題名:Polypus&JMS Live1999/12/19

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日付:1999/12/21

きっかけ | 準備 | 歴史 | その日 | Polypus&JMS | その日の終わり | カラオケ


Brief History of Polypus and JMS

さて、当日私たちの演奏が終わった後、司会進行役のKD氏は「Mixというのでしょうか。あれこれのジャンルをカバーして。。」とかなんとか締めくくってくれた。実際我々のバンドでやっている音楽というのはジャンルを無視して多岐に渡っているが、それはこのバンドがたどった歴史と無関係ではない。従ってここでそもそもこのバンドがいかにして始まり、そして今日に至ったかを書いておきたいと思う。もし「そんなことは知りたくない。さっさと続きを書け」といことであれば、次の章に飛んでください。

我々のバンドのルーツは今から10年前、平成の始めにまでにさかのぼる。○○重工の某事業所昭和60年度入社の同期の間で、MNがドラムをやること。またSAWがベースをやることは広く知られていた。私は最初カラオケに行けば「音程はあってるけど、新入社員にしては元気がない」という歌い方をする人間であったが、入社して何年目かに行ったカラオケで生まれて初めてRC-SUCCESSIONの「Baby逃げるんだ!」を歌ってからいきなり怒鳴り声で歌う五郎ちゃん、という評判をとるようになっていた。

さて、そこにStoneが実はギターを弾ける人間であることが知られるようになったのである。実際彼がバンドをやっている、というと職場でしか彼を知らない人間は大変驚くようだ。今でも覚えているがおそらく平成元年のある同期の宴会で、StoneとMNがバンドについて話し合っていた。そのときStoneはPoliceの「見つめていたい」をやりたい、と言っていた。そしてそこから話が進んでバンドが結成されることになったのである。

最初の練習はいつであったか正確な記録は残っていない。しかし場所は千種(これは名古屋の中心である栄から地下鉄でふた駅東に行ったところである)のつぶれたラブホテルを改装したスタジオであった。

私は未だに最初の練習の時に自分がどれほど緊張したか覚えている。それまでバンドの練習なるものに一度も参加したことがなかったのだが、噂だけはいろいろ聞いていたからである。高校の時の友達は「やたらと恐い。怒られる」と言っていたし、ひょんなことから知り合いになった女子大の友達はこう言っていた。彼女のバンドは何故かドラマーを除いて彼氏がいなかったのだが、ドラマーがミスをすると他のメンバーから

「男といちゃつくのにいそがしいのはわかるんだけどさー、少しは練習もしてほしいんだけど」

と言われるのだそうである。

さて、この場所は実に怪しげな場所にある。元がラブホテルだからと思えば当然なのだが。そして妙に厳しい張り紙があちこちにはってある。たとえば「時間の5分前には演奏をやめ、片づけ始めてください」とか「ベースをあげると全体がうるさくなります。ベースをさげてください」とかである。私はスタジオに大きなラジカセをもって入った。練習の様子を録音するためである。当時、私はポータブルの録音可能な機器や、今使っているMDのような便利なものももっていなかったから。

さて、怒られる恐怖におびえ、かたこと音を立てながら録音しているラジカセのボタンを操作しながら練習は進んだ。最初はおっかなびっくりであったが、なかなか調子がよろしいし、それに怒鳴られることもないようだ。私はとても幸せになった。

さて、最初のメンバーは、Stone,MN,SAW,それに私であった。しかしいつのタイミングでかは覚えていないが、「キーボードプレヤーが必要だ」ということになったのである。そして私には一人心当たりがあった。私の高校の時の同級生である。

さて、4月からだが、彼女も含めた5人で練習が進んだ。そして我々にとってそうたくさんあるわけではない「人前でやる機会」の候補というのが二つばかり目前に存在していたのである。

6月9日にStoneが結婚することになっていた。そしてその数週間後には私は留学のために日本を離れることになっていた。最初Stoneの2次会でやろう、という意見もあったのだが、理由はさだかでないが-練習の回数が少ない、とかいう理由だったかもしれない-それは流れた。そして最初のお披露目は私の送別会となったのである。

MNが知っている場所ということで、今池のライブハウスが初舞台となった。当日店の前に「ポリープ大坪送別会」という紙がはってあったことを覚えている。実はこの日のために「我々のバンドに名前をつけなければならない。どうするべきであろうか」という論議がなされ、以下に示す理由で未だに使っているPolypus & JMSという名前になったのである。

当時やっていた曲は静かな曲が2曲、叫び回る曲が3曲であった。そのうちの一曲は私ののどを極限まで酷使するものであり、練習の後、私の声はまるでポリープができるたのではないかと思えるほどがらがらになっていた。そこから来たのが名前の前半のPolypusである。そして後半のJMSであるが、これは当時「新婚ほやほやのStone」であったから、それを横文字にしてJust Married Stone(ちなみにStoneのところは彼の本名であるが、Sで始まることは同じだ)を縮めてJMSとしたのである。初舞台でこの事を言ったらなんともいえない脱力感を伴った笑いをさそった。もっとも私は何故この名前がそのような笑いを誘うのか解らないのだが。

さて、その日-平成2年6月30日だが-にやった曲は以下の通りだった。

せたがやたがやせ-爆風スランプ

大きなタマネギの下で-爆風スランプ

見つめていたい-ポリス

まっくろけのけ-爆風スランプ

Baby逃げるんだ!-RC-SUCCESSION

これが当時我々がやった曲のすべてであった。ポリスを除いては私の趣味で選んだ曲である。アンコールがあったのだが、もうアンコール用の曲がないので、せたがやたがやせ、をもう一回やった。他に

「このバンドをこのまま終わらせるのは惜しい」

という司会の声とともに、新Vocalistのコンテストと称し、HRが大きなタマネギの下でを歌い、COWとalligatorがまっくろけのけを歌った。この二つは異常な爆笑をさそったのだが、残念なことに録画していたカムコーダーの電池が切れ、それを買いにいっていたのでCowの「まっくろけのけ」は記録されていない。しかし彼の歌-パフォーマンスというべきか-は8年後に見事に再現されることになる。

さて、その数日後に私は2年間渡米した。そして噂ではその間に何度か復活させようという動議があったようなのだが、結局実現を見ていない。

 

さて、ここからしばらくはうちのバンドにとって冬の時代であった。私は2年渡米していたし、Stoneは一年後に私と同じコースをたどったからである。しかしStoneが帰国する前にまた人前でやる機会というのができたのである。

 

1993年の初めであったか、あるいは1992年の終わりであったか。いずれにしても私は仕事で半死半生の状態にあった。そこにMNから電話がかかってきたのである。

「人前でやる機会があるんだけど。またやらないか」というお誘いである。なんでもギターは留学中のStoneに代わり、彼の後輩に頼むのだそうだ。そして初コンサートの後、キーボードプレーヤーであるところの私の友達はいきなり結婚して渡米していたのだが、彼女の代わりに我々の同期であるところのTKさんがキーボードをやってくれるという。

私は二つ返事で承諾した。そして聞けばその「人前でやる機会」というのはMNさんの2次会だというではないか。これはめでたい。

記録によれば最初の練習は1993年1月31日となっている。もうあのつぶれたラブホテルではなく、今でも使っているSoy Beansという場所でさっそくの練習だ。ここは全くあやしげな場所ではなく、大変環境も雰囲気もよろしい。しかし今回の困難は私自身のほうにあった。

まず2月14日(世間ではバレンタインデーとか呼ばれている日だ)に練習をした。私たちがやっている曲では終わりが「じゃーん」となって何かの区切りをつけなくては終わらないものがいくつかある。そして正当なロックンロールの伝統に従えば、ボーカルが飛び上がって降りたところで「ジャン」となるべきなのである。さてこの日私はぴょんと飛び上がって「ジャン」とやった。そしてその瞬間腰に違和感を覚えたのである。

その日の練習は午後8時に終わった。まだあと数週間は独身であるMNたちと一緒にごはんを食べた。こうしてちょっと汗をかいたあとに並んでごはんなど食べているとまるで学生の頃に戻ったような気がする。そしてそれはとても懐かしくうれしいことだったのだが、翌日目覚めた私は自分が学生ではなく30男であることを思い知らされたのだ。「申し訳ありません。ちょっと風邪をひいてしまいまして」といって会社を休んだのだが、本当の理由は「風邪」ではなく「腰痛」であったのだ。何故わざわざ「風邪」などと言ったか?私の頭を「年寄りの冷や水」という言葉がちらちらとよぎり、そしてそれは私にとって直面するのにはあまりにもつらい言葉であったからだ。

しかし今回の困難はここでは終わらなかった。1992年の年末私は文字通り死にかかっていた。そしてそうした生活の反動、というのはどこかで噴出するものである。本番まであと4日という2月の24日、私は会社を早退した。ひどい熱がでたと思ったからである。翌日は寮で身動きがとれずにくたばっていた。あまりつらいから(これはほとんど今までにしたことがなかったことであるのだが)医者と言うところに行った。すると熱は7度ちょっとである。私は愕然とした。それだけしか熱がないのであれば何故これほどまでにつらいのか。今から思えばそれは「年をとる」ということの別の兆候であったのだが。

おしりに注射を打たれて少しはらくになった。前日である土曜日、練習で声をだすのがこわかったが、幸いなことにちゃんと声はでてくれた。そして本番。場所は我々が何度か行ったこともあるライブハウスの「ケントス」である。ここは普段はオールディーズなど演奏しているところであるから、マイクは昔風の巨大なやつだ。

この日やったのは基本的には前回と同じ曲であるが、MNのリクエストで布袋なにやらの曲が一番最初にはいった。当時は気がつかなかったが、これはドラムが異常にかっこいい曲である。私としては布袋なにがしの「ほーら、うたってるぞー、きいてみろー」という感じのさりげない歌い方、というのはちょっとつらい物であったが。それとは別に間をとるために、Queen のWe will rock youをいれた。

この日はMNが所属している別のバンドも演奏していた。こちらのほうはバリバリのオリジナルでしかも異常に上手である。ボーカルは某電機会社のエンジニアということであるが、本物の芸人であった。バリバリのきざなセリフを本当に決めていた。私は彼の芸に感心した。

正直言えばこの日は体調が完全に戻っておらず調子は今ひとつだった気がする。ある男は「最後の曲が良かった」と言ってくれたが。逆に言うと他は今ひとつだったのかもしれない。しかし私は幸せであった。2次会の2次会に行って完全に放電状態になっている私をみてMN婦人が「大丈夫ですか」と言ってくれた事を覚えている。しかし私は幸せであったのだ。そこまで数ヶ月間、仕事しかない生活を送っていた私にはなおさらであったのだろう。

 

さて、うちのバンドのここまでのパターンというのは、こうして何かイベントがあると結成され、それが終わると長い休眠期間にはいってしまう、というものである。しかし次のきっかけが何であったか今ひとつ覚えていないのだが、Stoneが帰国してしばらくたってからまた練習は復活したのである。今度は月に一度のペースでのんびりと進行である。おまけになかなか人の集まりが悪かった覚えがある。皆家庭を持つ身になっていたし、何かと仕事で「いきなり海外出張」とかもあるのだ。私の日記をめくってみると「ひさびさに全員そろってご機嫌」とかいう文字がでてくる。

この出席率の悪さは、一つにはバンドに確たる目的がなかったことも影響しているのかもしれない。そしてその「確たる目的」は1996年の年末にやってきたのである。

これはそれまで我々が全く知らなかったことなのだが、TKさんはある高尚なクラブに所属している。(別にあやしげなものではない)そしてそこのクリスマスパーテーという名前の忘年会の余興で我々が演奏する、ということになったのだ。1996年の12月22日。我々は機材一式をかついて三重の山の中まで遠征である。

さて会場(つまるところは宴会場だが)につくとさっそくセッティングである。それが終わると私は着替えた。数年前、姉と姪がStanfordにいた私のところに遊びにきたとき、私は彼女たちをChina Townにつれていった。そのときに理由はわからないが買ったカンフー着に着替えたのである。買ったはいいが今まで使う機会もなかった服だがこういう時くらいつかってもよかろう。

さて着替えてトイレからでてくるとバンドのメンバーはちょっとぎょっとした顔をした。後で聞いた事だが「大坪はちょっと浮いてしまうのではないか」と思ったらしい。ところがその後我々が目撃したことからすれば、この格好はまだおとなしすぎる、くらいの部類に入っていたのである。私たちが目撃した一番過激な格好はある女性が着ていた○玉までついたタヌキの着ぐるみであるが。

宴会が始まるまで間がありそうなのでぶらぶらとしていた。そこに主催者らしき人たちから「あの。もう演奏していてほしいんですけど」と言われた。どうもうちを高尚で静かなバックグランドミュージクになりそうな曲をたくさんもっているバンドと間違えている様子である。我々は持ち歌が5曲しかないこと。そしてその音量は莫大であり、とてもバックグランドミュージックになるようなものではないことをつげた。しかしとにかく何か演奏しろ、というご要望である。我々は「何がおこってもしらねえーぞ」と内心つぶやきながら会場に向かった。

さて、会場についてみるとありとあらゆる年齢層の人がそろっている。子供達もたくさんおり、その両親とおぼしき人たち、さらにはもっと年上の人たちもいる。強いて言えば一番少ないのが20代、30代であろうか。つまり我々と音楽の好みにおいて一番波長があう「はず」の年齢層が少ないのである。しかしそんなことはどこへやら。今更曲をこの客層に合わせるといってもそんなことはできないのである。

「子供が泣きだすんとちがうか」

という声もあったが、我々は演奏を始めた。

さて、前回人前でやってから3年10ヶ月が経過して、我々のバンドのレパートリーも大幅に代わった。以前人前でやった曲はもう一つも残っていない。今回やったのは以下の曲である。

(1) チェリー :SPITZ

(2)Tie your mother down:Queen

(3) Tears in Heaven :Eric Clapton

(4) Somebody to love:Queen

(5) Robinson:SPITZ

バンド名はすべて横文字になっているが、しかしそれがすべて洋楽というわけではない。まずEric ClaptionはStoneの趣味でレパートリーにはいった。Queenの2曲はStoneと私が気に入っていれた曲である。とくにSomeody to loveは歌詞が(未だに)身にしみる名曲である。これはイギリスで行われたフレディ・マーキュリー追悼コンサートでワムの片割れのお兄さんが歌っていた。原曲も見事だがこのときの演奏も大変すばらしかった。

さて(私にとって)問題だったのは後の2曲である。TKさんがいきなり「日本のポップミュージックはいい」と言い出したのだ。私は基本的にこの意見には賛成である。その昔私が若い頃は「歌謡曲」なるものが世の中をのしており、それらはとても演奏しよう、という気をおこさせるものではなかったが、最近カラオケなどで他人が歌っている曲を聴くと確かによい曲が多そうだ。

問題は歌詞にある。たとえば最初の曲を観てみよう。その中に概略以下のような意味の歌詞がある。

「君に覚えていてもらいたいから、弱気なままで夜が明けるまでみつめているよ」

私は概して人の胸ぐらをつかんでゆさぶるなどといことはしない人間だが、この歌詞を聴くとどうも誰かれかまわず胸をつかんでどなりつけたい衝動に駆られる。しかし問題はこの歌を人前でやる、ということであり、それはとりもなおさず私がこの軟弱な歌詞を人前でしゃべる(歌う)ということなのである。

もんもんとしていたある日、私は一つの救いを見つけた。CMを観ていたら、SPITZのもう一曲であるとのころのRobinsonの英語バージョンが流れたのである。これだこれだ。英語でならばなんとか歌えるかもしれない。そう思った私はさっそくCDを買い込み歌詞を暗記した。しかし次の練習の時にその構想はTKさんの「日本語のほうがいい」という一言でもろくもついえた。結局私は人前で「うーららー宇宙の風にのるー」とか真面目な顔して叫ぶ運命から逃れられないのである。

さて、いろいろな危惧やら不安やらをかかえながらやったこの日の演奏であるが、反応は予想以上によかった。なんといっても観客ののりがいいのである。最初の曲をやったときは多少ひいた印象があったが、ちょっと間をおいてTie your mother downをやったときは、間奏で客が踊り出し、それに併せて私もくるくる踊っていた。おまけに理由はわからないのだが、この曲の途中では女性が爆笑する声も録音されているのである。これで一気に雰囲気が和み、次のTears in heavenでは(この曲の歌詞は全然そうした行動にそぐわない内容なのだが)もうちょっとお年の方が社交ダンスのような感じでおどっていた。

さて、ありがたいことにそんな大盛況のうちにパーテーはお開きとなった。我々は至極満足のうちにまた長い長い帰り道についたのである。

 

さて、楽しかったコンサートの思いでもどこへやら、私は正月があけた瞬間、別の部署にとばされ、空いた口がふさがらない間にDetroitに幽閉される身分となったのである。当時アメリカからある人にあてたメールには以下のように書いてある。

「人生唯一の楽しみのバンドもできなくなるし。。」

さて、そこからのごたごたは書かないがとりあえず私が辞表を放り出して日本に帰ってきたのはその年の12月5日だった。それからしばらく私はボウフラののごとく暮らしていたが、ある日Stoneからあのバンドが復活している事を聞かされた。なんでも人前でやる機会があったそうなのである(結局流れたらしいが)そこで私が「帰らぬ人」になったと思った彼らは過去に合唱でならしたことのあるHOKを探しだし、練習にいそしんでいるらしいのである。

さてあけて1998年の2月の15日。私は久しぶりの練習に出席した。そしてそれから主にバックコーラスにいそしむことになる。そしてバックコーラスはちゃんと練習しないとできない、という事実を思い知らされることになった。さて、私が就職活動やら、宇宙飛行士の応募やらにあれこれしている間に、再び「人前でやる機会」がめぐってきた。COWの2次会である。このころになるとHOKと私の間でだいたい分業体制が整ってきた。美しい聞かせる曲はHOK、わめきまわる曲は私である。さて当日やったのは以下のような曲だった。

1)A Boy- Glay by HOK

2)Change the world - Eric Clapton by HOK

3) Get Over it - Eagles by 私

4) China Globe- Doo Bee Brothers by HOK& 私

5) Tie your mother down -Queen by 私

6) 1986年のマリリン-by Cow

7) I was born to love you - by Cow

8) Twist and Shout - by Cow

こうやってみるとこの日はずいぶんとたくさんの曲をやったものだと思う。まずはHOKで美しい曲をきかせ、私でちょっもりあげる。ここでStoneの二人の子供が前にでて踊ってくれた。彼らの将来が実に楽しみなのは私だけではあるまい。

そして真打ちCowの登場である。このとき彼は1986年のマリリンを歌う本田美奈子に併せてカツラをかぶり、そしてへそ出しルックであった。この光景を目の当たりにしたときの我々の驚き、そして動揺は言葉で表すことはできない。(彼はリハーサルの時は普通の格好をしていたのだ)司会をしていたHRは「本田美奈子のつもりかもしれないけど、どうみても野人岡野」と評したが、実際の光景は「野人」などという生やさしい言葉で表現されるものではなかったのである。私はバックコーラスの位置にいたから正面から見ることは避けられたが、他のメンバーの動揺はいかばかりであったろうか。演奏がとぎれなかったのは奇跡に近い。

この日の最後の曲は、もしいれば必ずこの曲で踊ったであろう、そして最初のコンサートで見事な司会をしてくれた-私はアマ、プロをとわずあれほど見事な司会を観たことがない-鶴ちゃんにささげられていた。

さて、このコンサートが終わってから、我々は二人の女性を新しいメンバーとして加えることになった。ハナちゃんと、KGちゃんである。彼女たちは男ばかりの我々バンドに新しい息を吹き込んでくれた。しかしKGちゃんは1999年の3月に突如「結婚&出産休バンド」したのだが。

さて、これが我々のバンドがたどった10年近くになろうという道のりである。そして我々は1年4ヶ月ぶりに人前にたつことになる。その日はとうとうやってきた。

次の章

 


注釈

Baby逃げるんだ!:私はこの曲はRCの名曲の中の一つだと思っている。何故この歌が(カセットテープでだが)カラオケ屋にあったのかは定かではない。当時は通信カラオケなるものはなかったから、曲の範囲は実に狭かった。RCに限らずロックを歌うのは実に困難だったのである。不思議なことに通信カラオケが普及するようになり、RCの曲が必ず何曲かリストにあがっているようになってもこの曲にお目にかかったことがない。本文に戻る

 

腰に違和感:私が数年後に腰痛に襲われた身の毛もよだつ記録は「腰痛の歌」を参照のこと。本文に戻る 

宇宙飛行士の応募:この顛末については「府中へ」参照のこと。本文に戻る