題名:低山侮るべからず
(沖縄の山 於茂登岳と古見岳)
(2008/1/20〜24)

重遠の 入り口に戻る

日付:2008/6/26



年末に「南の島々の山々へお誘いです」というメールが飛び込んできました。
深田クラブの外間喜明さんからです。
計画は外間さんが企画し案内する「沖縄 平和と癒しの島々巡りの旅」の終了後に、石垣島、西表島の山に登ろうというものでした。

私は現役時代に会社の沖縄支社に何回も出張しています。
また、自然エネルギーの利用・研究設備の見学会にも参加したこともありました。
その時は宮古島、石垣島、西表島の風力発電、太陽光発電の設備を訪問・見学しました。
退職したあと時間の余裕ができましたので、日米両軍の視点から書かれた厚い沖縄戦記を片手に、アメリカ軍が上陸した北谷から日本軍が追いつめられ事実上戦 闘が終わった摩文仁まで、激戦地をレンタカーでたどったこともありました。
こんなにして沖縄のことはある程度承知しているつもりなので、今回は一般的な観光あるいは学習見学は割愛し、登山を主体にして参加したのです。
登ったのは沖縄県の最高峰である石垣島の於茂登岳(おもとだけ527m)と西表島の秀山である古見岳(こみだけ470m)です。
でもこの紀行文では、登山のほかにも、いつものようにムカデほども数のある蛇足を添えて皆様のお目を汚そうと企んでいるのです。

石垣島
1月20日、15時過ぎ石垣島の空港に降り立ちました。市の中心へゆく公共交通機関はありません。タクシー料金700円強でユースホステルに入りました。
荷物を置き、早速、石垣市立八重山博物館を訪ねました。ここの展示品の半分ほどは、考古学に関するものでした。戦後早い時期に早稲田大学が精力的に発掘、 整理したものです。
展示された土器は最も古いものでも4000年ぐらい前のものでした。
大陸では数十万年、日本でも数万年前の遺物が発見されているのと比べると、うんと新しい時代のことになるわけです。
オーストラリア大陸からフィジー、サモアなどを経てハワイ諸島に至る人類の移動もほぼ同じような時代経過であったとされています。
島嶼への人類の侵入には難しさがあったのだと思います。
最も大きな障害はマラリアだったのでしょう。先の大戦でも、八重山地方で悪環境の土地に追いやられ、食糧不足による栄養不良と重なり、住民の死亡者数が交 戦によるものより、マラリアによるものがはるかに多かったケースがあったといわれます。

さて、「マラリア」をウィキペディアで探していましたら、意外な記事まで見つけたので次にご紹介しましょう。

日本において
▲北海道
ほぼ北海道全域で流行し、明治時代以降の北海道開拓に支障を来していた。例えば、明治40年3月に着工された網走線鉄道工事の陸別・置戸間(当時、密林地 帯で入植者はなかった)では、マラリア、皮膚病などに悩まされ、網走線請負人が共同で普通病院を設置しなければならなかった。また、深川村(現在の深川 市)に駐屯していた屯田兵とその家族にマラリアの流行があり、
(中略)
その大多数は土着マラリアであると思われるが、現在では、撲滅された。ただし、今の北海道にも、かつて、日本で熱帯熱マラリアおよび三日熱マラリアを流行 させたと推察されているオオツルハマダラカ(Anopheles lesteri)、あるいは、シナハマダラカ(Anopheles sinensis)などのハマダラカは生息している。
▲本州
琵琶湖を中心として、福井、石川、愛知、富山でマラリア患者数が多く、福井県では大正時代は毎年9000?22000名以上のマラリア患者が発生してお り、1930年代でも5000から9000名の患者が報告されていた。本州で流行したマラリアは三日熱マラリアであり、その大多数は土着マラリアであると 思われるが、現在では、撲滅された。
▲沖縄
特に八重山諸島にはマラリア感染地域があることが知られ、琉球王朝の時代から強制移民と廃村が繰り返された歴史がある。また、第2次世界大戦中には戦争マ ラリアと呼ばれる大量感染の記録がある。これらも1960年頃までに根絶された。なお、この地方のマラリアについては真の土着ではなく、より古い時代にオ ランダ船によりもたらされたとの説がある。

ついでながら、こんなことも乗っていました。
マラリアで死んだ有名人 
アレクサンダー大王
一休宗純
堀河天皇
平清盛
ハリマオ
オットー2世 (神聖ローマ皇帝)
ファウスト・コッピ

博物館を見たあと、権現堂、桃林寺、石垣家庭園、宮良殿内を訪ねました。宮良殿内(みやらどうぬず)というのは、琉球王朝時代の士族屋敷の原型をとどめる 沖縄唯一の建物で、国の重要文化財の指定を受けているのです。
わたしと同年配のお爺さんが、テープレコーダー調で解説してくれました。
「沖縄の家では台風対策が一番肝要です。そのため家屋は低く真四角に造られ、かつ暑さ対策として東側と南側がオープンになっています。沖縄本島は先の大戦 で戦場になり、すっかり破壊し尽くされたので、ここが重文に指定されました。石垣は小さな島なので、アメリカ軍は戦略的価値がないと判断したそうです。 もっともイギリス軍は、シンガポール、香港など昔から小さな島に親しんでいるので、ここを占領するように主張したそうですが」。

帰ってユースのおばさんに、石垣島の考古学は早稲田大学が研究したようですねと報告すると、おばさんは早稲田大学の第7代総長を勤められた大濱先生がこの 近所の出身なのだと教えてくれました。
そしてサービスで缶ビール、泡盛をご馳走になり、翌朝には早い出発だったのにもかかわらず、粟を炊き込んだ炊きたてのご飯を頂戴したうえ、あれもこれもと お土産までいただき、すっかり恐縮してしまいました。
このユースは工事中のこともあり、この日、お客はわたしひとりでした。おばさんはわたしを、老学者だと買いかぶってくださったのかも知れません。
わたしのような老人が、あえてこんな若者用の宿に泊まるのも、このような家族的な経験ができるユースホステルというものが好きだからなのです。

竹富島

二日目の朝、豪華な「南の美ら花ホテルミヤヒラ」で「沖縄 平和と癒しの島々巡りの旅」のご一行と合流し、最初に竹富島、そしてあとから小浜島を観光しま した。
竹富島まではわずか10分ほどの船旅です。ビジターセンターに年表があり琉球王朝時代から、人口過密対策として強制移民が行われた歴史が記されていまし た。また年表で、1771年にこの地方を大津波が襲ったことを知りました。あとで調べてみると、その津波により石垣島では大被害があり、当時の住民約3万 人の内9千人も溺死したそうです。それから200年余の時間が経過しています。現在、また同規模の津波に襲われたとしたら、人口が増えているだけもっと大 きな被害を生ずることでしょう。新潟県中越沖地震ではありませんが、自然災害は、いつどこにどんな規模で襲ってくるか分からないものです。
島は周囲約9kmと小さく、村の中の尖った岩の先端が島の最高点で、その標高が24mという平らな島です。人口は約340人、犬や猫の数までも把握されて いるとのことでした。
竹富島が世の中から取り残された存在であったことが、今ではかえって福となり、国の重要伝統的建物群保存地区に指定され、観光の目玉になっています。ハイ ビスカスの花の髪飾りをつけて優しい目をした水牛に曳かれ、車に乗って細い道をゆっくり観光しました。

小浜島

小浜島は、何年か前に放映されたNHKの朝の連続ドラマ「ちゅらさん」の舞台だったのだそうです。ガイドのおじさんは、まず最初に、そのドラマのなかに出 てきたサトウキビ畑の観光に連れて行きました。現在ではサトウキビは外国との経済競争に太刀打ちできず、黒牛の牧場に変わっていました。アメリカ人2億5 千万人が、あれだけモリモリ食べていても何ともない牛肉に、いろいろと注文をつけて国内に入れないように制限している気持ちが察せられました。
そのうちにわけのわからないままに、ある民家の前で記念撮影をする羽目になりました。それからドラマのヒロインが走ったという港の突堤を、車窓から解説つ きで見物しました。
その後、昼食をとったホテルの廊下に「ちゅらさん」放映場面の写真や、ドラマの梗概が掲げてありました。それを読んで、始めて観光スポットにそういう、い わく因縁故事来歴があったのかと分かりました。やはり世間には、私みたいなドラマ音痴の偏屈者もいるようで、特別にサービスしてくれているのでしょう。
この島のもうひとつの売りは、島の周囲の海が、白い珊瑚礁で浅くなっていて、小山にある展望台から360度のエメラルドグリーンの眺望が得られることなの だそうです。
生憎この日は雨模様で、展望台には案内されませんでした。


沖縄・冬の気象
今回の旅では、最初の日だけは気温24度と暑く、日もさしました。
でも、あとの4日間はずっと小寒く、曇り、あるいは小雨という日が続きました。
たまたまテレビは、東京に雪が降っている様子を放映していました。
西表島の民宿のママさんが、私たちの服装を見て「寒くありませんか? 私は普段はズボンなど履かないのですが、とうとうあんまり寒くて引っ張り出しまし た。この寒さ、真冬ですよ」といいました。このとき西表島では1月なのに16℃もあったのですから、私たちはそんなに寒いなんて感じませんでした。でも、 天気図を見れば確かに強い冬型が居座っていたのです。
冬に沖縄へ登山にいったとき、どんな天候に出会いそうなのかについて私見を述べておきましょう。


竹富島の観光牛車


名古屋から石垣島までの飛行中、海面はすっかり雲に覆われていました。この季節、冬型の気圧配置で大陸から冷たい風が吹き出していました。一方、太平洋の 海流は、時計方向に流れているので、赤道付近で暖められ、沖縄、本州へ向かって北上してきています。両者が触れ合い、海面から蒸発する水蒸気が冷やされ、 小さな水滴、つまり霧とか雲になっているのです。本州のように大きくて高い山があれば、雲が吹き付けられる日本海側では豪雪になり、山の後ろの太平洋側で は空っ風の晴天になります。
沖縄の島々はそんなに大きくありませんから、風上側と風下側を足して二で割ったような、終日、霧もよいで、ときどき雨粒が落ちてくる、ぱっとしない天気が 続きます。それでも、トンネルを抜けると、風上側と風下側で多少の違いがあるのが認められます。
要するに、沖縄では、冬型の日は好天が望めないのです。
その様子を理科年表にでている数字で、次表に示してみましょう。

    東京   那覇 那覇/東京
1月の日照時間月平均 時間  175   96  0.54
1月降水量 mm  45.1  113.0  2.5
1月平均気温 ℃  5.2  16.0   —


いったん石垣島に帰り、いよいよ山のメンバーだけのスケジュールに入りました。深田クラブ会長の村瀬さんの80才を先頭に、70台6名、60台4名の合計 11名、うち女性はお3人でした。
レンタカー2台に分乗し東海岸を北上しました。このあとの全行程の運転は、ともに63才で最年少の、外間、滝沢両氏が勤めてくださいました。
市街地は結構な渋滞です。市街地のはずれに空港があり、轟音とともにすぐ目の前にボーイング737が着陸してきました。
空港付近の広い道路に、いかにもリゾートらしく、ピンからキリまでのホテル群、レンタカー屋、スーパーマーケットなどが並んでいます。
最初、玉取崎で車を止めました。駐車場のかたわらに植えられたアダンの木の、まるで蛸の足のように何本も支根を出し大地にしっかり居座った姿が、ここが南 国であることを思わせてくれます。



岬の先端にある四阿まで歩きました。天気こそ今ひとつですが、弓なりになった白砂の海岸が見下ろされます。波打ち際から数百m沖合を珊瑚礁が取り囲み、そ こで波が白く砕けています。珊瑚礁の内側の海面は波静で、こんな曇天にでも、海底の白さが素晴らしいエメラルド・ブルーを見せていました。
このあとさらに北上し、石垣島最北端の灯台がある平久保崎を訪ねました。
ここでは危なっかしい道を辿り、近くの小山に登りました。このあたりの、いやに派手な黄褐色の砂岩や凝灰岩が波に抵抗し、岬となっているようでした。
帰りは島の北岸を通り、於茂登トンネルをくぐり市街地へ戻りました。
もともとこの日は、野底岳に登る予定だったのです。島が一番狭くなったところにある山ですから、標高僅か282mとはいえ、その尖った山頂から、西に東シ ナ海、東に太平洋と、足元僅かの距離に眺められるのだそうです。



この日はあまりにも天気が悪くて、とても展望など望めないだろうと衆議一決しドライブを優先させたのでした。
ところがなんということでしょう、平久保崎から戻る頃には雲底が上がりだし、野底岳の尖った特異な山容をふんだんに見せてくれるようになったのです。
とくに北側、野底集落にある、登山口と書かれた道標のあたりからの姿は、左右対称形、心なしか首のあたりがくびれ、恋人の帰りを待ちわびて祈る乙女が、つ いに石になったという伝説の姿を思わせるものがありました。このキュートな山を、もう再訪する機会があるとは思えませんが、とても心に残る山でした。

於茂登岳(おもとだけ)
3日目の朝、8時に出発しようとすると、レンタカーの1台がバンクしていました。レンタカー屋さんの対応は早く、間もなく代車を持ってきたので30分遅れ ですみました。
ついでながらこの日の夕方、もう一台の車もスターターが回らなくなりました。このときも運良く市内での出来事でしたから、すぐ代車を持ってきてくれまし た。車でこんなにトラブルに遭ったのは、数年前のカムチャッカ以来のことで、珍しいことなのでとくに書き留めておきます。
道路際に於茂登岳登山口と書いた立派な道標が見えました。そこの舗装道路で車を降り、未舗装の林道を歩き始めました。サトイモのお化けみたいな大きなクワ ズイモや、巨大なシダを見ながらゆくと、10分ほどで林道は終わります。終点には車数台を置けるスペースがありました。



・背丈越すここは琉球お化けシダ


よく手入れされた登山道です。ゆるい傾斜でじりじり高度を上げて行きます。そろそろと思う頃右手に本峰が見えてきます。ゆるく時計回りに稜線を登ってゆく という、よくあるパターンです。最後の登りは滑りやすい粘土質の坂の急登でした。もう周りは密生したリュウキュウチクの藪で、左手にパラボラが見え、すぐ 上に防衛庁の電波塔の柵があり、その左側から一投足で三等三角点のある山頂に飛び出します。標高527m、沖縄県の最高峰であります。
記念撮影に移ります。「これじゃ去年とまったく同じ構図じゃないか」と誰かが言いました。まさに山屋ならば過去に何回も経験したことがある、どこの山とも つかぬ山頂の霧の中で、浮かぬ顔を並べたシーンでありました。
登山道は多少滑りやすいところもありましたが、そんなにひどいわけではありませんし、むしろ石を漆喰か何かで固めてあって、とてもよい登山道でした。
登り始め9時15分、山頂10時40分、帰路には瀧を見物し、車帰着12時15分、標高差約400mの登山でした。
街に帰り港のホテルで980円のバイキングを昼飯にしました。

西表島
石垣港から15時30分発の船で、西表島大原港へ渡りました。
乗ったのは第八十八安栄丸19トン、1200馬力のエンジンを二基備え、時速37ノット(63キロ)で突っ走ります。
この時期、1月のウイークデイですから、客室はガラガラです。燃料代だけでも、さぞかし大変だろうと同情しました。
この航路は一日に二十往復を越す船便があります。航路には海上保安庁が赤と緑の柱のマークを設置しており、海のハイウエイといった感じです。
なにせ台風以外では、欠航はあり得ないといいます。
すれ違うときに、相手の船が立てた波を越すので、船はいったん飛び上がっては船底を海面に叩きつけます。たった35分の航海ですが、4〜5回はすれ違いま す。不意をつかれるとびっくりですが、相手の波を見ながら味わえば、ドンと来いと、一種の快感があります。

前回この西表島にきたときから10年余、港の変わりようには驚きました。
前回は小さな桟橋が一本、陸上にはわれわれを乗せるマイクロバスが一台だけ待っていたのでした。
ところが今では大きな桟橋と大きな待合所の建物が建っていて、50台ほどの車が駐車していたのです。
冷たい横殴りの雨が吹き付けていました。レンタカーで島の北側の上原集落までゆき、あけぼの荘に投宿しました。
夕食は鯛のお頭付きに、泡盛飲み放題と、実に豪華なものでした。
食後、外間さんが気を回してくださり、三線(さんしん、三味線のこと)を携えた若い女性が現れました。彼女は神奈川の出身で、7年前にこの土地が気に入っ て住みついてしまったとのことです。民謡の弾き語りで楽しませてくれました。
民謡の中に教訓歌というのがありました。教訓歌の歌詞は、人は誰でも一生懸命働かなくちゃいかん、夫婦は支え合い助け合え、兄弟は仲良く孝行しろ、という ような文句が、何番にもわたって延々と続くのでした。私はただ、ごもっとも、ごもっともと頷いていました。
彼女はなかなかの理論家で、琉球王朝の宮廷で、賓客をもてなすためだけに限定して演じられていた三味線が、大衆化した経緯など話してくれました。
われわれ一行の北村さんは、退官後、民謡の団体の世話をされたのでお詳しく「追分という唄は船頭たちによって全国に普及したのだが、沖縄ではどうだったの か」など質問しておられました。
そんな彼女の解説の中にでてきた「島の民謡には、ここの人たちが薩摩藩や琉球王朝の役人に虐げられた哀歌や、恋仲になったお役人が帰国してしまう悲恋など 唱ったものが多いのです」という言葉にハッとしました。
沖縄本島の住人ならば、こういう言い方はしないと思うのです。宮古島、石垣島など沖縄の中でも辺地であった八重山地方の人々は、薩摩藩も、沖縄本島に居を 構えた琉球王朝も一緒くたにして支配者として捉えているのです。
石垣島の街角に人頭税廃止記念碑と刻まれた石碑が建っていました。
琉球王朝、薩摩藩が支配した時代には、この八重山諸島の人たちから人頭税を徴収していたのでした。15才から50才までの人数に応じて課税するのです。所 得の高低・有無にかかわらず徴税するのですから、低所得者にとっては、たまったものではありません。人頭税はローマ時代から世界のあちこちにあった税制 で、近くは毛沢東やサッチャーが採用したといわれます。
石碑には、永年の人頭税が明治36年に廃止された、その100年後の記念として立てた旨記されていました。
ホモサピエンスは、強い者が弱い者をいじめ、弱い者は強い者にたいして妬み嫉妬するものなのです。今の日本は選挙で政府を選ぶ真の民主主義国ですから、妬 まれ嫉妬されるべきは投票者・民ということになります。
しかし現実には、誰も、自分は弱い者、虐げられていると口にするとき、なんともいえぬ甘美なカタルシスに襲われるものなのです。
先年、韓流ドラマがブームになりました。それは半世紀前のテレビドラマ「君の名は」の再来だという評判でした。悲劇のヒロインに涙を絞る快感がなんともい えないのでしょう。
人間は、客観的に見ていかに恵まれていようとも、自分が不幸せだと感じることはできるものなのです。「最近嫌なことばかり多いですね。これからいったい、 どんな世の中になってしまうんでしょう」、そんな被虐的な会話が頻繁に交わされます。これは、少し厳密にいえば、「最近嫌なことばかり報道されますね」と いうべきですが、ほとんどの人にとって、身近でないことは「報道されること」がすなわち「ある」ことなのです。
「新聞」、新しく聞いたこととは、よくその本質を表しています。まさに新聞は、「いま」と「ここ」だけを、大衆に受けるようにセンセーショナルに書き立て る傾向が強いのです。こうしたマスメディアの本質は、新しいメディアであるテレビでは一層顕著です。
「いま」と「ここ」だけでは欠けてしまう面を考えてみましょう。
まず「いま」のほかには、過去と未来があります。
いまの自分を不幸だと考える方法のひとつは「昔は良かった」です。それが成立するのは、過去を具体的に考えないからです。端的に申しましょう。十分な医療 を受けられず、冷蔵庫もなかった頃は、往々にして、幼い愛児が死神に攫われるのを止めることができませんでした。そんな、過去に実在した生活環境に戻って よいものでしょうか。
また「ここ」のほかには、広い世界があります。いろいろの国と、さまざまな民族の生活があり、そしてまたそれぞれに表と裏があります。裏事情は「いま」時 点では、伝えられないことが多いのです。
かって、北朝鮮を「地上の楽園」と報道したことは、「いま」と「ここ」だけで論ずれば、何の問題もありませんでした。実際、そうだと発言した人がいたので しょうから。でも今になって過去の出来事としてみれば、間違った印象を与えたメディアと、夢破れた帰北者を生む不幸があったことになります。
よく考えると、現在、この瞬間だって、同じことが行われていないという保証はないのです。
いうまでもなく、誤った印象を与える方が悪いのです。でも、受け取るほうも、騙されてしまってはどうしようもありません。「いま」と「ここ」以外に、でき るだけ多くのことを知り、自分の頭で考えなければなりません。
そうあるための具体的な手段は、多くの本を読むことと、旅をして自分の目で見ることだと思うのです。

ともかく、グローバル化した現代では、地方の人の妬みと嫉妬の対象が、日本政府、そして超大国アメリカを指向しがちなのも、人間という生物の本性でありま しょう。

古見岳
4日目、朝から小雨もよい、強い北東の風が吹いていました。
道標はおろか、変哲もない道端の空き地に車を止めました。そして身支度を終わってみれば、一風変わった出で立ちです。バレーシューズあり、ズック靴あり、 ゴム長あり、土方の親方よろしくの地下足袋姿まであります。9時スタート、ゆるい下りの林道を200mほどゆくと、もう巾10mほどの流れにぶつかりま す。
渡渉の始まりです。ジャブジャブと踏み込みます。膝下5cmほどの水深で、流れはそんなに早くはありません。なにせ久し振りの渡渉ですから、川底の石の納 まり具合を靴の裏で慎重に聴きながら渡りました。こんなようにして十数回、渡渉を繰り返します。
この川が用水の水源になっているようで、直径10cmほどの鉄パイプが道に平行していました。そのうちに林道は山道になります。渡渉する川幅はときどき狭 くなり、そんなところでは水深が深く、流れも早くなり、転ばないように一層慎重さが要求されます。一番深いところでも、膝のちょっと上に来るぐらいの水量 でした。
さすが南の島です、1月だというのに水温はまったく気になりませんでした。
概念的には沖縄の島々が連なる先に台湾があるように感じているのですが、正確に見れば、ここ西表島は、台湾の台北市よりも少し南になるのです。たかだか緯 度で1度のことですが。
1時間ほどそんな渡渉を繰り返した挙げ句、川身を離れ左の斜面に登り始めます。ここで普段はき慣れている登山靴に履き替える人もいました。この地点は、ま だ、標高差にして80mほどしか登っていないのです。
このあと遠慮会釈もない一直線の急登がきます。真っ直ぐに登り切り少し下ったところで、ほぼ直角に右に折れ、ゆるい小さな沢をくだります。そして谷を横 切ったあと、対岸のゆるい沢を登ることになります。その沢は、そうなんということもない沢なのですが、私はここで滑って滑って苦労しました。石と苔が滑り やすい取り合わせだったのか、あるいは疲労が溜まってきていたためだったのでしょうか。
ほとんど水のない小さな滝を越すと、リュウキュウチクの藪のなかの道になります。ここからこの日始めて、とんとんと一定のペースで足を運ぶことが出来まし た。
本州の低山でも、笹が現れるとやがて頂上ということが多いのですが、前日の於茂登岳同様、ここでもリュウキュウチクの藪のなかの小径をゆくと間もなく山頂 でした。
ときに13時15分、登山開始から4時間かかっています。標高470m、西表山の最高峰です。相変わらず天気は思わしくありません。でも幸いなことになん とか眺望が得られました。南に黒島、新城島、東には先日観光した小浜島、そして足元から海岸まで照葉樹林が広がっていました。この山行を選んでくださった 外間さんが「低山、侮るべからずでしょう」と漏らされました。周りはリュウキュウチクに取り囲まれています。リュウキュウチクというのはウィキペディアで はササの類にされていますが、直径1cm、高さ2mほどで、その姿は小竹といった様子です。ネマガリダケとは違って、垂直に真っ直ぐ立ち、密生していま す。この標高では本州のチジミザサ、モミジガサに似た植物も目につきました。
頂上にはほんの短時間滞在しただけで、同じ道を戻りました。
滑りやすい泥道の急降下は、たいていの女性は苦手になさるものです。でも、新潟から来られた田中さんはスイスイ下りてゆかれます。田中さんのお友達の五十 嵐さんは始めから最後までゴム長で通されました。登りの渡渉で、もう水が入ってしまい、重くてと言っておられましたが、頑張られました。
一番ぶざまだったのは私でしょう。年齢とともに筋肉は弱く、筋は固く、最近は着地点を見定める目の力も衰えてきたのを感じるのです。一昔前のロボットのよ うな危なっかしい姿を晒していました。
登りと一番違ったのは、帰路の渡渉です。登山靴のまま、ジャボジャボと流れに足を踏み入れました。私のほかにも何人かはそうなさいました。それは久し振り の感触でした。でも濡れることにあまり抵抗を感じない私としては、過去の山旅で、これが普通の渡渉スタイルだったのです。
車に帰り着いたのは17時10分、往復8時間の山行でした。行動中、何回か雨に遭いました。はっきりした雨に降られた時間は合計1時間ほどでした。
ここは東京から2200km南西、経度で15度も違います。日没が1時間ちょっと遅い計算になります。しかしこの日は雨もよいの曇天でしたから、そんなに 余裕のある帰着時間ではなかったのです。






古見岳に登山路があるかないかといえば、明らかにあります。ところどころテープがついています。そして登山路は周りの藪とは明瞭に識別できます。周りの藪 もそんなに濃いわけではありません。
ただ、登山路には倒木が沢山あります。「アタマ注意!」という警告の声が絶えません。あるときは跨って乗り越え、またある時は這いつくばって潜り抜けま す。
岩の頭を選んで歩を進める度合いも、通常の山道以上なのです。
通常の登山は、時間を競わないマラソンに似ています。長時間にわたり、肉体的、精神的な持久力が求められます。でも、この古見岳登山は、マラソンじゃな くって、ハードルを跳び越えて走る障害物レースの要素をたっぷりと備えているといえましょう。



・仙境へ道窮まれり猫柳


掉尾を飾る山
5日目、いよいよ帰る日です。
朝、靴下をはきました。
替えの靴下など持っていませんから、昨日の濡れたヤツです。
その足を突っ込もうとして広げるときの濡れたウールの抵抗感、そして足への冷やっとした感触に、なんともいえない甘い思いが突き上げてきました。
久しく遠ざかっていた、若い日の激しく楽しかった数多の山行の記憶が甦ってきたのでした。
かなりハードな、それだけに達成感のあった古見岳登山こそ、私の登山人生の掉尾を飾る山・・・と、指はキーボードを飛び跳ねるのです。
でも、本心は、これからも山に会いにゆきたい、そしてまだまだ沢山の掉尾を飾る山たちに巡り会いたい、そう願っているのです。