題名:巡り巡って

五郎の入り口に戻る

日付:2002/10/17


世界平和大観音:兵庫県(2002/10/26)

朝の5時過ぎに家を出て始発の地下鉄で新横浜に向かう。さて新幹線の指定席をと思って愕然とする。すでにして自由席しか空いていないではないか。今までこの時間に来てとれなかったことなどないのに。

しかたなく自由席に乗ろうとするがデッキで立つハメになる。名古屋についたところで状況は更に悪化した。どやどやと人が乗り込み体を動かすのも困難な状況に陥る。周りには大学生のサークルらしき連中がいるのだが、密接しているから会話が丸聞こえ。彼らと彼女たちはなんと自分が京都で下りるのか新大阪で下りるのか知らないと言う。ええい、このノータリン共め、などと意味のない憤怒の炎を燃やすのは必要以上に体力を消耗するので考え物である。私はまだまだ先に行くのだ。

京都であらかた人が下りた所を観ると単に秋の観光シーズンだから、ということなのだろうか。新大阪でのりつぎ西明石。さらに在来線に乗り換え「高速舞子」というところから高速バスに乗る。その名前からして高速道路にバス停があるのだが、淡路-本州連絡橋は大変高い位置にある。乗り場は5階でそこまでエスカレーターがあるのだが下から見ると「天国への階段」といったところか。そして思い出す。私は高所恐怖症であった。

いやここでめげてはいられない。高速バスに乗り橋を渡る。淡路花博とかいうものが開催されたおかげだかなんだか知らないがやたらと道が立派である。そのうち「夢舞台」などという聞いている方が恥ずかしくなるようなバス停があり、そこには「奇跡の星の植物館」という看板がある。ああ、なんということだ。帰ってからそこのサイトを観れば

「森と海に包まれた青い星、地球。宇宙の塵から偶然に生まれたこの星にいつからかたくさんの生物が共に暮らすようになりました。このことがまさに奇跡なのです。」

「おつとめはどちらですか?」と聞かれ「夢舞台の奇跡の星の植物館です」と答えるたびに男はこの名前を付けた人間を呪い、そして人間性原理に思いを馳せるのだった。

などという妄想にとりつかれ頭を抱えているうちにバスは粛々と進む。そのうち前方に巨大な白い像が見えてきた。本日の目的地世界平和大観音である。

遠くから観ると観音というよりは、変な帽子をかぶったこけしのようにも見える。とにかく下田というところでバスを降りると歩き出す。ここからはまだバス停一つ分先なのだ。近づくにつれ観音様の顔がはっきりと見えてくる。ありがたいというよりは吉田戦車が書くところのこけしにそっくりの顔である。胸のところにある展望台は下から見上げると「珍寺道場」で命名されたところの「ムチウチ観音」という言葉がぴったりするように見える。

大人一人車無しの料金800円をはらって中に入る。ちなみにこの門は東大の赤門を模しているとのこと。長い長い階段を上るうちに足がだるくなってくる。へろへろになりながら入り口にたどり着く。脇にはこの観音の由来が書いてある石版があるのだが、途中明らかに修正した箇所がある。

ある出来事から何年たった、ということを訂正してあるのだ。計算間違いに気づかず掘ってしまったうかつさを責めればいいのかきちんと訂正する正直さを褒めればいいのかとにかく中に入る。

まずはエレベーターで展望台に上る。さっき下から見えたムチウチのコルセット部分に登ると確かに眺めがよい。しかしここで高所恐怖症が頭をもたげてくる。それでなくてもこの高さと観音のたよりない外見は命を預けるにはあまりにも不安なのだ。早々にエレベーターに乗り込む。

ついたのは5階。入り口にかかっている看板には「民族博物館 時計博物館 写経道場」とあるが、どこで写経をするのかは謎のままである。

いきなり鎧甲がごろごろ置いてある。時計博物館とは、と思えば壁には昨今はやりの「大きな古時計」がごろごろかかっているがただそれだけで何の説明もない。

江戸時代の地味な琴がいくつも並べてあるところを観るにつけここは博物館というより物置小屋では無いかという疑念が頭をかすめるが気にせず先に進む。4階は他のWebサイトを見る限りでは「休憩室・売店」だったようだ。しかし今は何もなく誰もいない。

団体予約受付致します(100名様迄)とか書いてはあるが100名の団体がここに来たことがあったのだろうか。などと考えている時に人の声がしたからぎょっとした。考えてみれば観光地だから人がいるのが当たり前なのだが、その当たり前の事が起こるとぎょっとするような場所なのだ。

3階に下りると奥内近代陶芸美術館と称してガラスケースの中に陶芸やらなにやらがごろごろ置いてある。元々この分野は何もしらないのであるからして内容がどうというより何か笑えるネタが無いかと歩き続ける。奥の方に今度は置き時計がいくつもガラスケースの中にあるのを見つける。どうもここを造った奥内謀は時計に執着心があったに違いない。

さらに階段を下りるとそこは「奥内近代絵画美術館」であり、「ピカソ、ミロ、ビュッフェ、フジタなど世界の名画を150余点ごらんになれます」という場所なのだが、私には何のことかさっぱりわからない。しかしピカソってどこにでもあるような気がするな、、などと考えながら歩き回ると昔は何か別の目的に使われていたらしい一室を見つけた。外に向かって椅子が並べてあり、その先には自由の女神像が建っている。

天井を見れば電灯があったとおぼしき場所からはコードがたれさがっている。そこを出たとき再び人にでくわしてぎょっとする。そうじのおばさん達であった。

一階はお寺ということになっており、仏像やらなにやらのたぐいがごろごろ置いてある。珍スポット巡りも数を重ねてきてこれくらいの事では驚かなくなっているが、階段下にあった「良縁 夫婦和合 子宝 接吻の像」を観ているとため息が出てしまう。

気を取り直して地下に向かう。交通博物館と称して60年代70年代の車がごろごろ置いてある。私が子供だった頃大坪家の愛車だったスバル360とかHONDA N360とかがあり、観ているうちに記憶もよみがえってくるようだ。オート3輪というものはもっと大きな物だったと記憶しているがあれは私がまだ幼稚園児だったからなのかなあ。

などと考えているうちに見物はおしまい。出ようとすると別の家族連れらしき人たちが入ってくるところだった。適度に訪問者があることにまた驚く。

外に出ると裏手にあるSLに向かう。これは「交通博物館の目玉 D51」ということなのだが、すでにしてプレートは汚れ塗装ははげかけている。正面にあるプレートにはこのSLが飾られることになった経緯が書かれている。曰く

「不滅の功績を称える碑
交通博物館設立を思いついたのが、一年前の五十八年七月頃でした。

日本国中を縦横に走り続けて国民に愛されてきた、D51が無ければ博物館としての価値に乏しいと思い、京阪商業学校時代の同級生であり友人の衆議院議員民社党副委員長で国鉄顧問である中村君に相談したところ

(中略)

中村政雄君、国鉄の関係者各位の御厚意に対して感謝すると共に、日本国の宝物を永遠に拝観者の方々と共に喜びを分かち合いつつ、何千年何万年先まで此の喜びを受けつがれる事と思います」

そこまで気合いをいれて設置したのならもうちょっと手入れをしないと「何万年」どころか何年ももたんぞ、と思いながら更に裏に回る。30000円払うと五百羅漢を置けるそうなのだが、寄贈者が造ったその像(どう数えても500はないと思う)は実にシュールな外見をしている。その像を観ながら進んでいくとさっき見えた自由の女神にたどり着く。

世界中に自由の女神がいくつあるか知らないが、これほど自然と一体化したのも少ないだろうなと思いながらその場を後にする。入り口近くには10重の塔があるが、その作りはいかにも安っぽく近くに行くとさびが浮き出ているのが分かる。一階にはなにやら絵が描いてあるが感動も笑いもできないようなものだ。

さて、帰ろうと思い駐車場にある看板に目を留める。

あれ?と思いよくよく読んでみるとこの看板はおそらくオープン以前に造られたもので、それから改訂されていないことが分かる。おまけに各階の構成が現在とは大幅に異なっている。

6階:ビル屋上展望台

5階:○○ (消してある2文字。「旅館」と読める)

4階:食堂

3階:宴会場

2階:財団法人 奥内近代美術館分館

1階:平和観音寺

地下:スーパー○(一字不明)売店

なんと、ここは当初宿泊施設+宴会場を目指していたのか。この構想がそのまま実現されていたらいわゆる「宗教テーマパーク」の縮小版のようなものができあがっていたことだろう。しかしどこを観ても6階なんてないぞ。

この観音の前には「宿泊できる バスレジャー」という看板がでた建物もあるのだが、すでにして廃墟化している。この観音が観光地化することをあてこんだのかもしれないが、観音から発散される怪しげな気に触れ廃墟となったか。この観音自体いつまで存在し続けるのか。この巨大さと荒れ加減。下手すると壊れたりしないのだろうか、などと考えつつ橋を渡り本州に戻る。

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注釈