生家消滅

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昨年、2012年11月に母が105歳で亡くなった。

母は、98歳でホームに入るまで、名古屋市瑞穂区にある私たちの生家に、ひとりで暮らしていた。

 ここ数年間は老人ホームで生活していたが、希望があれば帰ることができるようにと、家だけはそのまま残していた。

さて、母が亡くなった今としては、土地という社会の財産は、次の世代の使用に供するようにするのが、人間としての責務であろうと考えた。

そう気張らないまでも、雑草、落ち葉などの始末は、近隣の方々への義務であると思うし、自身が年を取るにつれて、管理の仕事を段々と負担に感ずるようになっていた。

また、子供ら3人はそれぞれ東京圏、関西圏に定着している。 いずれは私の生家は相続の対象となるわけだが、その際は不動産よりも動産のほうが財産継承者にとって手間がかからないはずだとも考えた。


小学校で同級だった友人の息子さんが司法書士をやっていて、不動産の売買も手がけているので、その方に売却方をお願いした。


2013年の5月、連休明けに家の取り壊しが始まった。

最初の日に、巨大な重機が石垣を壊し、そのまま庭に入り込んだ。

取り壊しの過程を、写真に撮っておこうかとも思った。

今撮っておかなければ2度と機会がないという気持ちがある反面、そんな生家が壊されている写真なんかを、誰が見たがるものかという気持ちも湧いてきた。


歴史の長いスパンの月日を対象に採ったとき、人間がそのときどきに何を大事だと考えたのか、そしてそれが本当に価値があったのか、などと 偉そうに 考えた。

ともかく、68年前、太平洋戦争末期に、この名古屋市で13万戸余もの家が、アメリカ軍の空襲により、写真にさえ撮られることなく、あるいは爆破され、あるいは焼き払われたことに思い至った。その大惨事に比べれば、私の生家が関係者一同理解納得の上で、いわば平和裏に消滅することなど問題にならない些事のようだと思わざるを得なかった。


名古屋市は繰り返し繰り返し数十回もアメリカ空軍の攻撃を受けた。

最初の時期は昼間約1万メートルの高高度から、飛行機製作工場を目標にした爆弾攻撃だった。飛行機雲の先端に白いガラス細工のように見える小さな点が、B29爆撃機であった。

その後、夜間の低空からの全市無差別焼き払いの作戦がとられた。その最初は3月12日であった。第2回目として、1945年3月19日深夜から20日にかけて、名古屋市はアメリカ空軍B29爆撃機230機による焼夷弾攻撃に曝された。私の生家は近隣10軒で構成された隣組に属していた。この夜の攻撃で隣組10軒のうち道路の南側の6軒は焼失し、北側の4軒だけが残ったのだった。この夜の爆弾、焼夷弾による攻撃による名古屋市の被害は、焼失39,893戸、被災151,332人、死者826人、負傷者2,728人と記録されている。


空襲警報が発令されてから、私と父は生家の庭に掘られた防空壕に入っていた。天井には1mほど土が盛ってあるので、焼夷弾に対してはかなりの安心感はあった。

「消火 出動」という声が聞こえてきた。壕を出る時は恐怖感に襲われた。眼の前に起こっていることが、信じられないような、そしてとうとうその時が来たのだというような、狼狽えたようでもありクールなような、まことに妙な気持ちがしたのを覚えている。

地上からの照空灯に照らされて、巨大なB29爆撃機が思いがけない低空飛行で次々と侵入してくる。そしてその照空灯の光条に沿うようにB29から赤と緑の糸が地上に降りてくる。機関砲は連続して弾を発射しているのだが、着弾を確認するために数発ごとに曳光弾を挟んでいるのである。勿論銃弾は高速なのだが、遠くで見ていると、まるでホースから水が出るようにゆっくり地上に降り注いでいた。


ゴーッという音とともに、この地区にも焼夷弾が降ってきた。お向かいの家が燃え出した。こうなると、もうまったく手がつけられない。自分の家に飛んでくる火の粉を消すのが精一杯だ。 防空壕を出る時は恐怖感に襲われていたが、出てしまい降り注ぐ火の粉を消して回っているうちに、そのことに夢中になり、怖いともなんとも思わなくなった。


しばらくして突然、ボーンと爆発音がした。なにが起こったかと見ると、お向かいの楠の大木が、爆発的に燃え上がったのだった。周りの火事の輻射で熱せられ、樹木全体が引火点に達したのであろう、メラメラなどゆっくりした燃え方ではなく、まさに爆発であった。

いつ爆撃が終わったのか、そんなことを考えることもなかったし、全体の情勢を判断する術もなかった。


「消火、消火、出動!」と大声が聞こえた。一軒置いた西隣の家が危ないのだという。隣の家が燃えだせば、もう延焼を防ぐのは、事実上不可能なのだから、これは重大な状況であった。

その家では土蔵の中が燃えていて、住居の方に延焼するのを食い止めようというのであった。

もともと土蔵というものは、周りの家がが燃えても中の貴重品を残せるようにと、厚い土の壁を備えているのである。上からの焼夷弾が屋根を突き破り中から燃えることは予想などしていない。ひとたまりもなく危険状態になったのである。

若い私は土蔵の入り口に張り付いて、後ろから順番に手渡しされるバケツの水をかけて火がこちらに入ってくるのを防ぐ役を務めていた。

やがて土蔵の中はすっかり燃え尽き、一息ついた時には、もう東の空が薄明るくなっていた。この夜は、我が家は守り通せたのである。

家に帰り、文字通り泥のように眠った。


ポツダム宣言を受け入れ降伏したのは、この年の8月15日である。その3ヶ月前にあたる5月14日、17日の空襲が、焼夷弾による攻撃の最後だった。この時までの度重なる空襲により、名古屋市はほぼ焼きつくされ、これ以後は爆弾攻撃あるいは艦載機による機銃掃射攻撃に代わった。


5月14日は、アメリカ空軍B29、440機による昼間の低空からの攻撃だった。

その半年前、最初の名古屋への本格的攻撃が始まった頃は、日本軍側にも高射砲・迎撃機という防御力があった。それを避けるために、米軍の爆撃は昼間に1万メートルという超高空から行われた。

それから3ヶ月後には、日本側の貧弱な反撃能力を見透かして、夜間の低空からの都市焼き払い作戦に切り替えた。勿論、低空から爆撃すれば目標への命中率は高くなる。

さらにその2ヶ月後の5月には、目標確認の容易な昼間の低空からの攻撃と変わった。この頃になると、B29は防御用に搭載していた機銃も減らし、その分余計に焼夷弾を積み込んで来襲したのだと聞いた。まさに赤子の手をひねるような、やりたい放題の有様であった。


他方、焼け野原の中にぽつんと残った家にいた私の側も、今日の大編隊による絨毯爆撃では、ここが目標にされるることはあるまいという、戦場馴れの気持ちがあった。それで、我が家の向かいの焼け跡に立って、爆撃の様子を眺めていた。

この日、名古屋城など市の北部が燃え上がった。西風だったので、頭上に濃い煙が流れ、焼けた紙がひらひらと飛んできた。やがて、 昼なお暗いという状況になった。大火災の強い上昇気流で、天気は雨模様に変わっていった。


「肝心の飛行機は作れない。力の差は開くばかりだ。この戦争は勝てない。負けだ」、私はそう思った。

この頃、「一億火の玉」「必勝の信念」という勇ましい声ばかりが高くて、「負けるかもしれない」などいう言葉は、世間では禁句であった。

この日の爆撃を目撃しながら、メディアなど世間で言われていることとは違う、自分自身の意見を持ったことをはっきり意識した。それは私の人生で最初の経験だった。ときに私は中学3年生、15歳であった。


生家消滅など大げさに取り上げたが、実は私がこの家に住み始めたのは3歳のときであるらしい。物覚えの悪い私はその前のことはまったく憶えていないから、実質的に生家と変わらない。

それから30歳で結婚するまでこの家で生活した。だから、思い出はもう数限りなくある。

その思い出多き家は、先月、最初の日に重機が石垣を踏み潰して入り込んでから、たった1週間で跡形もなくなってしまった。

数限りなくある思い出の中で、これだけは書き止めておこうと頭に浮かんだのは、68年前、焼滅していたかもしれなかった、あの日の生家の運命の岐路のことなのである。

生者必滅 会者定離、まさに順調に老い、順調に滅したのである。わが生家と、わが家族に与えられた幸運に感謝すること頻りである。



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