題名:科学について-相対性理論と疑似科学

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日付:2000/11/15


生活と疑似科学

ここまで「疑似科学者」のふるいまいにしてあれこれ書いてみた。こうした態度を「疑似科学」と呼べることは、科学というものが或程度明確に定義されたルールを持った世界であることを示している。何をいっているかって?科学などということをちょっと忘れ、現実の世界をみてください。ユリウス・カエサルはこういった

 

「文章は、用いる言葉の選択で決まる。日常使われない言葉や仲間内でしか通用しない表現は、船が暗礁を避けるのと同じで避けなければならない。」

 

 これが当たり前の事だと思いますか?それとも「さすがはカエサル。良いことを言う」と思いますか?

相手にわかりやすい言葉を話すとは、あなたの考え、頭の中が他人に解ってしまうということでもある。あなたにそれだけの自信がないか、あるいはその事実に関して全く無関心でいられるほどの頑強な神経を持っている(あるいは神経を持っていない)のでなければ、曖昧模糊として、自分だけの狭い世界の中でふんぞりかっているほうがよくはありませんか?同じ態度を科学の世界にもちこめば「疑似科学」と非難もされましょうが、そこさえ離れれば大丈夫。

 

あるいは仮に立派な「科学」もしくは「学問」という名前を持っている分野にあってでさえ、「客観的な評価」が原理的に困難な分野にあっては、話は曖昧になる。そこではわけの解らない言葉を使って曖昧模糊な世界を築き上げることがとても容易になる。

こたとえば「奇妙な論理」(参考文献5)には、心理学の分野で名をあげた男が、物理学の分野にまで持論を展開し、疑似科学者と呼ばれるようになった例があげられている。

「精神分析は今なお混乱した開拓地的状態にあるため、無能な理論家が書いたものでもチンプンカンプンの専門用語や他人から借りた健全なアイディアをまき散らすことによって容易にカムフラージュされる。

しかしライヒが生物学、物理学、天文学-ここには実験により証明できる知識のがっちりした芯がある-に移ったとき、彼のエキセントリックな思考はずっと容易に見破ることができるようになったのである、と」

ハンニバル・レクター博士、それにバーニーも精神分析-心理学を科学と見なしていない。そうした分野においては物理学よりもはるかに容易に「疑似科学者」は「科学者」としてふるまうことができる。

科学を離れて、他の学問ではどうだろう。私は「経済学」(の一部)などではそれがもっと顕著なのではないかと密かに思っている。彼らは曖昧模糊とした自分の世界を築き上げる必要もない。正々堂々ともっともらしい意見を述べればよい。それが正しいか間違っているかは結局現実がどうなるかでしか決まらないのだから。仮に外れたとしても自分が間違った理由を100もならべればよい。株価の予想が100倍も外れたエコノミストだのアナリストだのがずいぶんと居ることはよく知られている。彼(および彼女)達は糾弾はされるかもしれないが、職を失ったという話は聞いたことがない。

有名なエコノミストとわずかの時間だが同席したことがある。私とそれまで話していた女性は彼に対してこう質問した。

「なぜ経済の理論や予測というのはああもあたらないのでしょう?」

彼はしばらく考えてこう答えた

「経済現象に再現性がないからでしょう」

今までに起こったことを実に見事に説明する理論をうち立てたところで、現象に再現性がなければ検証も反証もできない。将来に渡る定性的な予測はできるが(実際エコノミストだのアナリストだのいう人種はそれで飯を食っているのだ)それがあたろうが、外れようがその理論が正しかったとも間違っていたともならない。つまり経済という分野に科学的な物の考え方を取り入れるのはなかなか難しいと思うのだ。こうした分野にあって

「エコノミスト」

「疑似エコノミスト」

の区別はどうやってつけたらいいのだろうか。そもそもそんな区別に意味があるのだろうか。

 

相対性理論がいかに「非常識」な予測をし、それが未だに

「そんな非常識な理論を唱えるから理系離れがおこるんだ」

という反応をひきおこしつつも「科学理論」として認められてきたのは、ひとえにそれが実験事実によって支持されたからであることを思い出そう。振り返って現実の生活のなかで

「実験が可能な領域」

がどれくらいあるんだろうか、と考えるのは意味があることだ。実験が可能とは、コントロールされた一定の条件の下で、対象物の振る舞いを客観的に観察できることを示す。

私はそうした領域というのは実に狭いものだと考えている。たとえば1965年に宇宙背景放射が発見されるまでは、少なくとも科学理論として認められいた「定常宇宙論」を考えてみよう。この理論によれば、真空中から物質が生成されなければならない。しかしその量は数百年に塵が一つできるくらいでよい。となるとこの物質の生成自体を実験で確認することは難しく、逆に否定することはほとんど不可能に近い。

従ってこの理論が否定されたのは、いわば間接的な証拠の積み重ねによってであった。かくの通り物理の範囲であっても実験による検証も否定も難しい領域というのは存在する。

そして科学を離れれば、そうした領域というのは皆無なのではないかと思うほどだ。だいたいにおいて「人間」がからむ領域というのはとても難しい。しかし事実として認めなくてはいけないのは私も人間の一員であり、そのSocietyに住んでいるということなのだ。

あるいは実験による検証が必要なほど真偽の判定が難しくなく、

「明白な戯言」

であってもそれが堂々とまかり通る様はあなたがNTTソフトウェアで働く機会にめぐまれなくても新聞をちらっとみればいくらでも観察することができる。

 

解題-再び 

「学校の勉強なんか役に立たない」

と言う人が時々いる。その人にはその人の事情があるのだろうが、私にとっては学校で様々に習ったことは結構役にたっている。個々の分野の知識もそうだが、ふとした言葉で記憶に残っており、折に触れ役だってくれる言葉もある。私がいた研究室の教授はある時こう言った。

「その分野に詳しくない人というのは、それを過大評価するか過小評価するかどちらかだ」

時々ニュースなどで

「科学万能という神話が崩れた」

とかいうセリフを耳にする。そう言うときの人間にはどこか得意げな表情が浮かんでいる。私は考える。科学が万能などと誰が言ったのだろうか?もしそう言い切るとすれば、それは神話-根拠のない物語-でしかない。それが崩れるのは当たり前ではないか?

こういうセリフがはけるのは教授のセリフを借りれば

「その分野に詳しくない人の過大評価と過小評価」

ではないかと思う。最初にあげたホーキングの定義に従い、科学的な方法論がうまく適応できない分野、あるいは最初から対象にしていない要素がどれだけあるか、についてあれこれ書いてみた。そうした事を知らず

「科学万能」

と過大評価してみたり、

「穴」

があるからと言って鬼の首を取ったように喜べる(これは過小評価だ)、というのは或意味幸せなことではあるが。

ではそうした「簡単に幸せになる方法」を放棄してまで、科学とは何か、ふりかえって疑似科学との違いに思いをはせたとしよう。それに何の意味があるのだろうか。アインシュタインの一般相対性理論が間違っていてニュートンの重力理論が、あるいははてまたコンノ氏の重力理論(それがほとんど定義されていないことはさておき)が正しかったとして、それが私の生活に何の影響があるのだろう。そりゃまカーナビの設計はちょっと手直ししなくちゃいけないかもしれないけど、別にカーナビのシステムを設計しようとは思わないし。 

「科学についての正しい知識を持つことは、我々の生活を豊かにする上で必要なことである」となんとなくわかったようなわからないような言葉を於いておしまいにするはとりあえずやめておこう。(最終的にはそこに逃げ込むかもしれないが)私が考えるところ、一番直接的にそれらが関わってくるのは、医学と日々の健康に関する分野なのではないかと思う。なぜなら直接金に結びつくからだ。私が

「重力の謎を解き明かした大坪理論」

を構築したところで、それを金のなる木に育て上げるのは大変だ。すでにその地位を確立している疑似科学の大家をけちらし、印税を得るまでに育て上げるのにはどうすればいいか想像もつかない。

 

私は実際に「オーラ治療」を信奉し「オーラ治療をする上で、薬は「百害あって、一利なし」です。」と断言する人とメールで会話したことがある。薬を投与すれば助かったのに、オーラ治療を施した為に致命的な結果にいたる患者がいたらどうするのか、その人からは答えをもらえなかった。そして私が理解した範囲からはこの「オーラ治療」なるものは、精神身体医学的な効果以上のものをもつとは思えなかったから、おそらく科学的な方法論ではとらえられないものなのだろう。

人間というのはいろいろな物の考え方をしたり、しなかったりするものだからそれを承知の上でオーラ治療に頼ることもあるかもしれない。しかしそうするにしても、それが何物であるかを承知した上での行動でありたいと私は思っている。単なる無知の為に取り返しの着かない結果を招くことほど悔やまれることはないのではないか。

 

かくのごとく本来科学の方法論が有効な部分において、疑似科学が入り込んでくることはきわめて実質的な問題を引き起こす。そして逆もあまり好ましいことではない。ここでは科学者ではないが、その用いたところの方法論が科学的であった人物の例を挙げよう。ロバートマクナマラという男が居る。米国がベトナム戦争に関わっていた頃の国務長官だ。彼は自分の回顧録の中でこういった

「数量化は、世界について考える際、正確さを付け加えてくれることばのようなものだ、と私は今日に至るまで考えています。もちろん、同義、美、それに愛といった問題は、数量化では対処できませんが、貧困や財政赤字、さらにはアメリカの保険問題の行き詰まりを克服しようとするさいには、それはしばしばなおざりにされている強力な武器なのです」

しかし彼はベトナム戦争後このようにも言われた

「しかし自分の政策が失敗したことを知り、国防長官の職を去る寸前においても、根本的なところで彼の合理性に対する信念が消え去ったわけではなかった。確かに戦争は人的資源の浪費であった。と同時に、この戦争はコスト効率も低下させてきたのだ。空爆に必要なインプットは空爆の与える損害を遙かに上回っている。インプット10ドルに対し損害1ドルである。それに、この一ドルも北ベトナムではなくソ連が負担しているのだ。だから戦争は失敗だった。

(中略)

それは彼の生涯において、決して幸せな一頁ではなかった。自分自身にも国家にも、彼はためになる行動をとらなかった。最も穏やかで例を欠くことのない表現をもってしても、彼は馬鹿であった、というほかなかった。」

きちんとした数量化とととそれベースにした合理的な論議。こうしたキーワードは科学的な方法論に共通するものだが、彼はそれを国際政治の世界-そうした方法では計ることのできない人間の感情というものに立脚している-に応用してしまったわけだ。その結果は恐るべき物となった。

 

ではどうすればいいのか?と言われれば、科学とは何か、それができることは何で、できないことは何か、と慎重に考える、という

「そんな当たり前の事を書いて何が面白いのか」

という結論に至る。私がこんな事を書いても全く説得力に欠けるので著名な人間の言葉にたよってこの文章のしめくくりにすることにしよう。言葉は多少異なるが、彼が意味したところは私がいわんとしているところそう隔たってはいないと思う。

 

「知ったことは知ったこととし、知らないことは知らないこととする。それが知ると言うことだ」

 

(などと文章のしめくくりだけは書いた物の、まだ抜けが大いわ、論旨がむちゃくちゃだわ。完成からはほど遠い状態です。とはいいつつも少しづつでも書いていこうと思っておりますので、長い目でみてやってくださいな)


注釈 

こういった:例によって私がこの人の言葉など引用するときは「ローマ人の物語」(参考文献)からである。本文に戻る

 

ハンニバル・レクター博士、それにバーニー:ハンニバル(参考文献)のなかで看護人のバーニーが心理学者を前にいうセリフ。本文に戻る

 

株価の予想が100倍も外れたエコノミストだのアナリスト:具体例については「Little Guessing Game(執筆中)」参照のこと。

当初この部分にはこうした記述があった「彼らが「実験」によって支持される理論をうち立てることが可能ならば、とっくの昔に大金持ちになっているはずだ、というのは「物の解っていない素人」の意見なのだろうか。」

しかしある本を読んで間違いに気がついた。現象の説明ができる、ということと、その結果が正確に予測できるということは必ずしも等価ではない。複雑系(M.ミッチェル.ワールドロップ著 田中三彦、遠山訳)にはこのように書いてある。「予測」の前に「正確に」をつけるべきかな、とは思うが。

「次の新星がどこで生まれるかを予測できないからと言って天文学者は非科学的なのか?」

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なかなか難しい:「全く無理」とも「全く無意味」とも言っていないことに注意。知っていなければならない「理論」はいくつも存在する。しかしその適用範囲が限られているのかもしれない。あるいはそれは「複雑系」と呼ばれる開拓中の分野なのかもしれない。本文に戻る

 

カーナビのシステムを設計:などと書いていたら本当にカーナビの設計をする仕事につくことになってしまった。世の巡り合わせというのは偶然にしてもなかなか愉快だ。本文に戻る

 

彼は自分の回顧録の中でこういった:共同通信社-マクナマラ回顧録から本文に戻る

このようにも言われた:The Best and the Brightest(参考文献)から。本文に戻る

著名な人間の言葉:論語(参考文献)から本文に戻る