題名:Clinton-part18

五郎の入り口に戻る

日付:2001/8/9

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2001/9/17-次に起こること

アフガニスタンのタリバンは、最初テロに反対、今回の事件には無関係、という声明を出した。次には

「アフガニスタンは貧しい国だからこんな大規模な攻撃はしかけられない」

と言い、次には

「アフガニスタンの中には飛行機の操縦を訓練する施設はない」

と言い、つまるところはいつもの「聖戦」に備えろとわめきだした。何度かTVに出てきた男が、数珠のような物を神経質にいじくりまわしていたのが印象的。もう一つ印象的だったのは震え続けていたアラファトの唇か。

これほど大規模に一般市民を目標にしてしまえば、誰も同情のそぶりすら見せることができなくなる。オウムも地下鉄にサリンを撒く前は

「宗教の弾圧云々。オウムばかりを犯人扱いするのは間違い」

のような言葉が聞けた物を、あのテロはそれを一気に吹き飛ばしてしまった。

USのあるサイトでは「自分用のアメリカ国旗をプリントアウトしよう」というページが用意されている。彼らが大勢で国旗を振り回す光景を見ると湾岸戦争の時を思い出す。あのときは

「何故中東まで行って戦争をするのか」

という意見が開戦直前まで聞かれたように記憶しているが、今回はそうした議論は起こりすらしないだろう。

しかし問題は簡単ではない。前から居るのが解ってはいたが駆除が面倒で難しい、、と考えている間にねずみに赤ん坊をかじられた、という状況だ。ネズミを捕まえること-ラディンの拘束、彼が持っているテロ組織の壊滅が第一目標だと考えるが、個人を軍隊の攻撃で狙う事が如何に困難かはパナマのノリエガ捜索、そして湾岸戦争をフセインが生き残ったことで米国自身がよく知っているはずだ。ではネズミの巣を壊滅させるか。今回の事件直後(北朝鮮的時間尺度によれば)北朝鮮はテロを非難する声明を出した。その内容に(ずいぶんと”まとも”だったのだ)私は少し驚いたが、今にして思えば

「米国が自らが指定したテロ支援国家を軒並み攻撃する」

ことを恐れての事だったのかもしれない。しかも壊滅とはなんだ。軍隊を用いて軍隊をうち破ることはできても、軍隊で国を作ることはできない。これは米国自身が何度も学んだ事でもある。

今はほとんど全ての国がテロ支援国家に対する攻撃を支持するかもしれない。しかし戦争が長引けば、少なくとも直接の標的にされたのではない国家のトーンは変わるだろう。また米国自身も長期に渡る戦時経済に耐えられるのだろうか。

米国に正面から戦争を仕掛けられる国が存在しない今、(数十年前からそうだったのかもしれないが)今回テロを行った人間達は恐ろしい想像力を発揮してみせた。ブッシュが21世紀最初の、新しい戦争と呼んだ戦いに米国が想像力の点でもテロリストを凌駕すること、明確な目的、それにゴールを設定しそれに挑むこと、なし崩し的な拡大がなされないことを祈るしか私にはできないのだが。

今回のテロに関し色々な意見が出されるだろうと予想はしていたが、先日社民党所属の某「衆議院議員」が当日の日記を発表していることを知った。

「(活動日記 第49号 2001.9.12)

 昨日から2日間、お泊まりで勉強会に行って来ました。一日目のスケジュールが終わって、みんなで夕飯を食べ終わった頃に、テロのニュースが飛び込んできました。信じられない光景がTVに映っていました。鳥肌が立ちっぱなしです。

 テロと言う行為は許せないけれど、これを機に「有事」に備えた法整備がどんどん進んで行くのは確実・・・と思うと、恐ろしいです。だって、今回のテロだってアメリカの外交政策の失敗??なのでは・・・? 日本も同じ失敗を繰り返さないためにも、自ら軍縮を進め、真の平和・友好を世界各国と結んで行くべきだと思います。

 だって「ざまーみろっ」って思っている国だってきっとある、と思いませんか?それってとっても悲しいことだと原は思います。日本が危険な道に進まないよう、阻止して行かなくてはなりません!! 」

議員先生、このセリフを今回の事件で行方不明になっている人の家族の前で言ってみな。平和と護憲が売りの政党所属らしいが、それらは国民の痛み、悲しみを理解せずとも達成できるようだ。やることは目をつぶり耳をふさぎ自分の信奉するスローガンをひたすら繰り返すだけ。

その翌日にはとってつけたような「お詫びの言葉」が追加されているのだが、その文はある人が喝破したとおりとても本人が書いた物とは思えない。こういう人間を国会議員として選出し、給料を払っているのが「日本国の国民」であり、自分がその一員であることを思うとき、私は深い憂鬱に沈む。某TV局では、「逃げてー」と連呼する「報道のプロ」の姿を何度も放映したとのこと。この国ではいつから

「幼稚さ、素人っぽさ、自分が課せられた責任を解しない無責任さ」

を何よりも賞揚するようになったのか。戦後であることは確かだと思うのだが、それ以上はわからない。老後の研究テーマにとって置こうか。

 

いずれにせよ事態は驀進中である。米国の本土が攻撃され、多くの米国民、それに他の国-日本も含む-の人達が犠牲となった。米国の行動の方向は定まっており、その方向上にある国との調整が最優先。この社民党議員も含め、日本国のあらゆる政治屋等は眼中にない。

 

2001/9/13-次の日

前から何度か思っていた事だが、日本の政治屋というのは選挙と党内のこと、せいぜい日本経済(というか株価と公共事業費)の事しか頭にないのだなあと実感させられる。

小泉の「政府の対応方針」原稿棒読みはなかなか元気がいいが、例によって内容は何もない。「万全の」とか「全力を挙げて」とか「緊密に連携をとって」とかいう言葉を聞くとそれだけで先を聞く気がなくなる。一方マイクをつきつけられコメントを求められた時の

「○○なんじゃないですか」

「日本も米国の姿勢を支持しておりますから」

「○○じゃないですかねえ」

という一人称を自分からずらしたような物の言い方はどこかで聞いたことがある。記憶をたどると、己のエゴ実現と責任回避だけを人生の指針にしているNTTソフトウェアの取締役達が自分の自信がない分野で判断を求められた時にこうした言い回しをよく使っていたのを思い出した。田中にいたっては

「お願いだからどっかに閉じこもって勉強でもしていてください」

としか言いようがない。いつか誰かに向かって

「自分のCounter Partはパウエルだ」

とか言ったと報道されたことがあったやに覚えているが、外務を担当する一国の大臣としては「全く相手にされていない」としたほうが適切ではなかろうか。

今のところ、という条件付きでの話だが私が最も恐れていた事態、テロが継続される、米国がいきなり攻撃をしかける、は起こっていない。

「長い戦いになる」

とブッシュが発言していることからして、米国が単独で奇襲をかけることはないだろうと信じたい。今のところ最も標的に近いと思われるアフガニスタンのタリバン政権は生きた気がしまい。またイスラム教を信奉する国家は犯人グループから距離を置こうと必死だ。アラファトは進んで献血までしている。今更失う物は何もないイラクだけが歓声を上げている。

あれだけ戦争が好きな国に攻撃をしかける人間は、その結果をよく知っているはずだ、という言葉はやや説得力を欠いて聞こえる。なぜなら何も考えず米国を含む4国相手に戦争をしかけた過去をもつ国に私は生まれているからだ。今回の攻撃と対比してよく引き合いに出されるのを観ると、あらためて彼らの国で

"Pearl Harbor"

という言葉が何を意味しているのか解るような気がするのだが。

何名が死んだか未だ解らないのも恐ろしい事だが、消防士が200名以上行方不明になっているのはいたましい限りだ。消防士という職業は彼の国ではHeroとして扱われる事が多い。2次災害でこれだけの行方不明者を出す、ということはそうした扱いに恥じない仕事をしている、ということを示している。もちろん日本の消防士もその職務を果たしている事に変わりはないだろうが。

 

2001/9/12-その時

私の生活パターンを知っている人には予想がついていたようだが、その時私は阿呆面して寝ていた。起きたのは午前4時半。まだちょっと早いが起きるとするか。

メールをチェックしながらTVを付ける。ぼけた頭にもいつもと違う画像が流れていることくらいは解る。チャンネルを確かめる。確かにNHKなのだが。

「米国で同時多発テロ」

そうか、テロか。まあ米国はよく標的にされているからな、と思って見ているうちに眠気は覚めてしまった。ビルに飛行機が突っ込む姿をどこか映画のように、最後の瞬間にヒーローが活躍して危機を回避してくれると、そんな馬鹿な考えが頭に残る。しかし現実は冷徹だ。同時に少なくとも4機もの旅客機をハイジャックし突っ込ませるとは。

少なくとも今の所、こんなことが可能なのは狂信的な宗教団体としか考えられない。己を是とし宗教を同じくしない相手をそれだけの理由により非とし、自由を、命を奪うことができる人間を私は憎む。金、政治目的相手のテロリストであれば交渉の余地もあろうが自爆をいとわない人間はなんともしようがない。オウムもそうだったろうし、大戦中の特攻も彼らから見れば同じように見えたのかもしれない。

各国の首脳メッセージを放映される。日本国の総理大臣、外務大臣。貴様らには何も期待していないが、せめて他国の首脳の言葉を聞き己の至らなさに恥じ入るくらいの知性は持っていてくれ。

そういえばCNN.COMが米国へのテロの危険性について報じていたのを何度か読んだ気がする。その度に何もおこらず「狼少年」のようにも感じていたが、あれは故の無いことではなかったか。

朝駅に向かう。7時間たった後TVでも正確な情報が流れないくらいだから、新聞にろくな情報があるわけがない、と思い見出しだけを見る。彼らは此処ぞとばかりに「壊滅」「戦争」といった言葉を多用する。これからしばらくマスメディア、インターネット上では流言飛語、屑のような言葉が爆発することだろう。しかしいくらなんでも多少は知能のある人間として

「新庄ショック」(日刊スポーツ)

等と書くのは恥ずかしくないのか。

そんなことを考えながら歩いていると道の真ん中に猫がはねられて死んでいる。この猫にとっても多くの人にとっても世の中は終わってしまった。残った世界もこの犯罪の後では同じでいられないかもしれない。

彼らが核兵器を持っていなかったのは不幸中の幸いだったか。

 

2001/9/6-再編

Gatewayというコンピューターのメーカーがある。白と黒の牛模様が目印。私が職を探して居たときには就職情報雑誌のカラーページでよく求人広告を見た物だが。

ITバブル崩壊の余波で経営難が噂されてからしばらく、いきなり

「アジアから撤退」

が伝えられた。Web Siteに何が書いてあるかと思って早速行ってみれば、全てのコンテンツは消え失せ閉鎖のアナウンスだけが書かれている。その引け際のきっぱりさは迅速と言えば良いのかアメリカ企業らしいと言えばいいのか。あの求人広告を見て応募した人はこれからどうするのか。彼らは

「所詮は外国企業の日本支店」

ということで割り切っていたのか。

そうこうしているとCompaqがHPに買収される。私が大学の頃に(それはそれは遠い昔なのだが)DECというメーカーがあり、ミニコン界のIBMだ、と先輩から教わった。社会人になってからそのDECの人たちとつきあった時のこと。営業の基本なのかもしれないが自社の製品を実に誇らしげに宣伝し、契約が取れないと知ると

「うちの会社を敵にしないほうがいいですよ」

と捨てぜりふを吐いてくれた。しばらくしてそのDECはCompaqに買収され、今度はまた別の会社に。その彼らが誇りにした社名はもう影も形もない。

大きな企業というものは無くなることは決してない、というのが日本に依然として存在している概念である。山一が廃業しようが、自動車会社の希望退職に応募者が殺到しようが

「うちの会社は違う。不満はあるが、まあ言うことをおとなしく聞いていれば食いっぱぐれはない」

と思っている人は少なくないだろうし、実生活でそうしたセリフを聞くことも希ではない。だいたいそう言う人は、愚痴をこぼしながらも自分が働いている会社を非常に誇りに思っている事が伺える。それはDECの営業の捨てぜりふと重なるのか重ならないのか。

政治の世界では「構造改革論議」がかまびすしいが、青木であるとか亀井とかは相変わらず

「景気浮揚の為に国の借金増やして公共事業を」

を繰り返している。過去数年間それをやり続けても景気が浮揚しないのに未だそれを公言できる神経はうらやましい。あるいはいつまでたっても戦車と重火器に向かって

「肉弾突撃」

ばかり命じた想像力に欠けた第2次大戦中の日本軍指揮官の姿を見るべきなのか。しかし最近になって別の解釈をするようになった。彼らは誰かの代弁をしているのだと。

それはおそらくは構造改革をした場合に一番失業者がでる分野の人たちの声であろう。逆に言えばその人たちは構造改革が成功しようが失敗しようが既にして死んでいるわけだ。彼らがどのような人か知っている訳ではないが、素直に自分が働く会社を、仕事を誇りにし真面目に勤めて来た人も居ることだろう。そうした態度は社会道徳からすれば称揚されるべき事のはずだ。そうしながら職を失う人がおり、仕事にも会社にも誇りを持たず、何も社会に貢献すること無くとも高給を得る人が居る。どんなにシニカルに構えようとも多くの人の頭の中には

「良いことをすれば良いことがある。悪いことが起こるのは行いが悪かったせいだ」

という「仮説」が厳然として宿っており、それと反する情報に接しても

「自分は違う」

と思うだけなのだろうが。

あるいはそう思わなければ気が滅入ってしまいやっていけなくなるのがこの世の姿というものかもしれない。確かに或程度の幻想というのは日常生活に必要なのだろう。しかしその幻想というのは現実を覆い隠し、自己補強する機能を持っているのが問題だ。それが肥大化していき、後からしか解らない「一線」を超えれば崩壊という形で現実に直面することとなる。一度その崩壊に直面したこの国が、そこから何かを学んだ事を祈ることぐらいしかできることはないのだろうか。

 

2001/8/9-電車の中で

電車の中のつり広告を見るのが結構好きである。本当の事を言えばこの文章に書いている「世間ではこう言われているらしい」という内容の大半はつり広告から得たものだったりするのだが。

かたこん、かたこんと揺られながらぼんやりそれらを見る。パソコン雑誌の広告が三つ隣り合ってつられているのだが、一見して何か奇異な感じを受ける。どうしてか、としばらく頭をひねったあげくその理由に思い当たった。何故パソコン雑誌の広告に若い女性の写真が大きく使われているのか。

今だかつて米国のパソコン雑誌で女性の写真を表紙に大きく使ったものを見たことがない。対するに日本では展示会と言えば何故か女性が派手な恰好をして愛想を振りまく。自動車関係の情報を集めたニュースサイトなどではそうした女性の特集すら組んでいる。よく考えてみればこの国ではパソコンでない雑誌の表紙もあらかた肌をあらわにした女性の写真ばかりではないか。広告にどんなに真面目な記事の見出しがあっても隣に「なんとかが脱いだ」とかあると「はあ、そうすか」と言う気になる。

さて、選挙が終わった今そうした雑誌に取り上げられる女性の裸体以外の内容は「改革に伴う痛み」と外務大臣の異常な行動が半々と言ったところであろうか。それについて調べたことも考えたこともないから言及する資格はないが、思えば森が総理の座に居たときはそうした問題-今だ処理されない不良債権-が厳然として存在し、その処理が必要だ、という事すら話題に上らなかった。雑誌の売り上げにとっては経済の根元的な問題より大臣達の異常な行動のほうが読者にわかりやすくていいのだろうが。

さて、雑誌の売り上げに協力する意図があるとも思えないが、某外務大臣は相変わらず話題を提供し続けている。外務大臣としての責任から、外交上の重要な判断に関し職を賭して首相に逆らうのならともかく、元々自分が主張していた人事が、今度は受け入れられないと言って大暴れ。傍若無人に振る舞い、自分以外を全て敵にした後で外務省職員の協力など求めても誰が従うものか。先行き長くないのが明白な大臣であればなおさらである。願わくば彼女がこの経験から何かを学んでくれることを祈る物だが。

何故そう考えるかと言えば、いつの日か彼女が要職に戻る日が来ると思うからである。依然として「国民」の大臣に対する支持は厚い。あるTVでは

「言葉の使い方というのは難しいですねえ。。。大臣はあれほど一生懸命取り組んでいるのに、、、」

と女性のキャスターが真面目な顔をしてしゃべっている。がんばっている。その気持ちが分かる。これだけで支持を集めることができる、というのは一種の才能だろう。結果も経過も問われないのだ。何がいけないのよ。ちょっと言葉遣いが不適切なだけよ。あんなに一生懸命じゃない。

こうしたロジックの前では「泣いて馬謖を斬る」などという言葉は暴言以外の何物でもない。えーっ、なんで馬謖を斬るのよ。あんなに一生懸命やったじゃない。かわいそうよ。

そうした心優しい人たちの支持により、かの大臣は「次の総理としてふさわしい人アンケート」で順位を落としながらも5位に依然として登場しているそうである。などと聞くと日本に首相公選制がなくて良かったと思うのは男性であるが故の私の偏見なのだろうか。国民による直接選挙では田中が、議員様の選挙では森が信任されてしまう。となれば重臣(それは誰だ)の推挙と大命降下に頼るしかないというのか。

 

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注釈