題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

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日付:2001/3/26


X3章:再び

思い返してみるとずいぶん長い間にあれこれの事がおこったように思えるのだが、日記で確認するとそれらはほんの数日の間の出来事だったことが解る。それらについて書く前に、私が直面していた状況について少し補足しておく。

このときGMからは3系統の車種についてのRequest for Proposal(提案書を出してね)が提出されていた。便宜上D、T45,T36と書いておく。そのうちT36については純然たる部品の注文であったが、残りの2車種については新しい試みがなされていた。すなわち

「仕様書をだして、それにあった部品を納入させるのではなく、仕様書を作る側の作業まで部品メーカーに担当させる」

というやつである。Request for proposalにはその点が何度も強調して記述されていた。すなわち受注した部品メーカーはEngineerを駐在(Resident Engineerと呼ばれていた)として派遣すること。そのEngineerはGMの他の部門の人間とも上手に協調して製品をまとめていかなくてはならない。早い話が自動車設計の一部を部品メーカーに「無料で」肩代わりさせようというわけで、GMにしてみればその分の費用は丸々節約できることになる。

私がこのプロジェクトに移ってから2週間ほどたった時、上司の車に乗せてもらって出張に行った。乗っている間にあれこれの話をした。私は前述したようなGMからの要求にふれ

「うちの会社にそんなことが英語でできる人間がいるんですかね」

と聞いた。今まで○○重工では「仕様書をもらって製品を作る」従来型の仕事しかしたことがなく、かつ英語力はここまで書いてきたような状況だったからである。彼の答えは

「早くそれができるようになってくれよ」

ということだった。次には

「いやーもし受注したら、何人かDetroit住まいですねえ」

ということで、GMがあるDetroitという街の話しになった。上司は

「仕事の関係上何度か訪れたことがあるが、綺麗なエリアと荒れたエリアのギャップが激しいねえ」

と言った。私は記憶を一生懸命ほりおこし、20年程前にアメリカで作成されたKentucky Fried Movieというくだらない映画にでてきたDetroitをネタにしたギャグの話をした。

それはブルースリーのなんとかドラゴンとかいう映画のパロディであり、何故かFistfull of Yen(手一杯の円?)という題がついている。悪役の親分の前にとらえられたスパイ(CIAとかその類だが)が連れてこられる。親分は「全部吐け」という。それに対して気丈なCIA職員は

「へん。さっさと殺せ。何をされたってお前なんかにしゃべりはしないぞ」

とタンカをきる。しかし次の瞬間親分はにたりと笑ってこう言うのだ。

Take him to Detroit(奴をDetroitに連れて行け)

その瞬間CIAの職員は泣き叫び出す。NO! NO! NO Detroit!なんでもしゃべるからDetroitだけは勘弁してくれ。

ちなみに公開当時、日本語の字幕は「奴をナリタに連れて行け」となっていた。空港建設で住民と機動隊が衝突を繰り返していた時期である。かくの通りDetroitは筋金入りの秘密諜報部員も泣いていやがる荒れた場所、ということらしいのだが。

 

話を戻そう。自動車設計の一部まで部品メーカーに担当させる、という前述の方針は、メーカー選びの過程にも反映されていた。前述のRequest for proposalに応募するのは世界10社の自動車部品メーカー。その各社にプレゼンをやらせ、その結果をみてGMが2社をCooperative Sourceとして指名する。指名された会社は数人のEngineerをGMに派遣し、無料でしばらく御試用いただく。GM様はその働きぶりをよく見て選考過程で考慮してやろう、というわけだ。○○重工の方々は何故か

「Cooperative Sourceに選ばれるということは、実質的に受注が決まると言うこと」

と思いこんでいたが、GMの書類には

「Cooperative Sourceと本当の発注先の選定は全く独立に行う」

と何度も書いてある。だいたいCooperative Sourceは2社で、受注は一社なのだから、どう贔屓目にみても確率50%ではないか。さて、前述した「私が行かずに済んだ」プレゼンはT45に関して行われ、そして少なくともファックスでは

「大変好印象を得て、Cooperative Sourceの指名は間違いない」

ということである。

私ははなからそんな話は信じていなかった。選定されるのは上位2社であろう。しかしプレゼン資料を作る手伝いをしているだけでも○○重工がこの分野で世界で2番目になっているとはとても言えないことだけはわかった。であればこれはきっと米国人得意の"Very Good"だの"Excellent" をそのまま受け取ったものではなかろうか。

それでなくてもこの話がスタートしてからと言う物、GMの要求はめまぐるしく変わった。前の章で書いた「実はそんなミーティングはないんだよーん」もそうであるが、一ヶ月を経たこの頃では私は

「もう何がきても驚かないぞ」

という心境になっていたのである。しかしそれからの数ヶ月私は自分がいかに世の中というものを甘く見ていたかを何度も思い知らされることになるのだが。

 

さて、日記によれば、私が黒板に穴を開けたのは1997年の2月1日である。その後米国に行っていたメンバーは帰国し、話はさらに具体的に進むこととなった。日記を追ってみるとそれは2月5日のことだった。このプロジェクトの実質的なボス、Hという人に呼ばれた。彼は我々がT45のCooperative Sourceに選ばれる物としてあれこれ準備を進めているのだ。彼はこういった

「Cooperative Sourceの派遣エンジニアとしてアメリカにいってもらう」

私はこう小声で答えた。たぶん彼は聞いていなかったと思う。

「どうせそんなことだろうと思っていました」

ゴミ捨ての後沈む太陽を見ながら建てた予測は的中した。予想よりもずいぶん早くだが。

続いて私はもっと実質的な質問を発した

「私はエアコンの事を何もしらないんですがいいんでしょうか?」

そこで彼は派遣する人間の陣容をしゃべりだした。設計を生業としていた中堅社員一人、性能の計算、試験を生業としていた中堅社員一人、図面作成を得意としている若者一人、それに私。つまるところ各分野のエキスパートをそろえて、そのうえに私をちょこんとのせる、という構造である。なるほど。これならば「エアコンの事を何も知らないが英語がしゃべれる」男をおっぽり出そう、ということにもなろう。当日の私の日記にはこのような記述がある。 

「アメリカにまたいくのか。。。この仕事は嫌いだ。」

さて、嫌いだろうが愚痴を言いたかろうかとりあえず仕事だから準備をしなくてはならない。翌日はあれこれの手続きに費やされた。午前中は国産免許を取り、そして電気料金の支払いを自動引き落としにする。行くとすれば数ヶ月は帰れない。それまで何の理由もなく

「請求書送付。コンビニ払い」

を愛していた私だが、この際そんなことは言っていられない。そして午後は一緒に組んで受注を目指していた会社-TR社としておこうか-の見学をした。この会社は○○重工がまったく経験のない分野の製品-ラジエーターを作っていた。そしてGMの要求は

「カーエアコンとラジエーターとワンセットで発注」

だったから彼らの協力は必要不可欠だったわけだ。

さて、あれこれ準備を進めながらも私はほぼ確信を持っていたのである。ここまでの楽観論など何の根拠もない。会社が10社中2社に選ばれるわけがない、と。当時私は机の後ろにあったホワイトボードに絵を描いていた。

「タカ」

という文字を書き、それがひもで杭にくくりつけられている絵である。すなわち「タカをくくる」このときほど自分に画力がなく、本物の鷹の絵をかけないのが残念だったことはない。しかし今から考えればこれはたぶんに私の願望も混ざっていたのではなかろうか。

 

さて、「いやー、設計部門はもう○○重工をCooperative Sourceにすることに決めてるんだけど社内手続きで遅れてるんだよね」

という話がでてから数日後、2月7日の朝の事である。おそらくジョーからのFAXだと思うのだが、本当に○○重工がCooperative sourceに選ばれた、という知らせが来てしまった。こうなれば四の五の言っている場合ではない。私はあれこれ電話をかけだした。その日は金曜日。翌週の火曜日には日本を発つことになる。本来であればその日はもといた事業所の友達とふぐを食べにいくことになっていたのだが、それもキャンセル-しかし相手は気を使ってくれ、結局一日延期しただけでまたふぐにつきあってくれたのだが。その他に数件約束をキャンセルし、上司に

「向こう数カ月の約束は全てキャンセルしました」

と報告する。

その日一日は一気に話が進む。午後5時には、形式的にはまだ私が所属している課にいって「出発の挨拶」である。私は概略次のような事を言ったことを覚えている。

「というわけで米国に行くことになりました。これから受注作業が本格化するわけですが、できるだけお役に立ち、皆様の生活安定にご協力したい、と」

この言葉がどのような形で現実となったかについてもこの後書く事があるだろう。

さて、夜は壮行会と称して宴会である。私は飲む量がその日の体調、機嫌に大変依存する人間だ。そしてこのときはこの上考えられないというくらい機嫌が悪かった。漫然と予測していた「望ましからざる未来」はこんなに早く現実の物となってしまった。私がこの事業所に転属を希望したのは、全く新しい製品を苦労しながらも作ろうとしたからだ。ところが来てみれば仕事はゴミ捨てしかないわ、どうにかしてくれといえば100年も前にその形態が固まり、いまや材質の厚みを数%けずることのみにしのぎを削っているような製品をやらされるわ、おまけに希望も興味も持っていない米国生活のおまけつきだ。

従って本来であれば全く飲まないはずなのであるが、この日は私の人生で数度しかやったことがない、「やけ酒」だったのだろう。がばがば飲み続け宴会の途中から記憶が曖昧になってほとんど何も覚えていない。

少しだけ覚えているのは部長から言われたこの言葉

「大坪くんもこれで一皮むけてもらいたいものだな」

そして所のNo2というべき副所長のこの言葉

「まあ一生懸命やらんといかん」

私にこうした言葉をかけた彼らが、このプロジェクトでどのような役割を果たしたかは後に触れることになる。

さて、酔って記憶がなくなったのは、後にも先にもこのときともう一度だけだ。こういうことがあると

「自分が何かとんでもないことをしたのではなかろうか」

と疑心暗鬼に陥る。後で聞けば

「最初の宴会で、締めの挨拶を大坪さんがやったのを聞いて爆笑した。大坪さん、宴会の挨拶やらせたら日本一だわ」

と女性社員に言われ、

「2次会でいったスナックでカラオケ歌いながら踊ってたぞ」

と研究Expert(一緒に米国に行く「性能の計算、試験を生業としていた中堅社員」である)に言われた。女性社員にそれだけ爆笑してもらった挨拶であれば、是非ここに披露したいところなのだが、如何せん覚えていない物はしょうがない。ついでに言えば2次会でスナックのお姉ちゃん相手に話しながら何故か泣いていたことは覚えているのだが、何故泣いたのか今になっては全くわからない。

副所長につれられて行ったスナックでの2次会がお開きになった後、「これを使って良いよ」とタクシー券を渡された。しかし私は当日完全にひねくれていて

「だれが貴様の世話になぞなるか」

と駅へむかって歩き出した。機嫌がいいときであれば、どれだけ飲んでも酔わないのだが、このときはそうはいかない。どれくらい歩いた後だろうか。路上ででかがみ込みげろげろやっているところでようやく頭がはっきりしだした。胃がひっくり返りそうになりながらも吐き気はとまらない。しばらくの後ようやく立ち上がった。とにかく家に帰る。出発は月曜だ。やることは色々あるが時間はない。

 

翌日実家に出張用の鞄を取りに帰った。両親に

「アメリカに行くことになった」

とだけ言い、アパートに戻る。晩は昨日あるはずだった「ふぐ食べねえ」宴会であるが、この頃から私は

「アメリカに行くのー。いいわねー」

という日本人女性の固定化したリアクションに悩まされ始める。多くの日本人女性にとって米国生活という言葉はそれだけで無条件に「素晴らしいこと」なのだ。私がどのような思いであるか、それを力説したところで言葉はただ通り過ぎていく。彼女たちの言葉に私がどう反応したかは覚えていないが、おそらく当時は

「ほほほ。いいでしょう。」

と軽くかわすだけの余裕もなかったのではなかろうか。なんのかんのの後月曜日に私は苦虫をかみつぶしたような顔で機上の人となった。

 

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注釈

本物の鷹:実は最近知ったのだが本当は「鷹をくくる」ではなく「多寡をくくる」である。本文に戻る 

素晴らしいこと:(トピック一覧)かつては私にとってもそうだったのかもしれないが、もはや思い出すこともできない。本文に戻る