題名:ぴかぴか

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日付:2001/11/23


ぴかぴか

この季節、街には豆電球が繁殖いたします。長くなった夜にきらきらと。「豆電球の季節」到来であります。かの発明王エジソンを偲ぶ季節であります。

彼は数々の偉大な発明を成し遂げましたが、その道のりは苦難に満ちたものでありました。そうした苦難を乗り越え、成否定からぬ開発に彼を向かわせたものは何であったのか。自分の着想が現実のものとなったら、どんなにすばらしいだろうか、どんなにこの世にインパクトを与えるだろう。彼にはその

「発明品がある日常風景」

がまざまざと脳裏に浮かんだのではありますまいか。99%の努力をのぞいた1%のインスピレーションとはそうしたもの、今日流の言い方をすれば「ビジョン」でありましょうか。この季節彼の発明の成果でありますところの電球を多数装飾に用いることにより、我々は

「ビジョンをもてば、そして努力を惜しまなければ、今よりもきっと生活を向上させることができるはずだ」

という希望を新たにし、そのためであれば苦難も乗り越えよう、という決意を固めるのであります。

しかし同時に我々はその電球を光らせますところの電気にも思いをはせなくてはならない。電気と言えば平賀源内。えれきてるびりびりであります。彼はその偉大な功績にもかかわらず世間の理解を得ることあたわず、最後には悲惨な形で獄死いたしました。

「この発明は人々の生活をどのように変えるであろう。」

彼もこうした夢を、ビジョンを持っていたことでしょう。そしてその実現のための努力も惜しまなかったに違いない。しかしそれは必ずしも彼に幸せを、人々の生活に変化をもたらさなかった。そうした「1%のインスピレーション」を、「99%の努力」を持ちさえしなければ彼は平凡な一市民として天寿を全うしたかもしれないのに。

ここにいかにもっともらしく聞こえる「格言」であってすら、

「人を幸せにするか、あるいは不幸せにするは運次第」

という現実というものを我々は目の当たりにするのであります。さらにはかのエジソンも発明王として名をはせた後、霊界との通信という考えにとりつかれ彼岸に行ってしまったことを思うとき、思わず嘆息するのは私だけではありますまい。

かくの通りこの「豆電球の季節」とは人の、この世のあり方について深く考えるべき時なのであります。誰がなんと言おうとそうなのであります。デジタルライフというサイトで12月2日から開催されますところの「クリスマス雑文祭」そこにもきっと人間のありようについて深い思索を誘う文章が多数発表されるものと期待がふくらみます。そこに参加するであろう文章を読み、自分の、この世のありようについて深く考え、そして混沌としたとらえどころのない心境に至る。それができてこそ初めて心静かに新年を迎えることができるのです。こうした心持ちを古の歌人は

Merry merry Christmas, and happy new year.

と旋律にのせ歌唱いたしました。

いや、まだそこまで語るのは早すぎる。というか私ほとんど思いつきだけで書いてます。今はただ点滅する豆電球を眺め、エジソンと平賀源内、この二人の生き様について思いをはせることといたしましょう。

ぴかぴか。


「クリスマス雑文祭」宣伝祭参加作品である。縛りは以下の通り。

* 題名 擬音語。(例)ワンワン、ちゅぱちゅぱ、ぶちゅ、どんどこどん

* 始め 題名と同じ擬音語。

* 結び 題名と同じ擬音語。

* お題 文中でさりげなく、またはわざとらしく「クリスマス雑文祭」を取り上げ、宣伝する。

「宣伝祭」ではなく、本体の雑文祭に私が何を書いたかは以下次号。本当のことを言えば、本編を先に書いていたから、こちらは

「本編の予告編になるようなもの」

が書けないか、と考えはしたのである。一応。しかし「筆力のなさ」という壁は厳然として存在している。あれこれ文章をひねくりまわすこと数日。やけになって

「もう断念」

と思ったその晩に思いついた内容を翌朝通勤電車のなかで書き続ける。隣に座ったお兄さんがのぞき込んで笑っているのも気にせずに。ああ、雑文書きたらんとするもの業は深いなあ。しかしこんだけ意味がない文も珍しいなあ。

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注釈