題名:主張

五郎の入り口に戻る

日付:2000/10/23


「秋の夜長に」  (その2へ)     (注:この話はフィクションです) 

秋の夜は長い。ということは昼が短いということだ。だから私のように日が昇るとともに働き出し、日が沈むと行動を停止する人間にとっては、一日の活動時間が縮んでいくということでもある。

なぜそんな生活を送っているかと言えば夜は暗いからだ。明りがなければできることはほとんどない。せいぜいできることは家族と火を囲んでぶつぶつ言う事くらいだ。想像力に富んだ人間であれば

「これはじい様から聞いた話しなんだが」

とかいってとんでもないほらを吹きまくることができることは知っている。実際うちの父親はそういう人間だった。その「昔話」が父親が即興で作り上げたほらだ、という事を知ったのは父が死ぬ間際の事であり、私は悲しみとともにその才能に驚嘆したものだが。

とはいえ、私はそうした才能が必ずしも遺伝するわけではないことを知っている。我が家で話される内容といえば毎日の生活の噂、愚痴、妄想くらいであるからあまり楽しくはない。となればとっとと寝て明日のため、体力を温存していたほうがよいではないか。

さて、かくのごとく日がでている時間は縮んでいく。しかし家族が食べる量はそれに応じて減ってくれるわけでもない。いや、逆に増えているような気がする。この前全村集会で村の長が

「食欲の秋」

とか能天気な事をいいやがった。何が食欲の秋だ。そんな事を言うと

「なるほど」

と思ってまた家族が食べるかもしれないじゃないか。そしてその増大した食欲に答えなければならないのに、食い物収穫に必要な昼の時間は短くなると来ている。この前となりの男が「ぶんすう」なるものを発明した。上に必要食物摂取量-これは食欲に比例する-を置き、そしてその下に線があるものと思う。そして下に行動時間をもってくると、

「日がある単位時間あたりの、必要収穫食物量」

がでるわけだ。分子は増大、分母は減少しているのだから、この値は楽しいくらい大きくなってくれている。その増大した値をなんとかこなすことができなければ、それは家長たる私への不満につながり、そして私の苦悩は増大することになる。

 

だいたいあの長は集会のときに次から次ぎと妙な事をいいやがる。「食欲の秋」という言葉がもたらすであろう苦悩を考えるあまり、切れそうになった私の耳にはいってきたのは

「スポーツの秋」

という言葉だった。よくもこう人を逆上させる言葉を思いつくものだ。次から次へと。切れた堪忍袋の緒が蘇生する暇もないほどだ。スポーツというのはこの前やつが発明した言葉で、例えば区間を決めておいて-これがやつの発明だったわけだが-誰が一番早く走る事ができるか、なんて競うのをスポーツというらしい。

こうした類の競い合いは太古の昔から存在しており、あの長が「スポーツ」などという言葉を発明する前は実にエキサイティングだった。なぜならそれは体力だけでは勝つ事ができず、頭の良さも必要になったからだ。

人が見ている前を走りさる。仮にその単純な争いで負けたとしよう。しかしあなたは例えばこう言う事ができる。

「いや。今のは現象論的に見れば負けているが勝負論的には勝っている。君はだいたい走るという言葉の意味をなんと定義するか。地を駆け、山を走り、そして疑念が頭の中を走り回るのだ。貴様のような頭の動きの鈍い男が、私より疑念を早く走らせることができようか」

上の文字列が何を言っているかは多分あなたにもわからないし、誰にも理解できない。しかしこれがこの競争の妙味である。まったく意味のない台詞であっても、迫力を込めて力説し、周りの人間の同意を得てしまえばその男の勝ちになる。これこそ

「知恵と力を競う」

競いごとの醍醐味であった。しかしあの野郎は

「スポーツはルールにのっとって行われるものである」

などといい、事前に勝ち負けの基準を決めてしまうことにした。それをルールと呼び習わし、そしてそのルールは当然のことながら自分で決める、というわけだ。

 

全村集会が行なわれるのはいつも夜だ。だって他にすることがないし。そして集会においてこんな類の長の話しは延々と続く。秋の夜は長い。無意味な言葉に付き合っていては頭が持たないから、思考を停止させ、耳からはいってくるノイズを断ち切ること。こう自分にいいきかせる。するとそのうち幻覚がやってくる。

「どうしてそうろくでもない事ばかりいうんです。もっとわれわれの生活向上に役立つ事が言えないんですか」

とすくっと立ち上がり、演説を中断させ、周りから賞賛を浴びる自分の姿が見えるようだ。そして

「えらいぞ。よく言った」

「みんな君に賛成だ」

という具体的な声まで聞こえるような気がするのだ。

しかしそれは幻想に過ぎない。こうして幻想に浸っているだけではだめだ。文句があれば、いわなければ。戦え。そう自分に言い聞かせる。そして言うべき台詞までちゃんと考える。

「どうしてそうろくでもない事ばかりいうんです。」

と。

しかしそれだけはどうしても言えなかった。どうして言えよう。彼は村の長であり、全権を握っているのは彼なのだ。私などは悩める一家の長に過ぎない。そして彼の反感を買えば私は生きていくすべを失う。

 

さて、そんな事を考えたり、幻覚に悩まされたりしている間にそろそろさすがの長も体力がつきてきたようだ。まったく脈絡のない戯言だが、やつがなんとかしめくくろうとしているのはわかる。そしてそれはあの私がもっとも嫌悪している言葉が近づいているという証なのだ。くるぞくるぞ。

「それでは皆のもの。今晩はこれにてお開き。幹事長も感じちゃう。」

するとみなで唱和だ。

幹事長も感じちゃう

なんなんだ。このいつも唱えられる集会お開きの挨拶は。だいたい「幹事長」ってなんなんだ。一体それはどこの言葉だ。何、この土地であと4000年もすれば使われる言葉だと?そんなもの私の知った事か。それにそんな言葉をなぜ最後にみなで叫ばなくちゃいけないんだ。

 

しかしこれが集団生活というものなのだ。団体行動というものなのだ。ここにいればこそ、それなりに安定した生活が送れるというものだ。いまだに獣を追い、木の実を拾って定まった住居を持っていない人たちもいる。彼らは自由を持っている。気にいらなければ

「幹事長も感じちゃう」

などという意味不明の台詞を叫ぶ必要もない。しかし獣がとれなければ、たまたま木の実が少なければ次の春を迎えることはできない。こうして集団で定住していればこそ、少しの自然や運命のあらなみにも耐えられるというもの。それを思えばわけのわからない台詞の一つくらいなんだ。

こう自分に言い聞かせると集会場を出る。ぼんやり見える自宅のほうを眺める。そこに何が待っているかは知っている。腹をすかせて今日こそは私に文句を言おうとしている目尻の釣り上がった妻だ。そして彼女の文句をさんざん聞かされた私は、また短くなった昼の間に食物を探しにいかなければならない。

夜はまだ続く

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本文章は「第5回雑文祭」参加作品である。題名、文章の書き出し、結びの言葉、それに文中に「三つのお題」を入れる事を条件とした雑文を書く、というのがルールだ。

最近この「雑文」なるキーワードを持つWeb Siteがたくさんあることをしり、私のインターネット生活は(それが何かと聞かないように)ずいぶんと楽しくなったきがする。となれば、そのお祭りに参加してみよう、と思ってみたわけだ。

最初から何を書こうか決めていたわけではないのだが、書き進めているうちに少し前に書いた「東北の夏祭-一年後」の中に書いた文章があてはまるのではないかと思いはじめた。私が山内丸山遺跡で考えだした

縄文人の憂鬱

である。

さて、今回いれなくてはならない「お題」は

 

「切れた堪忍袋の緒が蘇生する暇もないほどだ」

「それだけはどうしても言えなかった」

「幹事長も感じちゃう」

 

である。最初の二つは多少無理がありながらもなんとかいれたが、正直いって最後の

一つの入れ方は反則に近いのではないかと思う。

「こんなんずっこい」

と思われたあなた。あなたの思いを私も共有している。素直に書く事にしよう。筆力がおいつかずまことに申し訳ありません。

こうした祭りが主催されること。そしてそれを通じて新しいサイト、それを作った人との出会いがあることがうれしいことだ。願わくばこの文章が祭りの盛り上がりを損なうものでないことを祈りたいものだが。

この文章を書き上げたあと、まだ結構日にちがあった。そして同じ縛りにおいて別の文章が書けないかと考えたりしたわけだ。その結果がその2である。

この文章が「古」とすれば、その2のほうは「今」である。正確に言えば、近過去なのだが、そこはそれ。お暇があれば読んでいただければ誠に幸いである。


注釈