旅順で考えたこと

( 2015/7/3〜6 )

重遠の部に戻る


昨年、2014年、ロシアは多くの国が反対するなか、強引にクリミア半島をウクライナからもぎ取り自領としました。

約100年前、似たようなことがあったなと思ったのです。

そうです、遼東半島、旅順港です。

クリミア半島のロシア海軍基地セバストポリも、遼東半島の旅順も、ともに北の大国ロシアが渇望する、地域に睨みをきかせる不凍港なのです。

そんな折、たまたま、大連・旅順4日間というパックツアーの広告が目に入りました。

今回のは小さな旅ですし、見学先が多いわけではありません。でも、関連することをネットで調べていると、次から次へといろいろのことが面白くなってきたのです。

ただでさえ屁理屈の多い私の紀行文が、また飛び切り自説の主張オンパレードになりそうな成り行きです。

この性癖は自分でも困ったものだと思っています。一応書いてはおきますが、お読みにならないほうが賢明かもしれません。(その際、「戦争と新聞」の抜粋だけはお目通しの価値があると思います)


大連には日本人が、居住者として6000人ばかり、この他にも進出企業からの出張者が多く、常時1万人は滞在しているといわれます。そして満洲国時代を含めて日本人との接触は濃密なのです。

このため、土地の人達はメディアを通さない日本人の実像をよく知っているのです。そのためでしょう、中國の中でも目立って親日的といわれる地域なのだそうです。


経済の急発展

大連国際空港に到着する数分前から、沖に巨大な船が多数停泊しているのが見えました。続いて見えてきた埋立地とみられる工業地域は、伊勢湾の奥の四日市、名古屋港の工業地域よりも、もっと大規模ではないかとさえ見受けられました。

大連駅前に建つ豪華ホテルの13階に3連泊でした。朝食は、最上階、30階にある食堂でバイキング、客の半分ぐらいが幸福そうな良い身なりの子供たちです。体格の良い中國人ばかりで、西洋人は殆ど見かけません。

広い窓から下界を見下ろします。中國に来たことを印象づける、あのどんよりとした黄砂を浮かべた空気の中の光景です。

大連市民

大連市民


見渡す限り、高層ビル群が林立しています。足下にはリッチな感じの車の

流れ、それは嘗ての中國の道路とは異質なものでした。自転車はおろかバイクも、そして日本と違って軽自動車も見かけないのです。

 大連市では、今、1日に500台づつ新車が登録されているそうです。モータリゼーションが始まってからの日は浅く、また中古車の輸入は禁止されているとのことで、ピカピカの車ばかりが走っているのです。

まさに「名古屋ってどこの田舎?」といった感じさえします。


帰国の朝、旅行社のサービスで、旧ロシア人街に寄り道しました、バスの車窓から見た都心とは別の古くからの地域は、前記の近代的都市とはまた別の表情でした。

4階建てのアパート群がその一例です。50年ほど前、我が家族は僻地の社宅アパートに入れてもらっていました。まだ国民全体が貧しい時代でしたから、コンクリートのアパートに住めることで、随分、幸せを感じていたものです。そのアパートはなぜ4階建てだったのでしょう。4階までならエレベーターなしで歩いて登るのが常識だったからです。棟と棟との間に納屋の列があり、部屋が狭くて入れきれない家具はその納屋に収めていました。

階段の踊場付近にダストシュートというゴミの投げ入れ口があって、投げ込まれたゴミは地上のゴミ溜め部屋に落ちるようになっていたものです。

その朝見たこの大連市の一角に現存するアパート群は、まさにそれそっくりでした。多少付け加えれば、中国風にさらにゴタゴタし、怪しげな電気配線が絡まっていました。

ダストシュートのゴミ溜めの前で、リヤカーを引いた男性がゴミの回収作業をしていました。彼の紺色の服は、50年前の人民服そのもののように見えました。


大連市金州区の響水寺という道教のお寺に行きました。ここの地質は石灰岩ではなく砂岩で、その割れ目が洞窟になっていました。洞窟の20mほど奥に、名前の通り水が湧き出しチョロチョロと囁いています。お寺の庭には魚がいっぱい泳いでいる池があり、脇で金魚や蛙を売っています。買い取って、池に放してやると功徳になるといっていました。それはそうとして、死んだ魚が白い腹を見せプカプカ浮いているのが片付けられもせず浮き沈みしていて、大陸的な大らかさを感じさせました。

この村は行政的には大連市内で、中心地から車で1時間ほどの田舎です。中國の農産物といえば、農薬に気をつけろというのが日本のオバサンたちの常識です。でも、この金州市の田舎では、農薬はおろか肥料だって台所のクズを施すかどうか、つまり果樹園ではなく自分の家の庭の片隅で実ったサクランボを売っているようでした。これも50年も前の日本の田舎を思い出させる,心温まる雰囲気でした。


つまり中國では版図が広大なことはもとより、現時点では急速な経済発展という要因も加わり、格差が目立ちます。その中でも特に大連はその傾向が顕著に現れていると見ました。

日本でも格差問題は、いろいろの思惑から声高、かつ常時・継続的に論議を呼んでます。人間社会における格差問題は、それが根源的なものであるため、なにか意見をのべれば、それが話している人の思考レベルを計る尺度として評価されます。ともかくいろいろの意味で非常に興味深いテーマと言えましょう。


ツアーの面々

今回も、出発前、このツアーに参加する人は、一体どんな人たちなのかしらと考えました。

「まさか日露戦争に参加した人は来るまいが、私の年齢の人でも何%ぐらいの人が二百三高地に興味を持っているものだろうね」、私は家内にこう呟きました。なんとなく老人グループになりそうだと想像していたのです。

家内は「夫婦で行く人なんてないと思うよ。女は中國の食べ物はみんな毒が入っていると思ってる、毒なんか食べに行く人ないよね」、そう言ったのです。

予想は全く外れでした。

ご夫婦が5組、親子が1組、単独行3人でした。私の次の年齢は78歳の旦那様、一番若いのは2,30台?の新婚さんたちでした。


旅の途中、2〜3の方から「貴方は中國は何度目ですか」と聞かれました。その様子は、中國専門でちょくちょく来る人が多いのだと思い込んでいるように見えました。 実際、そういう人って結構あるんですね。これまで私は、中國の都市への旅行が特別に好きで、取っ替え引っ替え訪れる人がいるなど想像もしていませんでした。私など、もしも旅順が入っていなかったら、今回のツアーを選ぶことなど考えもしなかったと思います。

でも、いろいろ話しているうちに、やっぱり理由があることがわかってきました。

日本から近くコンパクトな旅ですから、週末の前後にちょっと休暇をとれば、現役でも参加が難しくありません。また費用も国内旅行と変わりませんし、それでいて結構外国旅行のアバンチュールを味わい、変わった買い物ができるのです。

お肌をスベスベにする真珠クリームとか、もっともらしい効能が付いたお茶など異国ならではの品も手にすることができます。 今でこそすっかり逆になってしまいましたが、円高の頃でしたら安い買い物ができたはずです。

こんなような多くのプチ・ツアーは、同行添乗員なしで現地案内人にまかせるものが多いのです。だから、外国の空港でのトランジットがない今回のようなワンフライト物が人気のようでした。

今回の同行者の方たちは、中國人をことさら異国人視することなく、まったくスムーズに付き合っておられ、将来、両国の人たちがこんなに理解しあってやってゆければよいなと思うことしきりでした。


一行の中で50歳代半ばの単独行のおじさんは中國マニアで、中国語が話せます。駅前にたむろしている小さな三輪車に中国語で交渉し、市内探訪に出かけられました。

彼は、私のように取っ付きにくい男にも、よく話しかけてくれました。

彼はみんなが二百三高地というので、今回、DVDと映画でその勉強をしたのだそうです。

自分でもちょっとアヤフヤと思っている様子で、乃木大将のことを「なんとかいう将軍」と言っていました。それでいてその映画の主演俳優の名前は、はっきり言えるのです。ところが、今度はその俳優の名前が私には分からないのです。

時代は移ったのですねぇ。


戦勝国

旅順市内でのことです。ガイドさんが走行中のバスから外を指差し、「あれはロシア人が作りました。1945年、旅順での戦いの犠牲者の慰霊のために建てました」と解説しました。そう聞いて、私はエッと思いました。

1945年、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破って日本に攻撃を開始したのが8月9日、日本がポツダム宣言受諾、つまり手を上げたのが8月15日、その間のたった一週間ほどで、国境から大連、旅順というこの満州の南端まで攻めこみ、派手な戦があったとは聞いていないのです。

それで、こっそりガイドに「1945年、旅順でロシア人が戦争で死んだの」と尋ねてみました。「ロシアじゃない、ソビエト。ソビエトと八路軍が日本から旅順取り返した」とガイドさん。若い中國人ガイドと話していても仕方ないと思い、帰ってからネットでいろいろ調べてみました。

やはり、大連にソ連が入ってきたのは8月21日となっています。当然、無血占領です。

当時大連には日本人が約20万人いました。日本への引き揚げは1946年末から4カ月ほどで行われたようです。経緯は悲惨を極めたのですが、今の目で見てあれこれ言うのは誤りでしょう。大戦終了時、世界中で余裕があったのはアメリカ一国、あとはどの国もヨレヨレでした。衣食住、医療、あらゆるものが乏しい中で、関係国の心ある人たちが懸命に秩序の維持に腐心した様子には共感さえ感じます。いつの世もそうですが、悪いのはルールに従わない少数の人、そんな人がXX人は悪いことをしたという評判を残すのだというのが私の感想です。


そうそう、話は旅順の慰霊碑でした。実相は下記のようです。

旅順のこの場所は、そもそもはロシア人たちの墓地でした。日露戦争後、協議の上、日本政府が戦没ロシア兵のため、墓地内にロシア風の慰霊碑を建てました。第一次世界大戦までは「昨日の敵は今日の友」のムードがあったのです。第二次大戦に至り「鬼畜英米」対「イエローモンキー」と相手の国民を憎みあったのも、戦争が戦闘専門の兵士から国民全体の総力戦になってきたせいでしょう。

ある人の報告によれば、この旅順の墓地には1950〜53年の朝鮮戦争に義勇兵として参加したソビエトの戦闘機パイロットたちも葬られているそうです。

この話を読んでいて、先年ハバロフスク、ウラジオストクの博物館を訪ねたとき、ソ連がいかに日本軍をやっつけたかを宣伝しているのに違和感を感じたことを思い出しました。

その戦争にはオレも参加した、そして相手をこっぴどくやっつけてやった、ロシアに限らず、過去にあちこちの戦勝国を訪ねたときに、そんな雰囲気を感じたものです。そう言い張って世界中に自国が戦勝国であることを宣伝し続け、将来の領土獲得の肥やしにしようというのが国際社会の常識なのでしょうか。

我々一行の中にも「日本がポツダム宣言受諾を申し入れたのが8月15日でも、調印が終わるまでは戦争状態なのだから旅順まで攻めて来たんじゃない」、こんな解説をしてくれる人がいました。

それを聞いて、かく申すお爺さまは、またひとしお、時移るの感を深くしたのです。


人さまざま

旅順で川島芳子の名前を聞きました。

なんでも中國清朝の皇族の子供で、日本人川島家の養女になった人のようです。父親には正妃1人、側妃4人、王子21人、王女17人あったとされます。これは帰ってからウィキペディアで検索した知識です。私は川島芳子の名を聞いた覚えこそありましたが、どんな人だったか殆ど知りませんでした。

今でも、なぜみんながあんなに興味を持っているのか分からないのです。

ともかく旅順では、彼女の生家と彼女が結婚式を挙げたホテルに案内されました。


大連では旧満鉄本社に案内されました。今でも中國の交通関係の役所が入っているようでした。

このロシア人が建て始め、日本人が増設した建物の前で、私は、満鉄総裁を務めた中村是公と夏目漱石とのことを思い出していました。二人は明治17年東京大学予備門予科に入学したのです。彼らは、なんといってもエリート集団で、勉強する奴を点取り虫などと呼び、漱石が自ら「みんな揃いも揃った馬鹿の腕白で、勉強を軽蔑するのが自己の天職であるかのごとくに心得ていた」と書いています。そんなムードは昭和24年に最後を迎えた旧制高等学校にも多少残っていたと思います。


私はこの旧満鉄本社の前で、中学生の頃読んだ漱石の「 満韓ところどころ」の文章をしきりに思い出していました。


「南満鉄道会社 っていったい何をするんだいと真面目 に聞いたら、満鉄の総裁も少し呆れた顔をして、御前もよっぽど馬鹿だなあと云った。是公 から馬鹿と云われたって怖 くも何ともないから黙っていた。すると是公が笑いながら、どうだ今度いっしょに連れてってやろうかと云い出した。」

こんな軽妙な文章から始まるのです。

その文中にこんなシーンも出てきます。

「四人で博奕を打っていた。博奕の道具は頗る雅なものであった。厚みも大きさも将棋の飛車角くらいに当たる札を五六十枚程四人で分けて、それを色々に並べ替えて勝負を決していた。其の札は磨いた竹と薄い象 牙とを背中合わせに接いだもので、其の象牙の方には色々の模様が彫刻してあった。」

ここに記述された博打が麻雀であることを私が知ったのは、ずっと後のことでした。

今回帰国してから、その昔読んだ「満韓ところどころ」を読み返しました。若かった脳に刷り込まれた情報は意外に確かであることに、改めて最近の自分の老いの日々のもどかしさを考えさせられました。

興味の持ちどころが、ほかの人のように川島芳子である人もあり、また私のように夏目漱石の人もあり、人それぞれの楽しみがあるものです。


二百三高地と水師営

この2箇所は私にとって今回の旅の目玉であります。

先に水師営を訪ねました。

今回のツアー仲間の78才氏は、ガイドさんに「旅順開城約成りて・・・」の歌詞を書いた色紙はないかと頻りに探しておられました。その歌は佐佐木信綱作詞、私たちの年齢にはとても懐かしい歌なのです。 歌詞では、 将軍ステッセルと乃木大将との会見場は「崩れ残れる民屋に」とされています。どんな田舎の百姓屋かと想像していました。

その場所は旅順港から少し離れた内陸です。アパート群の大団地に案内されたのは意外でした。考えてみれば水師営という文字が意味するのは、海軍の基地な訳です。いつ頃、どんな海軍がいて、水師営と名づけられたのでしょうか。

民屋と調印に使われた机替わりの手術台は、歌詞の通りたしかに十分、粗末に復元されていますし、庭に「ひともとなつめの木」も植えられています。


当時は、もう写真がある時代でしたから、部屋の壁に当時の写真がいっぱい飾ってありました。わたしはそれらをフムフムと見て回って見学を終えました。

でも、世の中には鋭い目を持った人もあるものです。

畏友、Sさんです。先年、ここを訪ねられたとき下記の解説文を、ちゃんと写真に撮っておられ、教えてくださいました。

水師営

ステッセル・乃木将軍会見の水師営

                                Two imperialist powers fought tooth and nail on the land of Lushun for the evil purpose of invading and occupying Chinese territory and negonitiated peace here . Eventually they brought a grave catastrophe to the Chinese people . We preserving this old site as a relic are just to teach our descendants to remember well the history and go all to make our country stronger .


この文章は「ここ旅順の地において、帝国主義者どもが、支那の領土に侵入、占領しようという邪悪な意図のもとに血みどろになって戦い、かつ仲直りを図った。結果的に、支那の人民はひどい目にあった。

次世代の人々に、よく歴史を学び我が国を強くしなくてはならぬことを教えるため、この場所を遺跡として残す」。

 下手な訳ですが、 というぐらいの意味でしょう。


こう書いた人の考え方、まさにもっともですね。こういう支那、ロシア、日本の関係は、過去、現在、そして将来にわたる国家間の関係を考える際によく知っておくべきことです。Sさんに教えてもらってよかったと思います。


17世紀頃から清國北部で、西方からロシア、コサック人の侵入が継続的に続いています。その頃アジア大陸北部はまだ生産性が低く人口密度はまばら、先住民が細々と生活している状態で、どこの国に属しているという意識も希薄だったことでしょう。

19世紀末、清朝は建国以来2百余年を経て内乱に悩まされ、その末期を迎えていました。

1842年アヘン戦争に敗北した結果、香港を英国に割譲せざるを得ませんでした。その後も、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本、アメリカに次々と権益を奪われてゆく時代が続いたのです。

他方ヨーロッパ勢は、ワットの蒸気機関が1775年、 ナポレオンのモスクワ進軍が1812年、工業社会の 隆盛期であり、かつ 近代戦争の専門家でもありました。

清國が非力だったゆえに他国の勝手気ままにされたと言われれば、まさにその通りということでしょう。


さて、いよいよ二百三高地です。標高150mほどにある駐車場までバスで上がりました。残る50mばかりの登りは料金を払えば車も使える立派な道があるのですが、皆さんにお付き合いして 自分の足で登りました。

旅順港は艦隊の泊地の周囲をぐるりと山に囲まれた、軍港として大変恵まれた地形です。

そもそも清國もここを軍港としており、日清戦争では日本軍が攻め落としたこともありました。1894年11月、数日間の戦闘でした。

そのとき日本軍による市民に対する虐殺事件が起こりました。相手の残虐行為に対して報復したとも言われますが、ともかく忌まわしいことが起こったことには違いありません。

そのときの、百倍にも達する犠牲者の数の相違など、欧米記者たちのピンからキリまでの報道合戦の様子は、日支事変における南京虐殺の場合とあまりにも似ています。

ただ、その時は日本が戦勝国であったため、そういう忌まわしい悲劇は、どこの戦場にも付き物だといった感じで沈静化していったようです。


旅順港の周りを囲む山々の説明をしようと調べ始めました。私としては等高線や縮尺の入った地図を見ながら解説したいのですが、このあたりの標高とか距離とかになると意外に書いたものが見つからないのです。ただ、二百三高地は、標高が海抜203mであることからそう名付けられたと書かれています。そんな高さの連山が港の周りを囲っています。

雰囲気としては春日井市ニュータウンを囲む道樹山、弥勒山などに似ていますが、標高は半分ほど、傾斜はもっとなだらかなのです。

推定ばかり続き恐縮ですが、大陸の古生層が静かに侵食された山容と見受けました。年平均気温は10℃と低く、降雨量は約600ミリと日本の3分の1ほどです。日露戦争直後の写真では裸地のように見えますが、現在では雑木林が主体で、山頂からは、伐採した場所だけ見通しが利く状態です。

日本軍が東京湾防衛から転用し、ここの戦いで大活躍した、かの有名な28サンチ榴弾砲の 模造品が置いてあります。ただし可哀相になるほど 出来の悪い代物です。


二百三高地は、富士山山頂とかイグアスの滝のような、現地を目にして感嘆するような観光地ではありません。戦跡であります。ここまで塹壕を掘り進め攻め上った、ここでは頑強に抵抗し追い返したというのが戦争です。 ハードウェアではなく、ソフトウェアの世界なのです。戦いの様子を訪問の事前事後にいろいろ読んで調べてみました。

その結果、一番印象に残っているのは、戦争の諸記述というものは非常に主観的なな観点から様々に捉えられており、客観的に記述されたものは無いようだという印象です。


司馬遼太郎の坂の上の雲に代表されるように、日本軍の戦死者の数が膨大であったのは乃木大将の判断の悪さと精神主義からなされた強行策のためだったこと、莫大な犠牲を払って二百三高地を手に入れた目的は、港内のロシア艦隊を狙い撃ちすることだったなどの視点は、私たち昭和一桁人種が教えられていたところでありました。

それに対して現在では、堅固な要塞に立ち向かう戦争としては、乃木軍もそれなりに善戦した。二百三高地の戦いの目的は、地点の争奪もさることながら、ロシア防衛軍の兵力を消耗させることにあった。その結果、ステッセル将軍は残された兵士では、もう防衛線を確保できる見込みが無いと判断し、開城を決意した。軍港内のロシア艦隊は、開戦まもなく受けた被害で、すでに戦闘能力を失っていた。そんな見方がなされているようです。


ほぼ半年にわたる旅順要塞攻防戦で、日本側は死者12,000人、負傷者29,000人、ロシア側は死者8、000人、負傷者23、000人とされています。

乃木大将が指揮した肉弾攻撃に対して、 日本国内で 怨嗟が高まったのは、これより10年前の日清戦争では、戦死者が1,500人と少なかったのと比較されたからでしょう。もっとも日清戦争では、この他に赤痢、マラリア、脚気による戦病死者が12、000人もあったのですが。


原則的に、堅固に造られた要塞を攻略するのは容易なことではありません。

クリミア半島セバストポリ軍港の要塞は、1855年ほぼ1年の戦いで死者230、000人、1941年の時は100、000人の死者を出しています。

第一次世界大戦のベルダン要塞では10カ月の間に両軍合わせて700、000人の死者を出したとのことです。


戦争に航空機が登場してからの都市空襲による死者は、女子供が多い一般民間人であります。

 ロンドン大空襲では、8ヶ月間に43,000人殺されました。

ドイツのドレスデンでも絨毯爆撃で150、000人が殺されました。   東京では一晩の空襲で100、000人が焼き殺されました。広島では原爆投下により一瞬に70、000人が殺されました。


犠牲者の数は第一次世界大戦3,7000万人、第二次大戦5、000〜8、000万人 といわれます。


(ここで使った諸数字はウィキペディアなどで調べたものですが、いろいろの資料がまちまちで、”と言われる”というようなはっきり断言できないものが多かったことをお断りします)


一人ひとりにとって一生に一度の大事件が、これだけの数、起こっているのです。

いま世間では、中学生が一人殺害されたと大騒ぎします。それなのに何千万人も犠牲者が出る戦争を、ことさらに悲惨だ悲惨だと言い続けなければならぬ人間社会の現実に不思議な気がしませんか。

いうまでもなく戦は悲惨なものなのです。


人間の原罪か

先に述べましたように旅順攻防戦は、中國遼東半島を舞台にして、ロシアと日本の間で戦われました。勿論、背後にはイギリス、フランス、ドイツが自国の権益を獲得するため暗躍していたのでした。

今回、旅順訪問をきっかけにして私の戦争の被害調べが始まったのです。

こうして山のような情報を見ているうちに、A国の土地でB国とC国とが戦ったというような事件は、古くは神話の時代から連綿と続いてきていると、改めて認識させられました。つまり、戦争は時間と空間を超えて実存する普遍的なもので、人間の原罪としか思えなくなってきたのです。


平和への欲求

殆どの人、言ってみれば人類の99パーセントの人は、戦争が悲惨なものであると感じており、戦争のない平和な世の中になって欲しいと願っていると思います。

平和運動は盛んです。

でも、数多くの熱心な平和運動が、はたして有効に人類の願いを叶えてくれるものでしょうか。

前提条件として、社会を構成している現生人類たちの思考機能、そのベースになっている脳の機能を直視することが必要です。

世の中には実にいろいろの人がいます。社会はそういういろいろの人たちの集団です。いろいろの人の集団が、過去、悲惨な戦争にどのように向き合ってきたのでしょうか。

理想論、願望論を排除し、現実になにをやってきたか、冷厳な実態を知らなくてはなりません。

具体的には、戦争を始める時代、戦中時代、そして敗戦後の混乱の中で 社会はどのように考え、どんなことをしてきたを有りのままに把握するのが最初の取っ掛かりです。


戦争と社会、新聞

このテーマを論ずるには、第二次大戦についての実態を記録した朝日新聞出版の「新聞と戦争」2008年6月出版という600頁に近い本が貴重な資料を提供してくれていると思います。

以下に抜粋してみました。(原文も1931年は31年と記している)


【高まる対外強硬世論の攻撃に、朝日新聞はさらされていた。

満鉄線爆破事件(31年9月18日)で事態は急変する。

朝日新聞は日本軍の侵攻を「自衛権の発動」と追認し、進撃の様子を号外などで速報した。

10月1日、大阪朝日は中國からの満州分離を容認する社説を載せ、社論を転換した。

新聞報道が世論をあおり、沸いた世論が、新聞を引っ張る、螺旋的な相互作用が動き始めた。】


【日本社会に反中国、反国際連盟の強硬論があふれていた32年秋、東京朝日(11月12日付)が「『非常時』の誘惑」と題する社説を掲げた。「非常時なるが故に理屈を無視しても良し、否その方が寧ろ愛国的だといったやうな気分が世に横溢する」のは「憂うべきこと」だと述べて・・・・】


【満州事変以降、社説が振るわないのはなぜか。伊藤正徳は「読者大衆の感情を察し、なるべく之を損しない範囲内」で立論する「筆法」を理由に挙げ、「大衆の欲求する方向に社説を妥協」させたと自戒を込めて述べている。(昭和9年新聞縦覧」)排外的ナショナリズムが高揚するなか、愛国心を疑われたくない、大衆に嫌われたくない、という新聞の心理。】


【中國大陸で日本軍は戦線を拡大、米国は日本に警告ともいえる対日経済制裁を頻繁に科した。しかし、朝日はその警告を正確には報じなかった。

1939年7月28日、社説は日米通商航海条約の米国側廃棄通告について、寧ろ有利な新条約を結ぶべきだとする非現実な提案をした。

失効が迫った40年1月22日には、「アメリカの態度は・・・誠意に酬いる無頓着、熱意に答ふるに冷淡である」と書いた。】


【31年12月10日、大阪朝日は「在満将士慰問のため、小学生の作品募集」の社告を掲載する。西日本の小学校から、作文や図画など2600点余りが寄せられた。入選作32点、佳作200点が決まり、うち29点が32年1月24日付朝刊の別刷りで紹介された。

「私達も御国の為め一生懸命に勉強して、より良い兵器をつくり、兵隊さんになって平和を保つ為に働きます」(尋常4年男児)

「審査をすませて」という囲み記事はこう公表した。

「今回の事変に対する国民一般の冷静にして公平なる批判、特に満州に対する認識の十分であることが彼らの後継者たる少国民の書いたものにもはっきりあらはされている」】


【戦時中、新聞掲載が許されなかった天気予報は、(45年)8月23日復活する。

朝日新聞はその日、「自らを罰するの弁」と題する社説を掲載する。「責任は、決して特定の人々に帰すべくではなく、一億国民の共に倶に負うべきものでなくてはならぬ。さりながら、その責任には自ら厚薄があり深浅がある。・・・言論機関の責任は極めて重いものがあるといはねばなるまい」】


【9月11日、戦犯容疑者の逮捕が始まる。新聞の論調が変わる。

「今まで日本に聞かれたものは、曰く敗戦の責任、国民総懺悔、ただこれだけである。・・・それよりも、敗けるべき戦争を何故始めたか、という巷の声の方に遥かに真剣な響きがある。・・・我国指導者の責任こそ、この際、十分に糾明せられて然るべきであろう」

こうして朝日新聞は、自らの戦争責任についてあいまいさを残したまま、それを追求する立場にたつことになる。】


以上が抜粋です。

大部の本からの抜粋ですから、私がどんな観点から選んだかを示しておくべきでしょう。

私はこの本の中から、あの戦争について国民も新聞も、自分たちにも重大な責任があり、またそのことを認識しながら、ある時点でそれをさっと忘れ、特定の人たちがいたから戦争が始まり、負けたのだと、 指導者たちに 全責任を押し付け、そしらぬ顔をし始めた経緯をを焦点にして抜粋しました。


でも、あの頃の日本の国民と新聞とを責める気持ちは毛頭ありません。

世界中、どこの国でも同じようなことだったのでしょう。


二つの平和運動

第二次大戦終結から70年、日本は敗戦国として、自身は戦争イコール悪の思想に徹し、また世界からは戦争犯罪国として批判され続けてきました。

その国民感情からして、今後、日本から戦争を始めることは想像もできません。

したがって日本の平和運動は、 よそで起こった戦争に巻き込まれないようにすること、 他国で戦争が起こらないようにすること、 の2点に尽きます。

日本のように世界経済への依存度が高くかつ魅力的な国が、国際紛争の枠外に留まるのは容易ではないでしょう。

国家間の対立が起こった場合、 日本の経済・科学・技術・軍事 などの能力を、自分たちのグループに取り込むことが魅力的でないはずはありません。

また日本は狭い島国です。そこで1億2千万人が現状の生活レベルを維持し生きてゆくために、食料も資源も輸入することが必要です。また、その購入資金を得るために自動車はじめ諸製品を海外で買って貰わなくてはなりません。

第二次大戦開戦前、アメリカなど各国から石油の輸入を禁止され、「ガソリンの一滴は血の一滴」という標語をもって、ありとあらゆる節約を強いられました。この状態が続けば日本はジリ貧に追い込まれるという強迫観念に駆られて開戦に踏み切った事実も語り継がれるべきでしょう。

しょせん日本は国際関係と無関係に生存できる国ではありません。自分から好むところではありませんが、紛争に巻き込まれる可能性は高いのです。


運動の評価

さて、本来は世界中どこの国でも戦争が起こらないようにするのがの理想です。従って平和運動は、強烈に平和を希求している日本国だけでなく、むしろ外国でこそ積極的に行われるべきものです。

メディアは世の中のためになることを報道することに好意的です。

例えば、温泉を利用して発電するアイデアがあります。このテーマは新技術として、もう昔から繰り返し繰り返し取り上げられてきました。毎回、話題とならずに消えてゆくのは、それなりの問題があるからでしよう。

ともかく、そういった新技法は、まず小さなスケールで試行してみるのが定石です。


唐突ですが、平和運動も、まずは小さなスケールに当てはめてみてはどうでしょうか。もちろん頭の体操としてですが。

小さな戦争は目の前、あちこちにあります。シリア、スーダン、アフガニスタン、ウクライナ、などがすぐ頭に浮かびます。

実際に試行してみなくても、問題点は予想できるでしょう。


シリアに行って「戦争は悲惨なものだと、私たちは語り部から聞いています。平和こそが貴いのです」と語りかけてみてはどうでしょう。

スーダンと南スーダンに行って「日本には憲法9条という素晴らしい法律があります。あなた達も、お互いに採用して平和に暮らしてはどうですか」と教えてあげたらどうでしょうか。

アフガニスタンの対立グループを訪ね「あなたの子や孫を戦争で死なせたくないと思いませんか 。早速、争いをやめるのが賢明ですよ」と呼びかけてみてはどうでしょう。

ウクライナへゆき「あなた達は大国たちに利用されているだけです。自分たちの意志で仲直りして、平和な国にして幸せになれば良いのに」と示唆してはどうでしょう。


想像ですが、どこの国の当事者も「ご好意は誠に有難い。だが、ご趣旨は先刻よく承知しておりますので」と、アポイントさえ与えず門前払いするだろうと思うのです。


まともな国の指導者は、自国民の意向を、もし国民が賢明ならば国民の利益を、何よりも重視します。そうでなければ指導者の地位にとどまれないからです。

例として今話題のTPP交渉を見てみましょう。

豚肉の関税をゼロにすれば、消費者は安い豚肉を食べられます。その反面、豚飼育業者は生活の手段を失うことになります。立場によって人の意見は異なります。そのうえ、取り上げられる分野も貿易、医療、知的財産、雇用など広い分野におよんでいるのです。

指導者としては各分野、各立場の人たちから出される難題をわきまえながら、なんとか合意ないし我慢が得られ、トータルとして国益になる線でまとめようするより仕方ありません。

領土問題、軍備問題などについても、基本的には、国益にかない自国民に支持される案しか選べないのです。自国のためにならないのに自国の青年の血を流すことを許す国民などあるはずはないのです。アメリカもロシアも中國も日本も例外ではありません。


平和への具体策

具体的にどうすればよいのでしょうか。

まずは、戦争の悲惨さを伝える語り部を持ち出したり、憲法9条を説いたりすることです。「対話を重ねて得られる信頼を基礎に、武力に依存しない安全保障の仕組みをつくろう」と正論を展開することです。なんでもよいですから「世界各国は平和になってください、日本は総ての国と仲良くなりたいのだ」と訴えることです。

間違っても「Necesity know no low(必要性の前に法は無力)」という諺など思い出させてはいけません。


次には、現実には複雑な関係にある国々に対して、どの国とどんな関係づくりをすれば、将来、争いに巻き込まれずにすむか、また、巻き込まれてもひどい目に遭わずにすむかを賢く考えることです。大変むずかしい問題です。でも、それを考えに考え、やってみるしかありませんし、その評価は後日、結果となって評価されましょう。

その時に、世間で皆がそう言っていたからとか、新聞に騙されたとか言い訳するのでは戦前と何も変わりません。本来は一人ひとり、自分の頭で考えて責任ある意見を持つべき深刻な課題であります 。

それにはまず 、先にお示しした「戦争と新聞」からの引用などが役に立つはずです。

【高まる対外強硬世論の攻撃に、朝日新聞はさらされていた。新聞は社論を転換した。こうして新聞報道が世論をあおり、沸いた世論が、新聞を引っ張る、螺旋的な相互作用が動き始めた。

敗戦後、(国民も)新聞も、自らの戦争責任についてあいまいさを残したまま、戦争犯罪人の罪状を追求する立場にたつことになる。】という事実があったことこそ、語り継がれなければなりません。


世界中に10億人の信者を持つローマ法王様は2000年にわたって、代々人類の平和を祈っていらっしゃいます。でも、そんな学識と権力をお持ちの方ですら、中々お心のようにならない現状です。ましてや頭の悪い私なんどに、どのような選択をしたらよいか分からないのは当然、と半ば諦めながらも模索を続けているのです。

では一体、考えるにあたって、物差しになるような規範があるものでしょうか。

年寄りの私がツラツラ考えますには、現生人類が誕生してから20万年間ずっと、普遍的かつ継続的に使ってきたと思われる、下記の3項が原則であるべきような気がしているのです。

1, 自分がしてほしいと思うことを、他人にして上げなさい

2, 渡る世間に鬼はない

3, 人を見たら泥棒と思え


おわり


重遠の部に戻る