題名:科学について-相対性理論と疑似科学

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日付:2000/6/30


双子のパラドックスについて

さて、双子のパラドックスである。まずはどんな問題であるかというと、こんな問題である。

 

双子の兄と弟がいました。ある日ある時、兄はロケットにのって地球をとびたちました。でもってどっかでくるっと方向を変えて地球にもどってきました。さて問題です。兄と弟のどちらが年をとっているでしょう?

 

これだけではパラドックスでもなんでもない。回答を考えてみよう。

特殊相対性理論によれば、動いている相手の時計はゆっくりすすむように見える。ということは地球でのんべんだらりんとくらしている弟からみると、宇宙船で飛び回っている兄の時計はゆっくりすすんでいると思う。だからおれはあいつより年をとっている。

逆に兄からみれば、地球のほうが自分からずーっとはなれていって、そして近づいてくるわけだ。動いているのはあいつなのだから、あいつの時計は遅れている。だからおれはあいつより年をとっている。

どっちも相手の時計が遅れていると思い自分の方が年をとっていると思う。でも再度出会ったとき、兄のほうが弟より年をとっており、かつ弟のほうが兄より年をとっている、ということはありえない。というわけで矛盾が生じるからパラドックス。

 

「時計が遅れる話し」のところで、電車の時計>地上の時計 かつ 地上の時計>電車の時計ということにはならない。これはお互い違うものを比べているだけなんだよん、という話しをしたが、ここではその論法を使うわけにはいかない。あの説明では両者は離れていくばかりだったが、この話では最初と最後において、双子の兄弟はであってしまうのだ。そしてそこでは

「いや実は比べているのは違う時間なんだよ」

といってけむにまこうとしてもそうはいかない。

 

さて、私はここでいきなり天からの声を聞く。

「いや。ここでは宇宙船に乗っていた兄のほうが年をとっていないのだ」

天声であるから、私はあっさりとそれを信じてしまう。なるほど。これはいいことを聞いた。これならば、例えばすごーくはやい宇宙船で遠くの星まで往復して返ってくれば、地球の人間は皆年をとってしまっているが、私はそこそこ若いままだ。思うに浦島太郎が海底でどんちゃんさわぎをしたあげく、返ってきたときにはこのように思ったのではなかろうか。というわけで、この効果は

「ウラシマ効果」

とも呼ばれている。もっとも前述のパラドックスに対してなんらかの回答を見出さないと、安心してタイや平目とどんちゃんさわぎに興ずるわけにはいかない。おまけに私が最初に相対性理論なるものについて読んだ本(参考文献16)には堂々とこう書いてあるのだ。

 

「最近はロケットの研究が発達して、近い将来宇宙旅行ができそうになってきたので、この時計のパラドックスについてのつよい関心が再びおこってきた。このパラドックスは科学雑誌がまじめに取り上げているだけでなくて、多くの人々は宇宙旅行をすればいつまでも若くて居られると、大まじめで主張している。しかしこれは誤りであって、このパラドックスのまちがっている点は次に説明するとおりである。

(中略)

そして離陸後一定の相対速度で走るときの時間経過のおくれは、ロケットの離着陸の時の速度の変化で完全に帳消しにされることが証明できる。したがって、若さがのびるというような効果はもちろんないので、パラドックスはおこらない。」

 

さて、いきなり結論から言うと、この話しは「パラドックス」に見えるがそうではない。実際に双子が再び顔をあわせたときには兄のほうが若いままなのだ。A brief history of time(参考文献1)には

「これをパラドックスと感じるのは実は心の底に絶対時間の概念が巣くっているからなのである。相対性理論では唯一の絶対時間なるものは存在しない。」

と書いてあるが、私が高校のときに抱いた疑問はこのような言葉では解決しない。そもそも兄と弟で何がちがうんだ。動きは相対性だってのが相対性理論じゃねえのか。高校のゼミで私が発したこの質問に対して高校教師はこう答えた。

「結論から言うと、兄のほうが若いままです。なぜかというと、兄は方向転換をするときに加速度を感じますが、弟のほうは兄が方向を変えたからといって、加速度を感じない、というところから考えてみてください」

回答はこれだけだった。私はしばらく考えた。確かにそのとおりかもしれない。宇宙船ではるか彼方を飛び回っている兄が方向転換したからといって、いちいち弟が

「おっとっと」

といって吊革につかまるのは変な話しだ。なるほど。両者は対等ではないかもしれない。しかしだからといってこの問題の解決にどうつながるんだ?加速度を感じると若くなるとでもいうのか?

 

こうやって書いていると、あの時の物理教師は高校の物理を教えるのにはたけていただろうし、自分もその手の学科出身だっただろうから専門的な説明もできたのかもしれないが、難しい話しを簡単にかみ砕いて教える、という力にはかけていたように思える。大学で講義をしている専門家と高校までの教師の中間に、こうした

「幅広く、ある程度深い知識を専門家以外に教育する」

という分野-職業があってもいいのではないかと最近考えているのだが。

 

さて、今は相対性理論について書いているのだから、そんな構想にかまけている場合ではない。思えば私が高校生であった20年前から世の中はいくつかの点で変わった。今や「双子のパラドックス」というキーワードを使いインターネットで検索をかければ、いくつものページがひっかかり、やさしい相対性理論の入門書もいくつかでている。

 

それらを眺めていると、この「双子のパラドックス」にはずいぶんとたくさんの「解法」があるということに気がついた。ここではそれを全部あげることはしないが少なくとも

「はあ。さようでございますか」

と自分で思うことができたものを挙げることにしよう。

 

数々の回答  

まずある本(参考文献17)からこの問題に対する記述を引用する。

「太郎のロケットは地球を出発するときや、帰途につくためP星を出発するさときにガス噴射により速さを増していくので加速度を持ち、またP星に上陸するときや地球に帰還するときに、軟着陸するため逆噴射をして速度を減じていくので減速度(逆方向の加速度)を持ちます。

(中略)

つまり、この加速度期間には、ロケットに固定した基準系は慣性系ではなく、慣性系に対して感度を持っていますので、この基準系は加速時系です。加速時系では特殊相対性理論が成り立たず、一般相対性理論を適用しなければなりません。」

こうした「等速直線運動ではないから、一般相対論だー」的な主張はまだ目にするが、どうやらこれは正しくないらしい。私としてもまだ説明どころか理解もしていない一般相対論を使うのは気がとがめるので、今まで説明した特殊相対性理論の範疇でつじつまがあう説明を。

 

まずは問題の定義だ。こんな想定にしよう。

地球から4光年離れたところ(この光年というのは、光が一年かかって届く距離のことだが、こうした定義があること自体、光の速度が一定であることを意味しているように考えられないだろうか)に「折り返し地点」がある。兄は宇宙船にのってこの折り返し地点まで行って返ってくる。宇宙船の速度は光速の80%としよう。

さて、話を簡単にするために、この宇宙船は異常な加速度を持つことにする。つまりいきなり地球を光速の80%でとびだし、折り返し地点では、これまたいきなり方向を変える。実際にはそんなことをすればまず間違いなく中の人間はぺしゃんこだが、まあそんなことは気にしない。

すると宇宙船が4光年離れた折り返し地点にたどりつくまで5年、帰りも5年で地球でじっとまっている弟は10才年をとっているわけだ。さて問題です。兄は帰ってきたとき何歳年をとっているでしょう。

この想定を今まで慣れ親しんだダイアグラムで書いてみよう。するとこうなる。

 

弟はずっと地球の上(つまりx=0の線上)にいる。兄は4光年離れたところまで移動していっていきなり方向をかえ地球に戻ってくるから、このような折れ線になる。

 

(回答その1)

一番回答としては短いのは次のようなものだ

「このような時空線図上では、三角形の2片の和は他の一片よりも短い。従って兄にとっての折れ線のほうが弟の直線より短い。だから兄のほうが若い。」

確かに文字数としては短いのだろうが、今までの説明を聞いただけでこんな文章をぶつけられても

「はあ?」

となるだけだと思う。

実はこう言い切るためには、「ミンコフスキー時空」なるものについてあれこれ思いをめぐらせたり、考えたりしなくてはならない。最近めっきり頭の記憶容量が減少しているみとしては、あまり新しい言葉をつめこみたくないので、こうした説明は省略し(理解できないだけだ、という説もあろうが)私としては、もう少し文章が長くてもいいから、わかりやすい説明を考えてみたりするのだが。

 

(回答その2)

さて、先ほどの章で書いた「ダイアグラムの上で時計が遅れる話し」を思い出してみよう。そしてあのときの関係をこの問題を表すダイアグラムにあてはめてみる。それでもって曲がった線にいきなりあてはめるのは何だから、行きと帰りにわけて考えてみよう。でもって基本的に弟の立場から起こったことを見てみよう。するとこうなる。

 

 ここで「同時の線」と書いたのは地球でのんべんだらりんとすごしている弟にとっての「同時」である。前に書いたのと同じ理由で斜辺のほうが直線より短かったりするのだが、とにかく弟が5年たったのと「同時」には兄は3年しかたっていない。帰りも同様である。

さて、ここで状況が兄にとっても同じであれば、それこそ話はおかしくなるのだが、そうはならない。今度は状況を兄から見てみよう。兄が折り返し地点についたのと「同時」に弟は何をしてるんだろう。

兄にとっての同時の線は、例によって例のごとく弟の「同時の線」とは異なっている。従って兄が折り返し点に到達したのと「同時」には弟は1.8年しかたっていない。帰りも同様である。ちょっとまて。これでは兄が6年たったときに、弟は3.6年しかたっていないことには。。。ならない。上の図を見るとその理由がわかる。左右の図を重ねて書くとこうなる。

かくのごとく、兄がぐるりんと方向を変えた時に、いきなり弟の立場では6.4年が経過することになる。

「何だこれは?」

と思われるかもしれない。よく見てみよう。兄が方向を変えたところで「同時の線」がごっとんとひっくり返ってしまっている。それまで彼にとって「同時な」弟にとっての経過時間は1.8年だったのが、いきなり8.2年になってしまう。これのおかげで

「等速直線運動している相手の時計は遅れて見える」

ということが両者にとって事実であっても、再会したときに4年の年齢差が生じてしまうわけだ。なるほど。兄が方向をぐるりんと変える、というのは意味のないことではないことではないのである。

 

(回答その3)

さて、さっきの説明で「同時」と言っているのは、実はそう簡単にわかる話ではない。特殊相対性理論が正しいとお互い認め会っていれば

「そうか。もうお兄さんが地球を出発してから5年たったか。今頃折り返し地点に到達したはずだが、兄さんは3年しか年とってないんだよな」

とか思う。しかし弟が望遠鏡で兄を見たとしても、3年しか年をとっていない兄の姿が見えるわけではない。なぜならば光が届くのには時間がかかるからだ。となれば「同時」がどうのこうのと言われてもなんとなくだまされたような気がする。

ではこうしよう。兄も弟も自分の時計で一年経った、という時に相手に電波で連絡することにするのである。まずは地球にいる弟が送った電波を兄がどのように受け取るかというのを見てみよう。電波は光速で伝わるから、ダイアグラム上では傾き1(もしくは-1)の直線で表される。

 

この場合起こることはこの通りである。兄はひたすら折り返し地点を目指す。しかしその間弟の電波はさっぱりとどかない。何をやってるんだ。あいつは。だいたいあいつは子供の頃からいい加減なやつだった、というのはフェアな議論ではない。だって光速の8割の速度で遠ざかっているから、弟が送った電波がおいつくのも大変なのである。

さて、めでたく折り返し地点に到達すると、そこに

「弟でーす。一年たちました」

という信号が届く。こちらは3年もたったところであいつはようやく1年立ったといってやがる。これが時計の遅れか、というのはあらかた嘘であるから信じてはいけない。時計の遅れでいうならば、お兄さんの時計はこの時点で4年立っていなければならないのだが。

さて、そんなことはさておき、彼はぐるりんと方向転換をする。すると今度はわらわらと

「弟でーす。2年たちました」

「弟でーす。3年たちました」(以下省略)

とわらわら信号がとどくようになる。帰り3年の間に2年目の信号からとうとう地球に帰るのと同時に10年目の信号が届いて確かに再会した弟は10年老けている。

さて、今度は兄が送った信号を弟がどううけとるかを見てみる。

とにかく折り返し地点まで兄は3年しかたったと思っていないのだから、折り返しの時点で彼は3年目の信号を送ったところである。ところが弟にしてみれば

「いったい兄の野郎は何をのんびり信号を送ってるんだ」

というような状態である。兄が折り返し地点で送った信号を受け取るのは、旅も終わりに近くの(はずの)9年目なのだ。ところが最後の1年には

「兄だよ。3年たったよん。折り返しだ」

という信号の後に

「兄だよ。4年たったよん。」

「兄だよ。5年たったよん。」

という信号がわらわらと届く。そして再会してみれば確かに兄は6年しか年をとっていないのだ。

ここでもやはり「兄が方向を変える」というのがえらく大変なことであったことが解る。動きは相対的だから、どちらにとっても同等とは言えないのだ。

 

私があれこれの文章を読んで見つけたところの説明方法はこれくらいである。おそらくもっとたくさん説明の方法はあるのだろうが、一番根本的な疑問

「お互いからみれば”あの野郎が行って戻ってきた”となるはずなのに、なぜ年齢の差がでるのか?」

に対する答えは

「兄が方向をぐるりんと変えているのであって、弟との立場は同等ではない。だから年齢が異なってくる」

という答えになろうか。おお。これでは最初にけなした高校教師の答えと同じだ。しかしこんだけあれこれ書いてみると、なんとなくその言葉の意味が分かる。方向を変えずに兄がひたすら遙か彼方めがけて進んで行けば、両者の立場は確かに同等だ。お互い「相手の時計は遅れてる」と思っている。しかし兄だけは方向を変え、つまりいきなり別の立場に乗り換えてしまうのである。

さてここでちょっと考えてみよう。方向をぐるりんと変える、ということは、速度を変えるということである。速度を変える、ということは加速度が加わる、ということである。となるとふと考えるわけだ。加速度とは相手がどう運動しているかだのの話と関係なしに決まる物なのか、と。実際ここで兄が感じる加速度というのは、弟がふらふらしていても地球の上で寝ころんでいても変化がないように思える。ということは加速度は兄が勝手に決められるものなのか。加速度というのは絶対的な量なのか。しかしここまで書いて於いて私はこの話を避けて通ってしまうのである。

さて、上の説明でどう考えてもうさんくさいのが、

「瞬間的に方向が変わる」

というやつだ。先ほど「間違った説明」として上げた本の記述によれば

「時間経過のおくれは、ロケットの離着陸の時の速度の変化で完全に帳消しにされる」

ということなのに、この説明では離着陸の時の速度変化を考慮していないではないか。。と言われてしまうとうっとつまるが、上記の議論はこうした瞬時の方向転換などというものを考えず、なめらかに速度が変化するとしても同等になりたつ。たとえば折り返し地点で1年ばかり停止して一休みしていたとすれば、グラフはこうなる。

さっきのよりちょっと曲がりが緩やかになったと思うでしょ。この一休み区間では兄も弟も同じペースで年をとるから、上の説明はそのまま(ちょっと間延びした形で)成り立つ。ここからいきなり説明をはしょるのだが、この曲がりをどんどん細かい区間に分けてゆるやかにしていったところで議論の本質がかわるわけではない。

 

さて、特殊相対性理論についての説明はこれくらいにしておく。「特殊」がついているからには「一般」もある。ここでちょこちょこでてきた「一般相対性理論」について次に書いてみる。

 

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注釈