題名:失敗の本質の一部

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日付:2004/9/12


「ノモンハン」より-攻撃の「停滞」

ハルハ河を渡っての西岸からの攻撃と平行して、東岸において日本軍は戦車部隊も含めた攻撃を行う。その攻撃の指揮を事実上とっていた安岡将軍の考えは以下の文章に表されている。

「”いかなる犠牲を払っても”右岸の敵を合流点に釘付けにすることが必要だと考えた。つまり支隊長はそのときなお言葉の遊び-撤退しない敵を追撃するという考え-にふけっていたのである」(ノモンハン2巻P158)

ではその結果はどうだったかというと

「つまり戦闘に参加した総計七十三両の軽・中戦車のうち四十一ないし四十四両(約60パーセント)が程度こそ違え行動不能になったわけである。(中略)このように日本軍の兵員と戦車の損失を箇条書きにしてみると、実質的にはわずか一週間の戦闘で戦車支隊が受けた傷の深さがわかってくる」(ノモンハン二巻P107)

「私が面接した戦車隊の経験者は、指揮官の能力や戦術面での勇敢さについては意見の相違することもあったが、戦車は装備や兵器にかかわる共通の技術的問題については終始同じ立場に立っていた。不満がもっとも多かったのは軽戦車、中戦車に搭載していた短砲身、低初速の三十七ミリ砲および五十七ミリ加農砲であった」(ノモンハン二巻P119)

その後安岡支隊は解散され、戦車はノモンハンの戦場を離れる事になる。その理由は表向きには

「安岡支隊は善戦し、大きな戦果を上げたが、これ以上現在の任務につけておくことは必要もないし、好ましくもない。これからは第二十三師団主力の手でハルハ河右岸の敵軍を掃討できるだろう。(中略)いずれにしても敵を倒す任務は日本軍重砲兵の手にゆだねられることになっており、重砲兵部隊は既に前線に向かっていたと言っている。(ノモンハン二巻P98)」

かくして敵を倒すことを期待された砲兵部隊が来た。日本軍は砲兵によって勝利を収めるべく攻撃の計画を立てる。

「七月七日、歩兵部隊の夜襲の見通しに確信を抱いていた関東軍は東京に対して「我が軍が右岸の敵を撃滅するのは時間の問題である」と報告した。これは「暑熱と不利な地形と対岸からの砲撃による妨害にもかかわらず」、また日本軍が前夜の時点で依然として合流点から約八キロの所にいたという事実にもかかわらず、あえて示した自信であった。(ノモンハン二巻P217)」

前線のきわめて限られた日本軍砲兵戦力に強力な新手の砲兵部隊を増援すれば、敵の砲兵をやっつけることが期待できた。そして敵砲兵に天誅を加えて撃滅すればすでに十二日にハルハ=ホルステン合流点周辺の敵防衛戦の第四戦に到達していた砲兵はハルハ河で”ワルツを踊る”ことができ、ノモンハン戦のこの局面を勝利のうちに終えるおことができるだろうという筋書きであった。この関東軍の攻撃計画には奇襲とか意外性という要素が全く含まれいないことには注意を払う必要があるだろう。(ノモンハン二巻P218)」

その効果はどうだったか。砲兵隊の将校は以下のように効果があったことを強調する。

「三嶋大佐はこの初日の砲撃を「圧倒的に成功」と表した。」ノモンハン2巻P224

「連隊戦区には敵加農砲約二十門があり、林大隊はそのうち十門を砲撃して「少なくとも70パーセント」を破壊した。」ノモンハン2巻P225

「畑少将は基本的には総攻撃三日目の二十五日の砲撃に満足していた。全体として一基数強の弾薬が消費されたが、”戦果はすばらしかった”

(中略)敵砲兵はまだ頑強に抵抗していたけれど、ソ連軍の損害は甚大であると判定された。敵の砲撃力は次第に低下し、二十五日夕刻には日本軍が攻撃を開始したときのおよそ半分になったことが確認できたと畑少将は言っている」ノモンハン2巻P266-267

それと同時に歩兵はハルハ河めがけて突撃を行う。計画からすれば残った敵の歩兵部隊は弱体であり、残った敵砲兵を撃破した後では容易にハルハ河に到達できるはずであった。何カ所か引用する。

「歩兵の目には支援の10センチ砲大隊がハルハ河対岸の敵砲兵を制圧したかに見えた。日本軍が砲撃している間、敵火砲は沈黙していたが、日本軍が砲撃を中止すると、ソ連軍は日本軍が百発撃てば三百発から五百発の割合で返戻砲撃を行ったと小野塚中隊長は回想している。もっと重要なことは、長野大佐がどう見ても支隊の正面にいる敵砲兵は第一期第一次の砲撃で計画通り制圧されていないということだった。」ノモンハン2巻P295

「二十四日の攻撃は砲兵戦の二日目のはずであった。けれども、これまで書いてきたように、歩兵部隊の人々や歩兵部隊の記録は友軍砲兵が戦闘に参加していたことにはほとんど触れておらず、反面ソ連軍砲兵については多くの言葉をついやしている。」ノモンハン2巻P303

ここで一つの食い違いについて考えることができる。砲兵隊の将校は自軍の戦果を誇らしげに語っている。しかしその戦果によって進撃が容易になるはずの歩兵は二日目の砲撃についてほとんど触れてもいない。つまり砲撃の効果は全体的に見て無かったのである。

この「戦局に与えた影響はほとんど無いが、担当した本人は満足」という傾向はこの後にも何度か見ることができる。

この後日本軍は占領している地域において防御陣地の構築にはいる。しかしこうした時期においても日本軍の思考は攻撃へと飛翔する。

「彼は冬にはいるまえに敵に”一大鉄槌”を加えるという意見を提案した。すなわち日本軍がスンブル・オボ付近の要地を占領すれば、敵は河からの容易な給水の道を断たれて撤退せざるをえなくなるだろうというものであった。(中略)島貫参謀の新たな提案は、八月下旬までに第七師団を戦場に投入して九月初頭に渡河攻勢を行い、対岸河畔の要地を占領するという物であった。」ノモンハン2巻P321-342

しかしこの「攻勢案」は「ノモンハンの気性問題を過小に評価している」という辻参謀の一言でとりやめになる。以下ノモンハンの著者はこう述べる。

「いつもは慎重は寺田大佐を含む関東軍作戦参謀が、戦車や重砲の力を頼みに七月一杯一連の高くつく攻勢に失敗したときに、第七師団の期間兵力を注ぎ込んでまで九月攻勢を行おうと真剣に考えたのはどうしてか、まことにいぶかしいことであった。七月初め、ただ一つの橋でほとんど大失敗ともいえる自体を招いたことから考えても、どうやって攻撃部隊にもう一度ハルハ河を渡らせることができるのだろうか。さらに大本営が戦闘の終結を望み、ハルハ河を国境線とする考えを放棄してもよいとしていることを考えれば、どうすれば外蒙古にもう一度専断的に兵をいれることができるのだろうか。関東軍は八月半ばのソ連軍の反抗の脅威をあまり真剣に感じていなかったのは明らかであった。」ノモンハン2巻P343-344

この「攻撃計画」は日本軍の輸送能力では冬営と攻撃両方の準備をすることはできない。冬営準備をしなければ冬は絶対に越せないのだから冬営が優先、ということで棚上げにされる。そんな議論を繰り返している間ソ連軍は総攻撃の準備を進めていた。

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注釈