冬のロシア
(2005/03/04〜12)

重遠の入り口に戻る

日付:2005/4/20


「じっくりロシア文化を楽しむ9日間」というのが、こんど参加したツアーの名前でした。
現実に訪ねたロシア文化の対象物を思いかえすと、エルミタージュ美術館、エカテリーナ宮殿、マリインスキー劇場、ボリショイ劇場などのほか,ロシア正教の教会、修道院がたくさんありました。

個々の対象の記述は観光案内や解説書にお願いすることにして、あい変わらずわたくし個人の独断と偏見に満ちた感想を主体に述べさせていただきます。

今回は文中のところどころに【 】で囲って、ロシア小話、アネクドートを散りばめてみました。
やってみて感じたのですが、どうも最近はロシア小話の秀作が見あたらないのです。ペレストロイカのせいじゃないかと思うのです。人生という劇場は、悪役がいないと面白味がないのですね。
日本でも「このごろ都に流行るもの、夜討ち、強盗、偽倫旨、召人、早馬、空騒ぎ、生首、還俗・・・」と続く二条河原落書は、都が焼け野になった乱世の作品であります。とかく世の中が落ち着くと、反骨文芸は低調になるのでしょう。
ま、ご同慶の至りです。

【このごろの玩具ときたらひどい品質だ。壊れて危ないものさえある。
こんな状態でむずかる子供をどうやってあやしたらよいか、と母親が文化相に訴え出た。
文化相は落ち着いて答えた「玩具を買ってやるとおどしなさい」】


●冬のロシアに行く日本人
わたしがスナックのママに「来週、ロシアに行くよ」というと、いかにも心配そうに「ロシアって、なにか怖いみたい」といってくれました。
「こんな寒い冬に、寒いロシアにゆくなんて気が知れない。どんな変人がゆくのかしら。顔をみてみたいわ」と哀れむようにおっしゃったのは、当家の奥方です。そして「年寄りが多いと思うよ」というわたしに「若くて元気な人たちにきまってるわよ」と反論なさるのです。
実は、昨年も真冬にロシアへゆくツアーに申し込んだのでした。
でも、参加者が少なくて成立しませんでした。ことしも2月出発のに申し込みましたが、やはり成立しませんでした。
ですから郵便受けに旅行社からの封筒がきているのをみて、また不成立なのかと思ったのも無理ではないでしょう。ところが有り難いことに、最少催行10名とあるのに、7名しか参加しないのにやってくれるとの通知でした。

成田空港に集まった客は、実際は6名、男は、かく申す75才のわたくしたったひとりでした。
家内が想像したように、みなさん元気なことは間違いもありませんが、わたしの妹ほどの年格好のかたもいらっしゃいました。
そして、女性5人のうち友達同士だったのはおふたり、つまりあとの3人はおひとりずつバラバラに申し込まれたのです。外面如菩薩内心如弁慶!
わたしだって、天下無敵の日本女性の中に男がひとりだけと知ったうえで申し込んだのなら、その勇気を称賛していただけるのかもしれませんが。
なんにちかご一緒しているうちに、みなさんに共通している点は、要するに前向きの姿勢をお持ちなのだと、わかってきたのです。
どなたもロシアは始めてでした。とうぜん初めて食べるものが多いのです。
それなのにいつも、すべての皿に手を出されました。
「まずい」という言葉は最後まで聞かれませんでした。そして「これ、なにが入ってるのかしら」、「こんなお料理の方法もあるのね」そんな言葉の連続だったのです。


ウラジーミルのレストランで出てきたミネラルウオータはガス入りでした。
ガイドさんが「すみません。すぐ取り替えます」と、おお慌てしました。
よく、ガイドブックには「ヨーロッパのレストランでミネラルウオーターを注文すると、たいていはガス入りが出てきます。ガス入りは日本人の口に合いませんから、xxxといってガスの入ってないのを頼みましょう」と書かれているのです。
それなのに今回のメンバーでは、取り替えてもらったのは、おひとりだけでした。
「わたしはこれがいいのよ。いままでのお店でも、お願いすればガス入りにしていただけたのかしら」とまでおっしゃるかたがいらっしゃったぐらいです。

日本へ帰る日、わたしたちは空港のチェックインデスクにならんでいました。50才格好の日本人男性が、わたしたちのグループの途中に横入りしました。団体さんというものはぐじゃぐじゃと固まり、ちゃんと一列には並ばないものです。そのおじさんは曲がったところに、いかにも自分のほうが由緒正しとばかりにくっつきました。しばらくして、自分の失敗に気づかれたのかもしれませんが、ともかくそのまま押し通し、出国審査を通過したころは影も形も見えませんでした。普通の人間とは一緒にヤッテレレルカ、というお考えのかたなのでしょう。

アエロフロート航空ボーイング777機の客室最後尾には、トイレと機内サービスに使うスペースがあります。
用足しにゆくと、その公衆便所の前のスペースに何人かの日本の若い男女が車座になって座っていました。女の子は、若い人特有の、あのあごのはずれたような話し方の嬌声をあげていました。
しばらくして、お兄ちゃんがもどってきて、頭上の荷物入れからお土産らしきウォッカを出してもってゆきました。彼らはおおいに盛り上がっていました。

わたしの若かったころ、大陸浪人という言葉を聞いたことを覚えています。
自分の腕一本をたよりに、波乱に満ちた社会のなかで一旗あげようという、生活力の旺盛な人種をそう呼んだという印象があります。
こんなシーズンにロシアに行ってみようという日本人は、平均より生活力の強いひとたちなのかもしれません。

今回同行させていただいたお仲間は、ある意味で変わった人たちなのかもしれません。でも、よいほうに変わった人たちだったのは、とてもしあわせでした。

【チェコの代表がモスクワを訪れ軍艦を供与して欲しいと要請した。ソ連側はびっくりしていった。
「どうして?貴国に海はないではありませんか」。
するとチェコ代表は平然としていった。
「でも貴国ソ連にも文化省があるではありませんか」】


●変わった国
「おまえ、なんでロシアなんかにいくんだ?」と不審そうにいった人がありました。
ロシアが想像できないほど変わった社会であるという気はありません。
でも、ちょっと変わったところがあることも間違いありません。
変わっていると感じたことをならべたててみます。

成田からモスクワまでは10時間前後のフライトです。
往きも帰りもアエロフロート航空では「ビデオは故障しております。上映できませんのでご容赦ねがいます」とアナウンスがありました。

たいていの海外パックツアーでは、出発の半月か10日前には集合場所、搭乗便名、滞在ホテル名などを連絡してくるものです。
ところが今回は一週間前になってもこないのです。
ロシアのお役所の手続きは、普通にやるとたいへん時間がかかるが、ワイロを使えばすぐに解決するのだといわれます。
交通事故を起こしたとき、救急車に乗せてもらうときからワイロが力を発揮するのだなどいう話は、「お噺し」として楽しんでいるのではないかと思うのですが。
なにせ今回はパック旅行だから気楽なものです。責任を旅行社にあずけ、おおかたワイロを使わないで窓口で並んでるんじゃないかなど、わたしもロシア小話を楽しんでいました。
詳細スケジュールは出発5日まえに、やっと到着しました。

ロシアに行くには査証(ビザ)をとる必要があります。
そのビザをとるのはなかなか面倒なようです。
まずロシア国内での全日程、ルートを決めて、宿泊ホテルを決め、旅行社を通じて予約、全代金を日本で支払ったあとでないとビザをもらえないのです。
そして入国の時に渡されたレギストラーツィヤという紙を毎回ホテルに提出し、たしかに宿泊したことを証明するスタンプを押してもらわないと出国できないのです。
わたしたちは成田空港で降雪のため出発が遅れ、その日のうちにサンクト・ペテルブルグまでゆけなくなりました。そのためモスクワで一晩臨時に泊まりました。個人旅行だったら面倒なことになったのだろうと思います。

帰国の日、モスクワ・シェレメチュヴォ空港のゲートの前の待合所には椅子が足りませんでした。わたしたちの9番ゲート成田行きはボーイング777機ですから、乗客は300人ほどです。廊下に並んだ椅子は、始めから、もうぜんぜん足らないのです。
みんな諦めて近くの階段に腰掛けています。わたしもその仲間に入れてもらいました。

機内への搭乗案内が始まりました。ところが長い列の動きがときどき止まるのです。近くにいってからその原因がわかりました。
搭乗券を手でもぎっているのは女性ひとりで、20枚ほど集まると、机に向かって座席表に搭乗済みの番号を消し込んでいるのです。効率を上げるとか、サービスを向上させるとかのインセンティブがなかった共産主義時代から抜け出すのは容易ではないようです。

ガイドさんがキャッシュカードは使わないでルーブルで支払いなさいと勧めるのです。なにせ相手が馴れていないので、間違ったりその訂正に時間がかかったり、ともかく団体行動として大変困るということでした。
また、現地ガイドさんにもらった名刺にはeメールアドレスがありました。帰国後、メールを送ってみると届きません。
使った日本の旅行社に話すと「使うパソコンによって届かないことがあるようです。わたしがいま使っているのからも、届いたり届かなかったり・・・」と返事がきました。
ネットシステムの実態と、そのことへの不信感は、まだ相当なものです。

アメリカでは、見ず知らずの人と目が合うとニコッと笑いかけられます。
いつも、あわててこちらも口の端をゆるめては、外国へきたんだなと心を引き締めるのです。
ロシアの人たちは目が合っても、われわれ日本人と同様、さっとそらせるのが普通のようです。
朝7時に開くホテルの食堂に6時58分にいって、ドアをガチャガチャさせても開けてはくれません。そして7時になっても「お待たせしました。どうぞ」などいってはくれません。ただ入ればよいのです。
このように態度が違っても心が違うわけではなくて、どちらが親切とか不親切とかいうことは関係ありません。ロシア人はハニカミ屋のようにみえます。

【モスクワの兵器工場で、出勤してきた3人の男が逮捕された。
10分前に出てきた男はスパイ容疑で、10分遅れた男はサボタージュで、きっちりにきた男は日本製かスイス製の時計を持っていることが証明されたからだ。】



●二度目の夕暮れ
一日に2回、夕暮れに会ったのです。
普通の世界地図を見てください。縦の線(経線)がまっすぐなやつです。
東京とモスクワに定規を当ててみましょう。西に向かってソウル,北京、ゴビの砂漠、そしてあまり馴染みのないカザフなどを経てモスクワがあります。
でも、飛行機は最短距離をゆきます。最短ルートを知るためには、地球儀の東京とモスクワとのあいだに糸を張ると分かります。弛めば長いのですから、ピンと張るのです。まず、ウラジオストックに向かい北上します。その後、だんだん西寄りに進路をとり、バイカル湖の北端を経由、東経80度では北緯60度を越えるまで北上、真西に向かい、その後、やや南寄りに進路を変えながらモスクワに到着するのです。

この項目の話をするには、太陽が東から昇り西へ沈む、天動説のほうが説明しやすいのです。
太陽は1日24時間で360度回りますから、1時間で360÷24=15度東から西に動きます。
西瓜を半月形に24等分したことを想像してみましょう。真ん中が厚くて端っこは尖ります。おなじ15度でも、真ん中の赤道と端の北極で距離が違うことが分かりますね。
ジェット旅客機は強い追い風をうけると1時間に1000km以上も飛びます。
地球の赤道の長さは約4万kmですから、ジェット機は1時間で360×1000÷40000=9、約9度移動するのです。
さて西瓜を上の方で水平に切ると、小さな円になります。北緯70度に相当する位置で切ると、円周は赤道の0.38と短くなります。ここならばジェット機はおなじ1時間、1000kmでも、24度も飛ぶことになり、太陽の15度より早く移動するのです。
ジェット機が成田を出発し北北西に向かっている間は、太陽はどんどん西に沈んでゆきます。ところがシベリアの高緯度の地点で西に向かって飛ぶときは、太陽よりもジェット機のほうが早く回ることになり、それがたまたま夕方だと、いったん暗くなったのがまた明るくなるのです。
今回は、まさにそういう時間帯だったのです。

【問「わが国の首脳陣の半分は馬鹿だというのは、ほんとうでしょうか?」 
答「馬鹿げています。もしそうなら、あとの半分は馬鹿ではないということではありませんか」】



●サンクト・ペテルブルグ
サンクト・ペテルブルグは北緯60度、カムチャツカ半島の付け根ぐらい北の位置になります。この緯度では極東シベリアは寒すぎて人の住みつく都会はありません。ところがヨーロッパではメキシコ暖流のおかげで、北緯60度にもオスロー、ヘルシンキなど大都会があるのです。
サンクト・ペテルブルグは人口420万人、ロシア第2の都市です。前大統領のエリツィンがモスクワの出身であるのに、プーチンや過去の偉人レーニンがサンクト・ペテルブルグ出身とあって、東京と大阪のように張り合う気風があると、街の雀どもが申しておるそうです。
この街はソ連時代の名前はレニングラード、ドイツ軍に900日包囲されました。80万人の犠牲者を出しながら寒さと飢餓に耐え、守り通しました。
エルミタージュ美術館はサンクト・ペテルブルグの市内にあります。その収蔵品の質と量は大英博物館、ルーブル美術館に勝るとも劣らないといわれます。
ここを都と定めたピヨートル大帝の娘、エリザベータ女帝は無軌道、派手な性格で、金にあかせて宮殿の建設や美術品の収集に情熱をそそいだのです。次のエカテリーナ2世も強力なツアーリでしたから美術品の収集はさらにすすんだのでした。

レオナルドダビンチ25才の作品


エルミタージュ美術館にはレムブラントの作品がたくさん並んでいました。かれの作品をたくさん集中的に見て一種の陶酔感を感じさせてもらいました。
また、有名なレオナルド・ダビンチの聖母子の絵がふたつ、10mほどへだて、向かいあって飾られています。25才のときの作品のマリアは子供っぽい表情です。35歳のときの作品はまさに女に目覚めた女性の顔に描かれていました。
一枚のキャンバスに14の絵が、双六のように描かれている作品にも興味を引かれました。周りの小さな絵は、それぞれ人間が犬を使っていろいろの動物の猟をしている図です。中央には上下ふたつの大きな絵が配されています。
上は人間が大きな象の前に引き出されています。縄を持って引き立てているのは後足で立った熊です。象のしっぽを握っている実力者はライオンです。
つまり、人間と動物の地位が逆転して、人間が法廷に引き出されている図なのです。
下の大きな絵は、人間の同志である犬たちは絞首刑となり、木にぶら下げられています。人間は火であぶられ、動物たちにバーベキューにして食べられているのでした。

レオナルドダビンチ35才の作品

サンクト・ペテルブルグからバスで約1時間走るとプーシュキンという町に入ります。フィンランド湾からここまでずっと平らですが、ここまでくると標高40mほどのなだらかな高まりになります。
大戦中ドイツ軍はここまで進み、900日にわたってサンクト・ペテルブルグを包囲していたのでした。
エカテリーナ宮殿の近くでマイクロバスを降りると、軍楽隊の服装をした男たちが4人、トランペット、ホルンなどで君が代を演奏して迎えてくれました。そのおおげさな歓迎には、総理ならぬわたしたち庶民はすっかり度肝を抜かれてしまいました。アルバイトなのだそうです。
厳寒の土地ですから、管楽器のバルブのあたりは奏者の手を含めてダウンらしきウォーマーで覆ってありました。
この宮殿も、あの出来損ないのエリザベータ女帝が贅を尽くした建物です。
部屋ごとにドイツ軍が破壊した写真が展示してあります。ドイツ人はここは訪ねたがらないことでしょう。
琥珀の間の琥珀はドイツが持ち去り、いまだに所在不明とのことです。
この琥珀の間だけは撮影禁止になっています。琥珀はロシアの土産店でいっぱい売っているぐらいですから、世界に誇るものなのでしょう。
そういえば、ダイアモンドもロシアは南アフリカと競う生産国なのだそうです。
ここの大広間は、ロシアに漂着した大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に帰国させて欲しいと嘆願したところなのだそうです。
ロシアは日本に領土的関心を持っていました。それで日本との外交接点を求める意図を含んで帰国させたのであろうとされます。こうして幕末の北方領土問題のキナくさい時代へとつながってゆくのです。

【X線がレントゲンの発見だというのは誤りで、ロシア人なのだ。
すでに1604年ロシア貴族モロゾフが夫人宛に書き残している。
「オレはオマエのすべてを見透しだ。このバイタめ!」】


●歌劇、バレー、聖歌、民謡
サンクト・ペテルブルグ市ではマリインスキー劇場で「ルスランとリュドミラ」というオペラを見ました。大筋は白雪姫のようなものです。英語の文字が舞台の幕の上にでるので、おおかた理解できました。
いま、日本の能でも、同じような解説を流す設備があるようです。この劇場で自分が外人になってみて、くわしくない人にも結構わかりやすい方法だと感心していました。
この劇場は1847年設立、ソ連時代はキーロフ劇場と呼ばれていました。
チャイコフスキーが作曲した、魔女、クルミ割り人形、眠れる森の美女をはじめ、ほとんどのロシアの古典バレー、オペラミュージックはこの劇場から世にでたのでした。
安っぽい折りたたみ椅子を鉄のフレームにくくりつけたような固い座席でした。それに4時間座っているのは、ちょっとした苦行でした。
家族連れが多くて子供がたくさんいました。出し物にもよるのでしょうが入場料が割安なので、気楽にきて楽しんでいる雰囲気でした。このあたりの事情はウインのオペラ劇場でも同様に感じました。高価で堅苦しい日本の観劇のほうが特殊なように思います。

モスクワのボリショイ劇場では、バレー「眠れる森の美女」をみました。これも筋は白雪姫のたぐいに入れてもよいでしょう。ともかく知っているメロディーがでてくるだけに、よけいに楽しめました。
このボリショイ劇場に運命を託した音楽家は、グリンカ、ムソルグスキー、チャイコフスキー、リムスキーコルサコフ、プロコフィエフ、ショスタコービッチと枚挙にいとまありません。

バレリーナというものは美しいものです。西洋の女性はどうしてあんなに手や足が長いのでしょうか。とくに、腕から指先まで、計算され尽くした美しさを見せてくれます。あの伝統の長さと深さ、そして舞台の上で極度の緊張感を保ちつづける力量など、ただただ感心して見させてもらいました。

劇場の入り口をくぐり、頭や肩に積もった淡雪を振り落とし受付にゆくと、厳しい持ち物検査がありました。お姉さんがわたしのビデオカメラを指さして、決して撮るではないぞと厳しく警告しました。
ところが劇場内でロシア人たちは写真をバンバン撮るのです。だれだって開演前に、きらびやかな劇場内部をバックに自分の記念写真ぐらい撮りたくなりますよねぇ。
そしてそれぐらいなら撮っちゃいけない理由なんかないのだと思います。
ところが上演中にも結構撮るヤツがいるのです。とうぜん舞台までフラッシュがとどくわけもないのですが、ときどき客席でフラッシュがピカッと光っていました。

この違法フラッシュ撮影はボリショイ劇場でもマリインスキー劇場でも同様でした。
いまロシアのこの階級の人たちにはデジカメが大流行のようです。みんな嬉々として撮りあっていました。
そんな彼らを見ながら、わたしは昔、従兄弟から聞いた話を思い出しながら感慨にふけっていました。
わたしの従兄弟の家族は第二次大戦敗戦時、朝鮮のソ連国境に近い羅津にいました。叔父が教員をしていたのです。
叔父は戦後の混乱のなかで発疹チブスで亡くなってしまいました。そして叔母と二人の子供が着の身着のままで日本に帰ってきました。叔母は当時の大宮市の旅館で女中をつとめ、従兄弟は名古屋のわたしの家に寄宿していたのでした。
従兄弟は、ソ連軍が入ってきて日本人から腕時計を略奪し、3つも4つも腕にはめていたといっていました。
かれはロシア兵のことを露助(ロスケ)たちが、といいながら、かつは憎み、かつはその頭の弱さ軽蔑しておりました。

今度のロシア旅行からもどり成田から東武電車に乗り込むと、向かい側に座った7人のうちの3人がケータイをつつきだしました。そのとき「ああ、日本に帰ったのだな」と強く感じたのです。
ロシアでもケータイは使われています。モスクワのように駐車場がなくて交通渋滞が常態になっているところでは、パックツアーのガイドにとってケータイは必需品だといってもよいでしょう。
でも、ロシア全体でみると、ほぼ半分の人がいまでも電話なしで暮らしているといいます。ぜんぜんケータイ中毒が蔓延している状態ではありませんでした。
いったい、あのロシア人たちが、ちいさなケータイを指でつついて「君を好きだよ」などメールしている情景が似合うとは思えないのです。かれらなら、直接、自分の口でいうでしょうね。

劇場でデジカメのフラッシュを光らせているロシア人たちは、腕時計を一杯腕につけていた兵隊さんの孫たちなのでしょう。新しい玩具を手にしたことが嬉しくて仕方ないといった風情でした。おそらくフラッシュがどの距離までとどくとか、フラッシュを除外することができることなど知らないのだと思います。
1億4千万人のロシア人たちを一括りにできるわけはありません。でも、エリートではないロシア大衆に限れば、機械との相性がよいようには思えませんでした。
たとえてみると、透き通るような伊万里の磁器に比べた厚ぼったい常滑の土管、京都のお公家さんに対する田舎のお百姓とでもいったような素朴さが感じられるのです。
だから、あの上演中のフラッシュでも、わたしはおおらかに許したくなりました。目くじらを立てては、いかにも島国根性といった感じになるのではないでしょうか。

ボリショイ劇場の入場券だけは日本で旅行社経由で購入しました。ここだけはぜひ観たいと思っていたからです。まずはインターネットで探しましたが、わたしには見つけられませんでした。ロシアではインターネットが日本ほど普及していないのだろうと思います。
チャイコフスキー劇場にもゆきたいと思っていました。でも、ここなら現地ホテルで買えばいいと判断し、事前には購入しませんでした。
現地で買うにあたって、個人旅行ならば切符を買ってから次の行動に移ればよいのですが、パック旅行では共同のスケジュールが優先です。なかなか思った場所、思った時間をとることができませんでした。
モスクワ市での泊まりはロシアホテル、5500室もある大ホテルです。ここで時間を盗んで案内所にゆき、どこで切符を買えばよいのか尋ねようと思いました。でも、大ホテルだけあって案内所に大勢お客が詰めかけていました。列を作るでもなく勝手に係を捕まえて質問していました。あんな大男たちに伍して、ロシア語で話をするなんて思いもよりませんでしたから、さっとチャイコフスキー劇場はあきらめました。
ついでながら、かってはソ連の栄光の象徴であったこのホテルも、あまりにも巨大であるため、万事において非能率で、来年閉鎖されることが決まったそうです。
われわれ一行のうち3人は、日本でチャイコフスキー劇場のでチケットを用意され、首尾よく見に行かれました。あとで音楽会の様子を聞かせていただいたのです。「ロシアのお祭りのテーマ」という出し物でした。各地方の民族衣装で、ソロあり、大合唱あり、大変に楽しい夜だったそうです。観客も有名歌手が登場すると舞台に近寄り握手を求めたり、花束を差し出したり、写真はバチバチとるし、観客席で自薦指揮者をつとめる人がでてきたり民謡大会みたいな盛り上がりだったそうです。
チャイコフスキー劇場といえども、紳士面してシンフォニーなど聴いているばかりじゃないんですね。

そうそう、わたしがマリインスキー劇場にいった夜のことです。おひとりでサーカスを観にゆかれたかたの知見をご紹介します。
ロシア男性の案内人が連れていってくれたのですが、席がわからないといけないと、親切に席のところまで案内してくれたのです。その男性が改札のところで「席に案内したらすぐ戻るから」と切符切りのおばさんにいったところ、「保証におまえの帽子をあずけてゆけ」といったそうです。帽子なしでは寒くて死んじゃうものねと感想を述べておられました。

スズダリでのスケジュールには、ロシア民謡付きの夕食と書いてありました。
ほかのお客さんたちと一緒に、ボヤーと眺めているのかと思っていましたら、わたしたちが主賓格になっていて、挨拶され正面で演じてくれました。
すべて素晴らしかったのですが、なかでもノリの良さは最高でした。
よそのテーブルから、盛んに口笛や拍手がとびました。
わたしたち日本人といえば、ときどき手拍子をうったほかは、静かに聞かせてもらっていました。
そのうち、きれいなロシア娘がダンスに引っ張り出しにきました。
最初は添乗員さんが誘われました。これは給料のうちですから、当然のつとめだと思っていました。
何曲かめにもう一回誘いにきました。こんどは男性の番です。
ピンチ!、男はわたししかいないじゃないですか。
こんなとき、若いころは牡蠣が殻にしがみつくように椅子にしがみついて離れなかったものです。
でも、いまは大人です。流れにまかせていれば一番無難に過ぎ去ってゆくことを知っています。素直に手を引かれました。
楽団の何人かと手をつないで輪になって回ったり縮まったり、ふたりが手を挙げて門をつくっている下を潜ったり、まあ、幼稚園の子のようにかなりドタバタしたのです。
戻ってくると、仲間から、ずいぶん激しい踊りでしたねといわれました。
そしてナプキンをつけようとして気がついたのです。社会の窓、当節では非常口ともいうようですが、ズボンのチャックが閉まっていなかったのです。
年相応の認知症はしかたないとして、日頃家でトレパンで過ごしているせいでチャックと縁遠くなっていると、いいわけさせてください。
ま、とんだ「みっともないでショウ」を披露してしまいました。

スズダリの修道院では、ちょうど合唱のパフォーマンスに出くわしました。
男性3人による聖歌です。
歌い出しの柔らかな幽かな歌声に、いきなりこの世ならぬ雰囲気を感じました。
素晴らしいハーモニーでした。
わたしがもっともうたれたのは、声の柔らかさ、声量の巾、そしてたっぷりした余裕でした。100ワットの能力のあるアンプ・スピーカーシステムを10ワットで使っているとでもいったらよいでしょうか。
声量をしぼったところでもはっきりきこえるのは、教会堂の構造と歌手の立っている位置が計算し尽くされているのでしょう。

セルギエフ・ポサートの修道院の礼拝堂では信者たちが長い列を作って聖壇にぬかずき祈りを捧げていました。蝋燭の煙ですすけた暗い聖堂に、女声賛美歌が絶えることなく流れていました。これも柔らかく静かで神秘的な雰囲気を醸成していました。
あと何年わたしの寿命があるのかしれませんが、ロシアで生の教会音楽を聴いたお陰で、ヘンデルやバッハのこのたぐいの調べを、これからはイメージを持ちながら聞くことができるようになったのは、まったく有り難いことでした。

【ブレジネフがソフィア・ローレンを迎えます。
「どんな願いでもかなえてあげよう」
「どうか、おねがい、希望者を全員出国させてあげて」
「ソフィア、まさかとは思ったけど、ほんとは二人っきりになりたいんだね」】



今日もネギ坊主 明日もネギ坊主 そして華麗な十字架

・モスクワ

●ロシアの雪は滑らない
なにせ3月のロシアです。日本に帰ってから「寒かったでしょう。雪はどうでした」と、よく聞かれます。
たしかに寒かったのですが、零下16度の乗鞍高原スキー場でリフトに吊られ、風に吹かれているほど寒くはありませんでした。
そして、いったん家に入れば、いまこうしてパソコンのキーを叩いているよりはるかにぽかぽかと快適な環境でした。
用心のため持って行った厚手のセーター、いざというときのためのホカロンは使わずじまいで帰ってきました。

モスクワで、アルバート通り観光という行事がありました。ガイドさんが「長さ約1kmです」といいました。そして外務省の向かい側で車を降ろされ、集合までの自由時間は45分と指示されました。
ここは若い人の街、いわばモスクワの原宿なのだそうです。野暮天で足ばかり強いわたしは、この通りを終点まで歩き、また道の反対側を帰ってきました。そしてスーパーで我が家の犬たちのお土産にしようとビスケットを買ったら、もうタイムアップでした。
このアルバート通りで雪に滑り、膝をついてしまいました。脇見をしていて、マンホールの鉄の蓋に乗ってしまったためでした。
これが今度の旅行中、唯一のスリップだったのです。
今回の旅で屋外を歩いた距離の80パーセントは雪の上でした。
ロシア人たちは、まったく気にしないで普通に歩いていました。ロシアの雪は滑らないうえ、かれらが雪道に馴れているのと、靴の裏が雪用になっているのだろうと推察します。

わたしは長野市に3年間、単身赴任をしていたことがありました。だから都会の雪道には経験豊富だと自認しています。今回は荷物を増やしたくありませんから、普段履いている革靴をベースにして、緊急用に軽アイゼンを持ってゆきました。結局、軽アイゼンを使うチャンスはありませんでした。
そして滑る雪と滑らない雪があることは知っていましたから、あちこちで靴の裏をわざと滑らせて、どれぐらい滑るか調べながら歩いていたのです。
そんなに注意深く測定した結果として、ロシアの雪は滑らない、などいう過激な発言をしているのです。
どう考えたらよいのでしょうか。ひとつは温度が非常に低いと、踏まれて圧力がかかっても融けず、粉体のまま、つまり砂の上を歩いているように摩擦が働いているのでしょう。
さきほど述べた、スリップしたアルバート通りでは、マンホールのふたでなくてもよく滑りましたから、そのときの温度だけではなくて、温度が上がり勾配なのか下り勾配なのか、雪の粒が細かいのか、結晶が発達しているのかなど、いろいろの条件で人間が歩く場合の滑りやすさが左右されるのだろうと思います。

アルバート通り観光が終わったあと、わがグループの女性のひとりに「ロシアって年寄りが歩いていませんね」と話しかけました。彼女は「ここは若い人の街ですから」とわたしを哀れんでくださいました。
でもこのわたしのコメントは、ロシアの一般論として申したのでした。じっさい、ロシアではどこでも老人が歩いている姿は滅多に見かけませんでした。
ガイドさんは男の平均寿命は59才だといいました。これは日本では昭和25年頃のレベルです。半信半疑でしたからあとで調べたのですが、実際、そのあたりであることは間違いないようです。
私のようなジジイは、もうちゃんと死んでるか、家にじっとしているのでしょう。

【同志フルシチョフは国連で机を靴で叩いて演説した。資本主義国はこれを粗野な行動だとして非難した。
しかし、実は大変に愛国的な行動だった。ソ連でも立派に靴ができることを示すためだったのだ】


●クレムリン宮殿
クレムリン宮殿には、通路のわきに大砲の王様と、鐘の王様が展示してあります。
大砲の王様は1580年フョードル帝の時代、日本では本能寺の変のころ、につくられました。長さ5m、口径89cm、厚さ30cm、重さ40トン、それが19世紀につくられた70トンの台車に乗せられています。大砲の前には重さ1トン、直径1mの弾丸が4個積んであります。もう一回数字をみてください。弾は砲身に入りますかねぇ。


鐘の王様は1735年、アンナ女帝がつくらせました。高さ6m、重さ200トンといわれます。完成間近、工場に火事が起こり、水をかけたため割れてしまいました。だから一度も鳴らしたことのない鐘なのです。
このふたりの可哀想な王様を、日本でいえば皇居前広場のようなところに堂々と飾っておくセンスは、完璧主義の日本人にはないものです。
ズボラなわたしは、ひょっするとスラブの血が流れているのかもしれません。

【スターリンが死んでクレムリンの鐘が鳴っていた。
クレムリンに電話がかかってきてなぜ鐘が鳴っているのかと問い合わせがあった。
スターリンが死んだからですと答えた。またすぐ電話がかかり、同じ声で同じ質問があった。始めのうちは親切に答えていたが、あんまり何度も聞いてくるので、なぜ何度も同じことを聞くのか!と怒鳴りつけた。
電話の主はいった。「なんべん聞いてもよいものです」】



●ヨーロッパの端の国
モスクワのクレムリンの赤い城壁の上部には、燕の尾を象ったといわれる飾りがずらっと並べられています。
この飾りはイタリア人が設計してくれたものだと解説がありました。
そういえば、サンクト・ペテルブルグでエルミタージュ美術館やエカテリーナ宮殿、ペトロパブロフスク教会を見ていたときも、これはイタリア人ラストレリが、あるいはドイツ人クレンツェが、スイス人トレジニが設計してくれたものだと、優れた外国人にやってもらったお陰でよいものができたとばかり自慢しているようにも聞こえました。 
ロシアの人たちには、日の光が燦々と降り注ぐ南の国には、素晴らしい文化や技術をもった人たちが住んでいる、”君よ知るや南の国!”という潜在的な、あこがれがあるようです。
日本でいえば元禄のころ活躍したピヨートル大帝は、ロシア近代化の父ともいわれ、ヨーロッパへの窓を開いたとされます。かれはイギリスの造船所で自ら働いて知識を吸収したのだそうです。
また、絶大な権力を振るった女帝エカテリーナ2世は、ドイツ生まれのドイツ人でした。

第二次大戦後の冷戦時代、ソ連は一方の雄として国連の常任理事会で、西側の諸提案にたいして、拒否をあらわす「ニエット」を連発し、おおいに存在感を高めていました。
その時代には、人類の初飛行がライト兄弟ではなくソ連人だったとか、新発明、新発見の類はみなソ連だと主張し、国際的な顰蹙を買っていたものでした。
わたしには、この行為は、自分たちがヨーロッパの文化の中心からはずれた端っこにあるという、長年染みついた自覚からくる、コンプレックスの裏返しではなかったかと思えるのです。

1917年7月、最後の皇帝ニコライ二世夫妻、5人の子供、4人の従者は銃殺され、この惨劇の事実はソ連時代には封印されていました。
ソ連崩壊後の1998年、遺体はサンクト・ペテルブルグのペトロパブロフスク教会に埋葬されました。本堂に付け足した部屋にお棺があります。
ガイドさんは「もともとロシア人も日本人と同じで遺骨を大事にします。ソ連時代はそれができませんでしたから罰が当たり、情けない国になってしまいました。いま、ここにちゃんと埋葬しましたから、これからロシアの若い人にがんばってもらい、日本のような立派な国になって欲しい」と栄光の再来を願っていました。

そういえば今回は厳冬期のため閉鎖されていましたが、普段は赤の広場のレーニン廟でレーニンの遺体が観覧に供されているのです。
またロシアのあちこちの教会では建物のなかに、お棺がところせましと並べられていました。
ウラジーミルの教会では、ピヨートル大帝の遺体はサンクト・ペテルブルグにあるが、大帝の指一本だけはここにあるとのことでした。棺桶と同じ大きさの箱の上面がガラスになっていて、真ん中に指の断面が丸く見えていました。
かって訪れたウィーンでは、ハプスブルグ家の人たちの遺体が腑分けされ、いくつかの瓶に収めて保管されていました。エジプトのミイラといい、遺体の取り扱いも天と地の間にはいろいろのことがあるものです。

【広場の交番に、中年の男が血相を変えて飛び込んできた。「たったいま、大切なロシア製の時計を行きずりのスイス人に奪われてしまったんです!」 警察官は意味がよく呑み込めなかった。「落ち着いてもう一度話してください」
すると男は同じことを繰り返した。「ははーん。あなたはいうことを取り違えているんだよ。あなたがいいたいのは、大切なスイス製の時計を行きずりのロシア人に盗られたということだね?」
中年男は落ち着いていった。「おまわりさん、いまのことは、あなたがいったんですよ。私ではありませんからね」】


●地下鉄
旅行社から、夜の観劇には治安や遅い時間を考えると送迎をつけることをおすすめしますといわれていました。
わたしはいままで、どこででも、公共交通機関でもレンタカーでも、その土地の人と同じように使うのを原則にして旅してきました。
そんなわたしを、旅行社の人や現地のガイドさんは心配してくれました。
わたしはガイドさんに「でも、ロシアの人なら、ボリショイ劇場に地下鉄で行くんでしょう」といってみました。すると「そうですが、あなたは外国人というハンディはあります。でも、同じことがニューヨークでも、東京でも起こりますよね」と、極めてまっとうな返事をくれたのです。責任問題がありますから、安全な方法を勧めるのは当然ですが、旅行社も警察もスリたちも、本心はこのガイドさんと同意見でありましょう。
最初、ボリショイ劇場には地下鉄で行くつもりで調べました。まず1区間乗りそこで乗り換え、あと2駅目で降りるのが順路のようでした。でも、ホテルについてからよく調べると20分も歩けばよいことがわかりました。
生憎、淡雪がバサバサ降る夜でしたが、結局歩いて往復しました。帰り道で、たまたま同行の女性おひとりと一緒になりました。彼女も送迎を頼まなかったのですが、黙っておられたので気がつかなかったのです。大和撫子の大胆さに最敬礼させられました。
最後の日、みんなで地下鉄に乗ってみました。ひと駅乗り、また戻ったのでした。深さとか豪華さで有名なモスクワの地下鉄ですが、いまとなっては暗く車体が狭く、わたしは感激しませんでした。
乗客は膝繰りあわせ行儀よく座っていて「公共のエチケットはGDPと反比例する」という公徳心の法則を証明するデータがまたひとつ増えました。
ホームの巾が名古屋の地下鉄駅の2倍ほどもあり、三列に分けてあって、真ん中が通路兼待ち合わせ場になっていてベンチがおいてあります。
エスカレーターの速度がかなり早くて、これはわたし好みでした。

【戯曲“コーカサスの農婦”はソ連共産党の批評家から社会主義リアリズムの傑作というお墨付きをもらった4幕ものだった。
これを上演したモスクワのタガンカ劇場には、つぎのような張り紙が出された。
ーお帰りは2幕目が終わってからどうぞ。1幕目の後は出口が大変混み合いますー】


 ●チャイコフスキー博物館
モスクワから北西に、コリン市までバスで2時間ほど走りました。

街をはずれた道路際に延々と続く塀に囲まれた広場にくると「ここは特殊部隊の練習場です」と説明がありました。例のテロなどがあると出動する精鋭部隊の駐屯地なのでした。
ロシアではほかの国よりも兵隊さんの姿がよく目についたように思います。思いかえすと中国もそうだったと思います。
実際に軍人の数が多いかどうかは知りませんが、誇らしげに軍服で外出するお国柄であろうとは思います。

バスで走っているうちに「このあたりで地下の泥炭層に火がつき、なかなか消すことができずに、その煙がモスクワまでとどいたと」いう説明がありました。
気温の低い場所では樹木が倒れて水に浸っていると、腐らないで炭化し、積み重なり泥炭層をつくるのです。
こんかいロシア西部のあちこちを回りましたが、一番高いところはウラジーミルの教会が建っている高台で、標高はたった130mでした。ここから一番近いフィンランド湾まで600km、名古屋から仙台あたりまでもあり、平原の広さはまことに驚異的であります。
そんな平らなところで、倒れた木が水浸しになり炭化している様子は想像に絶するものがあります。泥炭は質は悪いながら化石燃料の一種です。そこまで手をつければ、莫大なエネルギー源が眠っているのでしょう。

「道路の周りに見える家は別荘です」という解説が何度もありました。
これは日本流の別荘、つまり景色がよくて静かなところでゆっくりしようという別荘ではありません。ダーチャと呼ばれる、街にすんでいる人たちの家庭菜園で、その面倒をみるために寝泊まりするための出小屋といったものなのです。家庭菜園といっても道楽ではなくて、とれた野菜を、自給、あるいは販売にまでまわし生計をささえる目的をもっているのです。
まるで大海のような森のなかに、ときどき30戸、50戸というダーチャが、冬のことですから、窓は灯点ることもなく、寒々と雪原の中に肩を寄せ合っていました。

チャイコフスキー博物館はクリン市という、ちょっとした街にあります。
かれが最晩年を過ごした家で、ここで交響楽第6番『悲愴』を作曲したのです。
かなり大きな、ブルーの外壁に白い窓枠の、角張った造りの家でした。昨年4月に火事で焼け、復旧工事中でした。まだ、壁の外に足場が組まれた状態で、この建物の中は見ることができませんでした。なんでも、プーチン大統領から早く修理を完成させるようにと特別に指示があったとのことです。でも、わたしたちが訪ねた日には、工事する人の影はありませんでした。
館の前は公園になっていて、チャイコフスキー国際コンクールの優勝者が白樺の木を記念植樹する風習になっているそうです。
そういう事情から本館がみられないので、小コンサートホールに部屋の模型や、遺品類が展示されていました。
チャイコフスキー(1840〜1893、明治25年没)は、グリンカなどに始まる国民楽派に対して西欧楽派と呼ばれます。ロシア的素材のうちに西欧のスパイスを多く取り入れることによって、まったく新しい分野を切り開いたのでした。
近い時代の人ですから、子供時代からの写真がありますし、なによりも案内してくれたおばさんが、まるでチャイコフスキーの親類じゃないかと思えてくるほど、くわしく、また親しげに説明してくれました。
かれが幼くして並はずれた音楽才能を示していたこと、法律学校を卒業し法務省の役人になったこと、課長待遇の安定した収入を捨てて作曲家になったこと、オペラ歌手との恋愛を結納まで進めながら、結婚はどちらかの才能発揮を阻害するからという理由で思いとどまったこと、サンクト・ペテルブルグで生水を飲んだためコレラにかかり死去したことなど、ここのロシアのおばさんの話にだんだんに引き込まれてしまいました。
日本でも大変好かれているチャイコフスキーの生涯にひたりきった時間は、ここを訪れてこそ得られる貴重な体験でした。
そういえばサンクト・ペテルブルグを観光中、「生水を飲んではいけません」と注意されたときに、へそまがりのわたしが「飲むとどうなるんですか?」と聞き返したことがありました。現地ガイドも添乗員さんも返事に困られました。
「どうなるのか、ぼく、ちょっとだけ飲んでみようかな」わたしがそういうと、ふたりとも血相を変えて、絶対にいけませんといいました。
正直の話、国民的大作曲家チャイコフスキーが、ペテルブルグの生水を飲むとコレラになるという潜在意識を植え付けたのだと推測しているのです。

【ソ連ではステレオ装置は不要だ。ステレオがなくても四方八方から同じ言葉が繰り返されているからだ。】


●我慢強さ
ロシアの車は右側通行です。
CTONという標識は、ロシア語ではC=S、N=Pですからストップと読むのです。自動車が導入されてからストップという行為が発生したのでしょうか。
交差点は欧州流のロータリー式ではなくて、日本やアメリカと同じ直角交差、信号灯方式です。
都市の渋滞は大変なものです。
車線を示す白線は見えませんでした、わたしが見たのは冬の積雪期のことですから、雪のないときのことは知りませんが。
ともかく車線という概念が希薄なようです。しかし、現実には自然発生的に広い道路を6車線、7車線というように走っていました。いや、走っていたのではなくて、尺取り虫のようにうごめいているのです。やたらに車線変更をしますし、脇から合流するところではルールがないようなので、全体の流れが停滞しています。
大通りに平行する細い裏道も、路肩駐車が物凄いし、すり抜けようとする車が数珠繋ぎになっています。
最後の日の昼食のときに「空港まで何時間かかるのか」とガイドさんに聞きました。「1時間か、2時間」との返事でした。まるで予想がつかないところがロシア風であります。
こんな様子を見ていて、つくづく、ロシアの人って我慢強いのだと思いました。
どこかの国でしたら「都市高速道路をつくって渋滞を解消させろ」「都市の美観を破壊し環境を悪化させる高速道路の建設絶対反対」などもめるものです。ここでは、市民がおたがいに頭に血をのぼらせずに、ただただ耐えているようにみえます。
我慢する心を育てるのに功績があったとして、カラオケがイグ・ノーベル賞を授与されました。でも、我慢する心を育てるのには、ロシア人の置かれた過酷な環境のほうが勝っているのだとわたしは思います。
ロシアの人に生まれつきそなわった我慢強さこそ、都市交通問題の一番基本的な解決方法なのかもしれません。

モスクワからサンクト・ペテルブルグへ向かう街道は、レニングラードがソ連崩壊のあとサンクト・ペテルブルグと改名されたいまも、昔どおりレニングラード街道とよばれています。
都心から30分ほど走ったあたりに、第二次世界大戦でドイツ軍がここまで攻めてきたという地点に、長さ5mほどの鉄材を3本を消波ブロックのように結合した対戦車バリヤーがおいてありました。
モスクワから東に向かう主要道路でも同様でした。
ロシアは建国以来、13世紀にはドイツ騎士団、その後もスウェーデン、モンゴル・タタールなどに攻め込まれたのでした。
セルギエフ・パッサートの修道院では、16世紀にポーランド軍に攻め込まれたとき、この修道院を砦にしてついに守り通したという説明を受けました。
19世紀にはナポレオンに攻め込まれ、20世紀にはヒットラーに攻め込まれたのです。
第二次世界大戦では、ソビエト中で2400万人もの犠牲者がでたといいます。
しかし、結局、大戦の最後はドイツ、日本に勝ったのでした。
アメリカが付いていたソビエトが日本に勝ったというべきなのかもしれません。そういう言い方をするならば、日露戦争ではイギリスが付いていた日本がロシアに勝ったというべきでもありましょう。
アメリカ嫌いも格好をつけるのにはよいでしょうが、当分は頭を冷やし、どちらが身のためか考えたほうがよろしいかと思います。
自前のソビエトと自前の日本が戦った例として、1939年に起こった中国東北部ノモンハン事件があります。最初こそほぼ互角でしたが、ソビエトが腰を据え機械力を投入してきてからは、日本軍は散々な目にあったのでした。
日本軍の失敗には沢山の教訓が含まれていました。いちばん残念だったのは負けた原因がなにだったのかという教訓を活かさなかったことです。
なぜ負けたのかと原因を追及するのではなしに、戦に負けた指揮官たちが悪かったのだ、不名誉だときめつけ、負けた事実をひた隠しにしたのです。
いまから振り返ると、このノモンハンで負けたと同じパターンで、1942年から1945年まで、太平洋戦争で連戦連敗し、沢山の命を無駄に失ったのでした。
戦争から反省してでてくる究極の結論は、戦争を避けることでありましょう。そして、相手から仕掛けられたりしてどうしても避け得ないときは、ピンポイント攻撃などにより、最小の犠牲者で目的を達することでしょう。
そのノモンハンで、ソ連軍の指揮をしたジューコフ元帥の颯爽たる馬上姿の銅像が、クレムリン宮殿の前の広場にありました。

ソ連は冷戦時代にアメリカと対等に渡り合った国です。人工衛星、有人宇宙飛行、原子力発電などを世界で最初に実現させた国です。また強力なミグ戦闘機を友好国に輸出した国でもあります。
こんどロシアを旅してから、自分の目で実情をみたことのほか、本を読んだり、情報を聞いたり、ともかくロシアについての知識がふえました。
その結果、いままでロシアを買いかぶっていたように感じています。
ロシアは地政学的にも資源面でも、けっしてアメリカほどには恵まれてはいません。したがって豊かな国ではないといってよいでしょう。
それなのに、古くはエルミタージュ美術館、エカテリーナ宮殿、クレムリン宮殿などを残し、新しくは共産党による計画経済社会の実験、冷戦の一方の雄の役をふるまってきたのです。
そんなことができたのは、豊かではない国民のポテンシャルを力ずくでかき集め、それを集中的に使った結果といえるのではないでしょうか。
その体制が国民の意思であったかどうかは別として、現実にそれが可能であったことが、ロシア国民の文句をいわない我慢強さを証明しているように考えます。

【全欧州首脳会議にプーチンが難題を突きつけた。アダムとイブがロシア人だったことを承認せよというのだ。
各国首脳が難色を示す中にドイツのシュレーダー首相があっさり承認した。
「ふたりがロシア人だったことは間違いない。衣類もろくになかったのに、自分たちが天国にいると信じていたんだから」】


●スズダリ

スズダリはモスクワの東北220kmにある古い都です。鉄道が通らなかったので環境破壊をまぬがれているのです。
工場などないので、雪が汚れず、いつまでも真っ白でいるのだと自慢しています。
例のネギ坊主形の塔をもった教会、修道院がたくさんあります。そんなところに新しいのっぽビルが建ったのではぶちこわしです。2階以上の建物は禁止されています。わたしたちが泊まった新しい大きなホテルも2階建てでした。
このスズダリに、ソ連時代は労働組合の団体さんの安いツアーが多く、年間200万人もきたものだそうです。それがいまは130万人、もっとくるようになって欲しいものだと、キノコやキウリの漬け物を売っているお婆さんが話していました。


ペトリョーシカがこんにちは スズダリ


ここの一番古い教会は12世紀中頃、日本でいえば平清盛の時代のものです。ウラジーミル公国時代のものであります。ロシアが統一国家になったのは15世紀ですから、ロシアは意外に新しい国なのです。
人口約1万人のこの町に男子修道院がひとつ、女子修道院が2つあります。
女子修道院に付属する教会堂でおこなわれている朝のミサにゆきました。黒装束の女性がひとりひとり祭壇でお祈りし、胸に十字を切っては教会堂をでてゆきました。
この女子修道院だけではなく、どこでも、お祈りしている人たちの態度、表情は真剣そのもので、伊勢神宮で柏手を打っている人たちや、観音巡りでバスからゾロゾロ降りてくる人たちとは大違いでした。

スケジュール表には「スズダリで、画家との交流会、昼食」というのがありました。言葉はわからないし、絵に興味があるわけではないし、どうなるものかしらと思っていました。
村の住宅街にある一戸建ちの画家の家で、昼食をごちそうになりました。
家庭でのおもてなしを切り盛りするのは女性軍です。
その総司令官は若くて美しい奥様でした。おばあ様も白い最上等のお洋服をお召しになって出てこられました。
食事のお運びは小学校2年生の娘さんです。もうひとり3才の娘さんがいました。わたしたちにプレゼントしてくれるのに、お姉さんがあの人にはもう渡したから持ってゆくなと肘を張って妹が近づくのを妨害しました。わたしは小さい妹に「頂戴」という仕草をしました。彼女は自分も渡して満足でした。ふたつもらったプレゼントのひとつは机のうえにわざと忘れてきたのですが、ガイドさんが気を利かせて持ってきてくれました。
お母様の命令でお姉さんがピアノを弾いてくれました。すると3才の妹も、わたしも弾くというのです。とても上手に、むちゃくちゃに弾いてくれました。
日本からきたおじいさん、おばあさんはこんな可愛い子供をみると、ウルウルになるのです。
わたしといえば、おばあさまを捕まえて、自分を指さし、指で75才とやってみましたが通じたとは思えませんでした。
訪れたのは銀世界のスズダリでしたから、若草萌ゆる季節はこうでもあろうかと想像しながら、春のスズダリ寺院の絵を1点求めました。
天気のよくない冬のロシアも、この半日だけは明るい日差しに恵まれました。一生懸命もてなそうとしてくれるこのご家族に、よいことのありますようにと真剣にお祈りしました。
 こういうのをロシアの人との交流会というのでしょうか。

【問「息子が生まれました。憲法には信教の自由が保証されています。息子に洗礼を受けさせてもよいでしょうか?」
答「もちろんいいですとも。でも、どこでできるんですか?」】


●ロシア正教
ソ連が崩壊したのは約15年前です。それまで約70年続いたソ連時代、共産主義では宗教はアヘンだとされ、あらゆる宗教が迫害されていました。
あちこちの寺院で、80年ほど前、いわゆる労働者諸君がハンマーを振るって寺院を破壊している写真が掲示されています。

現在、ロシアではロシア正教が主だそうです。
ウラジーミル大帝が988年ギリシャ正教をロシアの国教としました。
そのいきさつが、おもしろおかしく語られています。
それまでの原始宗教は時代遅れだと考えたウラジーミル大帝は、いくつかの宗教者から話を聞いたのです。
肉食と飲酒を禁ずるイスラム教、一夫多妻と離婚を禁ずるカソリック、放浪者のユダヤ教はいずれも落第し、肉食、飲酒、離婚がOK、豪華な装飾と荘重な儀式をそなえたギリシャ正教が合格したというのです。
ロシア正教はカソリックとよく似ていますが、像でなくイコン(宗教画)を飾ること、椅子に座らず立ったまま儀式をおこなうこと、賛美歌を楽器なしで歌うこと、告白室がないことなどの違いがあるのだそうです。
いままでキリスト教に関しては、大まかにカソリックとプロテスタントしか意識にありませんでした。そしてここでロシア正教がカソリックに近いといわれると、いまさらながらカソリックについてもほとんど知識がないことに気がつきました。
キリストの弟子たちの時代から、東方教会、ギリシャ正教、ロシア正教、イギリス国教など、どのようにして分かれたのか、どこがどうちがうのかなど、またローマ法王との関係がどうかなどについて、わたしにはものをいう資格があるとは思いません。
したがって、周辺の目についた印象記述に逃げ込みます。
今回のツアーで、じつにたくさんの寺院、教会、修道院を訪ねました。間違っているかもしれませんが、すべての修道院に教会堂は併設されているもののようです。
ソ連時代、宗教が抑圧されていた時期、これらの建物は博物館になっていた例が多いようでした。
しかし修道院というものは博物館だけではなくて、長い歴史の中で、あるいは城塞として、また監獄としても使われたことは、どこでも同じことのようでありました。昨年秋に訪ねた世界遺産、フランスのモンサン・ミッシェルだってまさにそのとおりだったのです。
スズダリの修道院も監獄として使われた時代がありました。
トルストイが入れられる予定だったそうです。またここは第二次大戦でドイツやイタリアの将軍たちの捕虜収容所としても使われました。その中にドイツのパウルス大将の名を聞いたとき「へへえ」と思いました。フリードリッヒ・パウルスは1942年スターリングラード攻防戦で壊滅したドイツ第六軍24万人の司令官です。その名を知っている人間は世界でもだんだん少なくなって、ガイドさんの説明に反応するのもわたしが最後かもしれない、そのときはそう思ったのです。
ところが最近、若い人から、スターリングラードで包囲されたパウルス大将なら、パソコンのゲーム・オタクたちが知ってるよ、といわれてしまいました。独ソ戦のゲームソフトがあるんですね。

クリン市で訪ねた教会は、ソ連崩壊後に新しくつくられたものでした。そして、イコンを作って販売するなど、活発に活動しているようでした。
わたしが「共産党政権による70年間の宗教弾圧の中でも、ロシア正教はちゃんと生き続けてきたのですね。ロシアの人たちが信心深いことには感心させられました」と感慨を漏らすと、ガイドさんはちょっと気に入らない様子でした。
ひょっとすると、かれはソ連時代には体制派の人だったのかもしれません。
このときの反応で、わたしの海外旅行の感想が、細いストローの穴から世間を覗いているようなものであることを思い知らされました。
1000年以上続いてきた宗教が、70年間の共産党時代に弾圧され絶滅させられたのではないかなどと思っていたほうがおかしいのでしょう。
どうしても近い時代のことのほうが大きく見えるものです。

ソ連崩壊後にできたロシア正教教会

リストラも民営化も結構でしょうが“他人からしてもらいたいように、他人にもしてあげなさい”という、心の持ち方を大事にする教えは、長い人類の歴史から得られた知恵だと思うのです。
あとわずかな人生です、あまりばたばたしたくないと思いました。

【ソ連の教会は信心深い人でいつも一杯になっている。
この人たちはプーチン大統領のために熱烈に祈っている。
かってこの人たちはスターリンのために祈っていた。
信心深いイワンは、疑問を持ち司祭に聞いた。
「祈る人をそう簡単に変えてもよいものでしょうか」
司祭は答えた。「とんでもない!それともあなたは、スターリンがまだ生きていたらよかったとでもいうのですか」】



●ガイドさんたち
こんどはとくに優秀なガイドさんたちに巡り会いましたので、このテーマに触れてみたいと思います。

サンクト・ペテルブルグで案内してくれたガイドさんは、わたしの娘ぐらいの年格好の女性でした。
刈谷市に住んで愛知教育大学に留学していたとかで、日本語がとても上手でした。
エルミタージュ美術館、エカテリーナ宮殿、それらに絡む人たちひとりひとりについて、生まれから死ぬまで性格から教育、結婚、業績から家庭生活など実に細部まで、自分が好きで調べて、それをほかの人に話したくて仕方がないといったようなガイドさんでした。一生懸命ということはよいものだなあと、つくづく思わされました。
なかなかの美人で背筋がぴんとして、芸能界にいたこともあるとのことでした。
サンクト・ペテルブルグを別れる日、空港へ向かうバスの中で彼女がロシア民謡のカチューシャを歌ってくれました。日本人はロシア民謡を大好きだといっていいでしょう。日本人とロシア人、お互い共通するメロディーが、遺伝子レベルとは申しませんが、子守歌レベルで脳に刷り込まれているのでしょうか。
ともかく彼女が歌う「りんごの花ほころび・・」の歌声を聞きながら、バスの窓の外を流れる雪の大平原を眺めているとなんともいえないロマンチックな気分になってきました。

モスクワのガイドさんは50才がらみの男性で、日本人が知りたがっている項目を漏らさず、こまかく数字をあげて話してくれました。たとえば給料だとか、GDPだとか、ロシア正教とカソリックの違いなどです。
わたしが電力に関心を持っていることを添乗員さんから事前に聞いたのでしょう、発電所の燃料にまで言及してくれました。
モスクワのロシアホテルは5500室もある巨大なものです。東西北にそれぞれ玄関があります。
客室のある階に行くエレベーターに乗ろうとすると、エレベーターホールに警備の男が二人立っていて宿泊カードの提示を求めます。
現地ガイドのおじさんは「宿泊カードは必ず持っていてくださいよ。とてもきびしくって、ガイドだって通してくれないこともあるんだから」、そして「売春なら、いつでも通すけど」と付け加えました。
これはもちろん冗談で、そんな人は影も形もありませんでした。

思い出しますと、いままでの海外経験で出会ったいちばんひどいガイドは、昔々パキスタンのカラチでのことでした。そのときは、オーバーブッキングで予定の便に乗れず、航空会社がそんなときのために確保している宿泊所に泊められ、一日遅れで帰ったのでした。
日本人何人かをまとめて、日本語のガイドの案内はどうだと勧められたのです。まあ、たいした金額ではなかったと記憶しています。
イスラム教の寺院を見せられ「3000年前」といわれました。マホメッドはたしか6世紀にお生まれになったのだと思いますが。
かれはどこへいっても「3000年前」というのです。とうとう、3000年前という単語は「むかし」を意味するのだとわかってきました。
お墓の透き間からのぞくと骨が見えるぞ、など親切ではあり、あちこち見せてくれたので観光の意味がなかったわけではありませんが、説明はひどいものでした。

容姿端麗な若者が十分な教育をうけ、資格試験に合格したガイドならば、ガイドとして当たりはずれはないでしょう。
でも、わたしは案内する対象を好きで惚れ込んで隅から隅まで調べ尽くしたような、パーソナリティを持ったガイドさんが最高だと思うのです。

冬のロシア、オフシーズンですから、最高のガイドさんに巡り会えるチャンスが多いのもうなずけましょう。

こんどはガイドされる側の資質です。
外人を相手にするロシア人ガイドさんたちの会合があるのだそうです。
その席で「わたしは日本語です」というと、みんなに「いいわねぇ」とうらやましがられるのだそうです。
たとえばイタリア人を案内すると、始めから最後まで自分たちでおしゃべりばかりしていてガイドのいうことなど、なにひとつ聞いてくれません。集合時間と場所を決めても、時間になってもひとりもあらわれません。そこへゆくと日本からのお客さんは・・と誉め言葉がつづいたのです。
冬のロシア、最高のお客さんが集まる・・と自称しては自慢が過ぎましょう。でも、なにせ、たった6人のグループだったのですから世話をするのは楽だったに違いありません。

【外国の観光客が夜モスクワを散歩していて、ゴミ捨ての穴に落っこちた。
「なんてこった」その観光客は激怒して「アメリカじゃあな、こんな場所のまわりには赤い小旗を立てておくものだ」
「ソ連の国境を越えるとき、大きな赤い旗見ませんでしたぁ?」】



●大事なものは

そとから見るロシアは恐い国です。漫画ではシロクマとかヒグマに象徴されます。1945年8月8日、降伏直前の日本に対しておこなわれた参戦、捕虜の長期シベリア抑留、北方領土などをみると、たしかに恐い国ではあります。
しかし、ある国の国益は、原則としてほかの国にとって恐ろしいものなのです。友好国というのは、運命の巡り合わせで敵の敵になったときとか、気の良い大衆を言いくるめるときの表現に過ぎません。
ロシアの住民としては、過去、ヨーロッパ、アジアから攻め込まれた、虐げられたという意識があります。つい60年前にはドイツに攻め込まれ、2400万人といわれる犠牲をはらって、いまのロシアがあるのです。
かれらがいまの領土を自分たちの血で確保したことは事実なのです。
公平に見て、外国にとって恐い国であっても、国民はむしろ被害者意識をもっているのが自然なはずです。

なによりも寒くて恵まれない国土に生きてゆくのは、決して容易なものではありません。北海道のことを考えてみてください。ロシアはそれどころの寒さではないのです。アフリカで生まれた人類の裾の端っこが、寒さとの攻防を繰り返しながら確保している生存圏なのです。最近では1億4000万人の人口が、毎年50〜80万人減少しているそうです。
過去、地球が寒冷化した時期には絶滅か退却しかなかったでしょうし、温暖化はむしろ歓迎すべきものであるはずです。
ロシアのひとりあたりのGDPは2390ドル、日本の十分の一以下といわれています。経済統計の取り方が違うかもしれません。給料は2分の1か3分の1かのように聞きました。
でも、ふつうのロシアのひとが、まわりを見て暮らしている限り、なにも特別に不幸だと思うことはないでしょう。

日本人の目から見て、効率の悪いことはたくさんあります。
たとえば、9・11同時多発テロ以来、日本でも警備員の数はふえました。でも、ロシアでは日本以上に警備員が目につきました。
警備員というものは生産活動に寄与しないものです。ロシアは、長年、計画経済政策をとり効率を重視しなかった国ですから、われわれの目から見て、いまだに警備員が多いのは当たり前のことと思われます。
国として一番金を食う警備員は軍隊でしょう。日本は軍隊への直接の支出がきわだって少ない国です。
ロシアでは要らないと思われる仕事で職を得ている人が多いのです。
でも、国際的には安い給料でも、それぞれにやりくりしていることがそんな不幸なことでしょうか。
それと対照的に、世界的にみて飛び抜けた高給を取り、物質的に不足のない生活をし、長寿を享受しているのが日本人です。
それなのにテレビを見れば、不正と犯罪に満ちた社会に生きているかのように見えます。
その様子は、自分たちが不幸であると思ったり言ったりすることに、幸せを感じているようにさえ見えるのです。
人間に本当に大事なものは、なんなのでしょうか。

【ミニスカートの発祥地はロンドンではなく、モスクワであることが分かった。モスクワの主婦が洗濯した結果発見したのである】

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