間では、あるいは私が数年前には大分気にした12月24日だった。数日後私は実家に帰った時父に「OASYSからコンバート計画は難航中」と報告した。

 

さて1997年もくれようとしていた。5日に帰ってからそれこそ文字通りの「食っちゃ寝」の生活をしていた私はたぶんだいぶ体重が増加していただろう。それにもましてひどい運動不足にも陥っていただろう。12月28日の夜、私は座ってコピュータに向かっていた。たぶんそのころはこのホームページの原型ができはじめたころではないだろうか。

12月28日に私が具体的に何をしていたのか覚えていない。夜に私はコンピュータ机(実はこの時はそんな名前で呼べる代物ではなく、物置のなかにおく仕切台を代用したものだった)の前に座っていた(これはビーズクッションの上にである)そして電話で友達と話していた。話をしながら、ちょこちょこと私はMacintoshをさわっていたのだろう。実はこの日の昼から、多少ハードディスクの調子がおかしいことに気が付いていたのである。ファイルがなくなってみたり、かと思うと出現してみたり、どうにも調子がおかしい。そんなことを考えながら、ちょこちょことさわっているうちに電話は終わった。ところがここらへんからハードディスクの状態が抜き差しならぬものになったことに気が付いた。なんと再起動をかけたら、いったん画面が暗くなり(これは正常な印だ)次に表示されたものは今では時代遅れになったフロッピに?マークがついているアイコンだった。なんと私のMacintoshはハードディスクが認識できなくなっているのである。

私はどっと冷や汗がでてくるのを感じた。今まで何度かハードディスクのふっとびは経験したが、何度経験しても心臓にいいものではないのである。今できることは限られている。外付けのCD-ROMにos8.0のCD-ROMを入れて立ち上げ、名前は昔ながらのDisk First Aidをかけるしかない。しかし答えは無情だった。このプログラムではハードディスクの修復はできないようだ。こうなればいかんともしがたい。明日の朝一番でコンピュータ屋に行き、Norton Utilityを買うしかない。この場合値段など気にしていることはできない。とにもかくにもデータを救うことが先決だ。。。さて今日はもう寝よう。今日できることは何もない。と思って立ち上がろうと思った私は腰に異常な痛みを感じた。理由はわからないが、私は長年つきあっている腰痛に、しかもひどいやつに見回れたのだ。

その日の晩はなんとか布団に潜り込んで寝ることにした。(私は布団の横でコンピュータを使っているのだからこれくらいはなんとかできる)しかし寝返りを打つこともできない。

翌日目が覚めたが、まだ動くことはできない。腰痛に長年つきあってきた経験からすると、とにかく動かず寝ているのが一番の対処方法だ。最も仮に動こうと思ってもこの状態では全くそれはかなわぬことであるのだが。その日は夕方の4時まで寝ていた。さすがにこれだけ寝ていると腰の機嫌も多少はましになる。それでなくても今はPB2400のハードディスクが心配だ。私は多少の無理を押して、コンピュータ屋に車を走らせた。そしてNortonUtilityを買うとそのまま回れ右をして家に戻った。そしてまた布団の上にたおれこんだ。車というのは私が知る限りでは大変腰痛に良くない影響を与える。椅子のせいか、震動のせいかは知らない。車から降りて数歩歩くだけで5分くらいをようしたのではないだろうか。冷や汗をかきながらである。3階まで上るだけで私はよれよれになっていた。

 

しばらく布団の上で休んだ後に、さっそく私はNortonによるハードディスクの救済を試みた。結果は印象的だった。やはりOSに付属しているツールと、金をとって売ろう、とうツールの間には結構な差があるのだ。この時ほど腕組みをしたノートン先生が頼もしく見えたことはない。ハードディスクはめでたく復活した。それを確認するとまた私は布団にもぐりこんだ。まだ長い間座っていられる状態ではなかったのである。

さてそれから正月休みは基本的に寝てすごした。これは本来私が怠惰な人間であることにもよるが、基本的には腰痛治療のためである。そして時々はMacintoshにさわっていたのだが、私はいやな予感にとらわれていた。用心の為とおもって何度かNorton先生の診断をかけるのだが、そのたびに彼は何か異常を表示してくれる。そのたびに「修復」を選択すると彼は一生懸命修復して「なおりました」と言うのだが、その後に再び診断をすると同じ様な症状を報告してくるのだ。

これは全部バックアップをとって、フォーマットから始めた方がいいような気がすると思ってみた。しかし一つ問題があった。バックアップには230MBのMOを使っていた。Duo280の内臓ハードディスクをバックアップするためにはこのMOがどう考えても2枚もあればたりたのである。しかし今度の内蔵HDは1GBだ。容量が増えたのは大変ありがたいことなのだが、私はそれに会わせてMOを追加購入することを忘れていた。容量が増えてごきげんになってあれこれインストールしたところにこのトラブルである。私は早急に追加のMOを購入する必要に気が付いたが、その日は12月31日だった。明日は正月。失業中の身ではあっても親戚に顔くらいはみせなくてはならない。MOを購入できるのは1月2日だ。

 

さてその1月2日、朝一番で私は大須に向かった。こんな正月から店は開いているのだろうか?などとちょっと不安に思いながら。すると店は開いているは、客はうじゃうじゃいるわの大盛況である。考えてみれば正月休みというのは結構みんなすることがないのかもしれない。来ているのはほとんど男の一人であるが。さてふらふら歩いていると通りにワゴンを出して、MOの安売りをやっているところを見つけた。私が最初に購入したときから比べると実に安くなったものだ。私は3枚購入してその場所を後にした。家に帰るとさっそくバックアップである。実にこのバックアップはきわどいタイミングだった。こうしてバックアップをとっている間にもハードディスクは確実に壊れていき、最後に一つバックアップできなかったフォルダが残った。さあコピーだと思ったら読み込めなくなっていたのである。この時ばかりはNorton先生も手の下しようがない、といわれてしまった。(本当にそんな表現をされたわけではないが)

覆水盆に返らず。無くなったデータは元に戻らず。とにかく大事なファイルのほとんどはバックアップできた。えーい。フォーマットしてしまえとばかりにハードディスクをまっさらにして、再びシステムをインストール。システムが立ち上がれば今度はMOから先ほどバックアップしたファイルをひたすら戻す。こうした作業は書いていると単純だが、結構時間を食う。まあそれこそ漫画でも読みながらのんびりとやればいいのだが。

この日はあんまりのんびりとしていられない事情があった。元の職場の友達Mr.K(私がPB100をゆずった男のことだ)のところに遊びに行くことになっていたからである。ここの奥さんは大変な料理上手で、私はいつも手ぶらで言ってはしこたま食って満足して帰ってくるのである。さてそろそろ出かける時間となった、、と思って私は腰をあげた。幸いにも腰痛は収まっているようだ。

Mr.Kの家で夕飯をごちそうになり、楽しく時間をすごした。ふと「あのPB100はどうなった?」と彼に聞くと、彼はいろいろと話し出した。なんでもハードディスクを増設しようとして、自分で設置をしたところで、お亡くなりになり、2度と立ち上がらなくなったそうなのである。そうか。とうとうPB100も寿命のつきるときがきたが。ふと私はPB2400が来ていらい部屋の隅の袋にはいっているDuoとその周辺機器一式を思い出した。そしてMr.Kに特別大バーゲンで譲渡する事を思いついたのである。

Mr.Kの奥様の手料理はいつもの通りおいしく、多少酒が入った私はご機嫌だったのかも知れない。「よし。それではPB2400の様子が落ち着いたら、きみにDuo280をGreatly reduced priceでゆずってあげよう」と言ったのである。私としては今回のPB2400のハードディスクぶっとびの原因がなんであったかわからないうちは、バックアップシステムを人に譲る気はしなかった。なんといっても今は毎日メールをチェックし、インターネットを見て回る日々なのだ。

Mr.Kは即座にその話しに乗った。そして私としても今後Mr.Kの家をてぶらで訪れることに対してなんの良心の呵責も覚えずにすむというものだ。

 

さて彼にDuo280を渡したのは1月の22日だった。彼に譲渡するさいに一つ条件をつけていた。例のDuo280につないでDual Monitorとして重宝していた14inch monitorを「あげる」のではなくて「持っていってもらう」という条件である。PB2400にも外部モニタの接続端子はあるが、グラフィックコントローラーの関係で、ミラーリングしかできなくなってしまった。そりゃ確かに多少画面は大きくなるかもしれないが、あの大きなモニタをつけてまで、同じ画面を2度見たいとは思わない。ふたりでてけてけと彼の車に荷物を運ぶと、しばらく立ち話をした後にばいばいした。例によって例のごとくそんなに感慨がわくわけでもない。

さて新しい愛機PB2400はこの時には非常に安定してご機嫌な性能をみせてくれるようになっていた。それから数ヶ月の間このパワーブックは実によく働いてくれた。暇な失業生活であったから衝動的にあちこち旅行することもあったのだが、そういう時はいつもPB2400と一緒だった。モジュラーケーブルでつなげることができるグレーの公衆電話を見つければさっそくメールとインターネットをチェックし、旅館だかホテルではホームページの執筆にいそしむ、という大変ごきげんな生活を実現してくれたのである。最もあるゲームにちょっとはまってしまい、「何故旅先まできてこんなゲームをやっているんだ」と自分で疑問に思ってしまう、という副作用はあったが。

さて時はいつしか過ぎていき、PB2400に関しては大きな変化もないうちに10月になった。私は横浜で就職することいになった(少なくともそのつもりだった)そしてPB2400をとりまく環境もかなりの変化をすることになったのである。

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注釈

Privateでは絶対Windowsなんて使うもんか:(トピック一覧)もっともなんとも避けようがない場合は別である。私がJavaでプログラムを書いている時に、一時的にwindowsにたよろうとし、結局この信念を固くした経緯については、トピック一覧経由Java diaryを読んでもらうと本文に戻る

 

12月24日:(トピック一覧)トピック一覧経由HappyDaysで同じキーワードがでてくるところを参照してもらえると、昔は私も多少この日を気にしていたことが解る。本文に戻る

 

いつもPB2400と一緒だった:9月に行った米国旅行にもこのコンピュータは持っていった。もっとも田舎のホテルでインターネットにアクセスする方法を発見するまでには少し時間がかかったが。その様子は「夏の終わり:米国旅行編」で参照できる。本文に戻る