題名:心の通い合う時

五郎の入り口に戻る

日付:2002/8/18


イルカと言葉を交わしたい、と初めて思ったのはいつのことだったか。子供向けの「動物の秘密」とかいう漫画に

「イルカはとっても大きな脳を持っていて、言葉を話していると言われているんだよ。いつか君達と話ができるようになるかもしれないね」

とあったのを読み「そんな日が来るんだ」と思った。その日から今日までその夢はずっと心の中に生き続けている。イルカと話がしたい。イルカはどんな話を聞かせてくれるんだろう。

年を重ね人生の選択をする時にも、いつもその夢は心の中にあった。もちろん最初からどんな道を通ればいいのか分かっていたわけでもないし、いくつかのとても大事な出会いがなければ今頃平凡なサラリーマンになっていたかもしれない。そしてイルカと会話したい、などと人に言えば

「疲れているんだね。休んだほうがいいんじゃないか」

と肩をたたかれていたかもしれない。そう。夢を持つづけることができる仕事に就けたのは確かに幸運に恵まれていたからなのだ。

しかしそうした仕事に就けるだけでは十分ではない。研究はなかなか進まず手がかりがつかめないまま年月だけがたっていく。しかしある日のことだ。通勤電車の中で雑誌の釣り広告を観ていた時-それ自体に何も意味はないのだが画期的な着想というのは得てしてそうやって生まれる物だ-彼らは我々に極めて近い言葉でしゃべっているのではないか、というアイディアが頭の中に浮かんだ。この「極めて近い」というのは「人間に近い」という程度の意味ではない。今我々がこうやって使っている言葉に近い言葉、つまり日本近海のイルカは現代日本語でしゃべっているのではないかと思いついたのだ。

これが無茶苦茶に飛躍した論理であることは分かっていた。どうやって時々刻々変化する言葉をイルカが学べるというのだ。しかしこの思いつきは研究を進めるにつれ次第に確信へと変わっていく。最初自分でも馬鹿げていると思ったアイディアは、人間とイルカの深い結びつきを示しているように思えてくる。私は一人で作業を進める事にした。自分が世界で一番最初にイルカと会話する人間になるのだ。表向きは日常の地道で退屈な作業をこなしているように装いながら、さりげなく、あくまでもさりげなく解読作業を進める。暗号のようなイルカの言葉を解く鍵を探すのはもちろん簡単ではない。しかしいくつか有望なパターンも見つかり初めていた。

そしてついにイルカの会話をリアルタイムで聞くことができる日がやってきた。幼い頃から持ち続けてきた夢。それが現実のものとなろうとしている。彼らは何を話しているのだろうか。大海の神秘的な物語だろうか。それともイルカに代々伝わってきた神話だろうか。武器というものを持たない彼らの会話から我々は何を学べるのだろう。


結果が出る前から頭の中にサクセスストーリーが展開するときは絶対ろくな結果にならない。そのことを何度となく学んだはずなのに。今度こそは違う、と思うのもいつものことなのだが。

何度もプログラムをチェックしながらここ数日に渡り彼らの会話を聞いている。いや、プログラムが間違っている訳がない。解読結果は実にスムーズな日本語だった。今も私の前のディスプレイには彼らの会話が流れている。


「だりー。●●てー」

「うるせー」

「なんか面白い話はねえのかよ」

「ちょっと前につきあってた女だけどさー。●●がとっても××でもう△△なんだよ。信じられねーよ」

「そんなんたいしたことねーよ。俺がつきあってた女なんて●●が***なんだって、●●の時に×××、×××って連呼」

「やっぱ●●が××ってのはすげーよな」(相手の話を聞いてない)

「そいつの友達ってのがこれがまた△△で」(こっちも相手の話を聞いていない)

「○○と●●てー!」


考えてみれば当然ではないか。こんな狭い水槽に雄二匹閉じこめて置けば話す内容など決まっているじゃないか。会話は過去数日間に渡って全く同じ調子。オール下ネタ。誰かのいたずらかもしれない可能性を何度チェックしたことだろう。

いや、これはこうした特異な環境におかれたイルカ同士の会話だからに違いない。そう思って外洋で録音されたイルカの会話も解読してみた。結果は五十歩百歩。ワイドショーを連続で24時間観させられたほうがまだまし、といった所だ。


呆然と画面を眺める私に上司が「どうだ、調子は」と聞く。私は反射的にパニックボタンを押し画面を表計算ソフトのそれに切り替える。「まあぼちぼちです」と適当な答えを返しながらあたかもデータを入力するようにキーを打った。それは私が作成したデータ、プログラム、そのほか一切合切を消去するコマンドだった。音も立てず一秒もかからず。あくまでさりげなく私は過去数年間の成果-いや、これが成果などであるはずがない-を消去した。

目の前では2匹のイルカが泳ぎ回りながら何かを話している。彼らは何を話しているのだろうか。大海の神秘的な物語だろうか。それともイルカに代々伝わってきた神話だろうか。武器というものを持たない彼らの会話から我々は何を学べるのだろう。

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注釈

赤ずきんちゃん☆ブレイクダウンで開催された「ものすごい雑文企画」参加作品である。今回のしばりはいつもにも増して凶悪で

「下に上がっているキーワードがお題になります。この中から、お好きなものを選んで、そのキーワードを、雑文・日記・物語・漢詩など、いわゆるテキストの形でうまく表現してください。その際、「ものすごく○○」(←○○は形容詞)という具合にお題を考えると分かりやすいです。」

と書いてある下には推奨3っつ。自由18個の形容詞もしくはそれに準じるものが並べられている。そのうちの一つは私が書いた「さりげなく」というものだった。

しかし今回は難関だった。何を書いても「それが貴様が考えつく”ものすごい○○”か」という言葉が頭の中で響くのである。いや、もっと○○なことはあるはず。いっそのことをそうした苦悩自体をネタにしてみようかとも思ったがどうやっても面白くない。弱り切ったある日思いついたのがこのネタを使うこと。だいぶ前に思いついてそれ以来頭の片隅に置いておいたのだが。

 というわけでこれで参加することにした。