お目当て雪山・二度目の玉山

(2005/11/6〜12)

重遠の 入り口に戻る

日付: 2006/1/26


台湾の高い山ふたつ、玉山と雪山に登ってきた ことを書こうと思ったのです。ところが次から次からと蛇足が増え、できあがってみると7割がたが蛇足でした。どうしてそうなったかを考えてみると、台湾旅 行では、世界のほかの土地とは違って、思うことや考えさせられることが多かったからなのです。

わたしも76才とまぎれもない老人になり、世間とのずれが、日に日に大きくなってゆくのを感じています。決して、自分の考えを正しいとも、押しつけようと も思いません。ただ、こういう考えを持っている古い人間もいるのだということを、文字にしておこうかと思っただけなのです。
いままで私の紀行文をあるかたが読んで下さって、こんどの文はお前の変な意見が入っていなくて、淡々とした事実だけでとても良かったと、おほめをいただい たことがありました。
その点では、こんどのものは最低です。どうぞお許し下さい。

◆台湾へ
「ニイタカヤマノボレ」の電文で太平洋戦争は始まったといわれます。
この暗号電報は長崎県針尾にある135mの無電塔から発信されたもので、ハワイ真珠湾を攻撃せよという意味だったのです。
現在、日本の最高峰は富士山3776mですが、そのころ、日本で一番高かったのは新高山(にいたかやま)3997mでした。この山は、いまの台湾の玉山の ことで、標高も3952mと訂正されています。
2番目に高かったのが、これも台湾にある当時の次高山(つぎたかやま)3886mでした。現在は雪山と呼ばれています。
台湾の広さは、九州よりすこし小さいのです。でも台湾には、3000mを越える山が133座もあるといわれます。
日本とは逆に、西からユーラシアプレートがフィリピン海プレートの下に潜り込み、地面を押し上げて作った山々なのです。台湾南東部には海岸山脈という火山 脈もありますが、標高はそんなに高くありません。

わたしは22年前、1983年に玉山には登ったことがあるのです。
でも、そのときは、雪山には登りませんでした。
その後、台湾にいった人から登山の話を聞かされるたびに、標高はやや低いものの長丁場である雪山に登っていないことが、ずっと心に引っかかっていたので す。
こんど日本山岳会創立100周年を記念して、玉山、雪山登山計画が持ち上がりましたので、恐る恐る参加を申し出ました。

ずいぶん海外旅行も経験しましたが、基本的には同じ所は避けて、過去に行ったことがないところを目的地に選んでいるのです。
今回は雪山登山が主目的であるとはいいながら、玉山に二度登る機会が巡ってくるなんて、やはり長く生きたものだと思わずにはいられません。

2005年11月6日朝9時、中部国際空港に女性4名、男性13名の登山隊が集まりました。
チケットカウンターで、まずOリーダーがトラブルに巻き込まれました。
パスポートの残存期間が4ヶ月だったのです。たいていの国では、残存期間が3ヶ月あれば短期訪問については査証が免除になるのです。でも、台湾の場合、残 存期間が6ヶ月必要だというのです。法律ですから、なんともなりません。リーダーはすぐに神戸の領事館に走り、査証を取得され、旅の途中から合流されまし た。

名古屋から約3時間のフライトで台北正中空港に到着します。すぐマイクロバスで阿里山を目指します。
9年ぶりの台湾です。すっかり近代的になっていました。西海岸の平野には2本目の高速道路が開通し、何回か新幹線線路と交差しました。新幹線は今秋開業の 予定でしたが、一年延期されたとのことです。

   

台北、新竹、台中と、道のほとりには民家が途切れることはなく 続いています。台湾の西海岸の平野は、日照、気温、降雨の条件に恵まれ、沢山の人を養うことができる豊かな土地であることを示しています。
この日は阿里山泊まりでした。

◆ガイドさんたち

ガイドさんは二人、全行程についてくれました。一人は宿や車などを手配し観光解説をする一般ガイド、もう一人は山岳のガイドさんです。ツアーのガイドさん を「旅さん」、山のガイドさんを「山さん」と呼ばせていただきます。
「旅さん」は元阿里山鉄道の社員で、定年後ガイドになっているのでした。
阿里山鉄道会社が手がけていた植林事業について、ほかの人だったら聞けないような実情を聞くことができました。林業の現実は、気軽なエコ愛好者の夢のよう には甘くないようでした。

もう一人のガイド、「山さん」は65才です。じつに流ちょうな日本語を話します。なにせ発音に外人っぽさがまるでないのです。多分、日本語の母音を正確に 発音しているせいなのでしょう。
現在でも世界中に出かけ、言葉だけではなく、日本のことをとてもよく知っているのです。
阿里山を案内してくれたときに「日本人が桜を植えました。ヒカン桜はまあまあですが、ソメイヨシノはうまく育ちませんでした」と、「山さん」はいいまし た。
わたしは「このあたりに野生の桜はあるのですか」と尋ねました。そのとき、かれは「桜は日本のものです」と答えました。別の機会に、わたしは「北半球の温 帯には、桜の類が広く分布してますね。花の観賞用ではなくてサクランボが目当てですが」といってみました。
「山さん」は、その一言で総てが分かってしまったようでした。ヨーロッパの文学にチェリーが登場することがピンときたのですね。
大げさにいうと、このとき「山さん」とわたしは肝胆相照らす仲になったのでした。
仲間のおばさんたちが「山さんってお医者さんなんですって」と情報を入れてくれました。そんなことをタネに、「山さん」と、いろいろ話し合ったのでした。
「山さん」は中学で新聞委員をしていました。ちょっとした政府批判の文章を書いたのが当局の逆鱗に触れ、その後の運命が狂ってしまったのです。
当時の台湾では、もう何をやっても見込みがないので、アメリカ、ドイツで医学、とくに透析を学び医師の道を選ぼうとしました。でも、ついに志を得なかった ようです。結婚も50代まで持ち越されました。
そして医師の道を捨てたわけではないけれども、現在は台湾山岳協会の理事もつとめておられるのです。
「あちこちの外国で勉強するなんて、随分な、お金持ちじゃなければできないことじゃありませんか。お父様はなにをしていらしたんですか?」と聞いてみまし た。
「山さん」のお父さんは日本の東北大学を卒業し、台北の大学の先生だったのでした。生きておられれば、90才ぐらいのかたでしょう。「山さん」も子供のこ ろから日本語もよく話していたので、まったくクセのない日本語が話せるのでしょう。
「山さん」一家は、知日派エリートだったわけです。
「中学の新聞事件だって、始めから当局にマークされていたと思いますよ」といっていました。
そのときわたしは、大陸から入ってきた蒋介石率いる台湾国民政府によって厳しく言論が弾圧され、1949年から蒋経国が1987年に解除するまで38年間 もの長期に渡り戒厳令が施行され、日本色を一掃しようとしていたことを、自分勝手に想像していました。

◆水事情

最初の日、台北から高速道路を南下しているとき、周囲の民家の屋上にステンレス製らしい、きらきら光るタンクが乗っているのに気がつきました。
最初の印象では、トルコを旅行したとき、こんなように太陽熱温水器が乗っていたのを思い出しました。どこまでいってもおなじような風景ですし、山にさしか かると、谷間の日の当たらない家にも乗っています。
ガイドさんに聞くと、貯水槽だとのことでした。
あちこちの家で一斉に水を使うと、水圧が下がって出なくなってしまう、それで水圧が高いうちに貯めておき、水圧が下がったときにその水を降ろして使うのだ そうです。
電力会社で働いていたわたしには、その辺りの事情がよくわかるのです。電気の使用量が少ない深夜にダムに水を汲み上げておき、みんなが電気を使う昼間にそ の水で電気を起こしているのです。
台湾では、ある時間に集中して水が使われるのでしょう。難しくいえば水需要のピークを生じ、そのピークに対してまともに対応しようとすると、大きな貯水ダ ムや太い送水管が必要になるのでしょう。
気温が高い土地だから、水需要のピークが大きくでるのでしょうか? 
その辺りはよくわかりませんので、みなさまも想像なさって下さい。

後日、中央山脈から東海岸の宜蘭に降るとき、大変な急勾配をバスで降りました。人家が見え始めたとき、道端に黒いパイプが何本も横たわっているのが見えま した。最初、電線のように見えた直径3cmほどのパイプは、継ぎ目から水が漏れていたので配水管だとわかりました。どこか取水の堰から、各家庭がそれぞれ の配水管で持ち込んでいるようでした。
普通でしたら村の入り口まで太いパイプで運び、そこで各戸に分配することを考えると思いますが、ここでの取水方法は自己責任になっていました。
こうしておけば、何ごとが起こっても納得はゆくのでしょうが、工事費もかさみ、メンテナンスも大変なはずです。
これもなぜこうなっているのか、想像する楽しみの対象になりましょう。

台湾の東岸に位置する宜蘭市の後背の山は大変傾斜がきついのです。そして台風をまともに受ける位置にあります。
山肌の崩壊、洪水の痕跡、道路の破壊、岩礫の堆積など、谷の荒廃にはぞっとさせられました。
日本の、有峰から流れ降る 成願寺川、石鎚山から駆け降る加茂川などを、台風をまともに受ける場所に置いたらこうもなるかと思うほどでした。

◆阿里山森林遊楽区
2日目の朝は、朝食7時、出発7時30分の行程でした。
でもガイドの「山さん」は「折角、阿里山森林遊楽区にきたのだから、5時50分に集合し、6時50分にホテルまで帰ることにして、阿里山の森林を案内しま しょう。もちろん有志だけですよ」といってくれたのです。
とはいうものの、朝になってみれば全員揃うところが、われわれのパーティらしい意欲的なところです。
遊歩道があって、神木、千歳檜など名付けられた紅檜はじめいろいろの巨木が鬱蒼と茂った美林のなかを歩くようになっています。
大きな切り株が残っています。
「日本の植民地時代に伐ったんです」山さんは淡々と話しました。
すると、聞かされたほうは「日本が植民地時代に伐ったんですって!」と、たいそう感動されました。それで、屁理屈屋のわたしは、つい「人間は昔から木を 伐ってきたんですよ」と口走ってしまいました。

日本が豊かになり、自然保護が叫ばれるようになってから何十年かが経ちました。それは、まことに結構なことであります。
しかし、実生活が自然から遠ざかるに従って、因果関係がわかりにくくなっているのも事実であります。
そういう人は、営林署の職員がノコギリや鎌を持って森の手入れに出かけるのを見て、自然破壊にゆくと非難したりします。
また「何年も生きてきた木を伐ってしまうなんて可哀想に」などいう感傷的な声を漏らすのです。
そして、日本の商社が途上国の森林を伐らせ、自然破壊していると非難します。
木材を、育てる人、伐る人、流通させる人、使う人の生活連鎖には思い及ばないまで、社会が大規模になっているのです。

人間は過去に、森林に何をしてきたのか、いま何をしているのかを考えてみましょう。
人類は、住まいを作るため、そして暖をとり炊事をするため、いつ頃から木を伐って利用し始めたのでしょうか。それを知ろうとするのは考古学的な古さであり ます。人類は、その時代時代により、木材を利用しようとする意欲と、伐ったり加工したりする手段とで利用の形態を決めてきたのです。
日本は樹木の生育に大変適した自然環境を持ち、また、かなり昔から管理された森林利用を行っていました。たとえば木曽の山を管理していた尾張藩は「木一 本、首一つ」といわれる、厳しい管理を行っていたのです。
しかし、日本では手つかずの自然林で、極相の状態にある巨大な木は使い尽くされ、特大の社寺建造に使うため、台湾檜と呼ばれる巨木を渇望していたのは事実 でありました。
台湾の阿里山地域には、自然林があり檜の巨木が遅い時代まで残っていました。険しく深い森では食料を得て生きてゆける人の数は少なく、細々と生活していた 住民にとって、巨木の価値はまったくありませんでした。自分たちの小屋を造り、煮炊きするための材木こそ価値があったのです。また、巨木を意のままに伐る 技術も労力も不足していたのです。こうして、過去、何万年の月日、檜たちは生き代わり死に代わり、いたずらに朽ち果てていたのです。

いっぽう、時代が下るにしたがい、沢山の人が都市に集まって生活するようになり、巨木の需要が生じたのでした。
阿里山の場合、最大の問題は巨木をどうやって人里に運ぶかでした。
台湾の川は傾斜がきつく、また洪水と渇水とを繰り返し、とても木曽川のように筏を組んで里へ出せるような状態ではありません。
日本の時代になってから阿里山鉄道が建設されて、ようやく阿里山の巨木は人類の役に立つことができたのです。

人が木を伐るもうひとつ大きな目的は、農業をするため、あるいは家を建てるための場所を確保することであります。ひょっとすると、こちらの方が面積は大き いかもしれません。
人類は、約1万年前頃に農耕を始めました。それから、定住し、人口が急増したことは知られています。農耕開始は人類が餓死から逃れる大きな転機でありまし た。
原始的な農業として、森を畑に変える焼き畑農業はよく知られています。
英国を旅したとき、わずかに残った森を見ては、かっては一面の森林だったところが、現在牧場になってしまったのだと感じました。
また、つい最近も、わたしの住んでいる山崎川の川岸に残っていた、樫などの茂ったわずかな森が伐られ、マンションの建設が始まりました。
こんなようにして、畑、牧場、住宅地など、人間が土地を使うために森を伐ってしまった面積の率を想像すると、ヨーロッパ、アメリカ、ニュージーランドでは 90%を越えているだろうと思われます。ネパールでも、あの段々畑を見ると、相当の率になっていると思われます。
日本は木造家屋との共存で、植林という名の森が結構多いといってよろしいでしょう。
自然保護は、その理念はもとより大事です。でも同時に、人間との関わり合いについて深く考えないと、ただの感傷に終わってしまうのではないかと、阿里山の 巨木の森で考えたことでした。   

◆玉山

玉山に入るのには、入山許可をとっておくことが必要です。
玉山だけではなくて、台湾では多くの山地管制区がもうけられています。
これは治安維持、自然保護のほか、そこに住む少数民族の文化や生活を守るためとされています。また、中華民国山岳協会のガイドを登山者11名にたいしてひ とりつけるとか、とても日本で山にゆくように気楽にはゆけません。
どれぐらい面倒かというと、あの「地球の歩き方」という本で、その許可をとる手続きについて1ページ割いているといえば、わかっていただけましょう。
阿里山では、一般の車は手前の駐車場で止められ、あとは地元の車に乗り換えてホテルなど目的地にゆくように決められています。
また、玉山への登山口、塔々加鞍部までも、途中から地元の専用車でしか入れないようになっています。こうして2度乗り換え、標高2610mの登山口につい たのは9時でした。
登山口には、22年前にはなかった立派な道標が立てられていました。登山道も広くなっていました。道は玉山主峰から西峰、前峰と西に向かって続く尾根の南 の斜面につけられています。従ってずっと、右下が深い谷になっています。東海自然歩道なみの道ですから、緊張感はありません。でも、ガイド「山さん」によ れば、下山のとき、疲労と油断が重なって転落する事故が年に2〜3件あるようでした。落ちたら生きては上がれません。
汗を掻き掻き3時間ほど登り、西峰観景台でゆっくり昼飯を食べました。
わたしはいつものように菓子パン2個ですませました。朝、阿里山の宿で立派な弁当をもらってきた人たちの中には、口に合わなかったり、もてあましたりして いる人もいました。台湾でも自然保護が厳しく、自分で持ち込んだものは、全部自分で持ち出さなければなりませんから厄介です。
この直後、50mほど急な登りがあり、真昼の太陽に照りつけられ、一汗しぼらされます。
22年前は、道の途中で、下山する1パーティとすれ違っただけでしたが、今回は、1日90人枠に入った登山者たちと、ばらばら何度もすれ違うわけです。 ニーハオ、こんにちわ、ハロー、わたしはそのときの気分で口から出まかせに挨拶していました。相手もいろいろ言います。かなり頻繁に「ガンバッテ」と日本 語で激励されました。もちろん中国の人たちからです。
今日の目的地排雲山荘へ、あと30分というところで、ガイド「山さん」が「あとはフリーで」といいました。それまではグループで行動していたのです。常 に、少々ブレーキになっていた私はほっとしました。
完全なマイペースで排雲山荘到着、15時25分、ラストではありませんでした。
排雲山荘、標高3402m、西に向かって視界が開けています。素晴らしい雲海です。見事に真っ平ら、だれかが真顔で「あれ海ですか?」と言ったぐらいで す。雲海から頭を出している山々が、海に浮かぶ島そっくりの景色でした。
雲海の上は、抜けるような真っ青な空です。Tシャツの裾を出し、日にさらし涼しい風に吹かせ汗を乾かしました。着たきり雀、このシャツのまま寝るのですか ら。
雲海に沈んでゆく太陽を、泊まり客全員、小屋の上の階段で押し合いへしあいして眺めました。

   

翌朝、3時30分小屋を出発、ヘッドランプをたよりに石のごろ ごろした山道を登ってゆきます。例によって、本隊からは引き離されてゆきます。
サブリーダーのSさんがわたしについてくださいました。スピードはマイペース以上に上げられませんが、せめて気持ちだけでもと思い休みをとらずに登り続け ました。Sさんが見かねて、休んではとおっしゃってくださったので、一度だけ腰を下ろしました。
岩壁にとりつく前に、本隊と一緒になりました。「ほら、追いつきましたよ」とSさんは元気づけてくださるのですが、本当は、皆さんが日の出を待つのに、吹 きっさらしの場所に出る前に時間調整していたのだと思います。
岩壁では全体の速度が落ちるので、みなさんとほぼ同時に登頂しました。ときに5時18分、日の出までの寒い時間の始まりです。
360度の展望です。西の雲海は静かなのですが、東の太平洋側の雲海は多少乱れがありました。5時55分の日の出を見て、記念撮影にと尖った頂上に集まり ました。そのとき頂上は台湾の子供たちに占領されていました。ひとりひとり頂上の碑に寄り添っては、先生がシャッターを切っているのです。なんでもその写 真を送ると、写真入りの登頂証明が交付されるとのことでした。
途中で、われわれに順番を譲ってくれれば、数秒で終わることなのですが、強風の中、延々と待たされた寒さは印象的でした。
所詮、かれらは山の素人ですから、登頂したことに大感激で、いろいろ心くばりする余裕などないのでしょう。わたしも、子供たちのうちから、未来のクライ マーが生まれればいいなあと、祝福の気持ちで見ていました。
そうして待ったお陰で、やや太陽も登り、西の雲海に写る玉山の影、影富士ならぬ「影玉山」をカメラに収めることができました。

   

帰りの明るい道はなんと歩きよいものでしょうか。ただ暑さとの 戦いのみで、12時40分、登山口の塔々加鞍部に帰り着きました。
塔々加遊客中心(タータカ・ビジター・センター)で昼食しました。ガイドの「山さん」が「ここの女の子たちは言葉が通じない。フィリピンとベトナムから働 きにきているんだ」と話していました。台湾は豊かなのです。
22年前はここから急降下し、約20km歩き、苦闘の末たどりついた東埔温泉に、このたびはバスでゆきました。おなじ玉山北峰が、遠ざかり近づきして、い つまでも見えていましたから、斜面を行きつ戻りつ下っていたのでしょう。2時間強で東埔温泉に着きました。
名古屋で別れたOリーダーが査証をとられ、ここの宿に先行しておられました。台北からタクシーをとばしてこられたのことでした。

◆昔話
1983年、いまから22年前のことです。
深田クラブ創立10周年行事で、わたしは玉山に登っています。
そのときのことを少し振り返ってみます。深田クラブというのは、深田久弥さんの文学や山への接し方を愛し、親睦と情報交換をおこなう山岳会なのです。日本 中に約130名の会員がいます。
前回の玉山隊は7/30〜8/6の7泊8日の旅でした。
今回は11/6〜11/12の6泊7日でしたから、比較できるように表にしてみました。
こうして較べてみると、今回の行程では登山に全力を集中し、見物が少なく、なんとなしに日本人にとって台湾旅行が珍しくなくなってきた様子がわかるように 思います。また、台湾の道路事情が格段に良くなっているのもわかっていただけると思います。

  深田クラブ 
1983/7/30〜8/6  13名
日本山岳会東海支部
2005/11/6〜12  17名
第1日 羽田ー台北 名古屋ー台北ー阿里山
第2日 台北ー東埔山荘 阿里山ー塔々加鞍部ー排雲山荘
第3日 東埔山荘ー塔々加鞍部ー排雲山荘ー  玉山ー排雲山荘 排雲山荘ー玉山ー塔々加鞍部ー
東埔温泉(車)
第4日 排雲山荘ー塔々加鞍部ー
東埔温泉(徒歩約20km)
東埔温泉ー霧社ー梨山ー
シカヨウシャーシチカ山荘
第5日 東埔温泉ー日月潭ー台中(列車)
ー台北
シチカ山荘ー雪山ーシチカ山荘
第6日 台北 シチカ山荘ー棲蘭遊楽区ー台北
第7日 台北 台北(故宮博物館)ー名古屋
第8日 台北ー羽田  



当時、玉山の山頂の標高は3997mといわれていました。その頂きに、大陸への反攻を願い、西方を望む、干右任先生の3mの銅像がたてられ、合計 4000mになるとの話でありました。
今度いってみると、その銅像は取り払われていました。また、山頂直下のコンクリートの階段も撤去されていました。
そんなことからも、最近の自然保護に対する台湾の取り組みは、日本より厳しいことを感じました。
3000m以上のピークには、観光で車が頂上付近まで上がるひとつのピークを除いて、すべて入山許可が必要です。玉山は入山者数が、日曜日から木曜日まで は一日90人、金曜日と土曜日は120人と制限されているそうです。
石原慎太郎氏が台湾を訪れたとき要望して、日本人枠を24名とったといっていました。希望者が多くて、当選率は10パーセントだともいっておりました。排 雲山荘は満員でした。満員といっても、ひとりあたりのスペースはちゃんと確保されています。世界的に見て、日本の山小屋のように出たとこばったりで詰め込 むほうが特殊なのだろうと思います。
前回は排雲山荘に泊まったのは、われわれだけでしたから、台湾でも登山の大衆化は恐ろしいほどです。もっとも、このあと登った雪山では、小屋に2泊しまし たが、一晩はわれわれだけでしたから、山の賑わいも最高峰の玉山だけは特別だろうと思うのです。
また、前回は大きな鍋を持ってゆきました。食料も隊員ひとりあたり5kgほど分担してかついだのです。今回は担がずにすみました。
登山道は昔から立派でしたが、こんどいってみたら、さらに立派にになっていました。橋も高低差の少ないような配置で頑丈に作られていましたし、また、パイ プで作られた手摺りは軽自動車がぶつかっても跳ね返すぐらいの太さでした。
日本語を話す人は、すっかり少なくなっています。戦後40年と60年の違いは、この日本時代の人たちの退場という面では決定的です。遠からずゼロになるの は目に見えています。

◆好きです台湾
今回の登山隊に参加して感じたのは、日本人が台湾に好意を持ち、また台湾の人も日本にたいして好意を持ってくれていることで す。
もともと山男には、持って回った話し方をしない人が多いのです。
今回の旅のなかでも、端的に「中国嫌い、韓国嫌い、台湾大好き」と口にする人さえいました。
また、太平洋戦争で日本に勝った台湾の総統だった蒋介石が「徳をもって怨みに報ず」として、戦後賠償を求めず、また、日本兵を早期に帰国させたことに感謝 する声も聞かれました。
台湾人ガイドさんも「この水力発電所は日本になってから造ってくれたのだ」、「日本人が品質の良い桃を栽培することを教えてくれた。そのままでは虫にやら れることがわかったので、土着の桃の木が育ったあとに接ぎ木して成功した」など素直に口にしてくれました。

どこの国とも仲良くなりたいのに、どうして好きな国や嫌いな国ができてしまっているのか、考えないわけにはいけなくなってしまいました。

76年間浮き世の空気を吸ってきたわたしは、ある国民が親日的だとか反日的だとかいうとき、基本的に以下のようなことを考慮するべきだと思うのです。

まず、国というものは国民の集団だということです。
国民一人ひとりの人間性についていえば、日本人も韓国人も中国人も差はありません。また、集団として考えたときには、国民のうちには、良い人も悪い人もい ます。そして誰もが知っているように、ひとりの人の心の中にも天使と悪魔が住んでいて、ときどき悪魔に負けたりもするのです。

個人の行動の目的は、自己の欲望を充足させることです。
AさんがBさんを救うために命を捨てたときのことを考えてみましょう。Aさんがが一番大切にしたのは自分の心です。そして、その次がBさんの命、Aさん自 身の命の大切さは、そのあとの順位と位置づけたことになるのではないでしょうか。
さて、地球上で繁栄している生物は、いずれも群れを作っています。
ゴリラ、チンパンジー、ニホンザルなどの社会はよく知られています。
カラスだってイワシだってアリだって、大きな群れになっています。
人間もまた、家族、社会、国家などいろいろなレベルの群れを作っています。個々の欲求を持った人間の集団ですから、国の内外で紛争は絶えません。高等国際 問題研・年次報告 によれば、世界各地の紛争による死者は年間8万~10万8000人だそうであります。
このように現在の国家のありかたや国際関係に、問題がないわけではありません。でも、地球上でこれほど生息地を広げ、個体数が増えている生物は人間のほか にはありません。生存に適応した形態であることは、疑う余地はありません。

いずれにしても日、中、韓、3つの国に、人間として、また国としての生物学的条件には違いはありません。
むしろ、この3か国の国民の慣習や考え方は、距離が離れた西欧よりは共通性が高いのです。

どの国にも、親日的な人とともに反日的な人もいます。そして、そのどちらでもない人はもっと多いのです。
実際、地球上にすんでいる60億人のうちほとんどの人は、日本について特別の関心がないといってよいでしょう。
そんな人たちが、なにかのきっかけで好き嫌いの判断をしなければならない立場に立たされると、情報を求めることになります。
その主たる情報源は、国民レベルでいえばテレビでありましょう。
そして情報源をマスメディアに頼っている人たちが、どのように行動するのかを、過去の日本が経験した例で見てみましょうか。
それは、「鬼畜英米」と報じられれば「撃ちてし止まん」と銃を取り、「地上の楽園」と讃えられれば地獄同様の北朝鮮へでも移住するよりしかたなかったので した。要するに報道次第なのです。
そして、多くの国では報道は自由ではなくて、政府にコントロールされているのです。

さて、まず「台湾大好き」から考えてみましょう。
台湾にわれわれと同じ現生人ホモサピエンスが住みついたのは、約3万年前だと思われます。そしてそれから2万9千年余は、ずっと台湾人という意識はなく、 もっと小さなグループ単位で生活していました。
15世紀、大航海時代の幕開けとともに、先進ヨーロッパ各国が海外進出を開始しました。種子島銃が日本にもたらされたころ、まずポルトガル人が台湾に現 れ、この頃から島単位の住民集団を意識するようになったのでしょう。わずか500年ほどまえのことです。
その後、台湾にはオランダ、清国などがそれぞれ圧力を加え、一時、17世紀には鄭成功が台湾島の統一をなしとげました。
そののち約200年間の清国支配を経て、日本の領土になりました。
伝統的に、中国の支配体制は朝貢制度であります。周辺国の元首は、中国皇帝からその地位を認められた一段低い地位なのです。中国皇帝に貢ぎ物を収め、返礼 の品物を受け取っていました。
このような支配体制は、かなりゆるやかな周辺国の取り込み方であります。そのうえ、台湾が日本領になる前の時期には清国の国力は衰えていて、一地方に過ぎ ない台湾に寄与できる態勢ではありませんでした。
1895年、日清戦争の結果、台湾を日本領とした頃の日本は、欧米列強の植民地政策から多くを学んでいました。台湾の住民から搾取しようとするものではな く、まさに日本の一つの県とし、本家の日本人と同じ日本国民のひとりとしようとするものでした。
いわば非常にまじめな考え方で、鉄道、道路、電力などのインフラの整備をはじめ、教育体系、医療体系、産業の振興など、日本並みにしようとしました。そし てその結果、中国時代よりはるかに近代化が加速されたのでした。
もっとも、日本化を進める上で、住民にとっては従来の習慣とマッチしがたいこともありました。極端な例を挙げれば、首狩りの風習を残していた部族だって あったのでした。
また、人間社会に紛争はつきもので、清国支配下の台湾でも叛乱は日常茶飯事でした。「三寒四温」ならぬ「三年小叛、五年大叛」といわれるほど、清国も手を 焼いていたのです。日本の時代にも、いくつかの紛争は避けられませんでした。

1945年、日本は太平洋戦争に敗れ、台湾島は再び中国の領土となりました。
その後、中国本土で毛沢東に敗れた蒋介石は、1949年、台湾に逃れ、支配することになりました。
それ以前から台湾に住んでいた人たちを、本省人と呼びます。それにたいして、蒋介石とともに本土から移り住んだ人たちを、外省人と呼びます。人口では本省 人が約85%、外省人が約15%だといわれます。
日本に勝ったとはいっても、本当に勝ったのはアメリカなのですから、乗り込んできた中国軍の士気は低く、また行政の腐敗もひどく、本省人たちの評判を落と したのでした。そんな中で、本省人を支配するために大変強引な締め付けかたをしたのでした。
38年間も戒厳令を敷き、日本色を一掃しようとしました。法律を停止し、軍が全権を握ったのです。エリート層を中心に2万8千人ともいわれる本省人が闇に 葬られたといわれます。

そんな歴史を持つ台湾の人の対日感情を、ひとまとめにして結論づけることはできません。
外省人による支配が、日本時代よりも悪くなったと感じ、〈犬が去って豚がきた〉という感情を持っている本省人たちと、なんでもかんでも日本人を悪者にしな ければ立場がなかった外省人とは、まったく反対であります。
歴史は動いてゆきます。外省人総統の時代は終わり、その頃の記憶のある人々はつぎつぎ世を去ってゆきます。

   

台湾の国は、台湾に住んでいる一人ひとりの人が集まった集団で す。一人ひとりの人が、いまどのように感じているのか、そしてこれからどう感ずることでしょうか。
ともかく台湾と日本、お互いに現在抱いている好感情を育ててゆきたいものです。

つぎは日本人の「韓国嫌い」「中国嫌い」です。
日本人が嫌っている理由は、相手が「日本はけしからん」と非難しているからだろうと思うのです。
それでは、なぜ両国が「日本はけしからん」と非難を繰り返すのでしょうか。

両国の行動は、人類の歴史のなかで特別なものではありません。歴史を紐解くと、地球上では、いつでもどこでも、まったく通常に起こっていた現象でありま す。
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア・・・・、地球上にある限りの国は、相手国と、ある時は友好的に、また別の時は敵対してきました。まさにそ れが国の外交というものなのです。

日露戦争のころ、ロシアと戦う日本に対して、イギリス、アメリカは友好関係にありました。
第1次世界大戦では、日本はイギリスなどと友好関係、ドイツとは敵対関係でありました。
第2次世界大戦では、日本はイギリス、アメリカと敵対、ドイツ、イタリアと友好関係でした。2つの大戦のみならず、永年、フランスとドイツは宿敵同士の運 命にありました。
8世紀、朝鮮半島は百済、新羅、高句麗の3国に分かれていました。百済は新羅に攻められ、日本に援助を要請しました。新羅のバックには中国の大国、唐がつ いていました。新羅はその力を借り、百済、高句麗を征服しますが、結局、最後は唐の領有になりました。

15世紀以降、ヨーロッパ列強は日本にも食指を伸ばしてきました。
ポルトガル、スペイン、オランダ、そして幕末に至ってアメリカ、イギリス、ロシア、フランスが相次いで登場してきました。
そのなか、たとえばフランスは幕府に接近し、イギリスは島津藩に擦り寄りました。そしてお互いに、相手は日本を植民地化しようと意図しているのだと中傷 し、友人ぶるのでした。
歴史の教えるところによれば、世界各地で、もともとA国内で敵対関係にある二つの集団が、それぞれB国、C国の甘言に乗り、その力を借りて相手を滅ぼそう とし、結局は侵略された例は多いのです。

外交も戦争も、利害と感情の衝突であります。それが言葉によって戦われる場合を外交と呼び、武器によって戦われる段階を戦争と呼ぶのです。
外交でも戦争でも、双方の当事者はお互いに、常に自分は正義に立脚していると主張するのです。

韓国の初代大統領李鐘晩は、戦勝国アメリカが、彼が反日のリーダーであるという理由で据えたのでした。
アメリカがイランを押さえようとした時期には、イランの敵であるという理由で、いっときイラクのサダム・フセインを支持したのと同じ手法です。
こんな行為は、なにもアメリカに限ったことではなくて、人類の歴史のなかで普遍的な現象であります。

中国は人口が13億人、面積は日本の26倍もある大国であります。
それぞれの地域で、多様な生き方をしている大勢の人たちをまとめることは、小国が国民をまとめる場合とは桁違いの難しさです。
おまけに。神ならぬ身の人間が作っている社会では、民主主義を始めどんな政治形態でも多くの欠陥を持っているものです。とくに中国がとっている共産党の一 党独裁体制は、神ならぬ身の人間に、神であるかのように権力を集中させているのですから、相当重度な救いようのない政治体制であります。
そのなかで貧富の差が拡大し、地方行政の不正や腐敗にたいして、住民の不満が爆発寸前だという報道が頻繁に目に触れます。

戦勝国の国民は、敗者に対して、客観的には正当化できかねるほど過大な優越感を持つもののようです。
日本が日露戦争の戦勝国だったころ、客観的に見れば大成功だったロシアとの講和条約を、大衆はまだ不満足であると感じていました。そして日比谷公会堂を始 めとし、日本各地で焼き討ち事件を起こし、政府を攻撃したのでした。
戦後60年経った今も、まだ戦勝国である国の為政者としては、敗者に要求を突きつけ、国民から支持を得ようとする事情は理解できます。

バグダッドに米軍が突入し陥落直前だったときでも、イラクの宣伝相は記者団の前で「わたしは役所からここまで歩いてきたが、アメリカ軍など見なかった。わ れわれは勝利を信じている」とシャーシャーした顔で話していたのをご記憶でしょう。立場というものはそういうものなのです。

両国の政府が、自国内の治安維持に腐心している立場も察せられます。
自国民と日本人の感情を天秤にかけて判断しなければならない問題です。
しかしそうはいっても、お互いの国民が言い募っているうちに、ひょっとして引っ込みがつかなくなる危険性もあるわけです。
日本としては、100年前、相手にも世界各国にも、言うべきことも言わず、隠忍自重したつもりでいるうちに、井の中の蛙になってしまい、ついに堪忍袋の緒 を切って大惨禍を招いた愚を、二度と繰り返してはなりません。
弁舌より腕力の国になってしまって、不言実行を美徳にするなど最低であります。中国、韓国、北朝鮮が展開している弁舌作戦を師としなければなりません。日 本も敗戦から60年たった国にふさわしい、骨太な弁舌外交を模索してもよろしいでしょう。
もっとも、日本が正当な主張をすることは当然として、一歩ゆずって、相手政府の顔を立ててもいいようなテーマを考えてやることも、大事な気配りでありま しょう。

ともかく、どんなことがあっても戦争だけは絶対に避けるべきです。
しかし現実には外国はあくまで外国です。なんのために中国は武力の大増強をおこなっているのでしょうか。言葉のやりとりに止まっている保証はありません。
わたしは、現在の日本のように、自分たちで政府を選ぶことができて、言いたいことが言える自由な世の中が好きなのです。また、いまの年金制度のもとで、余 生を送ることを期待しています。いまさら自由のない国の支配を受けたいとは思わないのです。

一見,アメリカが日本を守ってくれそうですが、アメリカとても外国ですから、自国の利益につながらないことにまで犠牲を払うことを、国民が許してくれない こともあり得ます。ましてや、アメリカ以外の国や国連に、われわれの運命を託するわけにはいけないでしょう。
わたしたちは、平和ボケから目を覚まし、自分が強くなるのか、それとも国際社会に守ってもらえる価値のある国になるのか、実効ある手段をとることが肝要で す。

◆山岳ドライブ
4日目は東埔温泉から雪山の山小屋、シチカ山荘までの行程です。玉山から雪山までは、北北東へ100km強の距離があります。
途中、日月潭の近くを通過するとき、水力発電所と巨大な送電線が見えました。最初の発電所は1934年、日本だったころに作ったものであります。
最初の規模は10万キロワットだったようです。わりと最近になってから下池を作り、日月潭を上池とする揚水発電所を作ったという記憶がありました。揚水発 電所ならば大容量のものができますから、巨大送電線はそのために新しく建設されたものだと思われました。
なんとかその規模を知りたいと思ってインターネットで調べてみたのです。
どうも100万kwと160万kwの、ふたつの揚水発電所があるようです。キロワットを誤ってキログラムと書いてあるようなサイトですので、どこまで信用 できるか保証できませんが。
ともかく、探しているうちに、日本人観光客が書き込んだ気になる文章にぶつかりました。それには「この発電所は日本が作ってあげたのだそうです」とありま した。
当時、台湾は日本でしたから、日本人が日本のために作ったのであって、木曽川や利根川に作ったのとおなじことだったと思うのですが。
昔のことを、昔の人の考え方で見ることのできる人は、もう何人もいなくなったのだなあと感ぜずにはいられませんでした。

ついでに調べましたら、台湾の電力会社が販売する電気エネルギーの比率は、水力5%、火力60%、原子力24%、購入電力(火力と思われる)11%となっ ています。
原子力発電所の開発が政争の具に供され、何度かストップの憂き目にあい、そのために電力は不足気味になり、取りあえず間に合わせるため購入電力に頼ってい るようです。

バスは山を登り始め霧社に着きました。標高は1200mほど、昔は山奥の孤立した生活圏だったのでしょう。
ここは1930年に起こった霧社事件で有名であります。外来の日本人が日本語を強制するなど日本化を強い、地元民の反感は高まっていました。事件の直接の 発端は、日本の警察官が、結婚式の祝宴で酔漢に手を引いて誘われたのを、不潔だと振り払い、ステッキで叩いたことがきっかけになったとされます。
日本人、女子供まで300人が惨殺されました。日本は軍隊を出動させ、また親日現地部族も参加させ、地元民約1000人を殺す報復に出たのでした。
外省人の統治時代には、日本人の敵は味方なのですから、霧社事件の首謀者モーナルーダオは抗日英雄とされました。現在のモニュメントはその時代のものであ ります。日本人の墓は、しばらく参拝禁止になっていましたが、いまはまた整備されています。時の流れは止まることはないのです。

   

わたしたちが尋ねたときは、ちょうど地方選挙の時期でした。日 本のポスターどころではない大きな写真の立て看板が氾濫していました。候補者の事務所は、小遊技場のように飾り立ててありました。
ガイドの山さんの言によれば、台湾の人は選挙大好きなのだそうです。
住民の三分の一が選挙事務所に詰めるのだそうです。そして投票開始の2時間前から大宴会が始まるのだそうです。もちろん商売も、学校もお休み、酔っぱらい 運転、交通事故頻発とてんやわんやだといいます。

このあと約5時間ほど標高2000m前後の山岳道路を走ります。かなり人が住み、高原野菜などを作っています。斜面の中腹に居住地があり、南アルプスの南 端、あるいはネパールの段々畑を思い出させる土地利用の状況です。
最近つくられたようなレジャー設備や別荘地もありました。台中市などの大都市から、わずか100kmかそこらで冷涼な山の上にこられるのです。
この高原も、人が入る前は森林に覆われていたはずの土地なのです。森が切り開かれ、こんな牧歌的な人の営みの場になっている景色に、わたしの心は和むので す。

標高約2200mの大水池駐車場から15時過ぎに歩き始め,暗くなりかかった17時、シチカ山荘に入りました。
食後、外へ出ると、満点の星空でした。東の空にひときわ赤い火星が輝いていました。それを目標にして、すぐ左上のスバルなど教え、知ったかぶりを披露した ことでした。

◆雪山
シチカ小屋を夜中3時に出発しました。真っ暗な山道をヘッドランプを頼りに登ってゆきます。毎度のことですが、足の遅いわたしは、あっという間に本隊に取 り残されてしまいます。でも、わたしのペースにつきあって下さる方もおられますし、とくにこの日は、ガイドの「山さん」がゆっくりしてくれたので、精神的 に余裕ができました。この日の登頂は、こんな皆さんのおかげで達成できたと感謝しているのです。
雪山東峰(3201m)の登頂が、ちょうどご来光に間に合うように出発したはずでしたが、遅い組のわたしたちでも充分余裕がありました。山頂から中央尖 山、南湖大山などの眺めを楽しみました。
ここから緩い下りに入ります。なにせ今日はピーカンの好天、正面に雪山らしい丸い頭が3つ見えます。「山さん」は一番奥のが本峰だと教えてくれました。最 初のピークは稜線から急勾配で立ち上がっています。
ところが道は右下に見える小屋に、ダラダラと下ってゆくのです。下りがあることは、概念図でわかってはいました。でも、現実の地形を見ていると、稜線を外 れて下ってゆくのは気が重いものです。その分あとで登りが増えますし、復路には必ず登り返さなければならないからです。せっかく貯めた貯金を払いもどして いるような気分とでもいったらよいでしょうか。

   

到着した小屋の名前は三六九小屋なのです。事前に「山さん」か ら三六九小屋に9時までに着かない人は、登頂は諦めてもらいますと宣言されていました。でも、全員、7時には到着し、ここで高度馴化のため約40分と長め の休憩をとりました。
このあと、カンカン照りの急斜面を登り切ると、森林帯に入ります。
すっと背の高い、冷杉の森の中の緩い登りを辿ってゆきます。
日本の高山では、コメツガと、それよりやや上層のシラビソが代表的な植生です。これと対応して北海道ではエゾマツとトドマツがあります。このカップルは相 当普遍的のように思います。ここ台湾では鉄杉と冷杉になっているようでした。
途中、かって登山者が熊に襲われたという地点を通過しました。話の様子では、熊の種類は月の輪熊に似ているようでした。
ついに、話に聞いた氷河のカール地形の底(標高約3600m)に着きました。ここからは高木はなく、スプーンですくい取ったような岩壁につけられた登山道 を、先行者たちが登っているのがよく見えました。
このカールは一息では登れませんでした。途中一休みし、同行者からいただいた名古屋銘菓「二人静」を水で喉に流し込みました。
やがて、8時間の苦闘の末「雪山主峰」と刻まれた大きな石の碑がある、広い頂上(3886m)に到着しました。
ここは、台湾島の北端から三分の一南下したところです。この雪山山脈から四方へ流れ出る水が、台湾に住む70%の人の命を支えているといわれます。


好天に恵まれて360度の展望を楽しみました。頂上付近には矮 性化したシャクナゲの群落がありました。いまは花の時期ではません。どんな色の花なのでしょうか。
下山路で、16時30分、最後の休憩をとりました。出発の合図のあと、念のため番号をかけて点呼をとりました。9,10,11のあと12をわざと飛ばし て、13とおどけた声を出したのはリーダーの0氏です。「減るのはいかんけど、ふえるほうなら結構じゃないか」などいって、笑わせてくれるのです。
全員登頂を果たしたパーティの、帰り道の満足感をわかっていただけますでしょうか。
暗くなる前に小屋に入ろうと、全員一団になってざっざっと下ってゆきます。みんな口には出さなくても、小屋の屋根が見えやしないかと、前に、そして下へ と、目を走らせているのでした。
夕闇迫る17時、余力を残したまま小屋にはいることができました。
この日は、往復14時間の山行でした。

雪山の登山基地、シチカ山荘の親父さんは、やせ形で、ちょびひげを生やし真っ黒に日焼けした男でした。
あるとき、ガイドの「山さん」が「かれのアダ名教えようか」といいました。
みんなが「なんていうの?」と声を揃えると、山さんは「キョウサントウ」と答えます。「そのココロは?」「なんとなしに人相が悪いじゃないですか。かれに わかっちゃうかな」と、おどけてみせました。
別の機会ですが、山さんは、もうひとつアダ名をばらしました。それはポーター兼ガイドの郭さんのことです。郭さんは道路工事の監督さんが定職です。すごい 力持ちで、重い荷物をしょって、ついて行けないほど早いスピードで歩きます。かれは、漢民族が17世紀に大陸から台湾に入ってきて、僻地に追いやった、先 住の少数民族なのです。
台湾では、いまや少数民族は人口のわずか2パーセントです。郭さんは、たしかアミ族だといわれたと思います。顔つきが漢民族とは違います。なにか、アメリ カインディアンに似た風貌をしています。
「郭さんのアダ名はいわないことにしようかな」と,思わせぶりにつぶやきました。だれもなんともいいませんでしたが、「山さん」は、わたしの知りたそうな 表情を読みとりました。そして小声で「ドヒ」とつぶやきました。
聞こえたのはわたしだけ、そしてドヒとは「土匪」のことだとわかったのも、わたし一人だろうと思います。数十年前、地方の匪賊を土匪といったものでした。 匪賊とは盗賊の集団(ゲリラ)のことです。いずれにしても、いまでは、ほぼ死語になっています。
こんなように、台湾で古い昔のニッポンに会ったような気分にさせれたことは何回かありました。

◆台湾の地形、気候
九州から南西に南西諸島が点々と伸びて、その先に台湾という島があることになります。
日本では地震のたびに、つぎのように解説されます。
ユーラシアプレートの東の端にある日本の下に、東から太平洋プレートが4cm/年のスピードで、また、南からフィリピン海プレートが5cm/年のスピード で沈み込んでいます。そして、その圧縮力で造山活動が起こり、歪みが溜まった岩盤が破壊するのが地震なのです。
こんど勉強して始めて知ったのですが、この関係は西南諸島までのことのようなのです。
台湾では、逆にユーラシアプレートのほうが、台湾島の東で下に潜り込んでいるのだそうです。7cm/年で進むフィリピン海プレートの先端にある火山性の岩 石に、ユーラシアプレートの上に乗った地層が衝突し、南北方向の地面の皺になり、それが集まって台湾島を造っています。こうして、東側ほど古い地層で、西 側は新しく積もった地層になるわけです。
ユーラシアプレートは花崗岩などで軽く、太平洋プレ−トは玄武岩で重いのですから、重いほうが下に潜るのが素直なのですが、台湾のよ うな逆のこともあるようなのです。そういえば、ニュージーランドでも、北島は日本型、南島は台湾型ですから、地球もなかなかの、ひにくれ者であります。
主な地層は中生代の後半らしく、そうならば数千万年前のもののはずです。しかし、わたしたちが登った玉山や雪山は、そんな新しい岩には思えませんでした。 3000mクラスはもっと古い層が露出しているのではないかと思います。山脈はすべて南北方向に連なり、島の東側のものが高く、西側の平野に向かって低 い、丘の列になっています。

玉山は、北緯23度27分の北回帰線の、ほぼ線上に位置しています。
北回帰線は北半球で太陽が一番高くなる日、つまり夏至に太陽が頭の真上にきます。これより北、たとえば日本では太陽は常に頭上より南にあるのです。
これより北を亜熱帯、南を熱帯と呼びます。この線を境に植物、町並み、人の生活がまったく変わると書いた旅行案内がありますが、どうでしょうか。

     1月の平均気温    8月の平均気温
 台北     15.0      28.8
 恒春     20.1      27.8
 名古屋      3.7      27.1



ご覧のとおり、熱帯は冬が寒くないだけで、夏がとくに暑いわけではないのです。蘭など育てるときの参考になさってください。
今回訪ねた11月の台北の平均気温は20.8度、名古屋の6月、あるいは9月とほぼ同じです。そんな時期の富士山を想像してみて下さい。雪は降りません。 山頂で、ご来光を待つ時は寒いのですが、ほかの道中はむしろ暑さとの戦いだったといってよいでしょう。
気温が高いので、玉山の森林限界は標高3600mあたりだといわれます。日本の北アルプスより、約1000mは高いのです。人が手を加える前は、この高さ までの土地は、ほぼ森林に覆われていたはずなのです。

降水量はおよそ名古屋の50%増しで、それも6月から9月の台風期に集中して豪雨が降ります。今回はずっと好天に恵まれ、帰国する日に台北で時雨れに会っ ただけでした。

1999年9月22日、台湾中部でM7.6の大地震が発生し、死者・行方不明者は4800人にのぼりました。
このM7.6は内陸地震としては20世紀最大のものだそうであります。(阪神淡路大震災は7.2)

ここまで述べてきたことをまとめてみますと、プレートの衝突速度が速く山は険しい、地盤形成の時期が新しく固結が進んでいない、台風の豪雨が襲い浸食が激 しい、6年前の大地震などで地盤がゆるんでいる、ということになります。

わたしたちが台湾で通過したのは、堆積岩の地域だけでした。もともと、火山地域とは景観が違います。その景観は、わたしがいままで訪ねた山々を思い出して みると、日本の南北アルプスがもっとも似ているように思いました。
ただ台湾ではそんな山々の斜面が、いたる所で崩壊し、痛々しい姿をさらしています。
かって、日本に始めてきたヨーロッパの地質学者が日本の川を見て「これは川ではない。滝だ」といったという話が伝わっています。確かに、パリのセーヌ川、 あるいはロンドンのテームズ川の、水量豊かな、とうとうたる流れと較べれば、東海道筋の大井川、天竜川は、石ころだらけの広い河原に、水がちょろちょろ流 れている荒れた川に見えます。
わたしが見た台湾の川は、先程あげたいくつかの条件が原因となり、山や川がひどく荒廃していて、日本の荒れた川に、さらに輪をかけたものだと申せましょ う。その様子は、源流域の川を、直接人口の多い里にくっつけたみたいだとも表現できると思います。

植生は、日本から距離的に近いので、日本と同じ種類のものが目につきます。大まかにいえば、シダやサトイモ科の類がやや多いようだと感じました。
いずれにせよ、われわれが訪ねた11月では、山を下って車にゆられていると、日本の山から帰るときの気分と違ったものは感じませんでした。道端の看板類が 漢字で書かれていることも心を和ませてくれていたのかもしれません。

◆宜蘭、基隆、台北
雪山に登った次ぎの朝、シチカ山荘を5時30分に出発、駐車場に6時30分につきました。ところが、予定していた車がちっともきません。ガイド「旅さん」 が必死になってケータイに怒鳴っています。1時間も待ったでしょうか、旅さんが恐る恐る「道路工事で車が上がってこれない、工事がいつ終わるかも分からな い。申し訳ないが車が止まっているところまで歩いてくれませんか」というのです。われわれにとって、歩くことならどうということはありません。おまけに下 りの道なら屁のカッパです。問題は、あっという間に解決しました。
その後、途中で棲蘭森林遊楽区をチョロッと見て宜蘭に下り、亀山島を望む海岸ばたのレストランで、昼食の海鮮料理を楽しみました。
その刺身のうまかったこと、アワビのうまかったこと、でも、そういえば山の中にいるとき、一行のうちの誰ひとりとして食べ物が不味いという言葉を口にしま せんでした。山屋とは、不味いほうには反応しないで、美味しいほうにだけ感激する集団なのでしょうか。幸せな人種です。
北上し基隆に近づくと、知多半島の先端あたりと同じ中新世の砂岩、泥岩に変わります。このあたりには金鉱があったのです。火山性の地質が混じり始めている のです。ユーラシアプレートとフィリピン海プレートの複雑にぶつかっている部分なのでしょう。
基隆から台北へ通ずる道の両側は、ずっと市街地が連続しています。そのうちに、超高層ビルが見えると、そこはもう台北なのでした。
翌朝、故宮博物館を訪れました。現在工事中で、展示はかなり制限されています。大きな看板に日本語で「故宮はリニューアル」と大書してあり、日本が近く なったことを感じさせました。
故宮博物館は、押すな押すなの大混雑でした。

   

わたしは、世界のどこへいっても、その土地の博物館を訪ねるこ とにしています。
そして、多くの博物館で、入館者たちは、とくに展示品を見にくるわけではなく、博物館という格好の良い名前の場所に足を運んでみる、あるいは、せいぜいパ ンフレットに出ている有名品だけ見たら満足だ、ということが多いように感じます。モナリザやロゼッタストーンなどがそれでしょう。
故宮博物館は、それ自身が超有名ブランドです。そしてここでは、天然の緑と白のメノウを、白菜の形に彫ったのが目玉展示品にあたるようでした。子供たちが 取り巻いていいました。
山の世界でも、日本百名山に入っている木曽駒が岳や空木岳では、登山者がアリの行列のように溢れています。でも、その隣の山頂には、昔ながらの静かな時間 が流れているのとおなじ現象です。
でも、山屋のなかには、そんな、人のいない静かな自然そのものが好きなヘソ曲がりも結構いるのです。わたしも、そのクチかもしれません。

いつもより少ない展示品の中に、汝窯の深皿を見つけました。わたしが一番好きな紫灰色の釉薬がしっとりとした感じでかかっている逸品です。時間の許すかぎ りこの鉢を眺めていました。
わたしは、この深皿を、ここを3度訪ねて、3度見たことになります。
こんなときに、長生きして良かったと思うのです。

故宮博物館の前で、大変派手な集まりを見ました。車が4台ほど真っ黄っ黄に飾られていました。テントの柱が黄色のモールで飾られ、多くの黒衣の若者たち が、竜の飾り物を踊らせていました。

 

mガイドの「山さん」が、葬式ですと教えてくれました。お金持 ちほど派手なお弔いをするのだそうです。
そして、台湾のヤクザの葬式には、日本、アメリカ、イタリアなど外国からも、その筋の人たちが大勢参列し、大層なものになるのだそうであります。
グローバル化を、こんな話からも感じさせられてしまったことでした。

こうして、この日の夜20時には中部国際空港に戻ってきたのでした。

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