2001年カレーの旅

日付:2001/8/8

五郎の入り口に戻る

牛筋カレー | カツカレー | もうひとつのカツカレー


カツカレー

ふと目覚める。ここはどこだろうと思い外の看板を見るとどうやらすでにして九州に入っているようだ。熊本で4分停車というアナウンスが流れ、続いて

「お買い物をされる方は乗り遅れないように」

という注意が流れる。なるほど。そういう手があったが。私は駆け下りるとおこわを買う。おいしいおいしい。

そのあとぼんやりとしていると西鹿児島に着く。さて、ここから知覧に向かうのだが、バスセンターがある山形屋デパートとはどこにあるのだろう。

しばらく看板だの案内図を見てそれが駅からかなり離れたところにあることを知る。歩こうかとも一瞬考えるが市電に乗ることにする。今日も暑くなりそうだ。交通機関を使えるところは使っておこう。

市電にのるのは何年ぶりだろうか。しばらく待っていると電車が来たが私の前を何知らぬ顔で通り過ぎていく。ほえーと思っていると5m先で止まった。私は走ってなんとか乗り込む。ほっとするまもなく次の問題に突き当たる。さて問題です。どこで降りれば良いのでしょう。そんなことを何も考えずにのってしまったのだ。結局「天文館」というところで皆が降りるから一緒になって降りた。しかし肝心の山形屋はまだ先のようだ。とぼとぼ歩くとそのうち大きなデパートが見えてきた。

チケットを買うとボンヤリとバスを待つ。知覧と大きく行き先を表示したバスが到着すると周りに座っていた人が一斉に立ち上がる。なんと、みんな知覧行きなのであろうか。

860円もかかるからかなり遠いのであろうかと思うと確かに遠い。一時間以上は乗っていたのではなかろうか。車内のラジオからは終戦記念日の式典の様子が流れてくる。サイレンがなったから12時なのだろう。ぼんやりと鹿児島湾と思われる風景を眺める。あの日とこの光景はそうかわるまい。静かな夏空と海。あの日放送の後人々はどのような気持ちでこの光景を眺めたのか。

そのうちあれこれ看板が見えてくる。それによれば知覧はお茶の産地らしい。お茶畑をぬって進むとそのうち町らしきものが見えてきた。「武家屋敷入り口」とかいうバス停があるが、武家屋敷に興味はない。当初の予定通り終点まで行く。そこにはバス停以外何もない。降りようとする乗客が「ここからどう行くの?」と聞いている。運転手が答えることには

「歩くと20分くらい。そこの交差点を左。タクシー呼んだほうがいいかもね。」

普通こうした場所にはタクシーが列を作って待っているはずだが、それすら見えない。とにかく何もないのだ。これは歩くしかなさそうだ。

私はバスから降りるととにかく歩き出した。日差しは厳しく、容赦なく照りつける。

私はひたすら歩く。歩道の工事などをやっているから人が通ることを想定しているのだろうが、バス停の終点を延長してくれた方がどんなにましか解らない。これほど名を知られてかつ観光客に不便な場所というのはそうないような気がする。私がこんなことばかり考えるのも日差しがやたらと厳しく、そして道が遠いからだ。そのうちボーナスが加わった。だらだら続く上り坂である。

道の脇には献納とかいう文字とともに団体、個人の名前が彫られた灯籠が並ぶ。特攻記念館に来る人間には、熱気の中を歩き当時に思いを馳せろというのか。とにかく私は歩く。後ろには遠く離れて人が続いてくる。彼らから観れば

「ああ、あのおっさんも記念館に行くんだろう。とりあえずついてってみるか」

ということなのかもしれないが、果たしてこの道であっているのか。何度か地図を見る。もし間違った道を選んだらこの熱気の中での事だ。私は後続の人たちから袋叩きにあうかもしれない。

そのうち大きな看板が見えてきた。どうやらあれが特攻記念館のようだ。近づくと大きな駐車場があり、車がたくさんとまっている。結構な人出だ。この日だからなのだろうか、それともいつもこうなのだろうか。こんなに人が来るのに何故バス停をここまでのばさない。そうか。知覧タクシー協会か。奴らの陰謀によってバス路線はあそこで切れて居るんだな。しかし陰謀を張り巡らしながらタクシー待ちをしないとはなんという不徹底な。ええい暑いではないか、と妙な妄想にとらわれてみるがそのうち何も考えなくなった。とにかく頭がぼんやりする。日射病でぶっ倒れる直前であったやもしれない。

館内に入るが、頭がぼやーんとしているので細かい展示は読めない。3式戦がかざってある。その前ではおじさんが何かを読み上げ皆が聞き入っている。奥の部屋には4式戦がある。私はその昔この4式戦を京都の博物館で観たことがあるように思う。またこんなところで出会うとは。大東亜決戦機と呼ばれたそれは確かに強そうだ。別の場所に一式戦もある。妙に貧相だなと思ったら全長、全幅とも実物よりも1.5mだか小さい模型というか複製品らしい。どうせ作るなら実物大にすればいいと思うのだが、何か理由があるのだろうか。

特攻隊員の写真を眺めながら館内を回る。小学3年生になる私の甥のような幼い顔つきの少年が飛行服を着、子犬を抱えている。彼らが母に宛てた手紙を読み始めるが最後まで読むことができない。もっとも彼らの心情より、両親の心情に思いを馳せる年頃になっているのに気がついたのも本当のことだ。彼らは若すぎて自分の死が何を意味するか解らなかったかもしれない。彼らの両親はそうではなかっただろう。

見学をそこそこにして記念館を出る。頭が痛いし、思ったより混雑していたし。もう一つ理由がある。目的地はまだ先にあるからだ。

外に出るとT-6テキサンというアメリカの練習機を日本機風に塗装した飛行機がかざってある。外に展示できるのはこれくらいか。欧米(含むドイツ)の展示の仕方と比べてなんたる違いか。それを横目で観ながら先に進む。目的地はそこだ。大きな看板が出てくる。「ちらん亭」である。ここの黒豚カレーを食べる事、それが本日最大の目的だったのだ。

某文章において、「ちらん亭のカツカレーが駄目です」という投書が取り上げられていた。その投書たるや知覧の特攻記念館から始まり、ちらん亭のカツカレーを糾弾し最後には山形にある全く別のカツカレーがどうなっているのか、という質問でしめくくられる代物であった。私は考える。本当にこの知覧のカツカレーは駄目なのだろうか。疑問に思った事があったら確かめて観ましょう。それが今日の宿題です。

しかし私は慎重になる。あそこに書かれていたことが全て本当という保証はどこにもないのだ。慎重に店に近づくと入り口にメニューがあることがわかる。そこに記されている文字に目を走らせる。カツカレー、カツカレー、おお、あるではないか。黒豚カツカレーが。

中にはいると結構混んでいる。しかしここで食べなければ何のために鹿児島まで来たか解らない。しばらく待つと席に案内された。まだ待っている人がいるのに、4人用のテーブルを一人で占拠しているのだが、この際そんなことにかまってはいられない。カツカレーを注文する。やがてでてきたそれは、貧相なサラダがついてはいたが、本来のカツは立派な物である

口に運んでみると快い歯ごたえがあり実においしい。ルーもなかなかの味であある。いったいこのカツカレーのどこが駄目だというのか。別にちらん亭の宣伝をする義理があるわけではないのだが、近くにこのカレーを食わせる店があれば、体重増加の恐怖と戦いながらも週に一回は通ってしまいそうである。

暑い中をさんざん歩いた不満不平もどこへやら。おいしいカレーは私をたちどころに幸せにした。帰り道の足取りが軽いのはこんどは下り坂であるからだけではない。

さて、バス停に戻ってみると、鹿児島に戻るバスと指宿にいくバスがあり、指宿に行く物のほうが数分早く来るようだ。私は考える。鹿児島には以前行ったことがある。予定になかったことだが(実はカツカレーを食べるところまでしか考えて居なかったのだが)未だ行ったことのない指宿にいって温泉に入るというのはどうだろう。そうだそうだそうしよう。

そう決心すると来たバスに飛び乗る。バスは見慣れた道を走っていくと特攻記念館前に停車した。なんということだ。これを知ってさえいればわざわざバス停まで歩く必要はなかったではないか。まあカツカレーがおいしかったからいいや。というふうにおいしいカレーは万難を私から取り去ってくれるのである。ありがとうカレー様。

かなりの時間の後指宿駅前に着く。とりあえずここで宿を探そうと思う。観光案内所に行ったら民宿を進められた。民宿と名が付くところに止まるのは数年ぶりである。ホテルに泊まろうとすると食事無しで1万6000円だそうな。私は「民宿でお願いします」といった。

その民宿は「砂むし会館」の裏にあるとのこと。冷静に考えればここは砂風呂で有名な指宿であるからして、それは「砂蒸し」であることは明白。しかしその言葉を聞く度に私の頭の中には観たこともない「砂虫」という昆虫がうごめく。それはきっと「ケムンパス」のような姿に違いなく、砂の中に生息するのだ。そして知らずに自分を踏みつけた足にかみつくのである。砂虫のいる海岸を歩くのは危険だ。

そんな妄想にとらわれながら暑い中をとぼとぼと歩く。そのうち温泉街らしきものが見えてきた。そこには「指宿なんとか劇場」なるストリップ劇場がある。関西の一流どころが連日出演と書いてある看板はほとんどはげかけており、それでなくても看板と文字の派手さ(あるいはかつての派手さ)と木造でぼろぼろの建物の対比は何かを考えさせずにはいられない。

そこから少し行ったところに民宿はあった。部屋にはいって短パンに着替えているとおばさんが来て「砂風呂にいかんかね。せっかく来たんだから」と勧められる。これまた何も考えていなかったのだが、行ってみるかと言う気になる。言われたとおりサンダルに履き替え「砂むし会館」に向かう。前方に青い浴衣を着た人がたくさんいる。

2階に上がると受付だ。900円+タオル代100円払うとあれこれ教えてくれる。とにかくすっぽんぽんになり、浴衣を着て海岸に行けという。更衣室で着替えて歩き出す。ふりちんで浴衣など着るのは初めてだ。どうにも収まりがつかない。風通しが良いとも言えるし、ふらふらするとも言える。

そこら中に貸し出された青い浴衣を着た人が居る。そのうち

「おお。あの女性も下はすっぽんぽんではないか」

と思いあたる。ををををと思うが彼女たちは例外なくきっちりと浴衣を着ており、一部の隙も見せない。ええい、いまいましいと思いつつ海岸に繋がる階段を下りる。いたずらな風が浴衣の裾を巻き上げる。それを一生懸命手で押さえながら先を急ぐ姿。そう、これは喜ぶべき光景であったのかもしれない。私がその裾を押さえている当事者でなければ。私の裾がまくれ上がる所を観て誰が喜ぶというのだ。これほど無意味な出来事はない。それは神の御心なのです。神は時として無意味な事をなされるのです、と言うお前は誰だ。

しかしなんだなあ。裸の上に浴衣が一枚と想像すると私は動揺する。裸の上に下着が一枚でも多分動揺する。しかし裸の上に水着が一枚だとこれは堂々と外を歩ける恰好となる。この差異は一体どうしたことか。スカートの下に下着が見えたとか見えないとか騒ぐのであれば、水着姿の女性を観れば最初から最後まで騒ぎっぱなしでなければならぬではないか。かくの通り人間が喜ぶ物というのは馬鹿馬鹿しい。ああ、しかし何故ここの女性は皆浴衣をきっちりと着込んでいるのだ。

そんなことを考えながらのたのたと歩いていくとあっちに行けと言われる。言われたとおりに浴衣を着たまま寝そべる。おばさんが二人がかりで私に砂をかける。生きながら埋葬される趣である。私が寝そべったところは既に少し掘られていたのだが、ちょっと熱い。上からは砂がかけられて重い。寝る前に浴衣のひもをきつく縛り直され

「こんなにきつくてはリラックスできないではないか」

と思ったのだが、そんなことは問題ではない。熱くて重い。呼吸は自然と控えめになる。頭にはおばさんがタオルを巻いてくれる。

この体勢になると、もうできることは何もない。遠く青空が見える。前にいる人間を一生懸命TVのカメラが撮している。今晩のニュースで流れるんだそうな。身動きできないからとにかく閑だ。そのうち私の左前方に若い女性が来る。おお。彼女はこれから埋められようとするのか。しゃがみ、そして寝るという動作を行う間に隙はできないのか。私は首を一生懸命上げる。気がつくと私の足下に寝ている男も一生懸命首を動かしている。考えることは同じだねえ。しかし彼女は一部の隙も見せず砂に埋まる。

私は普段「からすの行水」で知られた男だ。だいたい風呂にはいって何をしろというのだ。なのだが今日は900円も払っている。となればいつもの主義を捨て少しはここで頑張る必要があるのだ。と頭で解ってはいるのだが、熱いし何もできないから退屈だ。そのうち「出ていいっすか」と聞き立ち上がった。ああ。体が自由になるのって素敵。

多少浴衣は乱れていたかもしれないが、それがどうした、という気分になりすたすた歩く。こうやって手足が動かせるではないか。「戦場のメリークリスマス」という映画でデビッドボウイが地中に埋められて処刑されるのだが、浅く埋められるだけであのようになるのだから、あんな風にしっかり埋めらるのがどんなことであろうかというのは想像するだに恐ろしい。

普通の温泉に入り砂を落とすとほっとする。その日はご飯を食べ、ぱたっと寝てしまった。やはり疲れていたのだろう。

翌日目覚めると宮崎に行く。そこからフェリーで帰ろうと思ったのだが数日先まで満席とのこと。考えてみれば帰省ラッシュなる物が始まる時期ではないか。あれこれ考えたあげく夜行列車で帰ることにした。個室をとるような贅沢は許されず、2段ベッドの上の段だ。窓もなく何もないのだが、ぐっすり寝てしまった。家に帰るとまたあの見慣れた街並みが。食生活も元通りだ。

最後に:指宿駅改札付近にて

前の章 | 次の章 


注釈

 あそこに:「それだけは聞かんとってくれ第339回参照 本文に戻る