題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

五郎の入り口に戻る

目次に戻る

日付:2001/2/20


X1章:帰国

私が帰国するときには例によって例のごとくあれこれのごたごたがあったらしい。会社の規定では留学は2年以内、となっている。この規定に○○重工らしく杓子通りに従えば私は1992年の7月3日には日本に戻らなくてはいけないことになる。

さて、それに先立つ6月、私が戻るであろうGrはなかなか忙しい状態になったらしい。そして「あの男を早く戻してはどうか」という意見がでたのだそうだ。もっともそれは上司の一言で没になったらしいが。さて、そうした忙しいさなかに帰国する私にはいかなる運命が待ちかまえているだろうか。

「San Joseで行われる学会に出席してから帰ります」ということで、なんとか引き延ばし、日本についたのは7月17日の金曜日だった。友達に迎えに来てもらい日本の街を車でゆっくり走る。死ぬほど暑いだろうと覚悟していたのだがそれほどでもないようだ。道路の混雑もそれほど気にならないが車と車の間隔が狭いのには驚いた。これでよくぶつからないものだ。米国に居るとき、弟がクライスラーのスポーツカーを買った。彼は帰国するときそれを持って帰ろうと考えたらしいのだが私は

「日本に持って帰ると膨張するよ」

と言った。その言葉の正しさを自分でかみしめる。あのスポーツカーは米国では別に大きな車とも思わなかったがここではとても身動きとれまいな。

さて、寮に戻ったり(今度は待望の個室だ)あれこれの始末が終わると月曜日は久しぶりの出勤である。駐車場に車をとめ(これがまた実に狭いわけだ)扉を開けて降りるとき、米国で覚えた表現

Life sucks

とつぶやいていた。本当の事を言えばこのsucksが何を意味するか今ひとつ解っていないのだがこうした場合につぶやくのが適当であることは知っていたのである。

さて、設計室に戻ってみれば、あまりやることがない。仕事が忙しいから早く帰国せよ、というのは何だったのか。まあ暇なのだから文句をいう筋合いではない。米国で買ったQuadraをさっそく机の上に鎮座させるとあれこれ遊んでみるが(別にゲームをやっているわけではない)仕事はたいしてないのである。では何をやっていたかと言えば、どこの会社でも一つは存在してるらしい「馬鹿馬鹿しい年中行事」事業所視察というもののビデオ作りである。

この事業所視察というのは今でも○○重工で行われているのだろうか。一年に一度社長だの会長だの取締役だの所長だのが全国にあまた存在している事業所を視察し、訓辞をたれる、というやつである。始まった当初どのようなものであったかは今となっては知りようがないが、少なくともこのころはその形式たるや皇居内で行われる儀式と比べて遜色ないのではないかと思えるほどになっていた。リハーサルを何度やるかわからないし、それが終わるたびに所長以下幹部がずらっと集まって反省会だ。ではそこで何を言っているかと言えば

「○○研究棟にご案内する際、バスは頭から付けるべきでしょうか。バックでつけるべきでしょうか」

というのを真面目に議論しているのである。あほらしいと誰もが思うのだが「よその事業所ではもっとちゃんとやっていたぞ」という一言にうち勝とうと思えば、細心の配慮が必要だ。かくして形式は年をおうごとに整えられていくのであった。

さて、私がやっている仕事についてもご説明申し上げよう、ということになった。私は補助説明員というのを仰せつかり、説明に使うビデオなどにかかわることになったのである。具体的に何をやっていたかと言えば、自慢のQuadra上で3Dモデリングソフトなどを使い、ミサイル発射のシーンなどを造っていたのである。(当時の対象はテポドンではなく、ノドン1号-労働1号であった)あたらしくなった上司は「大坪君にこんなことをやらせるのはもったいない」と言っていたが、この3Dモデリングは留学の成果の一部と言えないこともない。ところがこの苦心の成果のビデオもNo2の

「社長はビデオが嫌いだ」

という一言で没になった。

他に何をやっていたかと言えば留学に行く前にもやっていた腰巻き小物入れプロジェクトである。私がかかわっていたのはPhase1だったのだが、それから延々と話は続き、このときにはPhase4が行われていたのである。私は米国で行われる会議に向かうことになった。

 

最初の出張の時は先輩のお尻にへばりついて、とにかく置いて行かれないように、と思っていたHuntsville行きだが、今となっては割と余裕である。一人でレンタカーを借りていつものホテルにチェックイン。本当の事を言えば道を覚えているかどうか不安だったのだが、いつものオフィスビルにたどり着いた。

このPhase4で何をやることになっていたかと言えば、コンピューターシュミレーションをやって対象としているものの効果を示すこと。それにプロモーションビデオを造ることであったか。私の上には選任のマネージャーがいたから私はあまり何もしていなかったのではないかと思う。とはいっても2年間の留学生活は全く無意味でもなかったということを確認することにもなったのだが。

相手の会社側のマネージャーも入れ替えになっていた。米国の会社だから人の出入りが激しいし、トップが変わればそのトップが連れてくるスタッフにごそっと入れ替わりになる。今度のトップはサザリンという名のはげた頭の気のいいおっさんだ。その下には元F-4のパイロットだったとかいうJohnというおじさんがいる。聞くところによれば彼らはずっとペアになって仕事をしているんだとか。思い返せばこのときはこの前退任して前大統領となった今でもなにかと物議を醸しだしているCintonがBush(これは親の方)と選挙戦を戦っている最中であった。

一度みんなでレストランに食事に行った。大統領選に話が及び、Johnは熱弁を振るいだした。確かに今米国の景気は良くない(当時は日本がバブルで米国が不景気だったのだ)しかしこれは共和党が提出する法案を議会で多数派を占めている民主党が全部否決するからだ。この発言から察する彼はばりばりの共和党員だったのではなかろうか。私は共和党のBushをPushするつもりで彼にこういった

「うちの母が言うんだが、ClintonってのはGood Lookingだから浮気しそうに見える。しかしBushはさえないおやじだから浮気をしそうにないって」

今から考えれば日本人相手に共和党の宣伝をしてしまうほど熱血愛党派のJohnに向かってこんな馬鹿なセリフを吐く物でなかったと思う。Johnは呆れた様な顔をした。

その後行われた会議で日本で用意してきた地図を説明した。ところがどうやら上司が元々の課題を誤解していたらしく、どうもこの地図では答えになっていないことに気がつきだした。On the flyで他の人の発表内容と辻褄を合わせる、というのは楽なことではない。従ってとても

「ほーら。Stanfordに2年も居るとこんなにプレゼンが上手になるんだよ」

と言えるようなシロモノではなかった。しかしながらこの後禿頭のおっさんは

「客先との会議で五郎のあのSuper Jobを是非プレゼンさせよう」

などと言いだした。あの見当はずれの地図がSuper Jobとはどういうことだ。後で判明したのだが、このおじさんは他人にチャンスを与え、世話をするのが好きな人だったらしい。その後も彼のSupre Jobという言葉は何度も使われ、最後には意味のインフレを起こし「なんかした」という位の意味しかない、ということが解ったのだが。

私にしてみれば、そんな地図一枚を再び客先の前で説明することなぞ願い下げである。おまけに日本には山のような仕事が待ちかまえているのだ。そんなときにまた米国出張なんかやっていられるか。ということで上司に「私はやりませんからね」と言った。

翌日そのことをサザリンに告げると、彼は私の上司に向かって「何でやらないんだ」と聞いている。日本の美しい伝統に従い、相手が日本人であれば「いや、まあいろいろと業務の都合もありまさから」と○○重工の課長さんが言えば、それですむのだろうが、米国人相手ではそうはいかない。もちろん米語にもそうした何を言っているかわからないごまかしの文句というのはあるのだろうが、不幸にして私の上司はそれが使いこなせるほど英語が達者ではなかった。ごにょごにょと口ごもる上司にサザリンは多少苛立ったようだった。そしてこのサザリンの苛立ちがなんとなく解る、と思った私は以前よりは米国と日本の文化の違いに思いを馳せるようになっていたのだろう。

 

仕事はこんな感じであまりさえなかった。ではどこが留学の成果かと言えば、Footballである。当時は米国でCollege Footballまっさかりの季節であった。そして母校の試合結果について語ることは、仮に日本で英語学校に30年通いつめて私より英語が流ちょうにしゃべれるようになったとしても決してできないことである。そしてありがたいことにこの年Stanfordは絶好調であったのだ。

米国では基本的に地元の大学を応援するのだが、数少ない全国区の人気校にNotre Dameという学校がある。Fighting Irish という愛称をもつ彼らは文句無しの強豪である。留学2年目に彼らがStanford Stadiumに来たのだが文字通り

「こてんぱん」

にやられた。後に聞くところでは、その試合の後Stanfordの選手は

「連中はまるでマシーンのようだった。来て、我々をこてんぱんにのして、一言も発せず帰っていった」

と感想を述べていたのとのこと。

さて、この年はNotre Dameで両校は対戦した。スポーツはなんでもそうだと思うのだが、ホームスタジアムでのゲームの方が有利である。その有利なはずのStanford Stadiumにおいてコテンパンにのされた相手に敵地において果たして勝ち目があるだろうか。私は

「せめて次の試合に影響がでるほど痛めつけないでください」

と祈っていたのである。

この日私は別のゲームを観ていた。不幸にしてStanford at Notre DameはHuntsvilleで放映されなかったのである。とはいっても時々途中経過が字幕で出る。1st Q終わって16-0。もちろんNotre Dameのリードである。まあしょうがないな。相手が相手だし。しかしそれから待てどくらせど途中経過が出ない。まあいいや。どうせ負け試合だし。

さて、しばらくたってSports Newsを観ると何か異変が起こったようだ。何だろう?と思えばなんとStanfordがNotre Dameに勝ったのである。最終スコアはStanford 33- Notre Dame16

 

ここのくだりを読みながら「何をだらだらと書いているのか」と大抵の人は思うだろう。しかしこの結果には少しでもCollege Footballに興味を持っている米国人であれば驚嘆せずにはいられないだけのインパクトがあるのだ。強いて言えば進学校で有名な灘校が野球の試合でPL学園に13-2で勝利するインパクトの546倍というところだろうか。いや、そんな比喩ではこの勝利は語り尽くせない。試合終了後Footballの世界では間違いなく伝説と化しているBill Walsh(StanfordのHead Coach)はこういった。

"This is one of the biggest wins in my life. Those include Super Bowls"

翌日我々がいる部屋に禿のサザリンとJohnがはいってくると、彼らは笑みを浮かべて握手を求めた。私は彼らと握手をして

"Yes!"

と叫んだ。"I couldn't believe my eyes"だの"It is so exciting"だの周りから観れば何のことかわからない会話が飛び交う。そして私は掛け値無しに幸せだった。

このサザリンというのはなかなか顔の広い男だったらしく、ある日は陸軍の将校さんを呼んであるシステムのプレゼンテーションをしてくれた。Johnがその将校さんに私を紹介するときに

「Mr. OtsuboはStanford出身で、Notre Dame戦でのStanfordのVictoryをCelebrateしているんだ」

と言う。私は反射的に"Yes!"と叫ぶ。相手の将校も心得たもので

「いや、実は俺の女房はC○L出身なんだよね」

という。このC○Lが何者であるか、そして何故私がこの伏せ字まで含んだ3文字を不倶戴天の敵と見なしているかについてはこの文章の趣旨から大幅に外れるのでここには書かない。しかし私は反射的に舌をべろっと出してGoofy Faceをした。

一通りの説明の後、将校さんが帰り我々だけになった。今回説明してくれたシステムの受注にはこの会社も入札したのだが、負けたらしい。サザリンは

"Those bastards! pulling my hair off the head"

とか言った。このサザリンというのはなかなかGentleな男であったから、その男がBastards!などと言ったのに驚いた。髪の毛が抜けたなどと言っているが、もうとっくの昔になくなっているではないか、とは言わなかった。

 

などとこの出張はなかなか楽しく終えられることになった。しかしこの楽しい出張もこの一度で終わってしまったのである。その後日本で別の仕事が私を待ち受けており、その仕事は私を9割方死に追いやったのである。腰巻き小物入れで再び渡米することなどかなわない夢となってしまった。

その後2度だけこの仕事と接点を持った。一つはこの腰巻き小物入れPhase4で製作したビデオである。もちろんオリジナルは英語版なのだが、日本で客先に配るために日本語版を作成しよう、ということになった。そして私が所属していたGrで

「一番雑用でも文句を言わない男」

と呼ばれていた私にそのビデオ日本語版製作のご命令が降ったのである。

英文和訳も今となってはなんということはない。特に自分が仕事でやっている分野であればなおさらである。さっそく原稿を造るとビデオ製作会社に赴いてナレーションの録音だ。しかしここで一つの事実に気がついた。訳された日本語は原文の英語よりもはるかにしゃべるのに時間がかかるのだ。

その後日本で映画を観るときに字幕を観ても

「英語でこれだけしゃべっているのに、何故字幕はこんだけなんだ」

と思うことがあった。これは字で読まなくてはいけないから短くしてあるのかな、と思ったが本質的に英語の方が発音する限りに置いてはコンパクトにできているようだ。あるシーンなど画面は3秒くらいしか続かないのに、日本語の訳をしゃべるとどう少なく見積もっても20秒はかかる。しょうがないからたとえば原文は

「赤外線、電波、可視光などの様々なセンサーによって遠距離で確実に探知を行い」

といったものだとすると

「遠距離で探知し」

とばっっさりと切ってしまった。

かくの通り経過を経て作成されたビデオはしばらく大量にダビングされてあちこちに配られていた。それからしばらくたって、このビデオの英語版が米国筋からリークされ、日本のニュースで放映された時には仰天したものだが。

そして1993年の春に、このPhase4もめでたくお開きとなった。最後の会議は私が勤めていた会社で行われた。ということはあまたの米国メンバーがこちらに来るわけである。私は他の仕事で死にかかっていたのだが、一応会議の冒頭だけには顔をだした。このプロジェクトの日本側リーダーは大変細かい所に気がつく男だったから、服装もきちんとする必要がある。この場合の「きちんと」というのはガソリンスタンドの従業員のような青い作業着を着ることである。そうした恰好は米国人の目にはおそらく奇異に映るだろう。しかし私は文字通りのBlue Colorなのだよ。作業着を着て久しぶりに会ったサザリンとJohnに握手すると、彼らは

「なんだかとっても疲れているように見えるけど」

といった。Ya, I'm tired.それが彼らと交わした最後の言葉だった。 

その後2度ほどPrivateで米国に旅行に行くことになる。しかし仕事の上では英語とほとんど接点のない生活が続くことになる。

 

前の章へ | 次の章へ


注釈

伝説と化している:米国のSportsで監督が伝説と化すとすれば、理由は唯一つ。勝つからである。本文に戻る

 

ここには書かない:五郎に関するFAQ参照のこと。本文に戻る

 

時間がかかる:英語の歌詞を日本語に訳して歌ってみればすぐわかると思う。本文に戻る