題名:2000年北海道山行

(7/25〜30 恐山、大千軒岳、狩場山、暑寒別岳)

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日付:2000/9/18


前説

今回は謡曲で有名な善知鳥神社から始まり、亡くなった人が霊媒の口を借りて話す、下北の恐山イタコの口寄せ、道南の日本三百名山登頂、松前、江差などを訪ねました。

今年春の東北探訪で縄文時代の人口増減について抱いた疑問を、その後、かなり調べることができましたので、その報告も入っています。

それを調べているうちに、下記のことに気がつきました。

地球寒冷化で絶滅に瀕した縄文人たち、いま温暖化で危機を迎えつつある我々、それについて世間受けはしませんが相当本当っぽい警鐘を鳴らしてみたつもりです。


今度の旅の起点は青森市です。

名古屋から青森へのバスはありませんから、夕方、新幹線で東京まで出て、ラ・フォーレ号という洒落た名前の夜行バスに乗りました。

八重洲口を21時30分に出て、翌朝7時に青森に着きます。

青森駅前で降り、朝飯前に善知鳥(うとう)神社にお参りしました。

善知鳥という字を「うとう」と読める人は多くはないでしょう。

 

私は、つい半月前に、謡曲で善知鳥という曲を謡わせていただきました。

この能の筋では、冒頭、立山に修行に来た僧侶に亡霊が現れます。そして陸奥に住む妻や子に、自分の蓑笠を手向け回向するように伝えて欲しいと頼みます。

それはこの猟師が善知鳥という鳥の子供を殺したために、地獄に堕ちているからなのです。

善知鳥は親子の情が大変深いということになっています。親鳥が「うとう」と呼びかけると、子は「やすかた」と答えることになっています。

なにか親の方が「うとう」なんて子供っぽい言葉で変ですが、室町時代の話ですから、まあ、良いとしておきましょう。

猟師が親の真似をして「うとう」と呼びかけると、子供は「やすかた」と答えて砂から這いだし、猟師に殺されてしまいます。悲しんだ親は、空から血の涙を降らせたのです。

その罪で地獄に堕ちた猟師は、お化け鳥に銅の爪で掴まれ、鉄の嘴で眼をえぐられるのです。助けてくれと訴えながら、亡者の姿は消えてゆくのです。

 

お社の縁起には、第19代允恭天皇の御代に、今の青森市、昔の善知鳥村に、善知鳥中納言安方という人が,三女神を勧請したのだと書いてありました。戦前までは、青森県の総社でした。

善知鳥神社の隣の駐車場の看板も、善知鳥駐車場になっていましたし、驚いたことには、ここの正式な地名も青森市安方町なのでした。

長野県の塩尻から辰野に抜ける善知鳥峠は、何回も通ったことがあります。

また、地図を見ていると善知鳥という地名は、ここだけでなく、日本のあちこちにあるようです。昔は、今よりもポピュラーな物語だったのかも知れません。

 

・夏場所の力士キオスク覗きおり

 

?。恐山

この日はレンタカーを借り、下北半島の恐山に行ってみました。

途中に、私の祖母が100才で亡くなるまで暮らしていた浅虫温泉がありました。そこも比較的鄙びた印象でしたが、さらに進んで野辺地から北へ向かい、下北に入ると、それこそもう日本離れした人跡稀な風景でした。

この日は終日小雨が降ったり止んだりの天気でしたから、余計淋しく見えたのでしょう。太平洋と陸奥湾の間に、約10キロほどの幅で貧弱な松を主体とした丘の起伏が続いているのでした。

 

恐山は、地形そのものは、箱根、草津、別府、雲仙などと同じ、白っぽく焼けた岩と硫化水素の匂いが立ちこめた、いわゆる地獄の風景であります。

前出の歓楽街としての温泉と較べて、同じ温泉地獄でも、大都会からアクセスが不便だと、蓮華温泉、後生掛温泉、酸ヶ湯温泉のように純粋な湯治場温泉になるのでしょう。

そして昔はここ恐山は飛び離れて辺鄙な立地条件だったので、霊地になったのかも知れないと想像しました。ついでながら、恐山にも温泉浴場はあるのです。

こんな荒涼とした恐山の地獄のあちこちに、沢山の赤い風車が、小雨もよいの冷たい風にカラカラと鳴っているのが、たまらなく淋しい雰囲気でした。

それに加えて、カアカアとカラスが呼び交わしているのが、また、なんとなく不気味でもありました。

山のような供物は、手向けた本人たちが離れた途端にごみの山になるわけで,カラスたちにしてみれば、片づける手助けをしてやっている積もりなのだろうと思います。

 

そしてカラスたちは、人間の都合で春と秋の大祭の時だけ山のように持ってきても、オレたちの人数じゃとっても手が廻らんよ、など話し合っていたのかも知れません。

 

昔からこの地方では「人が死ねば、お山(恐山)さ行く」と素朴に信じられていました。それで、ここ恐山を訪ねて、イタコという職業の女の人に頼むと、亡くなった人の霊がイタコにとりつき、語りかけてくるのだそうです。そのことをイタコの口寄せといいます。

イタコの口寄せ一回3000円と書いた看板がありました。そして本堂の中の部屋では、太ったイタコのおばさんが、太った小父さんを前に、口寄せに入っているようでした。でも、それは見せ物ではないのですから、私たちは、早々に遠慮、退散しました。

 

・老鶯の繰り言息も絶え絶えに

 

?。むつ大湊

むつ市はかっては原子力船で名を売りました。原子力船「むつ」が外洋でテスト中に、予想外の放射線漏洩があって大きな社会問題になり、帰港できず長期間、漂流を余儀なくされたことがありました。

あることが「社会問題」になったというとき、それは事実とはまた別のレベルで、沢山の人が問題だと思うようになったという意味があるのでしょう。

この事件に付随して、ホタテ貝の風評被害が起こりました。ホタテ貝にはなんら影響はなかったのですが、恐ろしげな大報道のため、世間の人は買わなくなってしまったのでした。

この事態に、正直な大臣が正直にものを言って、火に油を注ぎました。

それで「分かった、分かった、補償しよう」という人が出てきて、やっと収まったように記憶しています。

それもこれも過去の歴史になり、結局、世界的に原子力船は商業用としては日の目を見ることなく、潜水艦と砕氷船にだけ採用されています。

青森からの沿道には、ホタテ、ホタテと書かれた旅館、料理屋の看板が連なっていました。「むつ」は死んで、貝を残している様子です。

 

大湊にも寄ってみました。

その昔、日本海軍の北の拠点だったところです。

大きな陸奥湾の中に、もう一つ小さな入り江がある、それが大湊でした。

ここで北洋館という海軍の資料館を訪ねました。昔、海軍士官のクラブだった水交社の建物です。そんなに大きくはありませんが、日本建築学会から大正・昭和期の名建築として選ばれた風格のある石造りの建物です。

日本海軍に関する貴重な資料が沢山展示されています。しかしその目的が、先人の遺業をしのび、輝かしい伝統を継承することにより、一層立派な隊風を育成することにあるので、私が常々望んでいるような見学した後に、つくずく戦争が嫌になるというものではないと感じました。

過去の歴史を辿ると、当地方は霧が深いせいなのか、あるいは海底地形のせいなのか、この大湊軍港では座礁事故が目立ったようでした。

 

・老人の法螺果てもなやビール飲む

 

?。松前と江差

津軽海峡線で函館へゆきました。列車の旅としては、海底トンネルも山のトンネルとまったく変わらず、ちっとも面白いものではありません。JRではこの線にドラエモンの絵を横腹に描いた客車を走らせ、観光に力を入れているようでした。十分に時間をとって、トンネルを見学するのだったら、さぞ面白かろうと思いました。

 

今回は函館でレンタカーを借り、西、そして北へと、道南の西海岸を走りました。

函館から30分ほど西に走ると、男爵資料館がありました。有名な男爵イモというジャガイモの発祥地のようでした。なにせ早朝なので、資料館はまだ開いていませんでした。

一角に立てられた看板を読むと、この地で川田龍吉という男爵が、アメリカ種の馬鈴薯を導入し、北海道中に広めたのでした。

彼は土佐の生まれで、親から男爵を継ぎました。グラスゴー大学で造船技術を学んだ技術屋でもありました。

明治39年、函館ドックの会社再建のために北海道にきました。また北海道で農園を経営し、土地に適した作物を探したのでした。

今の金に換算すると、ウン億円もする蒸気自動車を買い、日本のオーナードライバーの第一号になったということです。

平成の今、我々は露に濡れた広い芝生の前庭で、こんな豪快な人物を受け入れた、開拓時代の自由の天地、北海道を偲んだことでした。

 

北海道の最南端近くの松前半島、福島町は、横綱の町として売り出し中でした。

福島町は、なんと41代横綱千代の山と、かの58代大横綱、千代の富士との2人の横綱の出身地なのです。

大駐車場が用意されていて、時間さえ許せば、我々も見に入りたくなるほどの宣伝ぶりでした。

いったいに北海道では観光PRが盛んで、また道内に住んでいる人たちも、まめに観光に出掛けているように見受けられました。

 

今回の旅行中の山登りは、大千軒岳(1072m)、狩場山(1520m)、暑寒別岳(1491m)の3つでした。いずれも日本三百名山になっている山です。

 

なにせ北國の山ですから、本州の北アルプスだと標高2500m辺りで現れるハイマツが、ここでは標高1000m辺りから現れました。

そしてどの山でも、山頂近くに花の種類が豊富な素晴らしいお花畑があり、苦しい登高をねぎらってくれました。それだけ、頂上がなだらかだということです。どこもここも、とても良い山でした。

そして三つの山とも、国道を離れてから登山口まで長い長い林道がありました。とくに大千軒岳への林道は大層長い上に、傾斜が急な未舗装部分もあり、その運転の難しさは私の経験でも一二を争うものだと思いました。

これらの林道の様子から、沖縄と並んで北海道へも地域開発として多額の公共投資が行われていることが窺われました。

 

公共投資といえば、道南地方の西岸を走る海岸道路も、効果対費用の点では本州とはまた違ったものがあるようでした。

遠くから見ていると、険しい崖が海に落ち込んでおり、あんなところに道があるのかしらと思われるのです。でも近づいてみると、その険しい崖にトンネルが穿たれ、道は続いているのでした。

平成8年2月、積丹半島の豊平トンネルが崩れ、バスが押し潰され20名が犠牲になった事故がありました。

いうならば、あのときテレビに映った険しい地形が、それこそもう何十カ所も連続しているのでした。

その一つ一つの尾根で、いろいろの種類の岩が、いろいろの節理の模様を見せていました。

そのどれもが、もしも都会の近くにあったら、しかるべき名前のついた名所になるに違いない見事さでした。

 

このところ世の中は、経済効果、自由競争、自己責任論が幅を利かせています。

道路の費用を利用者が負担することを原則としたら、日本のかなりの道路は建設不能になるに違いありません。

広い視野と長期的な見通しから事業を進められる国家があると言うことは有り難いことなのでしょう。それに較べれば、住民投票などは2段階ほど低いレベルでの判断であろうと思います。

所詮はみんなが良ければ良いことですから、どちらを採るかは勝手ですが、事実は事実であります。

ともかく、途上国から留学に来ている若者をこの道路にドライブに誘ったら、日本ってなんて金持ちの國だろうと驚くに違いないと思いました。

 

松前町、江差町を訪ねました。どちらも静かな小さな町でした。

昔、蝦夷地防衛の押さえだった頃や、ニシンの大漁が続いたころには賑わった土地だったのでしょう。

鎌倉時代、安藤氏が幕府から蝦夷管領に任じられ、配下の豪族たちが松前地方に割拠するようになりました。当時、安藤氏は青森県の十三湊を拠点として、盛んな交易で繁栄を誇っていたのでした。

道南地方の原住民が、中央政府とのコンタクトを持ち始めたのは、その頃のことだったのだろうと思います。

14世紀に描かれた「諏訪大明神画詞」には、その頃中央政府側に協力的だったアイヌの頭領たちの姿が活き活きと描かれています。それに描かれた顔を見ると、ひどく異民族のように描かれています。筆者が倭人の姿も描いておいてくれたら、本当にどれほど違っていたかが分かるように思われました。

と言いますのは、広重による江戸の歌舞伎役者の顔だって、先入観のない外国人が見たら日本人じゃないと判断しそうに思うからです。

 

安藤氏が南部氏との戦いで弱った1456年、アイヌたちによりコマシャイン蜂起が起こり、戦乱は約100年も続きました。その後もアイヌの反乱は1669年のシャクシャイン蜂起、ロシアの南下の中でクナシリ・メシナ蜂起と続きます。

 

人類の形質を研究している学者たちの中には、日本の北と南の端に住む人、つまりアイヌと琉球の人は共通点が多いのだとする人がいます。そしてその人たちは、古モンゴロイド的(縄文的)な特徴を持っているのだそうです。その人たちを、ある時期、日本の中央部に大陸から入ってきた新モンゴロイド人(弥生的)が両端に押しやったのだとの説を立てています。

8世紀末からの東北での蝦夷との戦争は、その過程なのでしょう。

道南での戦闘の始まりが14世紀だったとすると、北進は遅々たるものだった感があります。

それよりもっと昔の先史時代のことは知る由もありませんが、中央政府こそなかったでしょうが、部族間では同じような争いがあったことなのでしょう。

 

どんな場合にも、国内の争いに外国が付け入るのは歴史の教えるところであります。

琉球では、あからさまに中国との取り合いでしたし、北ではロシアの影が濃かったのです。北海道が今の姿で存在するのは、徳川幕府がしっかりしていたからだと言えましょう。

ちょっと下った明治時代からの一連のアジアの国際情勢も、事件の裏にうごめく諸外国の思惑抜きでは説明できません。こんなことは第二次世界大戦で終わりにすべきであろうと思います。

なんとなれば、現在は移動手段の発達で地球はあまりにも狭くなりましたし、また人殺しの兵器も、核兵器の登場であまりにも強力になってしまったからです。

 

松前といえば、わが家では毎年年末に松前漬を作ります。スルメと昆布、それに当家では人参も刻んで入れます。それらを細く刻むのは私の役割です。味付けは家内がうまくやってくれます。

 

江差では開陽丸を訪ねました。

幕末、形勢、時に利非ずと思った幕府海軍副総裁榎本武揚は、蝦夷共和国設立を目指して咸臨丸、開陽丸で函館に脱出します。

        咸臨丸              開陽丸

 トン数    625トン           2590トン

 砲      12門             26門

 速力     6 ノット           10ノット

 機関     100HP           400HP

 受領     1857年           1867年

両艦ともオランダで建造されました。

開陽丸は、当時世界でも最も強力な軍艦のひとつでした。当然、幕府軍の旗艦でありましたし、鳥羽・伏見の戦の後、徳川慶喜はこの開陽丸で大阪から江戸に逃げ帰ったのでした。

ところが、北海道で反攻を目論んでいた開陽丸としては不幸なことに、

1868年(明治元年)11月、荒天のため江差沖で座礁、沈没してしまったのでした。

 

現在は復元のうえ係留展示され、当時の人々に、浮かべる城としての威圧感を与えた勇姿を見せていました。

 

・お花畑相見互いの老夫婦

 

?。ストーンサークル

今度の旅では、縄文時代のストーンサークル遺跡を3カ所見学しました。

最初に余市町にある西崎山遺跡へ行きました。

先日、東北で散々見て歩いたストーンサークルと較べると、この西崎山遺跡では狭い山頂に位置し、昔から埋もれることがなかった様子が、まず違っていると思いました。比較的狭い範囲に、石が沢山立っている感じで、現在の霊園に近い雰囲気がありました。

そのあと東に向かって走り、小樽市地鎮山遺跡を訪ねました。

ここのストーンサークルも山頂にありました。ここでは、大きな石12個が10m弱のコンパクトな楕円形に配置され、また中央に縦横2m、深さ1mの土の穴が一つ確認されている点でも、集団墓というより個人墓または家族墓の感じがしました。とくに海を見下ろす景勝の地にあるだけに、立地条件としては,ずっと後代に集団の長のお墓として造られた古墳と似た雰囲気です。

忍路(おしょろ)ストーンサークルは、直径が33mで、その平らな地形は東北の大湯遺跡のものとよく似ていました。それでも、大湯のものが大と小の石で造ってあるとすれば、ここ忍路のものは中型サイズの石だけで造られている違いがあると言えましょう。

小樽、余市地区には、大小80ほどのストーンサークルがあるのだそうです。そして東北地方より少し遅れて造られていて、この風習は東北から伝わったと考えられているのだそうです。

 

今年5月に東北地方で遺跡を見て歩いていて、今から4000年ほど前まであんなに沢山大きな遺跡があったのに、その後、バッタリなくなったのは何故なのかと疑問に思ったのでした。

それでそのテーマに触れた資料をいろいろ探して見ました。そして何人かの考古学者が、その辺りの事情について、かなり総合的、かつ大胆に発言しておられるのを見付けました。

それらによると日本の人口は8000年前の2万人から、4500年前の26万人まで増加したようだとのことです。

縄文時代前期以降のクリやドングリなどと鮭の食事は、カロリーも栄養バランスも大変良く、当時としては世界のなかでも恵まれた生活を営んでいたのだとのことです。

 

この生活形態では、人口の96パーセントが東日本に住んでいたとされます。その理由は、明るい落葉樹林が木の実を主食にする生活に適していたというのです。

それなりに恵まれていた縄文文化は、地球の寒冷化など何回か襲った環境の変化に会って、一再ならず崩壊したのです。学者は崩壊という強い表現を使っておられます。

 

主食にしていた木の実が、地球寒冷化で不足するにつれて、漁業に転じ、最後は狩猟に生きる道を求め、ついに滅亡していった有様を、発掘した遺跡を基にして追跡しておられる学者もいます。

縄文時代が、大自然に抱かれた牧歌的な生活だったなどとは、現代人の勝手な空想に過ぎないようです。

そこへ大陸から弥生文化が入ってきます。この新しい米作技術を持った生活では、人口は60万人と倍増しますが、その分布は逆転し、西日本に人口の95パーセントが住むことになったのだと言っておられます。

 

地球の温暖化とその防止が叫ばれて、もうかなりの年月が経ちました。縄文時代に寒冷化で崩壊した生活が、今度は温暖化で崩壊するのでしょうか。

炭酸ガスが増えている現実と、炭酸ガスの増加が地球を温暖化させることは疑いもありません。

したがって、全世界こぞってその重要性を叫び、対策を講ずることが合意され、誠に結構だと思います。

しかし、真実が理解されているかどうかは、また別の問題であります。

気象の専門家の唱える地球温暖化は、今週の暑さとは関係のない話なのですが、巷の挨拶にとっては大変気の利いた言葉として使われているようです。

こんなとき、地球温暖化の影響として異常気象が増加すると言われていることが、地球温暖化という言葉を何とも使いやすくしているのです。

そのお陰で、暑くても寒くても、雨が続いても日照りが続いても「地球温暖化で大変な世の中になりましたね」と付け加えれば、もっともらしく物知り顔ができるのです。

異常気象が増えたと主張することを目的にして、ミシシッピー、バングラデシュ、中国などで歴史にも稀な大洪水が起こったと並べ、情報の受け取り手をその気にさせるのは容易いことであります。

しかし考えてみれば歴史にも稀という表現は、問わず語りに、過去、歴史時代に入ってからも起こったことがあったと言うことではないでしょうか。

地球温暖化を論ずるとすれば、対象とする地域としては地球全体をとり、また期間も正確な判断を得られるように選ぶべきなのです。

そうでなければ、地域の選びようにによっては、大災害が増えたとも、減ったとも言えますし、期間の選びようによっては、温暖化しているとも、逆に寒冷化しているとも言えるのです。

例を挙げましょう。

名古屋では1959年の伊勢湾台風から、あれほど大きい台風はありませんし、1946年の三河地震以来大きな地震はありません。

温度上昇については、起点を18世紀中頃にとり「産業革命以降200年間で炭酸ガスの増加により0,7度上昇した」と称するのが、地球温暖化論の常識のようになっています。

しかし事実は、人類による炭酸ガス排出など関係ない400年前を起点にしても上昇は同じ0,7度でありますし、さらに溯って600年前を起点にとれば、現在は逆に0,7度ほど寒冷化しているとも言えるのです。

 

私は実は、地球温暖化についても、また異常気象の増加についても、判断の根拠にできるほどのデータを持ってはいないのです。

そんな素人判断ではありますが、正直のところ、今の温暖化を、ぞっとする思いで見ているのです。

それというのも、報道される現時点の地球温暖化の実績は、温室ガスの増加では説明し切れないほど大きいように感じているからなのです。

遠い昔、人類による温室ガス排出がゼロだった頃や、無視できるほど少なかった時期に、なぜ地球上の気温が何回も上がったり下がったりしたのか、ちゃんとした説明がないように思います。ということは、これからも地球の気温がどのように変化するか予測がつかないということなのです。

このような事態で、人間の力で地球の温暖化が止められると、納得させてくれる学者はいるのでしょうか。

止められないとすると、温暖化はどのレベルまで進むと覚悟すればよいのか、また、それに人類はどのよう対処するべきなのか、考えておくべきではないかと心配になるのです。

かっての地球の寒冷期に、エレファント・ファミリーがマンモスやナウマン象は絶滅するにまかせ、アフリカ象、インド象に将来を託した方式では、あまりにも人間らしくないではありませんか。

日本のトキや天然痘など、多くの生物を絶滅させた人類という暴君的な動物を、暑さに強いのや弱いのや、いろいろの種族を取り混ぜて、未来の研究者の研究対象として伝えたいとは思わずにいられるでしょうか。

 

申し訳ありません。どうも偉そうに理屈を捏ねすぎたようであります。

常日頃、人生最後の言葉として「子供たちは、みんな仲良く暮らしなさい。そして、お母さんを大事にするんだよ」など立派なことを言わないで、「犬に餌はやったかね」というようなことを、さりげなく言って死にたいと思っている、いい格好しいの私めなのですが。

 

・奥津城の眼下静もる夏の海

 

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