題名:書評

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日付:1998/3/8

修正:1998/8/22

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歴史関係-Part2

敵対水域-Hostile Waters(ピーター・ハクソーゼン、イーゴリ・クルジン、R・アラン・ホワイト著、三宅真理訳。文芸春秋)(1998−1999)(参考文献の項に戻る)

1986年、アメリカの大西洋沖で沈没した旧ソ連のミサイル原潜(大陸間弾道弾搭載)の物語。

この本には真実のみが持つ緊迫感、迫力が満ちている。色々な事を考えさせてくれる本だが、ここではいくつかの点に絞って書いてみよう。(別の考察は「35歳」の中に書いてある)

ソ連が存在し、かつ情報をひたすら秘匿していたころ、彼らの原子力潜水艦がどのような性能を持ち、どのように運用されているかなどということは我々がとうてい知るところではなかった。それでなくても潜水艦については外に出てくる情報というのは限られているのだが、それにソ連という枠が加わればなおさらだ。私は以前防衛関係の仕事をしていたから、「ソ連の脅威」については何度も調べた。そして彼らが所有している膨大な数の原子力潜水艦は多くの意味において実質的な脅威と思われていたのだ。

その「脅威」の本当の姿がこの本に書かれている。技術でも豊かさでも実力に乏しい国のみせかけの威信を保持するために第一線の兵士は今の日本の基準では信じられないほど劣悪な兵器を持たされ、そして酷使される。今から15年ほど前に、「北海道沖にはソ連の潜水艦が2隻沈んでいる」と聞いたときには「そんなに簡単に沈むもんか」と妙に思ったものだが、この本に書かれている様子を信じるとすれば、もっとしょっちゅう沈んでいても何の不思議もないような気がする。建前を維持するために無理を強いられるのは組織に生きる以上避けられないことだが、我々は命を奪われないだけましか。

今や彼らがあれほど苦心して維持していた情報のコントロールは無きに等しく、こうした情報は世界中に筒抜けである。ソ連の港に係留されてさびるままに報知されている原潜の写真などをみかけるようにもなった。それでも別にNATOがソ連に侵攻する気配もないようだ(あたりまえだが)冷戦時代の戦いというのは何だったのだろうか、と考える人は双方に多いに違いない。

この本には、米国、ソ連双方に「狂人」という印象を与える人物が出てくる。ソビエト艦隊総司令部では、事故の原因を「劣悪な状態の潜水艦を酷使した」せいではない、とするために艦長が危険思想を抱いていたと決めつけようとする。そしてOBAと呼ばれる酸素容器を何の保護もなしに海面に投下し(物理の法則によりこれは破壊する)放射能の充満する潜水艦からようやく脱出した乗り組み員に「潜水艦を救うため、艦に戻れ」と命令するのだ。彼らにとっては乗組員を救うよりも、彼らの筋書きに従って、艦とすべての乗組員が海中に沈んでくれたほうが遙かにありがたいのだ。

米国で、この潜水艦を追跡していた攻撃型潜水艦の艦長にしてみれば、これは千載一遇のチャンスである。彼にはソ連潜水艦の乗組員の救助等という考えは毛頭もない。(実際潜水艦はそうした任務には就かないと思うが)彼はソ連の乗組員がのったボートが転覆する危険性など度外視して、暗号文書のはいった袋を撮影するために、ボートすれすれまで潜水艦を接近させるのだ。

この東西2種類の狂人の行動は似ているようでありながら、どこか違っている。ソ連の高官は、その体制が保持しようとしている意味のない(現実から遙かに遊離してしまった)建前を保持し続けるために潜水艦の乗組員を、自国民を殺そうとした。対して米国の潜水艦艦長は、所属する組織の実質的な利益(暗号文書の入った袋の形状の確認)のために、敵国民を殺すリスクをかえりみなかった。仮にソ連の乗員がこのために死亡していたとすれば、それは両国の大部分の国民にとってあまり好ましからぬ緊張をもたらしていたことだろう。しかしそれは彼が所属していた組織の存在理由とまさに重なるのである。

この2種類の狂気の違いは、そのまま彼らが所属していた組織がその後どのような運命をたどったかに現れているように思える。ソ連なるものはもうどこにも存在しない。世界はこのソ連が残した負債をこれから何十年にもわたって払い続けることになる。かたやこの潜水艦艦長は将官への昇進をせず退役したものの、米国の潜水艦隊は予算を削られながらも健在だ。もっとも彼らが今後どうなるかは私の知るところではないが。敵がいなければ性能抜群の潜水艦など何の訳にも立たない。

ちなみにソ連の「狂気」は第2次大戦の時の日本にちょっと似たところがある。当時の日本も現実から遊離した彼らの建前を守ることを第一義にしていた。そしてその組織がたどった運命も似ている。その組織の建前が現実から遊離すれば、その組織は遠からず崩壊する-というような信条を持ち始めたのはこの本を読んでからかもしれない。

ノモンハン(?)参考文献の項に戻る

アルヴィン・D・クックス著、岩崎俊夫・吉本晋一郎訳、秦郁彦監修。第2時大戦前夜のノモンハン事件に関するすばらしいドキュメンタリー。膨大な資料をインタビューを元に事変の詳細な再構築がなされている。さらに「事実の記述」と「それに対する評価。原因の分析」をきれいに区別し、日本の戦記物にありがちな「やたら感情的な叫びが混じる」うるささがない。この本の解析にInspireされたことはいくつかあるが、これはまた別途文章としてまとめるつもりである。(ととりあえず書いておく)

いつもながらこういう本を書く人はいったいどういう頭の構造をしているのだろう、と感心することしきりである。おまけにこの本は原文からかなりの部分を削った「短縮版」なのである。

日本語版への序の中には「最初の10章と最後の1章を削った」とある。それらが付加されていれば、関東軍が誕生から滅亡までどういう道筋をたどったかが俯瞰できるすばらしい書に(私にとっては)なっただろうに。

こうした厚みのあるドキュメンタリーが日本版になるときに「ばっさり」短縮されることがあるのは、残念なところだ。

ノモンハンの夏(半藤一利著)(1999/7)

ノモンハン事件について書かれた本はたくさんあるが、これは事件そのものよりも、当時大きく動きつつあった世界史の中でのノモンハン事件、という捉え方をしている。

この事変が始まる前から、日本は3国同盟に向けて内輪の戦いを続けていた。そこへ起こったのは独ソ不可侵条約の締結である。そしてそれはドイツとソ連の間でのポーランド分割、第2次大戦へとつながっていく。

この本で、ノモンハン事件はその条約を結んだ独ソ二人の独裁者-特にスターリンの都合により拡大され、そして集結させられた、と著者は主張している。当時のヒトラーの思考過程を正確に追うことは容易ではない。スターリンに至っては未だにほとんど謎の人物である。従って私としてはこの本が確たる資料に基づいた部分と、筆者の推定、推測を述べた部分を明確にわけておいてくれたらな、と思ったりもするのだが。確かに著者が主張しているような事情は多少はあったのかもしれない。しかし私の考えではスターリンそれほどこのノモンハン事件に注意していたとは思えないのだが。

そうした面でこの本は事実を記述した、というよりは著者の主張-仮説-を述べた本となっている。スターリンに関する記述はほとんど小説と言っても良いほどだ。従ってノモンハン事件について「事実」を調べたければ別の本を参照したほうが良いかもしれない。しかしながら筆者の主張は明確であるし、この事変自体大変興味深いから、以下いくつか関連した事項をのべてみよう。

 

当時大戦に参加した国の中で唯一はっきりとした指導者が存在しなかったのは日本である。この本の中でも辻なる関東軍参謀が事態を好き勝手に引っ張り回すところが描かれている。当時日本を動かしていたのは、そうした身勝手な軍人-小役人、官僚、及びそれに迎合する名もない人たちだったのだ。悪だろうが善だろうが、一国を担う指導者がいる国と、小人が勝手にばらばらと騒いでいる国が戦争をすれば結果は明白だ。こうした傾向-私は勝手に集団的無責任体制と呼んでいるが-について考えを巡らすのは興味深いことだ。

たとえばこうした設問をすることができる。当時の日本にはそうした小人物しかいなかったのか?国家の戦略を論じることができる人間はいなかったのか?私はそうではないと思う。たとえば独ソ不可侵条約をとりあげてみよう。

この全く異なるイデオロギーを持つ2カ国の間に結ばれた条約は、多くの日本人にとって仰天するような出来事だった。。。とされているがこの本を読む限り状況はそんなに単純ではなかったようだ。「欧州の天地は複雑怪奇」と叫んで内閣を放り出した人間がいる一方、仰天する政治家達をひややかな目で見つめる元陸軍、宇垣のコメントなどは大変興味深い。

「独ソの不可侵条約締結の報は、なんだか霞ヶ関や三宅坂辺には青天の霹靂出会ったように見える。驚天動地し狼狽し憤慨し怨恨するなどとりどりの形相が現れているが、余は何も驚くに値せぬ、くるべき物が当然に到来したのであると考えている。有頂天になりてフワフラしている連中には、心ここにあらざるを持って見れども見えず、聞けども聞こえなかったらしい」

当時の日本に大人物がいなかった訳ではない。しかし彼らを実に効率的に排除するシステムが整っていたのだ。事実を冷静に見つめ、それに基づく自分の考えを持つ人間は組織からはずされる。そのことにより、組織に残った人間-願望を現実と見ることができるもの-にとって組織は安定し、ますます快適な場所となり、事実を冷静に観察できる人間はますます排除されやすくなる。そうしたフィードバックループが確立していたように思える。

 

この本の中ではそうした無責任な小人-関東軍と陸軍省の秀才官僚に対する怒りが繰り返し述べられる。著者にすれば「怒りが鉛筆のさきにこもるのを如何ともしがたかった。」のかもしれないが、多少うるさい感じを受ける。事実を冷静に記述すればそれを読んだ多くの人が怒りを感じずにはいられない。そしてそれは読み手に任せる、という方法もあったのではないか。

私個人として、こうした記述を読んで感じるのは怒りではない。ため息だ。この著者がどういう経歴を持つ人か知らないが、これだけ「怒り」を感じることができる、というのは私から見れば人が良いか、恵まれた環境にいたかどちらかである。今でも日本の多くの部分にこうした集団的無責任体制は存在し、それに伴う「自分の考え」を持つ人間を排除することにより組織を強固にするフィードバックシステムもはびこっている。そしてジューコフが述べた

日本の下士官、兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である

という論評も依然として広く当てはまる。しかしそれらに怒りを覚えたところで何ともならない。相手は微動だにせず(だから彼らは平和に暮らせるのだが)「もっと馬鹿にならねばだめだ」と言い放つ。そんなことをしていれば自分の精神と肉体が疲弊していくだけだ。

その中で出来ることと言えば、せめて何が当時と今の日本にこうした集団的無責任体制をもたらしたか、そして今の日本は昔の陸軍に比べればうまくやっているとすれば、変化した部分もあるのではないか、などと思いを巡らすくらいなのだが。

 

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注釈

組織の建前が現実から遊離すれば、その組織は遠からず崩壊する:(トピック一覧)会社の運命もおそらく同じだと思う。本文に戻る