題名:巡り巡って

五郎の入り口に戻る

日付:2004/4/2


一心寺 : 大阪府(2004/3/26)

はるばる来たぜ大阪、ということで大阪に来たのである。この地に見るべき物は多いのだろう。地下鉄の恵美寿町(きっとちゃんとした謂われがあるのだろうが恵比寿ではない)駅、というところで降りると通天閣がどーんと見える。しかし今日の目的地はそこではない。ひたすら広いとおりにそって歩く。天王寺動物園というのが右手に見えるがそれも目的地ではない。そのうち前方になにやら寺の類が見えてきたのだが、その形状は異様としか表現のしようがない。

手前には墓があるし、屋根の上には瓦がのっているようだがこのコンクリートむき出しの構造はなんなのか。更に進むと壁に丸い穴があいていたりするのだが、その先にはこんな光景が広がっている。

これが今日の目的地一心寺。公式サイトには「お骨佛の寺」と大きく書いてある。その言葉が何を意味するのかは別として私はある考えにとりつかれていた。

今日我々が伝統的な建築物を見る目と、その「伝統」が始まった頃に向けられた目というのは相当に違っていたはずだ。今日に生きる我々が脳天気に「日本の古き伝統を感じさせる」などという言葉を向けるその形状は、それが初めて作られた時代にあっては「現代的」でアナーキーな物だったに違いないのだ。初めて仏像なんかを作った者は「全く最近の若い者は」と多くの人から非難のまなざしを向けられたに違いない。

なぜそんなことを考えるかというとこの寺の山門があまりにぶっとんだ構造をしているからだ。戦争中に消失した山門から「黒門」というイメージだけを継承したその門はガラスと鉄骨で構成され、仁王像はなんとも言えぬ姿をしている。

振り返ってみてもやっぱりびっくり

そして門の扉には左右二体ずつのレリーフが彫られている。

「扉の四人の天女は(中略)インドから日本にいたる佛教世界の文化を帯して少しづつ顔やお姿が違います。インドの佛蹟では人々がその胸と腰にふれて、生命の御利益とされます。」

と書いてあるのだが、ここで「胸と腰にふれて」いようものなら間違いなく変質者扱いされることであろう。そもそもこの門はなんなのだ、と私は写真をばしゃばしゃとりながらぶったまげているのだが、では何にぶったまげているのか、ということをつらつら考えると前述のようなところに落ち着いていくわけだ。いつまでも感心していてもしょうがないから門をくぐって先に進む。ここは地下鉄の構内にも「一心寺3番出口」とか書いてあった位でとてもメジャーな寺らしい。人がたくさんいる。ではその人達がどこに向かっているかというと煙がもうもうと立ち上っている納骨堂である。

でもってこの納骨堂の中にこのお寺のキャッチフレーズであるところの「お骨佛」がいるわけだ。

納骨されたお骨を10年ごとに佛にするのだそうな。今居るのは7体目から12体目まで。(一体目から6体目は戦争で消失したとのこと。7体目にはその灰も入っている)一番前にいるのが11体目と12体目。10年サイクルで考えると次に作られるのが平成18年。そのときには仏様のローテーションが行われるのだろうか。

先ほど裏からみて驚愕したコンクリートの構造物は「一心寺の庫裏・書院・信徒会館」であるとのところの日想殿だとか。山門ができたのは平成9年だがここは昭和52年建立。ということはだいぶ前からこの寺はこの雰囲気を持っていたわけだ。

その先にあるきんきらきんの相輪が印象的な受付・念佛堂のなかには銀行のATMにあるような行列用のテープまで設置されている。ということはここは相当繁盛しているということだ。初めて見た私のような者から見るとぎょっとするような山門でも、信じる気持ちがあれば気にもならぬということだろうか。

おまけ:脇の方にあったローマ・ギリシャ風のなにやら。明治35年という文字だけは読めた。

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注釈