題名:Wiener Philharmoniker Week in Japan 2006(2006/11/8)

五郎の 入り口に戻る

日付:2006/11/16


待ち合わせは川崎ミューザの入り口に5時半。遅れるのではないかという強迫観念にとりつかれ、やたらと早く着くのはいつものこと だ。5 時10分には川崎駅を出る。すると電話がはいる。もうついているとのこと。顔を上げれば夕焼けが美しい。私はその場の写真を撮ったが、他にも二人カメラ を向けている人がいる。

てくてく歩いていくと川崎駅のこちら側(西口だが)は東とは全く感じが違うことに気がつく。再開発によって建物が全く新しくなった のだろう。ミューザ川崎 に足を踏み入れると階段にしかけられたLEDの明かりが迎えてくれる。進んでいくと「おとうさーん」と声がかかる。

皆で食事をしてぶらぶらする。館内にある書店の店頭に「のだめカンタービレ」が平積みされている。見ていると今日のコンサートに来 たとおぼしき夫婦連れ (私より年上だと思ったが人から見れば私もあのような年なのかもしれない)が手に取ってみている。そして今日の演目の一つはその「のだめ」で有名になっ たベートーベン7番なのだった。

開演時刻が近づいたのでコンサートホールの入り口にいく。すでにして多くの人がいる。ベルリンフィルの時も感じたが、来ている人達 はどこか上品で落ち着い ている。そうした人達の中にいるのは心地よいことなのだが、そんなことを全く気にしないのが子供達である。声をあげそうになるたびに「しー」っと言って静 かにさ せ る。娘の方はふらふらと歩き続ける。そりゃきらきらした光がいっぱいでおもしろいからねえ。などとやっているうちにだんだん混んできた。ここはよいホール だと思うが、入り口前のスペースが狭いのは明かな欠点ではなかろうか。列ができているから苦労したあげく並ぶ。ここで「苦労したあげく」、と書いたのは私 はベビーカーを押 していたからだ。

待つことしばらく。開場したらしく列が前に動き出す。それと同時に何かの音が聞こえる。傍らに置かれた手回し式のオルガンのような 箱から流れてくるようだ。 。子供は興味をもったらしく「見たい」、と言うがもちろん足を止めることなどできない。しかし早く進みた い、と気がせくのを押さえる点からもこれはよい 工夫 だと思う。息子はあいかわらずちょろちょろしているので、持ち上げてベビーカーに乗せる。

中にはいるとまず託児所を探す。少し行ったところにそれらしき紙がはってある。行けば保母さんとおぼしき女性が何人かエプロンをつ けて待っている。今日も らえるおやつも並べられており「アレルギーはないですか」と聞かれる。幸いなことに今のところそうしたものはありません、と答える。扉を開けるとその奥に 託児室があった。いくつかのおもちゃが並べられており、息子はさっそくフォークリフトにかじりついている。おむつとかあれこれ渡してその部屋を出ようとす る。離れるときに子供がむずかるかと思ったが、ふたりともおもちゃにかじりつきでこちらを見もしない。コンサートが終わったら来てください、と言われる。

子供を預け終わると座席に向かう。席についてみれば3階ではあるがステージ正面。作りのせいかあるいは本当にそうなのかはわからないが全体がコンパクトに 見える。席につくとしばらくぼーっとする。
まもなく開演の合図があり、オーケストラの人達がはいってくる。指揮者が登場するとやおら曲が始まる。モーツァルトの39番。第一楽章で「?」となる。ト ランペッ トの響きがなんだか変だ。そもそもトランペットってどこにいるのだろう、ときょろきょろする。その間もなんだかトランペットの音色に違和感を感じ続ける。 この

「細かいところばかり気にする」

というのは私が小学校のころブラスバンドをやっていた頃身に付いた脅迫観念である。ホルンを吹いていた私は音をはずしまくる子供で あった。今から考えれば 先生達の頭痛の種であっただろう。自分だって楽しくないからはずさないようにと気をつけるようになる。その強迫観念がこんなところまで影響するとは。

などと細かいところにこだわっていると第2楽章になる。この指揮者は緩急を自在に使う。「ため」を作ってどん、とくる。そのせいかどうか知らないが、弦楽 器の誰かが2−3回一人だけ早くでてしまう。ええい、こんなネガティブなところばかり考え ていてどうする。しかし幸いなことに内なる「あら探し」の声はここら辺で静かになった。オーケストラが奏でる「弱い音」に驚嘆する。それは音量が小さいだ けでしっかりとしており、しかも伸びがある。このように美しい「弱い音」が奏でられてこそ、表現に幅ができることだろう。まもなく3拍子のリズムがはっき りわか る箇所がでてくる。ずん ちゃっ ちゃっ ずん ちゃっ ちゃっ。こうなるとさすがにウィーンフィル(この見解は受け売りだが)まるで音楽が舞っているか のように奏 でてくれる。
などとご機嫌になっていると39番はおしまい。えっつもう終わり?楽しい時間はあっというまに過ぎ去りもう半分終了だ。これは後半も気合いをいれて聞かな くては。
休憩ということでコーヒーを飲みに行く。そういえば音が地味めだったような、、とかあれこれ話をする。預けて来た子供達のことを少し考える。終わったら来 てください、とのことだったから行かなくてもいいのだろう。そもそもあんまり人が出入りすると物騒だ。そう考えるとコーヒーをぐい、と飲む。

2曲目が始まるとのことで席に戻る。さて次の曲は「のだめSオケの課題曲」ことベートーベンの7番である。「のだめカンタービレ」 の指揮者こと千秋先輩は この曲を

「5番や9番ほどメジャーではないがスケールが大きく躍動 感あふれるすばらしい交響曲」

と評していた。さて、今日はどのように奏でてくれるのだろう。

最初に「じゃーん」と楽器がなった後オーボエだけが残り音色が響く。ある人のブログには

「ここでオーボエのチューニングが狂っており、いきなり”のだめ”状態」

と書いてあったが私にはその音程のずれはわからない。しかしここでまた「あらさがし」マインドが復活する。今度はホルンだ。ベルリ ンフィルにおいても人を 経験な祈りにいざなうこの楽器はここでもきっちりこけてくれる。しかしそんなことを考えていたのはほんの短い間だった。

この曲には同じ構造が何度かでてくる。そしてそのたび「伸びのあるすばらしい弱音」から不意打ちを食うようにがーんと音が響く。そ のタイミングは絶妙で あり、私のつたない筆では「強弱と緩急を自在に操る」としか表現できない。次はどこでどかん、がくるのだ。そう思い指揮者の手元を見つめる。すると実にタ イミン グがとりにくいことに気がつく。その昔私がホルンを吹いていたとき、指揮者たる先生はこういった。

「先生のへそから赤外線がでていると思え。そこを指揮棒が 通った時に音を出せ」

しかしこの指揮者はへその赤外線をタイミングにはしていないようだ。いったん腕が降りて、あがったところで音が鳴る。タイミングは どこなのだ。ああ、また静 かな音の後にどかんだ。

そうこうしているうち、指揮者の体からは異様なエネルギーが発散され始める。後で知ったことだがこの指揮者-アーノンクール-は 77歳。私の父と同じ 年だ。私の父も年の割に は元気な方だと思うが、この男の爆発するエネルギーはなんなのだ。そして私の頭の中には一つの言葉がかけめぐり始める。

「この指揮者はロックの魂を 持っている」

爆発する魂とそれを表現するための鍛えられた技。この二つ が組み合わさる様を目の当たりにすると私はい つも感動する。そしてこの音楽はまさしくそれだ。「のだめ」オケの演奏と、いや、ラトル指揮のウィーンフィルと同じ曲を演奏しているとは思えない。しかし それはウィーンフィルの技量とこの指揮者なりのベートーベンの解釈から生み出されたものだ。後で奥様から言われた言葉に私は深く頷くことになる。

「ベートーベン自身が指揮したとしたらこういう演奏だった のかもしれない、と思わせる物がある」

後日この指揮者について得た断片的な情報から私は勝手な想像をふくらませる。彼は古楽の第一人者との事。音楽表現のあるべき姿を考えた末、その 曲が作られた時の楽器、奏法で演奏することにたどりついたのだとしよう。その彼が楽譜に相対し、考え抜いた末に作り上げたのがこの音楽だとすれば。今まで 誰がどのようにこの曲を演奏したかなどは関係ない。これこそが自分が奏でるベートーベンの7番だ、という声が聞こえてくるようではないか。そしてそれはま さしく私が「ロックの魂」と呼ぶ物なのだ。

などと感動していたら楽章を数えるのを忘れていた。3楽章なのにこの盛り上がりようはなんなのだ。終わったときに拍手せず にいられるものか、と 思ったら本当にみんなが拍手した。ちゃんと第4楽章にはいっていたようである。演奏者、指揮者に賛辞を送るのには拍手が一番いい手段だからとにか く腕が疲 れるまで手をたたく。何度か出入りしていた指揮者がオーケストラの方を向く。アンコールだ。曲名はこれも後で知ったのだが、ベートーベンの8番、第2楽 章。最 後にオーケストラが立ち去っても拍手は止まらない。最後に指揮者が一度だけでてきた。

というわけで心おきなく会場を後にして子供達を迎えに行く。長男はスライムのようなものでお寿司を作っていた。長女は寝ている。この部屋にも会場の様子が 流れていたようだ。「何がよかった」と聞くと「じゃーん」と言った。エレベーターの中で一緒になった女性が「それじゃどっちかわからないなあ」と言 う。
車庫は駐車券を渡し、自分の番がくるまでまつ方式だ。結構時間がかかったのだが幸せな気分になっているときはそんなことも気にならない。ハンドルを 握って家路につく。
その間例によっていろいろな事を話したり、考えたりする。私のような素人は気楽なものだ。「すごかった」と感動していればいいのだから。しかし仮に指揮者 がこの演奏を聴いたらどう思うのだろうか。細かいところにけちをつけていられる人は幸せだと思う。全く聞いたことがないベートーベンで聴衆を圧倒する現実をつきつけられるのだ。私 が指揮を志しているものであればしばし遠いところに旅立ってしまうかもしれない。


注釈