タ クラマカン砂漠横断とシルクロード
(2009/5/1〜5/10)

重遠の部に戻る

ユースホステル協会が主催した、10日間の旅行でした。例のごと く、私はダントツの年長でした。旅の終わりの頃、ツアーリーダーから「お疲れになりました か」と尋ねられました。「万事鈍くなってしまって、自分じゃわかりませんが、客観的に見れば疲れているんでしょうね」とお答えしました。

実際、そんな年齢になってしまったのです。こんな、みじめな年寄りの世迷いごとでも、読んでいただけるものでしょうか。

今回訪れたのは、タクラマカン砂漠とそれを取り巻く二つのシルクロード、天山南路と西域南路です。これらがある新疆ウイグル自治区は、あの広い中国の西の 端っこで、チベットの北に位置し、インド、パキスタン、アフガニスタン、タジキスタン、キルギス、カザフスタン、ロシア、モンゴルの8カ国と国境を接して います。面積はわが国の約4倍、人口は1900万人ほどです。

地図をご覧ください。チベットでは厚着、即、北国の印象があります。しかし省都ラサの緯度は約30度、奄美大島の名瀬市とほぼ同じです。標高が高いため寒 いのです。今度訪ねた新疆ウイグル自治区の省都ウルムチの緯度は44度、北海道の旭川とほぼ同じです。今回の旅行では、名古屋より、ほんの少し涼しい感じ でした。


訪問地に対する私の興味は、

1. ユーラシア大陸にインド亜大陸が衝突しヒマラヤ山脈ができ、その北のチベットが大高原となり、さらにその北のタリム盆地が低いのはなぜか。

2. 日本に飛んでくる黄砂の主な発生源であるタクラマカン砂漠は、どんな様子のところなのか。

3. この地で石油・天然ガス資源が開発されているというが、どんな様子なのか。

4. 昨年秋に訪れた騒乱のチベット自治区と同様、中国の自治区でありながらあまり話題として取り上げられていないのはなぜか。

などでした。
行ってみたとて、こんな事柄がなにも急に分かるわけはありませんが、いつものように、一度、現地を自分の目で見ておけば、将来、色々の情報が目や耳に引っ かかることだろうと思ったのです。

5月1日、関西空港14時半発で北京まで約3時間飛び、成田からくる隊員たちと合流しました。成田組9名、関空組7名、女性5名、男性11名のパーティで す。この日、北京で乗り換えて、また4時間飛び、州都ウルムチに着いたのは午後11時、ホテルに落ち着いたのは翌朝午前1時、日本時間だと午前2時になる わけで長い1日でした。

それでいて翌朝のモーニングコールは6時ですから、ユースホステル企画の旅にふさわしいハードなものでした。

5月2日、ウルムチからカシュガルに飛ぶ飛行機では、幸いにも窓際の席が当たったので、天山山脈や砂漠の様子をじっくり見ることができました。下界は木も 草もまるで生えていませんから、地表面が直接観察できます。地表に大きな赤い縞模様が見えました。酸化鉄を含んだ地層なのでしょう。段丘や谷など地形のス ケールが大きく、かつ規則的に並んでいるのがわかりました。

このあたりの天山山脈は、5000m級の山がつながっています。降雪量が少ないため、氷河もカールも小規模でした。天山山脈南側の山麓を走る鉄道をよく見 ることができました。川は意外に蛇行をくりかえしています。そのうちに下界の景色は、すっかり砂塵に覆
われ見えなくなってしまいました。

飛行機はB757でした。座席は通路を挟んで片側3列です。カシュガルに着陸するや否や、前の列の窓際に座っていた若い中国人の男が、内側二人の前を無理 やりこじて通路に出て荷物を収納棚から出し、降機の準備を始めました。普通でしたら、機が定位置に止まって通路側の乗客が通路に並んでからも、まだなかな か列は動き出さないものです。そして前の方から順序よく降りてゆくものです。こんな強引に、順序を守らず人を押しのけるような行為は、今まで見たことがあ りませんでした。

そういえばゲートで搭乗券を係員に出してちぎって貰うとき、私の後ろにいた中国人女性が私の手の前に搭乗券を突き出しました。また、係員は私のではなく、 横入りの客から搭乗券を受け取り処理し
たことを妙に感じたのを思い出しました。

極め付きは、初老の貧相な中国人が私を追い抜かそうと、パスポートコントロールの係官の前にまで、横にへばりついてきたことです。このときは、さすがに係 官に叱りつけられていましたが、なかなか引き下がりませんでした。

中国人の順番無視、列への横入りは国際的に有名です。そういう習慣なのでしょう。もっとも、一昨年、エジプト博物館に行ったときには、紅毛碧眼の横入りが いて、さりげなく国名を聞きましたらルーマニア人とのことでした。

良いように考えれば、心の欲するままに従う純朴な人たちではあります。

カシュガル市では新疆最大のイスラム教モスクであるエイティガール寺院、職人街、バザール、一般民家などを訪ねました。

一般民家訪問では、通訳さんが、出てきた4,5才の子供を指差し「この子、男か女かわかる?」と聞きました。坊主頭でしたが、女の子だそうです。髪を3回 短く剃ると、その後長くて綺麗な髪の女の子になると信じられているとのことでした。

そこはお金持ちの家とかで、壁に彫り込んだ飾り棚に、陶器など飾ってありました。その唐三彩の陶器は新しいものでした。でも、いわゆるシルクロードの歴史 を思うと、唐時代には唐三彩は焼かれたばかりの新品だったはずです。人間80才にもなると100年というスケールを具体的に感ずることができるようになっ てきます。唐時代の人を昔の人としてだけではなく、自分が生きてきた月日の10倍ぐらい前の人だと、頭の中でかなりリアルに描いているのです。

ウイグルのバイアグラ売る夏帽子


バザールの中では、スクーターや荷車に冷や冷やさせられました。私は買い物をする気がまったくありませんから、もっぱら買い物に夢中な仲間たちに、危ない よと、声をかける役でした。なぜ危険なのかというと、スクーターや荷車が、ほとんど音もなくスーッと動いてくるからです。つまりそれらは、バッテリーで モーターを回す電動車だからなのでした。

この電動車の外に、中国ではどこでも広く、電球形蛍光灯が使われていました。

両者とも、地球温暖化の元凶といわれる炭酸ガスの排出を抑える有効な手段とされています。

最初は、中国政府は日本と違って強権体質であるので、民間の自主努力など期待せず、政府が環境対策を強制的に進めているのかと思いました。でも、実情は違 うようでした。

北京では、ガソリンエンジンの車しか見かけませんでした。電動車の現状は性能的にはガソリン車にはとても敵わないのです。新疆ウイグル自治区では、電動車 は、ロバに曳かせる馬車のワンランク上の乗り物として使われているらしいのです。ロバより多少高価ではありますが、利便性が高いのです。

また、電球形蛍光灯は、電気代が1/5,寿命が10倍で経済的なことが評価されているらしいのです。日本では、エアコン、冷蔵庫などにふんだんに電気を 使っても、毎月の電気代の支払いは、そんなに気になる額ではありません。その中の電灯代など、問題にするわけはないのです。でも、貧しい土地では、まだ食 費、光熱費の率が高いのでしょう。

人間社会を動かす力は、基本的には経済性です。高速料金がどこまで行っても1000円だと聞けば大歓迎、炭酸ガス排出の増大など殆ど考えませんし、たとえ 頭で考えても決して口にはしないのです。

キャリアカー なんと3台X6列、1度に18台も乗せて


5月3日、この日、往復約10時間かけて、パミール高原にある美しい湖、カラクリ湖を訪ねました。

中国のバスには、シートベルトがないことに気づかれた方もおありでしょう。昨年秋、チベットに行ったときにも、シートベルトがないことがとても不安でし た。シートベルトをしないでいられないのは、私の職業病なのです。

私の勤めていた会社には沢山の従業員がいました。仕事上の負傷・死亡を少しでも減らそうとして、事故速報を社内中に配布していました。事故のほとんどは交 通事故でした。よく「法律で、シートベルトをしなくてはいけなくなりました」とか、「この道路では、シートベルトをしなくてもいいのでしょうか」などとい う無邪気な人がいます。たしかに、自分や自分の周囲の人だけを見ていると、事故は滅多にありません。でも、沢山の人を見ていると、運命次第で、だれでも事 故からまったく無縁でいることは不可能なことが分かってきます。それで、従業員やその家族を不幸せにしたくない気持ちから、シートベルトの着用は厳格でし た。他人に使用を強制しながら、自分がしないわけにはいけません。それで私は、シートベルトがないと不安になるという職業病になってしまったのです。

現地ガイドさんに「中国の車にはシートベルトがないが、それはシートベルトの得失を議論したうえでの結論なのか」と質問してみました。すると彼から「時速 100km以上で走ることはないから、安全は問題ない」と、ちょっとピントの外れた返事が返ってきました。

一人っ子政策で、人口増加を抑えようとしている意図と関連があるとまでは思いません。実際、旅の最後に北京で乗ったバスには、シートベルトがついていまし た。

この項目で私が申し上げたいのは、この文中で聞いた話として書いているのは、その程度のかなり危なげな根拠のものもあり、責任を持ちかねるということなの です。

ここでついでに、中国の交通事情について、気のついたことを書きとめておきましょう。

最新の信号灯が、かなり使われてきています。これの目玉は、現在の表示が、あと何秒間続くかが大きな数字で表示されていることです。日本でも繁華街の横断 歩道に、あと何秒で青に変わるか、何秒で赤に変わるかが表示される信号灯があります。あれが車用にも使われているのです。かなりきめ細かくて、左折や右折 の矢印が何秒続くかまで示されます。相当前から読み取れますから、黄色になるとアクセルを踏み込む日本のドライバーたちが、どう反応するだろうかと興味を 惹かれました。

州都ウルムチ、首都北京では、新型の信号灯は、あまり見かけませんでした。従来型の信号灯で、すでにインフラが出来上がっているためだと思います。都市整 備がワンステップ遅いカシュガルでは、新型が主力でした。ついでに言うと、昨秋訪れたチベットのラサでは、新型が入っていましたが、整備不良でまるで当て にならない状態でした。

もう一点、中国では、歩行者が道路を横切るとき、徹底的に車優先であることです。日本以外の國では、歩行者の道路横断はかなり自己責任でやっているもので すが、中国の事情はもう1ランク上であります。普通の道路ではもとより、大きな交差点で沢山の人が横断歩道を歩いていてさえも、曲がってくる車は、車優先 とばかり突っ込んできます。はねられたくない、はねたくない、というだけのルールで、結構どうにかなっているのが不思議にさえ思われます。ひょっとする と、順番待ちの列に当然のように横入りする神経は、こうして育まれているのかもしれません。

さて、カラクリ湖へはカシュガルからパキスタンに通ずる道路を約200km南下します。カシュガルの標高は約1400m、そこからパミール高原のカラクリ 湖標高3600mまで登ってゆきます。
カシュガルの市街地、そして農地を出てしばらくは、砂利っぽい平原を走ります。砂ではなく砂利っぽい荒れ地を、ゴビというのだそうです。やがて山にさしか かり谷底を走るようになると、谷は膨大な量の石ころで埋め尽くされています。氷河の雪解け水や大雨で、洪水が結構あるそうなのですが、水量が落ち着いてい るときには、洪水の様子など、まったく想像できませんでした。山肌に数百mの厚さがある赤い軟らかい岩の層がが見えました。飛行機から見たときも、また、 ずっと後に1000km余も東の火炎山に行ったときもこの地層がありました。この酸化鉄を含んだ層は広く分布しているようです。

この日見た地層には、石炭の出る層もありましたし、大理石の工場もありました。これらはそれぞれ、昔の森林や珊瑚礁が起源となる地層なはずです。真っ黒く て丸っこい枕状溶岩らしいものも見受けられました。それがもし本当に私の想像通りならば、海底に溶岩が吹き出してできた岩です。インド洋から2000km も内陸のここまで海だったとすると、エベレストの頂上に貝の化石があるよりもっとびっくりです。

パミール高原では、山腹に何カ所も坑道が掘られていました。ある坑道では、赤っぽい直径数十cmの鉱石が積まれているところもありました。これらはどれも これも規模が小さかったので、探査中なのか、あるいはレアメタルはこんなにして掘るのかしらなど、勝手な想像をしていました。

以上、勝手な地学妄想にお付き合いさせて申し訳ありません。地質の専門家に聞かれたら、なにを素人が阿呆なことを言ってと笑われることでしょう。なにせ現 代は、岩石の組成や生成年代が詳しく分かる時代なのですから。でも、わずか100年ほど前、このあたりを訪れた有名な探検家スウェン・ヘディンの時代に は、もっと知見は貧弱だったはずです。バスの窓から眺めながら、勝手な想像を楽しんでいる老人の村学究ぶりを、憫笑してください。

さて、このハイウエイのルートは、唐の玄奘法師がインドからお経を持って帰るときに通った道だと言われています。今でもこの道の途中からラクダを雇って間 道を行くと、パキスタンに入ることができるとかで、同じ中国の中ではありますが、検問所が設けられていました。

カラクリ湖は、北にコングール山(7719m)、南にムスターグ・アタ山(7546m)が眺められる、高原にある面積10平方キロの大きな湖です。観光地 になっていて、ラクダや馬に乗れと勧めにきます。でも、お客より馬子のほうが多く、そのお客も怖がるばかりで、地元の人には気の毒なことでした。ここから パキスタンとの国境まで200km、それでも大きな中国では、すぐソコといった感じです。

この日は、カシュガルに戻って泊まりました。カシュガル市の中心に公園があり、毛沢東の巨大な像が立っていました。1970年前後、中国全土に吹き荒れた 文化大革命とは、毛沢東の主導により、古い文化を壊し、新しい文化を創り、理想の社会を実現しようという看板のもとに、中国全土を巻き込んだ大政治運動で した。しかし、実体は政治的権力闘争の手段であり、大勢の文化人を殺し、多数の文化資産を破壊した「文化大破壊」だったのです。殺された人の数は1000 万人とも4000万人ともいわれます。

現地ガイドに、「沢山の中国人を殺した毛沢東だが、その後の政権にとっては先輩であるし、彼の像は、昔の人として善悪を問わずに、そのままにしてあるの か」と、私はそんな聞き方をしてみました。「悪いこともしたけど、良いことも一杯した。小学校ではあまり教えてない」という返事が返ってきました。そう 思って見れば、中国の紙幣には、いまでも全部毛沢東が印刷されているのです。考えてみれば、当時毛沢東主義に心酔、または便乗し、殺人や破壊活動に手を下 した十代の紅衛兵たちが、いま50才代の市民の一部を形成しているのです。

カンボジアで大量殺戮を行ったポルポトは、毛沢東の崇拝者でした。ポルポトが行った残虐行為を訴求している国際裁判の進行がはかばかしくないのも、あの頃 の若者が今の社会のかなりの構成員であることを考えれば理解できます。

毛沢東がおこなったという良いことの最大のものは、その後の蒋介石との内戦の結果として、他国の侵略に屈せず、連合国の一員として勝利を勝ち取り、国連の 常任理事国となり、原子爆弾を所有、強大國に返り咲く基礎を作ったことでありましょう。

歴史にイフはありません。しかし、もし日本が勝ち組みだったら、大東亜共栄圏を唱え、欧米のくびきを排し独立の種を播いたとして、東条英機首相の像がアジ アのあちこちに建てられていたかも知れません。

国際関係でも、派閥抗争でも、負け側につくものではないと、つくずく思ったことでした。

5月4日、いよいよ今日から、三本あるシルクロードのうち、一番南を通る西域南路を走ります。この日はカシュガルから、タクラマカン砂漠の南の縁を、東へ 約500km、ホータンまで走りました。

特別に風が強いわけでもなかったのですが、この日のカシュガルの朝の空気は、細かい砂塵をたっぷり浮かべていたのです。そのため太陽がかなり昇っても、赤 い円盤として直視できました。車の右手は、世界で2番目の高峰であるK2があるカラコルム山脈なのですが、砂塵のため見える範囲はせいぜい1kmほどです から、山らしいものはまったく見えません。

このあと何日もコンロン山脈に沿って走ったのですが、ついに一度も、この山脈を見ることはありませんでした。案内書によれば、雨上がりにはコンロン山脈が 見られるとありますが、年間降雨量が日本の100分の1ほどしかない土地ですから、もしも見えたらまさに奇跡でありましょう。

このあたりの住民の主力は、ウイグル人だそうです。過去には遊牧民の色合いが濃かったそうで、よく羊の肉を食べます。そのせいなのでしょう、男たちにとっ て、ナイフが箸代わりなのだといいます。インギザルという街では、岐阜県の関の街のように、ナイフを売る店が軒を並べていました。当然、観光客を呼び込も うと「清潔トイレ」というような看板を掲げています。お店に入ってみると、大変に凝った意匠の、恐ろしく切れそうなナイフが一杯並んでいました。売店のお じさんが、これでもかこれでもかと、製品のナイフで鉄の棒を叩いてみせては、歯がこぼれないことを宣伝していました。蝦蟇の油売りを連想させます。

ついでまでに、中国のトイレは清潔といっても、今の日本の基準から見れば、エッといった感じです。そこで今回の旅行では、いっそのことというわけで、バス を人の気配の少ないところに止めては「女の人は右側、男は左側」と号令がかかりました。中国は右側通行ですから、男のほうは道路横断のリスクを負担するわ けです。「女の人は橋の下」など、好条件のことも、たまにはありました。ともかく青空トイレは、エコでかつ自然がいっぱい、快適でありました。あとがどう なるかは知りませんが、干物人間のミイラが、なにげに出来るという超乾燥地帯なうえ、いつも砂が動いていますから、不潔感はまったくありませんでした。

分かる? セルフサービス・ファーストフード


この日の昼食はヤルカンドの街で、名物の鳩料理を食べました。ここの土地柄は、羊でも鳩でもごっつい骨付きで、うっかりかぶりつくとガッツという感じにな ります。でも、鳩はいかにも小鳥らしく、美味しくいただきました。

ある事務所の看板に「人力資源服務中心」と書いてありました。すぐに「ハローワーク」のことだと分かります。同じ漢字の國なので、看板見物も中国旅行の面 白い点のひとつであります。

ここで特記しておきたいのは、漢字の表記には、必ず現地語のウイグル文字を併記することが義務付けられていることです。マスコミは、中国政府が少数民族に 配慮していることは一切報道せず、弾圧一本として煽っていますが、そんなことはないのです。なんといっても中国は、2000年も前から、多くの異質な人間 集団を抱え込んだ、中華思想、基本的には緩やかな支配の経験者であります。

ところどころ、携帯電話用らしいアンテナが設けられていました。これには、どうも2社あるようでした。その電源用として、太陽電池が標準装備されていま す。電力会社から電気を受けられない砂漠ならばこそ、高価であっても標準的に使われているのでしょう。

6本足?のラクダにユースの老爺不思議かな


夕刻19時、ホータン市に着きました。すぐホテルには行かず、まずは市の北側にあるタクラマカン砂漠の端っこに行き、ラクダに乗りました。ラクダは砂漠の 船と言われるだけあって、足の裏が広く、多少揺れることはしかたないとして、自分で歩くことを思えば、たいへんラクダったことは確かです。折しも夕日が傾 き、砂塵の空が光芒に充たされ、幻想的でした。「砂漠に日が暮れて夜になる頃・・」という古い歌を思い出させてくれました。

ホテルに入ったのは23時近くです。たとえ真っ暗でもあっても朝は朝らしく6時に起き、夕方は夕方で空が黄昏れる21時過ぎまで行動している厳しい旅で す。

中国は、国内に時差を設けていません。北京より3000kmほど西にあたる新疆ウイグル自治区では、公式時間と太陽時間は、かなりずれています。実際には ウイグルでは2時間、カシュガルでは3時間遅らせた非公式時間も使わているそうです。我々の旅では、公式時間に起き、非公式時間に寝ていたことになりま す。こうすることで、どこかで得して、どこかで損しているわけですが、私はこのロング・デイ・スタイルが気に入っているのです。

この日、約500km走るのに、休憩時間を含んで、なんと11時間もかかっています。工事区間を除いて、一応、舗装はされています。でも、砂漠の砂の上の 基礎が貧弱なうえ、補修の手を抜いているのでしょう。すごく揺れてスピードが出せないのです。

補修の手を抜いている理由は、現在すでに並行して高速道路を建設中であるためだと想像します。その橋梁工事に見られるように、新高速道路は相当しっかりし たもののように思われました。上り線と下り線の間を2〜300m離した羨ましいような高速道路です。若いころ走ったアメリカのニューヨーク・スルーウェイ を思い出しました。そこではある雪の日、スリップして緩衝地帯に突っ込んだ車を見たことがありました。日本のように中央分離帯だけだったら、大惨事になる ところです。

また、このルートに沿って、大きな送電線が延々と走っていました。

荒涼たる砂漠に、高速道路と大送電線が走っている事実は、人々が未来に賭けているからに違いありません。

中国には、まだまだフロンティアがあります。国家の大計があり、それを実行に移せる強力な政治体制があります。

勿論、貧富の差の拡大、いわゆる言論の自由の制約、党独裁政治に付帯する汚職の横行などの問題は多々あります。

昨年秋訪れたチベット自治区も、今回の新疆ウイグル自治区も、一人あたりのGDPといった指標で計れば、貧しいところです。しかし人々の顔は明るく、町に は活気が感じられます。病院ができ、子供達が学校に通い、今日の生活は昨日よりも良くなっているのです。

日干し煉瓦で作った小さな家で暮らし、ロバの車で荷物を運んでいる人が多いのは事実です。でも過去に、日本人が欧米人から「兎小屋に住んでいる」と憐れみ の言葉を吐きかけられながら、公団住宅の2DKの抽選に当たり、マイホームを持てた、そんな喜びを、いま中国人たちは感じているのです。

「人間の幸せって何なのかと、考えさせられました」と、一行の中の女史がおっしゃいました。彼女は、小学校4年のとき、作曲コンクールで優勝したという才 女であります。ともかく、このユースホステル団体には、仏像の起源、変遷を求めて、海外旅行11回目の人とか、植物に詳しい方だとか、ともかく熱中型、外 向的なタイプの人たちばかりのようでした。閑話休題。

日本が国家の大計を捨てたのは、成田国際空港建設の頃からだったように思います。農民が育んだ豊かな土壌が、近代国家の玄関よりも価値があると一部の人が 騒ぐ、そんな反体制派の声が大きく報道され、社会を動かし始めたのでした。

「小異を捨てて大同につく」のではなく、小異につくことにしたのです。

先日行われた、ある市長選挙に際して、スナックのママが「対抗馬は元官僚でしょう。官僚なんて悪いことばかりしている人たちなんでしょう」と言いました。 そんな民主主義になってしまっているのです。政治家、官僚、警察、医者、教師、経営者、そんな国家の大計側にいる人たちの一部の問題を、大きく取り上げ、 全体を憎むような報道が満ち溢れているから、こうなったといえましょう。「角を矯めて牛を殺す」という諺があります。マスメディア業界は、牛の角を矯め続 け、国民大衆の喝采に酔っているのではないでしょうか。

おらが春ビルの前なる石畳


フロンティアを持っている中国の首脳陣は、自国民の利益につながる国際関係、経済活動に力を集中し、軍備を整え国際的発言力を強化し、国際的な資源確保を 先見的に行っているのです。報道の自由などと偉そうに言っているものの、実体は「記事になるかどうか」だけを判断基準として恣意的に報道している「記事商 人」たちよりも、13億人の国民の生活を実際に向上させ、希望を持たせるように報道させる、それこそ男子の本懐だと感じていたとしても非難すべきことで しょうか。

物質文明の面では、世界のトップクラスにのしあがってしまった日本は、これ以上発展することは困難でもあり、また全地球人類の視点からして道義的ではない というのも一理あります。その観点からは、国内で足を引っ張り合って日々を暮らしてゆくことも、全人類社会への貢献であり美挙であるかもしれません。

5月5日、この日、午前中はマリカワト古城、白玉河、博物館を見学し、午後、西域南路を東へ、ニヤまで300km強の距離を走りました。

約2000年前のマリカワト古城は、主として日干し煉瓦で作られていたのです。そのため、ほかの遺跡と同様、建物の隅にあたる、土を搗き固めて造った版築 部分以外は、ほとんど何も残っていません。

年月や熱砂に還る故城かな

白玉河は玉(ぎょく)を産出する川として有名です。街の人たちは 暇があれば、バイクに二人乗りして、砂地の道にハンドルを取られなが ら、川へ行って玉を探します。街角に人だかりがあれば、玉の青空市場と思ってよいとのことでした。人類、とくに女性が美しい宝石に惹かれるのは、何万年も 昔から、そして世界中どこでも共通の現象です。

ことに中国では、透明感のある白くて固い玉は、玉体、玉音などの言葉があるように、天子にまつわる高貴な雰囲気があり、また魔除けの力があるとされてきま した。台北の故宮博物館にある豪華な玉の展示は、中国人の玉にかける思いの深さを感じさせてくれます。今回のツアーリーダーさんは正直です。「ツアーの性 格上、お土産店に行かざるを得ません。ご容赦ください」そう言って、あちこちで、玉や絨毯のお店に連れて行きました。

玉のお店では「河で採れた玉は上等、山で採れる玉は下の品質」「玉は貴重なもの、ヒスイとは比較にならぬ」というような、私とは違う判断基準の声が飛び 交っていました。私にとって、玉はあくまで石英という鉱物なのです。

半世紀以上昔に、中学校で教わった漢文の先生は、立派な方でしたが、口の悪い方でした。「玉(たま)、磨かざれば、光り無し」と教えて下さったとき「お前 等も、勉強しないと製粉機だぞ。食べてフンを出すだけのな」とおっしゃったり、また「世の中には磨いても光らぬ奴もいる。それを玉石混淆というのだ」など ともおっしゃいました。ここホータンの白玉河でも、巾1kmもあろうという広い河原を、磨いても光らない石ころが埋め尽くしていました。ろくに水も流れて いない河に、どうしてこんな広い河原ができているのか、そして水に磨かれ円礫になっているのか、日本人の私には、およそ想像するのも困難でした。大きな地 形、長い歴史、つまり大陸的ということなのでしょう。

博物館については、まとめて、あとで触れます。

ホータンから先は、高速道路の建設も巨大送電線も見あたりませんでした。

昨日から、標高1600m前後のところを走っています。大気は細かい砂を含み、どんよりした様子で、まったく見通しはききませんが、右側には雪を纏ったコ ンロン山脈があるはずです。そして、そこから流れ出る雪解け水が山裾の、岩でできた谷から砂原に移る地点で砂にしみ込み、このあたりのゆるい裾野のどこか で、オアシスとして地表に沁みだしているいるはずなのです。そんなところには人々が住み、その集落をたどって絹の交易が行われたとしてシルクロードの名が つけられたのです。名付けの親は、ドイツ人のリヒト
ホーフェン、19世紀のことだとされます。

このシルクロードという名前が、東西交易のための都市というニュアンスであることに、異議を唱える地元の人たちがいるようです。つまり基本的には生活の場 として街が最初からあり、その街の機能の一つとして交易が行われたと主張するのです。オアシス都市といっても水田があるほど農業が栄え、人口だって、カ シュガル230万人、ホータン150万人、トルファン35万人などの都市は、ビルが林立し、牧歌的なオアシス、寒村といったイメージからはほど遠いので す。もっとも人口については、市という概念が中国では日本と違いますし、資料によって色々の数字があるのは事実です。ここでは現地ガイドが示した数字を挙 げてみました。

5月6日、いよいよタクラマカン砂漠を縦断する日です。タクラマカン砂漠の面積は33万平方キロメートル、日本全土の面積が37万平方キロメートルですか ら、日本がちょっと肩をすくめれば入ってしまいます。世界で、サハラ砂漠に次いで2番目に大きな砂漠です。タクラマカンとはウイグル語で「生きて戻れぬ死 の砂漠」の意味だと、孫引き、曾孫引きで、どんな本にも書いてあります。4世紀、東晋の高僧法顕が印度に経文を求めたときの旅の記録、西域紀行には「行路 を求むるに拠るべきなく、ただ死人の枯骨を標識とするのみ」と書かれているそうです。

朝、8時半に砂漠の南の端の街、ニヤのホテルを出発しました。どんよりと暗い空でした。年間降雨量は数ミリメートル、決して雨の日なのではありません。砂 塵が太陽の光を遮っているのです。そんな砂漠に、今では片側一車線の舗装道路が走っているのです。

オアシスなるカシュガルの村青葉かな

オアシスなるカシュガルのビル空朧



この道路は中国石油という会社が建設しました。道路の両側巾70mほどは、緑化が行われています。4kmごとに、給水ステーションが作られています。そこ で、地下から水を汲み上げ、直径1.5cmほどの黒いビニールホースに送水します。ホースには約1m間隔で小さな穴が開いていて、ほんの少しだけ水が沁み だしていました。給水ステーションには、春から秋までの給水期間中、管理者が夫婦で住み込んでいるのです。会社は、彼らに野菜、水、肉など定期的に配って いるのだそうです。植えられているのはソソクサという、乾燥と砂塵に強い選び抜かれた植物です。ちょうど今ごろ、可憐にも小さな花を咲かせ、それぞれ植え られた場所で、砂漠と苦闘していました。

このあたり、シルクロードは広大なタクラマカン砂漠の南と北に、2本に分かれています。南は西域南路、北側は天山南路、それぞれの道沿いに結構大きな都市 があるのです。当然、瀬戸内海をまたぐ本四連絡橋と同様、タクラマカン砂漠の障害を乗り越える連絡交通路の社会的インパクトは、大きいものがあります。

道中、数回、写真撮影のためバスを降りて、景色を眺めました。当然のことながら、砂が一杯あります。本来の土地基盤の起伏や、風の作用などで砂丘が折り重 なっています。

かってモロッコで、サハラ砂漠を見たことがありました。どちらも正に管見であることを承知の上で申すのですが、砂の色がサハラでは赤く、ここでは灰色でし た。砂丘の形がサハラでは雪庇状にシャープだった印象がありますが、ここではトロンと丸っこいと感じました。最大の違いは、サハラでは砂丘が地平線遠くま で目の届く限り続いていて、誇張すれば、あの果てがナイジェリアかと思うほどでした。ここタクラマカンでは砂塵で視程が短く、折角撮った写真も、鳥取砂丘 の一部だろうといわれても反論できない有様でした。

足元の砂を手ですくってみました。表面は砂糖ほどの粒の砂ですが、その下はメリケン粉か、それよりももっと細かい砂です。この時の風速は2〜3mだったと 思いますが、砂糖粒だと飛ばずに表面をガードしています。ところがそれが風で剥がれると、その下の微細な砂塵は飛び上がり、これなら風がなくても空中に長 時間、浮かんでいるのでしょう。日本に飛んでくる黄砂は、高度が2000m以下の地上に近いもののほかに、5000mあたりの高いところを飛ぶものも多い ことが知られています。この高いところを飛んでいる黄砂は、ほとんどタクラマカン砂漠起源のもので、風に乗って飛び、遠く大西洋に浮かぶグリーンランドで も観察されています。
タクラマカン砂漠がその殆どを占めるタリム盆地は、南、西、北の3方をコンロン山脈、カラコルム山脈、天山山脈の5000〜7000mの山々で囲まれてい ます。唯一開いている東側も、東からの風が多いため、いわば東西1400km、南北550kmという大きなスープ皿のような状態になっていて、その中に砂 塵をたっぷり含んだ空気が。常時、閉じこめられているのです。それが高空の偏西風に乗って、北半球を巡ってゆくと考えられています。

銀嶺が黄砂の夢界囲みをり


約8時間の砂漠ドライブで、胡柳自然園に着きました。胡柳というのは、砂漠のような水の少ないところでも生育する柳です。千年生き続 け、枯れても千年倒れ ず、倒れても千年朽ちず、と神秘的な評価をうたわれています。勿論、白髪三千丈の類の話ですが。

今回の旅では、村々でいつも目に入ったのは、日干し煉瓦の住居、そして道路際に林立する白柳でした。昔からの風と砂の脅威が、住民の心 に染みついているの でしょう。白樺の幹のように白くて、真っ直ぐ聳える白柳、それとは異なり古武士のような風格を持った胡柳が砂漠の一角に保護されていました。

まもなく大きなタンク群、そして赤々と炎を上げているフレア・スタックが見えてきました。タクラマカン砂漠北辺では、原油と天然ガスを 産出するのです。一 説によれば、ここの原油・天然ガスの埋蔵量はサウジアラビアの確認埋蔵量の半分はあるだろうとのことです。「西気東輸」の看板が見えました。このプロジェ クトで、現在、4000kmも離れた上海まで天然ガスをパイプラインで送っているのだそうです。

ここの油田・ガス田の開発にはロシア・アメリカ・日本などが、それぞれ絡んでいるとのことでした。

これからあとの話は、私の想像です。この日走った砂漠公路は、石油会社が作ったのですが、多分、政府に採掘権を与えるのと引き替えに作 らされたのだろうと 思います。本州四国連絡橋にも似た地域振興のインフラ整備を、国家の大計として、中国政府が強力に押し進めたのでありましょう。防砂、防風、緑化、そして 住民の雇用促進と美しい装いのプロジェクトにまとめ上げたお手際は見事だと思います。

ガイドさんの話です。「新疆ウイグル自治区の北の方でも原油が出ます。そこでは地面の下でロシアとつながっているので、盗られてしまわ ないように、いま、 そちらに力を入れています」。東シナ海油田の共同採掘交渉など、日本は変わった国だと思われているだろうと思います。

もう暮れかかる頃「今日は一日、太陽を見なかった」と手帖に書き込もうとしたとき、急に車の窓に、西に傾く太陽の光が差し込みました。 ときに19時半、砂 漠の北側、砂漠の風上に抜けたのでした。

この日の泊まりクチャのホテルに入ったのは20時近く、ほぼ12時間の長いバス旅行の日でした。


5月7日、この日の朝、クチャからキジル千仏洞に向かいました。朝、雨がパラついたそうです。そういえば、空に雲のようなものが見えたような気もしまし た。久し振りに日の光もさしました。ここは天山山脈の南麓、タクラマカン砂漠の北側なのです。秒速数メートルの強い北風が吹いていました。

バスは砂の平原から丘に入ってゆきます。このあたりは、 西遊記に書かれている、妖怪が住む谷のモデルになった場所だそうです。道の左右に奇怪な洞窟が穿た れた崖が続き、頭でっかちな岩塔が林立しています。風の強いところなので、暗闇の夜には風音が、妖怪の叫び声もかくやとばかり、恐ろしくも響いたことで しょう。

砂嵐寿限無黄砂の朧かな


そういえば、このあと見えてきた岩山も、岩の硬い部分だけが取り残された、まるで、地球という生き物のあばら骨を見ているような風景でした。我々のよう に、日頃、水の浸食で出来た地形ばかりを見ている目には、砂と風で作られた地形はまことに奇異に映るものです。

この地域では、金属に塗装する前に、細かい鉄の玉を吹き付け、表面から異物をはぎ取り清掃するサンドブラストという工法と同じことが起こっているのです。 岩山に風が砂を吹き付け、また砂を作る、その繰り返しで、周囲を5〜7千mの山で囲まれたスープ皿状のタクラマカン砂漠に、黄砂の源になる膨大な砂塵を貯 め込んでいるのです。

ICPP09によれば、地球で年間に飛んでいる黄砂の量は15億トン、東アジアでは2〜3億トンだとされています。タクラマカン砂漠の真ん中で、自分の手 で掘ってみて、表面は粗粒、すぐ下は微細粒であることは確かめました。でも、砂漠のあちこちで、どの深さまで、どんな直径の砂粒が堆積しているのか、砂の 下の水はどんなにして流れているのか、興味は尽きません。

キジル千仏洞は、河が削り込んだ、灰色の脆い砂岩の崖に彫り込まれています。3世紀から9世紀にかけて造られ、200余の洞窟があります。

「まだ勉強中ですが」とハニカミながら、可愛いお嬢さんが日本語で説明してくれました。

ある壁画を指さして「ご覧ください。この部分は、ベルリンの博物館にあります。ドイツ人が盗んでゆきました」と言いました。そのドイツに行った部分は、 はっきりしたカラー写真で見ることが出来ました。この西域地域はヘディンを始めドイツ系の探検家たちによって精力的に調査され、世の中に紹介されました。 もちろんドイツだけではなく、世界各国から、20世紀始めには日本から大谷探検隊も入っています。外国人が盗んでいったという言い方は、現在の中国の国粋 主義による民心高揚策のひとつです。なにも遺物の収集は、ドイツだけのことではありません。大英博物館やルーブル博物館も、あちこちから盗んで持っていっ たと先進国を非難しては、自分たちの遅れを取り繕っている人が日本にだっているではありませんか。

確かに、信仰厚き仏教徒によって造られた洞窟寺院の保存状態は、現在、良好とはいえません。歴史的に追ってみると、古い時代に、まず地元民たちが壁画に描 かれた衣など金箔で彩られた部分をはぎ取って、お金にしてしまいました。次に、12世紀頃からイスラム化が進み、非寛容な偶像否定の解釈から、目の部分を 刳り抜いてしまいました。20世紀初頭には先進諸国が、自国の博物館に収容、研究を始めます。20世紀中頃、世直し文化革命で、紅衛兵たちが、壁画を泥で 塗り込めました。仏洞は、こんな災厄にあっているのです。ドイツ人が持っていったという壁画の部分を見て、私は私なりに感心しました。尊い仏様ではなく て、この寺院を造る資金を提供したスポンサーたちを描いた部分だったからです。その構成人種、服装、習慣など、研究資料として、より貴重でありましょう。 そして、その部分だけは、今でもその気になれば、接することができるのです。人類として、持っていって大切に保存しているドイツ人に、感謝するべきではな いでしょうか。

スバシ故城は、玄奘法師が経文を求め印度へ向かったとき、立ち寄ったとされます。ほんの少し、日干し煉瓦の崩れた壁が立っているだけでした。私たちが訪ね たときは、凄い強風が砂の大地に吹き荒れていました。

このあと、列車でトルファンに移動しました。私たちが乗ったのは、軟車、つまり一等寝台車です。それはよいのですが、私たちの車両のトイレは始めから故障 で閉鎖、2車両のお客が一つのトイレを使うのです。むかしの日本のように、垂れ流しのトイレですから、駅に着く15分前からと、発車してから10分後まで は使ってはならないことになっています。それも、愛想のない女性の車掌が来て、ガチャンと鍵を掛けるのです。寝台車でしたから、朝は長い列ができました。 用を足しているうちに駅に近づき、車掌が早く出てこいとばかり大きな鉄の鍵で取っ手をガンガン叩き、ちょっとした修羅場でありました。

5月8日、朝着いたトルファンは、鉄道駅から街まで約60kmあります。トルファンの街は海抜ゼロメートル、標高差が大きすぎるので列車は街まで下りてこ ないのだとガイドさんは説明しました。実際、この盆地にあるアイディン湖は海抜マイナス154m、海とつながれば海から水が流れてくることになります。も ちろん大陸の真ん中ですから、流れこむ雪解け水は、全部ここで蒸発してしまうのです。

トルファンでは、高昌故城、アスターナ古墳群、火炎山、ベゼクリク千仏洞交河故城を訪ねました。

高昌故城は魏の時代から元時代の初頭まで、1000年間にわたって、この地方の都でした。非常に広大な都です。私たちは、ロバに曳かせた車で回りました。 例によって日干し煉瓦が崩れてしまっていて、今では、中国の光源氏と中国の朧月夜の君が、この辻で胸ときめかせて逢瀬を重ねたことだろうなど、ただただイ マジネーションの世界でありました。

ここと較べると交河故城は、駐車場、売店などがあり、中国人の家族などが来ていて、いかにも観光地らしい雰囲気でした。建物は、良好というほどではありま せんが、ともかく、いままで新疆ウイグル自治区で見た遺跡のうちでは、過去の形態が一番良く残っていました。ユネスコの世界遺産として、登録を申請中だと のことです。この遺跡は、漢の時代のもので、先の高昌故城よりも古く、そんなに大きくはないのです。しかし、深く削り取られた河の合流点の崖の上に造られ ているため、風と砂との侵食が比較的弱かったのでしょう。ただ、やはり、ユネスコの認定を受けるには、今後、保存がしっかりできるかどうかが問題のようで した。

この付近で、車窓から遠くに貯水用のダムが見えました。そういえば、ヤルカンドのあたりにもありました。砂漠のダムというのは、水深が浅くて、湖面がやた ら広くて、底から水が沁みてゆくでしょうし、ちょっと興味を持つと、果てしなく質問をしていたくなってしまいます。

アスターナ古墳群は、漢から唐までの貴族のお墓です。珍しいことは、古墳といっても墳丘はなくて、平らな地面の下を3〜4m掘り込んで玄室にしていること です。日本の宮崎県西都原にもこんな古墳群がありました。壁画が美しい古墳と、ミイラがある古墳とを見学しました。ミイラも、エジプトでは内臓を出して布 で巻くとか、わざわざ作ったミイラですが、ここトルファンでは、なにせ乾燥したところなので、人間の干物として幾らでもあるとのことです。2体並んだミイ ラは、意外にも背の高い方が女性、しかも、とんでもない大女でした。

火炎山は、孫悟空で有名な西遊記に登場します。物語では、山が燃え盛っていて通過できないのです。村人から、仙人が持っている芭蕉扇であおげば通られるこ とを教えられます。孫悟空は苦心惨憺して扇を奪い、通過したことになっています。

実際、トルファンは暑いところなのです。40度を超える日が年間約40日もあり、1975年には49.6度を記録したのです。

月平均最低温度 月平均最低温度 年間降雨量
トルファン 32.7℃ 7月 -9.5℃ 1月 16mm
名古屋 27.1℃ 8月 3.7℃ 1月 1534mm


山の襞ほむらとや見し孫悟空


夏は暑く、冬は寒く、一日の中の最高、最低の温度差も大きいのです。水も不足しています。その良い面として、果物がとても美味しいのです。道端に干しぶど うを売る屋台が、ずらっと並んでいます。私たちもガイドさん推薦の農家で、干し果物を買いました。そこでは、日本人相手に、ことさらに「無農薬」を強調し ていました。いったい、食べ物については、昔から、新鮮、美味、滋養、特産、厳選、謹製、ヘルシー、さらに最近では、よく考えれば良いか悪いかわからな い、国産、地産、手作りなどが修飾語として付くものです。買うほうも過去には、とくに修飾語の真偽に目くじらなど立てずに、そういうものだとして食べてい たものでした。ところがこの日頃は、れっきとした大人が、こんな修飾語の真偽に、口角泡を飛ばすような時代になってきました。

さて、火炎山の話をしているのでした。こんな暑い土地に、全体が 赤い色で、縦に襞がはいった岩肌が連なっているのです。主要道路の道端 に「火炎山」の標識があり、車を止めて観光するようになっています。たいていの案内書にある火炎山の写真は、そこからの風景です。でも、実体は、このあた りには、そういった赤い色の山が、もうあちこちに一杯あるのでした。

ベゼクリク千仏洞は、そんなところにあります。先に紹介したキジル千仏洞と同様のものですから、とくに書きません。ただ、ガイドさんによると、中国の観光 客は、日本からの観光客と違って、仏様の洞窟など、ぜんぜん喜ばないのだそうです。2つ3つ見ると、もういいやと言うそうです。「それじゃ、どんなのが好 きなのか」と聞きましたら、カラクリ湖で7000mの山を見るような、大きな景色が好きなのだと言っていました。

この日はこのあと、バスで州都ウルムチまで約200km走り ました。天山山脈を南から北へ、峠を越えるのです。天山山脈はポペダ峰(7439m)など高峰 をを連ね、東西約2000kmもある大山脈です。しかし私たちが越えたところは、最高点で1300mほど、谷や峠といっても傾斜が緩くて広いまま、北側に 抜けてしまいました。

左から2台目、変な方角向いてます


両側に高い山脈があるため、風の通り道になっており、かつ広い平坦地があるのですから風力発電の適地であります。数百機の風車が回っていて壮観でした。 20年前、アメリカ・カリフォルニアのアルタモント峠で始めて風力発電を見たときは、まだ技術が定着しておらず、2枚羽根のものや縦型のものがあり、全体 の2割ほど壊れて止まっていたという記憶があります。

今では3枚羽根の形式に収斂しています。羽根や発電機が壊れて落ちているのもありましたが、ほとんど、よく回っていました。ただ、20基ほどのブロックで 停止している場所が2カ所ほどありました。これは多分、送電系統の問題だろうと思います。

人口180万といわれる州都ウルムチでは、53階建てのホテルに泊まりました。

5月9日、ウルムチ市にある紅山公園と博物館を訪ねました。紅山公園では朝早くから、音楽に合わせて沢山の人が太極拳をしていました。我々一行のなかの女 性が、それに加わりました。共通のものを持つということは、国際親善に大いに役立つものです。


ウルムチは太極拳の朝涼し


ウルムチの博物館は、かなり立派なものです。
さすが「簡素な旅をして見聞を拡げよう」を旨とするユースホステル協会のツアーです。ホータン、そしてこのウルムチでも博物館に連れて行ってもらいまし た。こういう場合、どこでもそうですが、最初はお客さんの関心がありそうな展示を、ガイドが案内・説明してくれ、あとの自由時間で好きなところを見ること になります。ウルムチの博物館は、新疆ウイグル自治区に住んでいる少数民族の展示に力点をおいていることが感じられました。少数民族に配慮しているパー フォーマンスは、いまやアメリカでも、オーストラリア、ニュージーランドなど、世界共通の傾向といえましょう。新疆ウイグル自治区でも、多数派のウイグル 人のほか、支配層に近い漢民族、10に近い数の少数民族たち、そして地域に居着いた屯田兵と、4っのグループがあるらしいのです。屯田兵は中央政府の派遣 した軍隊ですが、定期的に交代する不便を排し住みついているのです。屯田兵の村は、自分たちの警察権や、予算執行権を持っているそうです。私など屯田兵と 聞くと、明治時代に北海道におかれた屯田兵を連想しますが、新疆ウイグル自治区では2000年も前の漢の時代の屯田兵なのだそうです。出自の異なる各グ ループの間には、われわれ平等な単一民族には理解できない、実質上の差が今でもあるようでした。

二つの博物館共通の印象として、歴史の始まりを中国の漢時代とし、それ以前のことには、ほとんどふれていないと感じました。
私はどこの街の博物館でも、金製品を探します。金製品は錆びませんし、その時代の最高の加工技術で作られているはずだからです。そのため、どの程度の文化 があったのか、あるいはどの地域から技術が伝えられてきたのかなどが、想像できるような気がするからです。ここウイグルでは金製品は非常に少ないようでし た。もともと少なかったのか、いまも砂に埋もれているのか、別のルートに売られてしまって博物館の棚に来なかったのかでしよう。土器、青銅器などの出来映 えから想像すると、2000年ほど前も、長安などと較べ、この地域の文化は遙かに遅れていたように感じました。

漢時代よりずっと古い、旧石器の発掘地点も地図に丸で示してありました。遺跡数は、かなりあるようですが、出土品の展示には冷淡でした。

本当は、アフリカを起源とする、人類の拡散の証拠でもあると面白いのですが、拡散に関与した個体数は極端に少なかったはずですから、それは無理というもの でしょう。

現代中国は考古学にもかなり力を入れていますから、今後、新発見が出てくることでしょう。でも、私の時代の理解では、ホモサピエンスは数万年前までに地球 上にほぼ拡散を終えていて、1万5千年前頃地球が温暖化し始めたのをヨーイドンの号砲として進歩の競争が始まり、メソポタミア、エジプト、黄河流域が先頭 集団になったと考えておけばよいように思います。

どちらの博物館でも、ミイラが呼び物になっている感じです。とくにウルムチのは、かの有名な、3800年前、推定年齢40才で亡くなった「楼蘭の美女」な のですから。

この日の午後、北京に飛びました。そして、この10日間、絶えて見なかった、ペットの犬をリードで曳いている市民を見かけました。

5月10日、2匹の犬が待つ我が家に帰り着きました。

 ・目に青葉げにや日本は美しき          


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