題名:パリは時雨れて(2004/10/8〜15)

重遠の 入り口に戻る

日付:2004/11/25


こんどの旅は4人連れ

その4人は中学校の同級生同士なのです。
机を並べていたのは、もう60年も昔のことになりました。
そんな昔中学生たちが、いまでも毎月、第1火曜日の夕方、毎回同じレストランに、当日気が向いた者が集まってくるのです。
せっかく集まるのですから、孫の話、病気の話、政治の話は御法度なっています。それどころか、毎回、メンバーがウンチクを傾けて、お互いに勉強をしようということになっています。

最近の圧巻としては、音楽家のなり損ないが、フルオーケストラの楽譜を持ってきて、解説をしてくれたことがありました。

さて、この会でパリに行こうではないかという提案が出されました。
言い出したのはパリ大好き男、M君です。彼はもう過去3回も訪ねているのです。言い出しっぺですから、敬意をこめて「先達M君」と呼ぶことにいたしましょう。
「オレはもう、たいがいのところは見てしまっている。だからこんどは、普通の人が行かないところを勝手に見て回る。案内はしないから、おまえらパリ始めて の奴らは、自分たちで観光するんだぞ」という、自分勝手といえば自分勝手、でも、まことに合理的、かつ、さっぱりした提案なのです。
そして選んだのはパリ・フリー・ステイ8日間というツアーで、パリまでの飛行機とホテルだけが入った商品だったのです。
結局、外国旅行ずれしている3人が同行することになりました。

成田までは順調でしたが、ここで機体の整備に時間がかかっている旨アナウンスがあり、1時間強遅れました。ちょうど昼時でしたから、売店で1000円を限度に軽食と飲み物をとりながらお待ち願いたいと、日本の航空会社は気配り満点なのです。
「ブチ落ちんように、しっかり直してもらわんと、ドモならんな」そうぼやく先達M君に「ホンデモ考えてミヤー。落ちりゃ、家族にはタップリ保険金が入る し、帰りの空港に出迎えに来んでもいいし、いいことづくめダないか」と混ぜっ返すのは、一休和尚の生まれ変わり「トンチのT君」なのです。
わたしは口が重く、左様、然らばと四角にシャッチョコ張った、どちらかといえば愛昇殿ムードの男なのです。だから、このグループに高砂殿ムードの賑やかさを持ち込んでくれるトンチのT君は、貴重な存在であり大歓迎なのです。

「一番印象的だったのは、飛行機の窓から、この10月始めに、もうすっかり凍てついた白一色のシベリアを見下ろしたときでした」、そう仰るのが0奥様です。
戦争が終わったあとも、60万人を越す元日本軍兵士がソ連に拉致抑留され、パリへ飛ぶ飛行機の眼下に見えるシベリアで、寒さと餓えに苛まれつつ強制労働を強いられたことを思っておられたのでしょう。
わたしたちの世代にとっては、忘れられない戦争体験なのです。
0奥様の御夫君は、私と同級生、通学路が一緒の仲良しでした。母校で数学の教師を勤められ、将来を嘱望されておられたのです。残念なことに40年近く前、交通事故で亡くなられました。
彼女は今回のグループの紅一点なのですから「ザ・マドンナ」とお呼びしても叱られないでしょう。

さて、私たちの毎月の例会には、ザ・マドンナのように同級生の奥様が3人、マドンナズとして常連で出席されています。
いまのところ、旦那が生きている奥様で、出てこられるかたはありません。
ほかのかたのご事情は存じませんが、わたしとしては、みんなの前で山の神に唯々諾々、ペコペコしているのを見られたいとは思わないのです。

・未亡人かたらひて飛ぶ秋のパリ

○水に気をつけろ!
わがザ・マドンナは名古屋の中心街でブティックを経営しておられます。当然ファッション感覚は鋭いのです。
先達M君に引率されて、ここ花の都パリの有名なファッション街、モンターニュ・アベニューなどへと、ザ・マドンナ殿のお供をさせていただきました。
通りには有名店が軒を連ねていました。クリスチャン・ディオール、ニナ・リッチなんて、わたしだって結構名前だけは知っているのです。でも、マキシム・ ド・パリは料理店、シャネルは香水屋だとばかり思っていましたのに、ここでファッションの店も出しているのに、口あんぐりしたりしていました。
野暮なわたしには、ファッションの良し悪しなどわかるはずもありません。でも、多くの店では、パリッとしたスタイルの黒人男性が、お客様の接待に当たっているものだという印象は残りました。
背の高さ、プロポーションなどの点で、黒人のほうが平均的なフランス人よりも格好良いのは事実だと思います。また、日本でもマネキン人形にダーク色も採用されているのですから、色彩的にも引き立つのかもしれません。
モンターニュ・アベニューを見て歩きながら、先達M君は、いまだに企業経営の呪縛から逃れられず「この店、1日に何人お客が入るだろう。店を出すにはお金 がいるし、やっていけるだろうか」と心配しどおしでした。実際、どの店にもお客さんは、ほとんど入っていませんでした。
たしかに彼のいうとおり、この道にある店だけをとれば完全に赤字でしょう。でも、ここに店を出しているというだけで、その店のマークがついてさえいれば、結構な値段で買う人が世界中に溢れているのです。

ザ・マドンナはもう、うっとりしていました。
エリゼ宮の角で交通整理をしていた警官の白いコートを見ては「私も欲しい。持って帰りたい」とため息をつかれました。
パリジェンヌが手にした引き綱の先のペットを見ては「犬までどこか違う。絵になっている」と漏らされるのでした。

・跳ね上ぐるコートの白やエリゼ宮

「フランスでは、どうしたことか犬の飼い主はフンの始末をしない。それで、パリの街は犬のフンだらけだ。市の清掃人がバイクに乗って、真空掃除機のホースで吸い取って回っている」と聞かされたのは、そんなに昔のことではありません。
でも、こんどわたしが始めて見たパリは、そんな様子ではなくて、とてもきれいでした。

ところがこのあとに訪れた、ツールーズ、マルセーユでは、現在でも、話に聞いていた、かってのパリの状態でした。
いくら町並みがきれいだろうが、お揃いのバルコニーがお洒落だろうが、上を向いて歩くのは禁物です。至る所に爆弾が落ちていました。
でも、つい、この禁を破る人もいるようで、犬のフンはぐちゃっと踏まれていました。フンは色こそ2歩3歩と行くほどにだんだん薄くなりますが、足跡はどこ までも続いてゆきます。車のタイヤに踏まれたときも同様です。こうしてフランスの町中は、余すところなく犬のフンで汚染されているに違いありません。
この問題にマスメディアが焦点を当てたならば「犬の大腸菌濃度、日本の5万倍!!!」などと大活字を躍らせることでしょう。
さしあたり、わたしは荷物を決して地面に置かないように気をつけて旅していました。

以下は建設省に勤めておられた尾田栄章というかたの「セーヌに浮かぶパリ」という本からの受け売りです。
2000年ほどまえ、ローマ人がここに町を作りました。
ローマ人たちは風呂好きで、立派な水道設備を作り、ここパリでも1日に1人あたり200リットルの水を使っていました。今の日本での使用量は240リットルといわれますから、ほぼ同じ量です。本国のローマでは1日1000リットルも使っていたといわれます。
事情は3世紀ごろ変わり始めます。キリスト教が浸透してきたため個人主義となり、共同浴場の人気が低下しました。また、都市文明に無縁な狩猟民、ゲルマン民族が南下、侵攻してきました。
こうして水に関する設備は、ただ荒廃するにまかされたのです。そしてやがて、水を使えない、水を使わないことがよいことだという文明に変わってきたのでした。
1750年、パリで新築された73のホテルのうち、浴室を持っているのはたったの5軒しかありませんでした。現在でもシャワーしかない部屋がホテルの主流を占めています。
約400年前になって、やっとポンプでセーヌ川から水を汲み上げて使えるようになりました。それから200年後でも使用可能量は1日10リットルだったと推定されます。これはサハラ砂漠の住民のレベルで、生存ギリギリの量なのです。
汚物を流す水がない、となると糞尿は窓から投げ捨てるしかありません。中世のパリでは、毎朝窓から糞尿を投げ捨てるときには「水に気をつけろ」と叫ばなければならないという定めがあったのです。
夜遅く散歩していた聖王ルイ9世の頭上に、窓から投げ捨てられた糞便が降りかかってきたのでした。深夜まで勉強していた学生が、こんな夜更けに道を歩いている人はいないだろうと「水に気をつけろ」の叫び声なしに投げ捨てたのでした。
しかしお咎めはありませんでした。深夜まで勉強していた学生の真面目さに免じて、国王はこの2人を特別に許されたのでした。

花の都パリと憧れ、オー!シャンゼリゼと歌う、その裏では糞尿の雨、人類の文化のありかたは、実に可変的、自己中心的で、尽きせぬ面白さがあります。

○パリに着いて
成田の出発が遅れたので、パリの宿に入ったのは予定よりかなり遅れていました。
宿では、在パリ日本人ガイドの女性が、時間外なのに待っていてくれました。われわれ老人たちがいろいろ質問を投げかけていると「みなさんお元気ですね。この時間、日本じゃ真夜中過ぎているんですよ」と感心されました。
実際、少なくともわたしは、時差ボケのことなど、まったく意識していませんでした。
改めて考えてみると今回だけではなく、最近はどこへ行ってもすぐに現地時間で行動しているのです。
若い頃は、時差ボケについて神経質でした。いまは旅慣れたというよりも、年をとったために覚醒期と睡眠期があいまいになってきて、いつもウツラウツラうたた寝をしているのです。それで、どこからでも現地の活動に入っていけるのではないかと思います。

翌日午前中、先達M君はひとりでオランジェリー美術館へ、あと3人は市内観光バス半日コースに参加しました。半日観光は日本人ガイド、お客も全員日本人で すから、日本での観光旅行と変わりません。景色こそコンコルド広場、凱旋門、エッフェル塔、朝市、ルーブル美術館、ノートルダム寺院と、まさにパリです が、ただ感心して見ていれば時間が過ぎてゆきます。
わたしは「パリの朝市」を意外に面白く感じました。日本の観光地の朝市は観光客相手のパフォーマンスの色彩が濃いのですが、ここは完全にパリの住民を対象にしたものでした。
山の恵み、海の恵みがどれも新鮮で安く、住んでいるのなら買いたい気持ちに襲われました。
すっかり毛を抜かれた鴨がゴロンとしていたり、ウサギが梁からぶら下げられたり、多少ショックではありました。
またこのあとの観光では、かのダイアナ妃が最後の昼食をしたリッツホテル、パパラッチをまくために出た裏門、猛スピードで逃げたセーヌ河畔の道、ぶつかった13本目の柱などが、観光のかなりの太い柱になっているのに感銘を受けました。

その後、先達M君と合流、中華料理店で昼食をすませ、彼の案内で観光に入りました。
オペラ座、ラファイエット、プランタン両デパート、バンドーム広場、リッツホテル、マキシム・ド・パリ、マドレーヌ寺院、コンコルド広場、サントノーレ ファッション街、エリゼ宮、シャンゼリゼ通り、モンテーニュファッション街など見て回りました。さすがパリ4回目の先達M君、実に効率的に引き回し、この 日の最後を、これも値打ちなフランス料理のフルコースでしめてくれたのでした。

・短日やマロニエ並木影二つ

○モン・サン・ミッシェル
モン・サン・ミッシェルとは8世紀に作られた古い修道院で、世界遺産に指定されています。パリから西へ約350km、大西洋に突き出して造られています。
名古屋から東京まで日帰りで観光に行くようなものでした。車中、同行したトンチのT君、ザ・マドンナご両人はもっぱら目を閉じて、英気を養っておられました。
バスのお客は相変わらず全員日本人、ガイドも在パリの日本人です。
まず、ガイドさんが投げかけた注意事項を聞いて度肝を抜かれました。
「トイレはついていますが、緊急やむを得ないとき以外は使わないでください。車内に臭気が立ちこめるからです。食べ物を食べるのもいけません。落とすと床 が汚れるからです。当然、クッキーなどもカケラが落ちて掃除が大変ですから止めてください。ジュースもこぼしてシミがついて困ったことがありました。水だ けは、まあ、飲んでも結構です」。
こんな厳しい話は日本では考えられません。観光会社の方針なのか、運転手の意向なのか、それともガイドのおばさんがストイックなのかなと考えてしまいました。
いますぐお前の考えを言えと強制されたら「フランス人とは、他人にものを要求するときには、こんな言い方をするのではないか」と答えようと思います。

さてバスが西に向かってパリの街を離れると、樹木が茂った丘と谷の続く、まるで日本の内地のどこかを思い出すような景色が続きます。高級住宅、そしてベルサイユ宮殿はこんな土地に建てられているのです。
さらに遠ざかると、大きくうねった大地がすべて耕され、農家が点在する、のんびりした土地になります。高速道路を行き交う車もまれになり、北海道の田舎そっくりの雰囲気でした。
やがてルーアンの町の手前で高速度路は西に分岐し、ノルマンディー半島に入ってゆきます。
ルーアンは大きな町です。今から573年前、1431年5月30日、わずか19才だった少女ジャンヌ・ダルクは、ここで処刑されました。

イギリスに攻め込まれて、フランスは敗色濃厚だったのです。イギリス軍はフランスの一派に金を渡しジャンヌ・ダルクを捕らえ、さらに高額の身代金を国王に 要求しました。ときのフランス王シャルル7世は凡庸の評判が高く、フランスの世論が自分よりジャンヌ・ダルクに期待していることに焼き餅をやき、身代金の 支払いを拒否しました。イギリス軍はやむなく、ジャンヌ・ダルクに魔女であるというレッテルを貼り、火あぶりの刑に処したのです。
体は焼けましたが、心臓は焼け残りました。当時、神の使いの心臓は焼けないと信じられていました。それで、イギリス軍は「おれたちは神に対して、なんということをしてしまったのだろう」とすっかり意気阻喪したのです。
こうして戦いの形勢は一変、フランスは国として残ることができたのです。
だから、こんにちフランスがあるのはジャンヌ・ダルクのお陰であると、いまだに全フランス人の尊敬を受けているのです。・・・とガイドさんがいいました。
もともとノルマンディーというのは、ノルウェーやデンマークなど北のほうの人、ノルマン人が侵攻して住みついたことから付いた名前です。すぐ南のブルターニュはブリテン、つまりイギリス人たちが侵攻した土地です。

ガイドさんはとくに近世の歴史にくわしいようで、フランスと近隣の国との関係を、ことこまかに解説してくれました。
いろんな民族、いろんな国が、なにも喧嘩ばかりしていたわけではなくて、国王同士が親類関係になったり、いろんな約束をしたり、その果てが今のヨーロッパになっているのだと納得しました。
王様たちのニックネームも、獅子心王、征服王などは立派ですが、単純王、肥満王、失地王など、おおよそふさわしくない人がトップに立った様子も想像されます。

大西洋岸に近づくと、浸食された谷が目につくようになりました。さすがにそんな谷は人の手が入らないで、自然の樹木が残っています。
わたしは後日レンタカーを借りて運転する予定がありましたので、道路の事情を一生懸命観察していました。といっても、有料の高速道路ではとくに問題はな く、出口は2km先とか、ちゃんと表示され、モン・サン・ミッシェルの表示も早くから出ていて、気が楽になったのでした。
もっとも、モン・サン・ミッシェルは世界遺産であるために、訪れる人が多いから表示してあっただけで、後日、道に迷ってひどい目に遭うことを、この日は想像もしなかったのです。
高速道の出口には次の町を紹介する、例えば教会などの、セピア色の大きな絵が立てられています。そのひとつに兵士たちの鉄兜が散乱したのがありました。こ こは1944年6月、ドイツ軍にとどめを刺すため連合軍が上陸した地域なのです。毎年6月になると、戦勝国から戦跡観光のお客が大勢押しかけます。この地 方では村々に、それぞれ戦争博物館があるのだそうです。

パリを出てからもう4時間、始めて崖のある丘が見えてきました。それまでは丘といっても、ただ緩やかな大地のうねりばかりだったのです。
その丘の上に教会の塔が見えました。アバランシュの街です。
大天使ミッシェルがこの街の司教オベールの夢枕に立ち、大西洋に浮かぶ小島に、自分のために教会を建てるように指示したのは708年のことです。
日本ではちょうど元明天皇が即位され、都を飛鳥から奈良へ移された頃です。
大天使ミッシェルは、英語読みだとミカエル、悪魔と戦う軍神、そして冥土の入り口にいて、死者の娑婆での業績を評価し、天国行きと地獄行きを振り分ける閻魔大王役であります。
ごくごく平らな土地に、不思議に、ここだけ突き出した花崗岩の小山に、びっしり石積みの建物がひしめいています。
時代の動きに翻弄され、本来の修道院から、城郭、監獄とその使途を変えました。そしていまは教会、さらには世界遺産として観光に貢献しています。
長い間、質素を旨とするベネディクト派の修道院であったのにふさわしく、がらんどうで、荒々しい外観と名前に惹かれて訪れた観光客を少々失望させるように建っています。
でも、わたしの目は、約50km北に位置するノルマンディーの崖に釘付けになっていました。昔の映画、地上最大の作戦、ザ・ロンゲストデイ・イン・ザ・ヒ ストリイに出てくるあの崖がおぼろげに見えていました。そして海岸線に広がる荒涼たる草原を、冷たい北風が吹き抜けていました。
モン・サン・ミッシェルの足元は遠浅で、とても上陸作戦など考えられません。崖のある地点は、海は多少は深いのでしょう。

・冬ざれのノルマンディーや鴎舞う

モン・サン・ミッシェルに数えきれないほどあるお土産店の商品の値段は、村長さんが仕切っていて、どの店で買っても同じなのだそうです。世界中どこの観光地でも、暗黙の談合というか相場というものはあるものですが、はっきりした公定価格という手もあるのですね。

この日、20時30分パリに帰り着き、軽食堂街へゆきました。
日本人経営のラーメン屋やうどん屋には、長い列ができていました。この日はたまたま日曜日で、開いている店が少ないのだそうです。ともかくパリには日本人観光客がゾロゾロいるのです。
2〜3軒先の「富士山」とかいう名前のラーメン屋が空いていました。ベトナム人がやっているのです。日本人観光客を取り込もうと、日本の献立、日本語のメニューなのですが、日本人って、やっぱり愛国心が強いんですね。
わたしはザ・マドンナが、日本人の店じゃなくちゃイヤと仰るかと、遠慮がちに「どうします?」と呟いたのです。そして「いいじゃありません」と簡単にお許しを得て入りました。
その後、結構、お客は続いて入ってきました。でも、外人ばかりです。
トンチのT君は英語ペラペラですから、すこし色の黒い人と、なにか楽しそうにしゃべっていました。
ところで、ここの野菜ラーメン、すっごく美味しかったんです。店のおねえさんに「とても美味しかった」と讃辞を呈し、別行動の先達M君にも推薦したのでした。

○ルルドの泉へ
10月11日、今日から3日間、一人旅です。
モンパルナス駅、地下鉄からだと長い長い地下道なんです。7時55分発の特急,この時間だと歩いている人の流れと臭覚で、迷わずに国鉄駅にゆきつきました。
乗車券は任意の3日間乗り放題の、フレキシパスという切符を日本で買いました。2等車にはシニア割引がなくて21,700円です。1等車にはシニア割引が あり、これを使えば1000円ほど高いだけです。1等車をおごりました。ただし最初の日は2等の指定席しかとれませんでした。

駅の出発ホームは7〜8本あるようでした。空港のゲートと同様、自分が乗る列車がどのホームから出るかは、発車の15分ほど前になってから表示されるのです。
面白いことに、自動車は右側通行ですが、複線の鉄道は左側通行なのです。たしか、台湾もそうだったと思います。
フランスが誇る高速列車TGVの旅です。日本の新幹線は各車両にモーターがついていますが、TGVではモーターのない客車を電気機関車が引っ張るのです。
客車のシートは固定で、車両の前半と後半の席が、それぞれ中央を向いていますから、半分の人は進行方向に背中を向けることになります。
モンパルナス駅を出てから数分は地上を走りますが、やがて地下に入ります。数分するとまた地上に出ますが、そこはもう見渡す限りの農地でした。
国土面積が日本の約1.5倍、人口はほぼ半分、まったく平坦で、フランスが農業国であることがよく分かります。そして、これも農業国だった明治の日本から元勲たちが訪れたとき、山の多い日本と比べて、さぞかし羨ましく思ったことだろうと察せられました。
1時間ちょっと走って始めてカーブにさしかかり、横の加速度を感じました。
しばらくは専用線を高速で走りますが、やがて在来線に入ると、その場その場のスピードになります。
3時間ほど走るとボルドーです。このあたりは、さすがに葡萄畑ばかりになります。ボルドーは大西洋岸から直線距離で60kmほど内陸に入っているのです。 海からは岐阜市の倍ぐらい遠いのです。でも、大きなジロンド河に面しているので、港町として葡萄酒の搬出には大変便利だったのです。
その後、列車はスペイン国境近くまで南下し、東へ方向を変えました。
やがて遠くに、スペインとの国境をなす、延々たるピレネー山脈が見えてきました。大きな谷では、前山の間から主稜線とおぼしき山々も見えました。穂高のように見えましたから、そんなに生易しくない山なのでしょう。

ルルドの町は、信州穂高のような山に接した扇状地を想像していました。でも、実際に行ってみると、ちょっとした山の裏にまで入り込んだ、醒ヶ井の養鱒場のようなところでした。ここまでパリから6時間弱です。
有名なルルドの洞窟や教会は、駅から標高差100mほど歩いて下った川の岸にあります。

1858年のことです。ここに住むベルナデット・スービルーという少女に聖母マリア様が現れました。そして泉に行って水を飲みなさい、顔を洗いなさいと、何度もお告げがあったのでした。それからその水で病気が治癒する奇跡が何回も起こったのでした。
現在、世界150カ国から年間500万人の人が訪れるカソリック最大の巡礼地、とくに病気を持つ人にとって重要な聖地とされているのだそうです。
日本にペリーの黒船がきたのが1853年です。マリア様がお告げをくださったのは、いわば明治になる直前の話なのです。
先日、帰国報告をしておりましたら「頭の良いヤツがいたんだな」などと、怪しからんことをいう男がおりました。

わたしが「ルルドの泉」という名前の名所に始めて接したのは、トルコ観光のときです。トルコにはキリスト教初期の遺跡もたくさんありました。
その後、九州の平戸、五島、天草の天主堂を旅したとき、各所でルルドの泉なる水場に出会いました。そして、いま、とうとう元祖ルルドの泉にきたのです。
水を汲んで帰るように、崖の裾に水道の栓がたくさん並んでいました。マリア様の姿を象った、水を詰めて持ち帰るプラスチックの容器を、お土産店で売っています。わたしもひとつ求め、いま我が家の冷蔵庫のなかで、名古屋市の水道の水を冷やしているのです。
巨大な石灰岩の崖に口を開けた洞窟の奥の泉には、善男善女が行列し、岩の壁は参拝者が手で撫でるのでツルツルになっています。なにせ癒しの場所だけに、たくさんの車椅子が目立ちました。
その先100mほどには、お灯明として寄進したロウソクがずらっと並んで炎を揺らせていました。大型のものは人の背丈ほどもあります。
さらにその先には、お祓いを受けるところがあり、大勢が列をつくって並んでいるのです。片隅で賛美歌が起こると,大合唱に膨れあがりました。まさに陶酔の境地でありました。
              うた
・時雨してルルドの泉賛美歌流る

このあとさらに2時間ほど鈍行列車に乗り、19時まえツールーズに着きました。
ルルドは、今度の旅行の本命のツールーズへゆくついでに寄ったのです。そしてツールーズへ泊まったのは、ラスコーの洞窟への出発点だからなのです。

○ラスコーの洞窟
今回の旅行に参加しようと心を動かされたのは、なんといっても中学時代の同級生と一緒に行けるという点でした。
ガイドなどつけずに、いわば気心のあった仲間と水入らずでゆくわけです。そんな旅行のできる喜び、一生のうちにあるかないかの貴重なチャンスだと思ったのです。
そして、わたしは生まれつき停滞型でなくて、あちこち見て歩きたい方なのです。フランスといえば、ラスコーの洞窟へ行こうと心に決めていました。

1万5千年ほど前、現生人種であるクロマニヨンがラスコー洞窟の壁に、野牛などの絵を描いたのでした。日本の高松塚などと同様、現代の空気に触れてから絵の劣化が激しく、現在では閉鎖保存されています。
しかし有名な遺跡ですから、近くにそっくりの洞窟と絵のレプリカが作られ、そちらを見学させているのです。
そしてこの近くには、ラスコーほど見事ではありませんが同じような洞窟が何カ所もあり、またレゼジーには国立先史博物館もあります。
ラシャペルオーサンなどいう、よく耳にするネアンデルタール人の出土地もあります。
おおかた、石灰岩で出来た洞窟のある地域だろうとは想像していました。
でも、その山は尖っているのかテーブル状なのか、谷の広さはどうか、平野とのつながりはどんな具合かなど、地形や雰囲気に触れておきたかったのでした。

訪ねるに先立って、ネアンデルタール人についての最近の情報を集めてみました。これがとても面白かったのです。
わたしが古人類学に興味を持ち始めた40年ほど前の認識では、人類は60万年前頃アフリカにいたオーストラロピテクスに始まるとされていました。

60万年前    35万年前    5万年前   1万年前以降
オーストラロピテクス  ピテカントロープス  ネアンデルタール    クロマニヨン

たった4種類の古人類がポツポツと位置づけられていただけでした。
そのためなんとなく人類は一本の系図で結ばれ、知能が発達するにつれて骨格が類人猿的なものから、われわれ現生人らしく進化してきたのだと受け取られていたのです。
そしてそのころは、ある共通の祖先からオーストラロピテクスとチンパンジーなどの類人猿とが分かれたのだろう、それが何時のことで、共通の祖先は何だった のだろう、つまり人類と類人猿を結ぶミッシング・リンク、失われた結合点に当たる動物の骨を探している雰囲気でした。

ところがその後、第二次大戦後盛んに古人類の発掘調査が進められ、広い地域で多数の骨が発見されました。
また、放射性同位元素により絶対年代が分かるようになってきました。それまでは発見された地層から推定するなど、おおまかなものだったのです。
そしてなにより、この20年ほど遺伝子、DNA技術の進歩が、大きく古人類学の認識を変えたのです。

現在主流になっているところをかいつまんで述べれば、次のようになると思われます。
人類の祖先は500万年ほど前には、もうすでに2足で直立し、チンパンジーなど類人猿とは別の存在になっていました。200万年ほど前には人類と認めれれる形態になっていました。このころまでは、すべての人類の歴史はアフリカで進んでいたのです。
190万年ほど前から、いよいよユーラシア大陸への進出が起こりました。北京原人、ジャワ原人などエレクトウスの類です。ヨーロッパにも渡っています。そ して、彼らはその後絶滅してしまったようです。もっとも彼らの後裔がネアンデルタール人だとする説もまだあります。
20〜30万年ほど前に、われわれ現生人ホモサピエンスがアフリカで生まれ、第2陣としてユーラシア大陸へ渡ってきたのです。ネアンデルタール人は多分同時代に渡ってきて、氷河期の寒さに適応してきた人類だと考えられています。

現生人のDNAの中には、ネアンデルタール人のDNAの因子は含まれていません。両者の間に交雑があったとしても、次代の生殖能力はなかったと解釈されています。
下記は、ある人類遺伝学者が書いている、わたしが好きな話です。

彼のところに、カリフォルニアの住人から電話がありました。
地元のスーパーマーケットのレジ係に、ネアンデルタール人そのものの顔立ちをした人物がいるというのです。どうやらそのレジ係は、とても気のいい人なようで、よろこんでDNAテストのサンプルを提供する心づもりがあるとのことでした。
(この話を読んで、昔、わたしが四日市のクラブで「あの女、ピテカントロープスに似てるね」と友達に囁いたときのことを思い出しました。運悪く、その女性 に聞こえてしまい、しかも彼女はピテカントロープスがなんたるかを知っていたのでした。ご機嫌をひどく損じたことはいうまでもありません。)

くだんの遺伝学者がその申し出でに応じなかったことは、申し上げるまでもありません。

コーカソイド、モンゴロイド、ネグロイドなどいう分類はどうなっているのかと思っておられるかたもおられるでしょう。でも、DNAの語るところによれば、 皮膚の色の違いで人種を分けることなどは、話す言葉が英語か、中国語か、東北弁かによって分けることぐらい、人種の議論上では無意味なことなのだそうで す。
そういわれてみれば、先日、アテネオリンピックのマラソン競技で、選手たちの顔かたちを人類学的に観察していましたが、みんな見事にホモサピエンス独特の特徴を備えていました。

退屈な話が続きました。結論に入りましょう。
わたしにとって、2つのことが衝撃的でした。
第一は過去に6属18種もの人類がいたということです。チンパンジーはDNAレベルでわたしたちと2パーセントしか違わないのだそうです。そして古人類は、それよりはるかに、われわれに近い人間だったのです。
そしてわれわれを除く種類はすべて絶滅し、ホモサピエンスだけが20世紀中に15億人から60億人と大繁殖しているという、生物学上きわめて異常な現実なのです。
第二には、いろいろな種類の人が、同時代に暮らしていたことです。とくにわれわれホモサピエンスはネアンデルタール人と少なくとも数万年間は同じ地域で暮 らしていたのです。2万8千年前まで最後のネアンデルタールはスペイン北部に住んでいたのでした。両者の関係はどんなだったのでしょう。

当然、なぜだろう?と、たくさんの疑問が湧いてくるはずです。
ネアンデルタール人たちの話す言葉はどうだったのか、家族は、寿命は、文化は、ロミオ・ネアンデルタールとジュリエット・ホモサピエンスの恋物語は、そしてなぜ絶滅したのかと、知りたいことが次々と頭に浮かんできます。
それらは、みなさんに考えていただきたいと思います。想像力は考古学者でも皆さんでも差がないのですから。
考古学上の話、とくにずっと古い時代のストーリーは、ほんの少しの証拠をもとにして、99.99・・・パーセントは想像力で作り上げているのですから。
一人でも多く、古人類学に興味を持ってくだされば、わたしもお仲間が増えて嬉しいのです。

・枯葉道カップル縺れ濡れ行けり

さて、こんなに私がはまっているラスコーの洞窟ですが、実は、たどりつけなかったのです。
というところで、お次の章に移りましょう。

○フランス・レンタカー事情
朝7時、ツールーズ駅の中のレンタカーオフィスにゆき、手続きをすませました。
連れてゆかれた車は日産MICRAという車種で、日本のマーチに当たるのだと思います。カーナビがついていないどころか、マニュアルシフトなのです。小さいながらディーゼルエンジンでした。
この日、一日で約500km走っても、燃料計はまだ半分しか下がっていませんでした。日本で乗っているガソリン車は、400km走ると、そろそろ燃料注意の警報ランプが点灯し、給油所を探し始めるのです。
MICRAは燃費が良いのか、燃料タンクが大きいのか、あるいは両方なのかもしれません。
地球温暖化を防止するために二酸化炭素の排出を抑えることが要請されています。ヨーロッパでは、燃料消費の少ないディーゼルエンジンを指向していることは承知していました。たしかに燃料は少なくてすむようです。
日本では教条的に嫌悪されているディーゼル車ですが、再考する余地はあると考えます。

車に案内してくれた女性は、車のドアをキー付属のリモートボタンで開けたら、もうあとはキーをポケットに入れておけといいました。
キーなしでエンジンをかけられるのが自慢のようで、女性がやって見せました。ところがノブが回らないのです。彼女はわたしに、キーを貸せといって強引にガ チャガチャやっていると、キーが壊れてしまいました。その後もエンジンが、かかったりかからなかったりしたのですが、ともかくオーケー?と言って行ってし まいました。
わたしがやってみましたがノブが回らないのです。大声で呼び返しました。
なんとも心配でしたから、この車はイヤだ、ほかの車はないのかと申し入れました。でも、これしかない、ともかくメーカーはニッサンなんだからと、日本人のわたしに押しつけ、行ってしまいました。
この日、まる一日使ったのですが、なんのことはないキーをちゃんと押し込めば問題がないことが判明しました。

・国産車異国の秋をひた走る

なにはともあれ、貰った地図でおおよその見当をつけて走り出しました。川にぶつかったら左へ、二つ目の橋を右へゆくつもりでした。左ハンドル、マニュアル シフト、右側通行と馴れないことばかりですから一番外側の車線をゆっくり走っていました。二つ目の橋にきましたら外側の車線は橋の下をくぐって直進するし かないのです。道路は通勤の車でいっぱいで、ゆくところまでゆくしかありません。夏時間で朝8時までは暗いので、もうどこを走っているか分からなくなりま した。

書き出すとキリがありませんが、要するにフランスでは道路番号を表示していないのが、決定的な欠陥なのです。
一般にフランスでは、交差点のロータリーで道を選ぶ時に頼る標識は、道の先にある町の名を書いた矢印が3段とか4段とかついているだけで、肝心の道路番号が示されていないのです。

交差点はヨーロッパ流のロータリーです。ロータリーを回りながら出口の道を探すのです。
ロータリー式の交差点は、名古屋では桜通が名古屋駅にぶつかったところに、東西南北4本の道路の交差点として作られました。昭和初期のことです。 
信号機がないのですから、止まらずに桜通から入り、笹島にも、駅前にも、郵便局のほうにも出られます。もう一度、桜通に戻ってもよいのです。
ところが交通量が増えると、もう、まったく機能しなくなります。車はロータリーに入るに入られず、出るに出られぬ渋滞の元凶に変わります。
現在、名古屋駅前では、複雑な交通信号を設けて整理しています。

有名なパリの凱旋門では、広いロータリーを設けています。でもここには、道が12本も集まってきているのです。時間帯によっては、まるで戦場です。
法律の下に危険運転をさせているのは、世界の文明国の中で、ここだけではないかと思えてくるほどです。

伏見から蟹江に行くことを考えてみましょう。
ともかく、1号線で蟹江へ行くことは、事前に調べておくことは必要です。
フランス以外の国のように道路番号が表示してあれば、伏見から19号線を南下し、熱田神宮の交差点で1号線という表示にしたがって右に入れば、いずれ蟹江に着くのです。
ところがフランス式では熱田神宮地点のロータリーに入り、回りながら見ると、最初の出口の表示が「白鳥」「東海橋」「下一色」「○」、次の出口が「内田 橋」「大江」「柴田」「○」、次の出口が「伝馬町」「堀田」「新瑞橋」「○」、このように書かれている札のなかから選択しなければなりません。「蟹江」と も「1号線」とも書かれた札はありません。前の車のテールランプを見ながら、後ろの車に警笛を鳴らされながらウロウロしていると、さっき入ってきた「金 山」「大須」「白川公園」の標識に出くわすことになるのです。「○」には、西向きなら桑名、京都、下関など大きな都市のうちのどれかが入れてあるのでしょ うが、フランスの地名をフランス語で書いてあるのでは、走行中読み取るのはまず不可能です。いずれにせよ、大都市に向かうときはやや有利ではありますが、 田舎を目指すときは、なんともならないのです。
実際には、そこへ行き着く前のロータリーでも、八熊、沢上、高辻、黄金通・・・・というような、地元の人しか知らない名前の洗礼を受けなければ、熱田神宮ロータリーにさえ、たどり着けないのです。
大きな街にはロータリーが沢山ありますから、どんなに大変な仕事か分かっていただけると思います。
高速道路だけは番号も表示され、単純ですから、まったく快適です。ツールーズから100kmほど北のアジャンまでは問題なしに着きました。で、ここアジャンでまた大迷いです。
仕方なく、わたしは腕時計に仕込んである磁石に頼ることにしました。春日井か小牧かは分かりませんが、ともかく南にあたる豊橋や常滑ではあるまいという判断に賭けたのです。

しばらく走っていて、地図にのっている町に会うと、合否が分かるのです。
こうして夢の世界を彷徨っているような気持ちでドライブしていました。
迷うたびに、なんど諦めて帰ろうかと思ったことでしょうか。
ともかく目的地のラスコーの洞窟まで60kmほどの、ベルジュラックという美しい町に着きました。そして、またここで大迷いを始めました。ロータリーの最 初の出口を選ぶべきだったのに2番目のに入ってしまったのです。町はずれまで行ってから、磁石が間違いを教えてくれました。
碁盤目の町でしたら、右に曲がり、もう一回右に曲がれば正しい道に戻れます。ところがフランスでは地方に行っても、結構パリ式の同心円市街が流行るようです。このベルジュラックでも、道が細くなったり住宅地に入ったり、苦労して元の道に戻りました。
時間はもう正午になっていました。あと距離は6〜70kmで、そんなに遠くはないのですが、地図では細い道が網目状になっていて、いよいよ佳境に踏み込むように思われました。
見学の時間も心細くなっていましたが、それよりも精神的に精も根も尽き果てた状態でした。ここで退却を決断したのでした。

帰りは通る町の名を知っているのですから、びっくりするぐらい早くツールーズに帰りました。
ところがです。日本のちょっとした街でレンタカーを借りれば、返すときにどの道を使えばよいかを書いた地図をくれるものです。でも、車を借りたときの状態から、フランスではそんな気配りがあるわけがないことはお分かりでしょう。
案の定、ツールーズ市の迷路でまた大迷いしました。車の流れのなかでは、いったん車を止めて地図や街路名を見ることもできません。教会の塔などの大きな建物や、橋を目印に走り回ったのです。
お陰様で同じところを何度も観光したり、この街には川が何本もあることなどよく分かったのでした。

どんなことがあっても、もう、フランスでは運転するまい,そう心に深く刻み込んだのでした。

○ツールーズの宿
ツールーズ市は交通の要所で、古くから巡礼などの往還が激しい場所でした。
徳川時代の始めの頃、ここツールーズに、大西洋に河口を持つガロンヌ川と地中海から続くトー湖とを結ぶ、約240kmのミディ運河が造られました。
高低差がありますから閘門が設けられ、高度な土木技術によって始めてなしとげられた偉業でした。こうして大西洋と地中海を結ぶ安全な交通運輸の大動脈ができあがったのです。現在、このミディ運河は世界遺産に指定され、観光船が巡航しています。
現在、ツールーズはフランスの代表的な工業都市で、エアバス社など航空宇宙産業の中心になっています。

さて、宿ですが、わたしが得意としているユースホステルは、ここツールーズのものはインターネット予約システムに加入していません。かといって電話でフラ ンス語を使って予約する勇気はありません。適当な宿はないかと、日本から、一生懸命インターネットで探しました。
ところが、あまりはかばかしくないのです。なかには1カ月以上も前なのに、インターネット予約枠は一杯です、という返事がきたのもありました。
でもそのうちに、駅前のホテルに何とか予約できたのです。
わたしは10月11日と12日に泊めてほしいと申し込んだつもりでした。
でも、フロントに着いてみて分かったのですが、ホテル語では、これが11日の夜から12日の朝まで、つまり1泊ということになるようでした。いずれにしても翌日の部屋はありませんでした。
いままで、海外で宿で困ったのは、オーストラリアで海水浴シーズンにぶつかったときだけです。今回も、まあ何とかなるだろうと、当日まで高をくくっていたのです。
ラスコーの洞窟行きを果たせなかった傷心の日の夕方、旧市街の観光を兼ねて、ホテルに当たってみました。ぜんぜん空いていないのです。英語の通ずるところ で、冬になれば空きがあるけれどなんて、ウソブかれてしまいました。わたしとしては大奮発して4つ星のホテルにも当たってみましたが、こんなところも一杯 なのでした。
でも、収穫はあるものです。フランスではホテルが満室の場合「Complet」と札が出してあることがあるのです。英語だと「No Vacancy」となるやつです。
たしかにホテルの立場に立てば、商売はコンプリート、つまり完成して、お目出度いわけではあります。

門前払いをくいながら、自分でも不思議なぐらい、あまり困ったという気がしてきませんでした。
翌朝、6時過ぎまで駅で過ごしたって、別にどうってことない、そんな気分でした。
でも、思いついてトーマス・クックの鉄道時刻表を見てみると、真夜中に出る夜行列車があるではありませんか。それも面白かろうと決めたのでした。
マルセーユまで、寝台料金は2400円ほどです、朝からマルセーユでゆっくり見物できるのですから、始めからそう計画すればよかった!。
駅のおじさんは「ヒャブ ア ナイス スリープ」と言ってくれました。

・長き夜や異国の駅の高鼾

寝台車は1部屋4人でした。お客さんが入ると、外から車掌がガチッと鍵を掛けてくれました。盗難対策は万全です。
もちろん、翌朝、到着の15分前に起こしてくれました。

○マルセーユ
マルセーユでは地下鉄の1日券を買い、乗り回しました。
まず、港へいってみました。小雨のなかに魚屋の屋台が出ていました。
7時半でしたが、まだ暗いのです。それなのにフランスでは10月末まで夏時間で頑張るのです。
今年7月に訪れた中国は、あの広大な範囲に北京時間しかないのです。地域によっては時計の時間と太陽の位置、つまり明るさとの関連は、かなりずれることになります。
このように、現代では、時間は明るさなどいう自然との関わりから離れて、何時に列車が出るとか何時に訪ねるなど、人と人との間のタイミング合わせに目的が移りつつあるように思いました。

マルセーユの港や街は、長い、比較的狭い入り江の奥にあります。長崎などと似た地形といったらよいでしょう。
わたしの青年時代までは、航海の時代でした。そしてヨーロッパ、当時の言葉で西洋にゆくことを、洋行するといっていました。飛行機による旅行が一般化するまでは、ヨーロッパへゆくには、ほとんどは航海によったのです。

洋行するには、横浜あるいは神戸から船に乗り込み、桟橋で見送っている人々にテープを投げて別れを惜しみます。シンガポールを過ぎ、紅海からスエズ運河を通過し地中海へはいり、始めて西洋の空気を吸い、マルセーユの港で西洋の地を踏んだのです。
政府の高官、実業界の巨頭、目を輝かせた作家や芸術家の卵たちは、みんなその経路をとったのでした。
彼等にとってフランスで目に触れた果てしなく広がる平らな農地は、島国山国の日本と比べてどんなにか羨ましかったことでしょうか。
そしてパリの豪華、堅牢な街並み、はたまた行き交う群衆の数には度肝を抜かれたことでしょう。
そしてここから更に、ロンドンへ、ベルリンへと新知識の吸収に、祖国を背に負って乗り込んだのでした。
日本の将来を担うエリートたちは、フランスの恵まれた国土、進んだ文化文明、強力な統治下で行われる計画的事業などから、どんなに強い刺激を受けたことでしょうか。
古い時代を知るわたしは、かっての先輩たちの意気込みと業績とを想いながら、明けゆくマルセーユの港を眺めていました。
もっとも、ここマルセーユの港に入ってきたコレラによって、市民の半数が亡くなった悲劇もあったそうですが。

・地下駅に河豚泳がせてマルセーユ

いろいろ見て回り、最後に地中海考古学博物館に行くことにしました。このころになると港の案内所も開くので「地下鉄ではどこの駅が近いのか」と聞いてみました。そしてちょっと気になる経験をしました。

今度の旅行中、沢山のフランスの人に親切にしてもらいました。
ツールーズ市で迷っているときに、困り果てて車を歩道に乗り上げて止め、バス停にいた人たちに道を聞いたことがありました。おばさんたちが集まって、口々に親切に教えてくれました。
アジェン市で道を聞いたとき、たまたま店にいた男がロータリーまで車の助手席に乗り込んで案内してくれました。
そんなに親切な人が沢山いるのに、フランスについて、棘のあるコメントを述べるのには気がとがめるのですが、気のついたことを、一応、書き留めさせていただきます。

案内所の若い女性は、「地中海考古学博物館」を英語で尋ねられたのが気に入らないようでした。しつこく、フランス語で言わないと理解できないというゼスチャーをしました。
もう一回、ツールーズのコンビニでも、そのような熱烈愛国的フランス人に会いました。このときの相手は、アフリカ系の若い女性でした。

わりと最近、フランスの空港に入る飛行機は、管制塔とのやりとりにフランス語を使わなければ着陸許可を出さないことにしようという議論が新聞に出ていたのを覚えています。
とくにイラクの問題以来、フランスの人たちにとって、圧倒的な経済力と軍事力をバックに「ひ〜とり〜のタメ〜 世〜界はアルノ〜」と、わが道をばく進するアメリカが憎くないわけはありません。
ま、日本でもマスメディアや若い人には反米感情が強いのですが、日本人は生来、紅毛碧眼や英語にヘナヘナするだけ毒性が低く、それだけ仕合わせでもあります。

同じ日の正午前、わたしは再びマルセーユの駅に戻っていました。
わたしの家では、夫婦とも2匹の飼い犬に首っ丈なのです。フランスを歩いていても、ツイツイ犬に目がゆきました。
マルセーユの駅の人混みのなかに、黒い中型犬を曳いた人がいました。立ち止まらずさっさと歩いてゆきましたが、その犬が器用に片足上げて、そばにいたお婆さんの引っ張り鞄に、さっとオシッコを引っかけたのに気がつきました。
お婆さんは気がつきません。わたしはわざわざオシッコを掛けた側に回って見ました。ぜんぜん濡れていません。あの犬は、あんまりしょっちゅうやっているので、涸れてしまっているのでしょう。
おまえ、フランスに行って何を見てきたんだと、お叱りをこうむることでしょう。まったくそのとおり、馬鹿なわたしでありました。

○リヨンへ
パリへ向かうTGVの次の駅は、エクス・アン・プロバンスです。
高名な画家セザンヌが生まれ、描いたプロバンスなのです。
車窓の右側にセザンヌが終生描き続けたサント・ビクトワール山が見えてきました。独立峰です。ここだけ固い岩石があり、浸食から残ったのでしょう。最初は 横長に、列車が進むにつれて鋭角的に見えてきました。稜線が東西に長いのでしょう。このあたりは、目に触れる山野、農家など、ことごとくセザンヌの絵を思 い出させます。

2時間弱でリヨンに着きました。案内書には地下鉄一本でフルビエールの丘にゆけると書いてありました。そこから景色を眺めようと思っていたのでした。
でも、地下鉄の駅に行ってみると乗り換えが必要なことが分かりました。それでは時間が心配なので、駅前の観光だけにとどめました。
よく、パリは建物の高さが決められていて、整った都市美を見せていると書かれていますが、その事情は他の都市でも同様です。
リヨンの旧市街も、落ち着いた町並みを見せています。しかし、もう何日も同じように美しい街を見ていると、いまさらとくに感慨も湧いてきません。人生も同じだなと、この老人は賢しらげに感慨にふけったのです。

・秋夕べ黒人牧師手招きす

リヨンからパリへのTGVの1等車は、重役室ムードでした。マルセーユからリヨンまでも1等車でしたが、なにせ1車両に4人ほどしか乗っていませんでしたから、ムードなどはありませんでした。
車両は赤と黒のアンサンブル、照明には白熱電球をあしらったシックな雰囲気であります。お客さんも背広にネクタイ、経済情報誌とか厚紙表紙の本など広げているのです。
そんな中では、リュックからジュースの紙パックを取り出して、パリまでに片着けてしまうのには、ちょっとした勇気が必要でした。
そういえば今回の旅行中、観光地は別として、一人旅で通ったところでは背広にネクタイという姿を見ることは稀でした。先入観かもしれませんが、フランスでは、少数のエリートたちが、社会全体をコントロールしているためなのかもしれません。

2日前パリを出たのはモンパルナス駅、帰りのパリ到着ははリヨン駅で、走るのは別の線です。しかし帰りもまた往路と同様、パリの南の部分で数分間地下を走りました。パリの南には丘でもあるのでしょうか。
TGVは思い切ったこともします。イギリス、ドイツなど北にある隣国からマルセーユ、ニースなど南仏へゆく国際列車の中には、パリ近郊を迂回して直接行っ てしまうのがあるのです。言ってみれば、成田空港から東京をパスして、京都、伊勢志摩へゆくようなものです。パリの駅がみんな行き止まりの終着駅形態で、 東京駅のように通り抜けるようになっていないことも大きな理由でしょうが。

○ナイトクラブ・リド
先達M君が、リドへゆく今夜は、どうしてもネクタイをしめろというのです。
先日、わたしが南仏を旅していたある夜のこと、パリでは、こんなことがあったのだと聞きました。カフェでくつろぐ先達M君を見ていた、とある日本人が「パリにご在住のかたですか?」と言葉をかけてきたのだそうです。
先達M君はビールをおごろうと思うほど嬉しかったそうです。トンチのT君が小声で、「昨日からご在住です」と言ったとか言わなかったとか、ともかくそんなパリッ子先達M君のご指示です。即、服従です。
南仏の旅から夕方パリに入ったわたしは、ホテルに帰って身支度する時間がありませんでした。スポーツシャツにネクタイという珍妙なファッションをして、観光会社の待合室で3人の友を待っていました。
久し振りに2組のアメリカ人夫婦の会話を耳にして、片言でも分かる言葉は快いものだと感じました。
ロシア人も数名いました。エリツィンのような顔をしたおばさんを見て、すぐにロシア人だとわかったのです。
わたしとしては、冥土への土産にと、清水の舞台から飛び降りるつもりで、パリの高級ナイトクラブであるリド見物を張り込んだのです。
そして、リドへゆくとはロシア人も金持ちになったものだと、共産主義崩壊からの日数を数えました。
でも、アメリカ人もロシア人も、エッフェル塔見物のバス出発とアナウンスがあったときに出て行ってしまいました。
日本人用の送迎バスに乗り合わせた大勢のお客のうち、リドで降りたのはわれわれ4人だけでした。
ささやかな贅沢をしてもいいじゃありませんか、もう喜寿の集いを計画している仲間なのですから。

先達M君によると、ここがナイトクラブとして世界一、次がニューヨークかラスベガスかといわれるのだそうです。
わたしは、竜宮城に着いた夜の浦島太郎のようなもので、良し悪しは分かりませんでした。最前列のスターが達者なのは当然として、一番後列で踊っているダンサーたちまでも、キビキビと決まっている感じは受け取れました。
サラリーマン生活が長かったわたしとしては、こんなショウでも、査定する人の厳しい目が注がれていて、お客に受けるかどうかを判定され、それが給料に跳ね返るに違いないという思考から離れられませんでした。
それでわたしは、惜しみなく拍手を送っていました。
先達M君によれば、ここリドでメンバーとして採用された経歴は、そのことだけで、世界のどこへいっても高く評価されるのだそうです。してみれば、当方がダンサーたちに力を添えるなんて僭越なことで、当方こそ相手から同情されるべきなのかもしれません。

ここでなんと、先達M君はザ・マドンナをフロアダンスに誘ったのです。
先達という立場を利用したセクハラの気味はありましたが、ほかの外人カップルたちのチークダンスとは違って、ご清潔なソシアルダンスを踊っていましたか ら、まあ、そこまでは許してやってもよいでしょう。ところがなんと、あろうことかあるまいことか、ザ・マドンナがジルバのリズムに遅れるとか文句をつけた のです。ここまでやると、はたして見逃してよいものでしょうか。

いよいよ旅も終わりに近づいているのです。先達M君がこんな軽口を叩きました。
「ザ・マドンナと一緒の部屋にすればよかったですねぇ。一人部屋料金の4万2000円、払わないですんだのですから」。
早速、トンチのT君は「どうせ、枯れ木を2本、ゴロンと転がしたようなもんで、なんてゆうことアレセンデナァ」。

ショウが跳ねたのは、深夜、日付が変わる30分前でした。それでも玄関には、引き続いて行われる第2部を待つ人たちが列を作っていました。

・彩りや美女シャンペンやリド長夜

送迎バスは幼稚園バスよろしく、雑多のお客をあちこちのホテルで降ろし、最後にわれわれのホテルに着きました。シャワーを使い、ベッドに入ったのは午前1時を回っていました。

けたたましくベルが鳴り響きました。夢がうすれ火災警報であると認識しました。でも、おおかたは誤って動作したのだろう、そのうちに鳴り止むに違いないと横になっていました。ところが10分ほどたっても鳴りやみません。
起き出すと3時過ぎでした。廊下を見ました。静かです。窓の外を見ました。真面目な人が数組避難してホテルを眺めていますが、緊迫感はさらにありません。することもありませんから、またベッドに潜り込みました。
わたしと同室のトンチのT君は目を覚まして、わたしとのんびり会話をしましたが、ついにベッドを離れることはありませんでした。
最後まで、ホテルからの説明はなく、ザ・マドンナによればベルは40分間も鳴っていたそうです。

翌朝、ホテルの人から、誰かのいたずらだったと聞いた人がいましたが、「ご迷惑をかけてしまい申し訳ありませんでした」との言葉は、まったくありませんでした。

そういえば、このホテルに着いた2日目の朝、停電しました。真っ暗で出発準備ができません。フロントに修理を頼みました。
同じ階のどこかの部屋で、ヒゲ剃り器のコンセントに電熱器をつないだ人がいたため、オーバーロードでスイッチが切れたようでした。
始めは、通報したわたしが疑われましたが、従業員が各室のドアを叩いて開けさせ、犯人を突き止めたようで、ごめんなさいと謝ってくれました。
それはいいのですが、その後、帰る日までヒゲ剃り器の電源は止まったまま、部屋のメインスイッチの安全装置は除外したままで放置されていました。

先日のレンタカーの場合もそうでしたが、日本のまともな企業なら当然整備されているはずの、仕事のマニュアルがフランスにはないようなのです。
マニュアルというのは、あのアメリカ流のファーストフードの店で「いらっしゃいませ。ここでお召し上がりですか、お持ち帰りですか」に始まる、決まり切った手順を決めたものです。
「非常ベルが鳴ったら・・・」「停電の申し出があったら・・・」と、普段から対応手段を決めておき、最後には「電気の止まっているところはないか。安全装置は働くようになっているか」と確認するように書かれ、チェックするようになっているはずなのです。

○ベルサイユ宮殿
最後の日の午前、3人でベルサイユ宮殿にゆきました。地下鉄とRER という郊外線を使って簡単に行けるのです。
ただ、その行き方をちゃんと書いたり、教えたりすることが行われていないので、モタモタしてしまいました。最後には、トンチのT君の語学力と神様のお恵みで、なんとか到着しました。
あれだけパリ大好き男の先達M君でさえこぼすように、パリの地下鉄では駅名表示板に隣の駅名が入れてないのです。
たとえば地下鉄栄駅のホームの駅名表示板のように、栄と大きく書いた脇に、小さく矢印と新栄と書いておけば、今池や東山に行く人は安心できますし、名古屋駅に行きたい人なら間違ったホームにいることが分かるのです。
フランス人は、良い方法だと分かっていても、かたくなに取り入れようとしない人たちのように見えます。

先年、ウイーンのシェーンブルン宮殿を訪れました。そして、その宮殿がハプスブルグ家の威信にかけて、10年先行して造られたベルサイユ宮殿を凌ぐように、壮大な計画が立てられたのだと聞きました。
実際に見てみて、ベルサイユのほうが大規模なことを確認しました。
シェーンブルン宮殿は、国費を、トルコの侵略をはねのけるほうに持ってゆかれ、規模縮小をやむなくされたといいます。やっぱり戦争はいけません。

わたしの身近に、珍寺探訪趣味の男がいます。彼はインターネットホームページにあった珍寺大道場というサイトに刺激を受けたのだそうです。そのホームページを開いてみると、日本のみならず海外を含めて珍寺のレポートが勢揃いしています。
世の中には、まことに不思議な建造物があります。
がらくたを集めたものの、金の切れ目が縁の切れ目で、廃棄された淫祠もあります。
広島県生口島にある耕三寺に代表される、有名物件のイミテーションというジャンルもあります。
各地にある○○観音様を始めとする、巨大な像という系統もあるようです。

かっては、「沈黙は金」という格言がありました。黙っていれば良い考えを持っていると思われ、最悪、愚かさが露見しないということのようです。
ケータイが安易に手に入るようになって、人間はいかに無駄話をしたがるものか、目で見えるようになりました。
手段が制約されているために、本性が見えないということはあるものです。

たいていの人には、お金の制約があります。
下記に、お金の制約がなくなったときに出てくる人間の本性というものを考えてみました。

お金の制限がなくなると、資産を無限大まで増やそうとする投資家がいるように見えます。
また、自分だけの信仰にのめり込み、良かれと信じて資産を注ぎ込む人もあるようです。その一種に巨大建造物を造る方向に走る人もいるように見えます。
その良かれと信じていることが本当に良いかどうかは、客観的に定まるわけではなくて、そう思う人が、世間に多いか少ないかだけの問題ではないでしょうか。

北京の紫禁城、佐賀の名護屋城、そしてここベルサイユ宮殿を見ていても、わたしはそんなことが頭に浮かんできてしまうのです。
また、国のトップになってしまった本人は、結構、国のため、国民のためを最優先に心がけるのですが、むしろ取り巻きたちが、自分の出世のためにトップの潜在的欲望につけこんで、えげつなくトップの金を使わせるようにも思うのです。
そこにゆくと、自分の儲けを注ぎ込んだニューヨーク市のクライスラービル、エンパイアステートビルの高さ競争などは、アッケラカンとして可愛いものじゃありませんか。

中央集権色の濃いフランスで、莫大な税を集め、造園趣味のあったルイ14世が取り巻き連中に乗せられ、散財していた様子が目に浮かびます。
わたしのこんなニヒルな発想に、ザ・マドンナは「でも、そうしてお金を使ったお陰で経済が活発化したし、いまも観光資源としてお金を回し続けているんですよ」とたしなめてくれました。
それは分かるのですが、ベルサイユ宮殿の壁を飾っている、白馬にまたがって全軍に指令を飛ばしているボナパルド・ナポレオンの大絵画を眺めては、今日も、お隣の国の将軍様がこんな絵を描かせているのではないと思ったり、所詮、わたしは素直になれない人間なのです。

冷たい雨と風、広大なベルサイユ宮殿の庭園は、室内から眺めるだけにしました。映画で見た庭園の豪華な噴水の水は、この日、上がってはいませんでした。

・石畳凹凸時雨るベルサイユ

○フランス人
こうして出発してから8日目、成田に帰り着きました。
日本の空港で最初に目に触れた案内板には、日本語、英語、中国語、韓国語が併記されていました。「こうじゃなくちゃ」とうなずいた私は、早速ビデオのボタンを押しました。
フランスでは原則として、案内、表示の類はフランス語だけで押し通しています。どうにもならないときだけ極めて稀に、やっと小さく英語を書き添えています。

フランスの得意とするところ、たとえば観光都市パリの凱旋門、シャンゼリゼ通り、エッフェル塔、ルーブル美術館、ベルサイユ宮殿、クリスチャン・ディオール、それらのものを見て感嘆しない人はないでしょう。
日本の文化人、とくに画家たちは、昔からパリに、べた惚れでした。
また夜の世界でも、リドは世界一のナイトクラブといわれます。
げに、フランスには世界に誇るものが沢山あるのです。

なぜか発言する人はないのですが、フランスでは何ごとも政府が強力に指導推進するお国柄なので、発電量の77パーセントが原子力、14パーセントが水力で まかなわれています。その結果、地球温暖化の原因とされる二酸化炭素の排出量が、主要国の中で、ずば抜けて少ないのです。同じ量の電気を作るのに、アメリ カの9分の1、日本の6分の1しか排出していません。あの原子力廃止、風力発電推進、理想の国として報道され、信じ込まされているドイツの8分の1にしか 過ぎません。このことは他国から賛美され、かつ自国では自慢してもよいことのように思います。

かって強大国だったフランスは、いまでも気位が高い国だと思います。
そのため、接触するのをフランスが誇りとする事柄に限って、トレビアン!素晴らしいと褒め称えていれば、かっての王者フランス人は「一段と愛(ウイ)日本人じゃ」と、数多の引き出物をご下賜くださる構図になるのでしょう。
逆に他人からあれこれ言われるのは、気に障るのでしよう。とくに、それを、あたかも世界共通語として認知されているような態度で英語を使って話しかけられたりすると、もう、クソでも食らえという気分になるのでしょう。
周囲の国から〈フランスだって?あれは素敵な国だよ。あれでフランス人さえいなければ、どんなに素敵な国になるだろうか〉と、ジョークを飛ばされるという話も理解できないことはありません。

こんな意見は、素敵なパリだけを観光した人には理解できないはずです。わたしだって、自分で田舎をドライブするまでは、分からなかったのですから。

思い返せば、わたしがフランスの普通の人を知ったのは、モロッコのツブカル山(4160m)登山のときです。カサブランカのホテルなどで会ったフランスの普通の人たちは、ひと昔前の日本の農協さんのような素朴な人たちに見え、好意を抱きました。
今度の旅でも、TGVの座席で刺繍をしているおばさんを見ては、日本にはなくなってしまった旧き良き時代の家庭婦人の素朴さに打たれ感激しました。
わたしはフランス人を好きなのです。
でも、気位の高い人がそばにいて、いつもご指導賜っているのも、鬱陶しいことのように思うのです。
いわば、愛人としてお互いの良い面だけしか見ないお付き合いは大歓迎ですが、結婚するとなると、ちょっと考えさせてほしいといったところです。
もっとも、断わられるのは、わたしのほうでしょうけれども。

今までに世界各国を訪れるたびに駄弁を弄してきた紀行文のなかで、わたしはホモサピエンスに共通する、数多の性癖を述べてきたと思います。
でも、ネアンデルタール人が2万8千年前に絶滅してしまったのに、すべての動植物の中でホモサピエンスだけが爆発的に増えている原因は、結局のところ《根源的な自己中心的思考と行動》にあるのではないかと思い始めているのです。
人間とは何だろう、それを探る旅をこれからも続けたいと願っているのです。

・時雨るパリ最後の土産求めけり


パリ、モンサンミッシェル

パリ、ラスコー、マルセーユ

朝市

兎ブラブラ鴨ゴロリ

マキシム・ド・パリ

ただしワインなし

モンサンミッシェル

大西洋にもハマナス咲く

ルルド

お灯明、これ一本何ユーロ?

フランスの迷い方

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