体験キューバ
( 2017/12/04~12)

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旅への興味

海外旅行勧誘のパンフレットには、次のような文字が踊っていました。

【「平和地帯」宣言した日本国憲法25条《生存権》が生きる島。
1959年のキューバ革命、1962年にアメリカの経済封鎖から53年ぶりの2015年に両国の国交が回復。経済・人口交流の活発化を目的とはしているが、資本の流入”キューバならではの良さ”が失われるのではないかと危惧される声も。】
 
私は日本国憲法9条というのは、どんなことなのか大体は知っていました。
でも憲法25条は知りませんでしたから、あらためて調べてみました。
<第二十五条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。>

それがキューバにはあり、いまやアメリカとの国交復活で失われそうだというのでしようか。
なんと護憲・反米主義らしい文言でありませんか。この旅行を主催するのは「ロシヤ革命100周年 革命とレーニンの旅」なども手がける、一味違う旅行社なのです。
 私にはピクンと来ました。変わった国、そしてそれに惹かれる人たちの実態はどうなのだろうと、大変、興味に誘われたのです。


キューバの首都ハバナへ

羽田空港を出発したエア・カナダボーイングB777型機は、冬の強い偏西風に乗り12時間弱でトロント空港に着きました。ここで乗り換え今度はエアバス319型機でキューバの首都ハバナへ飛びました。トロントから、アメリカ東部をピッツバーグ、タンパ市沖を経由し南下します。
予定通り約3時間半のフライトで到着しました。車輪が滑走路に触れると、乗客から一斉に拍手が起こりました。話には聞いていましたが、この拍手は出会ってみるとやはり驚きでした。
そしてまだ地上滑走中なのに、もう席を立って通路を歩き始めるのも何人かいたのです。

大問題はその後の荷物受け取りでした。
ターンテーブルは回っているのですが、荷物はいっこうに出てきません。
そのうちに4〜5個出てきてお客さんが持ってゆきました。
その後は待てど暮らせど出てこないのです。先に出てきたのは、前の便の分だったのかと思われるほどでした。
とうとうターンテーブルが止まってしましました。「故障だ」と誰か叫びました。こういう言葉は英語でも、スペイン語でも日本語でも感じは分かるものです。果たしてどこの国の言葉だったのでしょうか。
修理したのでしょうか、ぽつぽつは出だしたのですが、私のは1番後じゃないかと思われるほど待たされました。多少早く受け取った仲間を長く待たせ、申し訳なく思っていた私は、荷物を手にしたとき、それこそ拍手をしたい気持ちでした。

空港からはバスでホテルに向かいました。
なにせ灯火というものが少ないのです。シーズンオフの海水浴場といった風情の夜道を走っている様子です。
日付が変わる直前にホテルに着きました。立派な建物です。
ところが現地旅行社の人が「悪い知らせです。明日の朝6時まで断水です。ミネラルウォーターを沢山用意しました」というのです。大きなミネラルウォーターを何本も用意して、これで朝まで凌げというのです。トイレも流せませんし、お風呂も駄目です。
私は山男ですから何とも思いませんでしたが、長時間の空の旅のあと、ゆっくり風呂にでもと楽しみにしていた皆さんにはショックのようでした。
その後、与えられた部屋に入るとベッドの上に椅子が乗っていたり、ベッドメイキングの前の状態なのです。他の部屋に換えてもらいました。
それにしても、また、その後もどこの街でもそうでしたが、ベッドで体に掛けるのが、薄い布一枚なのです。世界のどこでも、ベッドの掛布というものは普通の人がそのまま寝て快適な厚さになっているものですが、キューバではそうではありませんでした。
最初の夜は私の体のほうが規格外かと恐縮し、ありったけの服を着込んで震えながら過ごしました。
ベッドに横になったのは午前1時半でした。

国民友好協会訪問
 
翌日、まずキューバ諸国民友好協会を訪問しました。キューバ国家は共和制(社会主義)です。この国民友好協会をネットで引いていると、頻繁に赤旗という文字に出くわしますから、おおよその想像はつくというものです。
しっかりした女性が一人で対応してくれました。
往々にして、キューバは社会福祉が行き届き、国民に一生、医療と教育を無料で提供されている理想の国家として語られます。国民の80〜90%が国家公務員で、老後も年金で生活を保証され、貧富の差は殆どないのだと語られもし、かつ多くの人々に信じらられてもいます。また、最低限の生活は物資の配給により保証されているともいわれます。
今回我々一行のある方は「キューバでは、先生たちから、自分たちの給料が安すぎるという声が出ないのかこの席で聞いてやる」と言っておられました。
ついでながら、今回の我々のメンバーは、殆どかって教職につかれた方と拝察しました。
残念ながらこの友好協会の女史とのやり取りの内容は、私は老齢87才で耳が遠く、キューバ人の通訳さんは73歳で声が小さくまるで聞き取れませんでした。

ヘミングウェイ記念館

この日、午後の飛行機の便で島東部のサンチアゴ・デ・クーパへ1000kmほど飛ぶことになっていました。
でも、予定していた午後の便には乗れず、夜の便しか取れないということが分かってきました。そこで今回の旅行の行程の後の方に入っていたヘミングウェイ博物館訪問を先に消化しておくことになりました。どこまで本当かは存じませんが、ロシアから楽団が来たりすると、簡単に予約は取り消されるとも聞きました。

ヘミングウェイの4人目の奥さんが、毎夜毎夜クラブで飲んだくれているヘミングウェイの身を案じ「家を買って、家で呑みなさい」と買わせたのだそうです。一寸した公園ぐらいの緑地庭園の中にありました。

彼が可愛がった4匹の犬の墓標は立派でした。でも現在のキューバでは、犬といえばそこらじゅうをウロウロしている連中が目につきました。
明治初年に日本に来たヨーロッパ人が、日本では飼い犬は上流夫人が飼っている狆だけで、あとはすべて野良犬だ、と書いていますがそんな状態なのでしょう。
野良犬というのは何とも言えぬ不安そうな目付きをしているものだと、つくずく可哀想に思いました。

野良犬
「野良犬の不安そうな目」

さて、ヘミングウェイ記念館の見学を終わっても、午後の時間はまだたっぷりあります。添乗員さんがてんやわんやの騒動の末、ともかく空港まで行き、使っていた観光バスを時間延長し、出発近くまで冷房の効いたバスの車内で約5時間待つことになりました。

こうして20時過ぎハバナ空港を離陸、21時半サンチアゴ・デ・クーパに着陸しました。昨日、空港で荷物の受け取りにとんでもなく時間がかかったのに懲りて、今日は全員、大きくはなりますが2日間に必要なものだけ機内持ち込みの荷物にまとめました。
お一人だけ、お薬の関係で、荷物をカウンターで預けられた方は、やはりわれわれの夕食が終わる頃にやっと合流されました。就寝12時半。


小学校訪問

翌日はまず小学校の訪問です。このサンチアゴ・デ・クーパ市は昔軍隊の駐屯地だったそうで、兵舎が小学校から大学まで使われ、いわば学園都市になっているのだそうです。われわれが連れてゆかれたのは小学4年生の教室でした。
生徒は約30人、先生方が横に立っています。代表の7人ぐらいいの子たちが、次々と暗唱した言葉をリレーで披露してくれました。意味は分かりませんでしたが、一人ひとりは言葉の最後を「私はラウールの分身です」と言う言葉で結んでいるのだそうです。ラウール・カストロは現大統領です。私は、どこかの国では「◯労働党委員長の分身です」と忠誠を誓っていることかと邪推してしまいました。私だって小学生時代に天皇陛下の赤子と言わされた記憶があります。精神教育というものはどこも似たようなものだろうと思います。

学校
「小学校4年生 私たちラウルの分身です」

それがすむと今度は我々の側がパフォーマンスを提供する番です。元教師の方が多いので、お手の物です。

簡単な身振り手振りを加えた「もみの木もみの木」と歌われました。相手の小学生たちも乗りに乗り、日本とキューバの交歓会は大いに盛り上がりました。


博物館

今回のツアーにはフリーの日が一日あり、その日のためにオプショナルツアーの提案がありました。
私はこういう場合、遊びの観光ではなく、博物館にゆくことにしているのです。
今回もネットで調べたのですが、キューバには革命博物館以外に、どこの国にもあるいわゆる博物館はまるでないようなのです。旅行社に尋ねましたがやはり要領を得ません。実際、地学、生物学、考古学などの部門のある博物館はこの国にはないのではないかと思っています。
怖い配線

「この配線、コワーイ」

夏目漱石の小説、草枕の冒頭に「智  に働けば 角  が立つ。 情  に 棹  させば流される。意地を 通  せば 窮屈  だ」という言葉があります。
確かに考古学がなくたって生活してゆけないわけではありません。でも、人間には好奇心があり、社会は色々の人で成り立っているものです。
ウラジオストックにだってシルクロードのウルムチにだって結構な博物館がありました。
今回、智の部分がないとまではいいませんが、非常に希薄なこの国が、これからどうなってゆくものかと考えてしまいました。もし、200年後に私が生き返ったら、先ずこの国へ来てどんなになっているか見てみたいと思っています。


革命・武器博物館類

学校訪問後、隣接した兵舎博物館へ連れてゆかれました。この手の博物館は今回のキューバ旅行中、何箇所も尋ねました。
私はその種の博物館について個々には深入りせず、概論として感想を述べておきたいと思うのです。

まず、キューバの歴史です。
約20万年前にアフリカで生まれた現代人・ホモ・サピエンスは、アジア大陸を経由し、1万4千年前ベーリング海峡を渡りアメリカ大陸に進出したとされます。その後1000年ばかりの間に南米の南端まで拡散したといわれます。そんな動きの中に、キューバにも人が住み着いたのでしょう。

1492年コロンブスが到達したときには、先住民族としてアラワク族、タイノ族が住んでいたといわれます。先住民族は絶滅してしまいます。もともと少人数だったのでしょう。こうして最初はスペインが原住民からキューバ島を奪ったのです。その後、イギリス、フランス、オランダなどもこの島に食指を動かします。あちこちの当時の要塞が築かれ、それが今では観光資源になっています。
その後、当然のようにヨーロッパ人たちは労働力としてアフリカ原住民を持ち込みました。
1762年、力に勝るイギリスが自国領とします。翌年、フロリダと引き換えにスペインはまた自国領とします。その後、独立の動きはありますが、要するにごちゃごちゃです。
1898年、近距離でもあり、力をつけてきたアメリカの自作自演ともいわれるメイン号爆沈事件を契機として米西戦争が勃発、アメリカはフィリピンと共にキューバをスペインから奪い、実質的に自国領として振る舞い続けます。

1959年、フィデル・カストロの革命軍が勝利し、共産党一党支配の社会主義国家として独立を果たします。
1962年、ソ連との密約によりミサイ基地を建設しているのをアメリカに見つかり、危うく冷戦が熱戦になりかかりますが、危機一髪ケネディとフルシチョフにより収拾されたのでした。
冷戦時代には東側の一員として経済援助を受けていました。キューバはソ連崩壊後も従来路線に固執しているので困難な情況に追い込まれています。
2015年、アメリカと国交を回復しましたが、確執の根は深く、言ってみれば口は利くが顔は見たくもないといった状態と思われます。
歴史のドキュメントは以上のようなことだと思います。



現在のキューバの、国として、また国民の大部分の認識となっている歴史観は次のようなものだと思います。

過去100年余、アメリカはキューバのみならず中南米諸国をあたかも自国領のごとくして振る舞っていた。キューバではアメリカに富を吸い取られ、食べ物すらない差別社会が続いた。そのような中、1952年にクーデターが起こり、従来よりもアメリカ寄りで、マフィアたちに近いバチスタ政権が誕生し、キューバ国民は一層の窮地に追い込まれる事態になった。
そんな中、1953年にフィデル・カストロが主導する革命運動が始まった。有名な闘士チェ・ゲバラも参加し、長年にわたる苦労の末、サンタクララの戦いで勝利し、バチスタをドミニカ共和国へ追いやった。そして、フィデル・カストロは社会主義のもとに、土地の国有化、企業の国営化を行い、全国民の貧富の差なくし、医療、教育を無償化し、食料配給制により障害生活保障する理想の国家をつくりあげた。

大変僭越ですが、次に私の歴史観からご披露させていただきます。

ことはキューバだけではなく、人類の本質にもとづく永遠の課題なのです。
それは人類は、ほかの動物と同様に、本質的に、個人としても集団としても、良い面も悪い面を持っているので仕方ないことなのです。 人類はその誕生以来、抑圧、差別、侵略を繰り返し、自由、平等、民族自決、そんな美名のもとに、いかに人を傷つけ、財産を毀ち、数知れぬ愚行を繰り返してきたことでしょう。

さて、事実としての長い歴史から任意の部分だけを切りだし、隣国を非難する歴史観を作ることは、人間社会で頻繁に行われてきました。むしろ行われなかったのは、70年間敗戦国だった日本だけ、とさえ言えるかと思うぐらいなののです。
なにせ隣国の悪口を言うことは、自国の世論統一に著効があるものなのです。
隣人を非難することを国是として血道を上げることは、人間としておぞましいことだと考える私でさえ、それで世の中をスムースにできるなら、まあいいかと容認してしまいます。

国家間トラブルのすべてのケースでは、事件は表面に出ている当事者よりも、背後に蠢く力を持った大国が方向を決めているものなのです。
そして事件決着後しばらくの期間は、事実ではなくて勝利した方の一方的なストーリーだけが闊歩するものなのです。

従って、この手の博物館は革命軍がいかに善戦したかを説き、現政権に対する賛美一色であります。展示品は、革命軍の英雄たちの写真、着ていた服、古靴などが一般的です。政府軍が大パーティで酔い潰れている敵を朝方に襲ったなど、牧歌的で楽しくはあります。ともかく私としては、千早城、赤坂城で知略をめぐらし足利尊氏を悩ませ、後醍醐天皇に忠義を尽くしたと解く楠木正成の解説と同種のものに思われました。何箇所も連れてゆかれましたが、総てさっと眺めるだけすませました。

ガチ反米
ここでキューバの反米ムードについて、一括して述べておきます。
キューバは、世界中にある反米感情、そして特に強かった中南米における反米のチャンピオンとして振る舞っていました。ま、こういう話ですから、お互いのサイドにそれぞれの言い分があります。
キューバの人々がどんな雰囲気の中で暮らし、子供たちが育っているか、端的に示していると思われる二つのことを挙げておきます。

まずひとつは革命博物館の壁の絵です。
パパ・ブッシュ
「バチスタ レーガン パパ・ブッシュ」

左からバチスタ前大統領、レーガン、パパ・ブッシュ、息子・ブッシュです。
鬼畜英米、イエローモンキーと罵り合っていた70年前を思い出しませんか。

もうひとつ、キューバ・ペソへの両替えのことを書いておきましょう。
ユーロ、カナダドルなどは手数料を払って普通にキューバ・ペソに両替できます。
でも、米ドルの場合だけははまず0.9を掛け、つまり100ドルなら90ドルと見做し、その金額もとに手数料を払い両替するのです。
またアメックスというアメリカ系のキャッシュカードは使えないと聞きました。

これらの扱いから、キューバ人たちは世界中でアメリカだけは大嫌いだ、と公式に宣言しているのだと思いませんか。
確かにオバマ時代に国交は回復しました。ただそれは、歴史を見ればどんな憎み合った国同士でも時間が経てば国交回復するものだという路線上のものなのです。

学校訪問を終わって、ゲバラたちが革命戦争蜂起の前に武器を隠していた農場を見にゆきました。行く道端に、ぽつぽつと革命戦争時に戦死した革命闘士たちのモニュメントが在りましたが、全部でも両手の指ほどだったような気がします。革命記念館には例のごとく写真やズボンや靴が展示されていましたが、流石にこんな僻地に来るまでの革命マニアは少ないようで我々以外に人は見かけませんでした。

キューバ島は全体的には石灰岩でできた平らな島だと思います。ただ、このサンチアゴ・デ・クーパとか米軍基地のあるグアンタナモがある島の東部地方だけは、過去に多くの地震を経験し山岳地形になっています。国の最高峰はマエストラ山脈の2005m峰です。
 
激しい海岸隆起が侵食をうけた断崖の上のレストランで昼食をとりました。
日の光の溢れている広い海原、岸に砕ける真っ白な浪、まさに夢の天国カリブ海そのものでした。
生バンドの面々は我々の年齢を見て、古い懐かしいラテン・ミュージックを聞かせてくれまいた。このレストランも、その後訪ねたサンペドロ・デ・ラ・ロカ城も外人観光客で溢れていました。今後当分はこういう人たちが、キューバの金蔓になってくれのでしょう。

この日は22時ホテル着。


また空の旅

今日はサンチアゴ・デ・クーパからハバナへ帰るのです。朝早い便だというので、ホテルのロビーに5時50分集合です。お弁当を各自に渡されました。
空港には7時に到着しました。
いきなり2時間遅れるといわれました。
空港のベンチで弁当をたべました。。量の多いこと。
8時にチェックインが始まりました。先はともかく、できることは済ませておこうと入りました。
8時半頃に、回りにいる人たちが一斉の立ち上がり歌いだしました。なにか分かりませんでしたが、なんでも偉い人が亡くなったのだとか、それの弔問に偉い人が来たのだとかそんなことのようでした。
私はもうキューバの風土に順化が済んだような気分でしたから、待合室の中の照明が明るく空調がきつくない席にくつろぎ、俳句など捻っていました。勿論、碌なものではなく、俳句 もどきともいえないような代物です。例えば「教会の墓守招き呉る聖夜」70年前のアメリカでの思い出の句です。時間つぶしにはなります。
11時爆音が聞こえ、12時機上の人となりました。機体はエアバスA320、キューバが共産圏以外の国から買った初めて代物なのだそうです。12時13分離陸、13時30分ハバナ空港に着陸。

航空会社の窓口でのことです。普通なら客が一人ひとりデスクにゆき、席など希望を告げて手続きをするのです。でもキューバではチェックイン手続きのため、全員のパスポートをまとめて出せと言われました。見ていると夫婦であろうと、窓際、通路側などの利用者の意向などにはまったく配慮せず処理しているのです。処理時間そのものはコンピュータがほとんでですから何も効率的なわけではありません。
また別のケースでは、通路側にしてほしいと告げたのにまったく無反応で、提出した順序で真ん中の席の搭乗券を渡されました。ほかの文明国でしたら「ごめんなさい、通路側はもうありません」とかなんとか挨拶があるものなのです。
私は年来、相手を大事にする親切心という感情は、人間に本来備わったものだと思っていました。でもキューバの空港デスクの公務員の乗せてやるという態度を見ているうちに、私が人間には本来、相手を喜ばせようという親切心が備わっていると見たのも、実は他人よりも抜きん出ていると認められたいという、目に見えないほど細い、資本主義、拝金主義の毛細血管が作り出しているものなのかとちょっと寒い気がしてしまったのでした。

平面ガラス
「曲面ガラス出現以前」

こうしてハバナへ帰ってきました。着陸の瞬間、今日のうちに帰ってこられたのが嬉しくて、私も心の底から真剣に拍手していました。


この午後、何とかスケジュールをこなしたいと、革命記念館にゆくことにしました。でもその前に遅れに遅れた昼食をすませなければなりません。気の毒に通訳さんは「午後4時の閉館に間に合わないといけないから、早くすませてください」と言い続けていました。

でも食事時間は、日本のうどん屋などと違って、外国のレストランに入ると、料理の出てくる時間で決まってしまうのです。案の定、2〜3分の差で、閉館時間には間に合いませんでした。こうして柵越しに、庭に置かれた撃墜したアメリカの Uー2偵察機の残骸だとか、ゲリラ戦で使われたボート、飛行機などを眺めたのでした。個人的には5枚羽根プロペラの飛行機を生まれて始めてみたのが印象に残りました。

5枚プロペラ
「5枚プロペラ」

あと旧市街や、港にある古い要塞など見て、この日は珍しく早く19時前にホテルに帰着しました。夕食後、一室に有志が集まってラム酒を飲んで宴会が始まりましました。自己紹介で、私は自分は発達障害者ですとご披露しました。

発達障害

この2〜3年、子供の発達障害という言葉が聞かれるようになりました。実は、それの説明として、母親に「どうしてそんなことしたの」と咎められたとき「ごめんなさい。もうしません」と答えるのが正常者で、しばらく考えたあと「だって僕、したかったんだもん」と答えるのが発達障害者だというのです。
まあ、いっとき流行った「空気が読めない」みたいな性格なようです。 確かに子供たちの集団行動では問題行為かもしれません。それを聞いたとき 、私は自分は100%発達障害者だと思ったのです。この話をすると「俺もそうだ」という友人が結構多いのです。程度にもより、また調査方法にもよるのでしょうが、世間には10〜30%ほどいるのだといわれます。ともかく自己紹介でこんなことを言い出したのは、周りに溶け込めずちょっと引っかかる態度に見えはしないかと反省し、釈明したい気持ちがあったからでした。

古い車

「ソ連車もあり」


ロシア製

「さすがお年です」


サンタ・クララへ

翌朝、ハバナから280kmほど西へバスで走り、革命の聖地のひとつサンタ・クララ市へと向かいました。 キューバでは1950年台の中古車が使わ れているのが有名です が、まだ同時代のコンクリート舗装の道路も残っているのです。



70年前、日本に入ってきたアメリカ占領軍に、日本には道路はない、あるのは道路予定地だけだと酷評され、鉄筋の入ったコンクリート道路が出現し始めた時代を思い出しました。これは永代物だと日本人の賛嘆の的だったコンクリート道路も、現代のスムースなアスファルト舗装と比べると高速走行では、がたんがたんとまこと不愉快なものです。
キューバの路上では、色のついた排気ガス、そしてエンコしている車も結構見かけました。(若い人にエンコってわかりますかねぇ。故障して路上に止まっている車を、まだ歩けない幼児がじっと座っている様子に例えた表現なのです。今の日本ではほとんど絶滅・死語化してしまいました)
ガイドさんのスペイン語教室が始まりました。ブエノス・ディアス! (お早うございます)から始まって、さようなら、ありがとう、そしてウノ、ドス(1,2)と続きます。同じ単語を何回も繰り返し声を揃えて叫ぶのです。車内、大変な盛り上がりです。
ところで、このおじい様だけはこんなことを考えていたのです。16,17とスペイン語で20回唱えても頭に染み込むことはない。もし染み込んだとしても、一生使う機会は来るまい。
280km走るあいだ、私の腕時計の標高表示は50〜100mを上下するだけだ。なんというフラットな地形だろう。牧場の境に使ってある石垣は石灰岩のようだ。世界には農耕地として利用できない土地が67%も存在し、その半分が石灰岩の影響によるアルカリ性の土壌なのだそうだ。車窓に流れる原生林は、貧弱な雑木林のようだ。大部分の土地は農地利用として最貧状態である牧畜の段階のようだ。
つまり周りの人たちに溶け込めないのです。発達障害者だからしょうがないのです。
サンタ・クララで昼食に入ったレストランに、チェ・ゲバラそっくりの顎髭頬髯もじゃもじゃの青年がいました。この革命の聖地サンタ・クララを離れるまで、ゲバラ髭には3〜4人出会ったような記憶があります。やはり人気なんですね。
ゲバラ

「ゲバラ廟」
ゲバラ

「カッコイイ ゲバラ !」

革命広場
「革命広場のゲバラ」

チェ・ゲバラ霊廟を訪ねました。この地方を見渡せる小高い丘の上にあります。霊廟そのものは一辺4−50m、高さ4−5mほどの平らな石灰岩の建造物です。上に業績を刻んだ絵や、右手に銃を引っさげた格好いいチェ・ゲバラの銅像が立っています。この塚の中が霊廟と展示館になっています。
霊廟まわりの数十メートルは聖域とされ、脱帽するのは勿論、大きな荷物の持ち込み、高声などが禁止されています。廟内は数日来、経験したことがないほどギンギンの冷房が利いています。ほのかに灯火が揺らいでいました。そしてよく見ようと壁に近づこうとすると監視員に制止されました。高野山金剛峰寺の御廟橋を渡った奥之院と非常によく似た禁忌、雰囲気を感じさせられました。
この日の朝から、s夫人は「私今日ゲバラに会いにゆくの!」と燥いでいました。
これを聞いて、つい、中国へ三国志の攻防跡をたどる旅に行ったときののことを思い出しました。
石家荘で趙雲廟を訪ねたときのことです。われらが一行のマドンナさんが「わたしの子龍はどこにいるの!」と叫びました。
子龍というのは五虎将軍のひとり趙雲の字(あざな、あだな)なのです。なるほどここの廟所では大勢の高名な英傑たちの像が並んでいる中に、彼ひとりだけ色白に、さしずめ今でいうならハーレーダビッドソンにでも跨っているイケメンのように作られていまし た。
やっぱりチェ・ゲバラって素敵じゃありませんか。イケメンで濃い顔中の髭がなんともいえませんね。 妻と子供4人を持つ身で 、世界中の抑圧勢力を跳ね返す革命戦争に身を投じ、「酒は飲まない。葉巻きは吸う。女を好きにならないなら,男をやめる」など格好よい名言を頻発し、39歳の若さで戦いに散ったのでした。イケメンで格好良く生き、かつ早く世を去る、例えてみれば九郎判官源義経、島原殉教の英雄天草四郎みたいじゃありませんか。女性にモテるのも当然、モテナイ男にとってはなんとも嫌な奴。
女性って仕合せですね。男はこんな気持にはなれないものなのです。
そういえば首都ハバナの広大な革命広場は、キューバ観光の目玉のひとつ、また1950年台のアメ車が集う場所でもあります。その一角を占める内務省の壁でも、チェ・ゲバラの大きな顔が見つめていたのを思い出しました。
ともかくチェ・ゲバラは大スター、Tシャツに帽子にコインにと貴重な外貨を稼いでいます。
この後、列車襲撃跡を見学しました。政府軍の列車が通過する前に線路をブルドーザーで壊し、脱線させた貨車から武器を奪い、革命戦争のターニング・ポイントとされた戦跡です。第2次大戦を体験した私としては、キューバでは、どの戦跡も、とても小さく感じられました。でも、争いが小規模で終わるのは、まことに結構なことです。徹底抗戦などせず、ハイチに逃走したバチスタ前大統領も罪が軽くてすんだことになるでしょう。
この日はさらに100kmほど南にある古都、トリニダーまでバスで走り宿泊しました。

トリニダー

植民地時代に奴隷を使い運営していた砂糖黍の農園を見学しました。中央に高さ45mの7階建ての塔が立っています。色々の音色の鐘で合図を送ったのだそうです。アメリカ南部の綿農園で黒人労働者が酷使されていた時代を、オールドブラックジョーの懐かしいメロディーとともに思い出しました。世界中、だんだん良い世の中になってきているのですね。
トリニダーは16世紀頃のスペイン植民地市街の様子をよく残しているとして、世界遺産に登録されています。道は石畳ですが、古いヨーロッパ流で、中央が下水として使われたと思われます。現在のヨーロッパの古い市街では道の中央が溝になっていますが、トリニダーでは道全体が緩やかなV型になっていました。折から驟雨が来ましたので、道はさながら小川です。これなら、大便、小便はおろか犬猫の死骸でも、すっかり流してしまうはずだと納得しました。

道が川になる
もうひとつ。雨で湿気が入るといけないという理由で、歴史博物館が閉館になっていました。この日、バスでハバナへ帰りました。

経済封鎖

首都ハバナでの最終日、朝、強風が吹き荒れ、海岸沿いの主要道路が閉鎖され裏道のような所を走りました。
下記は古い住宅街を走りながらの一行の一人と、ガイドとの一問一答です。
問 どうしてこんなボロボロの家を壊して建て替えないのですか?
答 建て替えるお金がないからです。
問 どうしてお金がないのですか?
答 アメリカが経済封鎖しているからです。
問 経済封鎖ってどんなことをするのですか?
キューバという国は、こういうタイプの人が、歌って踊ってカリブ海に浮かぶ南国の島で楽しむというのがふさわしい街なのだ思いました。
経済封鎖

首都ハバナ

まずラム酒博物館へ行きました。
ラム酒博物館は予約制に変わり、今日は14時なら取れるということです。この情報は地元の旅行社にとっても初耳でした。私たちは午後は買い物を予定しているのだから、ラム酒博物館見学は止めようと女性陣は強硬です。そうなれば男性だって異議ありません。ところが今度は旅行社が強硬なのです。入ることになっているのだから止めるわけにはいけないというのです。結局14時に予約し、実際には訪問しませんでした。ここまで揉めたのは博物館のせいだか、旅行社のせいだかしれませんが、普通の国だったらスットゆくところなのにと思いました。


このあとモロ要塞を訪ねました。首都ハバナの人口は約200万人、昔から栄えた港町ですから要塞も立派です。世界一長いとギネスに認定されたという葉巻きが、天井にぶら下がっている お土産店も立派です。定番のチェ・ゲバラの執務室もあり、彼の格好良い写真も掛かっています。首都ハバナ市なら外国航空会社が乗り入れ、時間も予定可能です。観光にはこの辺りがお薦めできるのだと思いました。

キューバの首府ハバナで市場というところへ連れてゆかれました。
港に面した倉庫の様な建物の中に数百軒の小さな店がひしめいています。ハチドリやダンサーなどを模した木工品、鞄などの革製品の店が殆どで、全くどれもこれも同じような店ばかりなのです。
あちこちの国でこういう市場へ連れてゆかれたことがありました。売っているものが小エビの干したのだとかナッツだとか香辛料だとかの同じような店が集まっていました。
私はこういうところでの買い物がとても不得意なのです。
あるお店に入って買い物をすると、その店は収入、利益を得ることになります。
あれだけ同じような店があったのでは、売上がない店だってあるに違いありません。若いきれいな女の人が売り子だったり、威勢のよい若い衆が呼び込んだりする店はどうしても売り上げが多いでしょう。
売上が少ない店の人はどうして暮らしてゆくのでしょう。ましてや力がないために有利な場所取りが出来なかったり、自分が醜いと自覚している女の人などどんなに哀しいでしょう。そう思うと、差別を作るような買い物行為には気が重くなってしまうのです。
キューバでは国民の80%が公務員だといわれます。基本的に皆平等な給与だといわれます。売れる店も売れない店も給与は平等なのでしょう。入りやすいですね。格差のない世界って素敵ではありませんか。

公定価格

珍しく早くホテルに帰ってきましたので、近くのスーパーに行ってみました。スーパーに並べられた商品は、どこの国でもそんなに変わるわけではありません。でも、魚屋で地元の魚たちの顔を見るのは結構楽しいものなのです。世界には随分変わった顔をした魚はいるものです。ところがこの日は、もう、キューバのスーパーは閉店していました。 ときはまだ午後4時、 ガイドさんは「値段はスーパーもホテルの売店も全く同じ」と慰めてくれました。「公定価格」って昔日本にもあったことを思い出しました。
当然、戻ったホテルのショップはごった返しています。シャワーでも浴びてからと利口ぶって、すませてから下りてゆくと「クローズド・サー」といわれました。こうしてバラマキお土産のチョコは、カナダのトロント空港で購入ということになりました。

山の彼方の空遠く

こんなにして、アメリカとの国交回復により、古き良き時代の存続が脅かされると危惧されるキューバという国を訪ねてきました。
今回同行した皆さんに、キューバを見てきた感想をお尋したら「キューバは社会主義の理念のもと、生活格差がなく、医療、教育を無料で受けられる国、そしてみんな自由に歩いている理想の国じゃありません」 そんなようにお答えになるだろうと思います。世間の会話というものは、こうして始まるものなのです。だって、まわりの人たちは、みなそう言っているのですもの。そして、そんな理想のような国に、自分が実際に移住しようとなさる方が皆無なこともまた確実なのです。
現実と夢とは違いますし、夢のない人生なんて無味乾燥です。そして夢の追い求め方も人さまざまです。
 カール・ブッセ作 上田敏訳の詩を引用してみました。
山のあなたの空遠く
「幸」(さいはひ)住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」(さいはひ)住むと人のいふ。

最後の部分「山のあなたになほ遠く、幸い住むと人のいふ」は、重い言葉です。

Aさんはこれを聞き、靴の紐を解きもせず、次の「幸い」を求め腰を上げることでしょう。
Bさんはその言葉の信憑性を確かめ、所用日時、費用などに考えをめぐらすことでしょう。
Cさんは、なに「幸い」は、今ここにいる自分の心の持ち方で、あったりなかったりするんじゃよと、長屋の隠居然として顎をこすっていることでしょう。

そうです、世の中には色々の人がいるのです。

アイ ラブ キューバ

最後にキューバがこれからどうなってゆくものか、愚考を陳述して終わります。
お前、まだ生きていてものを言ってるのか、と笑い飛ばしてください。

トランプのメキシコの壁ではありませんが、リッチな国に近くにある貧困国は、基本的に難しい問題を抱えています。豊かな国への人口移動に規制は欠かせません。
人口1,100万人の国が、厳しい国際社会の中で生きてゆくには、団結して小粒の山椒のように強くなり、強国の間を賢明に渡り歩くのが唯一の道でしょう。
キューバがピリリと辛くあるためには、やはり現在の路線踏襲です。良し悪しは別として、強者に対していわれなき反感を持つのは人類の基本的性格です。そして、折角ここまでガチ反米できているのですから、下手に手を抜くとまた革命騒ぎになりかねないでしょう。致命的な国際評価の低下になります。今後ともフィデル・カストロのような優れたリーダーの出現が望まれます。
言論統制はキーポイントになりましょう。新聞は街角で売っていましたが、私はスペイン語は読めません、地元の人が見ているテレビも見るチャンスがありませんでした。スマホの世界もわかりませんでした。

国会議事堂
「新車? あれは幻 キューバは格差のない理想の国」 

現在の大国はアメリカ、中国、ロシアでしょう。
アメリカは世界中の揉め事に手を焼いていますが、所詮は、キューバにたいしては、金持ち喧嘩せずでいてくれるのではないでしょうか。
北朝鮮のミサイル開発への対応を見れば察しがつくように、中国、ロシアはアメリカに楯突くようなことでさえあれば、内容がなんであれ、裏に回ってある程度手を貸してくれるでしょう。
キューバとしては、世界トップクラスの所得格差などの現実には目をつぶり「 マルクス・レーニン主義 共産党による一党独裁」という看板を強調すれば中華人民共和国が最も近づきやすい存在でしょう。

問題は、中国が、どれほどキューバの利点を買ってくれるかですが、南シナ海でやっていることを見ると、カリブ海はいささか遠くはありますが、逆に中米圏の真ん中というメリットも考えられます。

今回の旅行で、私たちは中国系のバス会社を使いました。何でも中国からの破格的な好条件で作られた会社と聞きました。このバス会社はキューバの航空会社とは違い,運行上のトラブルなど一件もありませんでした。中国の進出は、街のあちこちで目に着きました。私たちもキューバの子供たちから、中国人と思われた節もありました。

先にも触れましたが、今回同行してくださった方たちは、教職にあられた方が多いようでした。拝見していて、なんて純真な方たちだろうと思い続けていました。聞いたことをすっと受け入れられるんですね。
七人の敵がいる暮らしに明け暮れ、一つの情報を前から見るだけでなく、斜めから見、後ろから見る習慣を身にまとっている私にはとても羨ましく感じられました。
例えばバイキングでスープを取りにゆこうかと心のなかで思っていると、すっとスープを持ってきて下さったり、本当にお世話になりました。素直な方たちとご一緒できた楽しい9日間の旅でした。

年の尾や思い出はみな美しき

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