題名:私のMacintosh

Quadra700-Part3

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日付:1998/8/15


Quadra700-Part3

 さて私は大変幸せでなかったがとにかく日本に帰ってきてまた元の職場で働くことになった。もっとも仕事の内容は前とは大分変わったのであるが。

実は私が帰る日は前もって「1992年7月の20日」と指定してあった。ところが私が戻るはずグループが大変「忙しく」なったらしい。そこで「大坪を早く返してはどうだ」という動議が持ち上がったらしい。

当時の私の上司は「いったん決めたことは変えない」という妙な信念の持ち主だった。これは必ずしも良い意味で書いていない。彼はいったん決めたことが間違っていると分かった後でも変更を言下に拒否するのである。しかしこのときばかりは彼のこういった「信念」が私にとってプラスの側に働いた。私の帰国日程は変更されなかったのである。

 さて私は苦虫をかみつぶしたような顔をして出社した。そしてそれからしばらくの間何をやっていたかと言えば、Quadra700の上で、重役大名行列の説明に使うアニメーションの製作をしていたのである。「忙しいから大坪を早く返そう」という話の実体がこれだ。いつものことながら仕事のマネージ能力の高さには驚かされる。

さて仕事の内容はさておいて、私はちょうどいい時期に帰国をしたことにまもなく気が付いた。私が留守の間にオフィスに数台存在するようになっていたMacintoshをネットワークで接続する計画が認可され、まさに発注をする間際にあったからだ。

当初の計画は会社で公に(あるいはほとんど公に)購入できた数台のMacintoshをEthernet-Localtalkのルーターを介して接続し、ファイルサーバーとしてSunのワークステーションを導入するという案だった。ところがこのままだと接続できるのが設計室の一角に集められているMacintoshのエリアだけになってしまう。LocalTalkは標準で芋蔓式のデイジーチェーンの接続しかできず、おまけにだいたい10台とかで容量いっぱいになると言われていたのである。

今でこそ○○重工も某社から大量に購入したノートパソコンを一人一台持つようになったが、当時は「コンピュータというありがたいものはしかるべきエリアに集めて使用する」という妙な概念がまかりとおっていたのである。しかし私はパソコンは一人が占有して好きな時に好きなだけ使用するもんだと当時から考えていた。ということは各人の机の上にないと困るわけだ。そしてコンピュータはネットワークにつながなくては意味がない。(これまた当時ではそんなにメジャーな考え方では無かった。某国民機は必ずプリンタとワンセットで設置されていた時代のことだ)

私はネットワークに接続されないMacintosh-当時「野良Macintosh」とういう言葉で呼んでいたが-を撲滅するために、いきなり計画に割り込んで変更をねじ込んだ。当時Fallalonから発売されていたStarControlerというStar型接続ができるローカルトークのハブを追加したのである。

この変更をなんとか当初の予算範囲内で、と都合の良い事を言ったら担当してくれた営業のおじさんが「そんなことはできません」と泣き出した。そこで私は本来Sunの上に導入することになっていたMacintosh用サーバーのプログラムを落とし、その代わりにStart Controllerを入れたのである。なぜならば当時世の中にはCAPなるパブリックドメインのUNIX WS上で動くプログラムが存在している事が分かっていたからである。おまけにCarnegie Mellonに私と同じ時期に留学して帰ってきた男がCAPをテープにいれて持ち帰ってくることまで分かっていた。

 

となるとしばらくの間はだましだまし使っていればなんとか実用に耐えうるネットワークができあがるわけである。ファイルサーバーはちょっと妥協すれば、プリントアウトするときにいちいちデータをフロッピに写してネットワークにつながっているMacintoshのところまで走る、なんていう野蛮な事をしなくてすむわけだ。(もっとも当初この行為が「野蛮なこと」であることを認めさせるのも結構大変だったのだが)

さて。それからの私はネットワークが少しずつ形を整えるごとに喜んだり泡を食ったりする毎日を送った。当時本業のほうは殺人的に忙しかったのだが(朝目覚めた時に自分がびっしょりと寝汗をかいているのを連日発見するのはあまり楽しい経験ではない)私はそれでもなんとか時間を見つけてネットワークの整備に熱中していた。最初にネットワークが稼働した始めた時のうれしさは今でも覚えているし、一緒にネットワーク関係を見ていてくれた男から「大坪さん、うれしそうですね」と言われたことを覚えている。

そしてふらふらしながらもなんとなく私が居た職場の環境は整っていった。最初はSunがサーバーとして使えなかったので、IIciをサーバーとして使っていた。サーバーのソフトはSystem7.0のファイル共有機能を使っているわけだから、10名が接続したところで「これ以上つなげません」というありがたいメッセージがでることになる。しかしそれでもサーバーの利用は急速に進んでいった。このときMacintoshは正式に社の文書システムとして認められていなかったから、周知徹底などは全て口コミか私が4回だけ発行した"I love lazy life"なる書類でしかなされなかったのであるが、その利点をみんなが認めるのに長い時間はかからなかったのだろう。

さてSunがサーバーとして使用できるようになるまでに、いくつかMacintoshのサーバーは変遷を経た。確かにサーバーは高速な機種が望ましいかも知れない。しかし同時に私は皆が使用できるMacintoshの数を増やす、という問題にも直面していたのである。IIciは当時の最高速クラスの機種だったから、サーバーに使っているのはもったいない。そう考えて次には68000@8MHzのSEをサーバーにしてみた。(I love lazy life1号を参照ください)

すると途端に「サーバーがめちゃくちゃのろい」という苦情が殺到するようになった。うーむ。やはりSEでは無理があったか。。と思い今度はIIxに変更した。このIIxというのは正式に日本語化がなされなかった数少ないMacintoshの一つである。正式には日本語化されなかったが漢字Talkをいれるとちゃんと動くので2台ほど動いていたのである。彼に変更してようやく一安心。あとは数々のネットワーク機器が到着するのを待つだけだ。(ここらへんの事情はI love lazy life 第2号を参照のこと)

などと思っていたら私がネットワークを管理していた間に起こった最初で最後の「サーバーぶっとび」が発生した。詳細は覚えていないのだが、ある朝サーバーを立ち上げたらいきなりハードディスクがおなくなりになっている。それまで私はハードディスクがふっとぶ、という事態が起こりうることはしっていたが、まさかこんなに早くその緊急事態がおこるとは思わなかった。一応バックアップは(さぼりさぼりだが)とっていたので、なんとか復旧はできたが、当時は私はとんでもなく忙しい生活を送っていたのだが、半日はこの作業でつぶれてしまった。

 

さて仕事は異常に忙しくなっていったが、そのうち待ちに待った10月21日がやってきた。この日はようやく購入手配がかかっていたネットワークの機器が設置される日であったのだ。こうしたシステム設置の常として私は土曜日に出勤しなくてはならなかったがこのころはどちらにしても週休1日制になっていたのだから問題はない。私たちが働いていた場所は設計室ではあったが本来は工場の組立場となるべきスペースであった。だからフリーアクセスの床などという便利なものはない。床の上になんと呼ぶかしらないが半円形のプロテクターをぺたぺたと貼ってPhone-net の線(つまりは電話線だが)を通していく。片方の端にはMacintoshが芋蔓式につらなり、片方の端はStar controllerというハブに接続されるわけだ。ちなみにこのMacintoshのネットワークを純正のシールドケーブルではなく、電話線を使ったPhone - netで構成したことは大成功であった。確かにノイズが乗ってネットワークの効率は少し落ちていたかも知れない。しかしなんといっても電話線はApple純正のシールド線に比べてはるかに安かったし、おまけに電話線工事の器具を使えば自分たちで増設するのも自由自在だったのだ。Macintoshの台数が増えるに従い、私はしばらくPhone-net の調達と、電話線の増産に追われることになった。

 

これでようやく私が働いていた部の中に設置されているほとんど全てのMacintoshが接続されることになった。このときの私の喜びは一種説明がつかないものだった。今から思い出してもその時の幸せな気持ちを思い出すことができるのだが、何故そんなにうれしかったかと聞かれれば自分でも「?」マークがでてしまう。思うに私はコンピュータにしろ機械にしろ人にしろ、その持てる力が発揮されずにいるのを見ると異様な不快感を覚えるたちなのかもしれない。

さてこれで今まで「プリントアウトするときは、ファイルを持ってネットワークにつながっているMacintoshのとところまで歩いていく」などという野蛮な事をする必要がなくなった。自分の席からボタンを押せばはいおしまいである。これがどれほど当時の部にとって画期的な意味を持っていたかは説明するのが難しい。今ではそれはあたりまえのことだからだ。しかし一つだけ書いておくと、このネットワークの設置に関して、どの会社でもあるとは思うが「改善提案」なるものに書いて応募したら、一級と判定され、結構な額の賞金をもらえた、ということだけは書いておこう。今では常識と思われることも当時はそれだけの喝采を持って迎えられたのである。このときのI love lazy life 第3号を見てもらうとなんとなく幸せそうな私の雰囲気がわかってもらえるだろうか。

 

さてここで、当時のMacintoshユーザーであれば多分誰もが直面したであろう問題も含む種種の小さな問題について書いておこう。

まず私が帰った時の○技部内の書類作成状況というのは次のようであった。あいかわらず会社公認の文書作成システムはIDEAシステムであった。さすがに時の流れと共にOriginalのオフコンはさすがに下火となっていた(とは言ってもまだ使っている人間はいたのであるが)それに変わって「先進IDEA」なるさらに邪悪なシステムが何台かはいることになっていた。これはラップトップという名前の妙なコンピューターにOS/2が乗ったものである。世界のNECの弁によると、「これなら他と互換性があります」だそうである。Stanfordにいるときから「OS/2は将来メインフレームの端末分野である程度普及する、とみられているだけですよ」と警告の情報をありとあらゆるチャンネルを通じて流していたのだが、会社の判断は常に我々の理解の及ばないところを飛んでいるのである。実際私が流していた予測も現実に起こったことから見れば甘すぎたのである。今はOS/2はどこに存在しているのであろう。

さて○○重工の社員はみな秩序正しいから、多くの人はこの「世界最高システム」を使って書類を作っている。しかし私の上司で私の前にStanfordに行っていたI社員が仕切っているプロジェクトでは既に書類はほとんどMacintoshで作るようになっていた。あんなふざけたコンピュータ(先進IDEAのことであるが)が使えるか、というわけである。彼らはしかしI先輩の文化をそのままうけついでしまって「書類は全てMacDraw IIでつくる」という妙な風習に染まっていた。確かに図がはいった書類を作るにはMacDrawIIはいいのであるが、文章べたうちのものまでMacDrawIIで作るのは実に馬鹿げている。

さてコンピュータユーザーにはもう一組の人達がいた。(もちろん相変わらずコンピュータにさわろうとしない人達もたくさん残っていたのだが)それは庶務の女の子達である。彼女たちはかたくなにOASYSを使い続けていた。実は私もMacintoshを使う前はOASYSユーザーだったのである。その他にもいくつかワープロを使ってみたがなるほどOASYSは評判をとるだけあってよくできている、と思っていたのだ。一時は客先の納入書類としてOASYSの文書ファイルであることが指定された時期もあったように思う。

しかしながら先ほどのMacDrawIIの論議と反対に、私見ではOASYSで図がたくさんある文章を作るのは間違っていた。確かにOASYSには作図機能が存在する。しかしその使い勝手はMacDrawからはほど遠い。しかし彼女たちにこのことを納得させるのはまもなく不可能であるということを発見した。中にはMacintoshユーザーの書類を見たり、作成風景をとなりでみていたりして乗り換える女の子もいた。しかし大多数は「これで間に合ってるし、新しいの覚える時間がないから」と言ってOASYSから離れようとしなかった。彼女たちが部の座席表をOASYSで作成するために残業とかをしているのを見ると、「ああ。なんと人生を無駄にしていることか」と思えるのであるが、所詮彼女たちがその道を選択している以上、こちらとしてはなんとすることもできない。

 

さてこうした状況で私がするべきことはいくつかあった。まずはMacintoshの宣伝を「適度」にすることである。実際これはあまりする必要がなかった。先進IDEAとMacintoshで作った文章ではその出来場え、作成効率は誰の目にも明らかなほど差があったからである。従ってほおっておいてもMacintoshのユーザーは増殖する傾向にあった。会社にかってもらえるMacintoshはそう簡単にふえる気配はなかったから、私としてはむしろMacintoshユーザーの増殖を押さえる必要があったのである。(後で気が付いたことだが、この「勝手に使い勝手のいいものにユーザーが流れる」というのは、少なくとも世の中でそんなに一般的なことではなかったようである。このことについては後述する)

たとえば私がMacintoshを使って書類を作っていると、時々「自分の意見」を持った人がやってきて、いろいろな事を言ってくれた。たとえば「別にMacintoshなんか使う必要はない。IDEAはワープロとしては十分な機能を持っている」とかである。すると私はにっこり笑って「うん。その通りだね。だからMacintoshを使わないでね」と答える。しかし数ヶ月すると同じ男が「Macintoshの使い方を教えてくれ」と言ってくるのである。これは押さえようのない事実であった。この傾向が強まるにつれ、会社の中には個人持ちのコンピュータが氾濫するようになった。皆○○重工の社員というのはそんなに高い給料をもらっているわけではない。それでも財布の底をはたいてもMacintoshを買って書類作成を効率化したい、とみなが思い始めていたのであった。会社はそれでもIDEAに投資した数億の金を正当化することに血道をあげていた。その1/100の金でもMacintoshに投資してくれれば数十倍の効果を上げられたものを。しかしこれはひとえに私がノータリンだから言うことだ。会社の行うことは常に正しい。たとえそれが1+1=78といった類のものであったとしてもである。

さて次に行うことはMacintoshの環境整備である。ネットワークの拡充は前述した。その他にも細かい必要改善点がいくつかあったのである。

まずはFinderをMulti-Finderに切り替えることから始まった。最近のMacintoshしかしらない人は「Multi-Finderとはなんだ?」と思うだろう。今でもFinderはシステムの重要プログラムである。しかしMulti-Finderなるものはもう存在しないのだ。

初代のMacintoshが登場してからかなりの間、アプリケーションは同時には一つしか立ち上げることができなかった。仮にあるアプリケーションを使って作った書類から何かをコピーして、他のアプリケーションで使用しようと思えば、一度最初のアプリケーションを終了して次のアプリケーションを立ち上げ直す必要があったのである。この制限の例外がDesk Accessary、通称DAと呼ばれる小さなアプリケーションだった。これだけは他のアプリケーションを開いている間にも立ち上げることができたのである。(最初はいきなり時計やらメモ帳が開けることにめまいがするほどの感動を覚えたものだが)

さてこの制限をとりはらうのがMulti-Finderであった。これを使うとメモリの許す限りいくつでもアプリケーションを開いておくことができるのである。多分最初に私が帰ってきたときのSystemは6.0.4か6.0.7が主流だったと思うが、私はあちこちの設定を変更してこのMulti-Finderの普及に勤めたのである。(ここらへんの事情はI3L-1号を参照のこと)もっともこの変更によっていくつかの問題が生じた。それまで誰も見たことがなかった「メモリがたりないので書類が開けません」といった類のメッセージがでるようになったのである。

System7.0からはこのMulti-Finderが標準となった。つまりMulti-FinderはFinderになったのである。その時点からmulti-finderということばと、DAという言葉は意味を持たなくなった。しかし先ほど書いた「メモリが足りないので書類が開けません」という問題は今にいたるも解決していない。つまりこのときから始まり未だにMacintoshOSは自動的にアプリケーションが使用するメモリを調節はしてくれないのである。技術的にどのような困難があるか私にはわからないが、これは「うちの母でも使える」という理想を考えたときにMacintoshOSが持っている大きな欠点のうちの一つであると思っている。私は「アプリケーション割り当てメモリの調節の仕方」を周知徹底することにした。

 

次にやったのは「何でもかんでもMacdrawIIで作成するのはやめよう」運動であった。当時世の中では「Macintoshは禁則処理が甘い」「インライン変換ができない」とか妙な批判にさららせれている時期でもあったのである。そして未だにDOSを愛用する人達は「Macintoshは日本語が弱い」と根拠薄弱な批判をして喜んでいた。一方○技部に目を向けてみると、前述したとおり当時「全ての文章」もMacDrawIIで作成されていた。MacDrawIIは確かに偉大なアプリケーションだったが、テキストで禁則処理をやってくれるわけでも、インライン変換をやってくれるわけでもなかった。おまけにClarisWorksで実現されたようなフレームの連結(あるテキストエリアから次のテキストエリアに連続して文章を打ち込める機能)などはなかったのである。これで数ページに渡る文章を作成するのはどう考えても馬鹿げている。

そこで私は「文章はEGWordを使いましょう」と回りに言い始めた。Macintoshの普及に力を尽くしていたI先輩は同時に「何でもMacDrawII」の元凶でもあった。彼は最初「大坪くんにおこられるからEGWordを使うか」とかぶつぶつ言っていたが、すぐに「これはいい。いやー、MacDrawIIのときは、文の頭に句読点が来るのを調節するのが大変だったんだよねえ」とか言い出した。こうして自分の誤りを見つけたときはすぐに直すのが彼の美点の一つであると思っている。かくして○技部ではしばらくのあいだ「図表はMacDrawII、文章はEGWord」という分業制が続いたのである。

 

最後の問題は、当時System7.0への移行時期にあったこととネットワークが普及し始めたことから発生したものだった。○技部に存在していたMacintoshの中に既にSystem7.0+Gomtalkを使用していたものが何台かあったのである。それらがネットワーク接続されておらず、フロッピでもってデータを持ち歩いてプリントアウトしている間はよかった。ところがめでたくそれらがネットワークに接続された瞬間、問題がおこるのである。System7は何年かぶりのMacintoshOSの大改造というふれこみだった。あちこちずいぶん変えたのだろうが今から考えればあのときもっと徹底的になおしておけば、、というところもあるのだが、まあそれは別の話だ。Laser Writerのドライバもアイコンからして変更になった。なったのはいいのだが、System6のドライバとSystem7のドライバは双方ともに「プリンタの初期化を行うのは自分の使命だ」と思ってイニシャライズを始めるのである。従って起こることというのは、頻繁にプリンタのイニシャライズが発生し(System6を使っているMacintoshとSystem7を使っているMacintoshがプリントアウトする度にだ)プリントアウトがやたらおそくなる、という問題だった。

この問題は究極的には全てのコンピュータをSystem7に統一することで解決する。しかし当時からOSのバージョンアップにはいくつかの問題がついて回っていたし、System7は遅いことでも有名だった。ただでさえのんびり動いているSEなぞをSystem7にしようとはとても思えない。というわけでしばらくの間はSystem7のユーザーにSystem6のドライバを使ってもらうことで解決を図ったのである。この方法だとプリンタの頻繁なイニシャライズは避けられるが、System7ユーザーはバックグランドでプリントすることができなくなる。まあ世の中に困難はつきもんだ、ということであっさりSystem7のユーザーには我慢をしてもらってこの問題を解決したのである。

その他よく起こった問題というのが、localtalk-Ethernetの間の接続をしてくれるFastPath-Vという製品がときどきおなくなりになる事だった。これは未だに原因がわからないのだが、朝電源をいれただけで本来彼は素直に立ち上がってくれるはずである。ところが発生頻度は月に一回くらいだったかもしれないが、全てを忘れてお亡くなりになってしまう、という事象が発生していたのである。今から思えば私が出張の時に「お亡くなり」が発生しなかったのは奇跡としか言いようがない。いったん「お亡くなり」になると彼は全てを忘れてしまっているので、別のMacintoshから設定をダウンロードしてやる必要がある。朝だいたい一番に出勤してくるのは私であったから、朝の7時頃に泡くって設定をダウンロードというのは私が何度か繰り返したことであった。今から考えれば「なんだこの製品は」と言って業者につっかえすべきだったのかもしれないが、当時の私はまだそんなに世の中になれていなかったのである。

 

さてそうこうしつつ私の会社生活は悲惨な方向に向かって走っていった。この時期がおそらく今までで一番残業した時期ではないかと思う。私がいた事業所の「総力をかけてとりくんでいる」と公言されたプロジェクトをたった3人でやっていたからだ。朝目覚めると寝汗びっしょりになっている自分に気が付く。立ち上がろうと思ってもまるで体に大リーグボール養成ギプスをはめられたかのように体はうごかない。こうなるととてもネットワークの世話などみることはできない。自分の命を保つことのほうが重要だ。そうこう思いながら92年は終わった。そして年があけるとともに少しは余裕ができた。そんなころ妙な話が舞い込んだのである。

 

 

その話がいつ来たのか定かではない。1993年があけたころ、「社内でコンピュータを利用した設計支援システムの発表会があるから、出さないか」というお話があった。

当時あまり大きな声では言えないが、私のほうは仕事が一山超えた状態であった。とはいえ発表などは面倒だ。私は多分あまり乗り気ではなかったのだが、「とにかく何かだせ」という上からのご指示で発表をすることになった。

実際のところいったん発表すると決まってしまえばしゃべる内容というのは実に簡単だった。1月になってからというもの、○技部内のコンピュータシステム(OASYSと世界最高のIDEAを除いての話だが)はようやくその本来の機能を発揮するようになっていたからである。某課のMr.Arの努力によって,ようやくSunにCAPがインストールされた。これでSunをMacintoshのファイルサーバーにすることが可能となったのである。これまで「一度につなげるのは10人」などという制限を越えて快適にサーバーが使用できるようになった。それと共に○技部内からフロッピーというものがだんだん根絶されようとしていた。考えてみればファイルの受け渡しはサーバー上で行えばいいのであるし、印刷の為にフロッピーなど持って走る必要もなくなったのだ。

さらにはようやく発売されたSystem7.1(日本語)によって、前述したプリントアウトに伴うトラブルもあらかた解消することになった。もうバックグラウンドプリントを我慢する、とかいった類の制限事項は必要ではないのだ。

そうした機能拡充(というか本来の機能をEnjoyできるようになっただけだが)と共にMacintoshユーザーの数も、そしてサーバーの利用率も見る見るうちに向上しだした。そしてサーバーの上に複数の人間がさわる書類をおいてみたり、あるいは仕事で使う図案集を置いてみたり、といったことが宣伝しなくても行われるようになってきたのである。これが費用対効果の高いシステムでなくてなんであろう。わざわざシステムの教育に金をかける必要すらない。回りの人間にきけば大抵の場合正解が帰ってくるのである。

さてかのような状況であったので、私としては事実をそのまま述べればそれで「見事な発表」となるはずであった。発表資料は簡単にまとまった。その時の私の本来の仕事というのは、ウソ800に厚化粧をして数百ページに及ぶ報告書を作り上げるようなものだったから、こうした「本当の事をそのまま書けばよい」資料などを作るのはまことに簡単なことであった。

発表は3月5日。ようやく長いつらい冬(これは気候と言うよりは私にとっては仕事でつらかったのであるが)も終わる事があるのかもしれない、、と思い始めたころであった。さて明日は発表だ、と思っていると課長に呼び出された。

しまった。また仕事の上でのウソがばれたか、、と思っていって見るとどうもそうではないらしい。なんでも課長はちょっと前に技管とよばれるIDEAを管理している部署の人と話をしたらしくて、

「君は明日発表をするようだが、君が言いたい放題しゃべると"傷つく”人がいる。だからIDEAは使い物にならない、とかそういった類の発言は控えるべきだし、そういう質問がでたら”にやっ”として話をそらすように」

概略このような話だ。私は「そうですね。わかりました」とにっこりわらって席を立った。なるほど。今回の発表自体が素直に認可されたことは妙だと思っていたがやはり一言釘がきたか。しかし「傷つく」ってのはなんなんだろう。実際何億も使って役に立たないシステムを「役にたたない」と言って何が悪いんだ。だいたいIDEAのおかげで無用な残業をさせられたりしたのは我々であってあんたたちじゃないじゃないか。

などと当時の私は考えていた。後に解ったことだがこうした考えを持つことこそ、私が○○重工社員として失格であることを示していたのである。この後も何度か経験したことだが、この会社(世の中全般こうである可能性はあるが)よその部署がどんなに馬鹿な事をやろうが、金の無駄遣いをやろうが、それをそのまま声に出してはいけないのである。私は失敗は失敗として認めないと次に生きない、と思う人間なのだがどうもそういう概念はないらしい。せいぜいが陰で「しょうがねえなあ」と言うくらいが○○重工にとって許容できる範囲らしいのだ。

さてそんなこんなの経緯を経て、3月5日は発表会である。全国の事業所からかなりの人数が集まっている。構成としてはまず各発表者がずれずれとしゃべる。各発表の後には質疑応答の時間がある。それがいったのおわると、発表内容を張り付けたポスターの前に行って皆と自由に意見交換を行う。こんなだんどりである。

私の発表順序は真ん中からちょっと後ろのほうだったか。自分の前の発表を神妙に聞いている間に、ちょっと気後れがし出した。それまでの発表はどちらかと言えば同じ設計支援システムはシステムでも、解析の手伝いをするやつである。艦船の3Dモデルを作って、射界の検討をするもの(これはなんと3Dモデル作成ツールを使わず全てOpen GLで定義したらしい。まことに○○重工らしい頭を使わない労働力集約型の力作だ。しかし発表したのは可愛い女の子だったのであれもそういう厳しいつっこみはいれなかった。私はこういう類の差別は嫌いだがいたしかたない。)スキー場の形状を解析するもの(これの内容は忘れてしまった)どうも解析がすんだ後の書類作成の効率化、などというテーマは私だけのようだ。

 

こいつぁまずいわい、、などと内心思いながら、まあ仕事でこういう場面にぶつかるのはそうまれなことでもない。自分の番が回ってくると用意して置いた前置きからしゃべりはじめた。

「本日みなさんの発表内容は、設計で使用するモデルの解析を支援するツール、といったものが多いように思えます。しかし実際の仕事を考えたとき、解析された結果を資料にまとめて文書にする、といった作業も馬鹿にならないボリュームをもっていると思います。

私の発表内容は、ネットワークとMacintoshをうまく使ったら、その行程の作業が効率化できた、というものです」

この当時はいつも物理的にこれ以上は働けない、というところまで働いてそれでも穴がたくさん残っている資料をもってお客様の前で文字通り薄氷を踏む思いで説明をする毎日だった。説明が終わってからもお客様からいつ電話がくるか、とそんなことばかり気にしていたのである。ところがこの日は内容については熟知しているし、相手は敵対的なお客様ではないし、しゃべっている途中でこちらの重箱の隅を発掘するような質問が飛んでくるわけでもない。私は実に快調にご機嫌に発表を終えた。

さて発表が終わると質問時間である。それまでの経験で世の中には病的にMacintoshを嫌う人がいることを知っていた。そしてこれだけ観客がいればそういう人は必ず一人か二人まじっており、加えてその人は質問時間になればだまってはいないのである。

最初に飛んできた質問は「Macintoshもいいかもしれないけど、Apple一社に統一されてしまうのは問題がある」という意味が分かるんだか解らないんだかよく解らない質問だった。

私は質問に答えるときに時々妙な答え方をする。(ほとんどいつもかもしれない)だからこの質問に頭ではうまく答えていたのだが、言葉がうまく伝わったかどうかはわからない。しかし不思議なことだが、IBM一色にそめるのは○○重工は大変好きだったのだが、それがAppleとなると途端に後込みする人も多いようだ。当時から考えて、今でもこの意見は変わっていないがいずれにせよ、どれか一つの機種とOSに染める、というのは会社は好きだろうが愚かな話である。特に当時は今のように「パソコンといえばWintel」という概念が確立していたわけではないのだ。当時は駆け出しのWindowsにも、Macintoshにも、そしてWork Stationにさえ文書システムとしての可能性が存在していたのである。私はMacintoshに全て染める、などという考えは持っていなかった。ただMacintoshのほうが遙かに文書作成効率も見栄えもいいですよ、と言っただけなのだ。サーバーにはWork Stationを使っていたし、シミュレーション計算をMacintoshでやろう、などという馬鹿げた考えも持たなかった。物事にはすべからく適した場所がある。これだけWindowsが普及した今でさえ、Windows(含むNT)以外を使用するのが適当な場面はいくらでもあるのだ。

そこからいくつかの質問が来た。その一つに対する答えの中で私は「使いにくければ誰も使わないんです」と断言した。そして会場から声のない賛同の意を感じたのである。○○重工流に考えれば、「会社が標準と定めて、しかるべき体制を整備したシステムは世界最高。みんなが喜んで使う」というところだろうが、実際の人間はそれほどめでたくない。(と当時の私は思っていた)

さて、聞かれた質問の中には先日課長から刺された釘によって、答えることのできないものもあった。たとえば「あなたのいる部では、Macintoshで作られる文章の比率というのはどれくらいですか?」とかいうものだ。未だに「IDEAシステムは○○重工○○の文書作成システム。機能は世界最高」というアナウンスは生きている。私の推定では当時私がいた部で作成される文章のうちMacintoshで作られる物は控えめに見ても6割を超えていたと思う。そしてその比率は日々増大しつつあった。誰も世界最高システムなど見向きもしないようになっていたからだ。しかしそんなことをここで発言すれば「傷つく人」がいるのは明白だ。私はなんだかわけのわからない事を言ってその場をしのいだ。

次に来た質問はもっとストレートだった。「Macintoshっていいんですけど、なかなか会社には買ってもらえないんですよね(なるほど、Macintoshを買う苦労はどこも同じというわけか)それだけの台数のMacintoshをどうやって購入したんですか?」

たとえばこれが飲み屋でかわされるヨタ話しだったら、私にはこの質問に対し、優に2時間はしゃべれるだけのネタがあった。しかしそんな話をこんな公の席でするわけにはいかない。

「なかなか鋭い質問ですね。。。その質問については後でポスターセッションの部でお答えします」

ここでどっと笑いが起こったことを見れば、ほとんどの観客は私が何を言いたいのかわかったのだと思う。

 

さて発表の時間は終わり、ポスターセッションとなった。すると私のポスターの前にも三々五々人が集まってきた。まず来た人達というのが「私が如何にして会社の金でMacintoshを購入したか」という様々な手口を披露してくれる人達だった。あまりにもいろいろな手口があるし、「どうやってMacintoshを買ったんですか」という質問が繰り返されるので、私はそこらへんに「手口一覧」として書いてはっておこうかと思ったくらいだ。

次には「これってCADとデータ交換できるんですか」とかいう質問が来た。なんでもできるとか聞いたので系列の某自動車会社の人達にそれを言うと「こっちのほうがいいかな」などとつぶやいていた。

最後にはちょっと上役っぽい人が来て「このシステムは役に立ってるかね。私のところも5550をいれたんだけどね」とか聞いた。彼が働いている事業所ではちょっと前にIBM5550でOAシステムを構築した、と誇らしげに発表したばかりだったのだ。ちなみにこの5550というのはIBMと名前はついているが、IBM-PCではない。企業向けに販売されていたなんとも不思議なコンピュータだった。IBM大好きの○○重工としては妥当な選択だったというべきだろうが。しかし私は感想を正直に答えた。

「5550とMacintoshでは、文章作成効率だけを考えれば全く比べ物になりません。きっとあの事業所ではみんな苦労していると思います」

このおじさんの質問を最後にポスターセッションは終了。最後にしめくくりのご挨拶となった。立ち上がった人をみればさっきのおじさんである。しまった。あの人は本当の偉いさんだったのだ。私は内心冷や汗を感じながら彼の言葉に耳を傾けた。すると彼は途中でこう言った。

「今日発表をしたみなさんは、それぞれの職場で、最高の手段をとろうとして努力されているように思いました。時と場合によって(ここで私のほうを見て)どこの帳簿に載っていないMacintoshが10台もある(満場から苦笑)なんてことにもなるかもしれません。まあそれも最高の手段を追い求めた結果でしょう」

私は下を向いたままであった。うーむ。やはり全てお見通しということか。ことわっておくが私が購入を画策したコンピューターは全てちゃんと帳簿に載っている。しかしそれがどのような手段を用いて購入されたか、ということはあまり大きな声では言えない。しかし投資した金に対して何倍もの見返りが来ていることに関しては自信があった。しかしこれも○○重工の社員としては全く失格の考えだ。どんなに無駄な金であっても会社が認めた方法で使うことに意義がある、と考えなくてはいけない。

 

さて、季節というのはありがたい物でいつの間にか春がやってくるのである。当時の私は仕事で疲れ果ててあまり良好な精神状態にはなかったのだが、それでも光があふれる季節になれば少しは気が晴れても来る。

しかし今度は別の方向から私のコンピュータシステム整備に関する意図をくじくような一撃がやってきたのである。

 

次の章


注釈

DAという言葉は意味を持たなくなった:この時点からDAはアップルメニューに登録されている単なるアプリケーションになった。ちなみにFontの扱いもsystem7からは変わった。それまではFont/DA MoverなるアプリケーションでSystem内にインストールする必要があったのだが、単にフォントフォルダ内にいれればいいようになった。本文に戻る