南米管見

(2012/04/11〜23)

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ブラジル

今回の旅行ではアルゼンチン、ブラジル、ペルーそして経過地としてアメリカを訪ねました。このうちブラジルだけはビザが要るというので す。

海外旅行をするとき、パスポートのほかに相手国が発行するビザが必要です。ただし、短期間の場合、両国間に密接な友好関係があるときは 省略されることがあります。昨年ロシアに行ったとき、中国人には査証取得が不必要なのに、われわれ日本人は必要だと聞かされて、そうかい そうかいという気分になったのでした。

しかも今回のブラジルのビザは、今までに経験したことがない厄介なものでした。サイズその他の注文の多い顔写真のほかに、滞在維持を保 証するためという理由で銀行の預金残高証明書、またはクレジット会社発行の利用明細書、または申請時より過去一ヶ月間の通帳コピーが必要 だというのです。なんでも、最低25万円程度の残高が必要だというのです。お陰様で生まれて始めて、ぎりぎりでクリアするような恥ずかし い貯金通帳のコピーを提出しました。ブラジルは自国民の犯罪を、日本のメディアが頻繁に報道することへの報復で、日本とは密接な友好関係 がないと判断しているのかもしれません。

あるいは、昨今、かって宗主国であったポルトガルの経済が不振で、ブラジルへ出稼ぎにきているとのことで、ぐっと胸を張っているのかも しれないのです。

こうして、ブラジルってどんな国なのだろうかと、訪問への期待はぐっと高まったのでした。



サムライ

ペルーのリマ空港では、荷物チェックが厳格なことで有名です。スーツケースは全部開けさせられる、ひょっとして、いきなりパンツなんか 出てこないようにしなさいといわれていました。実際、全員開けてみせるように指示されました。私は異常に荷物が少ないのです。もともと登 山家ですし、登山では荷物は極力軽くするものなのです。キャラメルの包み紙さえ剥いでゆけといわれます。暑い寒いはあたりまえのこと、そ れで死ななければ良しとして軽量化に努めるのです。ましてや今回はオンブダッコのパックツアーです。機内持ち込みのデイ・バッグを抜いた リュックサックは、頼りなげに萎びています。それを検査台の上に置き口を開けました。

検査員は一応覗きましたが、馬鹿らしくなったのでしょう「これだけか」といいました。そうだと答えると、「サムライ、サムライ」「ムサ シ」というので、私が「ミヤモト」といってやると、「オー・イエス」とか言ってにこやかにパスしました。日系人が多く、日本のことをよく 知っているのですね。


今回の紀行文の表題は「南米管見」にしました。

私より少し若い人に「管見、カンケン」って知ってますかと聞きました。知らないとの答えでした。それじゃ「葦の髄から天覗く」は知って る?と聞きました。これも知らないそうです。どちらも蘆の茎の細い管の中から天を見たって、全体を見ることができない、 つまり見識の狭いことをいう言葉なのです。

広い南米大陸を、チラリと見た、ともいえないということはよくわかっています。それを承知で、あれこれ印象を口にしようとしているので す。さぞかし、青い空を夜覗いては「空は黒い」と言い、夕焼けを覗いては「空は赤い」と言っていることでしょう。

でも、ここで一応お断りしたので気が楽になりました。さあ、始めますよ。


飛行時間は羽田からサンフランシスコまでが9時間30分、リマまで9時間30分、ブエノスアイレスまで4時間30分、イグアスまで1時間 45分と合計すると25時間15分になります。実際の飛行時間は風向きで変わりますが、何れにしても遠いところです。


・ 雨季乾季季語になじまぬ国に来て

ブエノスアイレス

申込時には、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの市内観光が入っていました。しばらくしてから「航空会社が時刻表を変えたので、不可 能になりました」と、丁寧な謝り状が旅行社から届きました。ところが実際には、当初どおり市内観光ができたのです。その理由が、意外にも 飛行機がスケジュールのとおり出発したためだったのです。聞いてみれば、ラテンの国々では、予定どおりに出発することのほうが異常なの で、十分すぎる余裕を見て計画するのだそうです。


アルゼンチン・タンゴ発祥の地、ボカ地区は、いかにもかっての港町らしい雰囲気でした。ケバケバしく塗られた小さな店が立ち並び、酔っ 払った水夫たちが、のたくっていた様子を想像させてくれます。

市の中心部は、フランスのパリを、現代の車社会に合わせて作り直したような素晴らしい街並みでした。建物の高さ制限はパリと同様です。 でも、パリのシャンゼリゼ通りの道幅が70mなのに、ここの7月9日通りは幅143mもあり、オベリスクだって建っているのです。コロン 劇場はミラノのスカラ座、パリのオペラ劇場と合せて、世界の3大オペラ劇場といわれる立派なものです。ブエノスアイレスが南米のパリとい われるのも、むべなるかなです。

ところが、あちこちに広いスラム街があるのです。そんな郊外などでなくて、市中心の鉄道駅の裏地区などにあるのです。 人口の都市流入が続き、 行政は征伐できるどころか、スラム街の膨張に手を上げている実情なのだそうです。日本でも公園、高速道路下などのホームレス対策に苦労しているのと同じな のでしょう。民主主義のひとつの側面です。

もみじ照る
・もみじ照る通りの名さえカミニート



イグアスの滝

イグアスの飛行場は、イグアス川のブラジル側にあります。着陸直前に、滝こそ見えませんでしたが、密林の一箇所から水しぶきが雲のよう に立ち上っているのが見えました。

このあたりの地上の様子を見ていて、はるばる来た甲斐があったと感じました。

密林の木を想像で取り除けば、あのアイスランドで見た溶岩が作り出した景色と同じなのでした。ここイグアスの滝は、旅行前に洪水玄武岩 で出来ていることを勉強していました。地面が割れ大量の玄武岩が流れだして作った土地なのです。 白亜紀ですから、大体1億年ほど前の出来事です。南米とアフリカが分離したの2〜3億年前にはですから、これぐらいのことはなんでもないことです。溶岩は 粘度が低く、水のようにほぼ水平に広く広がるのです。

規模は比べものにならないのですが、いまでもアイスランドで起こっていると同じ現象です。溶岩の噴出は、何回も起こり、溶岩流は何層に も積み重なります。その層のあるものは緻密で、すごく硬いのです。上流から流れてきた川が平らな鉄板にゆきついたことを想像してくださ い。鉄板は硬くて河道を穿つことができず、平らに広く広がって流れ、鉄板の端まで来て、滝になって落ちます。イグアスでも上流は広い流れ となっています。そして、あちこちから滝になって落ちています。一番水量の多い悪魔の喉笛と名付けられた滝は、80mの落差を一気に落ち ています。その他の多くの滝は、30mほど下にも硬い岩盤があるので、いったん水平に流れ、改めて残りの落差を落ちていました。

イグアスの滝

その滝の数は275とも300ともいわれます。川の水量が多いときには、滝の数も増えるのです。私が行ったときの流量は毎秒11、 000トンといっておりましたが、ここイグアスはビクトリアやナイアガラより圧倒的に水量が多いのだそうです。アメリカのルーズベルト大 統領が夫妻で訪れた際、イグアスの滝を見た夫人が「かわいそうな私のナイアガラよ」と言ったという話が宣伝に使われています。

滝の落ち口は侵食され、段々上流に移ってゆきます。イグアスでは毎年4cmといわれます。ナイアガラでは1.5mといいますから、イグ アスの岩盤がいかに硬いかがわかりましよう。(ナイアガラでは侵食を遅らせるため、観光と無関係になる夜間は水を止め、貯水池に溜め込 み、翌日の昼間、滝を通さず水力発電機を動かし下流に流しています)


・ 熱帯の密林に滝咆哮す



ナスカの地上絵

リマのホテルを朝5時にバスで出発、ピスコの飛行場からセスナ機に乗り、地上絵を見て夕方18時過ぎにホテルに帰着しました。トータル 一時間半の飛行でしたが、往復が一時間、地上絵の上を旋回するのは約30分です。

ナスカの地上絵も世界遺産に登録されています。

南米の不思議のひとつです。

太平洋から80kmほど内陸に入った標高500mほどの高原に、大きな絵が描かれています。白っぽい土地基盤の上に積もった、黒っぽい 石ころを溝状に取り除いたものです。こうして薄黒い地面に白い絵が浮かび上がっているのです。

紀元前から千年ほどにわたって描かれたとされています。年代についてはあまりにも

いろいろの数字があげられているので、あえて書きません。

有名なハチドリのように、はっきりした絵もありますが、クジラなどいうのはよくわかりません。物の形ではなくて幾何学的な図形もありま す。大きさは300mのもあるといいますが、そんなに大きくない数十mのものが多いようです。

この地上絵を描いた意図について、太陽の運行、農作業にかんする暦法に関係があるとか、労働力の調整や雨乞い儀式、突飛なところでは宇 宙人の作品だなどと、いかにも勿体らしく、いろいろの説が出されています。

でも実のところ、私は落書きだと思っているのです。もっと南のチリのアタカマ砂漠も同じような条件の土地ですが、ここには巨大ではない ものの、なんと5000もの地上絵が描かれているといいます。

人が地面に落書きするのは珍しいことではありません。 ハワイ島をドライブした人なら、道路際のあの黒い火山礫に白い石を並べた何百という落書きを見たことでしょう。なにも遠くへ行かなくたって、 富士山の山頂のお釜の底に石を並べた落書きを見た記憶があるかたも多いことでしょう。

人間の落書きでもっとも共通的なのは、ハートマークに太郎と花子の名前を書き込んだ図柄でしょう。万国共通、どこに行ってもお目にかか ります。日本古来の、相合傘にお二人様のパターンは劣勢になってしまいました。

良し悪しはともかく、犬がワンと吠え、猫がニャーと鳴くように、人間とはそういうことをする生き物なのです。

私はむしろ、地上絵の描かれた周辺の土地の様子に興味を感じていました。

雨などほとんどない地域です。東の山から続く砂の斜面の、谷筋には地下に水脈があるのでしょう。樹木が一列に点々と線上につながってい るのが見えました。砂の斜面に一時的に水が流れ、砂に吸い込まれて渦巻状のパターンを残しているのを珍しいと思いました。よく火星に水が 流れた跡が発見されたと、写真を添えて報道されます。そのときの写真とソックリでした。そんなパターンを見たことのない日本人にはピンと こないわけだと思いました。

この辺りは確かに雨がほとんど降らず、そのために遠い昔に描かれた地上絵が今も残っているわけです。でも、東日本大震災を経験したいま は、いつの日か異常な大雨でナスカの地上絵も消えてしまうのだろうなと信じているのです。



マチュピチュ

リマから飛行機、バス、列車と乗継ぎマチュピチュという谷底の寒村に着きます。ここに2泊し、丸一日をマチュピチュ遺跡の観光に当てま した。

マチュピチュも世界遺産に登録されています。

南米の不思議のひとつです。

アンデス山脈は地質学的には日本列島と同様、海洋プレートの沈み込みによって押し上げられたものです。ですから、すぐ頭に浮かぶよう に、大体は太平洋岸の狭い範囲にへばりついているといえます。しかし、南緯20度あたりではかなり幅が広がっているのです。琵琶湖の8倍 の広さのチチカカ湖や、かってのインカ帝国の首都クスコなどがある場所はこの辺りで、3000mを越す広い高原状になっています。クスコ から北へ流れるウルバンバ川は、末はアマゾン川になる川のひとつですが、高原から低地に降りる段階で、硬い地質の地域を削り込んで突破し ています。そのため沢山の峻険な峰々がそそり立っています。そのひとつの鋭鋒の稜線にマチュピチュ遺跡はつくられています。そんな状況か ら空中都市、天空の楼閣、インカの失われた都市などと呼ばれているのです。遺跡の西側こそ、まさに川底まで切り立った絶壁です。しかし南 東側は、つづら折れの道を中型のバスで遺跡の入口まで上がることができるほどの斜面であります。

インカ帝国の首都だったクスコの標高は3400m,そこからマチュピチュへくる途中3700mを越える高原にはトウモロコシ、馬鈴薯な どの畑がありました。当然、村落もあります。そこから一旦標高2000mのマチュピチュ村までくだり、標高差500mほど登った山の上な のです。例えてみれば、沼津の住民が富士山の山頂に神殿を造ったのではなくて、軽井沢の住民が碓氷峠を降ってきて妙義山に造ったようなも のです。

マチュピュ

マチュピチュについては、脈絡のない、勝手な説が渦巻いています。

石造りの遺跡のうち、ある部分は2000年も前につくられたともいわれ、また一説には1440年頃建設に着手されスペイン人が来る 1532年までの八十余年人が住んでいたという報告もあります。かっては1万人も住んでいた要塞都市ともいわれ、また実は貴族たちの避暑 地であって住めたのは最大で750人だったろうともいわれます。

住民がこの都市を捨てて立ち去るときに、神に仕える太陽の処女たちを、遺跡の一隅の墓に葬ったとも説かれる一方、発見された骨は男女ほ ぼ同数だという報告もあります。

昨年が発見100周年でした。アメリカのビンガムが発見したのです。この発見話についても、山頂の石造物の存在は、とうに地元では既知 のもので、6歳の少年がビンガムを案内した、彼こそマチュピチュガイド第一号だったという説があります。

私は同じ「埋もれた遺跡発見物語」を、アンコールワット遺跡を訪ねた折に感じていました。遺跡の発見とは、地元では既知の遺跡情報を西 欧先進国の探検者が聞き込み、案内され、発見したと宣言し、メディアが密林に埋もれていたとセンセーショナルに取り上げた時をいうので す。これは私の意見です。

ともかく、マチュピチュに着いた観光客たちは、記念撮影に夢中でした。観光というのは、有名な場所にたどり着いて、自分の入った写真を とることでもあるのでしょう。俳優さんの真似というか、いまでは観光客の定番というか、皆さん、ちゃんとポーズして写っておられました。

このマチュピチュでは、アメリカ人らしい若い女の子が、遺跡を全望する高みで、跳び上がっている瞬間をカメラに収めようとトライしてい ました。両手を広げて跳び上がるのですが、なにせ標高が2500mと空気が薄いので、ハーハーと苦しそうでした。おまけに、とても体格の よい子でしたから、着地するたびにズシンズシンと地響きし、そのうちには遺跡が崩れるのではないかと心配になったほどです。

規則で、案内役という名目で地元の可愛い女性たちが同行してくれることになっています。説明するわけではなくて、グループから迷子が出 ないように最後尾で見張る仕事でした。その女性たちは誰も彼も、かなり背が低かったのです。そういえばマチュピチュの村人たちもみんな小 柄でした。明治の日本人は、こんなように見えたのかしらと思いました。我々の身長になるには、まだ数代かかることでしょう。

マチュピュ
・ 烈日に天空の都市いま眼下


高山病

ジェット機は、普通、約1万mの高空を飛びます。そこはエベレストの頂上よりも高く、機外の空気は地表の4分の1しかありません。それ では人間は生きて行けないので、圧力を加えて標高2千m付近の空気(8割ほどの濃さ)にして飛んでいます。そして着陸態勢に入ると、段々 圧力を高め、地上と同じレベルにします。ところが今回、クスコに着陸するときは、逆に段々圧力を低下させてゆきました。クスコは 標高3400mで、空気は約3分の2しかないのです。 今回のツアーには、クスコ市での一泊、マチュピチュ遺跡の2500mでの滞在がありました。そのため 高山病が皆さんの心配の種になっていました。

ツアー会社が各自一本ずつ、酸素缶を配布してくれました。私は生まれて始めて酸素を吸ってみました。でも、馬鹿にしている人には効果が 出ないものだそうです。私は富士山より高い山に18山も登っているので、うすい酸素の状態はわかっています。ただ、加齢が、それにどの程 度影響するかが関心でした。実際は、始めから警戒してノロノロ動いていたので、障害の判別はつきませんでした。

最初に旅行社から渡されたパンフレットの高山病についての情報は実に正確でした。

添乗員さんの解説も、ほとんど正確でしたが、やはり過去に案内したお客さんから聞いた感想が入るだけ、やや怪しい点がありました。

現地ガイドになると、これはもう可成りいい加減で、酸素不足とエネルギー切れをごっちゃにしたり、まあ、役に立たないというより、か えって問題かなと思ったこともありました。

世の中では、風評被害のせいで、宿屋、生産者などが困らされるという話を聞きます。今回のツアーのなかで、 高山病にたいするコメントを聞いていて、大衆が「 正しく恐れる」ということはまず不可能なことのように思いました。

良し悪しはともかく、犬がワンと吠え、猫がニャーと鳴くように、人間とはそういう生き物なのです。


おひとり様

今回のツアーでは「おひとりですか」と何回も聞かれました。正直のところ、これは意外でした。私にとっては一人旅とは、航空券から泊り まで自分で手配して、ひとりで旅することのように思っていたのです。 いまでも海外旅行は一人が当たり前としか思えないのです。 だから、パックツアーにひとりで参加することが、そう特別なことだなど考えてもいませんでした。しかし、見渡せば33名のツアー客のうち、私以外は兄弟が 一組、女性4人組が一組、あとは全部ご夫婦でした。

昔、1956年アメリカに行ったときは、哀れな日本は外貨に乏しく、滞在費はアメリカの会社から技術研修費として支給され、旅費だけ外 貨を使うことになっていました。その外貨の割り当て枠をもらうために、東京の大蔵省まで本人が出向いてお願いしたのでした。

それから10年後、日本で世界エネルギー会議が開かれ、世界中から関係者が来日しました。私は火力発電所に勤務していました。おひとり さまでない、奥さん同伴の外国人関係者たちが見学にくるというのです。当時、発電所のトイレは、しゃがむタイプのものだけでした。外人の 奥様たちのために、急遽腰掛けるタイプを探して仮にとりつけました。その時代になっても、まだお二人様を羨ましいとも思わず、自分たちは そういうものだと思っていました。

日本人が、お二人様で海外へ行くことは、学者さんたちから始まったような印象です。学者同士のお付き合いもあったでしょうし、企業の意 識ではその時代、まだ贅沢に思えたのです。

私が今回のような観光目的のパックツアーに参加したのは、5年前のエジプトでした。それから5年の間に「お二人様参加が常識」、に変 わっていたのだなと感じました。団塊の世代が定年を迎え、いよいよ海外ツアーに乗り出してきているのでしょう。

最初の海外旅行が南米という人もないわけです。 皆さん,旅馴れた方たちばかりでした。旅の様子も変わっていました。昔は添乗員さんが旗を高く上げ、みんなゾロゾロついて歩いているものでした。今は添乗 員さんが空港での流れを説明し、あとは各人で好みの席を選んでチェックイン、荷物を預け、到着した空港で荷物を受け取ったところで再集合 というパターンでした。

おひとりさん

                            -Where is OHITORISAN?-

往路のある空港の待合室でのことです。よそのツアーのご婦人が「添乗員さん!あんまり接続時間が長いんで、また買い物しちゃった。カー ドだからいいけど」と叫んでいました。買い物狂で有名な方らしく「あんたまた・・」と女性たちの会話が盛り上がっていました。日本人も金 持ちになったものです。

でも、小生の老妻が今回のツアーに参加する気があるかどうかと想像すると、とても行くとはいわないと思うのです。我々世代は、やっぱり 男がひとりでゆくものだと思い込んでいることでしょう。もちろん聞いてみる気はありません。行きたいなどいわれたら懐が持ちませんもの。


ペルー

イグアスから飛び、ペルーの首都リマに着いたのは夕刻でした。運良く窓際の席に当たったので下界の景色に見惚れていました。宝石箱をぶ ちまけたような光の海に敷き詰められたリマの街は、世界最高の夜景といってもよいと思いました。

ところが、翌日、ナスカに向かうバスの中のガイドさんの話を聞いて、それが私の誤解であることが分かりました。私が感嘆惜しまなかった 光の祭典のかなりの部分は、リマで頭の痛いスラム街であるとのことだったのです。

スラム街は無政府的に膨張を続け、治安は悪く、まずは犯罪防止のため、夜道を明るくしようということだというのです。ついつい、国の発 電量の何%が防犯用の照明に使われているのだろうか、照明器具の生産が国の産業を支えているのかしら、防犯産業というものがあるのかしら など、暇人らしく考えてしまいました。

トイレストップを兼ねて、お土産店に寄りました。城門といってもよいような頑丈な扉を男が開けてくれ、バスが入ると直ぐに閉じました。 お土産店を取り囲んで、高さ4mはあるレンガで出来た立派な塀があります。敷地の角には塀の上にせり出して、まるで捕虜収容所のような監 視用の望楼があります。塀の上には、トゲトゲのガラス片が植えこんであります。空港の駐車場も、ちょっとした工場も、みなこのような作り になっているようでした。

リマのホテルで昼食を摂っていると、窓の外をデモ隊が歩いてゆきました。この日は近くの病院の医師、看護婦によるデモだったのだそうで すが、毎日、なにかのデモがあるとのことです。デモ隊は、ただ静かに歩いてゆきました。そして警官たちも取り囲んで歩いていました。みん なそれぞれに給料をもらい、生活をしているわけです。ずいぶん、非生産的なことに時間を費やしているように見えますが、こういう社会もあ るものだと不思議な気がしました。

良し悪しはともかく、犬がワンと吠え、猫がニャーと鳴くように、人間とはそういう生き物なのでしよう。

旅行者用のその場しのぎの雨合羽が、アルゼンチンでは7ドル、ペルーでは2ドルでした。もちろん、品物も違いますが。一人あたりの GDPがアルゼンチンは日本の5分の1,ペルーは8分の1です。世の中なんとかなるものです。


天野博物館

ペルーのリマにある天野博物館はプレ・インカ、インカ文明の資料収集で有名です。

2階が資料室になっていて、土器の部屋と織物の部屋があります。この博物館は西暦1000年、つまり源氏物語が書かれた頃に栄えた、 チャンカイ文化の資料が多いのです。

33名では説明も大変で、ほとんど質問することはできませんでした。なにより興味を引いたのは、女性たちが織物を見せられたときの熱心 さです。男たちはさもつまらなそうに、早く終わらないかとばかりブラブラしていました。凄まじいまでに性差を見せつけられました。

私は土器、とくに原料だとか焼成技術の変遷に興味があったのですが、ほとんど得るところはありませんでした。日本の弥生時代に対応する 時期に結構進んだ感じの製品があるのに、平安時代対応の時期になっても、さして技術向上の様子が見られないという印象でした。

壁に年表が掛けてありました。撮影は禁止ですし、年表の資料は見当たりませんのでお示しすることができませんが、それがどうも腹に落ち なかったのです。こんな理屈をこねる私は、本来はリマ市の国立人類学考古学博物館へゆくべきだったのでしょう。天野博物館では日本語で説 明があり、なんといっても織物のデザインは取りつきやすいので日本人観光客には好感されるのでしょう。こんなところがパックツアーの限界 なのです。

というわけで、自分でネットから南米の考古学を調べようと思い立ったのです。

現生人類ホモサピエンスの出現は十数万年前とされています。そして故郷アフリカを離れユーラシアに渡ったのが5〜8万年前とされていま す。 通説では、ホモサピエンスがベーリング海峡を渡ったのは、1万3千年前、そして南米南端にまでたった1000年で達したとされているようです。こうしてみ ると、十五世紀のヨーロッパ人たちにとってだけではなく、はるか昔のホモサピエンスにとっても北米、南米は新大陸だったのですね。

その面からは、ヨーロッパ南部ではネアンデルタール人とホモサピエンスが3万年ほど前まで共生していたなどいう古い話の輪に、 南北アメリカ大陸は 加われません。

でも、考えてみれば日本に旧石器時代があったといっても、活動の痕跡が大量に存在するのは縄文草創期に入ってからです。各地のホモサピ エンスに、ヨーイドンがかかって活発に動き出せたのは、最終氷期が終わり地球の温暖化が始まった1万5千年前ごろといってよいのではない でしょうか。

そう考えれば、南北アメリカ大陸の文化は歴史が浅い、などいうハンディは無視できるのではないでしょうか。


南米管見

南米は、なんといっても遠いところです。ニュースも少ししか入って来ません。

そして、大きな土地に、いろいろ様子の異なる、大きい国やら小さい国が沢山あり、大勢の人が住んでいます。

南米から帰ってきた今も、わからない事だらけです。わからなさが、余計切実に感じられるようになったといったらよいでしょうか。

ブラジルは日本の23倍の国土に1億9千万人住んでいて白人が55%。アルゼンチンは7.5倍の国土に4千万人、その97%が白人。ペ ルーは3.4倍の国土に2千万人、インデイオが47%、混血が40%と並べると、いかに色々の国があり、一概にどうのこうのいうのはおか しいことが分かります。

例えて言えば、ナイアガラの滝とグランド・キャニオンを見てきて、北米管見などと見栄を切ったら、馬鹿だと思わない人はないでしょう。 我ながら馬鹿なことを言ったものだと恥じ入るばかりです。

マチュピチュとナスカでは、研究の主導権をまだ外国人に握られているように感じました。過去の分からないことについて、ヨーロッパ人の 思考体系による推察が発表され続けているといってよいでしょう。

日本でも明治開化の時代には、ナウマンゾウのナウマン氏、日本アルプスのウエストン氏など先進国の人たちの力を借り、育ってきたので す。南米の考古学研究も、いずれは南米人自身の手で進められる日が来るのでしょう。その時は、あのマチュピチュの短躯の人たちも、日本で 起こったように、雲を突く長身になっているかもしれませんね。

それともラテン系の国々らしく、小難しいことは、やりたい奴にやらせて、自分たちは陽気に楽しんでいることにするのでしょうか。

ましてや地球の裏側にいる私達が、諸説の当否について眉間に皺を寄せることはないじゃありませんか。

ただ南米を観光の対象として、マチュピチュでは天空の都市を捨てて立ち去った人たちを想い、ナスカでは地上絵を描いたロマン深き先人た ちに感嘆し、イグアスでは天地を轟かす水音と立ち上がる虹に酔う、それでいいじゃないでしようか。

川の流れのように、なにものにも逆らわずゆったりと過ごしてゆきたいと思いませんか。人生の 河口はもう間近なのです。


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