題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

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日付:2001/2/20


X2章:転属

1992年から1997年の間、私は仕事で渡米することはなかった。しかしそれであってもあれやこれやと英語との接点は存在していたのである。

私を半殺しにしたプロジェクトの後、その派生物として、大規模なシミュレーションシステムを造るぞーということになった。同種のシステムは米国で既に実用化されており、そのシステムを開発した会社の人間が来日し、PRのためにあちこち回ると言う。われわれもそれに同行である。補助説明のために何枚か資料をでっち上げたのだが、その中で

「ユーザー候補」(ユーザーになってくれるかもしれない組織)

の意味で私は

"Candidate User"

と書いた。しかし私のボスがこの原稿を読むとき、米国人の誰からが「ぷっ」と吹き出すのを2度聞いた。思うにこれでは「候補者を使う人間」という意味になってしまうのではなかろうか。Potential Customerとでも書けばよかったのかなあ。しかしそれについては未だに確証がない。

思えば私が入社以来いた部でした仕事はこの売り込みが最後になった。このとき米国の会社は

「うちの製品を導入すれば、期間は3年、費用はXX億円で導入できるよ」

と宣伝して歩いていた。しかし防衛庁は米国製品をそのまま買ったりはしない。過去の痛い経験から、必ず国産化を指向するのである。そして私の仕事はといえば、既に実用化されている米国製品と同じ機能を持つシステムを10年の歳月と数倍の費用をかけて開発する計画を立てることだった。

その米国製品のプロモーションビデオを観て、私は泣きたい気持ちになってきた。こうあるべき、こうできたらなあ、と考えていた機能は全てそのビデオに撮されている。話し3割としても私はこれから10年、あるいはそれ以上の長きにわたって、ひたすらこのシステムの模造品-おそらは粗悪な-を造ることを生業とするのだろうか。私の頭に

「東南アジアで日本の電気製品のコピーをしているほうがマシだ。」

などという思いがよぎる。東南アジア製電化製品は、品質は劣るかもしれないが少なくともコピー元よりも価格が安い。対するに私がやることは質が劣る模造品を価格を数倍にして売りつけることなのである。しかし正しい会社員というのは、アサインされた仕事を黙々とこなすのが信条。会社が行うことは常に正しいのだ。愚痴を言ったりくだを巻くのは許されるが疑問を持つことは危険だ。かくして疑問を抱いた私は

「君は言われた通りのことだけやっていればいい仕事が向いている」

といわれて、ソフトウェア設計の部署に回されたのである。

 

さて、このソフトウェア設計の部署では、米国製システムの日本向け改修というのをやっていた。そのサポートのため、元々のシステムを開発した米国の会社から大勢の米国人技術者が派遣されており、そして職場の宴会では彼らも一緒に騒ぐことになるのである。

ある日、何かの宴会の2次会でEnglish Speaking Peopleがつどう飲み屋に行った。相手の会社の人間をしこたまつれてである。私の話し相手はちょっと頭のはげたエンジニア。忘れかけた英語であれこれ話していると、そのうち相手は「ちょっと女の子に声でもかけよう」と言い出した。日本語で言うところのナンパである。近くに座っている女の子二人連れに声をかけるとこれが簡単に成功だ。そばで阿呆のごとく立っていた私は思わずうなった。日本に帰ってきたときに

「大坪さんおかえり宴会」

というのを若い者が催してくれた。その2次会でケントスという踊れるライブハウスに行き、何度かあったチークタイムに

「ここは一発」

と女の子をさそったのである。そのときは「お願い。ボランティアだと思って」とまで言ったのだがけんもほろろに断られた。もちろん相手も時も場所も違う。しかしこの差はいったいなんなんだ。思うにこれはやはりナンパをしている人間の人種(白人である)と母国語が大きく物を言ったのではなかろうか。聞いたところでは、独身の米国人男性エンジニアの部屋には大抵日本人の女性が住んでいるそうである。しかもその女性達はほとんど英語がしゃべれないとのこと。もちろん米国人エンジニアに日本語がしゃべれるわけもない。他人が何をしようと私の知ったことではないが、これもこの世の不思議な現実の一つという奴なのだろうか。

さて、「私のMacintosh」に書いたことと同じなので、ここでは繰り返して書かないが、私はほどなく社内であった人材公募に応募し、防衛産業に見切りをつけて家電をやっている別の事業所に変わることになった。

今度の上司は留学経験者で、University of Washington卒とのこと。University of Washingtonと言えば、毎年愛するStanfordをコテンパンにのしてくれるFootballの強豪大学だ。最初に食事をしたときその話を持ち出したが、彼はFootballなど全く興味がないらしく、その方面では話がはずまない。では彼が何を力説していたかと言うと

「会社ではだらしない服装はだめだ。いつも作業着を着るべきだ」

私はといえば、留学中に見学にいった米国の会社の工場で、素敵なおねえさんが、ジーパンはいてドライバを回していたのを観て

「ああいうのいいな」

と思ったのだが。

かくの通り彼とは全くそりが合わなかった。正確に言えば、彼は自分の頭に固定化された言葉と概念だけで生きていたので日本語が通じなかったというのが本当のところである。まあ上司とそりが合わないのはいつものこと。そんなことはかまわないのだが、問題は仕事がなかったことである。

仕事がないとはどういうことか。「新しいプロジェクト立ち上げのため」広く人材を募集するということではなかったのか。これは私が転属してから2ヶ月間に限って言えば正しかった。公募できた二人も含め、当初は5人がその「新規プロジェクト」にアサインされていたのである。ところが半年も経たないうちに担当者は二人に減った。それよりもなによりも仕事の範囲は当初の1/10くらいになってしまったのである。早い話が「どうもこのプロジェクトはもうからなさそうだ」ということが解り、たった半年ですっかり逃げ腰になってしまったわけだ。

さて、親愛なる上司の頭の中で、技術者と言えば2種類しかいない。機械屋と電気屋である。私は産業機械工学科出身だから彼の頭の中では機械屋なのである。上司は「僕は機械の仕事もやったことがあるから両方解る」をいつも自慢にしていたが、根は電気屋である。そして仕事を減らしていくとすれば彼にとって外様であり、元々余分な仕事と想っている機械屋の範囲から、ということになるのだ。私には彼が「機械屋向き」と考えた仕事がアサインされる。私も給料をもらっているわけだから、給料分の仕事はやろうとがんばる。しかし1ヶ月後に「この分野からは撤退」とお達しが出る。こんなことが2回ほど続き、転属してきた8ヶ月後には日長ゴミ捨てしかすることがない状況に陥った。

当時はWWWというものが普及していたわけではないし、それが机の上で観られるようになったのはそれから数年後である。であるから日長暇をつぶすのはなかなか大変である。仕事がないのだから早く帰ろうと思うと

「一定時間は残業するように」

というお達しである。かくて私の暇つぶしの苦痛は倍加されることになる。

会社の中をあれこれ理由を付けてふらふらとさまよう。夕日など眺めながら考える。人材を公募して集めて置きながら仕事を奪うというのは半ば詐欺のようなものだ。しかし会社では

「そんなことは言ってもしょうがない」

ことなのだろうな。この事業所の仕事を考えたとき、私の唯一の取り柄と言えば、留学経験者で英語がしゃべれるということか。となれば、そのうち海外勤務か何かになるのが落ちか。実際この事業所は、○○重工では珍しく海外法人をいくつかもっているところだったのである。なるほど。海外行ってエアコン造って残りの人生をすごすことになるのか。

さて、頭が固定化された上司との攻防は続く。プロジェクトの収支計画など何度か建てたが、どう考えても採算が合わない。前提が間違って居るんじゃないですか、と言っても彼には通じない。前提というのは会社の方針(誰も心の中では賛成していないのだが)だから定義によって間違っていないのである。正しい会社員というのは1+1=5が会社の方針であれば

「そうか。計算があわないのは、この”1”という文字の書き方に熱意がこもっていないからだ。やはり二晩徹夜しなければだめか」

といって何度も書き直すべきなのである。かくして上司は「間違った前提」には賢明も触れず、わけのわからない隅っこの細かい数字をつつきまわして幸せなようだった。

 

さて○○重工では年に一度人事考課ということで上司とお話をすることになる。転属して一年経った人事考課の面談で私は彼に正直なところを述べた。このプロジェクトは間違っていると。あれこれ話して判明したことは、彼は私をどこかに放り出したくてしょうがないということだ。どうやら余計な事(たとえば1+1=2のような)をあれこれ言う私などにじゃまされず、自分の思うとおり勝手気ままに1+1=5と仕事をしたいらしい。かくして話は彼の上司、すなわち部長にまで上がることになる。部長は「考えておく」といった。

そして年が明けて1997年。会社に行くと部長に呼ばれていきなり

「カーエアコンをやるように」

と言われた。当時カーエアコン部門は新たな顧客開拓ということで、米国GM社への売り込みを計っていた。しかし彼らの今までの顧客と言えば、○○自動車だけで、技術はともかく(本当は「ともかく」でもなかったのだが)英語に関してはあれこれ問題がある(本当は「あれこれ」どころではなかったのだが)

そこにカーエアコンの事など何もしらないが、とにかく英語がしゃべれて日長ゴミ捨てばかりしている男の登場である。さっさと転属させよう、ということになった。部長は最後に「これは業務命令だから」と言った。いやなら辞めろということである。本当の事を言えばこの事業所がやっていた仕事の中で、カーエアコンは私にとって一番やりたくない仕事だったのだが、そんなことはおかまいなしの通告である。私はそれから数ヶ月間、彼のこの言葉を忘れたことはなかった。

かくして私は新しいプロジェクトを起こすため、と行って転属してきてから1年と2ヶ月で全く別の仕事をすることになった。カーエアコン担当の課は私がいた課とは別にあったから私の所属は再び変わるべきだ。しかしそうすんなりとはいかない。鉦や太鼓で社内公募した人間をそんな短い期間で別の仕事にまわすとは何事かとどこからかクレームがついたらしい。

これは全くもっともな理屈である。しかしながら○○重工では常に実質より建前が重んじられるから、とりあえず恰好だけつければいいのである。1月から仕事はカーエアコンに変わったのだが、形式上所属が変わったのは4月1日であった。不思議なロジックだが、そういうことをするとみんなが幸せになれるらしい。

 

さて、こちらのプロジェクトに移ってみれば、エンジニア総出でGMから来た仕様書を分担し、辞書をひきひき翻訳の真っ最中である。私はあきれた。そんなもの丸々和訳などしなくてもだいたい意味だけとれればいいではないか。前にも書いたが日本の航空宇宙産業というのは、所詮は米国の下請け、もしくは模倣を脱却していない。従って仕様書が英語で書かれているなどというのはあたりまえで、それが読めるというのは最低必要条件だと思っていた。しかしこの後あちこちを点々として気がついたことであるが、私が最初に働き始めた航空宇宙産業のほうが世間的に観れば少数派だったのである。

さて、私はと言えば、それまで何一つしらなかったエアコンといきなり英語でご対面である。それでなくても米国流の仕様書というのは日本のそれに比べてやたらと長いセンテンスが多いから読みたくないしろものだが、今はそんなことを言っている場合ではない。わけもわからないまま、提案書などを山のように造ったりと準備作業が進む。

最初に米国にプレゼンテーションに行くときは、「おまえが行け」とは誰もいわなかった。こいつを連れていっても役に立たないだろう、と思ったのだろう。(私だってそう思った)では誰が説明するかといえば、米国人のDirector、ジョーである。彼は実にAgressiveな男で、本来はMarketingないしはSalesと呼ばれる職種なのだが、商談というか技術説明に何度も同行して或程度Engineeringのこともわかるようになっている。というわけでプレゼン資料を作った後は彼に説明するわけだが、これがうまくいかない。内容を理解して英語がしゃべれる人間がいればいいのだが、いるのは内容は理解できるが英語がしゃべれないEngineerとその逆の私である。説明をしていると、あるページにNASAの前身であるNACAという言葉がでてくる。ジョーは「これは何だ」と聞く。私は

"That is a long story" これは長い話なんだ

とかいってごまかす。

さて、日本からのメンバーが出発し、我々はファックスで彼らの米国での様子を知ることになる。どうやらプレゼンは無事終わったようだ。その後客先から追加の質問がずらずらと来た。それに対して一生懸命回答を造る。仕事が変わって一月も立っていないから私はエアコンについて何もわからないままである。それでも何かと手伝えることはあるものだ。ようやく仕上がったという時に難関がやってきた。この事業所には所長というトップが居る。事業所といっても数千人からの従業員がいるのだから、所長といえば、まあちょっとした企業の社長のようなものだ。この人は大変頭が切れ、また大変恐い人でもあった。そしてこのプロジェクトに大変いれこんでおり、些細なことでも客先に話す前には俺に説明をしろ、ということになっていたのである。

さて、いよいよ所長にご説明だ。とはいっても私は横でにこにこしてればいいもんね、と思っていたらなぜだか知らないが

「おまえ説明しろ」

と言われる。自分が把握している内容であっても、偉くて恐い人に説明するのはいやだ。ところが当時の私は内容を把握しているどころか、使われている用語の意味すらあやふやな状態だったのである。そんなん詐欺じゃ、とは言っては観たが皆逃げてしまって新参者の私に押しつけられた恰好である。

えい、しょうがない、と説明を始める。予想したとおりとはいいながら、最初の一問でえらくいじめられた。彼は英語も達者であり、私が先方の質問をちょっと意訳しすぎていたところを見事に指摘したのである。しかしそこでさんざんやった後は割とすんなり聞いてくれた。しばらくして解ったことだが、この人は厳しい人ではあるが、頭は大変よく、根はなかなかいい人だったのではないかと思う。私は最初

「所長が、細かい話しまでいちいち説明させるとはいかなる事か。所長たるもの、部下に仕事をまかせ、でんとしているべきだ」

と思った。しかししばらくして彼のそうした行動にはちゃんと訳があるのだ、ということがわかったのだがそれは後の話し。とにかくめでたく所長に説明が終わったと思ったら、それを相手に説明するミーティングがもたれるという情報が飛び込んできた。そして所長から

「この回答を送るだけではいけない。回答を作った人間が持参して直接説明しろ」

というお達しがでたのである。そこで当時の私の上司と私がいきなさい、ということになったわけだ。知識はあるが(と当時私は思っていた)英語ができない人と知識はないが、英語がそこそこ出来る人の組み合わせというわけである。私は軽い緊張感を覚えた。また仕事で渡米か。しかも今度は全く自分が知識を持ち合わせない分野での仕事だ。

さて、出発の数日前、私は遅くまで回答の仕上げをしていた。仕事ではいつものことであるが、自分が直接客先にいじめられない部署に「検討を依頼」した回答というのは、いいかげんなものになりがちである。まあこれくらいでゆるしてちょんまげ、というわけだが自分が説明しに行くとなれば、そんなんですませるわけにはいかない。ある設問の回答として送られた来た図は贔屓目にみても子供の落書きのようなものだった。これをどうしてくれよう、と金曜日の夜遅く私は考える。しかしいくらやる気があろうがなかろうが、疲労というのは重力の法則と同じくらい確実に効いていることを知らなければならない。この仕事になってからほとんど私は休みというものをとっていなかった。腕組みをして考えているつもりなのだが、頭は全く動かない。数分後に私は仕事を放り投げて帰ることにした。明日は土曜日だがどうせ出勤だ。明日やろう。

さて明けて土曜日、私は再び会社に向かう。これは未だに理解できないことなのだが、休日出勤する時は「午後から」とかいう人が多いようだ。私としてはとっとと出勤して、とっとと仕事を終わらせ帰って昼寝でもしたいのだが、どうも世の中には遅く働き始め遅くまで残るのが好きな人が多いようである。私がいつもと同じく朝の7時に会社についても誰もいない。しかし米国からは何枚かFAXが来ている。

それをふんふんと読んでいて私は仰天した。なんと

「質問の回答を相手に説明するミーティングがある、というのは間違い。そんなものはない。○○主任と大坪の渡米は不要」

という回答である。当時はまだ私も若かった。今だったら

「ああ。渡米無しね。じゃ帰って寝ます」

というところなのだが、当時の私はなんじゃこりゃー、俺のここ数日の努力は全部無駄だったわけか、と怒り心頭に発し、そばにあった黒板を思い切りなぐりつけた。黒板には小さな穴が開き、私のこぶしには切り傷が出来た。 

しかしながらこの仕事にまつわる苦悩は始まったばかりだったのだ。

 

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注釈

繰り返して書かない:私のMacintosh「Duo280c-Part2」参照のこと。本文に戻る