題名:99年北海道

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日付:1999/9/18


北海道大雪山の周囲にある日本300名山のうち、ニペソツ山、石狩岳、ニセイカウシュッペ山、3山への登高記録です。

終わってみて、雨の名山記録の感が深いのです。

この夏は、前回まで、長年一緒に山へ行っていた伊藤尚治さんが病床におられます。

われわれの様子を知りたがっておられると察し、例年の同行者がどんなことをしたかを、伊藤さんが一緒にでも行っているかのように思いながら綴りました。

 

99年北海道(7/29〜8/2)

 

7月29日、名古屋空港発6時40分のJAS機で、新千歳空港に向けて飛び立ちました。

正規運賃だと、片道2万8千円のこのフライトを、2カ月前に早期割引で1万6千円で手に入れたのでした。

隠居以来、貧乏旅行ばかりをやり馴れた大坪が、今回の旅の「切符会長(買い長)」を勤めたのです。

千歳に10時10分に着いて、すぐ、といっても、なにやかにやで11時になりましたが、予約していたレンタカーで出発しました。車手配の係りは、なんといっても若くて手慣れた井熊さんがやってくれました。

総隊長の丸山さんがおっしゃるには、お勤めの関係の方から「帯広に行くなら、自分の友達が焼肉屋をしているから、ぜひ寄ってほしい。もう、大事なお客さんが行くからと電話したから」と言われたとのことです。

帯広までの道は、私が昨年、芦別岳に登りに行ったときに通った道ですから、あの千歳市のインディアン水車の横を、まあ、すいすいと走って行きました。

それにしても、帯広までは約200キロあります。追い越し車線の少ない道に、結構大きなトレイラーが走ってました。道は大雪山系の火山群と十勝山脈の隆起山群のあいだの山道を通るので、思ったほどは早く走ることは出来ませんでした。

着いたのは、もう14時半、朝立ちの早さを考えると、若い井熊さんはもう腹ぺこだったに違いありません。

この話は、まあ、今回の三人組の義理堅さを察して戴きたいものだと思って申し上げたのです。

 

帯広市の番地の付け方は、東5条南13丁目というように、実に規則的です。ピタリと目的地に行くことができました。

新開地、北海道には、こういう地名の付け方が多いようです。札幌も、かなりこれに近い番地割りと言えましょう。

千年以上前に造られた京都だって、どちらかといえば似たような街の表示です。これも、もっと古い中国の長安の都の影響を強く受けているに違いありません。

京都では、南北の道は、数字だけではなくて、松原通り、堀川通り、などの名前があります。

ところが帯広市の中心部では、数字でない道は、街の真ん中に、ただ1本、大通りというのがあるだけです。そして、北何丁目というのもなく、南だけなのです。

こんなことを考えていると、退職後、フロリダの新開別荘地にひっこんだ友人に出す手紙で、このような縦横とも数字の宛名を書いたことを思い出しました。

 

世の中にはいろいろの人がいて、新しい土地に新しく街をつくるときに、分かりよい合理的な名前の付け方を採用しようという思想は、古今東西どこにでも見られます。

7桁の郵便番号を使いだしてから、配達業務は非常に効率的に行われるようになったと聞きます。自動読みとり機は、7桁で町名の単位まで分かるのです。それに続く丁目と番地も自動識字装置で読みとり、配達員の回る順序に個々の家の郵便物を揃え、機械から排出されるのだそうです。つまり結果的に、日本中の家が1軒1軒、数字で特定されているわけです。

 

もっとも、電話システムでは、もう随分昔から、15桁程度の番号だけで、世界中の特定の相手を選択して、情報を伝えてきているのですが。

 

いっぽう、味気ない数字化に反対する人たちもいます。

老人の集まりで、合理化のためにわれわれに郵便番号を書かせるのは怪しからんと発言すれば、沢山の人がそうだそうだと唱和します。

大字とか字とかの、由緒ある名前が消えて行くことに、郷愁を言う人は多いのです。

また、東南アジアのある国では、一本の通りでも2〜3ブロック行くと、もう、名前が変わるので注意しなくてはいけないと、ある観光案内書に書いてありました。

その土地の由緒、特徴、そして先祖や英雄の名前など、自分たちにとって大事だと思うものを、道の名前に付けたい気持ちも肯けます。

 

この日は帯広で、畜産大学と豆の資料館を見学しました。

ここの有名な帯広畜産大学は、ゆったりと北の大地に建てられた大学です。

そして、学部の名前も当節の傾向でしょう、環境、資源という名を持ったものが、目が付きました。

 

・蕗の葉を畳重ねて十勝なり

 

豆の資料館というのは、有名な十勝の豆取引業者のひとつ,菅岡商店が豆に関する多くの資料を収集、展示しているのです。

私ぐらいの年頃だと、昔、小豆が「赤いダイヤ」と呼ばれたことがあったことを記憶しています。

「相場には手を出すな」など言われ、商品取引はバクチのような胡散臭いものであるとの印象があります。それで、普通の人にとっては、無関係なものではあるのですが、昔、豊橋乾繭(かんけんと呼ぶ)、十勝小豆(しょうずと呼ぶ)などラジオの商品市況で放送され、私も耳にしたことはあったのです。

不作の予想を噂にして買い漁り、値を釣り上げておいて高値で売り抜けるというような駆け引きがあり、その値のあまりの高騰ぶりがダイヤと表現されたのだろうと思っています。

その後も、正月料理の数の子が、黄色いダイヤにされたこともありました。

小豆も数の子も、大事ではありますが、生きていくのに必須のものとは言えないでしょう。

アメリカでは今、株式の年収益率が30パーセントであるなど聞かされると、株も「紙のダイヤ」にされているのかと思ってしまいます。

実際の効用を超える高値でも、もっと高くなることを期待して買う、人間の欲というものは楽しくも不思議なものです。

ここの資料館には、植物としての豆のことから、当時の最も高度な通信手段であった電報、その電報料金を安くあげるための略号符号、そんな豆に関するありとあらゆる資料が陳列してありました。

 

私としては、今まで豆について、取り立てて考えたことがなかったことに、始めて気がついたのでした。

大豆、えんどう、いんげんについて、発生年代、原産地、を書いた看板がありました。

考えてみると、豆の種類には、このほかにも知っているだけで、小豆、そら豆、大納言、黒豆、花豆、鉈豆、南京豆などあります。

また、以前、愛知植物研究会に入っていた頃、アカシヤは豆科だから若芽を天ぷらにすると美味いなど、受け売りをしていたこともありました。

豆科には、スイートピーやレンゲ、カラスノエンドウ、美味しい山菜のナンテンハギなどハギの類、アカシヤ類など、茎が蔓性、直立性があり、大きな木になるものさえもあるのです。

 

米やトウモロコシがそうであるように、豆も改良に改良を重ね、現在、畑で栽培されているものは、昔のものとは違っているに相違ありません。

なぜAの豆がBの豆と違うかといえば、それは設計図に当たる染色体、遺伝子が違うからです。

美味しい種類と,収量の多いものと、病害に強いものとを掛け合わせて、他人より優位に立てる品種を創りだして来たのです。その行為を交配と言っていますが、その本質は遺伝子の組み替えに他ならないのです。

以前は、技術がなかったので、時間と労力を掛けて行ってきた遺伝子の組み替えが、いまや的を絞って、効率的に行えるようになってきていると言うべきでしょう。

 

最近可能になってきた、遺伝子の直接の組み替えを、あたかも異端の技術であるかのように騒いでいるグループがあります。

この現象は、何時の世にも存在するように思われます。つまり、大抵の人に理解できず、しかもなんとなしに恐ろしそうなものを取り上げて、それに反対していると何か世の中に良いことをしているような気がする、そういった人たちがいるように思われるのです。

そして、マスコミというものは、昔々から、そういう動きを収入源の一部にしてきたのでしょう。

 

植物としての豆一族の系譜、品種の定義、相関関係などは、あまりに人工の手にかかっているようで、整理できるとは想像もできません。でも、今後、何かそれに関する本があったら、そんな目で読んでみようと思ったことでした。

 

そのあと、雨の中、約60キロ北上し、幌加温泉に泊まりました。

素朴な温泉の素朴な風呂に浸り、思い切り体を伸ばしました。

宿の裏に、お湯を引いて来ている黒いプラスチックのパイプがゴロンと転がっています。こんな宿に来ると、とても気が休まるのです。

 

増毛暑寒別のユース・ホステルから、このところの雨で道路が壊れ、こちらは無理だという伝言が入っていました。

ここの宿から層雲峡に抜ける道も、雨で通行止めになっていました。でも、こちらは道が崩れたわけではなく、時間雨量のリミット・オーバーだけの問題だからと、宿のご主人が安心させてくれました。

 

夕食は一杯飲みながら、丸山さんの葡萄酒づくりの話を聞かせてもらいました。

 

7月30日、朝、5時に起き、パンで腹ごしらえを済ませました。

かなりの雨ではありますが、私と井熊さんは、当然ニペソツに向かうものと思い、ゴアテックスのズボンをはきました。

ところが考えてみると暑寒別岳が駄目になったので、一日余裕ができています。

冷たい雨が降り、向かい側の山も見えないような日に無理をしないことにしました。

先日、すでに東北地方まで来ている太平洋高気圧が、梅雨前線の残党を押し上げてくれることを祈りながら、今日一日、帯広地区の見学に当てることにしました。

車で宿を出るとき、ご主人が「山はそんなに降っていないようだ。川が濁ってないから」と言いました。その時、今日の行き先を山から里に変えたわれわれが、なにかちょっと臆病者と言われたような気がしました。

 

最初は、ナイタイ高原牧場に行きました。日本で一番広い牧場なのだそうです。個人所有ではなくて、町営でした。

気温17度、冷たい風が吹いていました。展望台はただ霧の中でした。そしてそこを訪ねているのは、われわれの車一台だけです。大体、朝6時半に観光に出るのも、登山崩れならばこそなのです。

観光施設の開く9時半まで、時間を潰すのに苦労しました。

ここの帯広の自衛隊は、戦車部隊を持っています。それを見に行こうじゃないかということになりました。

正門に行くと、丁度、出入り業者さんたちの出勤時間でした。

井熊さんは人なつっこい人なので、門衛に中を見せて貰えないかと頼んでくれました。

若い門衛さんは出入りの人たちのチェックに忙しく、中から上司を呼びました。。その上司は「勘弁して下さい」と言ったそうです。自衛隊も物腰が柔らかになったものだと感心しました。

 

こうして時間を潰して、ビート資料館には開館と同時に入りました。

ビートとは、甜菜、砂糖大根のことです。ほうれん草が一番近い植物なのだそうです。

世界の砂糖の60パーセントがサトウキビからの蔗糖、40パーセントがビートからの甜菜糖なのだそうです。世界の中で、サトウキビは高温地域、ビートは低温地域で栽培されます。

糖の構造が少々違うので、同じ重さでは、サトウキビからの砂糖の方が甘く感ずるようです。そのことを甜菜糖側では、上品な甘さと言っています。

明治になり、北海道が国土として強く意識されました。寒い北海道で何を栽培するかを考える場合、ビートが、まず、第一に挙げられたようです。明治8年に既に試作が行われています。

過去、北海道でビート栽培の熱が上がったり冷めたりする要因は、2つあったように思われます。

ひとつは、世界における需給関係があります。第一次世界大戦で、ヨーロッパの甜菜糖生産が減ると、価格が上がり、日本の甜菜熱も上がったのでした。

もうひとつは、ビートの病害が、かなり深刻で、いまだに完全に克服されたとは言いかねる点です。

ここの資料館を訪ねるまで、北海道のビートも沖縄のサトウキビ同様、僻地振興のための補助金政策で命がつながっているのだろうと、漠然と思っていました。

しかし、ここでいろいろ見学させてもらって、沖縄のサトウキビが、昔の背の高いキビが低い品種に変わった、品種転換ぐらいの改善しかなされてないのに比べ、北海道のビート製糖では単胚種の採用、共同作業として紙管播種、大型自走機を使った自動植え付け、採取、またイオン交換樹脂を使っての精製など、近代産業としての体裁を備えているように見受けられました。

糖度という係数による価格補正は、どういうことなのかよく分かりませんでしたが、麦、トウモロコシ、大豆との輪作栽培が好ましい関係で定着していることや、ビート滓を不可欠な飼料として利用しているらしい点から、全体としてビート栽培が必然であると説かれているようでした。

1920年、帯広に製糖工場が造られたときには、建物までがアメリカから輸入されたそうです。このことは、日本最初の鉄道が東京、横浜間に敷設されたとき、レールの下に敷くバラス(砂利)までが、イギリスから輸入されたことを思い出してしまいました。

 

あとは話の種にもなろうかと、池田のワイン城に行ってみました。

眉にたっぷりと唾をつけ赤葡萄酒の効用を読んだあと、広々とした北海道らしい大景観を眺めながら、山で昼に食べる予定だった梅干しとおかかの握り飯を食べました。

これも、ちょっと乙なものでした。

 

通る町並みは、建物の周りに塀や生け垣がなくて、青々した芝生に大きな木が茂り、アメリカ風な風景だと思っている矢先に「白人小学校」という看板が立っていて、はっとしました。よく見ると「しらっち」とカナが振ってありました。アイヌ語のしらっちに、白、人と、昔の誰かが当て字をしたのでしょう。

 

その後、また、幌加に帰り、明日、明後日に取り付く登山口の偵察に行きました。

国道から離れた砂利道を走っていると、前に車が見えました。暫くするとその車が方向を変え戻ってきました。平行して止まり、道を尋ねられました。

その車の若者たちは、地図とは言えないような、誰かに書いてもらった紙切れを握って、ここまで来ているのです。ヒユ、ヒユというので、何かと思ったら、秘湯のことでした。

尾根だ、沢だと細かいことを言っているわれわれ山屋とは正反対の人種で、滅多に人が入らないこの同じ林道を、かくも違った人種が走っていることが面白く思われました。

 

7月31日も、5時に起き、またパンで腹ごしらえです。

 

毎日早起きして、いかにも勤勉そうに聞こえますが,実は夜寝るのが大変に早いのです。3人とも、20時といえば、もう眠くなる方なのです。

翌朝5時までといえば9時間も寝ることになります。従って、最後の方は眠りが浅くなっていて、起きた方がましだと言わんばっかりの下らない夢を見ることが多いのです。

そんな毎朝に見た、下らない夢の紹介です。

 

夢の中で母の家の応接間にいます。応接間は、本当は板敷きなのですが、なぜか畳になっています。

女性の建築士が図面を持って「お話のとおり検討したら、こんなに余裕ができました」と言います。何のことか分からないので「この話は、誰が責任者なのか」と、探します。そのうちに、母が「私の知らないことだから」とか言って、大変オカンムリの様子なのです。私は自分も知らないことですし、これは大変だと思い「工事止め」と怒鳴ります。棟梁はいないかと騒ぎますが、自分は下請けで、言われたとおりやっているだけですという職人ばかりなのです。

材料の手配も進んでいるだろうから、これは大変な物入りだと焦っています。

 

何かのレセプションです。会社の同僚たちは背広ですが、私は派手な黄色の和服を着て立ち働いているのです。私の着るものは、いつも100パーセント家内の指示ですから、これがこの場合の私の一番正しい選択だと思って、当たり前のように動いています。能楽堂で背広の人たちと、自分は羽織袴で話をするような自然な気持ちなのです。でも、尊敬する先輩に「お前の名前も、これで地に落ちたな」と言われて「えっ」と声が出てしまいました。

 

後輩の大学教授のO氏が電話しています。女の子がコーヒーを「どうぞ」と先生に渡そうとしています。ところが立って話している先生は、片手に受話器、もう片手には水割りを持っているのです。

相手の事情を考えずに、自分の都合だけしか考えない「今の若い人は・・」などお説教を。

 

よくもまあ、こう毎朝毎朝、下らない夢ばかり見るものです。

今日の空は、気のせいか昨日よりは明るいようです。でも、雨だれが落ち、ときどき風が木を揺らしてゆきます。

昨日、宿のご主人が、ニペソツは風が出ることがあるからと言ったのが妙に気になりました。

 

登山口で身繕いをしていると、若い男の人が車で来ました。でも、その彼は、登り口の国立公園の注意書きを見ただけで、さっと帰って行ってしまいました。

 

取っ掛かりにある沢の板の橋は、増水した川水が激しく洗っていました。でも、一寸上流に、こんな時のための丸木橋があったので、慎重に渡らせてもらいました。

どんどん登り、樹林帯を抜けハイマツ帯に入ると、北アルプスによくある大きな石のごろごろした斜面のトラバースに入りました。

この頃から、突風がくるたびに、じっと止まっては、やり過ごすようになりました。

天狗平を終わり、左へハイマツの茂みを抜けると、そこはまともに向かうと息もできない強風が吹き荒れていて、とても立ってはいられないのでした。

一寸引き返し、風の陰で地図など出して、一息入れました。

前方の霧の中が、なにか暗く、地図にある天狗岳が立ちはだかっているような様子です。そして強風が休みなく南南西から吹き続けています。

体力のあるうちにと、撤退を決めました。ニペソツ2013mに対して、高度計の指示は1920mでした。もっとも、これから先天狗に登り、いったん下ってから登り直したところに山頂があるので「山頂直前で涙を呑む」とまでもゆかなかったのですが。風が収まるまで待つ以外に手段はありませんでしたから、諦めはつきました。

登山口近くまで降りてくると、大きなリュックを背負った相当の年輩の方とすれ違いました。自分が登頂できなかったときは、人と口を利くのも億劫なので、私は「今日は」とだけ言ってすれ違って別れました。

後ろを来る丸山さんには、テント場のことなど、いろいろ聞いたそうです。

 

宿に帰り、温泉に浸り、お握りを食べて,傷心の身を癒し、そのあと層雲峡の観光に出かけました。

連日の大雨で、なによりかにより、怒り滾る川の流れが見事でした。

 

北海道には梅雨がありません。なぜかというと、バスガイドやディスクジョッキーが繰り返し繰り返しそう言うからです。

彼らの百人の中九十人までは、北海道を訪ねたことさえないでしょう。そして、なぜ梅雨の現象が起こるか考えたこともないでしょう。

でも「北海道に梅雨はありません」、そう言うと格好いいですね。

他人に新知識を教えている優越感があります。少なくとも他人より知恵が遅れていない証明ができます。周りの人と同じことを言っている安心感があります。

その人たちが「あの黄色の花がアメリカから入ってきたブタクサです。花粉が喘息を起こします」。そう言っていた時代がありました。何年かはセイタカアワダチソウが、ブタクサにされていました。

ある時間、口から音を出すことにより給料を貰う人は、その出す音を無難なもの、格好良いものにしようという自衛本能が働くのでしょう。

沖縄が梅雨のときに、東京に梅雨がないように、確かに東京が梅雨のときに、札幌に梅雨はないかもしれません。

東北地方まで北上した梅雨が、僅か千代田区から横浜市ほどしか離れていない北海道に、津軽海峡があるために渡れないとでもいうのでしょうか。

気象庁の予報官が「北海道にも梅雨はあることはあるんですよ」と、世間で「ない」と言っている人たちを気にしながらおっしゃったのを聞いたことがあります。

梅雨の現象では、沖縄が長男、北海道は末っ子です。末っ子のおむつは、いつの間にかとれてしまうものなのです。

「世界で始めて」、「今年始めて」が命のマスコミには、北海道の梅雨の記事など、屑籠以外に行き場所のあるはずはありません。

ともかく今回の旅では、梅雨でない雨に、5日間降り通しに降られました。

 

・露天風呂蛙の如く手を伸ばす

 

宿のご主人に登山の結果を報告したら「あんたたち、よくもそんなところまで行ったね」と言われたそうです。

今は、ゴアテックスという優秀な雨具があるので、雨だけならけっこう頑張れるのですが。

 

今夜は土曜日で、向かい側の部屋に、札幌からきた5人の山屋さんが泊まりました。

やはり彼らにも、われわれが天狗の登りまで行ったことを驚かれました。そして、我々が明日は石狩岳に登ると聞いて「へー」と言われました。彼らはベテランですから、この「へー」は、精神的にかなりの重石になりました。

宿に女の客がいないのを知っている彼らは、男性用トイレがふさがってると、さっと女性用にも入るのです。こんなことが出来るのは、ベテランに違いないではありませんか。

 

8月1日「始めて雨の降ってない、お出かけだね」と宿のご主人が見送ってくれました。

登山口から50分ほど行くと、先に行った年輩者と若い女性のカップルが戻ってきました。「なにかあったんですか」と尋ねると「沢が徒渉できないので」と言うではありませんか。

ともかく行ってみました。なるほど川が増水していて、渡るのは容易なことではないようです。

こういうときは、無駄だと心の中では思いながらも、上流、下流と渡れる場所がないかと探すものなのです。本来、一番渡りやすいところに道があるわけですから、ほかに良いところなどないのが普通です。

偵察から戻ってくると、私たちより後からきた大垣グループの一人が裸足になって渡り終わっていて、一行の中の女性たちも渡りかかっているではありませんか。

彼らの判断のおかげで、私たちもじゃぼじゃぼと渡らせてもらいました。

 

私たちが採ったシュナイダー・コースは、3〜4百m緩いところはありますが、そのほかは尾根の急登です。

そのうちの、100mほどが緊張を強いられる、塩っぱい難場になっています。

稜線に出てからは、かなりの風でしたが、大垣組も我々もなんなく登頂できました。

山の上のほうはずっと、ガスの中でした。ガスから下に抜け出すと、なんという良い風かしらと思いました。

ガスの中の風は、湿度100パーセントですから、風の当たったところは水滴が滴るようになります。ところが、ガスから抜け出せば、風の当たったところは乾くのです。

そうなれば、心底、快い風と言えます。でも、風を心地よいと言えるのは、余裕なんだなと、それこそ快く考えていました。

 

帰りの徒渉を終わると、またもや雨が当たってきました。

雨、雨、雨、層雲峡のユースがチェックインを受け付ける16時まで、レストランに入りビールで祝杯を挙げていました。

 

・登山基地窓ごと夏の花飾る

 

ここ層雲峡は、約40年前、新婚旅行で来ているのです。そのことを言うと井熊さんに「どの旅館に泊まったのですか」と聞かれました。思い出をたぐると、どうもユースの横の朝陽館ホテルに泊まったような気がするのです。

もう、40年以上昔のことですから、建物はすっかり変わっています。

家に帰ったら、家内に聞いてみようかと一瞬思いました。でも、家内は層雲峡に行ったことさえも覚えていないだろうなと諦めました。それで、帰ってからも、何も言いませんでした。そんな妻を、もの足らなく思ったり、過去に拘らない、かえって良い性格だと思ったり、そうこうしている中に,死が二人を隔ててしまうだろうと思ったり、とかく人生は短いものです。

 

ここのユースの夕食は、30分ごとにマイクロバスを街までシャトル運転し、契約レストランで食べるようになっていました。食事は、なかなかの内容で、良いアイデアだと思いました。

 

8月2日、今日が最終日です。

カップ麺で朝食を済ませ、5時45分のスタートです。

なんと、今日もひどい降り方です。

林道の入り口で通行止めの札が、ちらっと目に入りました。3人とも無言。

手入れの悪い林道を「いいかな」など言いながら、慎重なハンドルさばきで入っていきました。

間もなく、川に抉られて道が途切れていました。その横を、無理無理、車が通った跡があります。とりあえず井熊さんがトライしてくれましたが、普通車では底がつかえてしまいました。また、たとえ無理して入っても,帰路を断たれるとそれこそ大変ですから、少し引き返して車を置き、歩き始めました。

 

今度の旅の5日間のうちで、この日は最高の降りでした。時間雨量20とか30ミリとか言うのだろうと思いました。

頂上には10時55分から僅か4分の滞在だったといえば、どんなに惨めな山行だったか想像がつくと思います。

 

このニセイカウシュッペ山は、断崖絶壁の上にある山という意味だそうです。

昨日登った石狩岳は、急登の山でした。それに比べて、今日のニセイカウシュッペは、緩い単調な登りの道でした。

こんな単調な道で印象に残っているのは、薩摩半島の開聞岳です。海抜922mの富士山型の山に、さざえの殻の模様のように、巻きながら緩い単調な登りが続きます。

それと較べると、ここのニセイカウシュッペは、標高差1200mを、左、右、左と、傾斜の緩い極めて長い3つのジグザグで登ってしまったという実感です。

 

下山後、JR上川の駅で身繕いし、駅前の食堂で日本一と称するチャーシュー・ラーメンを食べ、一路、千歳空港へ急ぎました。

 

日本航空のB737機は19時19分離陸、4分後には雲の上に出ました。北海道を覆う雲は、松前半島の上で切れていました。そして津軽海峡には数隻、その西には無数の漁り火が手に取るように見えました。

梅雨前線を北へ押し上げる太平洋高気圧が、飛行時間たった数分の、ついそこまで来ているのでした。

あの5日間の雨の中を、虫のようにのたくっていたのは何だったのかしらと、人間の小ささを改めて思ったことでした。

それを知っていて、やっている山登りなのですが。

 

空港のチェックインで、無理を言って窓際の席を頼みました。窓口の女性は、翼の上の脱出口の席でもよければと、なかなかサービスがいいのです。

私は航空券の料金の半分は、窓際から外を眺める価値にあるのだと思っています。翼の上の席だと下界こそ見難いのですが、その代わりにフラップ、スラット、スポイラー、逆噴射など眺められて、なかなか楽しいのです。

今回のフライトでは、日没直後の西の空の眺めがとくに素敵でした。

地上では、地平線に近い天体は,厚い汚れた大気に遮られて、よく見えないのです。

アンデスに行ったとき、4千mの薄い空気の中、さほど明るくない空に、いきなり太陽が出てきて日本との違いを見せつけられたことがありました。

モンゴルの澄み切った大気の中では、まさに沈もうとする太陽の光が、顔が日焼けするのではないかと思われるほど強く感じられたことがありました。

飛行機が飛ぶ高度1万mの希薄な空気は、さらに、それらの延長線上にあります。

太陽に近くて普通は見難い水星でも、高空を飛ぶ飛行機からならはっきり見ることが出来るだろうと思います。

この日の夕景の圧巻は、地平線から上空へ変わってゆく紺色の空でした。

今後,旧制第八高等学校寮歌の「紺青の月影濃けれ」を歌うたびに、この空の色を思い出すことだろうと思います。

それにしても、大空に憧れた昭和一桁生まれの元少年が、飛行機を好きになり詳しく知ることは、悪いことだとは思っても見ませんでした、あの機長殺しのハイジャッカーが現れるまでは。

 

旭川インターへ入ったのが16時40分、そして名古屋のわが家へは22時20分着。

まったく、やる気になれば、盛り沢山の人生を送ることができるようになったものです。

 

・梅雨明けて城の甍の緑かな

 

 

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