題名:夏は緑にカムチャッカ

重遠の入り口に戻る

日付:1999/9/18


夏は緑にカムチャッカ(99/8/7〜14)

 

?カムチャッカ

 

今年4月にオープンしたばかりの名古屋空港国際ターミナルに、カムチャッカのアバチャ山登山グループが集まりました。名古屋からは私一人、ほかの人たちは、東京、大阪などから、わざわざ名古屋まで来て、このチャーター機で飛び立つのです。女6名、男8名でした。

チャーター便でない定期便でゆくとすると、新潟からハバロフスクへ週2回ある便で飛び、ここから別便でペトロパブロフスク・カムチャツキーまで飛ぶことになるのです。

われわれの乗った飛行機はツポレフ154Aという名の、ボーイングの727型機の、ソックリさんなのです。もっとも、ソックリなのは外観だけで、座席の上の荷物入れは新幹線と同じような蓋がない棚なのです。また、ビデオはおろかイヤホンさえないのです。地上駐機時の冷気供給もなく、離陸して高空に達するまでは、みんな大汗をかき、頭上の空気吹き出し穴をいじり回していました。

他の旅行社のツアー客も一緒に乗り込んだのでしたが、それでも約160ある座席の60パーセントほどしかお客のいない、がら空きの状態でした。

まず、出発が予定よりも2時間遅れ、17時にやっと離陸しました。

 

ホカホカの機内食が出てきたとき、ロシアもなかなかやるじゃない、と思いました。

心のどこかに、お粗末な国に行くのだぞと、覚悟をしているような所があったのです。

新潟、青森の上空を通過し、3時間飛ぶと、エンジンを絞るのがはっきり分かりました。到着したのは日本時間では20時過ぎでしたが、時差が夏時間の分を入れて4時間ありますから、ペトロパブロフスクはもう24時、当然真っ暗です。

そして上空からは、海辺のようなところに,灯が点々と見えました。街と言うよりは、どこかの海水浴場のような、淋しい灯でした。

着陸したあと、ほとんど灯のついていない暗い空港内の誘導路を、ライトバンの先導で随分長く走り、やっとエプロンに止まりました。そしてここからは、ちゃんとバスが国際ターミナルまで連れていってくれました。

たった100人足らずの観光客を相手に、のんびりした入国手続きが済んで、ホテルへとバスの車輪が回り始めたのは、もう2時過ぎでした。

 

30分ほど走り、この街で一番というペトロパブロフスク・ホテルに入りました。

 

ホテルのフロントでは、部屋の番号を教えてくれるだけです。

3階までエレベーターで上がると、この階を仕切っているおばさんがいて、彼女が鍵を渡してくれました。このおばさんたちは交代で、24時間詰めているわけです。

チェックアウトする時、おばさんは今度また来るのかとか、しつこく聞きました。鍵を返すと、使った部屋へ行ってあちこちチェックしています。知らないものですから、タオルや備品の持ち逃げのチェックかと思ったのですが、むしろ忘れ物をしていないか、親切に見てくれているらしいのです。

落語に出てくる大家さんみたいに「大家といえば親も同然」という言葉を思い出しました。ロシアでは、思わぬところに人手をかけている、ひとつの例と言えましょう。

 

このホテルのエレベーターについても、ひとこと書いておくべきでしょう。スピードはかなり早いのです。動いているあいだ、グググーと凄い大きな音を出し続けます。

そして、動き出すときと止まるときにドスンと大きなショックがあるのです。

最初は、頭の重さを首に感じて、垂直むち打ち症になったかと思いました。

でも、うまくしたもので、何回か乗ると、ドアが閉まった途端に、反射的に膝をゆるめて身構える習慣がついていて、思わず苦笑してしまいました。

 

部屋に落ち着いて暫くすると、こんな深夜なのに電話機のベルが鳴りました。

大方、グループの誰かからの連絡だろうと思い、受話器を取り上げて「はーい」と応じました。これは、本人は日本語の積もりだったのですが、考えてみればアメリカ語だったかも知れません。いずれにしても、その電話は無言のまま切れてしまいました。寝入ってからも、ベルが鳴っているのを、夢うつつに聞いたような気がします。

この電話のことは、翌朝の食卓で話題になりました。私のところも来ましたが、あれなんですかと聞くと、怪しげな女性からのものだとの解説でした。こういうことは、ロシヤのホテルでは常識のようでした。

 

そうそう、まだ寝る前です。添乗員さんがドアを叩くので開けてみると「街中,2日間断水です。トイレは風呂桶に貯めてある水で流して下さい」とのことでした。

風呂桶の栓は、本式のゴム製のものではなく、トイレットペーパーを丸めて押し込んでありました。

昔、断水のときトイレを流すのに、水をバケツでどっと入れると、うまく流れたという経験はありました。でも、ここの備え付けのポットでチョロチョロ注ぎ込んだのでは、うまくゴボッとは流れず,閉口しました。

 

こんなトイレのことを書いたのも、昔、ソ連についてさまざま聞かされたことが、今、ロシアに変わっても、予想より多く残っていることを強く感じたと言いたいからなのです。

旧ソビエトに対する評判は、言ってみれば、計画経済が個人の能力発揮の気風を奪い、非効率化を招き、ことに日常の生活面で時代遅れになっているということだったでしょうか。

 

入国審査も、銀行での両替も、われわれから見ると大変に時間がかかっていると思いました。

当事者は、それなりにやってくれているように見えるのですが、返してくれた控えの書類を眺めると、ロシア語なので内容は分かりませんが、なにか係りの人が手で記入しなくてはならない部分がとても多いようなのです。

これでは、世界を相手にして、競争社会で勝負するのは容易でないなと思って見ていました。

 

しかし、明らかに改善されたという印象を受けたことも,幾つかはありました。

銀行で両替をしていると、12時50分になりました。13時からは休みの時間です。

われわれのグループは、まだ7人並んでいました。

通訳さんが、もうじき窓口が閉まってしまうから、後ろの4人は、近くの別の銀行に行った方が良いと言い出しました。私は胴巻きから現金を出したり、ボケボケしているので、当然最後尾です。

出ようとして玄関まで行くと、巨大なおばさんのガード・ウーマンが、13時までに入った人は、続けてやってやるから、よそへ行くな、うちでやれと言いました。ちゃんと、商売気は出てきているのです。

それからも、両替窓口では、結構、時間が掛かりました。ガード・ウーマンは気遣わしげに、窓口を覗きにきてくれました。昼休みの時間に仕事が食い込んだ窓口の女性には気の毒でしたが、こんなようにして、だんだん、いわゆるグローバル・スタンダードの社会になってゆくのでしょう。

 

また、登山基地でのことです。ベース・キャンプには、客用コンテナ8棟とガイドたちの小屋とがありました。コンテナは1箱に2段ベッドで8人寝るようになっています。窓には、熊除けと称する鉄格子が付いています。

キャンプの100mほど下に,男女別々の場所にトイレが木で作ってあります。ごつい材木が使ってあって、中が多少透けて見えます。

そもそも用便は、悪いことをしているわけではありませんし、そのプライバシーというものも、あまり深い文化ではないようで、国によっては,顔を合わせても「やあ、こんにちは」という感じなのです。

ところで、驚いたことに、このトイレに、ちゃんとロール・ペーパーが備え付けられているのです。

今でもロシアでは、トイレットペーパーが必携品であるとガイドブックには書かれています。ここ登山基地でのこの特殊現象は、ひとえに日本人客が多く訪れるからでありましょう。

国民が、異文化、ことに進んだ異文化に接触することを制限しようとするのは、長期独裁政権の常なのでしょうか。頻繁な政権交代は、その後で、前任者を口汚く非難する態度を私は好きではありませんが、変わり身が容易になる利点はあるようです。

 

・送電線一直線に花野切る

 

翌日は、時差に馴れるための散策と、ビール調達など入山の準備でした。

しばらく、道と呼べないような悪路を巨大なタイヤでこねくり回し、太平洋岸にある大きな湖のほとりへ行きました。

周りの荒れ野を散策し、ブルーベリーを摘んで頬ばったりした後、昼食をしました。

薪をボンボン燃やして、大きな鮭の切り身やジャガイモの入ったスープを作ってくれました。

さすがここは、千島列島のさらに北です。海岸近くまでハイマツの群落があります。

どんな植生なのか、予備知識なしで訪れたのですが、標高800mよりも低い土地は,4〜5mの高さになるシラカバ,ヤシャブシなど落葉広葉樹の林で覆われています。

緑の大地という言葉がぴったりでした。

 

カムチャッカは、ロシアでは「神によって忘れられた地」といわれ、その名は未開と閉鎖の代名詞だったといわれます。ロシア連邦の人口1億5千万人の僅か0,3パーセント弱しか住んでいないのですから、それもやむを得ないことでしょう。

長年、軍事閉鎖地域になっていて、ソ連人でさえ特別の許可なしには入れませんでした。1991年からやっと、外国人も入ることができるようになったのです。

カムチャッカ州の面積は、日本の約1,2倍,それなのに人口はたったの40万人です。そして、その80パーセントが南部太平洋岸にある州都ペトロパブロフスクに集まっているのですから、他の地域は、文字どおり手つかずの自然です。

半島は北の部分でロシア本国につながってはいますが、そちらには道路も鉄道もありませんから、総ての資材輸送は、空路,海路に依るほかはありません。このため、物価は、ロシアの平均の約2倍するといわれます。

もっともそうは言っても、かに缶、鮭の薫製など海産物が安いのは当然としても、地ビール500ccがたったの60円など、物価全体も日本と比べれば安いように感じましたが。

人口は、70年前、私が生まれた頃、やっと1万人になったようです。

その後、ここの地の利が、第2次世界大戦、米ソ冷戦を通して戦略的に評価され、人口は急激に増えました。

しかし今や、その目的も失われ、海を見張る監視哨は朽ち果て、空港にいる沢山の水陸両用飛行艇も手入れしないまま放置されているように見受けられました。

海岸に入る許可を貰いに行った軍の事務所には、塹壕やトーチかが造ってあり、周囲一帯地上30センチぐらいの高さで有刺鉄線を張り巡らしてありました。

われわれの1人が引っ掛かり怪我をしましたが、イラク、ユーゴなどで戦われた近代戦を見ると、実際に役立つとは思えないのです。ほかにすることがないので、手持ち無沙汰にこんなものを造っているのかと思えます。

いずれにせよ常識的に考えれば、平和時の軍隊という不良資産、就職難に悩まされているのでしょう。

 

訪ねたのは8月上旬、ここでの日の出は7時前、日の入りは21時過ぎ、太陽は東北60度から出て、西北300度まで、ぐるっと14時間以上輝いています。北緯50度を越えているので、夏至には日照時間は日本と較べて2時間ほど長くなるのです。

夏至を大部過ぎたこの時期でも、1時間は長くなっています。

夏時間のせいもあって、太陽が真南に来るのは、なんと14時でした。

ここは、ロシアに11もあるといわれる時間帯の、一番東のゾーンに入っているのです。

このゾーンの一番東の端は、日付変更線が西半球に出っ張ったところで、地球上の一日が最初に始まるといわれるデシネフ岬です。そこから、ここペトロパブロフスクまでは、経度で30度強も離れているのです。

ちなみに日本ならば、東の根室も、西の石垣島も時間の基準点の明石からは、せいぜい10度しか離れていません。

それと較べて、こんなに広いカムチャッカの時差ゾーンでは、太陽の位置が、時間と大幅にずれていても仕方ありません。

 

さらに、もっと北に進んで北極に近くなると、1足歩くと時差が1時間になる理屈ですし、地球の頂点である北極点そのものに立てば、時差の概念さえなくなってしまうのです。

海外旅行が多く、こんな経験ばかりしていると、日本でのサマータイム論争は、どっちでもそう大したことはないことを、やたら大げさに言い立てているように感じられるのです。

 

・夏時間時差日本では何してる

 

?カムチャッカ富士

3日目にはベース・キャンプに入り、午後には近くの駱駝に似た姿の1200mピークに登り、大きな雪渓を下り、足慣らしをしました。

夕方、雲が切れて、目指すアバチャ山が見えてきました。富士山に似た円錐形の端正な姿でした。斜面のところどころが、赤茶けた色を見せていました。そのまま赤富士と呼びたいところです。

標高1200mほどの鞍部を隔てて、西のコリヤーク山(3456m)と相対しています。どちらも火山ですが、コリヤークの方が前に生まれたのでしょう。火山礫が剥げてしまって、溶岩の骨が、荒々しく尖っていました。

 

誰かが「鳥が飛んでゆく」と叫びました。見ると、なるほど薄暗くなった空に、なにか大きな鳥が飛んでゆきます。「クマタカじゃないか」私は皆の笑いを期待して、そう言いました。でも、みんなポカンとしているのです。

名古屋の私たちの山仲間では、そう言うのが流行っているのです。ちょっと大きな鳥を見たら、取りあえずそう言ってみるのです。そのうちにその鳥は「カー」とか「ピーヒョロロ」とか鳴くのです。

カムチャッカの地で、このジョークを思いついたのは素晴らしいと、私は自分のユーモアのセンスを自賛していたのです。

ところが、東京や大阪の人たちには全く通用しないのです。オオタカだクマタカだと「御鳥様騒ぎ」をしているのは、JOCKのエリアだけのようなのです。とんだ田舎っぺぶりを披露してしまいました。

 

4日目の朝、7時30分、いよいよ、目的のアバチャ山(2741m)に向かって出発しました。

ベース・キャンプ自体が、すでに落葉広葉樹林帯を抜けた、標高950mにあります。

ここから標高1000mほどまでの間は、日本でいう高山植物の類が、疎らに、地表にへばりついている草原でした。

登山路は、傾斜が強くなったり緩くなったりしながら、正面の尾根上に延々と続いています。多少、岩もありますが、殆どは直径1センチほどの火山礫の道です。

 

・雪渓の斑まだらに花野かな

 

この日のパーティーには、ロシヤ人が5人加わっていました。

現地のガイドが3人、それに通訳のオルガ、そしてアバチャ山に始めて登るという12,3才になる宿の娘です。

登り始めて1時間、私はペースが妙に速くなったり遅くなったりするのに気がつきました。

もう私のような老人になると、みんなに遅れまいとして、年がら年中アクセルを床まで踏み込み、フルスピードで歩いているのです。緩急のコントロールなどできません。

トップがスピードを上げれば、自分の前は開くばかりなのです。

さて、今日のようなグループ構成になると、どうしても通訳のオルガが2番に入ることが多くなります。

山馴れたグループならば、パーティーの2番は自分の役割を知っています。

それは、トップが作ってくれた道を、自分よりも後から来るメンバーのために整備しながら行くことであり、また3番以降のパーティーのペースをトップに伝えることであります。

オルガはそんなことは知りませんし、22才と若いのですからトップについてどんどん行ってしまいます。

そのことは後のグループの中の弱いメンバーには、精神的な負担になります。つい、自分に合わないペースにつられてしまって無理をすると、登れる山まで登れなくなってしまうことだってあるのです。

そんな状況の中、Kさんには全く敬服しました。よそには全く見向きもされず、きっちりと自分のペースを守っておられるのです。

彼女はこうして、2200m地点まではペースを押さえておられましたが、頂上へは余裕綽々で登られました。

多分“ロシア人もびっくり”といったところだったと思います。

 

1700mあたりからは、左への緩い登りのトラバースに入ります。ここまで来ると、もう目に見える植物はありません。そして、火山礫の直径は、頂上の噴火口に近づくに従って大きくなってくるのです。右手には、無数のクレバスが口を開けている氷河が見えてきます。

 

日本人14名、その一人は添乗員と呼ぶのも恐れ多い名ガイド I さんなのです。彼は谷川岳一の倉沢冬季初登攀を始め、輝かしい経歴を多々持っています。

今回も、2200m地点で、昼食の大休止をとっているときに、ロシア人のチーフ・ガイドが、ここで登頂組とリタイア組とを分けようと言い出しました。

わが I さんは、全員登頂できるから、ここからは一番ペースの遅い人を2番に入れ、そのペースで行こうとガイドの提案を拒否しました。

ガイドは、そんなことをすると帰り着くのが深夜になるかも知れないと脅しました。

でも I さんは、そんなことはないし、もし万一21時になってもまだ明るいのだからと、突っぱねてくれました。

これは、I さんが、パーティーのメンバーの、単にスピードだけではなく、ペースと力とを良く把握しておられたからこそ、なし得たことだと思います。

その後、一人だけ自発的にリタイアされましたが、お陰様で、あとは全員登頂を果たしました。

ほかの日本からきたパーティーでは、登頂率が50パーセント程度なのですから、これは本当に立派なことなのです。

こんなに良くして貰えれば、誰だって、次回もこの旅行社に頼もうという気持ちになるではありませんか。

 

最後の登りは火山礫の堆積の上を、直登するのです。私には無駄に使える予備のエネルギーなど持ち合わせがないので、少しでもズリ下がらないように、じわじわと高度を稼いで行きました。

歩き始めてから7時間、頂上は霧と火山ガスとで、数メートルの視界しかありませんでした。そして赤茶けた山肌に腰を下ろすと、ポカット地熱が伝わってくるのでした。

この山は、8年前に噴火したのだそうです。

火口壁の大きな岩に、アルミの鋳物で作られたレーニンのマスクが飾られていました。

モスクワでは、とっくの昔にレッドカードを突きつけられた、このいにしえの指導者の像も、この田舎ではまだ長らえているのです。

 

頂上から1時間半ほど下り、登りのときに昼飯を食べた避難小屋のところで、大休止をとりました。ここまで来れば、もう落石の危険はありませんし、雪渓の水もふんだんに飲めるのです。

地元の中学生ほどの年頃の男女数名が、雪渓の方に歩いてゆき、霧の中に消えて行きました。

もう、16時半でした。彼らは空身同然のスタイルなのです。

私たちは遠い遠い日本から、時間とお金をかけて、大層な山登りのつもりで、ここにきているのです。当地の若人たちの全く何気ない様子には、正直のところ、一寸呆気にとられました。

 

昔々、信州上田の太郎山に登ったときのことです。午前中に野球の勝ち抜き戦で負けてしまい、午後の時間が空いたので、ひとりで出かけました。ヌルデが真っ赤に紅葉していましたから、秋も深まった頃だったのでしょう。

夕方、やっと頂上に着くと、そこにあるお宮の庭でテニスをしていた男の子が二人、もう帰ろうやと言って引き上げて行きました。

小さい山といっても信州百名山のひとつです。私はいっぱしの山のつもりで登ってきたのです。それなのに、彼らはまるで、自分の家の裏庭だと親がうるさいから、ここで遊んでいたのだとでもいうような、何気ない態度だったので、びっくりしたことを思い出しました。

物事をあまり重く考えると、世の中、何一つできなくなってしまいます。確かに、天気が良くて、道に迷わなければ、気楽にゆける山も多いのです。

そしてそれなのに、思いがけないところに落とし穴がある、それが登山なのです。

 

・雪渓に霧静々と下り来る

 

ガイドは、早く帰ることに意義があるとでも思っているように、猛烈なペースで下りました。日暮れまではまだ4時間もあるのですから、わざわざ遠くから来たお客さんは、ゆっくり花など眺めたくもあったのでしたが。

登りには、あちこちで、たっぷり休憩したせいもあり、11時間におよんだ山旅をこうして終わりました。

 

・早立ちのひとりゆくなる花野かな

 

?花野

今度の旅の中で、海岸と一般内陸、そして山裾と、3種類の花野を歩くことができました。

カムチャッカでは、どの花も、みなそれぞれの短い夏を、一生懸命に咲いていました。

ペトロパブロフスクあたりの植物は、基本的には、気温が低く、夏が短いのですから、日本の高山植物に似ています。

海岸近くまで、ハイマツの群落が迫っています。海岸の花野では、ブルーベリーと木苺を探しました。

当たり前ですが、どちらも、ちょうど食べ頃に熟れたのは、とても美味しいのです。

でも、自分で採るときには、なかなか、そう贅沢ばかり言っていられるわけでもありません。

ブルーベリーは、そのたたずまいから、日本のクロマメノキの兄弟だと見受けました。

また、木苺には、黄色や白のほかに赤い花のもあって、珍しいと思いました。その実は小さいのですが,味は濃いようでした。

通訳のオルガさんが「食べて下さい」と言って、自分が摘んで、掌いっぱい握っていたブルーベリーを渡してくれました。

何人もいる日本人の中で、私にだけにくれたのです。自惚れる癖のある私は、ほんの一瞬だけ,若い女性が好意を持ってくれたのかと思ったのです。

でも直ぐ、現実に立ち返りました。

これは、まさしく「金さん銀さん効果」に間違いないのです。なにせ私も、もうあと半年で満70才になるのですから。

 

・花の名を覚えし頃は夢ありき

 

一般内陸の花は、トイレ・ストップと、車のパンクのときに、よく観察する機会がありました。

自分たちの乗っている車が4回もパンクすれば、誰でもいい加減いやになります。

4回目には、それまではパンクするたびに修理を見物していた人たちも、車から出るのが億劫になります。おまけに、まだ日こそ照ってはいますが、時間はもう20時で、うすら寒くなってきていました。私も、車の中にじっとしていました。

外からM夫人が帰って来られました。そして「おとうさん、いつもウチのために、イッショケンメイ働いてくれて、有難さん」、そう言って、ムラサキツメクサ、シロツメクサ、ヤナギラン、フウロソウなどで造った綺麗な花束を旦那様に贈呈なさったのです。

ご夫婦は豊中市にお住まいなのです。日頃、山歩きに精を出しておられるようで、お二人とも大変健脚でした。

座席のおとうさん、大いに照れて「なに言うとるんや。あんたの頭がパンクしとるんとちゃうか」。

本当に仲の良い、羨ましいご夫婦でした。

 

・花野ゆく花々々に酔い痴れて

 

山裾の花野としては、ベース・キャンプ辺りを歩き回りました。この形式の植物相は標高800mから1000mまでですから、そんなに広いわけではありません。

背の低い木や草の原っぱです。モンゴル辺りの背の低い花野と較べて、花の種類は結構多いのですが、ひとつひとつの群落は小さようでした。そして、なにも生えていない裸地のほうが目立ちます。

比較的新しい火山地帯なので、表面が火山礫に覆われ、まだガサガサとして安定していないせいなのかもしれません。

ここで、2種類、食用キノコを採りました。

傘の上面がヌラヌラし、裏がスポンジになったイグチ系統のものは、タマネギのみじん切りと混ぜ、油で炒め味付けし、美味しく食べさせてくれました。

イワタケは、日本では大変な貴重品で、味が分かるほど食べたことがなかったのですが、ここではしっかり食べました。

どこか海苔に似たような風味があることを知りました。

 

・吹き荒む修羅場ながらに花野かな

 

植物について、専門でもない私がクダクダ書くのは愚かなことです。

ド素人の分類で、感触だけ書き残しておきましょう。

 

・日本のものと同じように見えるもの

シラカバ、ダケカンバ、ヤシャブシ、タンポポ(ニホンタンポポ)、ウサギギク、アザミ、フウロソウ、タカネツメクサ、クルマユリ、コバイケイソウ、ワレモコウ、カライトソウ、ムラサキツメクサ、シロツメクサ、ヤナギラン、イワウメ、エゾボウフウ、オオバコ、ワタスゲ、etc

 

・日本のものをそのまま小さくしたようなもの

イソツツジ、コケモモ、アオノツガザクラ、キイチゴ、チングルマ、イワギキョウ、リンドウ、マイズルソウ、コゴメグサ、イチヤクソウ、ウルップソウ、アヤメ、etc

 

・日本のものとやや違いが大きいもの

クロマメノキ(ブルーベリー)、アカバナキイチゴ、イワブクロ、オドリコソウ、トリカブト、トウヤクリンドウ、etc

 

・日本のものとの類似性を見つけられなかったもの

名前は当然挙げられない。全体の5パーセントはないと思われる。

 

?午前様

ベース・キャンプには、タキギが事実上、無限にあって、それをボンボン燃やしては、その周りを囲んでお喋りをしました。

こんなに豪勢に木を燃やせることを,嬉しがっている人が多いように見受けられました。

昭和10年、深田久弥さんは南アルプスに入られました。その雨に悩まされた山行を「光岳」という文にしておられます。

その中で、南アルプスの案内人たちの豪快な焚き火に触れ「南アルプスの人夫は木を切り倒すのが好きだ。そして丸太のような薪を山と積みあげて、太っ腹な焚き火をする。北アルプスなどで這松の枯れた根をケチケチ燃やすのとは大違いだ」と書いておられます。

しかし、仁田岳の露営地にゆくと、切り株ばかりが目につき「やがて南アルプス特有のあの豪快な焚き火の出来なくなる日がやってくるかもしれぬ」とも書いておられるのです。

私自身はというと、40年前にボイラーの缶焚きをしていたことがあるので、どうしても「薪は金なり」の束縛から抜け出せないのです。そしてつい、チビチビと完全燃焼などを心掛けてしまうのです。

大焚き火は、ある時は輻射熱でカッカと焙られ、風向きによっては燻され、そのくせ背中はいつも寒くて、暖房手段としては決して優れたものだとは思いません。

むしろ、アウトドア・ライフの象徴として、それを取り囲んで、お喋りする道具立てとしての意義を評価したいと思います。

ここでは暗くなるのが22時過ぎなので、毎晩、焚き火の周りの歓談は,あっという間に午前様になってしまうのでした。もっとも、その主な原因は昼間が長いことよりも、太陽の位置と時計の針のずれが主原因ですから、翌朝、日が出るのはうんと遅いのでしたが。

 

焚き火の周りでいろいろの話が飛び交い、それぞれの人柄が分かります。

以前、オフロード・バイクの競技に打ち込んでいた人がいます。段々、若い人が入ってきて、レースに限界を感じ、山に転向したのだそうです。

彼氏の感慨です「生涯、20万円以上の車には乗らず、時間と金とを山や海外旅行に注ぎ込むような者は、会社では評価されなくて」と。

今は自営でやっておられるようでした。

 

今回のほかのメンバーたちも、みんな相当の根性で山に取り組んでいる人たちばかりでした。

私といつも同室だった方は、メキシコのオリサバ山に、日本人として2番目に登られた人でした。

女性のひとりは、ここへ来る前に立山、剣をやってきたと、日焼けで腕の皮がぼろぼろになっていました。

さらにほかの女の方からは、名古屋空港に帰り着いたら、一泊して、近くの山に登ってから里に帰りたいが、どの山が良いだろうかと尋ねられました。夏は暑いですが、藤原岳などどうでしょうかと推薦しました。暑くても良いからといっておられましたが、ほんとに行かれたでしょうか。

ともかく、女性たちも、文字どおり今度の「山登り」に集まった人たちで、世間によくあるように、日頃から一緒に行っている仲良し同士でドット押し掛けたのではありませんでした。

そういうわけで、われわれのグループは、女も男も、勤め人が殆どでしたが、心情的には、先に述べたバイク・レーサー氏と同じ傾向の人ばかりに見えました。

そういう人種の集団なので、焚き火をかこんでいる面々の間では、ついつい、あのごついカンガルー・バンパーをつけた車で都会の舗装道路を運転して得意になっているヤカラを軽蔑し、クラウンなど乗り回す社員を評価する会社をぼやき、ディズニーランドに遊びに行く大衆の心理状態に疑問を呈すると、喝采を浴びることになるのでした。

 

以前、ある海外登山のツアーに参加したときは、同行者の中には、もうロンドンもパリも行った、次にはトルコ、エジプトにも行ってみた。それで今度は、もうちょっと踏み込んでヒマラヤ・トレックに参加してみたといった感じの人がいました。

そのとき、この種のイージーな旅は、まだ私には早過ぎるなと感じたことがありました。それに引き替え、今度のカムチャッカ登山に集まった私たちのパーティーのメンバーは、嬉しいことに私の好みの人たちばかりだったのです。

 

焚き火の周りの話題のなかで、とくに記憶に残っているものを、いくつか挙げてみましょう。

 

ひとつは、世界のいろいろの国の少数民族のことです。

大雑把にいえば、山が多い地域は人が住むのに不便なところであり、また、少数民族は不便なところに追いやられているという関係にあります。

どうしても、世界のあちこちの山に登っている連中は、世間一般に流れている情報のほかに、少数民族の側の声を沢山聞いていることになります。

その結果、ついつい少数民族側には同情的、多数民族側には批判的に傾くのは自然でしょう。

 

いろいろの国の、いろいろの少数民族は、例外なく多数民族から不平等に扱われているようです。

 

日本では、少数民族問題はあまりピンと来ないと思います。強いていえばアイヌ問題があるのかも知れません。さらに無理していえば、沖縄の人たちは、不公平に扱われていると、自分自身で主張しているように聞こえます。

私自身はアイヌ問題がどうなっているか知りません。このことは、ほとんどの日本人も同じように知らないだろうと思います。

いずれにせよ、アイヌ問題を取り上げることが、禁止されているようには思っていません。

沖縄についていえば、過去のことがありますけれども、現実に可能なことについては、県民性だとか、その方言だとか、端っこの島だとか、そういう理由で不公平に扱われているとは思えません。

 

どうも、少数民族に詳しい人たちのお話を聞いていると、日本のように問題を抱えていないのは非常に特殊な国で、ほかの国、とくに大国はどこでも、相当深刻な問題を持っているようなのです。

それが世界の正義の味方を自称する人たちにとって問題指摘の対象にならないのは、少数民族を不公平に扱っている側が、多数民族であり、かつ権力者であるからでしょう。

最近、インドネシアの東チモールの問題が話題になっています。

この問題も、土壇場になって分かりやすくなってきました。国としての少数民族である現地住民が住んでいる土地に、多数民族側が入り込み、政治、経済の要所を押さえてしまったと言われています。

それで少数民族側は、多数民族による圧政から逃れたいということで独立派となり、権力側は武力を使ってもそうはさせまいと併合派になるいう図式なのです。

これには、カソリック、イスラムという宗教が絡んでいるので、ことを余計に難しくしています。

こういう事態を報道されることを権力側が快く思うわけがなく、権力側が軍事力、経済力、資源などを持っている限り、国際社会で問題として取り上げられることはないのです。

なんと言っても「力は正義」なのです。

東チモールでは、インドネシア政権の弱体化が、国連の正論主張につながったのでしょう。

 

コソボの問題では、一応セルビア側がアルバニア側住民を迫害するのを止めさせることは出来ました。ところが、こんどはアルバニア側が迫害する役割を演じています。

 

こういう人間同士の争いの問題になると、どちらが良くてどちらが悪いとか、どうすれば良いなど、とても言えそうにない気がしてきてしまいます。

 

ただし、いくつか、良い例を挙げることはできます。

 

北アイルランド紛争の解決策として、その所属は将来決めることにして、今はイギリスにもアイルランドにも属さない自治政府を暫定的に設け、現実のテロ惨事を避けることにしたことも進歩に入れてよいでしょう。

平成の世には、千年前にあった平家と源氏の殺し合いはありません。

また、明治まで続いていた国内の藩同士での戦争も、今となっては再発の可能性はゼロに近いといえましょう。

岐阜県の小さな村のことですが、もう何年間も,二派に分かれ、町長と町議会議長でリコール合戦をしています。人間の業ともいえる闘争本能を、人が死んだり怪我したりしない、こういう形に昇華させるのも人類の知恵かも知れません。

 

 

焚き火の周りのお喋りで、もう一つ考えさせられたのは、山屋の末路のことです。

ヨーロッパ・アルプスで数々の記録を作った、ある名登山家が、ヒマラヤで遭難死しました。

焚き火の周りでは、彼は、何時までもアルプスでやってれば良かったのにという批評でした。アルプスならば、ルートは困難ですが、山は小さいのです。その登山家は、性格的に団体行動が不得意だったというのが、その理由でした。

 

もう一人の登山家は、有名な岩登りのクラブに入っていたのですが、年をとって退会しました。そのクラブは、先輩、後輩など言わない、さっぱりした気風のクラブなのだそうです。いずれにせよ、こうしてそのクラブからの登山隊には参加できなくなったわけです。

その後の山行は、商業ツアーに参加したりしていたのですが、あるときガイドが一緒に行ってもよいと言っているのに単独で行き、それきり、どうなったか解らないまま、ともかくも帰ってこなかったのです。

ひとりで行けると思ったのだろう、でも、ひとりでは行けなかったのだとしか言いようがないという最後なのです。

彼は,商才があって、資金面では制約がなかったはずだとのことです。

ここ炉端では、自分から登山隊をプロモートする雑事が面倒だったのだろうと評されていました。

 

私などは、彼らと較べることさえ、おこがましい、ケチな山屋ですが、それでもやっぱり、自分の終わり方について、なんとでも言いたい奴は言えと突き放すよりは、悪く言われない方が良いと思っているのです。

ベース・キャンプの焚き火の煙にむせながら、今後、周囲にあまり迷惑をかけずに、上手に萎んでゆくステップを、具体的に考えなくっちゃいけないと思案していました。

それにつけても、自分で自分の状態を知ると言うことは、考えてみると意外に難しいことのように思えているのです。

やってみて出来たことは、出来る能力があったことなのです。でも、続けて同じことをしても、次の回も成功すると誰が保証できるでしょうか。

トラブルが起こった時点で、能力の不足が分かったのではもう遅いわけで、その直前に分かると最高なのですが。

 

・蚊柱や鱒すむという河の面

 

焚き火の周りの話の中で、言葉の数は多くはありませんでしたが、重い言葉だったのは、旧ソ連の所業と、こんど触れあったロシア人たちのことでした。

一行の中に私を含めて、熟年組が3人いました。正直なところ、われわれ年代は、旧ソ連には良い感情を持っていません。

1945年8月、第二次大戦末期、既に日本は瀕死の状態でした。広島に原子爆弾を投下され、懸命に講和の道を探っていました。

日本と相互不可侵条約を結んでいた、いわば友と頼むソ連を通じて、交戦相手との講和を打診していたのです。

そんな最中、ソ連は条約を一方的に破棄し、旧満州、樺太、千島に攻め入ったのです。

そうして60万人と言われる日本人捕虜を連れ去り、数年間、強制労働に駆り立てたのです。また、千島列島は50年たった現在、未だに占領したままです。

 

今回帰国してから、始めて、ロシアに関する勉強をしてみました。

ところが、図書館に行っても、ロシアに関する本というのは意外に少なくて、興味を持つ人の少なさを感じさせられました。

 

ロシアの建国伝説は面白いのです。

AD862年の記述に、彼らの間には正義がなく、氏族は氏族に向かって立ち、彼らの間に内紛が起こって、互いに戦を始めたとあります。その結果、海の向こうのバイキングに手紙を送り「私たちの国全体は大きく豊かですが、その中には秩序がありません。公となって私たちを統治するために来て下さい」というのがその言葉だったというのです。

正直と言えば正直ですし、拘らないと言えば確かにおおらかであります。

 

また、1603年の偽ドミートリー事件というのも面白い話です。

ドミートリーという王子が暗殺されました。ところが、それから10年ほどたったある日、自分は暗殺を免れたドミートリー王子であると自称する青年が現れたのです。

当時の首長に不満を持つ人々は、偽ドミートリーをかつぎあげ、本当に帝位にまでつけたのです。もっとも彼も、結局、みんなの要望を満たすことが出来ず、1606年殺されたしまったのでした。

 

これらの話の延長線上で考えると、第二次大戦の話も何となく、納得出来るような気持ちになってしまうではありませんか。

天照大神や天孫降臨とは、かなりセンスは違っているのです。

 

ロシアの国民にしてみれば、半世紀前の日本との戦争は、ほんの少しの負担で大きな収穫を上げた、いわば底値で株を仕入れたようなもので、ソ連首脳は、良くやっくれたと考えているのではないでしょうか。

 

カルチャーの違いというものは、面白いものです。

地下鉄の中で、1人分の料金しか払ってないのに、権利のない横の席にドタット荷物を置いて横着を決め込んでいる個々の日本人が、なぜ、昔々の領土問題で外国からいちゃもんを付けられると、一緒になって自分たちの政府を非難するかも、外国人から日本人を見た場合に、理解しがたい謎でありましょう。

そういえば、読んだ本の中に、こんなことが書いてありました。

ロシアの地下鉄で、お年寄りに席を譲らずに座っていると「おまえどこか悪いのか」と、婉曲に注意されることがあるそうです。

これは、子供のしつけは社会の責任であるという、共産主義体制の肯定面なのだというのです。

日本のように、戦争、愛国心、国旗、国家はひと固まりである。自分は戦争反対、だから何もかにも反対など言っているのは、どうなのでしょうか。

 

国としての利益、あるいは多数の国民の希望を実現するように動くのが、国家の最高指導者の役割です。最もマクロな仕事と言えましょう。

これに対して、周りの人に食事を作って食べさせるのは、もっともミクロな仕事と申せましょう。

ロシアで、直接接した料理人は、山小屋のおばあさん、キャンプ場のおばさん、この二人しか知りません。

彼女らは二人とも、ボルシチなどの料理を、美味しい(ヴ・コースノ)と言ってお代わりするととても喜びます。そして、お代わりを断ると、本心からがっかりした様子でした。

噂に聞いていたロシアの庶民というのでしょうか、実に素朴な人たちだなと思いました。ついついお代わりをし、太ってしまいました。

街のフリーマーケットには、2カ所行きました。

物は豊富で、値段は安いと思いました。結構、この青空市場をデパートの代用にしているのか、ときどき、おめかしをした綺麗な女のお客さんを見かけたのでした。

マーケットでは商品も商人も、韓国の活躍が目に付きました。我々とは、辺境で頑張るバイタリティが違う感じです。

たった1週間の管見で、何を言うかとお叱りを受けそうですが、インドへ行ったときに、観光地や人込みで、接する人接する人、みんな物乞いじゃないか、スリじゃないか、騙されるんじゃないかと警戒して歩いていたのと較べると、ここロシアのド田舎では、嘘のように気が疲れませんでした。

 

ロシア連邦は、約120の民族からなっているといわれます。それが宗教も、言葉も、歴史も違う人たちなのです。

連邦内で、各集団の利益が相反することも当然起こります。

どう見ても纏めること自体が基本的に難しいのですから、それを纏めようとするには、相当強引なタガが必要になります。

エリツィン大統領が、自己保身のために首相の首を頻繁にすげ替えているのを見ていても、力だけがものをいう社会だという気がします。

法律だとか、人権だとか言ってはいられるレベルではないのでしょう。

過去に、法律とか取り決めとかが、ちゃんと機能したことを経験していないロシアの人たちに、そんなものを守れと言っても無理のように思われます。

ロシア人個人を対象とするならば良く理解できますが、それを越えて、纏まりとして考えるあたりからは、日本のような単一民族の思考体系を越えてしまうのだと思われます。

 

ロシアで、個々の人たちみんなが、それなりにやっているのに、世界中の人々から異端視され、経済は沈滞し、生活が疲弊しているのも、みな過去長年にわたる指導者の方向付けに問題があったように思われるのです。今後、どうなってゆくものでしょうか。

指導者の責任の重さを、今更のように見た思いです。

 

?観光バス

今回の旅では、あちこちで猛烈な悪路を走りました。

使ったバスは、軍用トラックを改造したものだと思います。もっとも実際に写真を見て下さった人は、まるでダンプカーですなと言いましたから、そのほうが当を得ているのでしょう。それも街を走っているダンプではなく、山の中のダム建設現場で走っているダンプなのです。

川岸にある露天温泉で、たまたま、こんなバスが5台ほど並んだことがありましたが、その時はまさに壮観でした。

小さな窓しかない頑丈な木製の箱が、荷台のところに乗っているのです。シートは20人分ほどあるのですが、荷物も一緒に積みましたから、窮屈でした。

昇降用に長いアルミの階段があります。動くときは、これを客室内に引き上げ、外から重たいドアをズドンと閉めます。挟まれれば、足ぐらいなら簡単に千切れてしまうでしょう。

客室の壁に15x20センチほどの黒い箱がついていました。止まって欲しいときには、これに付いているボタンを押すと、運転席に信号が行くのだということでした。

一回、本当に止まって欲しいことが起きました。通訳さんに頼んで押して貰いました。

ところが車は、ちっとも止まりません。通訳さんはムキになって押します。とうとう、箱ががガタンといって壁から外れてしまいました。彼女は「私、この装置について、説明聞きます」と言いました。そのとき、なんでか車は止まったのでした。

ギヤを切り替えるのに、凄い音がします。始めは、4輪駆動の切り替えかななど言う人もいましたが、どうもギヤ・ダウンするときに、ダブル・クラッチを踏んでいないためのようだと思われます。いずれにせよ、今の人たちには理解できない古い車用語ばかりで恐縮です。

 

偶然、私は後ろ向きの座席に当たることが多かったのです。始めは、前向きだろうが後ろ向きだろうが、見える景色は同じ量だと思っていました。

実際、日本のJRに乗ったときは、それでよいようです。

ところが、折角の外国で、窓の小さな車に乗ると、前向きの席に較べて、後ろ向きの席は、得られる情報量が格段に少ないものだと知りました。

山から下るときは、前向きの席でしたから,水量の少ない河床を走っているのだと言うことが分かりました。来るときの登りでは後ろ向きの席だったので、そんなことはまったく分からなかったのでした。

この理由を考えてみると、前向きの時は、無意識のままに、これから先に見えてくる事象をまず概観して、その中の興味深いポイントに絞って、観察に時間をかけるようにしているからなのだろうと思われます。

人生でも、受動的に、与えられた情報だけで暮らすのではなく、積極的に事前に概観する余裕が欲しいものです。

 

そういうわけで、観光バスは決してスマートな車ではありませんでした。

でも、たとえ野暮でも頑丈と言うことは良いことだ、ともかく長い悪路の旅をやりおおせたのだからと書くつもりでした。ところが、とうとう、やりおおせなかったのです。

それはパンクが命取りになったのでした。

なんと、同じ右後のタイヤが、結局4回もパンクしたのです。

どの場合も、折角直してから1時間半ほど走ると、また空気が抜けてしまうのでした。

恐ろしく大きなタイヤですから、男3人で取り扱います。運転手のほかに助手が2人も乗っているのです。

タイヤを取り替えるとき、私たちから見ると怖いような不安定な木のブロックにトラックの重量を預けて仕事をしています。

 

1回目のパンクの時のことです。遠くから、大きな白い動物が道路ぎわをトコトコ走ってきました。

始めは子馬かと思ったほどでしたが、近くへ来ると、大きな犬だと分かりました。西洋人のような、青い目の犬でした。

なにせ、修理に時間がたっぷりかかるので、犬もパンク修理の見物に加わりました。

誰かが,余っていた昼飯のサンドイッチをやりましたら、文字どおりガツガツと食べました。

修理が終わってみんなが乗り込むと、その犬も乗り込む積もりのようでしたが、運ちゃんが追い払いました。

どんな素性の犬で、これからどうするつもりだったのか、なにせ言葉が通じないので、分かりませんでした。犬だけじゃなくて人間でも、言葉の通じない外国では、よく分からないことが一杯あるのです。

 

2回目のパンクは、あと目的地のキャンプまで3〜4キロというところで起きました。

助手がキャンプまで走っていって、救援のトラックを連れてきました。我々は、そのトラックの荷台に掴まって、大揺れのヌカルミの道の旅を楽しみました。「海外旅行って、大変なんですねえ」と、ひょうきん者がカマトトのせりふを口走り、みんなを笑わせました。

朝見ると、例の囚人収容車がキャンプ場に来ています。昨夜のうちに何とか修理してきたのでしょう。

どこをどう直したのか、こういうことになると言葉の障壁があって、日本にいるときのように、気楽には聞けません。でも、時間は十分あったのですから、十分な対策が出来ているはずだと想像していました。

4時間ほど、ゴムボートで川下りとルアー・フィッシングを楽しんだあと、また囚人車です。

ところが今日も、また1時間半ほど走るとパンクなのです。

3回目のこの時には、もうスペアのチューブは、ないようでした。そこで、運転手が通りかかった車を止めて乗り込み、修理屋のある町まで行って直してきました。1時間半かかりました。

車が止まった場所は、まったく素晴らしい花野の中でした。

写真家の I さんは、盛んに花の写真を撮っておられました。

名も知らぬ、80センチほどの丈の、豪華な黄色い花を付けた草や、ヤナギランがそれぞれ群落を作り、原一面を自分の色に染めていました。川へ通ずる小道には、ムラサキツメクサガ甘い香りを振りまき、ミツバチの羽音を誘っていました。

こういうパック旅行では、お互い、あまり自分の素性など言わないものですが、当地の家庭用電圧が200ボルトであることから始まって、つい原子力の話にまでつり込まれてしまい「電力会社におられたのですか」と言われてしまいました。これもパンクのせいです。

 

・花野なか撮らるる女の若からず

 

ペトロパブロフスクまで、あと1時間ほどのところで4回目のパンクです。

こんな踏んだり蹴ったりの事態にあっても、わがグループの面々は「さあ、いよいよ、それぞれ自分の才覚で町に帰るか」とか、「明日の昼の飛行機に間に合えば、ノー・プロブレムさ」など、洒落のめしているのです。

寝袋も、予備食料も持っているのですから、まんざら口先だけの強がりでもないのです。「さっき通過した町の売店で、よっぽどビールを買おうかと思ったよ」のほうが本音なのです。

キャンプ場から同乗してきたロシアの青年は、ほんとに「サヨナラ」と言って降りて行ってしまいました。ヒッチハイクしたのでしょう。

当地では、ワイヤで引っ張っている故障車を、よく見かけましたから、相互扶助の美徳は、まだ色濃く残っているのです。

 

・涼風に白樺の梢の光りいる

 

結局のところ、お客よりも添乗員さんが心配して、ペトロパブロフスクからワンボックス・カー2台を救援のため呼び寄せてくれました。21時過ぎにホテルに入ることができました。

 

ところで、日本だったら、こんなに連続してパンクが起こることは、考えにくいのです。

必ず、故障の原因究明、再発防止対策がとられます。

私にとってはどうでも良いことですが、あえて推測すれば、多分、外側のタイヤのバイアスコードが切れていて、そこに当たるチューブが回転の度に揉まれてパンクしたのだと思います。外側のタイヤを代えなければ、再発は防げないでしょう。

このあたりの思考体系は、社会システムの相違としか言いようがありません。

 

?母と息子

山から下りてくる日のことです。例の囚人護送車のような、ごついバスが動き始めて間もなく、通訳のオルガさんが「私の家、道路から5分です。おばあさんと息子といます。皆さん私の息子見たいですか。私、息子見せたいです」と言いだしました。

彼女は今回の旅に、家族の写真、とくに息子の分を、生まれたときから4才になる今まで、沢山持ってきていました。そして小出しにしながら、できるだけ沢山の人に見せたくて仕方ない様子だったのです。

我々の女性軍は、写真を見ては「可愛い、可愛い」と言い続けていたのですから、今回の彼女の提案にも、当然「行く、行く」と声を揃えたのでした。

やがてバスは、都会でアパートに住む人たちが、夏に野菜作りをする家庭菜園団地(ダーチャ)に入ってゆきました。ここは、街から一寸離れた森の中にあります。

おばあさんの年金は、月20ドルで、それだけでは生活は楽ではないのだそうです。

そんな事情で、都市のアパート住まいの人たちも、農業が可能な夏期には、この家庭菜園の別荘に住み、トマト、キュウリ、キャベツ、ジャガイモなど作って、冬の食料として蓄えたり、お金に換えたりしているのだそうです。

イソップ物語のアリとキリギリスの譬え話は、ここではまだ現実のことなのです。

彼女のところの菜園は100坪強ほどだったでしょうか。

いろんな野菜や花を作っていました。トマトはビニールで囲ったハウス栽培で、随分手を掛けていて、とても綺麗に育っていました。

「うちのは、とても家とは言えません」と彼女は謙遜して言っていましたが、本当に2畳ほどのブロックを積んだ穴蔵のような小屋で、この時期はそこで寝起きしているようでした。

普通の建物付きの農地でも、2000ドル弱で手に入るとのことでした。

そんな菜園が、沢山集まっているのです。

不意に訪れたので、おばあさんはびっくり、息子は大喜びでした。

10分ほど見物して、みんな再び車に乗り込みました。小さい息子も,続いて乗ろうとしました。

「今日は駄目。おばあちゃんと待っておいで」とでも言われたのでしょう。子供は、しくしく泣き出しました。

「息子、少し悲しいです」「私も少し悲しい」22才のお母さん通訳も涙声です。

老いて涙もろくなっている私も、なにか湿っぽくなってしまいました。何だか、アバチャ山の登頂よりも、もっと感激的なひとときだったような気がしています。

人生、それでいいのではないでしょうか。

 

明日は日本に帰るという最後の晩、1週間前に最初の夜を過ごしたペトロパブロフスク・ホテルに、再び泊まりました。今度はシャワーも使えます。

このホテルに備え付けてある石鹸はとても大きかったのです。

実は私は旅行に行くとき、いつもタオル、歯ブラシと石鹸は洗面道具の袋に入れて持って歩いています。

当節はどこの旅館でも、この種の品は使い捨てのが置いてあるのですが、私が使えば補充する、それでは地球の資源を消費し、廃棄物を出す、だからと、世の中を不景気にするのを知りながら、あえて持って歩いているのです。

でも、このときは考えました。

私が紙を破って使わなければ、新品として次のお客に廻すだろう。でも、いったん封を切れば、掃除の人にとっては、捨てるか、自分の家に持って帰って使うかしかないと。

私は後者に賭け、持参の石鹸は使いませんでした。

 

不遜にも私は、多分、ロシアの人たちを貧乏だと思い過ぎていることでしょう。

でも、あの隣国の人たちの努力が有効に実を結び、幸せになってくれることを祈っているのです。

・夏休み果てて仕事に帰る顔

 

 

 

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