題名:主張

五郎の入り口に戻る

日付:2001/2/11


可視化について

最近「女性の心の声が聞こえてしまう男」を主人公にした映画が公開された。この「他人の心が聞こえる」というのは漫画だの小説だのありとあらゆるフィクションで何度も取り上げられた設定だ。ゴルゴ13のあるエピソードでは相手の心を読むことができる女性が

「男は女を裸にして○○○をつきたてることしか考えていない」

と言い放つ。この下りを読むとき私は自分の胸に手をあてて自問する。はたして彼女の言葉は私にあてはまっているだろうか。いや、そんなことは(たぶん)ない。そりゃまあ健康な男子であるから全くないとはいわないけど、逆にしかるべき状況においてそうした考えを全く抱かず(というぼおけーっとしていて”しかるべき状況”に置かれていることに気づかず)

「この状況において手を出さないとはいかなることか。貴様実はホモではないか」

と顰蹙を買ったことも一度や2度ではないのだ。このテレパスの彼女も時と場合によっては

「なんということ。下着にセーターだけのあたしを目の前にしてこの人ったら”彼女が着てるセーターって手編みかな。いい色だな。毛糸もしゃれてる。どこで売ってるのかな。彼女に聞いて今度こんなのを編んでみよう。楽しみ楽しみ。ふふふふふ。”なんて考えている。きいい。」

と逆の意味で激怒したのかもしれない。かくのごとく男はスケベ心を抱いても抱かなくても女性の顰蹙を買うのであった。いったいどうしろというのか。ええい、かくなる上は開き直ってやる。うららー。

などと叫んで良いわけではない。彼女はその特殊能力によりゴルゴ13の「殺意」を敏感に感じ取り、その任務を失敗させた数少ない人間となる。しかし結局のところはその芸により命を絶たれることになるのだ。ゴルゴ13の放った銃弾より発した業火に身を焼かれる彼女をみると私は思う。

「芸は身を滅ぼす。ああ。無芸の私って素敵」

 

などと自分の無能さを正当化している場合ではない。今回書きたかったのはそんなことではない。こうしたフィクションにでてくるのはだいたい「人の心の中の言葉が聞こえる」というやつである。私はこうした設定に大変な違和感を覚えるのだ。人の思考を読みとる戦闘機をのっとったのはいいのだが、なんとそいつはロシア語でしか命令を受けってくれないというのはなにかの映画だったが、ロシア語だか日本語だか河島英語だか知らないが、そもそもからして人間はものを言葉で考えているのだろうか。

たとえばコンビニに入りシャンプーを買おうとしたとしよう。しかし「ありがとうございましたー」の声に送られて自動ドアをくぐるときに何故かアンドーナッツ(10個入り)がシャンプーとともに入っている、なんてのは私にはよくある図柄だ。コンビニで心の中に響いた言葉は

「ああ。このアンドーナッツはなんと魅力的に映ることか。しかし昨今の体重増加を考えればこれを食べるなどというのは私には許されないことだ。いつの日か体重を70kgに減らすという公約が達成できた暁には鼻血が出るほどこのアンドーナッツを食べる日が来るかもしれない。それまでは我慢だ」

であったはずなのに何故かアンドーナッツは私の目の前に存在している。自分で考えたのでなければ「そのアンドーナッツを手に取るがよい」と天啓でも与えられたというのか。ええい、神様の意地悪。買った物はしょうがない。ぱくぱくぱくぱく。ぶよんぶよん。

などと考えると所詮人間は言葉で物を考えていないのではなかろうかと思えてくる。これは「英語でしゃべっているとき日本語で物を考えますか。英語で物を考えますか」と聞かれた時にもいつも考える事である。そう言われてみると果たして自分が何語で物を考えているのか定かではない。さらに疑い出すと「はたして自分は物を考えているのだろうか」という深刻な疑問に突き当たる。ひょっとすると実際の心の中というのは論理的に組み立てられた言葉ではなく

「うほほーい」とか

「がおー。うぉぉぉぉおおー。うららららー」とか

「しくしく」とか

「ふにふに」

とかそうした叫び声(一応喜怒哀楽)だけが充満している場所では無かろうかと思うのは私が考えの浅い人間なせいであろうか。

 

いやいや。今回書きたかったのはこういう話しでもないのだ。人と会ってあれこれ話をしていると最近よく思う。

「人の考えが言葉でなくて、図になって見えたらさぞかしおもしろかろう」

と。所謂可視化というやつだ。

たとえば話の筋があちこちにぽんぽん飛んでさっぱり何をいっているか解らない人が居る。私はそういう人と話すと大変いらいらする。なんだこの脈絡のない話し方は。本当の事を言えば自らの思いが流れ出るままにキーボードをひっぱたき、できあがった文章を読み返すときにも同じ不快感に襲われるのだが、この

「そこら中はね回り」

というのを絵にしてみると結構面白いのではないかと思う。ここに○が出た。しばらくそこにいたかと思うと今度は出し抜けに右下の方に移動する。あれれと思っている間に今度は左上に飛んだ。このStrategyを使い

「不敗の立場」

に自分を立たせる人には何度か会ったことがある。おいかけてくる相手の反対側に常にホップするのである。やったなぁ、こいつ。ほーら。鬼さーん。捕まえてごらんなさいよー、などとさんざん飛び回ったあげく、気がつくと相手は最初と同じ位置で全く逆の方向を向いていたりするのだが、不敗の立場に立つ人は過去のことなど切り捨てて平然としている。言葉の世界ではそうした図柄が解りづらく、ついいらいらしたりするのだが、可視化ツールを開発し、こうした様子をビデオか何かにすると笑って観るのになかなか適当なものとも思えるのだが。

かくのごとく考えると結構人の考える図というのは多岐に渡っていることに気がつく。時々

「なぜこの人はこんな些細な事でパニックに陥り思考停止に陥っているのか」

と思うことがある。こうした人は物事の大小を計る感覚が麻痺しているのではなかろうか。図にしてみれば、あははは。この人自分の前に小石があるだけで止まってるよ。手を伸ばして取り除けばいいのに、どうやら巨大な岩石と勘違いしているらしい、というところだ。あるいはこんなのはどうだ。整然とものが並べられていく。順序よくきちんとだ。そこにいきなり「それじゃだめだ」と叫び声が聞こえる。しかしその男は列から50m離れたところでおまけに完全に反対方向を向いて騒いでいる、などというのも可視化ツールを通してみればかなり愉快であろう。

あるいはそうしたツールにはもっと別の使い道があるかもしれない。こんなコンテストが開催されるようになるのだ。

「妄想美女コンテスト」

5年に一度開催されるこのコンテストでは男性がもわもわもわんと妄想する女性の美しさ、知性、Sexyさが競われる。もちろん下ネタ方面に走ればいいというわけではない。底が浅い漫画家が描くような男性に都合のいい女性像ではこのコンテストは勝ち抜けない。その基準はMiss Americaよりも厳しいのだ。次々と浴びせられる質問に、ウィットに富んだ返答をすることも必要になる。もちろん妄想している男ではなく、可視化ツールによって映像化された女性がだ。この厳しい関門をくぐり抜けコンテストに勝ち残った男には「妄想王」なる称号が送られ、長くその栄誉をたたえられることになる。しかしこれほど苦労して勝ち取ってなおかつその後にむなしさを残す称号もあるまいな。

しかしながら私としては、そうした妄想をもてあそび「誰かツールを開発してくれまいか」などと願うわけにはいかない。視覚化された私の頭の中がスケベな図柄なら

「健康な男子だもの。これくらいのことは」

と開き直れるからまだいい。しかし心をむなしくし、胸に手を当てて考えれば、前述した「可視化すると笑える人の会話」というのは普段私がやっていることばかりだ。(話し相手のいらだった表情は私にそれを教えてくれる)他人を笑い物にしてやろうと思ってツールなど持ち出しても簡単に返り討ちにあってしまうのは大変うれしくない。となると私としては残りの人生

「人間の考えを可視化する装置もしくは能力が開発されませんように」

と祈りを捧げながら生きるしかないこと言うことか。いや、実はもう遅いかもしれない。私は一部で大変有名なのである。

「考えていることが全部顔に書いてある人間」

として。自分ではわからないが、他人が私の顔をみれば「うららー」と叫びながら明後日の方向に走っていく私が見えるのだろうか。えっ。そんな複雑なのじゃありませんか。単に女性を観るときハタから観ていて恥ずかしいくらいのスケベ面になっているだけですか。ええい。どうせ俺はスケベな男だ。やっぱり開き直ってやるー。うららー。

前を読む | 次を読む


注釈

映画:ハート・オブ・ウーマン(参考文献)参照のこと。本文に戻る

底が浅い漫画家:本宮なにがしはその第一人者だが。本文に戻る