ポーランド付アウシュビッツ
(2017/06/13~22)

重遠の入り口に戻る


私は一箇所をじっくり見ることより、全体を大まかに見ることのほうが好きなようです。つい、一日に何百キロも走り回るツアーを選んでしまうのです。 今度のポーランド10日間旅行も、朝6時半出発だとか、ホテル帰着22時とか望みどおりの旅行でした。

昨年は生まれて初めてドイツにゆきました。 到達した一番北はベルリンで、もっと北に位置するハンブルグなど見落としています。その先のまだ行ったことがない バルト3国、そして北欧などの国々がどんな様子なのかについて興味津々だったのです。特にベルリン辺りのあの真っ平らな地形につながるポーランドを見てみたいと願っていました。

map

ポーランドについては以前から、ショパンやマダム・キューリーが同国人であることは知っていました。でも今度ガイドブックなど眺めているうちに、コペルニクスもそうであることを教えられました。

最初は、平らな国ポーランドを見てみたいという軽い気持ちで訪れた旅でした。でも、帰ってきて書いているうちに意外に重い気持ちになってきたのです。


平らな国ポーランド

もともとポーランドという言葉は、平らな土地を意味するのだそうです。
まさに平らでした。
私の登山用腕時計には高度計がついています。旅の合間合間にその数値を記録していました。
旅の始まりのワルシャワで、高度計は135mと表示していました。その指示が150mを越えたのは、 旅行が始まってから散々走り回った 5日目、ヴロツワフからクラクフに向かう午前のことでした。そこは一寸したなだらかな峠で、このときは340mまで上がりました。
私の高度計は気圧から換算する方式ですし、また連続記録ではありませんから、精度の問題はあります。しかし土地の平らさの表現としては、おおよその目安にはなると思います。

ワルシャワから北に向かい、トルン市の辺りでは断層らしい地形に気が付きました。断層面が川になっていました。ポーランドには地震がないというのが常識ですが、遠い過去には断層もあり地震もあったことでしょう。 専門の方のご意見を聞きたいところです。
その高い方の面では標高差10m程度の地面のうねりが出来ていました。多少なりとも侵食が行われているのだと思います。

今回の私のように、特別に平らな土地をテーマにしてポーランド北部を眺めていると、「真っ平らな土地」と「普通の平らな土地」とがあるような気がしてきました。
「真っ平らな土地」では単一の作物が栽培され、人家はぽつんぽつんしかありません。
ところが多少でもうねりのある「普通の平らな土地」では、 森があり、 作物の種類にバリエーションがあり、風力発電設備が散見され、人家が村落を作っています。
真っ平らな土地よりも、水が降って来て、流れて行ってしまう地形の方が人間には使いやすいような気がしています。
ワルシャワ辺りを境にして、それより北が「真っ平ら」、そして南の方はうねりのある平らの土地であるように見受けました。
ヨーロッパのもっと南西の地域、例えはドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、スペインなどでは、うねりのある平原だったように記憶しています。

海辺の沖積平野でない「真っ平らな土地」としては、中国の成都の西、ルーマニアのドナウ川下流域がそうだったようだと思い返しているのです。
そのような広大な「真っ平らな土地」は日本にはないと思います。なにせ日本では、山が目に入らない土地はないのですから。

今回の旅で、崖があって岩の露頭が見えたのは、全行程を通じてクラクフ市での一箇所だけでした。
ポーランドは、今回訪ねていない南部の山地を除いては、大きな起伏のない土地であることを確認し納得し満足しています。それはそれで確かに満足なのです。でも、もっと北の国はどうだろう行ってみたいと、また悪い癖が頭をもたげるのです。


忙しい旅

JR名古屋駅から関西空港まではエミレーツ航空のシャトルバスで3時間、その後はドバイまで約10時間、さらにワルシャワまで6時間のフライトと長丁場でした、。

ドバイ発は8時でしたからドバイ、ワルシャワ間は日中のフライトでした。
機内では、日本のアニメ映画「この世界の片隅に」を選んで見ていました。それは半年ほど前に映画館で見て、強い印象を受けた作品です。日本海軍の軍港があった呉市にお嫁に行った若い女性の体験を描いたものです。
1945年3月、中学3年生だった私は抗うすべもなく米軍の焼夷弾攻撃を受けていたのでした。私自身、焼夷弾を3発消しました。幸い我が家は焼け残りましたが、隣組10軒のうち6軒は焼けてしまったのでした。
あの頃の恐怖感、無力感は、実際に経験した人にしかわからないものがあります。世界のあちこちには、そんな目にあった名もない人たちがいたんだなあ、そしてこの映画を見たら胸を締め付けられるような、それでいて何か懐かしいような共感を抱くに違いないと思っています。

なにげなく機内通路に目をやると、左前方のおじさんの画面には、飛行機から見下ろした地上の景色の画面が流れているようでした。
そしてもうひとつ、客室前方にある共通の画面はルーチンのチャンネルで、コマーシャルなど雑多な情報にまじって、時々リアルタイムの飛行経路が出ていました。
ドバイを飛び立った我がボーイングB777機はペルシャ湾を北西に進み、クエートあたりで陸地に入りました。荒涼たる砂漠の映像が写ります。
イラク、シリアの北部では航路を北へ大きく膨らませ、戦乱を避けている様子でした。
黒海に近づくと地上の映像には薄っすらと緑がかり、小さな雲の塊が画面を過ぎるようになります。
黒海を横切り、ドナウ川の河口付近で再上陸したようでした。先年、そこでペリカンが飛んでいるのを見たことなどを懐かしく思い出しました。

そしてだんだん見えてくる地表の人工的な線条は、農耕が行われている証でありましょう。
おおよその飛行時間、私の目は飛行経路と地上を示す二つの画面を行き来していました。でもイヤフォンから忍び込んでくる映画「この世界の片隅に」の声も、その物語の筋を知っているだけに、つい画面に目を行きと、いや、まったく珍しく忙しいフライトでした。


観光事業あれこれ

ワルシャワ、トルン、グダンスク、マルボルク、ボズナン、ヴロツワフ、クラクフなどの都市を観光しました。
どの都市でも共通して、旧市街、旧市庁舎、大聖堂などに連れてゆかれました。
3日目の昼食のときです。一行の中でもわりに若い夫婦連れの男性が「今回のツアーの街はどこもお洒落な街で素敵ですね」と言い始めました。「プラハも素敵でしたが、どうしてこんな素敵な街ばかりなんでしょう」と感激しているのです。
世の中には色々な人がいて、それぞれ好みがあるのは当然のことです。好きなことがあって、それに出会って感激しているのを見るのは微笑ましいことです。
でも彼が「来ている観光客たちも、なんか皆お洒落じゃありませんか」と言い出したときには正直ぎくっときたのです。
何故かと言うと、私は自分がお洒落と対極の人間だと、常々引け目を感じているからなのです。
私は山男の端くれです。昔の山小屋の食事といえば、来る日も来る日も肉抜きのカレーライスばかりでした。当時はヘリで食料を運び上げることなど思いもよらず、日持ちするのはジャガイモとタマネギだけだったからです。そして他人から「美的センスがない」と言われては、「センスやウチワなんか、俺たち関係ないんだ」など、うそぶいていたものでした。 山ガール出現以前の山男にはそういう手合が結構いたものです。

自分の子供や孫を見ていると、生まれつきそういうセンスを持った子と、持っていない子とがあるのが分かります。私は視力検査では正常ですし色盲でもありません。でも、どんな衣装を身につけるべきかという点では全盲に近いのです。
帽子から靴下に至るまで、衣装を自分で購入した記憶は生まれて以来全くないのです。古くは母に、そして今は妻に一切お世話になっています。
今回の旅行だって、化繊の肌着を毎晩、洗濯、洗濯で回し、ちっちゃなリュックで済ませているのです。
そういう次第ですから、自分の姿がお洒落のセンスのある人の目で評価されているかと思うと身がすくむ思いだったのでした。


お洒落のセンスがないといえば、この写真のような建物がありました。ドイツに占領されていた時代にドイツの銀行が立てたものだそうです。

ドイツの銀行

世界にはやっぱりセンスのない男もいて、そんなのに力をもたせるとアンチ観光になっちゃうんですね。心すべきことと肝に銘じました。

さて、ヨーロッパの諸国は、観光客、とくに外国からの観光客を呼び込むため大変な努力をしています。今や日本も外国からの観光客が来てくれる時代になり、観光資源は重要な課題になっています。ヨーロッパを旅していると、いつも観光業の先輩を見ている感があります。
それで、このセンスのない私が今度のツアーで感じた的外れの話題を3点ばかり列記してみます。
先ず、観光国になるためにはお金をケチってはいけないこと、次に、「この教会、実は近年再建したものですみません」などと要らない気を使っちゃいけないということ、そして所詮は大衆的センスがなくちゃいけないということです。

ポーランドの北の端、バルト海に面してグダニスクという街があります。
海運の要として昔から繁栄した街でした。
土地のガイドさんがパッとしないビルを指差し、あれは何のビルかわかりますかと質問しました。わかる訳はありませんね。「〇〇業の共同組合のビルでした。建て替えるのに、普通に壊し普通に建てるなら、もうとっくに建て替えられていたはずです。でもこの地区では従前の材料を使い、従前の姿に建て替えることが義務付けられているのです。それでは莫大な出費になるので放ってあるのです」とのことでした。そこの写真を撮ってこなかったのを残念に思っています。
                                 観光地になっている各地の旧市街でも、本当に戦前のままのものは少なく、ほとんどが戦災で破壊され、戦後、以前の姿に復元されたものでした。多額の費用がかかっても以前の姿にすることが常識になっていなければ、なかなか復元にについての民意は取り付けられないだろうと想像します。それにつけても、観光以外にも工業という大収入源があるグダニスクならでの迷いがあると感じたのは無責任な旅人のせいでしょうか。

破壊された時
現在の姿

1945年戦火を受けたが(上)今は以前の姿に(右)

ワルシャワの洗礼者ヨハネ大聖堂の前の歩道にこんなプレートが埋め込まれています。遠い昔に建てられた貴重な建物を誰かが破壊し、オレたちが大変な苦労をして再建したと言わんばかりです。

plate

当初は1370年、われわれが1956年に再建

差し当たって名古屋城にも、戦災で半分焦げたお城の柱も合わせ展示して、外人観光客に見てもらいたいものです。人類の貴重な遺産の破壊は、どこの国が悪かったというよりも、戦争そのものが悪なのは自明のことなのですから。


旧都クラクフ市の近郊、約100km離れたザリピエ村の半日観光がありました。
人口750人ほどの、なんということはない寒村です。ただ家々の壁に花柄が描かれています。ま、それもせいぜい100年ぐらい前からのことのようですが。
木の幹にまで花柄が書かれているのを見て村人たちの健気さに涙が出そうでした。
 私のセンスは壁の絵には反応しませんでしたから、もっぱら美しい実物の花を主体にして写真を撮っていました。

flowerflower
花柄のザピリエ村
予想の通りこの日の午後の観光客は、我々のほかには1組の外人夫婦だけと見受けました。
でも、帰国後、私の孫の女の子はその家々の写真を見て「まあ可愛いと」感激していました。まさに色々の人が色々のセンスを持っているのです。
なおさら驚いたことには、この花柄が描かれた20軒ほどの集落が、先日日本のテレビでポーランドの可愛い観光地として紹介されていました。
この可愛い村も、前衛的な絵画や音楽のように、特別な感性を持った人たちには、たまらない魅力を感じさせるのでしょう。 センスというのは大事なもので、また誰にでもあるというわけではありません。

ヴロツワフでは、あちこちの街角に小人の妖精像が置かれています。撫でられて光っている部分をみると銅合金製のようです。この習慣は2001年から始まり、わりと簡単に置けるのでどんどん増え続け、現在400体ほどあるとのことです。
なんということのないものですが、ポケモンgo的興味から、観光客に実際に喜ばれています。お金もそうは要らないし、馴れて飽きられるまで観光資源になるのでしょう。人間性の研究にも興味あるテーマです。
キャッシュカード
キャッシュカード妖精
pokemon

ポケモンGO

地球上には、スイスを始め人が住む前から備わった美しい風土に恵まれた土地もあります。またローマ、京都など歴史の重みが感動を誘う街もあります。
人類全体がリッチになり、観光にお金と時間を使えるようになったこの時代は、お金と知恵とを使って観光地を作る時代になっているのでしょう。

ショパン、キューリー、コペルニクス

ポーランドの有名人といえばこの3人でしょう。
天動説で有名なコペルニクスは1473年、トルン市で生まれました。コペルニクスの生家に行ってみました。彼の肖像画や伝記などが置いてありました。なにせ大昔の人ですから本人が使ったハードの資料がないのは仕方ありません。ま、入場料もたったの300円ばかりでしたから。
マダム・キューリーの記念館も入ってみました。
近くの広場でいったん解散、見たい人はどうぞということでした。行ったのは一行38名のうち私と一組のご夫婦の3人だけでした。
私としては、彼女の晩年の厳しい顔つきの写真が身にしみました。彼女が使った測定器もかなり沢山展示されていました。私が旧制高校時代に使ったものとほぼ同様と見受けました。
思えば彼女が67歳で亡くなったとき、私は4歳だったのです。漠然と伝説の人と思っていた彼女は同世代の人だったのです。

キューリー
マダム・キューリー  
ショパンの生家はワルシャワから50km余のところにあります。ずっと人家もまれな田園地帯を過ぎた先の小さな村の中です。彼が国外に出る前、10才台の頃はどんなに不便な土地だっただろうかと偲ばれました。今は公園になっていて溢れるばかりの緑の中の住まいです。その真っ白な建物の前面にはリンデンバウムの大木が茂り、あたりには彼のピアノ曲の音が流れていました。
ショパン
ショパン生家

旅の終わりの夜に、ワルシャワでショパンの行きつけのレストランで食事しました。そのあと彼のピアノ曲のコンサートを聞きました。休憩時間、ガーデンでスイートカクテルが提供されました。6月のこの時期、北緯50度のワルシャワでは、午後9時が丁度日没なのです。ま、こんなおしゃれな気分はいいものです。
その夜、演奏された曲の中には「英雄」や「革命」がありました。そうです、彼が生まれる15年前に、彼の地はロシアの支配下に入りポーランドの国名は消されていたのです。ヨーロッパ各地に革命の機運がみなぎりポーランドでも革命運動があり、失敗に終わったのでした。

領土問題

ポーランドは、ロシア、ドイツという強大国に囲まれ、建国以来1000年余りの歴史のうち、国が消滅した時期が何回もありました。一番最近の事件としては、第一次世界大戦後、123年ぶりにやっと復活した新生ポーランドが、また第二次世界大戦勃発時にドイツとソ連に国土を奪われ国が消滅していたのでした。それは、ほんの70年ほど前にあった現実なのです。
その時の様子を図で見てみましょう。

図のブルーの線が1921年以来のポーランドの国境線です。
国境
1939年8月ドイツとソビエト連邦はお互いの間で不可侵条約を結びました。その条約の裏で、ポーランドを分割占領する密約を結んでいました。その分割する線が図のNati-Soviet pact borderと書かれたオレンジの線です。
条約締結の9日後、1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻しました。2日後イギリスとフランスがドイツに宣戦を布告しました。第二次世界大戦の始まりです。
ソビエト連邦は9月17日に侵攻を開始しました。そして10月1日までにポーランド全土がドイツ、ソビエト連邦に制圧されました。
1941年6月ドイツはソ連占領下のポーランドまで奪ってしまいます。

図の赤い線が現在のポーランドの国境線です。
右の青塗りの旧ポーランド地域は、第二次世界大戦後ソ連が獲りました。その減った分の補填として敗戦国のドイツの土地がポーランド領になりました。それが左側の黄塗りの地域です。
国境が最終的に決められたのは、ポツダム会談だったとされています。日本降伏の約半月前、日本国への降伏勧告、原子爆弾の完成、ソ連の対日参戦などがトルーマン、スターリンなどによって話し合われたのでした。当事者のポーランドは抜きで、戦勝国のトップたちが国境を決定したのでした。
ソ連が獲った部分は、ロシア が、昔、自国 の領土だったことがあると主張したのでした。

結果的にポーランドの国土は前より西に動いたことになります。今回観光した古都ヴロツワフは旧ドイツ領です。

私は電気技術者です。バスの窓から見える送電線の鉄塔の形から、その場所がまさに旧ドイツ領だとわかりました。新しいドイツとの国境はオーデルナイセ線、川の名にちなんだ名です。私はそれが70年前、国境線として論議されていたことを明白に覚えています。そんなこともあり、今回の旅行はまさに懐旧の連続でした。
ヨーロッパには小さな国が沢山あります。国境線の問題は過去から数限りなく発生し、理屈抜きに、そして力任せに決められていたのでしょう。
極東の島国の国民とは、思考のバックグラウンドが違うはずです。
歌の文句ではありませんが「済んでしまったことは、仕方ないじゃないの」と割り切るのが現実には良策なのかもしれません。

アウシュビッツについて(大虐殺考)

今回の旅では、あの悪名高きアウシュビッツを訪ねました。

帰国後、よく「アウシュビッツどうだった?」と聞かれます。とりあえず「カンボジアのポルポトがピストルなら、アウシュビッツは原爆だ」と答えることにしています。

アウシュビッツを考えるのにあたって、人類が犯した同種類の、おぞましい沢山の事件について、もっぱらネットで調べばまくりました。
まずウィキペディアの「大虐殺」の項目を引いてみました。すると旧約聖書時代のユダヤ人による占領地カナンでの先住民虐殺から始まって、大項目だけで70件以上が取り上げられています。
このサイトでの情報は、「大」ばかりではなく、むしろ「虐殺」の方に偏っているように感ぜられました。(例えば犠牲者224名の通州事件が取り上げられているなど)
次に「ジェノサイド」という項目で検索してみました。すると、ジェノサイドという言葉は、1944年に新しく造られたこともあって7件にまでに絞り込まれました。
またアウシュビッツについてよく使われる「ホロコースト」という言葉で引いてみました。ホロコーストという言葉は宗教用語で、現在では実際にはアウシュビッツの件だけに使われているようです。

ここではアウシュビッツを考えるうえで共通項を探るため、まずカチンの森事件、中国の大躍進政策と文化大革命、そしてポルポト虐殺事件の3件についても学んでみたいと思います。

カチンの森大虐殺事件

最初にカチンの森事件について述べてみます。(文中に出てくるソ連とはソビエト社会主義共和国連邦の略。ここの文では現在のロシアと考えて大差ない)

第二次世界大戦が勃発してから約半年たった1940年3月頃、ソ連がポーランドの近郊、カチンの森で約22,000人のポーランド軍将校、国境警備員、警官、一般官吏、聖職者などを殺したとされる事件です。
もっとも人数についてはポーランド亡命政府は、将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせを行っていたが満足な回答は得られなかったという情報もあります。
また国際委員会が確認した、発掘された遺体は4243体(発掘中止)という数字もあります。

次にこのカチンの森事件をめぐる関係国の動きを見てみましょう。

1943年2月27日ドイツ軍はポーランド軍将校の遺体が多数埋められているのを発見しました。そして対ソ連宣伝に利用するため大々的に調査を始めました。

4月13日に世界の各紙でカチンの森事件が報道され、ドイツも正式に発表しました。

4月15日ソ連は発見された遺体はドイツ軍が殺害したのだと反論しました。

4月24日ソ連はポーランド亡命政府に対して「カチン虐殺事件はドイツの謀略であった」と声明するように要求しました。この要求をポーランド亡命政府が拒否すると、26日ににソ連は亡命政府との断交を通知したのでした。
ソ連は戦後のニュルンベルク国際裁判でも、ナチスの仕業だと主張しました。もっとも、証拠不十分として裁判からは除外されましたが。

イギリスは早い段階で暗号を解読し、事件に気づいていました、またポーランド亡命政府は、事件の覚書をイギリス政府に提出しましたが、チャーチルは公表しませんでした。

アメリカのルーズベルト大統領は、前ブルガリア大使だったアール海軍少佐を情報収集のため送り出しました。しかしアールのソ連の仕業であるという報告は隠され、アールは左遷され、戦争の残りの時間をサモアで過ごすこととなったのでした。

ポーランド人大量殺害の目的についてはネットには殆ど出てきません。
ソ連がポーランドを共産主義社会化する上で障害になる、軍部、行政、教育、宗教などの上級者を抹殺したというのがありましたが 、いわば自明のことなのでしょう。

中国の大躍進・文化大革命の大虐殺

次に1958年から始まった中国における大躍進、そしてそれに続く文化大革命について見てゆきましょう。

1949年、毛沢東は、中華人民共和国の建国を宣し主席に就任しました。
 当時ソ連共産党第一書記のフルシチョフは、工業、農業の生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言していました。
 毛沢東が指導する中国共産党はこれに触発され、自分たちも数年間で英米を追い越すことを夢見て1958年、大躍進計画を発令したのでした。
 ところが、まだ生産基盤が弱い状態の中国で、高いノルマの目標を掲げ人海戦術で押し切ろうとしたこの政策は、所詮、無理なことは無理で社会は大混乱に陥りました
 こうして中国は全土で異常な食糧難に陥り、約3年間に1600万人から2700万人の餓死者を出すという大失敗に終わったのでした。

 毛沢東はこの大躍進政策の失敗の責任を取る格好で一旦は国家主席の地位は退きましたが、権力回復を計るため、 1966年5月 文化大革命を打ち出したのです。
毛沢東主席が率いる中国の政権は、全国民に対し「労働者階級からの権力奪取を目論む資本家の一味」とみなされる人物を一掃するよう布告を発しました。
かって毛沢東語録で述べていた「革命は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である」が始まったのです。
中央政府からの呼びかけに応えて、学生たちは大学側に反旗を翻し、農民は地方政府への反乱を起こしました。全国の若者たちがこの動きに同調して、紅衛兵と呼ばれる民兵組織を作りあげました。そして誤れる過去として、文化的遺物をぶち壊してこの国の歴史的遺産の残り香まですべて破壊し尽くそうとし、多くの知識人や政治家たちを「反革命分子」として迫害したのでした。
政府の公式統計によれば、この文化大革命により殺害された国民は170万人以上に上るといわれます。
また別の情報では各所で大量の殺戮や内乱が行われた結果、その犠牲者の合計数は数百万人から1000万人以上ともいわれます。殺人のほか、マルクス主義にもとづき宗教が徹底的に否定され、教会や寺院そして宗教的な文化財が破壊されたのでした。
後年、私がシルクロードを訪れたとき、沢山の仏像の金箔の部分が削り取られているのを実見しました。紅衛兵だけでなく地元の人も便乗したのでしょう。
さてそんな大躍進政策や文化大革命でしたが、それが日本にはどんなにして伝えられていたのでしょうか。
当時、中国では海外メディアは殆ど閉め出されていました。そして一部の親中派メディアだけが中華人民共和国国内に残ることを許されていました。当然のこととして残留を認められたメディアは、中国政府が強行している悲惨な実態は全く伝えないだけでななく、むしろ礼賛していたといってよいかと思います。
親中メディアや一部毛沢東思想に魅了された人たちは、世界中で活発に動いていました。中国の人たちが蝿叩きを持って蝿を打ち殺し、国中に一匹もいなくなったと伝えられました。また、稲が密植され、たわわに実り、その上に人が乗っている写真が掲載され、食料の革命的大増産に成功しているのだと報道されていました。
他方、新しい社会制度を打ち立てるためだとして、村長などが大勢の紅衛兵たちに引き立てられました。そしてブルジョアの象徴として三角帽子を被せられ胸には自分の犯した罪状が描かれたボードをぶら下げられ、自己批判を強いられている様子が伝えられていました。言わば人民裁判、吊し上げが、世直しと賛美された状態といってよろしいでしょう。
社会は色々の人で構成されています。こういった吊し上げ行為を、それを実行する人、される人、さらに圧倒的多数である傍観する人に分けて考えてみましょうか。
吊し上げをしている人は自己の達成感に酔い高揚しています。吊し上げられる人は言うまでもなく屈辱感に襲われます。傍観している人は、吊し上げに肯定的な人、司法に依らない人民裁判行為に違法性を覚える人、被害者に同情的な人、ただ単に自分より上位だった管理者が嘲りを受けるのを見て快哉を叫びたい人など様々です。
この頃は世界的にも反体制運動が流行していた時代でもありました。日本でも安保反対、成田空港反対など準暴力行動がそれなりに頻発していました。
そんな中国の大虐殺時代にも、日本では本屋の店頭には赤い表紙の毛沢東語録が平積みされ、時の話題に遅れるまいと多くの人たちが競って買い求めていたのでした。
言ってみれば1930年台にも、人々はヒットラーの自叙伝「我が闘争」を買い求め進歩人ぶっていたのと同様だったともいえましょう。
そのような文化大革命のなかで、1966年4月、中国の高名な文学者郭沫若が吊るし上げられ「今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべて焼き尽くすべきである」と、過酷なまでに自己批判させられたことが報じられました。郭沫若は日本にもよく知られ知人が多かった高名な文学者、思想家、政治家であります。この事態を受けて、ついに日本でも川端康成などの良識ある作家たちが中国の暴挙に抗議を始めたのでした。

ポルポトによる大虐殺

1975年からの4年間に、ポルポトが率いるカンボジア共産党レッド・クメールが100万ないし170万人を殺したとされる事件です。

殺人は他派の政治家・官僚、教員、マスコミ関係者などの知識人から始まりました。ポルポトは毛沢東思想の感化を強く受け、完全な平等主義の土地均分論や、通貨の廃止、学校教育の否定などの極端な原始共産制度を目指したのでした。
 都市住民は強制的に集団農場での労働に追いやられました。 また農場では資本主義のもとに発生した文明の利器の使用を排除したので、農作業、灌漑施設の建設など総て人力で行なわれました。
当然、そのような過激な政策には国民の多くが反対しました。反対者たちはプノンペンにあるトウルスレン刑務所へ送られ電気ショック、鞭打ち、水責めめなどの拷問を受けたうえ殺害されました。

ポルポトによる既存社会のルール破壊は時とともに激しくなり、農村労働者以外はすべて殺すことに精力を注ぐことになります。文章を書いたり読んだりする人、メガネを掛けた人、街のラジオ屋など手に職をもった者、踊ったり歌ったりして報酬を受ける歌手や女優までも処刑の対象となったと伝えられます。こうした動きは国内津々浦々に広まり、カンボジアの人口700万人のうち三分の一ほどが殺されたとする説もあります。ともかくも最後の頃は、経験の乏しい子供たちばかりの国になってしまっていたことは間違いないようです。

当時、ポルポトの宣伝の映像が日本のテレビで放映されたのを覚えています。私の家はNHKしか見ない家でした。大勢のカンボジアの女の人たちが一列にならんで鍬で地面を耕し、男たちはモッコで土を運んでいました。安らかな歌声が流れていたと記憶します。初め、私は中国での映像だと思いました、だって菅笠をかぶった彼らの服装は中国人そっくりでしたから。また、中国毛沢東の人海戦術が農村に及んでいると聞き及んでいたからです。その映像を見ながら、私の母が「カンボジアだそうよ。なんか変ね」と言ったのを今もはっきり覚えています。

私が最初にカンボジアを訪れたのは、ポルポト追い落としの内戦が収まって間もないころでした。
まだ地雷が除去されていない区域も多く、到着した空港は滑走路以外は草ぼうぼうでした。街では松葉杖、片足の人たちが目につきました。

その時、私は日本の手によって作られた発電所の竣工式に参列したのです。
首都プノンペンには既にフランス、次いでソ連から贈られた火力発電所がありました。どちらも何万キロというような大きな発電所でした。でも、設備を作っただけでは電気は出てきません。運転する技術者も必要ですし、故障すれば新しい部品を使って修理しなければなりません。発電所はあっても放置されたままで、電気は殆ど使えませんでした。そんなこともあって、新しく日本から贈られたのは手間の掛からないディーゼル発電所でした。
竣工式には国王シアヌーク殿下が来られました。無事、試運転が終わって殿下が来賓席の方に来られました。私は下請けのまたその下請けの立場でしたから、最末席におりました。殿下は上下を間違えられたのでしょう、いきなり最末席の私のところへこられ、手を伸ばされました。うろたえた私は普通に握手しました。順々に回ってゆかれるのを見ていると、まず胸の前に手を合わせ拝んでから握手するのが礼儀のようでした。
人口300万人の首長といえば愛知県知事に毛が生えたぐらいかもしれませんが、新聞によく名前が出る外国人と握手したのは後にも先にもこの一度だけですから、お時間をいただき披露させていただいた次第です。
翌日、街へ出ると「あっ、信号灯が点いてる」と同行者が叫びました。電気のある街に戻ったのでした。

さて虐殺本題のトウルスレン刑務所へは、最初、現地駐在員が案内してくれました。私にはあまりにも衝撃的でしたから、次の日の朝、一人でホテルから歩いて再訪したのです。
壁の全面にドクロを埋め込んだ小部屋がありました。なにせどこにもここにも膨大な数のドクロです。なぜか、殺す前に一人ひとりの写真を克明に撮っているのです。その膨大な写真が壁に貼られていました。私にはその人たちの表情が恐怖に引きつっているようには見えませんでした。言ってみれば免許証の写真のように無表情に感じられました。この人たちは、写真を撮られる時に自分が殺されることを知っていたのだろうか、とすればどんな気持ちだったのだろうか、ともかくこの人達は今生きていないのだ、そんな思いでいつまでも写真に向かい合っていました。

壁に日本の新聞の切り抜きが貼ってありました。銃を持った少年兵の写真の下の記事を読んでみると「少年たちの目は澄んでいた」と書かれていました。その記事を見て、今までここを訪れた日本人のうちには、私と同じ、やりきれない気持ちに襲われた人もいたのだと感じました。

ついでながら前の日もこの日の朝も、このカンボジアのトウルスレン刑務所虐殺遺跡に来ている人は見かけませんでした。ポーランドのアウシュビッツに世界中から大群衆が訪れているとは正反対でした。


アウシュビッツの大虐殺


さていよいよ本題のアウシュビッツです。

ネットでアウシュビッツという項目を手当たり次第に検索していて、いま、一番心に残っているのは「一度アウシュビッツを訪ねてください、見てください、そして考えてください」という言葉です。

今回アウシュビッツを訪ねる前の私の認識は次のようなものでした。

ヒットラーが率いるナチス党は、自分たち白人・アーリア人種、それを代表するゲルマン民族こそが優秀な人種なのだという建前であった。そして社会の中に混在している文化破壊者たるユダヤ人は絶滅させるべきだとし、人種浄化のためアウシュビッツにガス室を造りユダヤ人の大量殺人をおこなった。

今回、実際に「訪ねて」「見た」あとの、新しい知見といえば次の3点でした。

第一に、ドイツでは前回の大戦後、過酷な賠償などにより経済が破綻し、国民的な不満が高まっていた。ヒットラーはこの国民の不満に対して、先ずはドイツの地位の復活を訴えるとともに、次いでキリスト教徒社会に広く深く潜在しているユダヤ人に対する嫌悪感を煽ることが、ナチスの党勢伸長に有効であることに気がついた。

第二にアウシュビッツで広大な敷地に多くの宿舎が建てられたのは、単なる殺人設備ではなくて労働力確保の目的があったに違いない。収容者たちは一体どこで何をしていたのか。

そして第三には、人が人を殺すこと自体、まことに忌まわしい行為であるが、そのことをちょっと横に置いて考えると、ドイツ人の合理的、科学的な性向は、ずば抜けていること。

アウシュビッツで何が行われたか

まず、いろいろ考える前に アウシュビッツで行われた大量殺人を、先にあげたカチンの森事件などに倣ってドキュメント風にたどってみましょう。

1940年強制収容所アウシュビッツが作られました。ポーランド軍の兵舎を流用したものでした。
1941年、アウシュビッツより、はるかに大規模のビルケナウ強制収容所が、新規に作られました。

第二次世界大戦が終わる1945年までの間に、ここアウシュビッツ地区の強制収容所群でナチス・ドイツにより大量殺人が行われました。殺されたのはユダヤ人、政治犯、ジプシー、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにこれらをかくまった者などです。その出身国は28にも及ぶとされます。

ニュルンベルク裁判では、ソ連が主張した400万人という数字が、アウシュビッツでの死亡者数とされました。
この数字は冷戦後の1995年には150万人に改められました。
ユネスコは犠牲者の数を120万人としています。

殺された理由として、他の事件同様、旧体制の指導者層、社会的非許容者を狙ったのだというのもありますが、ユダヤ人だから殺すというのがここアウシュビッツのでの特殊性です。

キリスト教国におけるユダヤ人蔑視の理由は2つあるそうです。
一つ目は2000年前のイエス・キリスト殺害に関わったと考えることから来ています。
もう一つは、ユダヤ人は拝金主義者で、金持ちだという思いがあるのだそうです。
原始社会では農地から作物を採ったり獣や魚を捕る行為が正業とされました。
金を貸して利子をとるのは正業でないという気持ちが、今でも人々の心の底にひそんでいるといえましょう。利子を取ることを禁じている宗教があると聞きます。
日本だってついこの前まで、士農工商など言っていたのでした。
シェークスピアの「ベニスの商人」に登場するユダヤ人金貸しのシャイロックに見られるように拝金主義者としての軽蔑、金持ちという面への羨望の感情もあると言われます。
プロテスタントの源流であるマルチン・ルター、音楽家のリヒアルト・ワーグナーも反ユダヤ主義者として知られています。
19世紀中頃イギリス・ドイツなどでアーリア人に代表される白人が高い理性と正義感を持ち、黄色人種、黒人に勝っているのだという人種不平等論を主張する学説が盛ったといわれます。
 現在でもヨーロッパ諸国では、移民受け入れに反対する感情には根強い底流があるように見受けられます。

アウシュビッツでユダヤ人に対する大規模殺害が行われた意図については、現在でも議論が続いているようです。
その論争には、ナチス・ドイツが当初から民族浄化を目指していたとする「意図派」「プログラム派」と、独ソ戦の進行にともなって対ユダヤ人政策の上で採用されるようになったとする「構造派」とがあるようです。

また、当初はユダヤ人たちをインド洋に浮かぶ大きな島、マダガスカルに島流しにしようという案もあったといわれます。全くの作り話ではないようですが、なにせ制約だらけの戦時中のことです、ガス室で大量処分する案への対抗手段になるとは考えられません。

アウシュビッツはポーランドの古都クラクフの西約50kmにあります。交通は便利、近くに石炭、石灰岩という資源も得られます。ドイツは戦争遂行のためここに一大工業集団を建設することにしました。
当時世界を3分したといわれるイーゲー・ファルベンという大化学会社、有名な重工業のクルップ社、現在でも世界に雄飛している重電のシーメンスなどの工場を建設したのです。

アウシュビッツへ送られた人々はこれら工場の労働力にもなったのでした。
     閻魔
ナチの閻魔様、死後、本当の閻魔様の前でどちらへ振り分けられるのでしょう。


           。

ヨーロッパ各地から貨車に載せられ運ばれたきたユダヤ人たちは、一列になり前へ進まされました。そこにはドイツ軍のジャッジがいました。右方に指示された人たちは直接ガス室へ、そして左を指示された人たちは強制労働の要員として宿舎に送られたのでした。
老人、子供、子連れの女性などは即ガス室行きで、強制労働者に選ばれるのは4人に1人ほどだったといわれます。
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  この人達、一人残らず助けてあげたいと思います

アウシュビッツの強制労働者の宿舎はバラックと呼ばれますが、もともとはポーランド軍の兵舎ですから、レンガ造りの立派なものです。
次いで作られたビルケナウのほうは、バラックの名がピッタリのちゃちな木造の建物群でした。
私はこの手の建物は、昔の山小屋や戦時中の飛行場建設に動員され泊まった宿舎などで経験したことがあります。アウシュビッツは北緯50度、樺太と同じですから、なんといっても造りはがっしりしていると感じました。

冬は寒く、夏は暑く、食べ物は少なく、ノルマは厳しくと、当時ここに収容され働かされた人々の悲惨な様子が、ガイドから延々と語られました。
そんな説明を聞きながら、私はひたすら、シベリアに違法抑留され、森の伐採に使役された日本兵捕虜の境遇とまるでそっくりだと考えていました。
どちらのケースでも、管理する側にしてみても、しっかり食べさせ、病気にならないようにし、もりもり働いてもらいたかったでしょう。でも、自分たちだって十分食べられる状態ではなかったはずです。

被収容者たちは過酷なノルマを達成しろと尻を叩かれ、生死の境を彷徨っていたのです。週何時間労働だとか適正な報酬などとは縁のない環境です。いやならやめてほかで勤くことなどの選択肢はありえません。
そこからは生きては出られない強制労働だったのです。

またさらに人間の歴史を考えてみれば、アフリカで酋長からヨーロッパの奴隷商人に売り飛ばされ、奴隷船で新大陸に運ばれ、綿花栽培に当てられた人たちも、人間としてではなく単なる労働力として同じように消費されたのでしょう。規模の大小はあれ人類はずっとそういうことをしてきたと思うのです。

現在の豊か、かつ人道的な社会に住む我々にとって想像できない社会現象が、つい先程まであったことを考えさせられました。

他方、処刑は大きな部屋に対象者を詰め込み、チクロンBというノミやシラミの退治に使われるガスを充満させて行われました。効率的に進めるよう研究した結果、32分で800人処理できるようになったとのことです。

犠牲者たちは、広いホールに連行され、まず消毒のためシャワーを浴びるためだと説明され、体につけたものを全部外されました。髪も切られました。
ところが、天井からはシャワーじゃなくて、毒ガスの缶が降ってきたのです。
切りとられた髪は羊の毛のように織って、衣類、マットなどに使われました。
そのほかの使えるもの、たとえばアクセサリーなどはベルリンに送られ、そのまま売りに出されたり、あるいは溶かし地金として戦費の足しにされたといいます。

また、忌まわしい行為として人体実験も行われました。
考えてみれば、新薬開発の過程では、その薬の有効性、副作用などを事前に把握する必要があります。現在は、最初のテスト段階では、被検体として人間でなくマウスやモルモットを使って実験をおこなうと聞きます。また、ある種の病気についてはマウスなどでなく、遺伝子的に、より人間に近いサルを使う必要があるとも聞きました。
被検体として、もしも本当の人間が使えるならば、どんなに医学が進歩するかと研究者の立場からは考えたはずです。とくに双生児の場合など、願ってもないデータが得られると思うのは当然の成り行きだったでしょう。

ついでに言及すれば、かなり広く説かれている人体の脂肪分から石鹸を作った話とか、人の皮膚をなめして製品にした話とかは本当ではないとのことです。こういう作り話が創造され、かつ広く信じられるのも、人間の一面でありましょう。

ガス室のほかにも死の壁という所があって、ここでは数千人が銃殺されたといいます。騒乱など普通の犯罪のほか脱走など試みた人たちが対象だったのでしょうか。

大虐殺まとめ

ここまで、大虐殺というものについて、カチンの森事件、大躍進・文化大革命事件、ポルポト事件、そしてアウシュビッツ大虐殺について見てきました。
今の時代ですからネットを見ると膨大な件数が出てきます。
たとえば「アウシュビッツ」で検索すると55万件、「アウシュビッツの嘘」では13万件もありそうです。とても見きれませんからどの項目についても、せいぜい頭から20件ほどを見て書き出した資料であることをお断りしておきます。

これらの事件から、共通して下記のような点が浮かび上がてくると思いますがいかがでしょうか。

なにが信じられるか

事件の起こった時点については、諸資料の日時はほぼ一致しているので信用できると思います。

事件が起こった場所についても、諸資料の場所はほぼ一致しているので信用できると思います。

誰が誰を殺したかについては、カチンの森事件のように一時はもめることがあっても、所詮は現れるので信用してよろしいでしょう。

ところが、虐殺された人の数になると、文の中でも気が付かれたと思いますが、資料によって大きく違っています。
たとえばアウシュビッツについては、多い方ではドキュメンタリー映画「夜と霧」に使われた900万人から、少ない方では63万人と主張する歴史学者もいるようです。

2011年3月に起こった東日本大震災のとき、一時は死者、行方不明者の数は約4万人という数字が流れていましたが、いつの間にか約2万人と下がり、現在では18456人とされています。天災、戦争などでドタバタしている場合には、情報は混乱するものだと世間一般に認められていますから、この数字の変遷について、行政、報道機関を非難する声はまったく聞かれませんでした。
戦争や虐殺事件の最中に、平時の正確さを求めることは所詮無理なことなのです。
また、思惑から数字が故意に操作されることも一般的なことなのでしょう。
それにしても大虐殺事件の死者数について、いろいろと研究している物好きな人がいることに私など驚かされました。

前記の幾つかの大虐殺が、どのようにして世間に知らされたかという点で、大変興味深いものがあります。
国の指導者が事実を知っていても握りつぶしたり、自国が犯行を犯しながら他人が手を下したと言い張ったり、自分の意見どおりに報道しない報道社は締め出したりと様々です。
でも、そういうことが非難された形跡はみえません。自国のため、自国民のためそうするのが指導者の責務だからと一般的に認められているからでしょう。

報道の限界

考えてみれば、天と地の間には無限に近い事象があります。それを全部報道することは、もともと不可能ですし無意味なことです。
まず、変化のないことは、報道しなくても皆が既に知っている、あるいは知る必要がないと見なされています。それゆえに新聞 とかニュース のように、まず「新」がつくものが報道の対象になります。

新しい事象の数だって膨大ですから、報道される事案はその中から選択されます。
自分の利益になること、自分が賛美されること、相手の足を引っ張ること、などが先ず選ばれそうだと頭に浮かびます。

2016年、アメリカ大統領の選挙戦でトランプ氏が、世界との協調を軽視し、アメリカファーストを叫び世間を賑わしていました頃のことです。「今のアメリカのテレビ業界は、正しいことや、ためになることを報道するのではない。ただ、視聴率が上がることだけを考えているのだ」と業界内から自嘲気味の声が上がっていました。確かに、メキシコとの国境に壁を作るなど言えば、賛否ともに関心をそそられます。自分は正しい、悪いのは他人、とするミー・ファーストは常に耳に快く響くものです。そして結果的にトランプ氏が当選したのでした。
報道するテーマの選択は、報道を受け止める側、つまり独裁国では独裁者が、民主主義国では国民が決めているという面が見られます。トランプ氏の例ではかなり誇張されてはいますが、メディアの本質はここにあるといえます。

大虐殺に関する報道を回顧するとき、メディアの報道からでは、実際のことは分からないのだという真実が浮かび上がっています。ほかの事象についても同様でしょう。なにせ起こっていることの数に比べれば、報道できる量は微々たるものなのですから。

虐殺とは・むごたらしいとは

大虐殺というテーマでネットを見ているうちに、大虐殺と名がつけられても、実は内容は様々だという気がしてきました。

「大」というからには何人以上を大と考えるのでしょうか。人によって違いますね。
また、虐殺を広辞苑で引くと「むごたらしい手段で殺すこと」と出てきます。
ではまず、百点満点の「むごたらしい」例をあげてみます。

漢の高祖劉邦の皇后呂雉は、非常に権力に貪欲で嫉妬深い皇后でした。皇帝の寵愛を受けていた美しい側室・成夫人を残酷な方法で殺しました。手足を切り落とし、目玉をくり抜き、鼻を削ぎ落とすと、喉と耳を毒で焼いたのでした。この哀れな成夫人を人目に晒し散々になぶった挙句便所に捨てたと史書にあるそうです。

なにも中国が「元祖むごたらしい」と思ってなんかいません。ただ、こういう話は大昔の話のほうが加害者・被害者とも差し障りがないと思ったので取り上げただけなのです。2200年も前のこの頃、日本では縄文時代から弥生時代へ移り変わる頃、もちろん文字などなかった時代です。

さて、人が人を殺す行為が、残酷でないはずがないと考える人もあります。
そんな人でも安楽死や、法による死刑執行は、残虐性のレベルは低いと諾うはずです。

毛沢東の大躍進政策は、国の力や住民の生活を欧米並みに引き上げようとしたのだとされます。ただ、その時期、手段を誤ったため千万人単位の人を餓死させたことになっています。このケースでは、残忍さはほとんどゼロともいえましょう。もっとも、諫言に耳をかさなかったとか、虚偽の報告を見抜けなかったのはやはり残虐の誹りを免れない言う人があるかもしれません。

カチンの森事件の銃殺やアウシュビッツのガス室は、なぶり殺しとか残虐性の点では上位には入らないでしょう。

ポルポト虐殺や文化大革命の紅衛兵たちの所業は、被害者をひどくいたぶったうえでの殺人で、かなり残酷だったと思わざるを得ません。

このように幾つかの忌まわしい事件を概観すると、人を殺害するのに、組織的に行われるときは、まだなんとなく理性が働くので残虐性は低く、私的な人民裁判などでは人間の心に潜む暗い欠陥が暴走し残虐度が高くなってしまうように見受けられるのです。

そんな人間の残虐性を紹介したいと思い「フランス革命」における王妃マリー・アントワネットの例を調べました。彼女が肥桶の荷車に縛りつけられて街中を引き回され、ギロチンで首が落とされると、そこには歓声を上げた大衆がありました。
それはそうなのですが、ネットで調べていると「フランス革命」の80年間は、大の字がつくかどうかは別として、惨殺事件のオンパレードだったことに改めて衝撃を受けました。

支配者への恨み節として、 学生時代には「校長死んだとて誰泣くものか、ヨイヨイ、山のからすが鳴くばかり」と歌い溜飲を下げていたものです。
またサラリーマン時代には退社後の赤提灯で同僚とオダをあげて鬱憤を晴らし、ともかく今まで無事に生きてきました。

広島・長崎の原子爆弾投下や、ロンドン・ハンブルグ・東京などの大空襲を大虐殺と呼ぶことはないようです。国と国との交戦行為の一部と見做すからでしょう。
しかし、実質的には広島・長崎で日本軍機が迎撃しようとして舞い上がったとか、高射砲を打ち上げたとかの話は聞きませんから、実態としては多くの市民が、抵抗するすべもなく、一方的に虐殺されたといえるかもしれません。
ま、なんと呼ぼうと死んだ人が生き返るわけではありません。

終わりに

平らな国ポーランドを見てみたいという軽い気持ちで訪れた旅でした。でも、書いているうちに意外に重い気持ちになってきました。
私はやはり戦争時代の子供なのです。しかも、敗戦国の側の子供なのです。
「僕、ポーランドへ行ってきたよ。日独伊三国同盟の頃を思い出すことが一杯あったよ。悪い時代だったね」というように、今の気持を話し合える相手は、もうずっと前に亡くなった父母だけのように思われるのです。

ポーランドという国の、国家としての存立、そして国境変遷の歴史を見てきました。
関係した国として、ナチス・ドイツ、ソ連などの名が浮かんできます。

ヨーロッパでは、 この2千年ばかりの間、先住民族のローマ人やケルト人の地域に、ゲルマン人やスラブ族の移動、東方民族の侵入そしてノルマン人の南下などいろいろな事件が起こっています。そんな場合、グループの間でどんなことが起こったのでしょう。強いほうが弱い側を駆逐する惨劇が展開されるのが普通だったことでしょう。
これらの事件は過去20万年という人類の歴史にとっては至近ともいえる時期に起こった事件なのです。

人間って何だろう

歴史を長期的に、かつ広く捉え、その中で起こった沢山のケースを見ていると、国名、人名などの固有名詞は消えてしまい、結論として人間は人間に対してなにをしてきたか、そしてこれからどうなってゆくのかという思いが浮かんできます。

言うまでもなく人はそれぞれの性格を持っています。地球上には、人口と同じ70億通りの生き方を持った人が生活しています。
そのほとんどの人が健全な社会生活に適した人であり、悪人と見なされるのはほんの少ししかいないだと断言できます。しかし賢さ、冷静さという点ではどんなものでしょうか。正義とか自由とかの言葉のもとで、非人間的集団と化する例はなしとしないのが現実でありましょう。

人間と人間社会がどんなものであるかを、客観的に正しく認識することは興味深いテーマです。でも、それは人間自身には難しい仕事なのです。
人間は自分たちについてあまりに沢山のことを知っていますし、また自己弁護が先立ちます。
それで現在は人間の行動を、チンパンジーの社会を観察することなどから、意味付けを試みたりしています。
比較の対象がネアンデルタール人ならば、チンパンジーよりもっと我々ホモサピエンス人に近く、しかし別種の生き物として認識できたはずです。色々の性格を持ったネアンデルタール人たちと、彼らが構成する社会についてならば客観的に正確に評価できただろうと思われます。
それにつけても、ネアンデルタール人が3万年前に絶滅してしまったことが悔やまれます。もしも今も彼らがどこかで暮らしていたら、あるいは彼らの社会生活についての記述が我々に残されていたらどうでしょう。人間が生物に課せられた共通の軛から逃れ得ないの宿命を背負っていることが、もっと明白に受け入れられることでしょう。

自然界の生物は自分の属する種の保存が行動の基本です。
植物は地上部では日光を奪い合い、地下では水と肥料の争奪戦を展開しています。
動物たちも食料や配偶者の確保のため、ある時は縄張り争い、また情況に応じて命懸けの大移動などに懸命です。

ヨーロッパは、大陸の西の端に位置し、とても恵まれた土地です。そのためいろいろな民族が国を作り、延々と領土問題に揉まれ続けてきました。日本のように島国で、外国との戦いがほとんどなかった国では想像できないほどの悲劇、他民族への怨嗟があるはずです。

エジプトを旅した時、エジプト人がイスラエルだけは許せぬと言っている事情は理解できました。
でも、原則として、一介の旅行者にはA国民がB国民に対してどんな感情を持っているかなどわかりません。
ともかく、過去延々として他国に対して怨嗟を抱いているはずのヨーロッパの人たちが、街角ではわりと淡々としているのを昔から不思議に感じていました。

でも、最近、こんな記事に目がとまりました。
「7月21日時事通信社の記事。ポーランドが共産主義をたたえる記念碑の撤去を義務付けた法改正を行ったことに、ロシアが猛反発している。ロシアは、第2次大戦で欧州のために戦ったソ連兵の記念碑を撤去するのは《甚だしい侮辱》と非難。報復措置も辞さない構えを見せている」

勝った方にも負けた方にも、こんな気持を持っている人は多いはずです。
そんな人たちが、現実には殊更にことを荒立てず、何気なく暮らしているのです。
多くの人たちは「あまり多く知ろうとしない」「深く考えない」「適当に忘れる」という人生ベテランの知恵を合わせ持っているからでしょう。
隣国の悪口を 繰り返し繰り返すことしか知らない人たちに、仕合せな明日があるはずはありません。

sparrow

      人懐っこいヨーロッパの雀、平和な暮らし
 

平和を求めて

ほとんどの人間は戦争が悲惨なものだと知っており、常に平和を渇望しています。でも平和は声高に叫ぶだけでは叶えらません。戦争をなくするためにはどうすればよいかを探し、かつ実行する、賢さこそ求められるものです。
老いた私にはその知恵も力もありません。また、誰も私に期待などしていません。
だから気楽に余生を過ごそうと思っているのです。
知ろうとせず、考えようとせず、何事もできるだけ早く忘れるように努めるつもりです。

日暮れになりました。そろそろいつものスナックへ行き、薄暗い片隅で、菅原洋一の「済んでしまったことは、仕方ないじゃないの」と、植木等の「見ろよ青い空、白い雲、そのうち何とかなるだろう」と、蚊のなくような声で呟くことにでもしましようか。

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