頑固者
往路の機内でこんなことがありました。
軽食の機内サービスのとき、乗務員が私たちの列だけ渡すのを忘れて通り過ぎて行ってしまったのです。ま、相手も忙しいだろうから後で頼めばいいさと思ったのでした。最後の席まで配布が終わるのを待って、画面のボタンでコールしました。
ところが反応がないのです。ほかのお客のリクエストで忙しそうに動きまわる乗務員に手を上げても、なにかそちらのほうが優先でもあるかのように反応がないのです。仕方ないので何回かコールしました。
今までの経験では、座席の頭上のランプが点灯しコール場所を示すのが普通でした。でも、今度の機体ではコールがされているかどうか、お客からは確かめる術がありません。何回かコールを繰り返しました。
15分ぐらい経った後に、やっと男性の乗務員がきました。
そして用件を聞いたあとで、「マルチプル・コール ノー グッド ワンス イナフ」とタシナメたのです。
そのとき、ユーモア作家マーク・トウェインの短編小説を思い出しました。 それはこんな筋だったと思います。
【友人と大陸横断列車の食堂車で食事をしていると老人が入ってきた。車掌が「ここはネクタイをした人の入るところだ、出てゆきなさい」と老人をタシナメた。それを見ていた私の友人は車掌に、「どんな身なりの老人だろうと、お客にそんな失礼なことを言うものではない。この件を君の会社の社長に話すつもりだ」と厳しくとがめた。車掌「まさかこんな小さなことを、本気で社長に言いつけやしないでしょう」。友人「社長は僕のゴルフ友達だ」。すると車掌はすっかり青くなり、くだんの老人に詫びを言い始めた。
あとで私は友人に「君が社長の友達だなんて知らなかったよ」と言うと、彼は例の硬い口調で「友達でなんかあるものか。でも、あれだけ反省すればもう二度とするまい。彼はまだ若い。家族もあり、仕事で失敗し失職しては困るだろう。会社だって良くなることは望ましい。この手の嘘は方便どころか、関わりあった者の義務だといってもよい。】
私は日本語のわかる女性乗務員に、クレーム用紙を要求しました。間もなく責任者の女性がプレゼントらしき紙袋を持ってきて私たちの列に差し出しました。もちろん、誰も受け取りません。
30分ほどして「もうお書きになったと思います。お預かりして会社に出します」と乗務員が言ってきました。私は「私が送ります」と応じました。
実際、クレームシートは一週間ほどあとに送りました。事実は正確に書きましたが、本人が特定できるような便名とか日付は記入しなかったことは申し上げるまでもありません。
【ミスそのものは、私だって何時かは犯しかねないので気にしていません。ただ、乗客からのクレームに対しては事情を説明し謝罪することが絶対に必要です。貴社が、より良いエアライン会社になりますように】
など格好をつけて書いているうちに、なにか子供っぽく思えて、私自身が小説の中の道化師でもあるかのような気がしてきました。
この歳になると、 去年死んでいればこんなことのない人生で終わったのにと、 なんとも言えない妙な気持ちになるものです。
ミズリーナ湖、ドロミテ地方の美景のひとつ
旅の仲間
私は、まだ行ったことがないところへ行きたいという強い指向があります。 なのに今回のドロミテ行きは、いわば2回目でした。というのは、過日の深田クラブの会合で、昨年のヨーロッパ山行の報告を聞いているうちに宗旨替えをする気になったのです。
今回のパーティーのリーダーを勤めてくださったYさんは、若い頃からヨーロッパの山々を登っておられ、すべてについて大変お詳しいのです。その知識をフルに使って計画してくださいました。
ウイーンで入国、最後はザルツブルグ
インターシティの特急列車、ローカル線、路線バスをフルに使い、つなぎにタクシーを入れ、パック旅行とは対極的な旅をさせていただくことができました。
年を取り一人旅が難しくなり、やむを得ずパック旅行に参加していた私にとっては、今回のような公共交通機関利用の旅は、旅そのものが懐旧の旅だったのです。
オーストリアでのこんな旅は14年振りです。あの頃のローカル線では車両の中ほどに仕切りがあって禁煙席と喫煙席とを分けていました。その頃日本ではもう禁煙がかなり進んでいましたので、ヨーロッパは遅れていると思ったのでした。
でも、今度は列車はもちろん、もう殆どの公共の場所は禁煙になっていて、びっくりしました。
こんなに素敵なローカル列車も走っています
今回の深田クラブ有志の旅は、女性1名、男性6名でした。私が最年長、私の7才下がひとり、10才下が4名、一番若い人は16才年下でした。私から見れば、まだまだ若くて元気な人たちですが、世間から見れば年長組のパーティーに違いありません。
他人から見れば枯れた人たち、本人たちにしてみれば分別のある人たちですから、レストランではいろんな種類を4人前注文し、適当に分けて、美味しく残さずに食べました。
こう書き出すと礼儀作法など無縁のようでもありますが、実は一行の中にワインに造詣の深い方がおられて、毎回ちゃんとワイン・テイスティングの儀は執り行ったのでした。
食事全般にそれぞれお好みがあるようでもあり、また何でも食べてみようというふうでもあり、毎回賑やかに食事を楽しませていただきました。
洋食について皆さんお詳しく、いろいろのウンチクを伺うことができました。でも、美味しいと思ったときには「美味しい」と口にされ、美味しくなくても黙っておられるような性格の方々ですから、結局、口に合わないから残すということは起こりませんでした。こんな山男、山女は大好きなのです。
私は先の世界大戦の敗戦前後の食料不足を経験していますから、なんでも口に入るものがあれば、まずは嬉しくなるほうなのです。
そもそも人が、ある食べ物を「美味しい」と口にするとき、それは正確には「私が美味しいと思う」というべきものを、「私が~思う」を省略しているのです。それが世の中の通例だからです。つまり所詮は主観的な判断なのです。もう 少し譲っても「美味しいという人が多い」「美味しいという評判だ」程度の客観性しかないはずです。ですから世のへそ曲がりが、「手前味噌」などという冷笑気味の言葉を考えだすのも、あながち間違っているわけでもないでしょう。
こんな屁理屈をこねながら「うちのご飯が一番おいしいね」などいってボソボソ食べているが私の人生なのです。
それが、こんなにして、沢山の人たちと触れ合う機会に恵まれ、刺激のある2週間を過ごせたことをつくづく有難いと思いました。
ドロミテ・ハイキング
今回訪れたドロミテ地域の地質は、殆どが灰白色のドロマイト(石灰岩の一種、マグネシウムの割合が多い)から成っており、尖鋒、高原、渓谷を造り出しています。ヴィラッハ、コルチナ・ダンペッツオ、コルバラ、オルティセイなどの集落は谷底にあり、宿の近くから大きなゴンドラ、中型のカプセル、リフトあるいはバスなどが、高原あるいは山頂近くまで数多く通じています。
オーレンゾ小屋を望む
適当な場所ごとに山小屋が設けられ、全体的に、登山者のレベルに応じて好みの場所でハイキングを楽しめるように登山路が良く整備されています。
高原は牛の放牧地になっています。柵など設けられておらず、一面緑の原に、牛の家族がのんびりと横たわり、カウベルがのどかに響いています。
母さんのカウベルが好き夏野原
パーティーの年齢差は16才と大きくて、最年長の私など皆さんと同じ行動ができるわけはありません。
たとえばドライ・チンネン(トレ・チーメ)では周回する皆さんとは別ルートをとり、ロカッテリ小屋から往路を引き返すことを宣言しました。老人には登りが苦手だからです。
6年前には周回コースをとりましたが、最後の登りで雨に会い、皆さんに遅れまいとして力み、かなり苦労しました。
一行のうち特に若いお二人は朝も早くから起きられ、街を見物し写真を撮られるなど精力を発散させておられました。
私など、なんといっても皆さんのブレーキになっていただろうと申し訳なく思っています。でも、まあ出来るうちはお付き合い願いたいと、甘えさせてもらうつもりでいたのです。
ドイツ語でドライチンネン、イタリア語ではトレチーネ
三つの煙突を意味する 世界遺産
ヨーロッパの天気はしつこい
4,486 6,873 24,546 7,547 21,172 12, 439 8, 679 8,976 10,585 8,052 12,791 5,521 3,911
この数字は何だろうとお思いでしょう。旅行中13日間に記録した万歩計の数字なのです。
登山靴を履きゴアテックスの雨具を持ちすっかり山屋の装束で出かけたにしては、意外に少ない数字だとお思いでしょうか。
実際、天気には恵まれなかったのです。テレビの大まかな天気概況を見ていると、連日、我々がいたイタリア半島の付け根あたりには低気圧を示す雲の渦が停滞を続けていました。
折からウクライナのマレーシア機の撃墜が連日テレビを賑わしていました。悲惨な残骸の映像はともかく、彼の地の青空だけは何とも羨ましい次第でありました。 欧州では山頂に十字架があることが多い。年とともにデラックス化進行中
十字架に激しき雷の迫りけり
この時期かなりの期間、ドロミテでは標高2千メートル辺りから上は雲に覆われていました。青空が覗き山頂が見えたケースは全体の時間の4分の一程度だったで しょうか。
全体的には小さい積雲の連続、層積雲といった様子でありました。ときには雲頂が発達して、雷鳴に驚かされたことも何回かありました。
期間中、どちらかというと風は南から吹いていました。全期間を通じて風を強く感じたことはありませんでした。
「梅雨明けが遅れているみたいですね」というコメントは実感でしたけれども、やはり日本の気象とは違っていると思います。
天気は後半のオルティセイ滞在中はとくに悪かったのです。そんな恵まれぬ日を使って、ボルツァーノ、ブレッサーノ市を見物しました。
アイスマン
オルティセイ滞在の2日目、朝から雨でした。
古都ブレッサーノの大聖堂、ドゥオーモでも見に行こうやということになりました。
バス停にゆき予定したバスがあることを確認しました。オルティセイのバス停はちょっとした広場になっています。そしてバスは横に3列、並列に駐車するようになっています。
ところが、その3つの列の右か左か真ん中か、どこへ自分が乗ろうとするバスがくるかはわからないのです。バスが着いてから乗車口へ駆けつけるわけです。
この日は雨でしたからわれわれと同じ考えの人が多かったのでしょう、黒山の人です。あとから来た人が後ろに並ぶという発想はまるでないようでした。ただ力づくで割り込むのです。こうなると我々日本人はもうまったくダメです。どうなることやらと思っているうちに、ドライバーにここまでと宣言されました。我々だけではなく大勢の人が置いてゆかれました。次のバスは午後、一日に2本しかない路線なのです。
というわけでブレッサーノは諦めて、代わりにボルツァーノへゆくことにしました。
私には、もしもボルツァーノを訪ねる機会があったら是非見ておきたいと思っているものがありました。アイスマンです。
【1991年9月19日、氷河の溶けた雪の下からミイラ化した遺体が発見された。当初それは通常の遭難者の遺体として処理されていたが、彼の周囲から見つかった道具類が現代では見慣れないものだった。それで考古学者に見せたところ、これらはヨーロッパの青銅器時代前期のものであることが判明した。 現在なお詳細な研究が行われており、身長160cm、体重50kg、骨からのデータにより年齢47才前後、筋肉質な体型だと解明されている。
左肩に矢尻が見つかり、これが死因である可能性が高まった。また右眼窩に骨にまで至る裂傷が認められ、さらに後頭部に即死に至る量の脳内出血の痕跡があり、これは彼を殺害した者が、止めを刺すべく、矢を受けて倒れた彼の後頭部を石などの鈍器で殴ったと推測できる。
約5300年前の事件であった。青森の三内丸山遺跡の住人と同時代で、中國の孔子が2500年ほど前の人であることを考え合わせると、われわれとそんなに遠くない人といえる。
のちに遺体の発見場所がわずかに国境を越えていたことが判明し、イタリアに引き渡され、ボルツァーノの博物館で公開されている。 彼、アイスマンは普段は摂氏-6℃、湿度99%の冷凍庫の中で保管され、ミイラに水分を補給するために2ヶ月に1度だけ冷凍庫の外に出される。】
というようなことを承知していました。
アイスマンを保管する博物館前の行列
それで、仲間と別れて一目散、博物館に駆けつけました。
博物館の入り口にはアイスマンの絵が書かれた幟が掲げられていてすぐに分かりました。ところが入館を待つ人々が100m近くも並んで建物を取り囲み、しかもちっとも進む様子がありません。帰りのバスの時間を考えると完全にアウトです。諦めました。
ここの長距離バスはバスセンターから発着します。気になったいたので、バスの混み具合を見ていました。
バスの時刻表はありました。また、ホーム番号の表示があるだけ上等ですが、それでもホームのどのあたりに停まるかはわからないのです。
従って日本のように◯◯往きと書いた札から先着順に並ぶなんてことはできません。また乗車が始まっても、後からきた人が、まったく平気で割り込んできます。こうなるともう、面の皮の厚さと体力勝負の世界であります。
日本も昔はそんな様子でしたし、現在では中国人がその方面で名高いといえましょう。でも今回の経験では中國人以上の迫力を感じました。
押し合いへし合いすることで住民を鍛え、将来のラグビー王国を目指しているのかと悪いジョークをいいたくなるほどでした。
誤解がないように付け加えておきますが、これは南チロル地方の観光シーズンのことで、地元の人達にとっては迷惑なことでありましょう。
犬じじい
わが家では犬を2匹飼っていました。
今年の5月、年長の1匹を亡くしました。死因は老衰、14歳でした。
それ以後、残された1匹は、なにか、すっかり性格が変わってしまったように感じます。
まず、あんなに争って食べていた食事に、すっかり興味を失ってしまいました。そしてことごとに、兄貴をそんなにも頼りにしていたのかと思わせられるケースに出食わすのです。
そんな残されて気落ちしている12才の犬に、「あんたが死んだらどうするの。頑張りなさいよ」と女房は真剣に言い聞かせています。
そんなこともあって、今回の旅で出会った犬たちに、私は今まで以上の関心と愛着を感じていました。
とくに山で、今回は山と言っても岩登りではなくてハイキングに近い山歩きですが、日本では想像できないほど沢山の犬たちと交歓しました。
この年頃、日本でも急激な速度で人間社会に犬が入り込んできています。犬の人口は急増し1千万頭を越えているといわれます。日本の山でも犬に出会うことが多くなりました。
でも今回、頻繁に、犬が電車、バスに乗っているのを見ると、ヨーロッパとはやはりまだ大きな差があると思はれます。
女性の社会進出面での欧米との差と同様、といえば語弊があるかもしれませんが、ともかく沢山の犬たちが山に連れてきてもらっています。
旅の3日目ぐらいから、もう、行き交う犬たちに挨拶しないでは済まなくなりました。
帰国したとき、その様子を家族に紹介したくなりました。それで犬たちの飼い主さんにお願いして、写真を撮らせてもらいました。どの飼い主さんも、どうぞどう ぞと誇らしげに応じてくださったのはいうまでもありません。
街なかでも、ついつい犬たちに声をかけていました。
でも彼らの反応は、私が日本で犬たちに声をかけた時となにか違うように感じました。もちろん日本の犬と同様、人懐っこいのや、怖がりのや、いろんな性格の犬たちが居るのは日本と同じです。でも、犬たちは私を外国人だと、明らかに意識しているように見え面白いと思いました。
サウンド・オブ・ミュージック
旅の最後の日はザルツブルグ泊まりでした。
ザルツブルグといえば、この街の売りはモーツァルトでありサウンド・オブ・ミュージックでありましょう。
ということで、モーツァルト広場の片隅にあるレストランで、サウンド・オブ・ミュージックショウ付きのディナーを張り込みました。
地下にある狭い石造りの部屋は香港からの学生たちの団体で占められ、一般客はほんの少々といったところ、なにせギュウギュウ詰めで息苦しくもありました。
食後、ピアノ奏者と男女2人づつの歌手が映像と音楽で、思い出のサウンド・オブ・ミュージックを約1時間半タップリと披露し楽しませてくれました。 サウンド・オブ・ミュージックが映画化されたのは1965年、もう半世紀近く前のことです。これだけ長く世界中の人達から愛された稀な作品といえましょう。
この映画について私にはいろいろと思い出があります。
まず、献血するたびに、この映画をビデオで見ていた件です。
私は定期的に献血していました。献血することで、自分の体調にマイナスの影響 が出たと感じたことは一度もありませんでした。それで、世の中の他の人に役に立つのなら私こそ献血するべく生まれたのだと有り難くさえ思っていました。
勤務の関係で、あちこちの献血ルームへ行きました。そして赤十字マークの入った歯ブラシやボールペン、ネクタイピンなど随分いただきました。
採血は約一時間、ベッドで横になって行われます。そのあいだ、ひ とりひとりに希望のテレビなりビデオを見せてくれたのでした。
その時に私はいつも、サウンド・オブ・ミュージックのビデオを頼んでいたのでした。
上下二巻に分かれていて,各巻がほぼ採血時間とマッチしていました。
何回見たことか覚えがないほどよく見ました。なにせ、アルプスの美しい景色と、耳に快い音楽が大好きだったのです。
ここザルツブルグ地方が、あのミュージカル映画のロケの舞台になっているのです。
14年前、この街を始めて訪れたときサウンド・オブ・ミュージック号という午後半日コースのバスツアーに参加したのでした。そのとき私は70才、まだ若かったんですねぇ。
60人乗りのバスは、ほぼ満席でした。始めから最後まで車内にサウンド・オブ・ミュージックの音楽が流れていました。
ガイドさんは、「皆さん、どこの国から来られました? アメリカの人、イギリスの人」といろんな国の名をあげ、手を挙げさせました。 カナダ、ドイツ、メキシコ、アルゼンチン、インド、韓国、オーストラリア、そして日本も呼んでくれました。日本人は私1人でした。
ガイドが「外の国は?」と促すと「フランク王国」と答える道化者も出てきました。客の方もふざけて、平安時代にヨーロッパ西部を支配していた王国の名を言ったりしたのです。ガイドさんに「そりゃ何処にあるんだ?」なんて言われていました。
ともかく、昔々の一つの映画のロケの場所を見たいと、こんなに世界中から人が集まってくるなんて、ほんとに面白いことだと思ったことでした。
舞台になったザルツカンマーグート地方は、雪の輝く山あり、白い帆の浮かぶ湖ありの本当に美しい眺めでした。おまけに、ザルツブルグが誇る楽聖モーツアルトの母親だって、この地で生まれたのでした。
私も善男善女の一人として、あの甘く懐かしいサウンド・オブ・ミュージックのメロディーを聴きながら、半日過ごしたのでした。
さて今回の旅の最後の夜、私はショウを見ながら過ぎ去った日々を思い出していました。
まったく思いもかけずこのザルツブルグに3回も来ることができたのです。
若いころの私は随分つまらないことを考えていたような気がしてきました。
たとえばこの夜のショウについても、若い頃の私だったら、やれ人を詰め込み過ぎではないか、空気が汚れていて酸素は20%を切っているに違いないとか、歌手の発声もイマイチだ、など考えていたことだろうと反省したのです。
一期一会という言葉は前から知っていました。でも、やはり、若い時は潜在的に二会も三会もあるような気がしていたのでしょう、一会という言葉の持つ厳しさを悟ることはできていませんでした。
いま年をとったお陰で、残された短い時間を、専心、楽しい思い出だけに身を任せていようと、すっぱり割り切ることができたのでした。