題名:巡り巡って

五郎の入り口に戻る

日付:2006/1/9


太陽公園-長城篇:兵庫県(2005/12/28)

この先は再び万里の長城となっている。立派な門があり、陶俑が並んでいてももはや驚かない、というかすっかり感覚は麻痺している。

しかしながらひねくれものの私は門の脇にあるパンダに注目しないわけにはいかないのであった。

というわけで再び万里の長城を歩き続ける。磨崖仏という矢印に従って歩いていくとその足下にでる。

この写真だけ見ても当時の私が何を感じたかは伝わらぬだろう。とても急な階段があり磨崖仏はさらにその先なのだ。足は疲れてきたがしかしここでひるんでどうする。階段の幅はとても短く、こんなところで頭をうって気を失ったらそのまま日干しになるだろう。一段一段慎重に歩を進め、ようやくその足下まで到達した。

寝そべった形だからとても平らに見えるが、手前のお膝だけでも私などが登る気をなくすくらいの高さがある。これを上空から見たらどう見えるだろう。そうだ、Google Map でチェックすべきでは、とか妙な事を考える。再び階段をゆっくりゆっくり下ると今度は反対方向に長城を歩き出す。すると間もなく上り坂になる。

万里の長城を登りながら考える。ここが何十年かあるいは何百年かの後うち捨てられ廃墟と化したとき、それは千と千尋の神隠しの冒頭でてきた「捨てられたテーマパーク跡」のようになるに違いない。こけむす異様な石像、建物の群れ。はあはあいいながら登っていくうち別の考えも頭をよぎる。西暦10万年くらいの考古学者がここを発掘したとしよう。すると彼もしく彼女は

「日本列島にあった姫路エリアは、古代世界の中心地だった」

という説を唱え始めるのだった。そうでなければ世界中に散らばる像や建造物がここに集まっている理由の説明がつかないではないか。世界中に散らばっている物のほうが2000年ばかり古いぞ、という言葉は「誤差の範囲」という一言で片づけられてしまうのであった。

そう、人は何につけ理由を探そうとする。しかしこの場所に付けられる理由は「ここを作った人間がそう考えたから」意外に見つけられない気がする。

先ほど下から見た双塔の近くを通り(中には何もないようだが)更に先に進む。下から見えていた塔はこれであったか。

「日中」ではなく「中日」となっていることからもこの記念碑を作った意図の一部が見える気がする。近くに国旗も翻っているのだが、中国の国旗が2本、日本の国旗が一本の割合だ。

そこから先も長城は続く。レンガを敷き詰めた道というのはこうも歩きにくい物かとぶつぶつ文句を言いながら歩を進める。山というか丘の頂に何かがあり、そこから道が途切れている場所まで見ることができる。

左手奥に見えるのが通り沿いにバス停があったはず。うまくいけば次のバスに乗れる、などと欲を出して道を降りてみたが行き止まりだった。ええいと地団駄踏んでみたがなんともならぬ。ひーこら言って再び坂を登る。

そして自分が来た道を戻る。あまりに広大な敷地に登りと下りの繰り返し。ここは高校の運動部がトレーニングに使うといいのではないか。

「よし、今日は長城を全部制覇するぞ」

「えー、またっすか?」

とかそんな会話が聞こえてくるようではないか。と思っていたら前方からユニフォームをきた人達が近づいてくる。近くでみればこの近くにある東洋大姫路付属高校の野球部員だ。なんと彼らは本当にここをトレーニングに使っているのだ。半ば唖然として彼らの姿を見つめていると

「ちーっす」

と挨拶してくれた。礼儀正しいことだ。通り過ぎた彼らを振り返ってみる。なにやらぴょんぴょん飛び跳ねながら兵馬俑に向かっていたが。

正門から外に出てバス停を目指す。バス停近くにはこの「打越自治会住居案内図」がある。それを見ながら今自分が通ってきた道がどこだったのかを考える。

この地図から見ることができる「地名」は双塔寺と鶏足寺だけであるが、実際に存在している物は今見てきたとおりだ。ここを作った人は現在2kmの万里の長城を12kmまで延長する気らしいが、(完成予定は平成14年9月29日ってもう過ぎてます)仮にそこまで延長して誰が全部廻るというのか。私のような珍スポットマニアでも12kmは廻らぬだろう。となれば、マニアですら到達できない純粋な珍スポットが完成することになる。

次のバスがくるまで15分ほど。デジカメのメモリは一杯になってしまっている。中身をパソコンに移したりしているうちに空きっぱなしだった口も閉まってきたようだ。早く姫路に戻りそして今日中にできるだけ移動しておかなければならぬ。そんなことを考えながらバスを待つ。

前の章 | 次の章  | 一覧に戻る | 県別Index


注釈