こんな山登りもあるんですね


重遠の部に戻る


ここに書いてあるのは、名古屋市在住80才の老人が、日帰りで福井県の2山に登るようなことをしているという話です。今後ふえることが 確実な 「山老人」たちの参考にでもなればというだけのことなのです。

日本山岳会東海支部では設立五十周年事業として五十山ラリーというテーマをとりあげました。五十山ラリーにはいろんなジャンルが設けら れ、日 本百高山、愛知県の山、一等三角点の山、なかには400m以下の低山などというジャンルもあります。期限を決めて、選ばれた山のうちから50 山を登ろうというものです。

私としては正直の話、もう、お迎えが近い年齢なので信仰の山シリーズを選びました。信仰の山として示された山の数は154山です。この ジャン ルの山群の選定をしたのはHさんです。彼は有名なピークハンター、とくに藪山では類のない強者なのです。信仰の山は、山頂に神社やお寺、ある いはご神体の木や岩があるような本来の意味の信仰の山もあります。そのほかにも神の峰、権現山、西方が岳など、山名が抹香臭いとして選ば れた のもあるのです。はじめから地図上に山名無しとされている山もあるほどで、ガイドブックにはのっていない、普通の登山の対象にならないような 山が、かなり含まれています。付き合ってくれる人もなく、登頂した50山のうち43山は単独行でした。

信仰の山へ登る最初の作業は、リストにのっている山を地図上で探すことから始まります。その山がどの二万五千図にあるかは示されています が、 地図上無名というのが11山もありました。

次に複数の山を組み合わせ、一日分として纏める作業があります。信仰の山には低い山が多いのです。一日一山では勿体ないので、多いときは 一日 4山も計画しました。過去に登っていない山はルートや所要時間がわかりませんから、いい加減な計画しかできません。その一方、ほとんどが単独 行ですから、登頂できなければ後日に廻せばよいので気楽ではありました。

つぎは、いよいよ登山ルートを探すことになります。これは、やってみて驚きました。なんと、最近は小さな山でも、結構インターネットに登 高記 がのっているのです。ただ、たとえば単に「権現山」で引くと、日本中から無数に出てきますから、近くの土地名を加えたうえで検索しなくてはな りません。地名との組み合わせ方法は、やっているうちにだんだん上手になってきました。

最後は、登山開始地点をカーナビにポイントさせます。実際この作業にかかってみると、国土地理院とカーナビではコンセプトが全然違い、な かな かこつが要ることがわかりました。つまり二万五千図では地籍が基本ですが、カーナビでは道路番号、交差点名が重視されているのです。カーナビ の地図上に、二万五千図に示された道路や川の曲がり具合から場所を類推し、その後倍率を拡大していって、やっと目指す部落の名前が出てく るこ とが多いのです。

さて、そんなようにして登った山の一例を挙げましょう。

2010年10月2日、福井市の西にある国山・金比羅山と天谷・金比羅山と、ふたつの金比羅山に登りにゆきました。金比羅さんは航海安全 の神 様です。日本海に面したこの土地は、江戸時代に北海道と畿内を結んだ北前船で縁が深かったのでしょう。

この日最初は、国山・金比羅山に登りました。街道からはずれ、つづら折りの山道をしばらく登ってゆくと、30戸ほどの民家が山の斜面にへ ばり ついています。その部落のはずれ、愛染寺というお寺に車を置き山頂を往復しました。

この山の登山口には、ちゃんとした標識が立っていました。また、登山道も幅が広く立派なものです。ただ当節は忘れられた山ですから、日の 当た るところは草ぼうぼうで、蛇でも踏みはしないかと、足を出すのに勇気が要りました。もっとも、こういうところは蛇も嫌いなようで、いままでも 出会ったことはありませんし、今回も問題はありませんでした。また、じくじくして軟らかな場所は、猪がほじくり返したらしく凸凹になって いま した。そんな道でしたが、約1時間の登りで小さな祠のある山頂に着きました。

下山後、愛染寺の門前に十数基並んだ石塔の文字を読んでみました。それらは先の大戦 で亡くなった兵隊さんたちのお墓だった ので す。一番上の位の人でも兵長という低い階級でした。ほとんどが若い人たちで、一人だけ享年37才という人がありました。文字どおり一家の大黒 柱だったことでしょう。あるお墓には、兄が陸軍、弟は海軍と二人の名前が刻まれていました。戦没地は中国、ビルマ、沖縄などの各地にわ たって います。ニューギニアが、70年前の呼び方でニウギニアと刻まれているのが印象的でした。

私は今や絶滅寸前の戦中派です。日本が負けたとき15才、もう世間を一人前の目で見ていたつもりです。ここに眠っている人たちは、戦争が どん なに悲惨なものかを知りながら、祖国と東洋の平和を念じつつ命を捧げたに違いありません。思えばわが国の戦後六十五年は、敗戦国という枠組み の中で流れてきました。いまこの瞬間も、世界のあちこちで、当事者双方とも正義を主張しながら、みのりのない悲惨な殺し合いを続けている 現実 があります。そんな現実をよそに、戦争に至った責任を敗戦国の一部の人だけに押しつけたり、語り部に戦場の悲惨さを語らせているだけの皮相な 平和論が、真の平和実現にはたしてどれだけ有効なものなのでしょうか。人間という存在が過去にどんなことをしてきたのかを、歴史から真摯 に学 ぶべきなのです。

こんなにたくさんの戦死者をだすなんて、北国のこの小さな山村の人たちにとって、どんなに悲しい日々だったことでしょう。あふれるほど供 えら れた曼珠沙華の花の色が胸に沁みたのです。


・曼珠沙華兵士らの墓整列す


次に天谷・金比羅山を目指しました。この山は運良くネットの登高記に二万五千図まで添えてあったのです。あらかじめカーナビにセットした 目的 地には簡単に着きました。ところがそこは予想外の山奥でした。近づいてみると森の中に、半ば朽ちた家が数軒隠れていました。人の気配はありま せん。登山口などまるで見つかりません。しかし登高記の地図に示された車止めの場所が、山屋の勘でなんとなくわかるのです。そこを手がか りに して見渡すと、多少でも該当するらしいのは、廃棄物投棄場への道しかありません。その山道に入ってゆくと廃棄場の小屋の屋根の上で初老の男性 がビニールトタンを張っていました。「金比羅山に行く道はこれですか」と聞きました。まさに登山道なのだそうです。ところがどうも、随分 教え にくい道のようでした。それでも、丸太を渡した流れを渡って入ってゆく竹藪の中の道だという点だけは心にとめました。意外に早く溝に丸太が渡 してありました。直径5cmほどの古い丸太数本です。半信半疑その丸太を渡り、小さな流れの岸をさかのぼりました。1mほどの高さの崖と 水の 流れとの間に、歩けるほどの傾斜地が続いています。踏み跡ならば平らなはずですが、そうともいえない草むらです。ともかく、そこを上流に向 かって歩きます。左手に崖の崩れたところがありました。なんとなく人が通った様子です。そこを上って20mもゆくと竹藪に入りました。竹 藪の 中は雑草が生えておらず道ははっきりしていました。

こんな道を30分ほど登り到着した頂上には簡単なお社がありました。ネットにあった登高記では、三角点までここから約200mとありまし た。 稜線とおぼしきところを辿るひどいヤブ漕ぎです。有り難いことに50mもゆくと、もう三角点に出くわしました。私は、こんな意外の連続のよう な山歩きが大好きなのです。

この日、もうひとつ印象に残ることがありました。それは登山道がクモの巣だらけだったことです。この時期、細い山道はクモたちの絶好の猟 場な のでしょう。始めはただ邪魔者としてストックで払っていました。でも、そのうちにクモの身になって考え始めたのですそれでクモの網の左右どちらかの下の隅の糸だけを斬ることにしました。そうすれば、私としては三 角の スペースを通り抜けることができますし、クモにしてみれば一本張り直せば元の網の姿に復旧できるはずだからです。なにせ登っているのが「信仰 の山」なのですから「山河草木悉皆成仏」を心がけねばなりません。

リーダーに連れられて行く山、道標に導かれて登る山とは違う、こんな面白い登山もあるんですね。

(深田クラブ会報に投稿)


重遠の部に戻る