題名:スイス、オーストリア

(2000/4/11〜22)

重遠の入り口に戻る

日付:2000/6/27


?キャシーの見舞い

 

今から四四年前、一九五六年、私がアメリカのニューヨーク州スケネクタディ市にあるGEの工場で研修を受けていた頃、町の人たちはとても親切にしてくれたのでした。

そんな親切な家庭のひとつ、ホーストマン家の娘キャサリン、愛称キャシーは中学へ入ったばかりでした。

その年頃の子供は、子供仲間のリーダー格として振る舞う事が多いのです。

私が昔のカタカタと音のする、コダックのムービーカメラを向けると、彼女は子供たちを引き連れて、リンゴの木の裏に逃げ込んだものでした。

シャイな女の子、というのが彼女についての私の印象でした。

私と同じ会社から2年後に研修に行ったO氏は、キャシーの噂が出る度に、彼女は美人だったよと仰るので、その頃から急に美しいお嬢さんに変身したのだと思います。

そのキャシーが、アメリカに留学していたスイス人ユルグ・マイアー氏と結婚し、スイスに連れてゆかれたことは、彼女の両親との文通で承知していました。

一九八六年、マイアーご夫婦は日本に旅行に来ました。そして私の家に寄ってくれました。

一九九四年、マイアー氏はスイスの製薬会社の日本支社長として、東京に赴任してきたのです。

その頃、私が仕事で上京したついでに、彼らが泊まっているホテルのロビーで会ったことがありました。お二人は、まだ、来日したばかりで、住むところも決めてなかった頃のことでした。

私の妹のピアノの弟子が、アメリカ滞在中にキャシーと仲良しになっていたのです。

その友達が、代々木のキャシーの家を訪ねたりしているうちに、私にも家族連れで一度来いとご招待をいただきました。

長年、東京を遠いところだと思っていた私も、その頃には、スイスとからの距離に較べれば、東京なんて近いものだと思い始めていました。

そこで、家内を連れ、また我孫子に住んでいる娘の家族も同道し、彼女のマンションを訪ねてご馳走になりました。その時に、散歩がてら東京テニスクラブに行き、キャシーの旦那は、天皇陛下のロッカーの四っ五つ隣にある彼のロッカーを見せてくれました。

時の経つのは早いもので、その次会ったのはマイヤー家が日本から去るときのサヨナラ・パーティでした。

会場は、芝にあるアメリカン・クラブでした。

大変な盛況で、スイス大使や教会の偉い牧師様も来ておられました。

あのニューヨーク州の片田舎の、リンゴ農家の娘さんが、よくやっているもんだなと嬉しく思ったことでした。

一九九六,一九九七年と、私はモンブランに登りにスイスへ行きました。

一回目は職場の仲間とパーティを組んで行ったので、キャシーのところには寄れませんでした。

二回目は単独行でしたから、今から思えば寄っても良かったのでしょうが、やはり山登り主体だと服装が場違いですし、スケジュールが確実に立てられないことなどの事情から寄らずに帰って来てしまいました。

正直なところ近くへ行きながら、挨拶しないで失礼したことを負い目に感じていたのでした。

 

一九九九年、昨年の夏、あちこちからキャシーが病気だという情報が入ってきました。

彼女がアメリカの父親を訪ねていた時に、体調が悪いので病院へ行ってみたら、すぐスイスに帰った方が良いと言われたとのことでした。

外人の病名は、英語の字引を引いても、ぴったりしたのが見つからないことが多いのです。想像半分で、卵巣ガンなのだろうと思っています。

始めの話では、手術もできなくて、あと2カ月の命と言われたようです。

スイスのマイヤー家には、一度顔を見せなくてはいけないと思っていた矢先のことでしたから、いま抱えているスケジュールを消化した後に、きっとスイスへ行くからと手紙を出しました。

 

その後、キャシーは手術を受け元気になった、それこそ神様のお恵みだという便りが、あちこちから届きました。

そして昨年末のクリスマスカードには、子供三人とマイアー夫婦の元気な写真が同封されてきたのでした。

 

以前二回使ったことがあるキャセイ航空の便を、大分前から申し込み、予約金まで払いました。でも、売り出し当日に、もう、取れなかったと連絡がありました。

それで、大韓航空にしました。これは昼間飛んで行く便なので、着くのが夕方になります。キャセイだと夜行ですから朝着くのです。一日損をしたような気がしましたが、帰りが二〇時発なので、ここで取り戻せたと思っています。

私の妹は、成田からソウルへ飛び、そこで名古屋からの私と合流する予定でした。

ところが、ソウルの空港に妹は現れないのです。尋ねてみましたが、なにかはっきりしないのです。

チューリッヒ便の乗客名簿も見せて貰いましたが、やはり殆どが韓国の人でした。

チューリッヒの空港に着き、簡単な入国手続きを済ませ廊下に出ると「お兄ちゃん!」と妹が声を掛けてきました。

大韓航空の成田からソウルまでの便に不都合が起き、会社が日本航空の直行便に振り替えてくれて、先に着いていたのでした。

 

空港にはキャシーと旦那とが車で迎えに来ていてくれました。一時間半のドライブで、バーゼルの彼らの家に着きました。

キャシーは、意外に元気でした。

まだ、薬を飲んでいますし、本人も「本当に回復したら・・」というようなことを言います。

でも、全然、病人らしい様子は見えませんでした。バーゼルのミュンスター大寺院の高くて急な階段を頂上まで一緒に登ったぐらいなのです。

 

手術が終わった後、信心深い看護婦さんがキャシーに、聖書のなかにある詩を読んでくれたのだそうです。

「わたしはひどく押されて倒れようとしたが、主はわたしを助けられた。

主はわが力、わが歌であって、わが救いとなられた。

わたしは死ぬことなく、生きながらえて、主のみわざを物語るであろう。

主はいたくわたしを懲らされたが、死にはわたされなかった。

あなたはわが神、わたしはあなたに感謝します」。

キャシーも敬虔なクリスチャンです。そして、この詩を、私にも分け与え、共有したいと言うのです。

 

彼らの住まいは、アルシュビルという、バーゼルの郊外の町です。

すぐ近所の広々とした緑の牧場から、市の中心部の高層ビルが見えます。

町なかの教会の屋根に、今でもコウノトリが巣を掛けています。

 

・連ぎょうをキャシー・ユルグと眺めをり

 

?バーゼル

バーゼル市の人口は一七万人、周辺をあわせて三六万人、アルシュビルはその郊外の町のひとつなのです。

バーゼルは市街の中をライン川が流れています。

河の西が古いバーゼル、東が新しいバーゼルなのだそうです。

ヨーロッパのあちこちで似たような話を聞きましたが、ここでも古い街の住人たちが、新しい方の住人を馬鹿にして、お互い、仲が悪かったのだそうです。

古い方の岸の建物に、河の対岸を向いて舌を出してアッカンベーをしている男の顔が作りつけてありました。

ライン川はこのあと、ドイツ、オランダを通って北海に流れ込むのです。

ここは河口から七〇〇〜八〇〇キロ上流なのですが、流量も豊かで、流速もかなりなものです。

市内に渡し船があります。両岸の間にワイヤを張り、そのワイヤの上を滑る滑車に船が繋いであります。船の舵を左右するだけで、流れる水のエネルギーを利用して船は河を行き来しているのです。

また、ライン・ボートと呼ばれる大きな船が河を上下しています。

「ガソリンの値段は、ライン川の水位がハイならロー、ローならハイ」つまり、それぐらい大事な輸送路だというのですが。

バーゼルにある港は、スイス、フランス、ドイツ3国が共同で使っています。

また、バーゼル空港は、フェンスで囲った通路で、お客は直接フランスへ出たり、スイスへ出たりできるのだそうです。

キャシーの家から二〇〇mほど歩いていった畑は、もうフランスなのです。柵もなんにもなくて、板門店の雰囲気は全くありません。そして反対側に見える塔のある岡は、ドイツなのです。

バーゼル市内の、道路標識で、右の矢印がドイツ、左の矢印がフランスと書かれているのを見掛けました。

 

こんなにして、見るもの聞くこと、みな珍しく、目をキョロキョロさせている様子を書きつづったのでは、読む方はたまらないだろうと思います。

そこで、バーゼルの報告の代表として、ひとつだけ、市美術館のことを書かせていただきます。

一言で言えば、よくこんな小さな町の美術館に、こんなにも沢山、有名な巨匠の作品があるなということでした。マイスター、ホルバイン、ブリューゲル、ルノワール、ゴッホ、モネ、ドガ、ゴーギャン、ダリ、ロダン、シャガール、ムンク、ピカソなど聞いたことのある名前が並んでいました。

 

美人以外の美術に弱い私は、妹に尋ね尋ねしながら見て歩きました。

そして、これだけの長い時代に渡る、沢山の絵を見ていながら、全体に、なにか流れのようなものを感じていたのです。

ここには古いホルバインのものが沢山あるので有名です。

古いものでは、マイスターのものも幾つかあります。

この時代のものは、宗教画としての色彩が濃いと思いました。それらの絵の中の人物は写実というよりも、観念として画かれているように見えます。

時代が下ると、人間は人間らしく画かれるようになり、景色は写真のように正確、緻密になります。

またそのうちに、だんだん写生だけでなく、強調、省略などして、作者の意図を盛り込んだものになるようであります。

そしてそのあげく、後期ピカソのような、俗人には不可解な、なにのためにあるのか分からないようなものになってゆくのです。

この先相当の時間が経たないと評価は出来ないのでしょうが、定規で線を引っ張っただけの絵とか、あの鉄くずとか、紙くずとしか見えない作品は、わたしには作者の独りよがりとしか思われないのです。

以前、日本のある美術館で、作り損ないの土器みたいな作品を延々と見せられたあと、屋外へ戻ってまっすぐに立った木を見て「やっと、ほっとした」と漏らした友人がいましたが、正直な人だと思いました。

 

・春寒や噴水ロボットとりどりに

 

?別荘

スイスのバーゼルに二日いて、あとオーストリア国のインスブルック市の近くにあるマイアー家の別荘に連れていって貰いました。

隣国にある別荘ですが、車で二時間半で着きます。名古屋から木曽駒高原へ行くぐらいの時間です。

国境には料金所のようなゲートがあって、車を止めてチェックしていました。私はパスポートを、車のトランクに入れておいたので、出して下さいとマイヤー氏に頼むと「まあ、様子を見ようや」との返事でした。

私たちの番になると、係官は、OK、早く行けという仕草をしました。

相手を見て、ある程度,勘で処理しているのです。

 

オーストリアに入ってから、トンネルを通らないで、わざわざ標高二〇〇〇mほどの峠を通ってくれました。まだ、雪がたっぷりあって、大勢、スキーを楽しんでいました。

志賀高原道路と同じ様な感じでしたが、驚いたのは数年前、ここの麓、ザンクト・アントんで起こった雪崩の大きさです。

村も鉄道も道路も、もろに持って行かれ、大勢の犠牲者を出したのでした。復旧工事が進んでいましたが、日本では見たことのない大規模な雪崩と、被害でした。

アルプスの厳しい自然、そして、その中でこれまで生きてきたし、これからも生きてゆく、その辺りの自己責任の雰囲気が、日本にはないもののように思われました。日本で起こったのでしたら、自然災害は総て人災として糾弾され、謝罪し、大規模な土木工事で自然を破壊することになることでしょう。

 

マイアー家の別荘は、インスブルックから車で二〇分ほど東にあります。

彼らは何年もこの土地の貸別荘に来ていたのですが、二年前に良い出物があったので買い取ったとのことでした。

朝、目を覚ますと、広々とした窓からすぐそこに雪の山が見えました。

食堂からは、婚約山が見えました。マイヤーさんの息子さんが、その山の頂上でプロポーズし、彼女がOKを言ったのだそうです。勝手に名を付けて自分の山にしてしまう、そんな雰囲気の景色なのでした。

別荘は、ちょっとした企業の保養所ほどもある、豪華な建物でした。

定員四人のジャグジー(泡と水流のある風呂)があるといえば、そのデラックスぶりが分かっていただけることでしょう。

京人形を始めとして、彼らが日本滞在中に求めたものを、家中に置いて、愛用してくれているのを嬉しく思いました。

あまりに豪華なので「この豪華な別荘を買うのに、アラブの王様にいくら払ったのか」と下手なジョークを言いました。しかし、マイヤー氏は「外国のものじゃ、インドで絹の絨毯を買ったときに、しかじか払った」と真面目に返事し、ジョークは通じませんでした。

スイス人と日本人がお互い、生国でない言葉の英語を使っているのもひとつの理由ではありますが、どうもみんなが、このようなデラックスな別荘を持っているようでもあります。

おしなべてヨーロッパを旅していると、世界の沢山の国と較べて、人々がそんなにシャカリキになって働いているようには見えないのに、豊かで清潔な良い暮らしをしているように見受けられます。

神様が不公平なのか、過去の歴史が違うからなのでしょうか。

 

・スイスにてスイス娘と若菜摘む

 

?インスブルック

インスブルックでは、過去二回、冬期オリンピックが開かれています。

ジャンプの競技場を見にゆきました。観光客に解放されている一番上のところまで行ってみました。

ジャンプに踏み切って飛び降りて行く先に、教会とその墓地が見えます。

お墓目がけて跳び込んでゆく選手たちには、不吉な恐怖心がこみあげては来ないものでしょうか。

お墓といえば、この辺りのお墓は、今の時期はパンジーなど花が植えてあって、とても綺麗です。

それに引き替え、日本の○○霊園などいうところでは、枯れて腐った花束を見にゆくようなもので残念なことです。

あまりに綺麗なのに感心して、誰が手入れするのかと尋ねました。

家族だという返事でしたが、本当にそんなにうまくゆくものでしょうか。

さて、ここのジャンプ台で着地するスロープは、土のままのいわゆる地山でした。長野オリンピックのとき白馬村に造ったジャンプ台は、全体が巨大なコンクリートの固まりでしたが。

 

インスブルックは予想外に大きな街でした。そして周りにすぐ近く、峻険な山を巡らせています。長野県の大町市とは較べものにならないほど、標高差一七00mもある険しい山が近くに迫っているのです。

東西にはチューリッヒからウィーンへ通ずる広い谷が通っています。

広いといっても、幅は二キロ弱でしょう。また、南へはブレンナー峠を越え、イタリアのベローナに通ずる谷も見えました。

谷の合流点なので交通の要所であり、またそのためにどちらから吹く風もこの街に集まるのだそうです。この日も、強いフェーンの風が吹き、ゴンドラの運転が危ぶまれるほどでした。

ゴンドラを下りて標高二,三三四mのハーフェレカーに立つと、そこはまるで冬山でした。

スキーをしている人が、何人かいました。狭くて急なコルをこなさなくては、下りることは出来ません。

世界中の言葉で、ここのスキー場の危険性を表示してありました。日本語、韓国語までありました。日本だったら、疑いなく厳重な柵を結って、物理的にも立ち入り不可能にしてしまうことでしょう。

ここでは、今年も3月になって、とうとう死者が出てしまったと言っていました。

 

ここの近くのハルという町では銀を産出し、ドルの語源になったといわれるヨーロッパで一番良質だったターラー銀貨が造られたのです。

その富で、ハーゼック城が建てられました。

今回の旅行では、いたるところで実に沢山のお城を見ました。

考えてみると、お金を集める手段というものは、集められる方から見れば完全に納得して出したということは少ないように思います。

そんな手段によって集めたお金で、お城を作るわけです。

自然のままに置いておけば価値のない石を、何らかの対価を払って切り出し、人に仕事を与え、城を造った本人は、何年かは得意な気分でいたことでしょう。そんなにしても、ある場合は、あっと言う間に他人に奪われてしまったでしょうし、運が良くてもせいぜい数代子孫が住むぐらいのことなのです。

結局、お金は世間に返って行ったことになります。

石造りのお城を見るたびに、空しい、空しい気持ちにさせられました。

考えてみれば、地球上どこでも、またどんな時代でも、人間はそんなことを営々として続けてきているのです。

ただ、ヨーロッパでは石造りのお城が大変に沢山残っていて目に触れるので、余計にその感を深くさせられたのでしょう。

 

夕方、マイアーさんに村のパーティに連れていって貰いました。

ここに住んでいる芸術家のおばさんが、自分が作った陶器の作品を売るために人集めのパーティを開いたのです。

最近、ここへ進出した銀行の出張所が会場を提供したのです。

トランペット3人のコンサートと、スナック、シャンペン付きでした。

トランペットは、最近の曲らしく、ハーモニィを無視したような曲でした。私の妹は音楽家ですから、音が合ってないと言ってました。

素人の余興ですから、可愛いと聞くべきでしょう。

私も謡曲で、よくこんなにして、聞く人を悩ませているのです。

キャシーは山登り屋ですから、私を山登りの仲間に紹介してくれました。その中の二人は、日本に来たことがあると言い、英語を喋りました。

田舎の地元の人たちのパーティに紛れ込んだにしては、結構、面白く片言会話をしていました。

オーストリアではドイツ語が使われています。私はドイツ語に馴れていませんから、こちらが話す方は相手が想像して理解し面白がってくれますが、相手の言うことは全然聞き取れませんでした。

帰りの車を運転しながら、キャシーの旦那が「誰もかれも、キャシーが元気になって良かった。主婦の仕事を良くこなしてる。そう言うばかりで、だれも俺が仕事で成功してると褒めてはくれぬ」とこぼしました。私も調子に乗って「ミー、トゥー」と言ってやりましたが、キャシーが元気になったのは旦那だって嬉しいに違いありません。

それにつけても、マイアー家が幸福の最中にあるだけに、余計、キャシーの病気の本復を祈りたいのです。

 

ボルグルの駅で彼らと別れ、これからは妹との二人旅です。

列車は三〇分ほど走ると谷を出ました。

それからウィーンまでは、途中、山に近づくことはあっても、谷に入ることはなく、ずっと平野を走り続けます。

ここからザルツブルグまでの一時間は、なんとドイツの領内を走るのです。

ヨーロッパの歴史を見ると、土地、住民、鉄道などのインフラストラクチャーはそのままにして、政府の取り決めで、国境線だけがあっちへ行ったり、こっちへ来たりしているようなのです。

第一次世界大戦の前は、オーストリアはとてつもない大きな国だったのです。それが今は、戦争の結果、北海道とほぼ同じ面積にまで小さくなってしまったのです。ここは、その名残なのかも知れません。土地使用料をどうするなどは、国境線を決めるときに取り決めてあるのでしょう。

 

・高々と青葉眩しきジャンプ台

 

?オーストリア人

さて、スイスに着いた日からオーストラリアを旅行しているあいだ中ずっと、桜が咲いているのが目に入りました。

畑にある桜は、鑑賞用ではなく、サクランボを採る目的のものなのです。

山にある桜は近寄っては見ませんでしたから、どんな種類か分かりません。

いずれにせよ「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花」や、東京都がワシントンのポトマック河畔へ桜並木を贈ったなど、桜は日本の専売のような気がしていましたが、結構ヨーロッパにも広く分布していることを知りました。

 

ウィーンに着くと直ぐ駅の中のインフォメーションに行きました。

鉄道インフォメーションというのもあったのですが、そうじゃない方のインフォメーションに行ったつもりなのです。

そしてそこで、翌日のブタペストへのツアーの手配と、オペラの切符を買う場所を聞いたのです。

ところが、剣もほろろに、ここは教える所じゃないと言うのです。

だって、インフォメーションと書いてあるじゃないかと言ってやりましたが、先方にやる気がなければそれまでのことです。

音楽の関係で、以前、この町へ来たことのある妹は、あれが典型的なオーストリア人だと言いました。

実は、そのデスクから五mほどの通路を挟んだ向かい側のカウンターで、ツアーの手配はできたのでした。

また、オペラの切符の売り場だって、事前にちゃんと住所は調べておいてから尋ねたのです。

名古屋駅で、プレイガイドへの行き方を聞いたと思って下さい。

案内所は当然のこと、売店の人でも、掃除の人でも、親切に教えてくれるに違いありません。

駅のインフォメーションの係りの人は、プーチン大統領のような顔つきの人でした。

ニコリともせず、まったく愛想がありませんでした。

 

ウィーンにいるあいだ、あるとき地下鉄で表示をキョロキョロ確かめていると、親切に「どこへ行くんだ?」と声を掛けてくれた人がいました。

それはフィリピンからきてホテルで働いている人でした。彼は我々が目的地に着くまで世話を焼いてくれました。

その彼が「ウィーンは清潔だし、人々は親切だし・・」と言うのです。

 

ユース・ホステルで同室になったオーストリア人たちのことも書いて置きましょう。

ある青年は、大学の経済学部を卒業したのだそうです。会社の出張でウィーンに出てきているのでした。仕事の書類を読んで置かなくちゃいけないけれど、朝の方が効率的だからとか言って、早く寝てしまいました。

その彼は「あなたもそうだが、日本人は人に話しかけて来て社交的ですね。オーストリア人はどうも、自分の穴に閉じ籠もちゃうんです」と言いました。

オーストラリアには政治でも音楽でも、そのほかいろんな分野で大活躍した人がいたじゃないかと持ち掛けました。そして、どうして今はそういう人たちが出ないのだろうねと疑問を投げかけました。

「複雑な社会関係が強過ぎるんだと思う。新しいことを始めようとしても、従来の社会の束縛が強くて、とても難しい。

ドイツのボッシュという会社を知ってるか。彼はオーストリア人なんだけれども、ドイツへ行って、やっと会社を起こすことができた。オーストリアにはもっと自由がなくちゃ」と言っていました。

彼はマラソンの選手だそうで「選手として日本に行けたら良いな。でも、オレの成績じゃ難しいかな」なんて言っていました。

 

また、別のときは、体重一二〇キロもある凄い小父さんと一緒になりました。

警察官だと言ってました。携帯電話にときどき入力していましたから、自分の現在位置を知らせていたのかもしれません。

彼はドイツ語しか話せないのです。

これはどちらかというと珍しいと言っていいでしょう。

ついでながらオーストリアでは、かなり英語が通じました。英語は必修科目になっているのです。ひどい訛の人が多いことは当然として、ともかく有り難いと思いました。

その警官の彼は、私に向かって「イングリッシュ」と聞きます。「ヤー」と答えると、得意そうに自動翻訳器を取り出しました。

それにドイツ語を入力して、変換を押すと、英語で表示されるように出来ているのです。

ところが、それがなかなかうまくゆかないのです。

 

小父さんの指が太すぎて、小さなキーが隣まで触ってしまうのか、それともドイツ語の綴りが正確じゃないのか、いずれにせよあまり成功しませんでした。

「ドゥー ビスト シュタルク」オマエハ ツヨソウダと私が彼の体格を褒めました。

彼は、朝飯を沢山食べると強くなるのだと言いたいようでした。その朝飯という単語が、ドイツ語ではモルゲン エッセンではなくて、ブレックファーストとも関係ない

単語なので私には分かりませんでした。

 

たしかに彼の朝飯の食べ方は凄いものでした。

食堂に行くと、その小父さんがいましたから、彼の前に座りました。

小父さんは、パンにバターとジャムを一杯つけて5個も食べました。

机の上に牛乳の入った二リットルぐらいポットがありました。

そのポットから私は、コップに一杯注ぎました。

残りは、小父さんがみんな飲んでしまったのです。彼は全部飲むつもりでカウンターから持ってきていたのかも知れないと思いました。

なんか私も釣られてしまって、いつも一つしか食べないパンを、二つも食べてしまいました。じつは、次の日の朝も、つい二つ食べてしまいました。まったく、恐ろしい伝染力です。

私が先日ウィーンからブダペストの観光に行ったと言いますと「あいつらは共産主義者にコントロールされていた。いまでも一生懸命働かなくて、貧乏で、泥棒や人殺しが一杯いる」と、首を切る仕草をして見せました。他民族について、こんなひどい言葉を聞くのは久しぶりのことでした。

 

イッヒ フェルシュタント(分かります)と言うと、フェルシュタンデンと過去形で言うのだと教えてくれました。

私がもうちょっと若くて、こんな小父さんと一週間一緒にいたら、五四年前高校で習ったドイツ語をどうにか話せるようになるだろうと思いました。

 

髪がチリチリのアフリカのお兄さんと一緒になったこともありました。

部屋の窓を閉めておいても、気がつくと開けてあって、車の音が喧しくて寒くて閉口しました。ユース・ホステルに泊まるのでは、そう言うことを気にしてはいけないのです。

 

ある朝、駅のベンチでリンゴを囓っていました。

すると、体格のいい駅員だかお巡りさんだとかのような人が見回りに来ました。そして、お酒を飲んでいた人が、追い出されました。

その厳しさは日本じゃとても考えられないものでした。なんとなしに、お上のオイコラみたいな昔のムードが残っているようなところもあるようです。

 

?ブダペスト

日帰りのバスツアーで、ハンガリーの首都、ブダペストに行きました。

ハンガリー国境での入出国のチェックは、日帰りの観光客に対してはパスポートをかざしてみせればいいだけの、いわば形式的なものなのでした。

しかし、ほかの車の検査もあるので、検査官が来てくれるまで、延々と待たなくてはなりませんでした。

帰りには、ゲートの大分前から、来たときと違う道を走っているのに気が付きました。

そして国境ゲートの近くで、トラックの列に横入りの格好で入ってしまいました。

この行為は広く認められているようでした。なにせ片側一車線の道路ですから、まともにトラックの列の後ろに付いたら、いかに優先的に処理しようとしても、やりようがないわけです。

 

ウィーンからブダペストまで、名古屋から小田原ぐらいの距離ですが、緑の大平原が続いています。

広大な平原は、今までインド、中国、オーストラリアなどで見てきましたが、こんな緑の豊かな大平原は始めてでした。

飛行機の窓から見ていても、ヨーロッパというのは本当に緑豊かな地域のように見受けられます。これは、本来は緯度とか、大洋と陸地の関係、山と平地の配置、風の吹き方などのもたらす結果だろうと思うのです。

こういう所で育った人たちには、潜在的に、緑の大平原が当たり前のものという意識が底にあるので、ほかの地域が緑に恵まれていないのを、直ぐに人工的な自然破壊と非難するのではないかと思われるほどでした。

自然の条件と言えば、この時期にヨーロッパからのルートを飛ぶと、アジア大陸の奧の砂漠地帯の東側では、対流圏の天井まで空気そのものが砂埃で濁っているのは、どうしようもない運命だということが分かります。

北京、ソウル、名古屋と段々に濁りが薄くなるのも、まったく川の流れを見ている感があります。

それにしても、スチュワーデスたちは、どうしてあんなに客室の窓を閉めろと五月蠅く言うものなのでしょうか。外を見ているのは、とても楽しいことなのですが。

 

そうそうブダペストの話をしていたのでした。

ハンガリーは現在の人口は約一〇〇〇万人、減少しているのだそうです。面積は日本の約四分の一ですが、これは第一次世界大戦で負けた結果、周りの国に領土を取られ、元の三分の一になってしまったのだそうです。

街の中央をドナウ川が流れ、ブダの側は丘陵、ペストの側は平原の美しい首府です。

市の人口は約二〇〇万人です。

安定した大陸なのに、ここに温泉があるのは不思議な気がします。

有名な音楽家リストは、この街の出身で、家が残っています。

ハンガリーの建国は九世紀、ウラル山脈から出てきたマジャール人が創った国です。

その首都のブダペスト市は美しい恵まれた街ですから、モンゴルのジンギスカンに侵され、次いで一五〇年もトルコの支配下に苦しみ、その後も日独伊三国同盟に入りながらドイツに占領され、第二次大戦後はソ連の支配下に呻吟し、一九五六年には改革を図りながらソ連に鎮圧されました。このとき数千人の犠牲者を出したといわれます。

私はそのとき、丁度ニューヨーク州の片田舎にいました。ハンガリーから難民がアメリカに逃れてきたのを、ボランティアたちが引き受けて世話していたのを覚えています。

ソ連の締め付けのタガがゆるみ、一九八九年、ハンガリー経由で西側に出ようとする東独の人たちのために東独との国境をこの国が開いたので、結果的にベルリンの壁を開けざるを得なくなったのです。

この歴史が語るように、ブダペストは魅力のある都市であり、ドナウ川に沿って東からヨーロッパに攻め入る道筋に当たります。

そしてまた、守備し難い街なのかも知れません。

あまりに美しいがために、かえって不幸になったヒロインと似た運命にあるのでしょうか。

 

街の観光の内容は、ガイドブックに任せたいと思います。

私たちのバスは、大きなバスでしたが、日本人は二組で五人、残りはマレーシア航空のスチュウワデスさんなど英語による解説を希望する人が一〇人ほど乗っていました。

日本語のガイドさんと、英語のガイドさんが乗って、一つのマイクを交互に使って街の説明をしてくれました。

二人ともとても熱心で、ついには「前の人が長く喋ったので、通り過ぎてしまいましたが・・」など、喧嘩腰になったほどでした。有り難いやら、可笑しいやらでした。

 

ハンガリーでは「いかに早く進歩するかは、いかに早くロシアから離れるかだ」と、言われているそうです。

ブダペストの郊外には、日本の電機や車の会社の看板があったり、活気がありました。

また、街の真ん中の観光客相手の歩行者天国は、大変な賑わいでした。

しかし、国全体として暗い感じは否定できませんでした。とくに農村は疑いもなく淋れていました。

歴史に翻弄されたハンガリーの人たちにとっては、主張したいことが沢山あるに違いありません。しかし、現実は現実ですから、なんとか状況を良くして行くよりしかたないのです。

日本語のガイドさんは「日本の景気はどうですか。来る人が減っているんですよ」と嘆いていました。

「確実に回復しつつありますよ」と慰めてあげましたが、この時ほど経済企画庁長官の見解を嬉しく思ったことはありませんでした。

 

・エリカ咲くここも老人多き街

 

?ドナウの川下り

折角のチャンスですから、ドナウ川の川下りにも行きました。

ウィーンの西、鉄道で2時間弱離れたメルクという街からクレムスまで、二時間の船の旅です。

メルクには一〇世紀に建てられ、一八世紀に改装された豪華絢爛な修道院があり、まずこれを見学しました。

金にあかしてという言葉どおりの建造物だと見ました。

とくに九万冊の蔵書を収めた図書館にはびっくりしました。

これだけの本だと、部屋の四方の壁全体が、並べられた本の背表紙で覆われてしまうのです。よく百科事典などに使われている背表紙の金色が、金色の壁を演出することになるのです。今更のように、背表紙の美術的価値を知らされた思いでした。

ここの修道院でも、また、ほかの大きな教会でも、建物の中に領主様の部屋があったり,王家の死者の臓器を保管したりしていて、政治と宗教とが密接に結びついていたことが感ぜられました。

ここの修道院でも、薬の調合や、測量なども司っていた有様が展示してあります。

いわば金と権力が修道院に集中し、それが頭脳を引きつけていたということなのでしょう。

昭和二一年第二次世界大戦が終わった翌年に、中学を卒業した私は、とうとう西洋史というものを、学校ではただの一秒も習わなかったのです。

今回、ヨーロッパの旧跡を旅しながら、中世ヨーロッパにあったと聞く、政教一致の有様を見ているのだと感じました。

そして、私の無知ついでに言わせていただけば、欧米の宗教と政治については、現在でも、なにか気味の悪いものを感じないではいられないのです。

人工衛星が飛び交い、遺伝子の解明がこんなに進んでいる今の時代に、聖書の創世記に述べられている起源と異なるという理由から、進化論を学校教育に取り入れるべきでないと言う意見が、結構多いとも聞くではありませんか。

 

ドナウ川のように水量が多く、かつ流速が早い川は日本にはありません。

そんな状態で、桟橋に船を着けるのは、相当難しい筈です。

どうするのかと興味津々で見ていました。するとやっぱり、私が考えてこれしかないと思った方法で着船しました。しかし現実には微調整が大変難しい筈で、慣れというものは大したものだと感心しました。

ドナウ川の両岸に古いお城が次々と現れます。

一二世紀に、イギリスのリチャード王を幽閉したという城も見えました。

こんなところにも、小さい国がごちゃごちゃしているヨーロッパというものを肌で感ずることが出来ました。

ワインにするブドウの木の段々畑が、静岡のミカン畑のように谷を埋め尽くしている所もありました。

 

・腰に手を廻すベンチや春麗

 

?国立オペラ劇場

ドナウの川下りからウィーンに帰り、慌ただしく国立オペラ劇場に駆けつけました。

音楽の都ウィーンに行ったら、ここで本場のオペラを見たいと思うのは当然です。

ところが、こうして駆けつけるときまで、とても中途半端で決心の付かない状態だったのです。

同行した妹は、前にもオペラを見に行ったことがあり、今回も当然行きたいと思っている様子でした。

情けないことですが、私が迷っていたのは、服装のことでした。

ウィーン国立オペラ劇場へ入るときの服装について、ガイドブックなど見ると、ロング・ドレスにタキシードは中年以上の人に任せるとして・・とか、立ち見の場合はある程度大目に見て貰えるが、席に着くときは男性はジャケットにネクタイうんぬんと書いてあります。

私はジャケットという服を知らなかったので、広辞林で引いてみました。

すると短い上着、ジャンパー、カーディガン、アノラックなどとあります。

これではどうも違うようです。

家内に聞いてみました。「背広でいいんだけど、それでもやっぱり上下が揃ってないと」と言うのです。

ともかくこのことのためだけに、今回の旅行全体とは、かけ離れた服装が要るようなのです。

それがぐずぐずしていた主な理由ですが、スケジュール的にもうまくマッチするかどうか、やってみないと分からないところがあったのです。

そんな訳で、席はまだ予約していませんでした。

妹には、間に合うようだったら立ち見席で見ようか、など言っておいたのでした。

 

スイスに着いてから、キャシーの家で、そのことを聞いてみました。

キャシーの旦那さんは「なに、観光客が多いんだから、みんな、服装なんか気にしてないよ」と言うのです。

私には、ガイドブックよりも、この意見の方がもっともに聞こえたのでした。

そこで、よし、ちゃんとした席を予約しようと決心しました。それで、ウィーンに着くや否や、すぐ予約に動いたのでした。

ところが、切符は土日には買えないよと言われてしまいました。買おうとしたのが土曜日で、公演は月曜日のことなのです。これは意外でした。日本では考えられません

し、今でも半信半疑ですが、ともかくそう言われたことは事実であります。

 

実際、スケジュールのほうもぎりぎりでした。

川下りの船が着くクレムスの町からは、ウィーンへ帰る観光用の直行列車が毎時あるような話でしたが、実際には連絡しておらず、手当たり次第、ローカル線に乗ったりして駆けつけたのでした。

劇場の前に着くと、当日売りの立ち見席券を買う人たちが、小走りに歩いていました。

建物の中に並んでいる列が見えましたから、入ろうとしました。でも、ドアはロックしてありました。来る人は、みんな一度はそれをやってみては、もっと左の方へ歩いて行きます。私たちも、またそれについて行きました。

やっと本来の入り口にたどりつきました。あまり、列が長くなるためでしょう、係りの人がときどきドアを閉めては、また、内部の列が短くなると開けたりていました。

外では、どんどん戸を叩いています。

並んでいる列が進むにつれ、最初に入ろうとしたドアのところへ来ました。そこでは相変わらず、沢山の人が外からドアをガタガタやってみては、諦めて奧のドアの方へ歩いて行くのです。

日本でしたら「切符をお求めの方は、二〇m左のドアのところで、お並び下さい」と看板を立てるところです。

オーストリアでは、駐車場の料金を人手を使わないで、自動機で精算するシステムが普及しているなど、結構進んだところもあるのですが、日本流の細かい気遣いがないように感じました。

本来の善し悪しではなくて、歴史や環境の違いによる価値観、習慣の違いであるものを、自分の基準で考えると、つい人間の善し悪しに思えてくるものなのかも知れません。

 

立ち見席には指定席はありませんから、ここで西洋流の「場所取り」を見ることができました。

立つ場所の前にある手摺りに、ハンカチ、スカーフなどを結ぶのだと、ガイドブックに書かれていました。これは、なんと言っても「場所取り」をすることが得意な女性を意識しているからでしょう。

でも、男はネクタイを結んでいました。広く取ろうと思えば、ネクタイならば一人半ぐらいの広さに結べます。オペラ劇場にはネクタイを締めて行けと言う理由が分かりました。

 

さて、気にしていた服装は、4階正面あたりの席では、色シャツ、ノータイという男性が、二〇〇人に一人ぐらいはいるようでした。

立ち見席なら、もう何でもありと言って良い様子でした。

 

ここの席から舞台が見やすいかどうかは、微妙であります。

私はかなりよく見えたと思いますが、妹はあまり見えないようでした。男と女の背の違いが大きな差を生ずるのです。自分の背丈だけではなく、自分の前にどんな人がいるかも大きな要素です。

私の場合、前の女性の髪が、結構邪魔になることも分かりました。ゴム輪を貸し出して、立ち見席にいる間は、髪を引き詰めるようにすれば、後ろの人は随分見やすくなると思います。日本流の改善提案ですね。

 

そうそう、別に国立オペラ劇場まで観客を見に行ったのではなく、本当はオペラを見に行っていたのでした。

出し物は、ラ・トラビアータ、椿姫でした。これならば内容は良く知っていますから、居眠りなどしないで、最後まで充分に楽しみました。

 

正直の話、私はあまり西洋音楽には強くないのです。

それですから以下に、ただ、ちょっと囓っている謡曲との比較で、素人らしい感想を披露させていただきます。

まず、前奏曲を聴いた途端に、その歯切れの良さに、快いものを感じました。そしてまた、「ああ、そは彼の人か」と出だす甘ったるいところの甘さ加減が、ひとしおのものに感ぜられました。そして、これらのパフォーマンスは、観客を乗せるテクニックを知り尽くした玄人中の玄人と言う感じでありました。

さて、謡曲にもピンからキリまであります。

習い始めの頃は、どうしても本を読むようになってしまい、猛々しい弁慶も、なよなよした小野小町も、一緒くたにした単調な調子になり勝ちです。。

ところが上達してくると、自然に話すように、ある時は嘆き悲しむような、またある時は心から感謝するような、表現が出来るようになります。

私も弟子には、能はオペラと同じなのだから、登場人物になりきって謡いなさい、と何時も言っているのです。ウィーンの国立オペラ劇場で、本物のメリハリの利いたオペラを見ながら、我が意を強くしたことでした。

 

歌劇椿姫の中の父親ジェルマン役はアルフレッド ヒサバティーニ、有名な歌手が勤めました。

ヒロイン、マルガリータ役のプリマドンナは、韓国の人だとのことでした。

妹は、このウィーンの舞台に立つようになると、自信と、より一層の精進で、めきめき上達するようだというようなことを言っていました。

確かに、謡の稽古でも、四つ褒めて一つ注意するというのが、一番効果的な教え方のように思っているのです。

 

一つ一つの言葉を、実に丁寧に、美しい発声で歌っていました。

肺も喉も、生き身の人間のことです。長い全曲を通して、マラソン選手のようなペースの配分も考えなくてはならないことでしょう。

そして、一瞬も気を抜かないことは、大した気力だと思いました。

そんなふうにして、最後まで張りつめた緊張感を感じながら、聞かせて貰いました。

全体には、音楽家の端くれである妹から教えて貰うことが多かったのです。

 

帰りに外へ出ると、妹の友達に出会いました。

なにせ、ここには日本人が沢山来ているのです。

出会ったのは女の友達でしたから、ひょっとすると「鈴木さんて旦那さんを亡くしたばかりなのに、もう素敵な男性と歩いてたわよ」など言いふらすのではないかと思います。

私も葬式で弔辞を読まれる前、生きている間に、間違いでもいいし一度でいいから、素敵な男性と言って貰いたいような気もするのです。

 

・異国の鳥異国の声に囀れる

 

?シェーンブルン宮殿

ハプスブルグ家のオーストリアが大国だった頃の栄華を伝える、シェーンブルン宮殿も見ました。

これはベルサイユ宮殿を手本にして、それよりも大きく立派に造ろうと計画されたのだそうです。

豪華な部屋が続いています。世界中から観光客が詰めかけていました。

イタリア人のグループがいると思えば、トルコ人らしい一群がいます。

そして案内人が、長広舌を揮っています。ブタペストでもそうでしたが、案内人というものは喋りたいものなのですね。

日本の観光バスでも、大層喋りたがるガイドがいます。

ともかく、シェーンブルン宮殿では、ガイドが知識を披露しているその度に、通路が交通渋滞を起こしていて、この日本のお爺さんは、あまり上品でない追い越しを掛けたのでした。

 

ここはまた大変美しく一,七平方キロと公園のように広い庭園があります。

愛知万博との連想ですが、ここシェーンブルンは莫大な富を集め、その財力で行った壮大な自然破壊でなくてなんでしょうか。

他国に富を提供し、他国の自然を破壊して造ってもらった公園を、お金を払って見にゆく、それが日本の自然保護なのかと思うと変な気がしました。

 

庭園の一角の小高いところに、祖国に命を捧げた人の鎮魂のために作ったグロリエッテという建物があります。

そこへ登る途中、立入禁止と書かれた芝生の坂を、髪の毛の黒い青年たちがドドドと駆け下りて来ました。

彼らの交わしている言葉を聞くと、日本語でなかったのでほっとしました。

私はとくに愛国者だというわけではありませんが、やはり日本人が外国人に軽蔑の目で見られていると,肩身狭く感ずるのです。

 

・三日居る内のヴィエナの芽吹きかな

 

?シュテファン寺院

 

シュテファン寺院を見ました。

ここの塔は一三七mあって、寺院の塔としては世界で三番目の高さということです。

六五年がかりで、一三五九年に完成されたものです。大きいけれども、キラキラした派手さのない重厚な教会でした。

この教会の地下にあるカタコンベ(地下墓地)を見ました。ハプスブルグ家の人たちの内蔵を保管している部屋があります。

ついでながら、内蔵でも心臓だけはアウグスティーナ教会に、また体を納めた棺はカプチーナ教会に保存されているのです。

日本人の私にとっては、三〇〇〇年も昔にエジプトでミイラを作っていた人が、現代もまだ、ここにいるような感じを受けたのでした。

 

また、ここの地下には、ペストで死んだ人たちを放り込んだ部屋があります。二〇〇〇体とも三〇〇〇体とも言われているようです。戸板に乗せられたのもありましたが、殆どはただごちゃごちゃになっていました。

今回のスイス・オーストリアの旅で訪ねたいろいろの都市で、かなり共通的に、トルコとの戦が終わったことと、ペストが収束したことを記念したモニュメントがあるのが印象に残りました。

この辺りのヨーロッパ人の心の底には「地震、雷、ペストトルコ」という気持ちが残っているのかも知れません。

 

ついでながら、数日後、グラーツ市では武器博物館を見ました。

おびただしい数の、小銃、槍、盾、鎧が陳列してあります。

展示のためというより、もう一度戦争になったときのために取ってあるのじゃないかと思えるほど膨大な数でした。

お定まりの、敵が幼児を槍に突き刺して担いでいる絵もあります。

帰国してから地図をじっくり見ると、なるほどトルコからヨーロッパに攻め込むときに、通路として選ぶならここだという、地形、場所であります。

なにせ、今のトルコからは想像できないほど、恐ろしいトルコだったようであります。

 

もうひとつ脱線します。ウイーンからグラーツへ行く列車では、コンパートメントの車両に座りました。オーストリアでは普通編成でもコンパートメントが結構多いのです。

正直なところ、私は普通の車両に座って、周囲の人と関わりなしに外を見ている方が好きなのです。でも、それが連結されていなかったので仕方ありません。

だんだん混んできて、子供を連れたおばさんたちが乗り込んできました。

そして、物凄いお喋りが始まりました。そのドイツ語は、一言も聞き取れませんでした。

感心したのは、一緒にいた小さな子供です。日本の子供だったら、自分が無視されると機嫌が悪くて、母親の注意を引こうとして、ぐずったりするものですが、この時は完全に大人は大人、自分は自分と辛抱し黙っていました。

この子供の態度は、この時だけではなくて外の時もそうでしたから、一般的な子供にたいする躾なのだと受け取って良いと思います。

 

陰惨なシュテファン寺院の地下から日の眩しい石畳の道に出ると、大勢の観光客がごった返していました。私は、ペスト記念塔を経由し、王宮の方へ歩いて行きました。

数メートル前を、ひときわ背の高い男女が手を繋いで歩いてゆきます。

彼らは、つと立ち止まってキスしました。そして、なんとその後も数歩歩くたびにキスしながら歩いてゆくのです。見せびらかすというのでしょうか。

旅行中、鉄道の駅などで男女がキスしているのは、よく見掛けました。

でも、こんなに派手なカップルは、空前絶後でした。

ともかく、今度のヨーロッパ旅行で、男を好きな女がいることにびっくりしました。

しかも、そういう男を好きな女の人の数が、想像外に多いことに段々気づいて、二度びっくりしました。

ドナウの川下りでは、船のデッキのベンチに老夫婦が並んで座り、腰に手を廻していました。

また、リンツ市の駅前では、ちょっとアルコールを聞こし召したホームレス風のカップルがベンチに座っていました。箒を持たせたら直ぐにでも魔女になれそうなお婆様でしたが、それなりに睦まじそうでした。

私も以前、モンブラン登山のときに訪欧はしているのですが、あれはやはり観光ではなかったのだと今さらのように思いました。

 

習慣というものはおかしなものです。

挨拶の方法として、相手を抱いて、ほっぺたを触れ合うのがありますね。男同士でもそうしています。

ユダがキリストを売ったときも、そうしたのでしょう。

私だったら、好きな相手とならばいくらでもしますけれども、物理的に密接な挨拶であるだけに、相手を嫌いだったら大変抵抗があるように思います。

しかし、それが習慣になっている国では、こん畜生と思いながら、なに食わぬ顔でほっぺたをくっつけているのでしょう。

 

・五歩ごとにキス交わし行く青葉道

 

?ザルツブルグ

 

ザルツブルグは観光の町です。私は三つバスツアーに参加しました。

どのガイドさんたちも、大変に英語が上手でした。

サウンド・オブ・ミュージックの時のガイドさんは、上手どころではなくて、本物のアメリカ人だと思いました。

大聖堂に行ったときのことです。ガイドさんがこの建物は戦災を受けたけれども、一九五六年に修復されたと説明してくれました。

私はどこの国が爆撃したのですかと尋ねました。彼女は「そうね・・ロシヤだったかしら」と言った後「ドント ビリーブ ミー 私は本当のことは知らないのだから」と言い足しました。ガイドとして、いい加減なことは言わないという教育が良くできていると思いました。また同時に、若い人の中では第二次大戦の苦しみも恨みも、すでに消えつつあるのだと思いました。

 

岩塩坑の見学に行きました。

昔々の地殻変動で出来たのです。

伊勢湾を想像して下さい。地殻変動で地面が盛り上がり、渥美半島のところで海と縁が切れてしまいました。後は海水が干上がり、その上に長い年月の間に岩や土が貯まったと思って下さい。(流れ込む川のことは忘れて下さい)

ザルツ(塩)ブルグ(城)というわけです。街を流れる川も塩っぱかったのでザルツッハと呼ばれています。

大陸では大変貴重な塩ですから、塩を売って得られる富でこの町は繁栄したのでした。

ホーエンザルツブルグという名の古いお城の中に、立派な塩の倉庫がありました。

岩塩坑は街から車で二時間ほどのところにあります。

途中で、「鷲の巣」という山を見上げる場所で休憩しました。ザルツブルグから南西に行き、ドイツ領に入って間もなくのところです。

この標高一八〇〇mほどの山にナチの要人たちの別荘や兵舎があったのでした。

ヒットラーはイタリアのムッソリーニなどをここに呼びつけて、会議を開いたりして、一時は枢軸国側の政治の中心の観があったとのことです。

ここまでは同じバスに、岩塩坑組と鷲の巣組が一緒に乗ってきて、この先で岩塩坑組はバスを降りるのです。

そして岩塩坑夫の作業衣を羽織り、トロッコ電車で坑中へ入ります。

岩塩坑が出来た経緯が前述の通りですから、塩の結晶も無いわけではないかも知れませんが、トンネルの周りは要するに塩っぱい泥といった感じです。

昔は、これを堀採って、地上で塩を取り出していたようですが、現在では下に向かって二〇〇mほどパイプを打ち込み、水を注入し、塩を溶かして二三パーセントの濃さになった塩水を周りから汲み上げ、それから塩を取り出しているのです。こうすれば、地上にボタ山、つまり廃棄物の山を晒すことが避けられます。

その塩水をなめてみましたら、ちょっと味があって美味しいと思いました。

段差のある坑道では、急な滑り台で滑り下ろさせたり、地下に作ってある一〇〇m四方もある濃い塩水の湖を、ボートで渡したりして、結構楽しませてくれました。

そして最後に、会社が作っている塩の小さなパックを、お土産に持たせてくれました。

 

・抱卵し親こうのとりたじろがず

 

?サウンド・オブ・ミュージック

 

サウンド・オブ・ミュージックのツアーにも参加しました。

このザルツブルグ地方が、あのミュージカル映画のロケの舞台になっているのです。

ロマンチックな映画など似つかわしくない私が、このツアーを選んだ理由は、献血の話から始めなくてはなりません。

私は随分昔から定期的に献血していました。勤務の関係で、あちこちの献血ルームへ行きました。赤十字マークの入った歯ブラシやボールペン、ネクタイ留めなど随分いただきました。

平成七年二月、満六五才になる直前、最後の献血をしました。

献血するのにも年齢制限があるのです。

そのときに、これでいよいよ世間をサポートする側から、サポートされる側になったんだなと、淋しく感じたことでした。

当然、先方には記録があるはずですから、長年ご苦労様でしたぐらいのねぎらいの言葉が頂けるのだろうと思っていました。

ところが、その直前の一月一七日に阪神大震災が起こったのです。

献血しようという善意の人たちがルームに押し掛けていました。採血の係員も不眠不休だったのでしょう。「最後の献血・・」など、こちらから言い出すことではありませんし、普通の一人の採血者としての扱いでした。

こうして、なんかピリオッドなしで、私の献血人生は終わってしまったのでした。

最後の何年かは、血液を一旦機械に取り込み、遠心分離器で分離し、赤血球だけを体に戻す、成分献血というのをしていました。

そのほうが輸血の需要にマッチするとのことでした。

いずれにしても、献血することで、自分の体にマイナスの影響が出たと感じたことは、一度もありませんでした。

さて、老人の常として、話が長くなってしまいました。

ベッドで横になって採血している約一時間のあいだ、ひとりひとりに希望のテレビなりビデオを見せてくれるのです。

その時に私はいつも、サウンド・オブ・ミュージックのビデオをお願いしていたのでした。

上下二巻に分かれていて,各巻がほぼ採血時間とマッチしていました。

アルプスの美しい景色と、聞き慣れた音楽が好きだったのです。

 

六〇人乗りのバスは、ほぼ満席でした。

ガイドさんは、流暢な英語でした。いろいろな点から、ここの住人が英語の勉強をしたのではなくて、アメリカ人そのものがガイドを勤めているように思われました。

「皆さん、どこの国から来られました?」、アメリカの人、イギリスの人といろんな国の名をあげ、手を挙げさせました。

カナダ、ドイツ、メキシコ、アルゼンチン、インド、韓国、オーストラリア、そして日本も呼んでくれました。日本人は私1人でした。

「外には?」と言うと「フランク王国」と言うのも出てきました。客の方もふざけて、平安時代にヨーロッパ西部を支配していた王国の名を言ったりしたのです。ガイドさんに「そりゃ何処にあるんだ?」なんて言われていました。

ともかく、昔の一つの映画のロケの場所を見たいと、こんなに世界中から人が集まってくるなんて、ほんとに面白いではありませんか。

私も善男善女の一人として、あの甘く懐かしいメロディーを聴きながら、半日過ごしました。

 

ものの本によれば、このストーリイの映画は、最初、現地で制作されたのだそうです。

ところが、それは特別に評判にはなりませんでした。

それが後年ハリウッドによって映画化され大ヒットしたので、そのことを現地の人たちは快く思っていないのだそうです。

そんなことがあってか、解説者は映画の中ではドレミの歌を歌っていた場所から、次のシーンまで五分で行ってしまっているが、本当は車で二時間かかるのだとか、最後に一家が国境を越えてスイスへ逃げることになっているが、本当にその方向へ行けば、ナチスがうようよしているドイツに入ってしまうのだなどの解説がありました。

また、ヒロインのマリアのモデルになった女性について、その実歴を延々と説明しました。

そして、その話の最後に「折角の皆さんの楽しい人生を、ズタズタにしてしまって申し訳ありませんね」と結んだのでした。

 

映画に出てくるトラップ家が住んでいた家は、いまはアメリカのハーバード大学に買われて、特別のセミナーに使われるのだそうです。普段は中に入ることができないので、みんな外からシャッターを切っていました。

舞台になったザルツカンマーグート地方は、雪の輝く山あり、白い帆の浮かぶ湖ありの本当に美しい眺めでした。おまけに、ザルツブルグがご自慢のモーツアルトの母親だってここで生まれたのでした。

浮き浮きした私は調子に乗って、自然の丘の大斜面にステンレスの半切りチューブをセットした、長大なゴーカートにも挑戦しました。

なにかこのところ、何事によらず他人にできることは、自分にだってできるような気持ちになっていたのでした。

 

・この国も美形に優し青葉風

 

?モーツアルト

 

ウィーンでは自然史博物館へも行きました。

訪ねたのは火曜日でした。入り口まで行ってから、休館日が月曜日でなくて火曜日であることを発見し、愕然としました。

仕方がありませんから、代わりに楽聖たちのお墓のある中央墓地を訪ねました。

中央墓地は土地整理と衛生上の理由から、一三〇年ほど前、市内にあったお墓をここへ集めたのだそうです。

名古屋東山の平和公園に、第二次大戦後、市内のお寺にあったお墓を集めたようなことを、ウィーンではずっと昔にしていたのです。

ここの一郭にベートーベン、モツアルト、シューベルト、ブラームス、グルック、ヴォルフ、シュトラウスなどのお墓が集まっています。

中でもベートーベンのお墓が、断然多数の観光客を集めていました。

 

さて、音楽家と土地との結びつきはいろいろあります。

今回の旅では、ブダ・ペスト市とリスト、そしてここザルツブルグ市とモツアルト、カラヤンということになりましょうか。

ともかく、ザルツブルグとモーツアルトの結びつきの強さは、今度の訪問前の認識をはるかに越えたものでした。

ここでは、まるで世の中に、音楽家はモーツアルトしかいないと言わないばかりの調子であります。

ザルツブルグには彼の生まれた家と住んだ家があります。

彼が一七七三年から一四年間住んでいた家は、今はモーツアルト博物館になっています。今の形でオープンしたのは一九九六年のことで、その時に日本の生命保険会社が多大の資金援助をしています。そのせいでしょうか日本語の説明も聞くことができるようになっていました。正直な話、日本語ですとよく分かります。じっくり時間をかけて見せていただきました。

 

モーツアルトは父親も高名な音楽の教師でした。

七人兄弟だったのですが、名前が残るまで生きたのは、ウォルフガング・モーツアルト本人とお姉さんの二人だけだったのです。

自己主張の強い彼は、既に名を成した先輩に勝負を挑み、うち負かしたりする、典型的な神童だったと伝えられています。

イタリー、イギリス、オランダなどに演奏旅行に訪れています。訪問先での王家の庇護を期待しての、今としては、かなりの冒険の旅のように思われます。事実、旅の途中で病気になり、生死の境を彷徨ったこともあったのでした。

旅の様子をたどっているうちに、あることに気が付きました。

確かに現代の認識では、イギリスを訪れ、イタリーに行っています。

しかし、モーツアルトの時代には、それはロンドン市の、ミラノ市の、そしてローマ市の都市の実力者を頼って旅したということだったようです。

いわば国という概念は、極めて希薄だったのです。そしてヨーロッパでは、現在でも国についての概念は日本人とはいささか違っているように思われるのです。

 

ドイツ文学者の池内紀さんは、オーストリア人の郷土意識としてこんなように書いておられます。

「チロルに住んでいる人たちは、自分はチローリアンだと言い、決してオーストリア人だとは言わない。やむを得ず、強いてそう言わされた後には、不快そうに口をへの字に結ぶ。

ザルツブルグ生まれのモーツアルトは、正確にはオーストリア人ではなくザルツブルグ人なのだ」と。

私はもう今さらヨーロッパの歴史について、逐一勉強する気持ちはありません。けれども、身近な時代だけをとっても目まぐるしい変遷がありました。

ヨーロッパの大半を支配した強大なハプスブルグ帝国が崩壊し、小さなオーストリアになったのは、関東大震災の頃です。

その後、ヒットラーのドイツに併合されたのは、一九三八年、もう私が生を受けた時代のことです。第二次世界大戦後は米英仏ロに共同占領され、独立したのは一九五五年のことであります。

チロル人の本願の地は現在イタリーの範囲に取り込まれてしまい、チロル人はオーストリア国とイタリー国に分かれて住んでいるのです。

このようなことが、ヨーロッパでは、いたる所で、かつ長い間、頻繁に繰り返されてきたのです。

言ってみれば、住民にとっては、支配者の力や国際情勢によって、国境線が勝手に自分たちの頭の上を、あっちへ行ったりこっちへ来たりしている訳です。そしてそれは税金が最終的にたどり着くところが変わったり、戦争の時に着る軍服の色が違ったりするだけのことなのでしょう。

そのような歴史の中では、池内さんが書いていらっしゃる地方愛国主義以上のものを求めるのは無理だと納得させられるのです。

 

もっとも、それが宗教、人種的にヨーロッパ人と異なっていると認識されているトルコ人によってなされる場合には、とんでもない残虐行為と結びつけて受け取られるようであります。トルコの侵略とペストの猛威を同列に扱い、それからの解放を祝福して建てられたペスト塔は、あちこちに見られるのです。

善きにつけ悪しきにつけ、もっと遠い東洋人に対する感情は、その延長線上にあるといってよいでしょう。

 

さて、モーツアルトたちが活躍した一八世紀から一九世紀の始めにかけての時代には、先ほど述べた中央墓地に集まったベートーベンなど多くの楽聖たちが綺羅星のごとく輩出したのでした。

それ以前にも、その後にもそのような時代はないように思われます。

なにか不思議な気がします。

人の一生には明らかに盛りの時があります。

人類の歴史にも盛りの時があるものなのでしょうか。

 

もともと、偉人、神童のたぐいは、世間がそれを作るという面があるのではないでしょうか。

今でも、ある狭い社会の中で、また短い期間については、偉大な国家指導者が作られ存在しているように見えます。

しかしそれは、世界的な見地、あるいは国家体制が変わったときの評価に耐えられるものとは言えないのではないでしょうか。

いわゆる民主国家では、大統領と言えども、役に立つ間はやらせてやる指導職にすぎない、いわば自分と同格の人間であります。

現代の日本では、せいぜい、囲碁将棋やスポーツ界で怪童と呼ばれるぐらいが、唯一の偉人になってしまった観があります。

 

ともかくも、モーツアルトが活躍した現地で、じっくり時間をかけて勉強させてもらって、いま私にとってモーツアルトは以前のモーツアルトではなくなりました。

たとえば、今度、ウィーンで楽聖たちの共同墓地へ行けば、モーツアルトのお墓に一番長い時間を割くことでしょう。

このザルツブルグの街で、ガイドさんが「キルヒホッフという人をご存じですか」と尋ねました。

私は知っているのです。電気の回路がいかに複雑であろうとも、その回路網に流入する電流の総和と、流出する電流の総和は等しいというキルヒホッフの法則を発見した人なのです。彼の家がここにありました。

また、ついこの間、テレビの教育番組でメンデルの法則を聞いていて、彼が他ならぬオーストリアの教会の牧師だったことを知りました。

まだ中学生だった頃私は、当時猛威を振るっていた肺結核に、もしも感染して静養が必要になったら、エンドウ豆を播いてメンデルの法則の追試をしてみたいと思っていたほど入れ込んでいたのです。

でも、それから何十年ものあいだ、メンデル氏が西洋に住んでいる牧師さんであるというイメージから、さらに深く踏み込むことはなかったのです。

今回、土を踏むことのできたオーストリアは、今後はもう私にとって新しいオーストリアなのです。新聞ラジオで目や耳に入ってくるオーストリアは、いまや実物と結びついたものとなり、もう見落とすことなどあろうはずはありません。

 

・桜桃の彩すでにあり果樹桜

 

?ビヤガーデン

 

最終日の夕方、ザルツブルグのアウグスチナ・ブロイという名前のビヤホールに行ってみました。

街の中心からは外れた山の際にあります。

当然、市バスで行きました。ザルツブルグは小さな街で、バスが頻繁に走っています。

今度のヨーロッパの旅では、町の交通機関を、一日とか一週間とかいう乗り放題の乗車券を使って、フルに活用しました。

それには、名古屋市から頂戴している敬老パスを日頃使っているときのノウハウが、何となく役に立ちました。

およその見当をつけて乗ってみる、間違ったら戻る、少々の距離なら歩くというような原則で、短時間で沢山の場所を見て廻ることができました。

さらにビヤホールともなれば、多少の嗅覚の助けも借りて探し当てました。

みんながしているように白い陶器のジョッキを水で濯ぎ、ビールを注いで貰いました。

なんでも、標準のものと七,五パーセントとかいう濃いのがあるようで、当然標準でない方にトライしてみました。

でも実は、ビールを先にしたのは順番を間違えていたのでした。

見渡すと、皆さんは餌を紙の皿に盛って、階段を降りて来るのです。私は仕方ありませんから、こぼさないようにジョッキを持って上の階へ行きました。

食べ物屋が何軒も並んでいました。美味しそうな店には、それこそアリが砂糖に群がるように人がたかっています。私は直ぐに諦めて、人の少ない店に行き、適当に指を差して買いました。ジョッキを持っているのですから、それだって容易なことではありません。

ジョッキと皿とカメラなど持って、そろそろと階段を降り、屋外のビヤガーデンの方のテーブルにたどり着きました。

そして、土地の人々を見物することを肴に、ゆっくりと飲んでいました。

濃いビールといっても、そう特段美味しいとか不味いとかは感じませんでした。

お客さんは、なんといっても会社の帰りに仲間たちで一杯という感じのグループが主力でした。みんな大人しく、大体千円ちょっとぐらい飲み食いしては帰って行くようでした。

半分は女性でした。

煙草の吸い方は、日本のように辺り構わずバカバカ吸う人は少ないように見ました。

やはり人種的にアルコール分解酵素が多くて、あまり酔わないためなのでしょうか。

変わり種としては、おばさんたちが子供たちを連れてきていました。おばさんたちはビールをグイグイ、子供たちはアイスクリームを楽しそうになめていました。

どういうわけだか、女性の三人連れが、ジュースでパンを食べていました。

暗くなるのを待ちかねているアベックは、見当たりませんでした。そういう人種は、もうちょっと高級なところへ行くのでしょう。

緑が茂った木陰の、感じの良いビヤガーデンの一夕でした。

 

・荒れもせで青葉の宴は終ひけり

 

?日本の匂い

 

ソウルまで来て名古屋行きの飛行機に乗り込むと、もう日本の匂いがしてきます。

毎日新聞が配られました。

「事故処理作業員一四年で三万人死亡、ロシア国内、四割近くは自殺」という大きな見出しが目に飛び込んできました。

今日は四月二二日です、チェルノブイリ事故は一四年前の四月二六日に起こったのでした。

ロシア保健省当局者が明らかにしたとのことで、内容は現在までにロシア国内だけで事故処理作業員三万人以上が死亡したこと、精神障害に悩まされることが多く、死亡者の三八パーセントが自殺だったこと、そしてさらに一七万四千人の旧作業員がおり、うち五万人が障害を持っているというようなことでした。

恐ろしいことではないでしょうか。

平均年齢などの条件が書いてありませんから、三万人が多いか少ないかは急には判断できません。

なぜならば、広島に原爆が投下された当時の日本の人口が一億人だったとすれば、いつの日か「原爆投下後一二〇年で日本人一億人死亡」と報じようとすれば当然可能になるからであります。

でも広島や茨城のJCOでの放射線被害では、こんなに自殺の率は高くはありません。

そしてチェルノブイリだけ特別に精神障害を起こす放射線が出たとは、物理学上理解できません。

報道の通りだとすれば、一体なにが一万人を越す人に精神障害を起こさせ、自殺に追い込んだのでしょうか。

 

放射線の影響については、WHO , IAEAなどの国際機関を中心として進められ、報告が公表されています。

それによれば、放射線による住民への影響は、一四才以下の子供に見られる甲状腺がん以外については認められないとされています。

報告書には、次のように記載されています。

・情報の不足、強制的な移住、障害を起こすのではないかという不安から、心理的社会的影響が発生していること

・直接的な心理的影響は、地震、火災、洪水などの自然災害によって引き起こされるものと類似していること、

・全国保健登録では、放射線に関係ないと思われる多くの疾患が有意義に増加していること

 

この報告書の内容は、普通の人が新聞、テレビ、ラジオから受け取っている認識とはかなり違っているのではないでしょうか。

もともと現代は、放射線被曝や、それによる障害については、たとえ正確な情報があっても、社会が冷静に受け入れる素地はないように感じられます。

将来、事故を発生させないために、厳しい目を向け続けることは大切です。しかし、影響の見られない人は、積極的に正常の生活に戻して上げなくてはなりません。

周囲で大勢発病した、死んだと言われ続けて、その不安・ストレスから被爆ノイローゼになり,現に生きている人が今後何万人も自殺するかもしれない事態を考えると、ノイローゼにならないように、なにか良い方法を考えて上げなくてはならないと思えてくるのですが。

 

・夏菊を折るはや葬の終わる刻 

 

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