題名:若者に通じない用語-Part2

五郎の入り口に戻る

日付:1999/6/25

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独身寮、公衆電話

会社によっては入社してからしばらくの間「独身寮」なる便利な施設を利用できる場合がある。さて、この「独身寮」なるものであるが、先輩達の話を聞くにつけ、私がはいる10年前と私が入った時では大きな変化がなかったのではないかと思う。しかし私が入ってからの10年での変化は大きかった。

 

私が独身寮に始めてであったのは、大学3年のときである。機械工学科(の類)に属していた私は夏休みに工場実習なるものをとることになった。いくつか提示された研修先の中から私は祖母の住んでいる場所に近い企業の工場を選んだ。

何故そうしたか?研修の期間は何日であったか忘れたが、その間は工場の独身寮に起居するのである。しかし私は独身寮なるものがいかなる場所か全く知らなかった。従ってもし「こんなところに住めるかー」というところであれば、とっとと祖母のところにでも避難しようと考えていたのである。

さて、選んだのはいすずの藤沢工場だ。おまちかねの独身寮なるところにはいってみると、中は結構印象的である。広さはおそらく10畳ほどとなるのだろうか。部屋の一番奥に4畳弱の共有スペースがある。その手前には2段ベットが二つある。その間の細い通路を通って廊下に出る、という仕組みである。つまり10畳に4人の人間が暮らしている、という図式だ。

本当にここに4人詰め込まれるのか、と思ったらさすがにそうはならなくて二人部屋であった。朝になるとしょこしょこと着替えて朝ご飯を食べて工場に向かう。実習とはいってもつまるところ遊んでいるようなものだ。覚えているのは溶接である。アーク溶接から、なんだか棒をとかすやつから。とはいってもそこらへんの屑鉄をつなげて遊んでいただけなのだが。とはいっても実戦とは偉大なもので、きれいな溶接がいかに難しいことか。とびちる火花がいかに熱い物かということは体感できる。

かくのとおりの作業状況だから、定時にはお辞儀をしてまっすぐ帰る。夜はひまだから麻雀なんか持ち込んでくるやつがいる。奥の4畳のスペースは麻雀をやるにはちょうどよい。

しかし2週間であるからこの程度ですむが、本当にここに4人詰め込まれたとしたら個人のスペースはベッド+1畳である。世の中にはいろいろな物持ちがいるではないか。そうした人たちはどうしているのだろう?などと疑問に思っている間に実習は終わった。私たちは

「ああ。こんな遊びに来ている学生を実に丁寧に指導してくれてありがたいことであった」

と感動していた。しかし、他の工場を選んだ人間は、会社のおごりで宴会があったり、少ないながら日当がでたり、当時まだ「国鉄」だったJRに行った人間は溶接をやる(これはとても暑い作業である)のは冷房が効いた工場だったりと、とても絢爛豪華な扱いをうけていた、と知ったのはだいぶたってからのことであったが。

 

さて、時は流れて一年あまり。私は「大学院にいくもんね」と思って神妙に試験を受けたのだが、あろうことかあるまいことかきれいにすべってしまった。秋風がたとうという時期になっているのに、である。泡をくって見学に行った○○重工では大変に丁寧に先輩達が応対してくれた。そこである人は

「そう。君は名古屋が実家なんだ。でも寮にはいったほうがいいよ。おもしろいから」

と言った。私は素直に、なるほどそういうものか、と思った。どたばたしたうちに○○重工に入ることを決めるとなんやかんやと書類を出したりする。入寮希望の欄にまよわず私は○をうった。配属が正式に名古屋に決まり、はいる寮が「第2○風寮」と連絡されてきた。ちょっと時代がかった名前だがはいる会社を考えれば、伝統の古さを感じさせる、というものである。もっともこの場合伝統がある、ということは施設が古い、ということでもあるのだが。丁寧な地図も添付されていた。実家から車でいけばすぐ、というところにあるようだ。

入社式及びそれに続く研修は東京で行われる。このとき私は大変楽しい状態にあったとは言えない。それまでのおきらくごくらくな学生生活もとうとう終わりだ、という気持ちもあったし、私にしては珍しく東京に後ろ髪引かれる思いもあったからである。

朝になればみんなで泊まっている研修所だかなんだかから着慣れないスーツをきてぞろぞろとどっかの公会堂のようなところに向かう。右を観ても左を観ても男ばかりだ。このときはまだ男女雇用機会均等法などというものは施行されていなかったから女子社員には各事業所にいくまでお目にかかれない。次から次へと会社の偉い人が現れては演説をぶつが、「なぜこんなによく眠れるのだろう」と思えるほどよく眠れる。(さすがに途中で一度説教をくったが)研修所に返れば着るのは灰色の作業着である。この作業着は数年後に

「ガソリンスタンドのお兄ちゃん」

のような青色のものに代わるが当時は見事な灰色だった。

灰色の作業着に身を包んだ20代の男ばかりが数百人いる光景、というのはそれだけでもあまり心躍る物ではない。そのうえ朝にかならず近くの公園で体操をやらされるのだが、近くで同じく体操をしている別の会社(どうやらSB食品だったようだが)はカラフルな思い思いの服装をしていて、おまけに2割は女性なのである。

その彼らを横目で身ながら灰色の作業着をきて体操をやる。このときの人事課の人間にはきっと体育会系の出身者がまじっていたに違いない。「眠気覚まし」と称してやらされた「天付き体操」はいわばヒンズースクワットのようなもので、朝から非常に人生を楽しくなくしてくれるものである。

さて、そんな研修も金曜日まで。土曜日にはみんなでぞろぞろと新幹線で名古屋に移動だ。地下鉄の駅をおりてしばらく歩くとこれから私が寝起きをする第2○風寮が見えてきた。なるほど。これが伝統の重みというやつか。

まずは食堂に全員はいってあれこれ説明である。寮長さんは、ちょっとやせ形で最初「神経質な人かな」と思ったが、言葉を聞くと人のよさがにじみでるような人である。説明を聞きながらふと後ろを観ると黒板に

「新入社員のみなさん。入寮をお待ちしていました。心から歓迎します」

といった先輩からのメッセージが書かれていた。私はそれをみて初めてほっとした気分になった。仮にそれがいわば定型の言葉だったとしても、そのときの私にとって「歓迎します」という言葉はとてもありがたいものだったのだ。

 

さて、部屋割りが発表されてぞろぞろと荷物をもって移動する。私と同室なのはこの後数年に渡ってルームメートとなるHRである。「ども」とかなんとかいいながら部屋に入ってみるとだいたい構成は以下の通りである。

細長い部屋の一番奥にテーブル-これは本来机と呼ぶ物なのだろうが、厚い板に足がついただけのシロモノだからテーブルと呼んでおこうか-それに小さな棚がある。その次にはなぜか畳がしかれているベッドがある。一番入り口側には小さな洋服棚がある。ベッドの上にも棚がある。ベッドの下は何かをいれられるようになっている。そして部屋はきれいに左右対称になっている。つまり入り口からみて右側が私のスペース、左側がHRのスペースである。広さは6畳ほどであろうか。

家具と称されるものはこれだけだ。私はほとんど荷物を持たない人なのでこれでなんの問題もないが荷物が多い人間はどうするのだろう?トイレにいってみると便器は1/3くらい茶色く変色している。私はルームメートとなったHRに

「たぶん週末は実家に返っているから」

とさっそく宣言した。そして荷物を適当に広げると実家にいくバスにのったのである。

 

さて、月曜日からはさっそく出勤だ。こうして私の社会人生活-寮生として-ははじまった。

最初のうちは毎日定時に帰るし(研修ばかりしているのだからあたりまえだ)若い盛りだから元気は余っている。会社から帰ってからあちこち遠征にいくやつもでてくる。こうした時に二人部屋というのはかえってありがたい。一人だとどうしても部屋の扉を閉めて閉じこもりがちになるような人間でも、二人部屋だとなんとなく扉をあけて「お暇」とか言うことができるのである。また場合によっては人がたむろする部屋ができたり、そうでない部屋ができたり。

そして私にとってとって大変幸運だったのは、同室であるところのHRが大変良いルームメートであったという事実だ。私は彼の披露宴でスピーチをした時こういった

「ここにくるまでのバスのなかで、”HRはどのような男であろうか”と我々の間で話しました。結論としては”あまり身の回りの事には気をくばらない。しかし他人に対して気を使うべき所ではちゃんと使う”ということになりました。6畳一間に大の男2人つめこむような過酷な環境でも楽しくくらせたのはこうした彼の性格のおかげかなと思っております」

実際この男とくらすのは実に気楽であった。唯一の難点といえば、私が寝ようとしてから「トレンディドラマ」を観ようとすることだが、それもヘッドホンをつけてくれば何の問題もない。

かくのごとく考えれば、この二人部屋というのは私にとって大変ありがたいものであった。寮の部屋でごろごろしているとき、あるいは食堂でぷらぷらしているときに「飲みに行こう」という話がまとまりぶらっとでかけたことは何度もある。食堂はともかく、最初から一人部屋であれば、これほどお互い声をかけることができたかは定かではない。

また寮にはいったばかりのころ、先輩がこういった。

「一人部屋にしたら、自殺するやつが何人かでてくるんじゃないか」

仕事のことで悩んでいても、目の前に同じようにうめき声をあげている人間がいれば

「みんな大変なのだね」

と思うこともできる。私は場合によっては一人になって引きこもる事がままある。もし一人部屋だったら首はつらないまでも、鬱病にはなっていたかもしれない。

 

さて、季節が春から夏に代わる頃になると、皆仕事もだんだん忙しくなってくるし、なんとなく新しい土地での生活にもなじんでくる。するといくつか記憶に残る光景が展開されるのである。

 

名古屋の夏というのは実に暑い。私は名古屋で育った人間だからこんなものかと思っていたが、大学にはいり東京に行ったとき、9月に「へっつ?夏っていつきたの?」と考えたことは覚えている。それくらい名古屋における夏、という言葉には重みがあるものなのだ。

さて、独身寮というからには基本的には名古屋出身でない人間が住んでいる場所なのである。そして彼らにとって初めて経験する名古屋の夏、というものは実に実に過酷に迫ってくる。それでなくても6畳一間に大の男が二人住んでいるのだ。どっかの映画ではないが人間が発する熱だけでも大したものである。そしてこの時期寮の部屋に冷房がつく、などということは遠い遠い22世紀あたりに実現するであろう夢物語としてとらえられていたのである。クーラーがほしい?何をいっているんだ。若い者が贅沢を言って、とは言われなかったが雰囲気としてはそんな感じであった。

しかしながら現実は常に冷徹である。やたらと暑苦しいから寝付きは悪くなるし、夜も少しのことで目が覚める。夜中にふと目を覚ますと目の前に男の短パンからのびた足とすね毛が見える、というのはあまり愉快な経験ではない。それでなくても慣れない社会人生活の疲れもでてくるころである。少しでも休息をとりたいのだが、何故か安らかな眠りは訪れくれない。

私はまだいいとしても気の毒なのは一部で「バッファローマン」と呼ばれていた東京出身、北大卒業の男である。彼が何度か絶望的な試みを繰り返したあげく、食堂に睡眠の地を求めるようになるまでそれほど時間はかからなかった。何故かは知らないが食堂だけには冷房があったのである。これまた我々にとっては朝食堂に行くとバッファローマンが正体不明の様子でソファーにねっころがっているのを見つけることになり、あまり爽快な一日の始まり方とは言えない。しかし彼にしてみればそんな他人の事情にはかまっていられない、といった所ではなかったのだろうか。

 

さて、そうやって一日が始まり、会社に行く。そしてへれへれと働くのだが返ってくると夜は更けている。この寮には一応消灯時間というものがあり、それは10時なのである。人によっては早い、と思うかもしれないが、朝が8時始まり(そして当時もちろんフレックスなんてものはなかった)の会社だからこんなものだろう。この消灯時間というのは最初は「この時間をすぎるとすべての灯りが使用できなくなるのだろうか」と思ったものだが、それほど過酷なものではない。(実際そんなことは不可能だろうが)10時になるとなんともいえず哀愁を含んだ音楽がなり、そして公共の場所(廊下とか食堂とかだが)がちょっと暗くなる。そして寮の電話の取り次ぎもこの時間までである。

電話の取り次ぎ?これが現在とは大きくかわったことの一つだ。寮には外部からかけることのできる電話がたしか数本しかなかった記憶がある。そしてこちらからかけることのできる公衆電話はこれまた数台しかない。部屋に電話を引く、とか、個人が携帯電話を持つなんてのは想像だにできなかった時代のことである。定義によってこの寮には独身男しか住んでいないのだから、どうしたって女性と電話の一つでもしたくなる。しかしこれはなかなか容易なことではない。

お相手は最初は故郷もしくは大学があった土地に残してきた女性が多いのかもしれない。しかしそのうち誰もが先輩が教えてくれたところの冷徹な経験則に直面する日がくるのである。曰く

「5月の連休に故郷にかえって、がっくりと肩を落としてかえってくるのが半分いる。残りの半分のうち大部分は7月の夏休み(○○重工にはこういうものがあったのだ)にがっくりと肩を落として返ってくる。いずれにしても1年以内に結婚しなければアウトだ」

私は7月の夏休みに行く前に肩を落とした気がするが、それはそれ。肩は落としても若いお兄さん達であるから今度は名古屋エリアで女性のお友達を捜そうとする。いずれにしても女性と話したい、という願望にかわりはない。ではどうするか。

 

外部から電話がかかってくれば、館内放送でよびだされる。入寮してしばらくたつとこの「館内放送で呼び出される回数」が人によってずいぶん異なる事に気がつく。それが何を意味しているかはまあ人それぞれだろうが、いずれにしてもこの「外部からの呼び出し」は数本ある電話がうまってしまえばそれまでだ。となると今度は自分から公衆電話で電話をすることになる。

この公衆電話は早い時間-つまり8時とか9時前であるが-では結構すいている。ところがみんなが帰ってくる消灯時間の後になると大変こみあってくる。そしてそれはハタからみると以下のような様子である。

暗闇に横一列に並んでいる短パン、Tシャツの男の列。すね毛丸出しで、なおかつ顔にはちょっとだらしない笑みが浮かんでいて視線が宙をさまよっている。

彼女と話し込んでいる本人は幸せなのだろうが、これははたからみるとかなりおぞましい光景である。しかしここでにやけている男達はまだ運がいいほうなのだ。この寮には100人を越える独身男性が存在している。となれば電話をかけたい人間がこれだけの数ですむ道理がない。では残りの男はどうするか。

公衆電話にあぶれた男達は一応表を歩けるような格好をして、寮の周りの公衆電話まで遠征するのである。初めて遠征したときには「これはなかなかいい考えだわい。ここまでくれば誰も使っていないだろう」と思うのだが、最寄りの公衆電話にたどりついてみると何故か発見するのはどうみても寮生と思われる男がにやけて受話器を握りしめている姿である。ここがだめなら、、そうだあそこに公衆電話があったはずだ、と思い遠征してもそこで見かけるのはまたもや20代の独身男だ。

かくのとおり女の子に電話をかけるのも楽ではない。しかし若さというのは偉大なもので、

「なんとしても電話せねば」

という願望に駆られてとんでもなく遠くまで遠征してしまったりもする。

 

そうした日々もいつしか過ぎ去り、そして「時代の変化」なるものに対応して環境もずいぶんかわっていった。私が留学する直前に、全社でも最新の寮が完成した。第12○風寮である。いっきに番号は10もふえた。それまで暫定的に別の寮にはいっていた私はさっそくそこにお引っ越しである。このお引っ越しはちょうど初めての米国出張と重なっていたのである。おまけに仕事のほうでは締め切りとも重なっていて、出張にでかける前日はほとんど寝ないで仕事と荷造りをしていた覚えがある。

初めての米国出張でよれよれになり、帰ってくれば行く先は新しい寮だ。この寮にはいままでにない特徴がいくつか存在していた。

まずすべてではないが個室がいくつかできることになった。年齢の高いものから、ということで個室が割り当てられたが、私はまだ1年「個室年齢」にとどかず再びHRと暮らすことになる。部屋の構成は基本的に同じであるが、家具はすべて新品だ(あたりまえだが)。私はこの寮でHRと1年ばかり暮らしたはずなのだが、部屋の中でのできごとについては特に印象が残っていない。こうやって記憶をたどりながら書いてみるとき、一番記憶に残っているのは電話のことである。

電話のシステムは基本的に第2○風寮のままだが、公衆電話は一応ベニヤ板で区切られたブースの中におさめられることになった。従って以前のように

「うす暗い中ににやけた男がすね毛まるだして並んでいる光景」

にはお目にかからなくてもよくなった。おまけにかかってきた電話で呼び出されるときは、まず部屋のインターフォンがなり、その後に全館放送で呼ばれるようになったのである。これの何がうれしいか?部屋にインターフォンがあるということは、部屋までなんらかの配線がきているということだ。つまり、そう遠くない未来に自分の部屋に電話がひけるようになるかもしれないではないか。そうなればあの公衆電話争奪戦ともおさらばだ。

しかしそれは「遠くない未来」のことであり、まだこの時点では争奪戦に負ければ遠くまで遠征しなければならない。しかし私はほとんどそれをやらなかった。この時期私は仕事もそこそこに切り上げ、(あまり仕事でやることがなかったせいもあるが)寮に帰っては公衆電話ブースを一つ占領して、やたらと女の子に電話ばかりかけていたのである。

37年の人生の中で私がこんなことをしたのはこの時期だけなのだが、自分でも何を考えていたのかよくわからない。とにかくあっちに電話をし、こっちに電話し、大量のテレフォンカードを消費していたのである。だからこの時期の第12○風寮で一番私の記憶に残っているのは、緑の公衆電話のボタン、カードが出てくるときのピーピーという音それに、ブースの壁である。 

 

さて、それから私は2年間留学に行くことになった。帰るときに真っ先に会社に確認したのは「私は寮に入れるんでしょうか」であった。○○重工の総務関係は念がいって丁寧なので有名であるから、私は半ば自分が行き先不明になることを覚悟していたのだが、すんなりと寮に入ることができた。しかし時代はまた変わっていたのである。

寮にいる人間の中で私は年齢が上から数えたほうが早い状態になっていた。だから今度は個室にはいることになった。そしてとうとう自室に電話が引けるようになった。おまけに新しい部屋にはちゃんとエアコンなるものまでついているのである。

てけてけと荷物を運び込むとさっそくエアコンの恩恵にあずかる。確かに昔はこれなしで何年も暮らしていたはずなのだが、こうして冷気にあたっていると(帰ってきたのは7月だった)どうやって生きていたのか不思議なくらいだ。ほどなく電話も部屋に設置された。これであのブースともおさらばだ、、と思ったのはつかのま、私は自分が電話をかける相手が全くいなくなってしまったことに気がついた。いまや他人に気兼ねなしに自由に電話をかけることができる環境がある。しかしその「他人」が存在しない。

しばし

「なぜこのようなことになったのか」

と考えたこともあったが、いつしかそうした生活にも慣れていった。HRは別の個室に生息しており、時々はお互いの部屋に行ったりあるいは食堂で話したりしたが、その年の暮れ、私が主催した合コンで生涯の伴侶を見つけて退寮していった。そして気がつくと寮にいるのは後輩ばかりになってきた。それでも時々は食堂で楽しい話題に花がさくこともあったのだが、そのうち避けられない運命がやってきた。「退寮勧告」いわゆる「赤紙」である。無視したり言を左右にしたりいろいろ引き延ばす手は存在していたようであるが、私は素直にそれに応じた。もうすでに不便で楽しかった寮生活は終わりをつげていたのである。

 

「冷房を使うのはお客様がきたときだけ」という不文律があった大坪家にも朝から冷房の音がひびくようになり、高校生までが携帯をもつようになった昨今ではこうした話は「誰も聞かない年寄りの昔話」以外の何者でもない。しかし時の流れというのは偉大なもので、苦しかったこと、つらなかったことはいつのまにか記憶の底に沈んでいき、なんとなく楽しかったことだけが思い出される。

それとともに気がつくのは自分が信じられないほどの幸運に恵まれていた、ということだ。寮で楽しく馬鹿騒ぎをしたことは何度かあった。そしてこれは今になってわかることだが、こうした馬鹿騒ぎができるチャンスというのは人生においてそうたくさん存在しているわけではないのである。

それらの中から記憶にひときわ「大騒ぎ」であったと残っているものだけを書いておこう。

 

或夏の土曜日の事である。夕方になり、誰かが「ベランダで焼き肉をやろう」と言い出した。するとそこかしこから寮生がわらわらでてくる。道具持ちの男の部屋からは何故かカセット式のコンロや焼き肉用の道具がでてくる。これまた手回しのいい男は花火やカセットを持ち出してくる。

何をしたとかいうのではない。20台の男が10人あまり寮のベランダで飲んでくって歌って大騒ぎをしていた。バックに流れるのはThe Beatlesである。彼らは実に偉大なバンドで、こうした極東の島国の若者であっても、いくつくかの曲は知っている。

カセットで彼らのI am the worlath.とかいう曲がかかれば、間奏の所の

「うっはうっはうりうりうっは」

とかいうかけ声にあわせて昔のゴジラ映画にでてくる南洋の人たちのような踊りをする奴まででてくる。そこまでいかなくても多少有名な曲がかかればうろ覚えの歌詞で夜空に向かって歌ってみたり吠えてみたりする。

 

翌日「寮にたくさん苦情が来た」という噂が流れてきた。カセットはそんなに大音量ではなかったから我々の叫び声がうるさかったのだろう。当時我々がいた寮は国道からかなり離れたところにあったのだが、その国道沿いからも苦情が来たとのことである。寮長さんは大変な迷惑だっただろうが、こちらはなんとなく「昨日は楽しかったな」と言い、世間様にかけたご迷惑も武勇伝の用に語り合っているのだからいい気なものである。

 

入社前に先輩が言ってくれた「寮にはいったほうがいいよ」という言葉は本当だった。そしてそれを実感できた私は幸運だった。

 

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注釈

どっかの映画:Matrix(参考文献一覧)である。ちなみに人間を発熱元として使うのは大変効率が悪いと思うのだが。本文に戻る

 

踊りをする奴:ちなみにCOWと私である。本文に戻る