題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

五郎の入り口に戻る

目次に戻る

日付:1998/6/15

 


13章:Stanford英語学校-午前の部

さて私は気が付くとSan Fransisco airportの国際線出口に一人呆然と立っていた

私は出発前に自分の送別会関係に異常な熱意を持って取り組んだ。そして「宴会で怪しげな英語をしゃべる人間」として世間のひんしゅくを買うことになったのである。このころ宴会に於いてテープレコーダーをまわし、一言ずつ吹き込んでもらう、というのをやっていたのだが、そのテープには怪しげな英語でわめきまわる私の声が克明に録音されている。実際酒が入ると、結構快適にしゃべれる、というのは事実だったのだ。そんなあやしげな英語の乱発と二回の合宿の研修を経て、私は自分の英語能力に過大な自信を抱くことになった。

送別会シリーズのハイライトは1990年6月30日に行われた、Polypus and JMSの初コンサートである。そのコンサートは実にごきげんにお開きとなった。私はとても幸せだった。

 

しかしながら私は自分が何かを犠牲にしていたことをもっと考えるべきだったのだ。体力はほとんど0に近づきつつあったし、肝心な渡米してからの生活の準備は何一つやっていなかったのである。

出発のその日、母親と、つわりと称して帰省して怠けていた姉と姪が見送りに来てくれた。彼女たちの「ばいばーい」という声を背に受けて出国ゲートをくぐった。考えてみれば原則的に留学中は帰国することはできないのである。これから2年間日本の土を踏むこともないわけだ。「その時はどんな気持ちであろうか」などといろいろ考えていたが、実際ゲートをくぐってもなんの感慨もない。やたら疲れているし、いろいろと考えなくては行けないことがある。

いすに座ってさっそく「学生寮の案内」なる書類を読み出した。そしてガーンとなった。なんと寮には6月25日までにはいらないといけない。とかいてある文章と、学校が始まる前日まではいれない、と書いている文章を見つけたからである。なんでこのことにいままで気がつか無かったかというと、仕事でのストレスがたまるあまり私は机の上ではロクに英文が読めなくなっていたからである。早い話しがこれからの生活についてなにも読んでいなかったのだ。ガビーンとしながらも、まあここまできたらしょうがない。行ってみりゃなんとかなるさ、とあっさり開き直って機上の人となった。

名古屋から成田の間の飛行機は、、、ほとんど完璧に寝ていた。ああ、離陸するな、と思ったらもうついていた。成田での待ち時間の間も熟睡し、成田-San Fransiscoの間も完璧に寝ていた。

さてふと気が付くと、「まもなく到着しまーす」といった感じのアナウンスが流れている。そこから私はにわかにあわてだした。まずは差し迫った問題がある。どうやって空港からStanfordまで行けばいいのか?私の先輩が一人私より一年前にStanfordに留学していたが、彼はSummer Vacationでご旅行中だ。結局「入寮の案内に」「これは勧めない」と書いてあるオプション、すなわちタクシーを利用することにした。

ゲートをくぐって、目の前にあるInformationにつかつか、と歩み寄って聞いた。「タクシーはどこだ?」男は黙って外を指さした。そしてこれからがまた少しの楽しみと、多くの悲惨さが同居した生活の始まりだったのだ。

 

新しい生活にはいると、しばらくの間時間がゆっくり過ぎるようになる。これがまた「退屈な日常」となると時間はとても早く過ぎるようになるのだが。

この最初の一日はとても長かった。だから結構こまごましたことまで覚えているのだが、ここでは詳しくはかかない。とにもかくにもStanfordにたどりついた私は、あやしげな英語で、今度は入るべき寮を探そうと奮闘することになる。Stanfordの中はとても広大で、おまけに私はその中をスーツケースを抱えて数時間あちこちとたらい回しにされてさまよい歩くことになった。しまいにはスーツケースの車輪が壊れた。

早い話が私は多分早くつきすぎたのである。(というか多分そうだと思う。あちこちの事務所で相手をしてくれた連中が何を言っていたのかわからないので、本当のところはわからない)

それでもまだ私は幸運だったのだ。ついた翌日は7月4日。米国の独立記念日で、もしこの日についていたら(実際このことは全く頭になかったので、その可能性もあったのだ)どこもかしこも閉まっていて、私はもっと深刻な事態に直面していたことだろう。

さてすったもんだの末に私は仮の宿に落ちついた。そしてそこから本来のアパートにはいれるまでの二日間、私はほとんど寝ていたのである。とりあえずここまでは私の英語はうまく機能した。(当時はそんなことも考えずに惰眠をむさぼっていたが)次に来るのは私がStanfordの英語学校である。私にとってこれはStanfordに入学するときの必須条件となっていたから避けて通るわけにもいかないし、避けて通る気もなかった。いずれにしたって私としては英会話能力をできるだけ高めておかないと新学期が始まってからえらいことになるのである。

 

話の途中であるが、一言書いておく。私はここでStanfordで起こったことを全て書こうとは思わない。そんなことを企てたらおそらくこの話が完結するのは私が会社をリタイアしたころだろう。だから英語力の向上ということだけに焦点を絞って書いてみたいと思う。

 

入校式の光景は印象的だった。後ろから見ると、頭はみんな真っ黒(英語で言えばBrown)である。日本人か何人か知らないがとにかくアジア人だらけなわけだ。このセレモニーの内容は全く覚えていない。途中でStanfordの日本人会の入会案内があった。この日本人会には「必ず入れ」と先輩に勧められていた。このとき説明をしたのは日本人の男性と女性だが、彼らの英語は私が聞き取るには上手すぎた。ちょっと不安に駆られた次には(これはどの英会話教室でも同じだと思うが)クラス分けの試験があるのである。私はこの試験会場で思いもかけない知り合いに出会うことになった。

一人アジア人の女性がこちらをみているなー、そういえばどこかでみたような顔だなーと思ってじろじろみればなんと彼女は私が大学時代クラスで素人演劇をやっていたときのヒロインであった。世の中狭いものである。彼女がなんという役をやっていたのか覚えてはないが劇そのものは、つかこうへいの「熱海殺人事件」だった。そして私は全く理由を覚えていないが「照明係」をやっていたのである。

彼女ときゃらきゃらしゃべって、あーびっくり、と思ったら次にまたもや日本人から話しかけられた。こんどは私が2年とちょっとやっていた空手のサークルの後輩なのである。このサークルは今でも存続していて彼らだけの狭い世界で大変優秀な成績をおさめているのだが、私が3年生の時に実質的に一度崩壊したのである。彼はそのときに一緒だった。そして今や外務省のお役人となってどこかに留学するらしいのだが、その前にStanfordの英語学校に来たということであった。本当に世の中狭いものだ。確かにStanfordは非常に日本人に人気があるし、おまけにここの学費は高いから日本人しかこれない、などと言われてはいるのだが、たかだかこの広い米国の中の数十人のクラスで2人も大学時代の知り合いにでくわすとは。

 

さてこの英会話教室は2種類のクラスに分かれて実施された。ひとつのクラスは専門分野別にわけられる。従ってこの前の試験結果の如何にかかわらず、Engineering系統のクラス、Economics等のクラスなどに分けられるわけだ。そして主にReading, Writingを中心に授業が行われる。実際この二つの系統では読まされるテキストの傾向も量も違うからこうしたわけかたは実に理にかなったものだと思う。このクラスはだいたい午前に授業がある。

もう一つは、この前の試験結果によって段階別に分けたPresentationだListening Comprehensionだののクラスだ。こちらはなんといってもそれぞれの英語力がものを言う分野であるから、試験結果を重視するのはあたりまえだ。私は真ん中よりはちょっと上のクラスにはいったのではなかろうか。私の前にStanfordにきた先輩の第一回目の報告書に書いてあった文句を私は未だに覚えている「英語学校で、最初の試験がたまたま大変よくできてしまったために、レベルの高いクラスに入って大変苦労しています」今から考えればやはり分相応のクラスに入った方が何かといいとは思うのだが、当時はあまり苦労するのはいやだ、しかしあまり下のクラスにはいると会社に対してちょっとかっこわるい、、ってな事を考えていたのだろうか。こちらは午後に授業がある。

さらには選択科目のようなクラスがある。米国の大学ではコンピューターを使わなければなにもできない、といわれているほどだから「初歩から教えるMacintosh」と言った趣の時間もある。私は「愚かにも」一つ選択授業をとった。これがなぜ「愚かにも」なのかというとそれこそなんの役にもたたなかったからだ。最初の2−3回のほかはほとんど「単位を落とした、って書かれると会社に対して終了証書がだしにくい」という理由のためだけに出席していたようなものだ。

 

さて英語学校本場の初日、最初の授業は午前のReading,Writingのクラスである。生徒はあらかたアジア人で、日本人の他には台湾人の男の子と女の子。それに韓国人のインキュウ・リー君である。最初は「あら。全員アジア人ね」と思っていたのだが、2回目か3回目の講義の時にいきなり「はい。この人このクラスに追加」とか言ってコロンビア人が入ってきた。ちなみにこの男はラテンの明るいのりでたちまち有名人となり、ついでにラテンののりでたいていの場合午前のクラスには遅刻して現れ、この英語学校中に子供が産まれたことから皆に"Hey, Daddy!"と呼びかけられるととてもうれしそうな顔をするのであった。

クラスのはじめは必ず自己紹介だ。このクラスではないが別のクラスでのインストラクターが言った言葉で「これからしばらく間、みんな自己紹介ばかりやっていやんなるだろうけどね」というのがあった。実際どのクラスでも自己紹介をやったから、たぶん5−6回はしたのではなかろうか。しかし私はこのクラスでやった自己紹介を覚えていないのである。

講義は、基本的に「技術系の作文術」といった感じのテキストに沿って行われた。講師はひげ面のおにいさんである。この男は最初はなかなか好人物と思えたのだが、後になってまあいろいろとあらがみえてきた。人の評価というものはだいたいこうしたものであろうか。彼は授業中にいきなり"Goro, can youtell us what this word means ? "とかなんとか指名するのでおそれられていた。それがまたこちらが多少集中力を欠いた時をうまく見計らってあてるのである。私は一度暇だったので仮説を検証する実験を行うことにした。「ちゃんと聞いているのだが、集中力を欠いた振り」をしてみたのだが、その瞬間見事に彼は私を指名した。我々の仮説は正しかったわけだ

具体的になにをやったかということについて書いていこう。まず文章を読んで要約文を作ることをやった。これには一つ忘れられない思い出がある。10行くらいの文章のサマリーを書きなさい、という問題で、それを出題するとき彼は”これは結構短くなるよ。a couple of sentencesくらいかな”と言った。私はその"a couple of "を文字通り受け取ったのである。ただでさえ(この講義をうけて気がついたことなのだが)私はListening, speaking に輪をかけてwritingが下手だ。従って要約というのは容易なことではない。あれこれ書いていくと元の文と要約文が同じ長さになることなどざらであった。その私が

「うーん。この文章をどうやったら2つの文(a couple of を文字通り訳せばそうだ)でまとめられるのであろう」

としばらく苦闘したところで誰が責められるだろうか。いやできない。"a couple of"という熟語の意味は「いくつかの(少数)」という意味であって「2つの」という意味ばかりでないことを知ったのはそれからだいぶたってからのことだったが。

他に印象に残っているのはこの男がaとtheの違いを説明したときのことである。Aをつけるかtheをつけるか、というのは昔から私を悩ましてきた問題である。実際慣用句として確立しているようないくつかの言葉を除けばその区別は今ひとつよくわからないのである。後に知り合った日系3世のおにいちゃんは「日本語でも”私が”と”私は”の区別ってよくわかんないだろ。Aとtheもにたようなもんだよ」と言った。実際彼の言葉を聞いてから「”私は”と”私が”とはなにが違うのだろう」、という脅迫観念におそわれたものだが。

そんな日本語の問題はこちらにおいておいて、講義がこの冠詞の使い方になったとき、この講師は実にまじめに正確な定義を試みた。その説明はとても詳細なものであったが、説明が終わった後にNon-native speaker ofenglishの集団である我々からは「これはどうなんだ」とか「この例は」とか言った質問が相次いだ。その日はそこで時間ぎれになった。おそらくこの男は

「あんなに質問がでたのは、私の説明が悪かったのだろうか。。いやそんなはずはない。私にはもっと上手に説明ができる。今度こそ完璧な説明をしてやる」

と意気込んで来たのだろう。次の時間の頭にいきなりこの前の2倍くらい詳細な説明を試みた。しかしこの説明が終わった後に台湾娘のアンジェラちゃんが言った台詞が我々の感想を代表していたかもしれない。「あなたが説明すればするほど、こっちはわかんなくなっていく」彼は最後に頭にきたのか、さじをなげたのか「とにかく文を発音して見ろ。そうすりゃどっちが自然に聞こえるかわかるだろう」と言った。そんなことができるくらいだったら我々はこんなところで英語学校にかよっていたりはしないのだが。

 

さてこの講義には一つ大きな宿題があった。それぞれが興味をもったテーマについて参考文献を4つ以上使ってレポートを書くこと、というやつである。当時私が一番興味を抱いていた分野は戦闘におけるDecision Support System(意志決定支援システム)とそれを評価するためのコンピュータを利用した戦闘シミュレーションだったから、テーマは簡単に決まった。ところがこんな分野を選んでしまうと、参考文献を探すのに苦労をする。

Stanfordには図書館と名が付くものが山のようにあって(その中には日本語の雑誌やら新聞をおいている図書館もある)蔵書も無尽蔵にある。そんな状態だから目的とする本は学内のいたるところにあるコンピュータの端末をたたくことで検索できるようにはなっているが、それをいくらキーワードを替えてぱこぱこたたいたところでろくな本がでてこないのである。

しょうがないからあまり関係がないような本まで参考文献に含めてなんとかRequirementの4冊をクリアーした。さてレポートの執筆だ。たしかこれにも枚数の制限(下限と上限)がついていたような気がする。いざキーボードに向かうと、まずあまり関係ない参考文献をはめ込むのに苦労した。(もともと関係ない文献を無理矢理つっこんだからあたりまえだ)次に(これが本当の問題なのだが)日本語でかけばへれへれとかけるようなテーマなのに(実際留学に行く前、帰った後はこの方面のほらばかり書いて飯を食っていたのだ)英語で書くとなるとこれが「なぜこうも筆が進まぬのであろう」と何度も疑問に感じるほどの難行苦行となってしまうのである。

さてとにもかくにも規定の枚数をクリアしたところでろくに推敲もせずに私はさっさと提出してしまった。読み返すと自分のつたない文章に悲しくなるからだ。提出後には講師と一対一でご評価をいただく。最初にご評価をいただいたときは彼は"This is not a bad start at all"と言った。あらまあ誉め言葉なのね、と思ってはみたものの、彼の問題点の指摘は延々と続いた。そこで受けた山のような指摘を反映してもう一度提出し、またもや面談となるわけである。このころになると彼は通常の講義の上に山のようなレポートの添削をしているものだから目に見えて疲労し、かつ不機嫌になってきた。

彼はそれを面談の時にはあまりあらわさなかったが、添削されている彼の書き込みを見るとそれがよくわかった。例えば主語が3単現なのに、動詞にsをつけていないと、彼は"Agreement"と書き込みをする。要するに主語と動詞があってないよ、というわけだ。これがレポート中に3度くらい出てくると(私のレポートではそんなことはざらだ)最後のところなどは字が4倍くらいに大きくなり"AGREEMENT !!!!"とびっくりマークまでついてしまうのである。彼が家に帰って妙な英語で書かれた山のようなレポートを自分の境遇を呪いながら添削している姿が目に浮かぶようではないか。

 

さて2度目の面談で彼は"This is definitely improvement"と言った。文字通りとれば「これは確かに進歩だ」というわけだが、彼が書いた書き込みの数は大して減ったわけではなかった。つまりあまり進歩していないのである。この後でいろいろな日本人仲間と話をし、また次の年に同じ講義を受けた男の話を総合すると、この男が評価で使う語彙はだいたい決まっていて"Marvelous"だの"Incredible improvement"だの、とにかく日本語に直訳すれば派手なものが多い。しかし最初聞いたときは「あら。ほめられたのかしら」と思う我々も、みんな同じようなことを言っていることをしるにつけ「ああ。こいつはこういうしゃべり方をするやつなのね」とさめたものの見方をするようになるのである。

さてなんだかんだのうちにこの講義は進んでいった。途中で何時間かこの講師が休んで、代わりにどこかの女性(だったと思う)が代理で講義を行う時間があった。講義と言ってもこの女性がいるときにやったことというのが、各自が書いている論文の内容を発表する、というものだった。そしてこの何回のかの時間はこのクラスで一番おもしろい時間だったのである。

今回クラスに集まっている人間は、たまたま英語学校で一緒になったEngineering専攻の人間、というだけのつながりだ。従って専攻は実に様々だ。マイクロプロセッサあり、光電子あり、どちらかと言えば経済学に近い分野あり、そしてたまには私のように戦闘シミュレーションなどをテーマとしてあげる人間もいる。そして私はいろいろな分野の話を聞くのが大好きだ。おまけにこういう場であればいきなり専門的な話をとうとうと始めるやつはいないから、いろいろな分野のおもしろいトピックス的な話の聴き方ができるわけである。いつもはあまり自分たちから質問したりはしない日本人の生徒たちも、この時間は積極的に質問をして大変楽しかった。

たとえば例のコロンビア人は、彼の専門であるコロンビアの経済について語った。彼が一応説明を終えるのを我々は神妙に聞いていた。

終わったところで我々の質問タイムである。みんなの心のうちにはある一つの共通の質問があったに違いない。そのうち郵政省から来ている人が口火を切った。

「あんたの説明には何かかけている」

これに対しコロンビア人は適当に何か答えた。次には郵政省氏はもっと直接的な質問をした。

「俺が聞きたいのは麻薬の密売がコロンビア経済の中でどれだけの位置をしめているかだ」

この質問こそが皆が聞きたかったことなのである。コロンビア人は「いや、たいしたことはないよ」、と笑いながらはなしていたが事の真偽は定かではない。

さて私の順番は終わりのほうに回ってきた。当時会話はまだまだの段階であったが、とりあえず準備をして一方的にぺらぺらしゃべるのであれば、お手の物だ。だてにハワイで泣くような思いをしたわけではないのである。大変快調にぺらぺらとしゃべった。しゃべったのはいいのだが、分野が特殊であったせいか、あるいはわめきちらした英語が今ひとつで誰にも理解できなかったせいか、とにかく質問はあまりでなかった。一つだけ覚えている質問は台湾青年から出た「プロトタイピングの意義は?」のような質問だ。私は「プロトタイプは必要だ。なぜならカスタマーはたいていの場合自分がなにを求めているか知らないからだ」と答えた。このとき部屋のなかにいくつか声なき賛同の声が聞こえたと思ったのは私だけではなかっただろう。この部屋の中の学生はほとんどは社会人であり、なにを言っているかわからないが、とにかく要求だけはだしてくるカスタマーに悩まされた経験があるはずだから。

 

さてReading, Writingのクラスはだいたいこんな感じですぎていった。さて一方午後にはListening, presentation, その他もろもろの授業がある。

次の章


注釈

一人呆然と立っていた:ここの表現は「私のMacintosh」のMac-IIcx part1と全く同じである。本文に戻る

 

Polypus and JMS:トピック一覧)このバンドは元々私の同期4人+私の同級生で始まった。それから私の同級生が抜け、代わりに別の同期が入り、私がボーカルからバックコーラスに格下げになり、代わりにこれまた別の同期がボーカルとなった。本文に戻る

 

怪しげな英語でわめきまわる私:トピック一覧)トピック一覧経由、「YZ姉妹」にもこうした英語でわめき回ることについての反省の弁がのっている。本文に戻る

 

必須条件:Stanfordに入学するためのTOEFLのMinimum requirementは575だったが、私のスコアは最大で560だったからである。Stanfordの合格通知には「条件付き合格。Stanfordの英語学校にはいりなさい」と書いてあった。本文に戻る