腰痛の歌

日付:1999/8/4

五郎の入り口に戻る

Good Old Friend

その日

次の日

Brief History about Back Pain

1997年の冬

Ruby Tuesday


Brief History about Back Pain

ここで私と腰痛の歴史についてちょっと書いてみよう。

私がこの腰痛とつきあうようになったのは、入社2年目の秋だから今をさることを約13年前である。私は東京都新島である土方作業のようなものに従事していた。

お客様達と一緒に働く職場であった。一日が終わろうとするとき、ある機材を片づけようとしていた。二人で重い機材をえっちらおっちら運び、そしておろした。その瞬間腰に

「びりっ」

と電気が走ったような気がした。

瞬間「ん?これは噂に聞いた”ぎっくり腰の時は、電気が走ったような感覚がする”という奴かな?」と思った。しかし私はまだ23である。こんな若くしてぎっくり腰になるなんて、、と思い、とりあえず知らんぷりをすることに決めた。「なんでもないんだよー」という顔をしてそこから5−6mすたすたと歩いたのである。

なーんだ、ちゃんと歩けるじゃないかと思い、立ち止まった。そしてそこから一歩も動けなくなった。

とりあえず平静を装いながら考えた。季節は秋の初めで、ここちよい風がふいている美しい夕暮れである。しかしまわりが美しかろうがどうだろうが、とにかく足は一歩も動かない。これは本当にぎっくり腰かもしれない。どうしよう?

「すいませーん。ぎっくり腰になりました」なんて言うのは恥ずかしいよな。しょうがない。とりあえずここで立って休んでいよう。とりあえずまた知らないフリをしていれば、なんとかなるかもしれないではないか。そうしよう。

そう思ってはたからみればぼーっと、こちらとしては、困惑を覚えながら立っていたのだが、そのうち目の前がだんだん暗くなってきた。この感覚には覚えがある。痛みをこらえているとだんだん気が遠くなるときの感覚だ。これはいけない。いずれにしても人のお世話になるとすれば、ぶったおれてからではなんともしがたい。私は意を決してお客さんの隊長さんに声をかけた「すいませーん。○○○○。ちょっと動けないんですが。。」

「ああ。大坪さん。どうしたの?」

それからのやりとりは正確には覚えていない。後で聞いた話だが、このとき○○さんは「あれ。大坪さんがぼーっとたってる。疲れているのかな」と思っていたそうであるが、こちらはそれどころの騒ぎではない。気がつくと私はコンクリートの上に腹這いになって寝かされていた。雰囲気からさっするに周りにはたくさんの人がいて見下ろしている様子だが、こちらとしてはぴくりとも動けないのだからどうすることもできない。そのうち現場のお医者さんが到着した。

彼はあれやこれやを始めた。今でも覚えているのは足か何かをさわって「感覚がありますか」と聞かれたことだ。私は「はい」と答えた。思うにあれは神経が麻痺しているかどうかの検査だったのだろう。

次に何をするためか覚えていないが、とにかくお尻を丸出しにされた。後で人に言わせるとここで注射をうったそうなのだが、全く覚えていない。とにかく衆人環視の前でおしりを丸出しにするのはあまり格好のいいものではない。しかしとにかく相手はこちらを治療しようとしてそうしているのだから、文句を言えた筋合いでもない。

さて、そこからどうしたかまた覚えていないが、とにかく車に乗せられて山の上にあるもっと立派な診療所までつれていかれた。会話の内容からさっするにさっきのお医者さんは若い人で、この診療所にいるのはもっとベテランのお医者さんらしい。それまで「ぎっくり腰」と言えば、「椎間板ヘルニア」なるものだと思っていたが、どうやら私はそこまではなっていないらしい。ヘルニアというのは神経がはみ出してしまうもので、私のは「椎間板ショウ」なる病気らしい。つまり腰の捻挫だ。

翌日は島のもっと大きな病院につれて行かれた。会社の上役が一緒である。レントゲンを撮られ、それを見ながら医者が言う言葉がふるっている。「特に骨がずれたりはしていないようです。。。ところで肋骨が短いのが2本余分にありますねえ」それを聞いて上司は大笑いである。「どうしておまえがそんなに変わっているか理由がわかったぞ」だそうである。こちらとしては肋骨が多かろうが少なかろうが知ったことではない。とにかくこの腰痛が治らないことにはなんともならないのだ。注射か手術でもあるのかと思ったら、「安静にして寝ていなさい」ということだった。結局そのまま民宿に逆戻りである。

それまで民宿に泊まっている他の人にずいぶんたすけてもらった。トイレに行きたくなったときは、わきから支えてもらってトイレに座らせてもらった。用が済むと「すいませーん」と人を呼びまたつれて帰ってもらう。それまで一番の困難は腰が曲がらないことであり、腰をまげずに直立した姿勢から寝る姿勢に移行するのは大変難儀であることを経験していた。さて、病院から帰ってきた私は支えてもらって布団の前まできた。思うに若かっただけあってこのときは結構回復していたのではなかろうか。なんとか自分一人で寝てやろう、と思ったのである。

まず直立した姿勢から膝を折って、膝立ちの姿勢になった。次に体を前に投げ出した。そういえば高校の時柔道をやっていて、「前受け身」なるものをずいぶん練習させられたなあ、、と思ったがあの要領である。これでほぼ四つん這いの状態になっている。そこから徐々に姿勢を低くして、つまり足を広げ、手をひろげて腹はようやく布団についた。私としては「おお。すごいこれで一人で寝ることができたぞ」と大満足である。

ふと気がつけば隣で私の上役は腹を抱えて笑っている。いつまでたっても笑いやまないので「なんですか」と言うと、「いや、笑っちゃ悪いとは思うんだけどさ」と言いながら笑い続けている。後日この出張の打ち上げ宴会があった。そのとき上役に「何をあんなに笑ってたんですか」と聞くと、「いや、まるで蛙がだんだんつぶれていくようだった」と言った。今から冷静に考えれば確かに私の姿を第3者がみればそうだったような気がする。

さて、寝ていたのが2日だったか3日だったか全く覚えていない。私はなんとか正常な生活が送れるようになっていた。このとき何故私が新島に行っていたかというと、2回ある試験の準備及び立ち会いである。翌日はその1回目の試験、というときに上司が来て「大坪くんは、1回目の試験を見たらもう帰っていいよ」と言われた。

私は「それは困ります。是非2回目の試験までここにいさせてください。もう腰は大丈夫です」と答えた。当時の私はまだ若かったから仕事にかける情熱なるものが少しは残っていたのだろうか、あるいは「ここで試験の立ち会いもせずに帰ったら”はるばる出張に行ったのはいいが、ぎっくり腰になって仕事もせずに帰ってきた男”として歴史に名をとどめてしまうではないか」という恐怖感があったのだろうか。

さて、翌日は試験の日である。私はちょっと不安を覚えながらも出勤した。どうやら腰はご機嫌のようだ。機材によじ上ったり降りたりも結構快調にできる。さて、準備が終わっていよいよ本番。この試験というのは大変緊張するものである。3,2,2,1,0というカウントダウンとともに一回目の閃光が走り、数秒後にもう一度閃光が走る。成功だ。この試験における私のミッションは、この「数秒おきに2回光る閃光」であったからこれで首尾良く仕事をしたことになる。私はご機嫌になって、データを監視していた先輩に「どうでしたか」と聞いた。

先輩がなんと答えたかはここで繰り返さない。とにかく成功は成功だったのだが、問題はちゃんと起こっていてくれたのである。しかもよりによって私が担当した機材でだ。彼がご機嫌に動いてくれてさえいれば私は宿屋に帰って祝杯でもあげて安らかな眠りにつくところであったが、そうはいかなくなった。

朝はご機嫌だった腰の調子も一日が終わる頃になるとさすがに悪くなる。おまけに出張していた数十人の中で一番の上役までが飛んできている。彼はトラブルが大好きで、問題が起こると飛んできて解決にあたらずには居られない性分なのだ。彼は大変生き生きとして楽しそうである。私には「大坪君。コピーくらいだったら僕がやるよ」と言ってくれるが(彼は大変いい人だったのである)こちらとしてはそんなことを頼む訳にはいかない。おまけに彼がうれしそうにしている以上、私が「じゃあ帰ります」という訳にもいかない。他に代わってくれる人は誰もいないのだ。その日やれることをやり終わると私はよれよれとして民宿に帰った。

それから数日後、今度は2度目の試験だ。今度が本番。1度目の閃光の後、まるで時間は止まったかのようだった。しかしこの試験関係全員にとって幸運だったことに2度目の閃光は見事に光った。これで私は大きな顔をして名古屋の職場に戻ることができるわけである。

さて数日後職場に顔を出すと、みんな顔が笑っている。確かに試験の成功を喜ぶこともあるだろうが、どうもそれだけではないようだ。そのうち事情が判明した。試験の間、毎日の終わりには会社に「日報」が送られる。その末尾にあった「大坪社員腰負傷」という文字はまたたくまに広がり、その日が終わるまでに私が働いていた場所から一番遠いところで働いていた同期のところまで届いたらしい。そしてみんな「大坪たいへんだなー」と言いながらも目が笑っていたのだと。

さて、こちらはみんなの笑い物になろうがなんだろうが、とにかく腰の養生が大切だ。その冬の間この腰痛は時々現れては私を苦しめてくれた。しかしこれも悪いことばかりではなかった。この後にも何度か経験したことであるが、自分が腰痛でひっくり返ったり、それから快復して会社に行ったりすると「腰痛仲間」があとから後からでてきて、いろいろ慰めてくれるのである。「実は僕もやったことがあってね」とかである。思うにこうした苦しみというのは経験したものでしかわからない物ではなかろうか。だから健康で腰がぴんぴんしている相手に話せる内容ではない。しかし相手が同じ苦しみを共有しているとなれば、いろいろと話したいことでもあるのだろう。

みんなの話を聞いていると、結構いろいろな原因、年齢でぎっくり腰というのはなるもののようである。ある人は体操をしているときになり、ある人は歯をみがいている最中になったという。年齢もかならずしも年を取ってからなる物でもないようだ。

さてこうした「腰痛の輪」に感心していた私だが、その後数年間は腰痛など自分に縁のないことのように暮らしていた。再び私が「俺は腰痛もちだった」ということを認識したのは1993年、私が30になったときのことである。

私はバンドでボーカルをしていた。(今もこのバンドは続いているが)そしてドラムを叩いている男が結婚する、というのでその2次会にむけて熱のはいった練習をやっていたのである。

さて、ある曲をやっていて終わりが近づいてきた。CDとかであれば曲の終わりに「フェードアウト」という技が使える。なんとなく小さくなっていっておしまい、というやつだ。ところがライブではこの手は使えない。そこでみんなで終わり方を考える必要に迫られる。

場合によっては最後が「じゃーーーーーん」とのびることがある。延々のびるのは別にかまわないが、どこかでけりを付ける必要がある。その合図というのは正当派ロックであれば、やはりボーカルが飛び上がって、「どん」と飛び降りるアクションであろう。

さて、私は事前の打ち合わせ通りひゅーっと飛び上がって「どん」と降りた。ところがその瞬間、腰に鈍い痛みが走ったのである。

内心「うげげげ」と思いながらその日は何事もなかったような顔をして帰った。しかし翌日私は「すいません。ちょっと風邪をひきまして。。」と会社に電話せざるをえなかったのである。間違っても「いやー、ロックの練習をしていて派手なアクションをやったらぎっくり腰になりました」なんて言えないではないか。それでは絵に描いたような「年寄りの冷や水」という奴である。このときは幸いその翌日には歩けるようになったので事なきを得たが。

それから私はだんだん懐疑的になってきた。やはり私は腰痛持ちと呼ばれる人間になっていたのである。それからスポーツ選手が腰を痛めた、とかいう報道を聞くと妙にその選手に同情を感じるようになった。いつかのオリンピックでアメリカがバスケットボールのDream Teamを組んだことがあった。そのなかでラリー・バードという選手はプレイしていない間、大抵の時間腹這いに寝そべっていた。人によっては「何、あの態度」という人もいたようだが、彼は腰を痛めて引退間際だったのである。以前だったら何ともおもわなかったかもしれないが、寝そべっている姿をみて私は彼の腰の痛みがわかるような気がした。

さて時は移ってそれから4年後、それまでだましだまし腰痛とつきあってきた私に強烈な2連発が訪れたのである。

 

次の章


注釈