パリあれこれ

(2011年11月17日〜25日)

重遠の部に戻る


パリにお出でになった方は沢山いらっしゃるでしょう。また、情報などあっという間に広がる世の中です。いまさらパリの紹介でもないで しょう から、今回はこぼれ話でいくことにします。

パリのスリ

街歩きの最初の日です。

プラス・ド・クリシーの駅で地下鉄を待っていました。

やがて電車が入りドアが開きました。とくに意識もせず普通に乗り込みました。すると私の右側にいた小柄な青年が私の前に倒れ込んできて、 私は つまずきました。

その時とっさに、彼が左の方の空いた席に座ろうと突進した、その進路を妨害してしまったのかと思ったのです。「イクスキューズミー」とい うよ うなことを言った覚えがあります。

ところがその男は、私をグイと押すのです。その時なんとなく、これはスリだと直感しました。そして、ほぼ瞬間的に左の尻ポケットに手がゆ きま した。そこには人の手がありました。スリ行為は失敗に終わったのです。

二人のスリたちは、何食わぬ顔をして車内の入り口に立っています。そして私に、まるで友達ででもあるかのように「乗れよ」という仕草をし まし た。

こんな連中と一緒にいるのはいやですから、私は首を横に振りました。すると彼らはホームに飛び降りました。

それじゃあと、今度は私が車内に飛び込んだ瞬間、ドアは閉まったのです。

あらためてポケットに手をやると、ボタンが外されていました。

私がそんな機敏なわけはありませんから、スリがドジだったのでしょう。何人かの乗客は、見ていたはずですが、まったく反応はありませんで し た。

言葉の通じない外国での出来事でしたから、数秒間の無言劇に終始しました。スリのことをフランス語でなんというのかも知りません。周りの 人た ちに訴えることだって、できそうにありません。手を掴んで警察に引き渡すなどという雰囲気はまったくありませんでした。もっとも、祖国日本で 起こったとしても、スリの未遂行為には、だれでもあまり時間を割くとも思われません。

あの二人組は、今日も地下鉄駅でスリに励んでいることでしょう。

そして私といえば、キャッシュカードの停止手続きなどに患わされることもなく普通に暮らしています。

こういうのを無事というのでしょう。


・掏摸に遭う空気も重しパリの冬

美術館

ルーブル美術館は丸一日、オルセー、オランジュリー美術館は各半日をかけ、わりにゆっくり有名美術館を鑑賞しました。審美眼に問題がある 私と しては、皆様ご想像の通り、目ではなくて足で見て歩いたといわれても仕方ない状態ではあります。

なにせ洋画をいっぱい見たのですから、オッパイを山ほどと、死人を山ほど見てきました。

古いものといっても、たかだかホモサピエンス20万年の歴史の、最後の五千年ばかりのものです。

古い時代には風景画など、まずないといってもよいでしょう。古典時代には、絵を描くということは大変な仕事だったのが、その原因なので しょ う。そんな雰囲気に浸りながら絵を見ていると、人間という生物は自分を絵に描いてもらいたいもの、そして画家は、風景よりも、人間、あるいは 神様を描きたいものだったらしいと強く感じました。

裕福な家族が、子供まで盛装させ、一族を描かせている絵には微笑ましいものを感じました。私たちが子供のころは、時の流れの節目ごとに、 一家 盛装して、街の写真屋さんまで行って撮して貰っていたものでした。そんなような市井の人の姿を残すという行為が、長くもない私の一生のうち に、デジカメを使って、ありとあらゆる姿態を、まるで負担なしに撮りまくる時代がきたことの不思議さに打たれました。

解説用イヤフォンを奮発しました。作品につけられた番号を押すと、甘い声の女性が日本語で、深い学殖のある解説してくれます。「その後、 当館 がイリテしました」と語りかけているのは「当館が入手しました」、「中央の人物のメザシをご覧下さい」は、「中央の人物の眼差し」であること が直ぐにわかります。ワープロの転換ミスと同様、まことに無害なご愛敬です。全体は完璧な日本語でしたから、ひょっとしてジョークでやっ てる んじゃないかと思ったぐらいです。日本国内でしたら、うるさいクレーマーが直ぐに騒ぎ立て、こんな楽しみは2日と持たないでしょう。海外旅行 の醍醐味を満喫させて貰ったことでした。


・冬空へ胸突き出して女神像

イエス様の傷
イエス様が十字架につけられている絵は、もちろん沢山ありました。見ているうちに胸の傷が右側にあるのに気がつきました。心臓は普通は左 側に あるのに、昔の人は解剖学など気にしなかったのかなどと、勝手に想像しました。でも、いったん気にすると、そこばかり気になるものです。古い 時代のものから後年度のものまで、決まって右側でした。

帰国してからネットで調べてみました。そしてそのことについては、既に論議がなされていることを知りました。岡田温司という方の本まであ るよ うです。

ついでに、胸の突き傷は殺すためではなく、本当に死んだかどうかを確かめるために突いたものであるという説も有力であることを知りまし た。 ネット情報の中で、ある人が自分の友人について、こんなコメントをしていました。「彼が言うにはイエス様の胸の傷はいつも右側だ。そして、お 御足はほとんどの場合右が前になっている。でも、たまには左が前のもある。そんなところばかり見て歩いているなんて、なんてオカシナ奴だ ろ う」。

胸の傷だけにしか気がつかなかった私は、半分ぐらいオカシナ男で済んだのだと、ほっとしました。


蛇の足

「最後の晩餐」は、よく描かれているテーマです。

これについても、妙なことに気がつきました。

現役時代のことです。社員が何人も集まって時間を使う会議は、給料を考えてみれば大変なコストがかかっているのです。ですから会議中の私 語な どもってのほか、効率的にテキパキと進めるように努めていました。

退職後の地域の会議、まあ寄り合いといったほうが正確でしょう、ここでは全く別のムードです。例えば、説明者が犬の検診について口を切っ たと しましょう。すぐに参加者の中で、お隣と「うちのポチ昨日下痢してね」などとお喋りが始まります。こういう風に喋っている人は、他人の話など 聞いていないものです。だから少し経つと、場の話がちぐはぐになっているのに気がつき、また始めから説明のやり直しになります。

そうそう、最後の晩餐の絵の話をしているのでした。あのイエス様が「この中に私を裏切るものがいる」と重い発言をなさった場面で、やっぱ りお 隣と私語している人も描かれているのです。どのあたりに何組いるのか、今後まじめに記録をとろうかと思っているところです。


蛇の二本目の足

若い母親が嬰児を抱き、神父様に幼児洗礼を受けさせている絵がありました。裕福そうな、多分貴族なのでしょう。着飾った大勢が取り囲んで いま す。その足元に、皿にのせられた鳩に惹かれた少年が描かれていました。大人たちの洗礼儀式など、まるで眼中にありません。

また別の絵では、イケメンが美女の手を取り、それを群衆が囃しています。ところがその足元には、周りの雰囲気とはまったくちぐはぐに、犬 と小 猿が睨みあっている様子が描かれていました。この絵には、犬たち同様、われ関せずの素振りでキューッピッドも書き添えられていました。

こんなように、楽しみながら描いている画家の顔つきを想像させる作品も幾つかありました。


モナリザ見えます?


こんなにしてついつい蛇足話を続けていると、一体、お前はパリまで行って、何を見てきたんだといわれそうですね。もちろん、モナリザもミ ロの ヴィーナスもちゃんと見てますよ。だから最初に、今回はこぼれ話だと申し上げたのです。


年をとるということ

7年前、中学校時代の友人たちと4人で、パリにきたことがありました。

そのとき、私以外の3人は美術館巡りにゆきました。私といえば、パリの名所はもっと年をとってから見に来る、今回は外回りだと宣言し、ル ルド の泉、ツールーズ、ネアンデルタール洞窟、マルセイユ、リヨンなどを目指したのでした。

この仲間は名古屋で、毎月一回、美術展を鑑賞し、昼食を共にすることにしています。あれから7年経つあいだに、随分沢山の絵を見ました。 そし て、絵心などまるでなかった私にも、今回は好きな絵ができてきていたのです。

オルセー美術館では、ほかのものには目もくれず、一番奥のエスカレーターに直行し、4階に上がり、ルノアール、シスレー、ピッサロ、マ ネ、モ ネなどの絵に対面しました。

7年前だったら、ここにきてもこんなに感激しなかったに違いないと思いました。毎月展覧会を探し、絵の鑑賞について経験を積ませてくれた 友人 たちに心からお礼を言いたいと感謝しているのです。

また、ローマ時代の壷を見ていて、そのあるものが東洋の陶恵器のデザインにそっくりだと感じました。内湾した脚に穴が開いているのです。 この 件も、帰国してからネットで調べてみました。やはり、もう1世紀には東西交流の記録があるようです。中国もローマも、その頃にはもう立派な文 化を持っていたのです。魏国が東の大海の中に浮かぶ小さな島のことを書き残してくれたのは幸せでした。なんとなく、卑弥呼の時代を世界の 視点 から眺めたような気分になりました。陶恵器は中国から朝鮮経由で日本にもたらされた陶器です。家内の父親の影響で齧った考古学のお陰で、私に も馴染みがあったのです。

こんなようにして、長い年月、世の中で暮らしてきたお陰で、同じものを見ても、より多く楽しめるということは有り難いことじゃないでしょ う か。

いろいろ教えて下さった人たちに感謝、感謝であります。年をとることも悪いものじゃありません。


・ガラス越しルーブル宮の冬の庭


博物館

古生物館と進化大陳列館

一日つぶして植物園のある公園で、並置されている博物館を見学しました。古生物学館と進化大陳列館です。

その二つは、あまりもに対照的なものでした。

古生物館に足を踏み入れると、大広間の床一杯に膨大な数の哺乳動物の骸骨の列が出迎えています。

一階には現生動物の骨、臓器などが、そして2階には化石が展示されています。いずれも膨大な展示ですが、それでも所蔵しているもののほん の一 部なのだそうです。たとえば脳ですが、大小の動物の脳が、数えるのを忘れましたが、優に百を大きく越える標本が、ガラス戸の棚に並んでいまし た。

最近は何でも映像技術を駆使して展示しますが、ここの展示は徹底的に実物に拘っています。

よく、最古の恐竜の化石が発見されたなどと報道されます。そして素人にはまるで分からない、化石の写真が添えてあります。あんな断片的な 骨片 でも、こんな博物館で骨を研究している学者さんなら、すぐに分かるんだろうと納得しました。この博物館では、古色蒼然たる木の床も、その長い 歴史を感じさせていました。

いっぽう進化大陳列館のほうは、1994年にリニューワルされたもので、沢山の動物の剥製が展示されています。ボタンを押すと、今流行の 生物 の多様性だとか、動物と人間の関わり、環境への適応などの解説が液晶画面に合わせて流れる、すっかり今様の構成になっていました。

子供たちが巨大な動物の剥製を見ては歓声をあげていました。先に研究的雰囲気の古生物館を見てきた私としては、ここでは子供だましのよう だと 感じてしまいました。

別室には蜘蛛の特別展があり、ここだけは混雑していました。でも、私といえば、大の男たちが蜘蛛の足のもじゃもじゃした毛を顕微鏡で見て 喜ん でいる様子を、感心して見ていたのです。

私が訪ねたのは水曜日でしたが、両方とも空いていました。

古生物館は小学生の一団が帰ったあとは、高校生らしいのが4,5人いただけでした。大陳列館でも、鯨や象の剥製の展示場と特別展を除けば 人影 はまばらでした。

私は古生物館を見るのに3時間かけました。進化大陳列館は1時間弱でした。それだけ剥製より骨が好きだということのようです。骨の好きさ 加減 は常軌を外れているかもしれません。

鯨は陸上のほ乳類が海に進出し、その環境に適応した動物です。

剥製を見ているかぎり、魚が大きくなったように見えますね。

でも、骨を観察してよく考えれば、ヒレと見えるのは実は手であり指であると理解できます。このようにして人間は次から次へと思考を進め、 目 下、DNAにまで行き着いているのです。

古生物館の最後のパートに、ヒト族の頭蓋骨を比較した棚がありました。4段の棚の最上段にチンパンジーの雄の頭蓋骨を幼児から成人にいた るま で年齢順に4個、3段目にはオランウータン、あとホモサピエンス、ゴリラと並べてありました。

本では写真として、よくお目にかかるのシーンなのですが、やはり実物には重さと迫力があります。ここでちゃんとした説明を聞けば興味を覚 える 人は多かろうと思いました。ただ、淋しく飾られているのが残念でした。

実は進化大陳列館のリニューワルに際して、もっと研究的な展示方法にするべきではないかという意見も出ていたようです。しかし実現した結 果 は、超大衆的といった感じであります。

世の中にはいろいろの人がいるのですから、展示方法にもいろいろの方法があって当然だと思います。展示方法はともかく、いずれにしてもこ この 博物館の収蔵物の量は世界第三位だそうであります。

博物館といい美術館といい人類の共通財産の収集、管理を成し遂げた功績は大したものです。権力と富の集中をもって、それを成し遂げたフラ ンス 国家の栄光には頭を垂れるよりないと思い知らされました。


モンマルトル墓地

サクレクール寺院を訪ね、モンマルトルの丘からパリの街を見下ろしました。この丘はセーヌ河から比高約100mですから、市街をすっかり 見渡 せるのです。次いでモンマルトル墓地で、比較的入り口に近いエミール・ゾラやベルリオーズのお墓を探してみました。でも、同じような古いお墓 がいっぱいあるばかりで、あっさり探すのを諦めました。そして、つい「見立て」という落語を思い出していたのです。

この落語では男が遊女に惚れ込みます。しつこい男に会いたくない遊女は、自分が死んだことにします。すると男は遊女の墓に参りたいと、置 屋に 要求します。置屋の若衆は適当に墓地へ連れて行き、これだと教えます。手を合わせた男は字を読んでみて「こりゃ元禄十年と書いてある、おかし い」とクレームをつけます。また適当なのを教えると「こりゃ太郎右衛門と書いてあるじやないか」。女らしいのを押しつけると「なになに、 童女 お初と彫ってあるぞ」。ついに困った若い衆は「こんなに沢山あるんです。どうぞお好きなのをお見立て下さい」と降参する話であります。

私も適当に見立てて遙拝することにしました。

墓地といえばモンパルナス墓地にも行きました。わざわざ行ったわけではなく、パリ天文台へ行ったあとトイレを探していたら、丁度出くわ し、用 を足したのです。東山植物園にゆき、平和公園墓地を覗いたようなものです。モーパッサン、サルトル、ボーボワールなどが葬られています。ここ も遥拝ですませました。

世界各地には、いろいろの形のお墓があります。簡素なのはイスラム教のお墓で、ただ石を目印のように置いただけのものです。その意味で ヨー ロッパのお墓は一番住居に近い形、つまり小屋のようなものが多いと思います。


ロマンチック博物館

さて、モンマルトル墓地から、最寄りの地下鉄の駅のほうへ歩いてゆきました。すると大きな交差点で、ムーランルージュと読める案内の矢印 が目 にとまりました。いま考えると、英語だったのかもしれません。行ってみると観光客たちが記念撮影などしています。観光資源なんでしょうね。

近くのシヨー劇場では、昼間なのにお兄さんが客引きをしていました。

戻ろうとすると「ロマンチック博物館」という看板がありました。これも今思い出すと、いろんな国の文字で書いてあったんでしょう。フラン ス語 だったら、私にはわからなかったはずですから。間口一間半ほどのショーウインドがある、およそ博物館らしくない店です。

そういえば、ガイドブックにエロチズム博物館というのがあって、お土産など買ってはいかが、と書いてあったことを思い出しました。

大人9ユーロ、シニア6ユーロとあります。旅の恥はかき捨てとばかりに入ってみました。

1階と2階はわりにまじめに、ヨーロッパ人から見た未開国、つまりアフリカとか南洋諸島とかの性器信仰のシンボルなどが陳列されていまし た。 ここでは日本勢も浮世絵や酒杯だとかで、かなり善戦していました。ところが3階から上は、映画のポスターなど、私のような映画に疎い者には何 の意味かもよくわからない展示ばかりでした。でも一応は金を払った以上、のそのそと階段を登っては見て歩きました。建物はたしか5階まで あっ たと思いますが、最後の漫画の展示に至っては、さすがに見る気がしませんでした。

2階から3階へ登る階段で、壁の展示を見ているとき、女性が一人登ってきて、私の後ろにじっと立っているのに気がつきました。女性が一人 なん て、ちょっと場違いな感じでした。

実は、下りのときもこのあたりで女性が一人、今度は上から降りてきてやはり私の後ろに立って、このたびはかなり長い時間、展示を見ていま し た。

登りのときは、その女性をとくに観察しなかったので確信はないのですが、どうも同一人だったようです。グレイと黒の服装で固め,帽子を斜 めに かぶり、まことに清楚な感じでした。(実はしっかり観察した訳ではなく,後からファッションブックを見ながら創った記述なんです)。ともか く、マリリンモンロー的ではなくて、グレースケリー的といったらよいかもしれません。どうです、私だって、これぐらいなら女優さんの名前 を 知っているのです。

あとで考えると、受付からその筋へ「カモ、一羽飛来」というような情報が飛んでいたかもしれませんね。お気の毒なことでした。


・ギロチンの模型展示やパリの冷え


下水道博物館

なんでパリまで行ってそんな野暮なところへ?、と咎められそうですから、ちょっと講釈をしたいのです。ご容赦下さい。

7年前、パリから帰ってきたあとで「セーヌに浮かぶパリ」という本を読みました。著者は尾田栄章という長年、水行政に携われた方で、パリ と水 との関わりをローマ時代から興味深く述べておられます。

私はその本の中で、平均20年ごとにパリを襲う大洪水と、下水道の歴史とに、とくに興味を惹かれました。

前の旅行記でも引用したのですが、中世のパリでは、糞尿は窓から投げ捨てるしかありませんでした。毎朝窓から糞尿を投げ捨てるときには 「水に 気をつけろ」と叫 ばなければならないという定めがあったのです。

夜遅く散歩していた聖王ルイ9世の頭上に、窓から投げ捨てられた糞便が降りかかってきたのでした。深夜まで勉強していた学生が、こんな夜 更け に道を 歩いている人はいないだろうと「水に気をつけろ」の叫び声なしに投げ捨てたのでした。しかしお咎めはありませんでした。深夜まで勉強していた学生の真面目 さに 免じて、国王はこの2人を特別に許されたのでした。

1852年、パリ改造計画の中で、住宅の新設に際しては雨水と家庭排水を下水管路へ排出することが義務づけられました。これはあらゆる道 の地 下に下水管路を設けるということです。最低でも人が入れる高さ、つまり1.8mとされました。どんな細い行き止まりの道にも下水管路が埋設さ れ、上の道路や家屋と同じ、通りの名と番地が付けられています。下水管路の総延長は2100kmといわれ、パリの下にはもうひとつのパリ があ るというのも誇張ではないのです。


・昼下がり落葉舞いるシャンゼリゼ


永年の糞尿からの脱出を果たした下水管路は、パリジャンにとって、世界に誇る文明開化の象徴だったのです。当時、下水道視察の催しに、オ ペラ 座にでもゆくかのように着飾った紳士、淑女が押しかけている絵が残されています。

どうですか、私が行ったっていいじゃないでしょうか。

ナポレオンが眠るアンバリッドの近く、大きな下水管の中に通路が設けられ、いろいろと展示してあります。外国人などまるで来ないでしょう か ら、ツアーガイドも展示解説も一切フランス語です。展示物と絵以外は全然分かりませんでした。

下水管路がつまったときは、掃除のためにパイプの径よりほんの少しだけ小さい木製のボールを入れるのです。ボールは浮いて頭をパイプの上 面で 擦りながら、そして底のあたりの狭い隙間からは水が勢いよく噴き出し、ごみを浚ってゆくようになっています。大きなボールが展示してありまし た。人の背丈よりも高く2mはあるでしょう。

見学通路は下水が流れています。もちろん処理前のものです。まったく匂わないといえば言い過ぎですが、中国の楊貴妃のお墓のトイレの臭い と比 べれば千万分の一といった程度でした。あとで勉強したのですが、下水システムには雨水と汚水を一緒に流す合流式と、別々の管で流す分流式とが あるそうです。高低差への対処や最終処理を考えると分流式が優れているので、新しいものは総て分流式が採用されているそうです。

パリ中央部の古く造られた部分は、量は多いが雨水で薄められた合流式の水が流れているから、ほとんど臭わないのでしょう。


ナポレオン

ミレーなどの画家集団で名高いバルビゾン村と、フォンテーヌブロー宮殿を訪ねる半日バスツアーに参加しました。この半日だけが、今回の旅 行の 中での日本語に囲まれた時間でした。やっぱりよくわかり、効率的に知識が増えました。

フォンテーヌブロー宮殿はベルサイユ宮殿ほど豪華ではありませんが、1000年以上前に造られ、遙かに遠い時代から各王権に愛されてきた 宮殿 であります。

ある部屋で、この時計はナポレオン一世がつけたものです、と説明されました。そのあとも、これもこれもと、あちこちの部屋でナポレオン一 世が つけさせたという時計が出てきました。彼は、次から次へと仕事をこなす、テンションの高い男だったのでしょう。

彼の執務室や寝室もあります。彼は一日に3時間しか眠らなかったとも、また、働く時間の合間、こま切れの時間に眠ったともいわれます。

執務する机の後ろに、まどろみ用のベッドがありました。野戦でテントの中で寝るような実に簡素なものでした。寝台の上の天蓋も緑色単色 で、量 販店で買ってきたようなシンプルなものでした。

対照的なものとしてデラックスな寝室もありました。例のマリーアントワネットのものです。天蓋の布としてこんなのが欲しいが、これは古い から 新しいのを織るようにと希望したのだそうです。材料を探すのも大変でした。織り方も忘れられていたので研究せねばなりませんでした。

こうして何年も時間を食っているうちに、アントワネットの首がちょん切られてしまったそうです。

「余の辞書には不可能という言葉はない」と自信過剰で、ヨーロッパ中を武力でかき回し、ついには王様連中を束ねる皇帝の地位についたり と、そ んなボナパルト・ナポレオンを好きではありませんでした。

私の父は、複雑に入り組んだ屋根などは雨漏りのもとだ、家は真四角に限ると公言するような性格でした。フォンテーヌブロー宮殿で見たナポ レオ ンは、私の父のような合理的な性格という印象で、彼をちょっと見直しました。


・里心カラスら柿をついばめば


パリの地下鉄で

搭乗機A330の車輪がパリ・ドゴール空港の滑走路にタッチしたのは午後5時半でした。パリへの郊外高速鉄道EREの料金は900円ばか りで したから、名古屋とセントレアほどの距離なのでしょう。もう夕方のラッシュです。途中の駅で、仕事を終えた人たちがどやどや乗り込んできまし た。かなりの混雑でした。そのフランス人たちが入り口にしがみつき、決して奥に詰めようとしないのに気がつきました。一方、降りる段にな る と、一旦外に出て、降りる人のために通路を開けてやる人など、まるで見当たりません。これではうっかり奥へ詰めたら、降りられなくなる道理で す。「詰めるな,開けるな」が、ここでのルールなのだなと納得しました。

「お互い様です。一歩ずつ奥へお詰めください」「降りる人のために広く開けてください」などいう、アナウンスなどまるでありません。

日本では最近の若い学生さんたちがやっているような「詰めるな、開けるな」ルールを成年者が実行しているのと、上からの視点からする高圧 的な ご注意などないのは、さすが西欧先進国だと感心しました。

さて、パリでは Gare de Nord  (北駅)が昔から交通の要所です。今回も、宿まではこの駅を経由するのでした。ところが空港駅の路線図には、それらしき場所の駅名が Nord Paris  (北パリ)と書かれているではありませんか。

最近呼び方が変わったのに一部の看板では未訂正なのか、それとも高速鉄道と地下鉄とで呼び方が違うのか、ともかく結果的には同じ場所を二 つの 名前で呼んでいるようです。

もうひとつ。パリの地下鉄は随分奇麗になっていました。車両出入り口内側の上に経過路線図があり、駅名の豆ランプが経過するごとに点灯し てゆ く新式のものにもお目にかかりました。日本でしたら、左用と右用の2種類の表示板を作り、常に東京側に東京が、大阪側に大阪がくるように取り 付けるに違いありません。

ところがパリの地下鉄の表示板は1種類ですから,一方のドアの上の図で東京側が東京になっていれば,背中合わせのドアでは東京側に大阪が 来て しまいます。電車が目的地を目指して右に進んでいるのに、経路図のランプは反対に、段々左の方へと進んでゆくのを奇妙に感じました。

さて、私は今まで世界各地を訪ね、いろいろの国の普通の人たちの日常生活を見てきたと思っています。また、マスコミが報ずる外国のニュー スに ついても、その国に行ったことがない人よりは、あれこれと身近に感じているといってよろしいでしょう。

その集積である82歳の私の認識では、地球上の人間はホモサピエンスという一種類の生き物で、本質的にはほとんど差がないのです。しか し、そ の性格の上に乗る後天的な部分で、多少は差があると思います。

ここまでの文章では、地下鉄を例に挙げて,フランス人と日本人とのちょっとした違いを取り上げてみました。フランス社会では「外からの情 報は ともかく、自分の頭も使え」と主張しているように思われます。

官僚不信、政治主導というお題目に煽られ、よく考えもしないで政権亡者たちに任せてしまい苦汁を飲まされている現在、甘言を鵜呑みにせず 「た まには自分の頭も使ってみる」ことを考えるべきではないでしょうか。

さて、とうとう最後の話題になります。

これは、ある夜の出来事です。電車が発車するとき、普段は無意識に体を少し進行方向へ傾けているものです。パリの地下鉄は右側通行なの に、日 本の左側通行に馴れた体が勝手に逆に傾いたことがありました。当然、大きくよろけました。すると美しいパリジェンヌが席を譲ってくれました。 パリでは、いわゆる優先席の表示こそ見かけませんでしたが、彼女の人間としての本質的なマナーに心から感謝したのでした。


・木枯らしや席譲り呉るパリ娘


地下鉄のスリで始まったこぼれ話は、とうとう地下鉄マナーからの連想にまでゆきつきました。いかがだったでしょうか。



重遠の部に戻る