カナダから帰って6日目の9月2日、のぞみ1号で小倉に向かい
ます。最近引退が決まった、あの丸っこいチューブ型の500系の車両でした。ときどき「現在300kmで走行中です」とサインが出ていました。小倉からは
特急ソニック号に乗り換え大分までまいりました。
★謡曲大会
この日、大分能楽堂に日本全国から、電力会社の謡曲愛好者約270名が集まり、日頃の精進の成果を披露し合ったのでした。
わたしたちは10人ほどで謡う「籠太鼓」の連吟を出しました。わたしはカナダ旅行のため練習に出られず、この日が、ぶっつけ本番だったのです。直前になっ
て、わたしが暗記していた部分だけではなくて、その前後も謡うことになっていることが分かったのでした。
声を出さずに、口をそれらしくパクパクさせているのも、意外に難しいことが分かりました。ときどき、口をほとんど動かさずに謡っている人も見かけるので、
観客がそんなように見てくれたら有り難いと念じていました。
謡い終わって席に戻ると、観客席にいた仲間が「よく合っていたよ」といってくれました。連吟は全員の声が揃うのがポイントですから、これは最高の讃辞なの
です。パクパクも案外捨てたものではありません。大会終了後の懇親会で、地元九州電力の大分支店長さんから歓迎の挨拶がありました。そのご挨拶には、まっ
たく九州訛が感じられないのに気がつきました。
そういえば今回はJRの車掌さんのアナウンスにも、九州訛がありませんでした。かっては「にっぽうシェン」と発音していたものです。
言葉が移り変わる速度は、I T革命がいわれてから、より早くなってきました。
普通の人が話す日本語だって、ずいぶん変わりつつあります。最近では、たとえば「本
を読む」といわないで「本
と
か読む」という人が沢山います。若い人など、NHKのアナウンサーが使う言葉を、もう話せなくなっているといってよいでしょう。
言葉は自然に変わってゆくものです。しかしそこには、変えてゆこうという方向と、変えるまいという両方の意志・思想があります。
明治以後、教育制度を整備し標準語化を推進する動きがありました。また、植民地で宗主国語を強制する動きも世界的に共通であります。こうした言語統一の動
きを推進しようとするのは体制側、反対するのは反体制側という構図になっています。
他方、若い人やファッション派による日本語の乱れを嘆く潮流もあります。言葉の乱れに反対するのは、背骨のしゃんとした保守派であります。
また、押しつけられるのとはまた別に、よりよい生活を目指すうえでどちらが有利かという、功利面からくる個人の自主的選択も強く作用しています。
わたし自身は「本来、どの言葉にも綺麗とか汚いとかはないのだ」という立場をとっています。したがって、各地の方言や新作語が汚いからといって軽蔑すると
か、卑下するとかいう行為には絶対に与しません。
むしろ国家の存在形態や言葉の分布が、どうして現状のようになっているのか、そして、これからどうなって行くのだろうかという点に興味を持っているので
す。
世界中の国の、国土面積と地形、人口規模、使用言語、武力、経済力そんな項目を見回してみても、どんなまとまりをもって一国にするべきかという決定的な条
件にはならないと思われるのです。
それでいて各国が、現状を大局的に妥当、あるいは不当だと認識しているのは、むしろ主観的な歴史観からきているように思われます。
20世紀後半からは、政策的、思想的見地から使用言語を押しつける行為は人気がありません。
そのため今後の動きは、功利的な個人の選択が卓越することでしょう。
そしてそれは、アイヌ語が事実上絶滅したように、大きい集団が使う言語に集約される方向に進むのでしょう。初期の段階では、生国語(ネイティブ)と標準的
語(メイジャー)とのバイリンガル、そして世代を経過するに従って標準的語が生国語になり同化してゆくのでしょう。
なんとかかんとかいいながらも、ホモサピエンスは、あと2〜3000年ぐらいは生き延びることでしょう。
いまの生活変化のスピードからして、100世代後のことを想像すると、世界標準的語を話し、世界標準的様式で生活している人を、日本という土地に住んでい
るだけで日本人と呼べるのかというのが、日本民族消滅論であります。
★日豊線の印象
今回、九州で乗ったJRは日豊本線でした。日向と豊前を結ぶので、こう名前がつけられたのです。ところが、実際にはほとんどの場合、日豊線(にっぽうせ
ん)と呼ばれるのであえて題名は日豊線としたのです。
車窓から見る景色には、懐かしい思い出を誘うシーンが一杯ありました。
まず、九州にはまだあちこちに、草ぼうぼうの荒れ地が残っているんです。時期もちょうど真夏でした。むかし、小学校の頃、夏休みになると知多半島の野間で
貸別荘を借り、家族で海水浴にいっていたのでした。その頃、名古屋から知多半島に入って感じた、あの田舎へきたなという感覚が蘇りました。
また、杉林の下枝がよく苅払われていて、きれいに手入れされているのが目につきました。
・それぞれの色に広ごる稲むしろ
そのうちに双葉山神社と書かれた大きな看板が車窓に流れてゆきました。気をつけて見ていると、5分ほど走ったところで横綱双葉山生誕地という看板が出てき
ました。
双葉山は69連勝した無敵の横綱だったのです。当時は今の年間6場所と違って2場所制だったのです。だから、2年半、勝ち続けたことになります。
その双葉山を破ったのは大関安芸の海でした。わたしの小学校高学年の頃の出来事ですから鮮明に覚えています。
双葉山神社のほうにも興味をひかれました。
明治神宮は明治天皇がご祭神ですが、その御縁起をだれも特別に論議することはないでしょう。山口県にあった明治の元勲伊藤博文公を祭った伊藤神社や、乃木
将軍を祭った乃木神社にも、お参りしたことがあります。
でも、双葉山のような昭和の人を神様にするとはと、珍しいものを発見した気持ちになりました。
ところが帰ってからインターネットで調べてみると、双葉山の生誕地は確かに大分県宇佐市なのですが、双葉山神社というのは見つかりません。なんか宿題がで
きたような気持ちでいるのです。
双葉山は1960年相撲協会理事長時代に、ある機会に挨拶状を読み上げることになりました。ところが、その挨拶文を渡す役の人が原稿を持ってくるのを忘
れ、部屋に取りに戻ったのです。その間双葉山は土俵上で直立不動の姿勢を崩しませんでした。最初は、失笑の声が漏れましたが、その真剣な姿に館内はやがて
シーンと静まり、そして拍手の渦となり、なかには涙をこぼす人もいたそうです。
なにせ図抜けた存在で、相撲の神様と呼ぶ人や、史上最強の横綱と考える人は多いのです。
2日目、大分から宮崎までは「にちりん」という名の特急に乗りました。
日豊本線は、最初、大分から延岡までは、山と海に挟まれた村々をノロノロと走ります。そのうえ単線ですから、行き違いのため「4分停車など」と何回もアナ
ウンスがあるのでした。まことに特急にあるまじき走り方でした。
ところが延岡を過ぎると、同じ「にちりん」なのに、まるで人格が変わったようにヒタ走るのです。
念のために帰ってから時刻表で調べてみました。
大分〜延岡間132.9kmは所要時間2時間15分ですから平均は55km/h、延岡〜宮崎間では83.7kmを1時間2分、平均81km/hと約1.5
倍の速度でした。
調べていてもっと驚いたのは、市棚〜延岡間の5つの駅には1日4本、佐伯〜宗太郎間の5駅には1日2本しか列車が止まらないことを発見したのです。本線と
名が付き、特急ならばほぼ1時間に1本走る日豊本線なのにです。こんなところにもこんな過疎地があったのでした。
延岡駅で、名古屋からきた謡曲の友人たちは降りてゆきました。
かれらは、高千穂の夜神楽を見て、翌日、宮崎をマイクロバスで効率的に回ろうというのです。
わたしだけは、例の、良く言えば個性的、悪く言えば偏屈な一人旅です。
★西都原古墳群
宮崎駅前でレンタカーを借り、まず西都原考古博物館を訪ねました。
大変立派な博物館でした。中にはボランティアさんが何人もいて、付き添って説明して下さいました。
わたしに説明してくれたのは、年配の女性でした。
考古学というより歴史時代の、伊東満所(1582〜1590、13才で天正遣欧使節の正使としてローマへ)が、誰とかのお嫁さんの兄さんの子供だとか、わ
たしの苦手な家系の話をしてくれ、やっぱり女性だなぁと感心させてくれました。
博物館の3階が展望ラウンジになっていて、一帯の古墳群などを見渡せるようになっています。
このあと男狭穂塚(おさほづか)、女狭穂塚、酒元の上横穴群、鬼の窟古墳と見学しました。
東西2.6km、南北4.2km、標高50〜80mの平坦な洪積層の大地に、4世紀から7世紀までの古墳300基あまりが散在していま
す。
縄文、弥生をとおして、この地域にはいくつかの特異な点があるのだそうです。それらを下記に列挙します。
・前方後円墳は約30基あります。4世紀から作り始められてますが、長さ150mを超える巨大な男狭穂塚(伝ニニギノミコト)、女狭穂塚(伝コノハナサク
ヤヒメ)が5世紀前半に作られてから約100年間は姿を消し、6世紀中頃からまた現れます。
そして前方後円墳が姿を消した時期、よそでは見られない、地下の横穴式埋葬設備が造られています。
実物大の4号地下式横穴墓のレプリカを見て、その大きさに驚きました。まず、縦に穴を掘り下げ、そこから水平に横穴を掘り、遺体を葬っているのです。これ
を造るのは大変な労力が必要です。
世界のたいていの所では、普通の人が普通に考えるように、上から棺桶の大きさに合わせて矩形に掘り下げ、棺を安置してから土を被せているのにです。また、
その素堀の横穴が1500年経っても崩れていないようなのです。これも不思議でした。多分、このあたり一帯が、火砕流でできた特別の地質だからでありま
しょう。
・この地域では、いままでのところ土偶が出土していません。
・いままでのところ、銅矛、銅鐸などの青銅器が出土していません。
これらの点は、一般的な考古学の認識からすれば、非常に変わっているという印象を受けます。そしてこの博物館では、それがどうしてそうなっているのかとい
う理由を解説してありました。
この変わった地方についてわたしの知識は全然ありませんから、その解説の当否を論ずる資格がないことは承知しています。でもその説明は、にわかには納得で
きなくて、将来の問題だろうと感じていることも事実であります。
★博物館
西都原から宮崎市内に引き返し、宮崎県総合博物館を見学しました。
この地方の考古学で非常に有利な点は、火山の噴火の年代がわかっているため、火山灰が地面の中に時間の目盛りを細かく刻んでいてくれることです。
アイラ火山灰なら25000年前、霧島火山灰は11500年前、アカホヤ火山灰は6400百年前、開聞岳火砕流1100年前等々なのです。
これにより、発掘した遺物がどの年代なのかが明確にわかるのです。
このような火山灰時計から、種子島では3万年前に、もう人間の営みがあったことが確認されています。
温暖化が早かった九州南部では照葉樹林の形成も早く、ドングリなど食料の利用、人口の増加も日本列島の中で先駆けていたようであります。まだ年代決定がで
きなかった大正時代に、その形から文化が進んだ弥生時代の製品だとされていた壺が、実は九州南部では推定より4000年も古い縄文早期に作られたことがわ
かったのでした。
でも、その日本列島の先進地・南九州の縄文文化は、6400年前のアカホヤの噴火で絶滅、灰に埋もれてしまったのです。これで優れた縄文文化は「ご破算で
願いましては」とゼロになったのです。そのあとのこの地方の縄文、弥生文化は、ショボショボしたものとしかいえないようです。
漠然と九州を一本としてしか認識していなかったわたしにとって、温暖化の恩恵と、噴火の災害とを受けたこの日向の地域は、九州としてもかなり特殊な地方で
あることを、この博物館で納得させられたのでした。
前項で日豊線の所要時間を細々と述べたのは、日向の国は九州のなかでも特別に交通の便が悪く、中央からの同化作用を受けにくい土地だったのではないかと、
問題を提起したかったからでもあります。
名古屋から小倉まで3時間1分、小倉から宮崎まで4時間34分です。古代でも、朝鮮半島南部から大和に通ずる瀬戸内海を通るメインルートからは離れた地方
だったのでしょう。
おなじ九州でも福岡から太宰府、熊本とつながる地域とは相当異なるように思われるのです。
ともかく、宮崎にきてみて良かったと思うことしきりでした。
★宮崎神宮
博物館は宮崎神宮の一角にあります。神宮の森は、市内にこんなに広い緑地が残されているのが不思議なぐらい大きいのです。延々と歩いてお参りしました。御
祭神は初代天皇である神武天皇です。そのためでしょう、この神社へは、先の昭和天皇が6回も参拝されたと書かれていました。
★平和台公園
このあと平和台公園を訪ねました。もう夕方で観光バスもおらず、アベックさんたちの世界になっていました。
ここのシンボルである高さ37mの巨大な石の塔の基礎は、世界各地から持ってきた石で造られています。前面に刻まれた「八紘一宇」の文字は、世界は一家と
いうことでしょう。塔の4隅に武、漁、農、商とされる4つの像が立っています。像はその頃流行った、中国風と日本風とを折衷したような衣装をまとっていま
す。商に当たる像は、かなりふっくらした女性で、前に子供を立たせ、その肩に手を置いています。
塔の裏に回ると「紀元二千六百年」と刻まれていました。皇紀二千六百年は昭和十五年、西暦1940年のことです。「紀元は二千六百年」という歌がありまし
た。懐かしいですねぇ。小生、10才、小学校の5年生でした。
八紘一宇の家長は、大日本帝国の天皇陛下、国民はその赤子だと教えられていました。そのことも、ここ日向の地が天孫降臨の地であることも、子供だったわた
しは教えられたとおり信じていたのです。
昭和20年5月、日本の対空戦力は、それまでの何回かの空襲で、もう壊滅状態でした。アメリカ空軍のB29爆撃機は白昼、低空に舞い降り、赤子の手をひね
るように名古屋にとどめの爆撃を行いました。名古屋城が焼けた日で、わたしの家にも燃えさしの紙など盛んに飛んできました。
まだ正式には、誰も彼もが必勝の信念を唱えていましたが、15才になっていたわたしはそのとき、戦争はもう負けだと確信したのでした。思えばそれが自我の
目覚めだったのです。
平和台公園と名を変えた、この天孫降臨・八紘一宇の塔の丘で、そんな昔を思い、ひとり感慨にふけったのです。
★景清廟
景清廟は訪れる人も稀で、存在を知る土地の人も少なく、探すのに苦労しました。でも、わたしは謡曲に「景清」という曲がありますから、どうしても訪ねてお
きたかったのです。
平景清は平家の武将で源頼朝の暗殺を企てますが、失敗して捉えられました。その武勇を惜しまれ助命されますが、心は頼朝を討たずにはおられないと、自ら両
眼をえぐり盲目となりこの宮崎に隠棲したというストーリーに創られています。
謡曲では、その景清を娘が訪ねてくるのですが、親子と判明すれば娘を不幸にすると考え、追い返してしまうのです。そういうわけで、わたしの嫌いな曲であり
ます。
この日は、往時の宮崎の時間距離的な遠さに感じ入っていましたから、哀れな娘さんにとっては、現在だったらブラジルほどにも当たろうかと、ひときわ悲哀を
感じたのです。
この夜の宿はユースホステル、官庁街の真ん中にある宮崎県婦人会館でした。日曜日の夜ですから空いていて、一人で一部屋もらいました。素泊まり2750
円。夕食は持ち帰りの焼き肉弁当と缶ビール、紀元二千六百年当時叫ばれていた標語「贅沢は敵だ」を実践したのでした。いや、これでは、ちと贅沢過ぎました
か。
・つぎつぎと難問にがし夏の夢
★鬼の洗濯板
翌朝は6時出発、一路南下します。フェニックスの並木が続く素晴らしい道路です。
巨人軍歓迎と大きく書かれたホテルがありました。ジャイアンツがシーズン前に行う宮崎キャンプのときの宿舎なのでしょう。
堀切峠から先は海岸沿いの道になります。青島の「鬼の洗濯板」は有名ですが、このあたりの海岸はどこもかしこも鬼の洗濯板になっているのです。
プレート・テクトニクスを絵に描いたような地形であります。ここの海岸線の東からプレートが沈み込み、そのために押し上げられた陸の断面がまるで柾目の板
の切り口みたいな縞模様を見せているのです。
九州もここまで南にくると、もう四国の影響はなく、東から太平洋の波が直接打ち寄せてくるのです。台風からの豪快なうねりが、次々と押し寄せて目を楽しま
せてくれました。サーファーたちも、このうねりを楽しんでいました。
★飫肥
この日は16時に宮崎駅で車を返す予定でした。そのため、まず最初に行程の最南端である都井岬まで行ってしまい、あとは帰り道に時間を睨みながら観光ス
ポットを見て回る計画にしたのです。
そして同じ道を往復するのも芸がありませんから、往路は内陸、帰路は海際の道をと考えました。
こうして最初、飫肥(おび)の街に行きました。油津の港から数キロ内陸に入った、三方を山に囲まれた静かで小さな街です。伊東藩飫肥城の城下町です。隣の
島津藩と攻防を繰り返したとありますが、伊東藩の五万七千石に対して島津藩は七十七万石なのです。学問に力をそそぎ、人材を輩出したとされます。明治の外
交官小村寿太郎はここの出身であります。
明治から昭和30年代まで繁栄したとありますが、いまはひっそりとして、九州の小京都というニックネームにふさわしいたたずまいでありました。
まだ、午前八時でどこも開いておらず、観光スポットも外から拝見しただけでした。
お城の大手門の前に北山台杉の並木がありました。一本の台木から3〜4本分れた脇生えの幹の太さが、それぞれ直径30cmほどの太さなのです。あの杉たち
は、さぞや沢山の歴史を見てきたことでしょう。
★都井岬
南下を続け串間市で志布志湾に出て、いよいよ南東の都井岬(といみさき)に向かいます。だんだん上り坂になり標高を稼いでいると、そこが都井岬でした。
思い返すと、犬吠埼も襟裳岬も宗谷岬も、やはり、だんだん登って行った所にありました。
考えてみれば固い岩でできているからこそ、雨にも削られず山として残り、波にも負けないから岬となって突き出しているのでしょう。
御崎神社のあたりはソテツの自生地で、5000本といわれるソテツが異様な光景を作り出しています。ソテツのトンネルをくぐり絶壁の中腹にへばりついたお
社にお参りしました。有名な都井岬の野生馬のフンが散乱していました。そういえば岬の入り口で馬の保護のためといわれて400円払ったのです。徴収係のお
姉さんに「馬に近づかないで下さい。蹴っ飛ばされた人もいますよ」と注意されたのでした。ところが肝心の馬たちだって暑いのには閉口している様子でした。
谷の木陰で涼んでばかりいて、ポスターの写真のように広々とした草原で草を食べているシーンは撮れませんでした。
ここでも神社の足下の岩に大きなウネリが砕け、沸き立っている海の眺めが圧巻でした。
そして、青い海原の遠くに、かって訪ねた奄美諸島、それに続く沖縄を懐かしく思い浮かべていました。この歳まで生きて、こんなに沢山の思い出に恵まれた幸
運を改めて感謝しました。
このあと灯台にも登ってみました。この地点で海抜約300mあります。
九州最南端でこそありませんが、もう鹿児島市よりは南にきているのです。
ところで、灯台の下にある広大な駐車場には、自家用車がたったの
3台しか止まっていませんでした。今日は月曜日、時間もまだ10時と早いのです。でも、それだけではなくて、海岸沿いのメインルートが崖の崩壊で通行止め
になっているのでした。
仕方ありませんから、山の中を抜ける道を、カーナビを頼りに抜けることにしました。
市木という部落をぬけ南郷町へ出たのですが、そのルートは、いってみれば足助から東郷町に抜ける奥三河山地の道にそっくりでした。センターラインを引ける
ほどの道幅はないのです。でも、すれ違う車だって、ほとんどありませんでした。
レンタカーのカーナビに入っている地図は、ちょっと古い地図でした。新しくできたバイパスに進入すると、畑の中を走ったり海上を走ったりしているように表
示してくれるのです。
そして「カーナビさん」は、古い地図から選んだ道を固執し、わたしがルートを外れたと宣言し「ルートを探し直してあげます」と、律儀に言ってくれるのでし
た。
わたしの現役時代を思い出してしまいました。いろいろの人が意見をいってくれたとき、どの人にもウンウンと頷いていますが、心の中では100%信用してい
るわけではないのです。この情報は80点、これは30点など評価しながら、最後は誰も傷つけないように「どれももっともだが、今回はこうしよう」など、自
分の判断を下していたものです。今思い返すと、それが往々にして間違っていたこともあったのですが。
今度も、カーナビさんの指示に100%従ってやったわけではありませんでした。でも、幸いなことに、こんどの旅では、わたしの判断に間違いはありませんで
した。
★鵜戸神宮
こうして日南市の鵜戸神宮にやってきました。ここには観光客がいっぱい来ていました。
鵜戸神宮の御祭神は鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと
)です。初代天皇である神武天皇のお父君に当たり、過去、天皇・皇后を始め多くの皇族方が参拝しておられます。
社伝では崇神天皇または舒明天皇の時代、岩窟の中に大日?貴尊以下六柱の神を祀る社殿を造営し鵜戸神社と称したのに始まると伝えられていますが、実際は不
詳です。
確かなのは、延暦元年(782年)天台宗の開僧光喜坊快久が神殿を再建して別当寺を建立し、桓武天皇から「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」の勅号を賜った
ときのことからです。その後、宗派が真言宗に移り、さらに明治の神仏分離によって権現号と寺院を廃して鵜戸神社に改称、明治7年に鵜戸神宮と改称され、明
治28年に官幣大社に列したのでした。
大東亜共栄圏華やかなりし頃は、肩で風を切っていたことでしょう。
約300坪もある大きな海蝕洞窟のなかに社殿が建てられています。そしてここも、すぐ外側が日向灘の海と岩壁になっています。とくにここは、岩場が巾数
メートルの櫛の歯状になっているので、押し寄せる大波が櫛の歯の行き止まりまで突っ込んでは、ドドンと砕けて舞い上がる様は、ほかでは見られない壮観であ
りました。
鵜戸神宮の暑さといったらありませんでした。
荒波でまるで沸き立ったような海面から、たっぷりと水蒸気が供給されているのでしょう。洞窟の床から壁から天井まで、岩の肌が汗をかいたように濡れ、水が
滴っているのです。わたしの体からも汗がとめどなく流れます。
余った時間をサボテン園で過ごそうなどいう意欲は、もう、すっかり萎んでしまいました。車の冷房を全開にして宮崎駅に走り込み、予定よりも1時間早い特急
に乗って大分に逃げ帰ったのです。
大分から名古屋まで11時間の夜行バスは、アメリカからのエコノミークラスよりはゆったりしていました。
・夜行バス明けて稲田の真只中
★言い伝え
宮崎市を通過したことは、過去に2回ありました。
また宮崎県としてならば、高千穂峡から祖母山、傾山、大崩山、尾鈴山、霧島山、市房山、国見岳などの山にも登っています。でも、南日向を見学に訪ねたのは
今回が初めてでした。
旅から帰ってきて、なにか今までにない変な気分でいるのです。
日向は古代ロマンと観光がキャッチフレーズであります。
たしかにそうなのですが、考古学的知見、文献、言い伝え、南日向の人の感性という要素が、なにか私の頭の中でグルグル回っている感じなのです。
南九州は縄文早期末にアイラ噴火で絶滅するまでは、日本の中で最も早く温暖化の恩恵を受け、進んだ文化、社会を実現させていました。そして、復活後は、つ
い最近まで、距離、地形上の特性から、日本の中でも中央政権と比較的疎な関係が続いていたといえるでしょう。
1944年までは、天孫降臨の地、皇祖発祥の地としての精神的依存度が高く、県内の遺跡は根こそぎ史跡に指定されました。その数2066基に及んだのです
から、これは全国で外に例を見ない宮崎県の特性であります。
当然、現在では冷静、客観的な考古学的位置づけがなされています。
そのなかで、全長150mを越す2基の前方後円墳は、全国的に見ても巨大古墳であり、それまでの中小前方後円墳がここで統一され、その後、約100年ほど
築造が見られない時期があったことは、何か、ただ事でないものを想像させられます。
古事記、日本書紀には天孫降臨を記述する部分で、筑紫、日向、高千穂と地名が明記されています。また、神武天皇御東征の条には高千穂、日向、筑紫の宇佐、
筑紫の岡田という地名が出てきます。
古事記、日本書紀には、神々の誕生や国造りの物語から、8世紀の世情までの記述があります。古い時代の話はアジア大陸や東南アジアとの共通性があり、それ
から日本人のルーツを探ろうという面さえあります。いわばそれぐらい古くて、また事実との関連が希薄だといえるでしょう。
ひとつここで、7世紀末の宮廷ライターの頭になって考えてみてはいかがでしょうか。ストーリーは、もう頭に入っています。そのとき、天孫降臨の地の固有名
詞として「朝日直さす日向」とか、「天に聳える高千穂」の名前は使いたくなる絶好の地名ではありませんか。しかも大和からは十分遠く離れていて「見ぬもの
清し」の好条件を備えているのです。僻遠の地「日向」こそ、夢を勝手に描ける場所柄のように思われます。
男狭穂塚にはニニギノミコト、女狭穂塚コノハナサクヤヒメが葬られているというのは言い伝えであります。
ウガヤフキアエズの鵜戸神宮は、もちろん言い伝えで、実態は、お寺になったり神宮になったり変幻自在だったのです。
現在もある美々津の港は、神武天皇御東征のときの船出の地と言い伝えられています。ところが、この地名は古事記にも日本書紀にも出てきません。
それなのに言い伝えでは、神武天皇が急に予定より1日早く出発されることになったので、差し上げる予定だった餡入り団子を作っている時間がなくなり、臼に
材料を一緒くたに放り込んで搗いたのが、ここの名物「搗き入れ団子」だということになっています。
また、神武天皇には水軍が随行したということで、ここが日本海軍発祥の地となり、皇紀二千六百年に内閣総理大臣海軍大将米内光政揮毫の記念碑が建てられま
した。この碑は占領軍に壊されましたが、昭和44年地元有志の強い要望により防衛庁などの協力を得て復元・・・・。
言い伝えには、古いものも新しいものもあります。そして人間社会では、いつでも、どこでも、創られているのです。つい数年前、
アルミ
の食器を使うと
アルツハイマーになるという言い伝えを口にした覚えのある人もいるかもしれません。今日だって、ど
こかで作られつつあるのです。
作り話について、なにも非難がましいことを言おうとしているわけではありません。
わたしとしては、江戸っ子たちが、反京都の東国チャンピオン平将門を贔屓にするあまり、栃木で戦死した将門の首が飛んできたとされる首塚を、丸の内のビル
街に現在も残している、そんな話は面白くてよいとさえ思っているのです。
でも、日向の人たちが天孫降臨の地に抱いている認識と、わたしたちの認識との間には、かなり開きがあるという印象を拭いきれないでいるのです。