題名:Little Guessing Game

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日付:2001/5/20

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起こったこと

彼の主張を私なりにまとめてみよう。2000年。彼はこう主張した。すなわち

(1)ハイテク(インターネット)は生産性を画期的に向上させている。(2000/7/24)

(2)IT関連技術は、今後10年ニューエコノミーと称されるE-conomy の出現を加速させる(2000/4/3)

(3)ハイテクは景気循環の影響を受けない。他のオールドエコノミーの業績不振の中で、ますます競争が激しくなりそれを挽回するための唯一の方法がIT投資である。そのためハイテク投資が減少することはない。(2000/10/2)

(4)ハイテクに投資すべきだ。(2000/7/24,2000/10/2)

こうした主張は、それ自体の文脈において筋が通っているように思える。そしてここには引用していないが原文には定量的な数値とグラフが一杯載っている。つまり定量的なデータの裏付けもちゃんとある、というわけだ。

さて、変わって2001年。彼はこう書く。

(1)生産性を定義するのは難しく、計測し難いことは誰もが認めるところだ。いずれにせよ高い信頼性のある情報技術革命が、大きく花開くのはこれからである(2001/2/20)

(2)大勝ちするセクターが10 年毎にひとつ現れるようだ。1990 年代はハイテクだった。

2000 年代最初の10 年間で私が推奨するセクターは、電力エネルギー関連、つまりエネルギーと公益事業の両セクターである(2001/4/16)

(3)昨年の教訓は、ハイテクはグロース循環型セクターである。(2001/2/12)現在多くのハイテク業界の利益を過剰設備や競争圧力の問題が圧迫している。テクノロジー・セクターの収益は悪化の一途を辿っている。底入れの兆候は全くない(2001/4/26,2001/3/5)

(4)ハイテク・セクターと通信サービス・セクターだけが、私の配分表ではアンダーウェイトである(2001/2/26)

言うことが180度変わっていることに気がつくだろうか?

 

彼の主張の変化は何を意味しているのだろう。彼の言葉から考えられるのは次のようなストーリーだ。

10年に渡りニューエコノミーを提唱した人間にとって1999年から2000年の4月まではどのような至福の日々であっただろうか。今や米国経済は彼が提唱してきた理論を実証している。好況の後に不況が来るなどという従来の景気循環論はもはや通用しない。なぜならこれはニューエコノミーだからだ。

彼は自分の理論に自信を深め、現象を説明する。そして現象が予想を上回るような「素晴らしい動き」を見せる時、彼は「説明」のために言葉を新たに発明する。

「私は、ニュー・エコノミーは既に、かなり高い発展段階、いわばニュー・ウェルス・エコノミー( 新富国経済;New Wealth Economy)の域に達していると思う」(2000/2/28)

しかしながら2000年3月までの株価の一本調子な上げを観て彼が浮かれているなどと誰が断言できるだろう?それに彼は根拠のない熱狂-自己に対する過信が危険だということも十分に承知しているのだ。

繁栄が長引くことの問題点は、多くの者が自分は“宇宙の王者”だと思い込むようになることである。裕福になったのは、強気相場のせいではなく、自分が賢いからだとする。(2000/2/7)

そして彼は同じ現象を説明する他の理論が存在することもちゃんと自覚している。しかしそれは古い考えにとらわれた後ろ向きの考え-つまり否定されるべき理論なのだ。

そうしているうちに夏が過ぎ、現実はいつしか彼の予想から乖離を始める。しかしそれを彼が提唱する理論にそって「説明する」ことは造作もない。つまり現実は依然として彼の理論が間違っている事を示しているわけではないのだ。

私は、ハイテク株の比率の大きいナスダックが最近、急落したほど、ハイテク産業の見通しは悪くはないと思う。

(中略)

この結果から、IT 関連の設備投資は早いペースで拡大し続けており、今後12 ヶ月間は若干鈍化するものの、依然として二桁台のスピードで増加する公算が大きいことが理解できる 。(2000/12/4)

かくして幸せは増大し、現実は彼の視野から遠ざかり、そしてそれは全面的な崩壊が起こるまで継続する。

誤りが否定しようがなくなったところで本来の姿に立ち戻る。予想が難しい事を認め、現実が語ることに耳を傾け始める。より地に足がついた基本に戻り控えめに予想を立てる。しかし彼は無責任に放言していたのでは決してない。去年自分が言っていたことについての説明もちゃんとある。

「最良の時代はまだ到来してないかもしれない」(2001/2/20)

ちなみにこうした「先送り」は世の終末を予言する宗教団体がその予言が外れたとき(こうして私が文章を書いているということは予言は外れているのだ)使う手でもある。いずれにせよ彼はレポートを発表し続ける。彼はまだちゃんと「説明」ができるのだ。

そしてこのことも付け加えて置こう。2000年の7月に私はある投資情報会社が主催したセミナーに参加した。○○証券○○という私でも知っているような会社名と「なんだかえらそうだ」ということだけは解る肩書きを持った人たちは議論を戦わせる。その内容は私が理解できた範囲ではこうだった。

ある人はこの10年間に米国経済、株価がいかにすばらしい持続的成長を示したかを説明し、今後もこのトレンドは続くと主張する。唯一の懸念は驚異的な成長に伴う労働力不足だが、なに大丈夫。米国は外国人労働者に対して大変オープンな国だ。何故それが言えるかって?ニューヨークに行ったらタクシーの運転手がみな外国人なんだよ。

ある人はこれに反論する。労働力不足はそんなに簡単に解消できるものではない。これは大きな不安要素だ。しかし成長の持続。これは確かかもしれない。実際今まで景気循環論に従って

「そのうち不景気になるでしょう」

となされた予想が何度外れたことか。だから成長は持続するでしょう。投資家向けのセミナーだから景気の良い意見を吐く人間ばかりを集めたという理屈付けも可能だろう。しかし数人のパネラーでその後発生した株価下落、景気減速を予想した人間は誰一人としていなかった。

 

学べること

さて、私は別にヤルデニ氏に恨みがあるわけではない。彼の言葉に従ってハイテクに投資したりはしていないし、貸した金を踏み倒されたことも、カレーを横取りされたことも何よりも愛しているもののうちの一つ、睡眠時間を無意味に減らされたこともない。

従って私はひどく気楽な立場で彼の言葉から何を学ぶことができるか、などということに思いを馳せることができるわけだ。彼が特別な人間でないとすれば、おそらく私にも共通するところがあるだろう。そして自らの失敗からでなく何かを学べるとなれば私にとって丸儲けではないか。 

では何を学ぶことができるのだろうか。たとえばこんなのはどうだ

「エコノミストだストラテジストだのが言っていることは、信用してはいけない。」

なるほど。これは具体的である。しかし私は今のところ自分の乏しい財産の一部を株で運用しようとは考えていない。となると元々彼らの言葉に耳を傾けることはないわけだからこの教訓は私にとって役に立たない。もっと普遍的な教訓は何だろうか。

 

私は人間は理由が大好き、ということを半ば信じている。理由があることにより我々は心の平穏を得ることができるのだ。彼の2000年における株価推移の説明は実に見事に筋が通って居る。そして彼はその理由が現在起こっていることの説明だけではなく未来の予想にも当てはまるのを目の当たりにする。現実は彼の理由にエールを送ってくれているようではないか。

しかしながらこの「理由」という奴には問題がある。大抵の物に理屈はつけることができるのだ。しかも一つだけではなく複数の理屈が。言うではないか

理屈とトクホンはどこにでもくっつく

 

たとえばこれが実験による検証が可能な科学が対象とできる領域の理由であれば問題はない。そうした複数かもしれない理論の検証・選択には実験を行えばよい。問題はそうした実験、観測による検証が不可能な分野だ。

この株価の推移などはまさしくそれにあたる。株価を推移させる要因というのはおそらくは多岐にわったっており、誰もそれをどうモデル化すればいいのかわかっていない。しかし人間は理由を愛するが故にいくつもの理論をうちたて論争を続ける。しかしそれはどこか危うさを含んだ理論にしかなり得ない。ハイテクは生産性を飛躍的に向上させている、というのが彼の理論の肝である。ところがその「生産性とはなんぞや」というところが驚くほど曖昧だ。彼も認めているとおり

「生産性を定義するのは難しく、計測し難いことは誰もが認めるところだ。」

定義も計測もしがたい指標を用いてどうして理論がうちたてられるのだろう。どうして現実がそれを支持していると主張できるのだろう。しかし我々は理論が妥当がどうかよりも理論が存在すること、それ自体を愛するのである。

とりあえずこれを学ぶことその1にしよう。つまり

「モデル化が困難で理論をうち立てるのが本質的に困難な領域に理論を持ち込むことには十分に慎重であるべきだ。」

そしてその困難さを克服するために、意味のはっきりしない新しい言葉(ニューエコノミー、IT革命等など)が使われている時は特に要注意である。ちなみに彼が主張を180度転換した後の2001年のレポートでは私が見た限り、あれほど愛していたそれらの景気が良い言葉を使っていない。

 

さて、先に進む。その注意すべき「理論」なのだが、仮に一つの理論を現実が支持したように見えたとしよう。するとその人はそれが現実のきまぐれによるもの、とは考えずに

「自分が賢かったから」

と考えるのだ。ほーら私の言った通りじゃないか。

こう考えると先ほどの「人間は理由が大好き」というのは少し修正すべきで

「人間は自分に都合のよい理由が大好き」

とすべきなのかもしれない。幾通りも考えられる理論のうち人間は自分が好む物、望む物を選択するのではなかろうか。文面から伺える2000年におけるヤルデニ氏の歓喜。ニューエコノミーという危うくそして(文字通り)景気の良い理論はおそらく彼の心の琴線に触れるものがあったのだろう。あるいはスリーマイル島原発事故で作業員達が作り上げてしまった

間違った理由付け

についてもそれは言えるかもしれない。誰も自分にとって世間にとって深刻な問題など起こってほしいと思っていない。これはこうだからこうなっているんだよ、と平穏な理由付けが可能であれば人間はそこにしがみつく。

この事実は

人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分がみたいと欲することしか見ていない

ことによってさらに大きな問題となりうる。ヤルデニ氏が2000年の間は、自身の主張を支持するデータを揚げ続けた事を思い出そう。つまりいくつもあるデータの中から自分が見ようと欲する物、それを選択的に取り上げ

「これらの”事実”によって自分の理論は支持されている」

と思いこみたがるのである。選択的なデータの取得によって自分の理論に対する信頼を深め、その深まる信頼によりデータの選択はより作為的になっていく。これは一つの方向にひたすら驀進するタイプのフィードバックループになっている。そして理論と現実はますます乖離していくが、困った事に我々は理論を捨て誤りを認めるよりは現実と乖離した理論にしがみつくのである。

これを学べることその2としてみよう。すなわち

「どれほど筋が通っているように思える理論であっても、それに反する理論の存在、及び現実からのフィードバックに耳をふさいでしまってはならない」

私は上の文章をかなりの自戒を込めながら書いている。私はおそらく経営判断を迫られる立場に立つことは一生ないだろう。しかし会社の研修で行われた

「経営ゲーム」

でまさに上記の文章に反する事を何度もやったのである。ある指標が景気が減速する事を示していると思いこみ、それに反対する人間の言葉を(かなり強引な)論議で封じ込め、とった施策は好景気の到来により全て無駄となった。スーパーエンジニアへの道にあるように自分で自分の愚かな振る舞いを把握することは所詮無理であり、それを他人に指摘してもらえるしくみを作ることが肝心なのかもしれない。しかし困った事に自分が間違っている、という指摘は大抵の場合耳に心地よくないのである。

 

さて、ここで一つOpen Questionをあげてみる。この文では虚構の変革-IT革命-が起こった時に人間はどのように判断しどのように振る舞ったかを見て、そこから学べる事についてあれこれ書いてみた。

では質問である。全ての変革というのはこのように実体のないものなのか。本当の変革期というのもあったのではないか。変革に慎重の上にも慎重に対処することだけが正しいことなのだろうか。そうして機会を逃すことはないのだろうか。

「バスに乗り遅れるな」

という景気の良いあおり文句は本当に思考停止をいざなうだけの言葉なのか。あるいは或程度の真実を含んでいるのか。虚構の変革からは身を守り、真の変革にはうまく対応することは果たして可能なのだろうか。あるいはそれを予知することはできず、所詮賭があたったものだけが

「私の成功の秘訣」

として「やはり変化を敏感に察知し、勇気を持って迅速に行動することですよ」と「理由付け」をもっともらしく語ることを許されるのだろうか。

明治維新は若い男達によって成し遂げられた。昭和維新も若い者が中心になるのだ、と2.26で刑死した青年将校は言った。IT革命という言葉が聞かれ始めた時にも同じ様なセリフが聞かれた。アメリカでは「最近のシリコンバレーでは30代は既に年寄りだ」とかあるいは日本では「若きベンチャーの旗手」という言葉が。それらは全て警戒すべき言葉なのだろうかあるいは本質をついている事もあるのだろうか。

それらについてはいつか書くことがあるかもしれないしないかもしれない。いずれにしてももう少し調べて考えてみなくてはならない。

 

最後に最近のヤルデニ氏の言葉を揚げておこう。株価は債券市場の利回りには勝てないと言うのが古来からの株の鉄則。そして彼は今や教訓を学び、華やかな言葉に彩られた新理論を捨て基本に立ち戻ったのである。去年彼の言葉を信じて、バブルの崩壊と共に財産を失った人間は何人いたのだろう。もちろん彼はそんなことを気にかける必要はない理由を両手に余るほど持っている。株は自己責任なのだ。

 

2001 年5 月21 日

バブルの楽しみ。私はバブルが好きだ。バブルが膨らんでいる時は、非常に素早く金儲けができる。ただし、バブルがはじける直前に相場から手を引いていなければならない。

(中略)

私の資産配分モデルは、FSM モデルに基づいている。このモデルでは、相場が20 %を越えて割高になると、株式・債券の比率は非常に保守的な60 :40 が適切であると判断される(相場が10 〜20 %割高な場合、この比率は70 :30 となる)。過去数週間、私は株式・債券比率を80 :20 から急いで株式比率を引き下げようとはしなかった。それはFRBによる流動性の大盤ふるまいによって、株価がさらに上昇する可能性があるからだ。そして冷徹な債券軍団は、その金融緩和に乗じて再び利回りの上昇を画策している2 。仮に30 年トレジャリーの利回りが上昇して6.5%に近づけば、株式は30 %を越えて割高となる。そしてその状況が、今後数ヶ月間に渡って続く可能性が高まっている。そうなれば私は比率を70 :30 に戻すだろう。バブル第II 弾がはじけそうになれば、60 :40にする

FRB は明らかに我々の味方である。しかし真の友であれば、自分の友人を危険な目にあわせたりはしない。私は流動性相場より業績主導の上昇相場が好ましいと考える。バブルが皆様の味方になるよう祈る

 

2001 年5 月29 日

おそらくこのモデルは間違っている。投資家は収益を「正規化」しているのだろう。

業績低迷がそれほど長く続く訳でもないと考え、アナリストの今後12 ヶ月後の楽観的な見通しをさらに上回る収益増を株価に織り込んでいる。私は寛大な気持ちで臨みたいが、このような見方には全く賛成しかねる。相場が割高になると、投資家はそれを正当化する理由を見つけようとするものだ。

 

2001/6/4

今回は違うとは言えない:

私は早い時期からハイテク革命の信奉者だった 。他のほとんどの信奉者と同様、私もハイテク株に熱意を失うまで長い時間が掛かった。

昨年3 月にドットコム・バブルがはじけても、私はさほど懸念はしなかった。誰もがバブルと認めていたが、私達の多くはハイテク投資は引続き好調だと予想した。経済成長が減速しても、企業は生産性を高め、競争力を維持するためにハイテク投資をせざるをえないだろうと考えた。

これは間違いだった!昨年秋になって私は初めて、ハイテク投資が実質的に設備投資と変わりないことを認識し始めた。従来、収益率が低下し信用状況が厳しくなると、設備投資は常に鈍化した。昨年夏以降、ハイテク投資もこのシナリオ通りとなっている。

 

2002/1/14

ューエコノミーが最初に経験した不況は軽微。

 

私は2001 年の景気後退が3 月に始まり、おそらく11 月に終わったとする見方に賛同する。もしそうなら、景気後退は期間が非常に短く、底が浅かったことになる。これはいわゆるニューエコノミーの最初の下降局面である。もちろん、この局面には人気が離散し、信頼感が失墜する。しかし、ニューエコノミーを最初に提唱した一人として、私はニューエコノミーの意義は依然として大きいと考えている。

私はニューエコノミーが景気後退に抵抗力があり、隆盛は永続するという見方に組みしたことはない。今になって考えると、オールドエコノミーとテクノロジーを原動力とするニューエコノミーを峻別するのは意味がない。

 

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注釈

180度変わっている:2000年10月2日に

ハイテクに投資せよ、さもなくば死が待っている!

と太字で主張した人間は、3ヶ月後にそのハイテクセクターをアンダーウェイトすることにした。私は証券会社に勤めてはいたが、担当していたお客さんが虎の子の資金数千万をあっというまに失ったのを目の当たりにして転職を決意した人間を二人知っている。おそらくそういう感情をもつ人間は他人の株に関わる職業につくべきではないということなのだろう。本文に戻る

 

間違った理由付け:「知について-理由を我らに」を参照のこと本文に戻る