ヒマラヤ越えチベット・青蔵鉄道13日の旅
(2008/10/24〜11/5)
日本山岳会 山の自然学研究会(通称 山学)
今回の旅行は、日本山岳会 山の自然学研究会(通称 山学)の海外巡検としておこなったものです。この研究会がおこなっている各種事業の中でも、上高地イ
ンタプリター事業はもう15年も続いており、環境グループのなかでは知名度が高いと思います。上高地で動物、植物、地質など物言わぬ自然物たちの通訳と
なって、観光客に解説を行い、あわせて自然保護を訴えているのです。
この山学では、数年前から「日本列島の成因」「山はどうして高くなったか」をテーマにして秩父から伊那、三河、紀州を経て四国に至る中央構造線などの巡検
を行ってきました。それがいよいよ、地球規模の話に広がってきたのです。つまり、インドプレートとユーラシアプレートとが衝突し、世界の屋根ヒマラヤ山脈
を形成したという地球の壮大なドラマを、地形学的・地質学的に観察巡検しようということになりました。
まず空路、北京、成都、ラサを経由してネパールの首都カトマンズに入り、そこからはバスを使って国境の町コダリまで走りました。その後、中国に入り、今度
はトヨタ・ランドクルーザーに分乗しヒマラヤ山脈を越えチベット高原をラサまで約1000km走りました。ラサからは2006年7月に開通した青蔵鉄道
(1956km)で帰ってくるという計画でした。また、エベレスト・ベースキャンプ(枝道の往復200km)も訪ねることにしました。
旅の概要
今回の旅の特徴は、空気の薄いところを旅したことなので、宿泊した地点、通過した峠など、通った順に標高を列記しておきます。
成都(泊)500m、カトマンズ(泊)1350m、
ザンムー(泊)2300m、ニェラム(泊)3750m、
ヤルレ・プ・シュン峠5188m、シーガル(3泊)4200m、
タン峠5200m、エベレストBC5150m、カツオー峠5200m、
シガッツェ(泊)3900m、ラサ(2泊)3600m、
タンク峠5072m、西寧(泊)2250m
富士山での高所馴化
旅行参加を申し込むと間もなく、標高が高い土地の薄い空気に体を慣らすため、今回の旅の参加者全員、富士山に登っておこうということになりました。
私は富士山には何回か登っています。今回で多分7回目になるのではないかと思うのです。今回も名古屋発のバスツアーを利用しました。
今年の富士山は大盛況で、7月、8月の2カ月間に、過去最高の24万人強が登ったと伝えられます。
この登山で、3点、気のついたことがありました。
まず、若くて山摺れしていない人が多かったことです。山のベテランたちは、えてして北アルプスの岩稜へ挑戦したり、あるいは自然の静寂を求めて藪山へと行
くようになり勝ちなものです。まだ、あまり登山に淫していない若人たちは、日本一の富士の山というブランドに惹かれてきているのでしょう。
同様に、ブランドの山であることが原因で、外国人が多いことにも驚きました。一説によると、登山者の3人に1人が外国人だといわれます。ヨーロッパ人より
も、韓国人、中国人が多いようです。韓国の青年たちが小屋に素泊まりして、自分たちが持参したビスケットを囓っているのを見ていると、自分の若いころが思
い出され微笑ましくなりました。
3点目はわたし自身の体力の衰えです。体の鍛錬よりも、空気の薄いところに長時間滞在するのが目的ですから、思い切ってゆっくりゆっくり登ったのです。それなのに、息は苦しく足が重くて、昔と登山道が変わったのかしらと思ったほど辛く感じました。
・富士山麓いづこへ行くもすすきの穂
成田空港にて
9時10分発の便ですから、7時集合、日頃わたしが愛用する夜行バスでは間に合わず、前日名古屋を出て空港のホテルに泊まりました。東京の方でも数人は、
お泊まりになり、朝、ホテルのロビーでご一緒になりました。一行は、男性9名、女性7名で、わたしのほかにも70代が4人ほどいらっしゃる様子でした。私
以外は全員東京地区在住で、毎月の例会に集まっておられるお仲間同士でした。
なにより驚いたのは、荷物を宅急便に託された方が殆どいらっしゃらないことでした。ゴロゴロと旅行ケースを転がしてこられたのです。
最近の海外旅行を見ていると、大抵のみなさんは機内持ち込みの小さなバッグひとつで空港にゆかれます。
先シーズン、スキーに行ったとき、スキーを担いでいたのは、わたしより一回りほど若い爺さまと私の二人だけでした。そういう時代なのかなあと思ったのです。
今回、私の軽いダッフルバッグなら、自分で担いでも大したことはないと思いつつも、見知らぬご一行に入れて貰うことだからと、むしろ格好をつける意図で、
二千円ほど払って宅急便にしたのでした。それが、この朝、さすが山屋たち、常人とは剛健さが違うなと感じ入ったことでした。帰国時には、もちろん自分で
持って帰りました。
成都、ラサ、ネパールへ
いったん北京に着陸、入国審査を受けます。そして同じ便で成都に向かいました。成都は前回大姑娘山にきたとき以来、4年振りでした。あのころは、オリンピックを目指して、浮き浮きした空気が満ちあふれていました。こんど行ってみると、街は驚くほど綺麗になっていました。
夜、皆さんと街へ出ました。スターバックスのコーヒー店に入りました。結構なお値段でした。西欧文明に触れたのは、これが最後でした。あと、帰国するまで、マグドナルド、ケンタッキーなど、まるで見かけませんでした。
2日目の朝、成都からカトマンズ行きCA407便で出発しました。われわれ全員、直行便のつもりでいました。エアバス319という機種でした。そういえば
成田から成都までの機種はボーイング757でした。普通日本で飛んでいるA320やB767より数字がひとつ低いですね。すこし小振りで速度が遅いようで
す。
1時間ほど飛ぶともう左手南側に雪を纏った山脈がひしめいています。ぽつんぽつん、集落と道路が見えました。あんなところを車で走ってラサまで出てくるん
だろうと思いながら、ビデオを撮っていました。ところが乗機はエンジンを絞りました。まだエベレストとカンチェンジュンガの谷も通っていませんし、カトマ
ンズに着く時間でもありません。でも地面はどんどん近くなってきます。こうして着陸したのはラサでした。ここで出国手続きがありました。そういえば成都空
港は国際空港ですから、ネパールのカトマンズへゆく出国手続きができるはずなのに、なぜか国内線のゲートから乗ったのでした。思いがけない事態でしたし、
言葉は通じないし、「カトマンズ?」と指差しながら空港建物の中をグルグル引き回されました。
パスポート・コントロールのブースに係官が2名ずつ座っていました。一人分の給料を二人で分けて暮らしているのでしょう。
セキュリティ・コントロールはなかなか進みません。見ていると、ゲートをくぐる人の100パーセントがブザーを鳴らしているのでした。係員は飽きもせずにブザーを鳴らさせ、それから靴を脱がせ、入念なボディーチェックをしているのです。
こうして手荷物を抱えて空港建物の大旅行を済ませ、元の機体の元の席に戻りました。ラサから新しく乗り込んだ客もいて、空席は減っていました。「赤字は少しでも埋めなくちゃね」「チベットの人たちに、お仕事を作ってあげたのよ」と日本の山屋たちは鷹揚なものです。
右側の窓からは、エベレスト、ローツェ、マカルーが見えるのですが、わたしは7年前にしっかり見ていますから、今回は鷹揚に、左の窓からカンチェンジュンガを飽かず眺めていました。
カトマンズ
カトマンズは7年ぶりでした。途中で見た中国では、都市がすっかり近代化され、綺麗になっていました。それと比べて、ネパールの首都カトマンズは、あまり
変わっていないという印象でした。それでも、前回はひとつもなかった交通信号灯が設置されていました。ガイドさんは「日本がつけてくれた。でも、使ってい
ない」と言いました。なぜなのかと尋ねると「停電が多いから」と答えが返ってきました。ジョークかとも思いましたが、信号が赤くなったり青くなったりして
いるのに、それには実際、反応していないようでした。
市の大通りは、デモがあり、車は通れませんでした。市民は馴れた様子で、裏道をごちゃごちゃと走っています。「外国から新しい便利な品物が入るようになっ
た。でも、高くて買えないから金をよこせと、毎日毎日デモばかりしてる」とのことのようです。王制が廃止されマオ派の時代になっているのですが、一口にマ
オ派といっても、その中にいくつかの派閥があり、民主主義になりたての揺籃期、混沌の時代なのです。
到着した日の午後、カトマンズから西へ断層地形を観察にゆきました。よい天気でした。ネパールの農村では、稲の収穫時期でした。稲穂から籾を脱穀し、それ
をザルから落とし、風に吹かせて米粒とゴミとに分けていました。その仕事は、みんな女性たちがしていました、色々の年頃の女性たちが数人グループになり、
お喋りしたり、唄ったり、労働ではありますが、楽しんでいる面も大いに見受けられます。お米を袋に入れ、部落に持ち帰る重労働だけが男の役のようでした。
でも、それは時間的に少々のことで、男たちはもっぱら涼しい土間で天下国家(でしょうね)を論じたり、われわれのような外来者に、しゃべりかけたりして日
を暮らしていました。それ以後、私たちの隊でも、ランチの配分のときなど「ネパール方式でいこうや」などいっては、女性だけ働かせるのが流行しました。
国境の町コダリで橋を渡ると、中国へ入ります。その4kmほど手前から車の渋滞が始まりました。まったく進む気配がないので、諦めて地元の臨時ポーターた
ちに荷物を運ばせ、われわれも歩きました。ヨレヨレの年取ったポーターは、捨てられた腐ったバナナを拾っては、歩きながら頬張るのです。母親と息子とその
赤ん坊という妙な組み合わせの素人ポーターもいました。母親が一番強いのですが、疲れると息子が担ぎ、その間は初老の母親が赤ん坊を抱いて歩いていまし
た。
しばらく行くと渋滞の車列は走行車線だけでなく、反対車線にもこちら側から突っ込んでいるのでした。もちろん、険しい崖にへばりついた片側一車線の道で
す。もう、にっちもさっちもゆかない状態になっているのです。おそらく四五百台は突っ込んでいるでしょう。車と車の間の狭い隙間を歩いてゆくのですが、先
の方はもう何日もこうして詰まったままなようで、少なからぬ大便が転がっているので油断なりません。
国境の大渋滞
なんでも、中国から品物を持ち込めば、大儲けできると聞きました。大きな品物を担いで歩いている人も沢山いました。閉鎖ではないそうですが、極端に
往き来を制限しているのは間違いありません。日本でしたら、もっと手前で交通規制を敷いていることでしょう。実際、橋を渡った中国側では、片側一車線は、
通行可能の状態に空けてありました。外国品の運び屋が巨利を得たり、観光客の荷物を運ぶポーターの仕事ができたり、外人用の抜け道があるなど甘言で誘うペ
テン師がいたり、ここにはここの人生模様があるのです。ともかく、行政、警察などの国家機能がまともに働いているとは思えないネパールは、いま国際化・近
代化の波にもまれ、体制改革に伴う苦難のときを迎えているようです。
・小春日や雄鳥一家引き連れて
ヒマラヤ越え
世界の屋根ヒマラヤ山脈を、どこでどう越えるのでしょうか。
私たちが越えたのはエベレストとマナスルの間、かなりエベレスト寄りの場所です。地図で見ると、もう一本、カンチェンジュンガの東に、ラサとインドのカルカッタを結ぶ道があるようです。
カトマンズから国境の町コダリまでは、128km走っても標高差はたった523mです。中国に入りザンムー経由ニェラムまでは、僅か40km走る間に標高差1877mと、急に登ることになります。
国境を越えた中国で最初の街はザンムーです。家々は崖の斜面に刻まれたジグザグの道にへばりついていました。緯度は九州の南ぐらい、標高は2300m、わ
たしはそんなデータから、なんの準備もせずベッドにつきました。ところが寒くて寝付けません。夕食のときに窓が開いていて体が冷えたのだろう、そのうち暖
かくなるさ、と我慢していました。起きて重ね着するとか、カイロを入れればいいのに、面倒くさがり屋の悪い癖が出て、寒い夜を過ごしてしまいました。
さて、ザンムーから急登する道路は、日中は工事のため通行止め、早朝7時までだけ通過が許可されます。そのため朝6時半出発です。
中国はあの広い国土に時差を設けず、北京時間一本なのです。もともと時差は、正午に太陽が真南にあるようにするため設けられているのです。たしかに北京で
は正午に太陽が真南にあるでしょう。でも、そのときこの西の地域では、太陽はかなり左より、まだ午前10時の位置にあることになります。
したがってザンムーでは、この6時半という時間は、太陽がのぞくまで3時間ほどある真っ暗闇なのでした。トヨタ・ランドクルーザー5台に分乗して工事中の
がたがた道を突っ走りました。ヘッドライトに照らされた様子から想像すると、急斜面を無理に削り込んだ、黒部の日電歩道の車道版といった様子でした。一台
の車は、途中でヘッドライトのヒューズが切れてしまい、スモールランプだけで走ったそうですから、さぞかしスリリングだったことでしょう。
ひどい道ですが、たった40kmですから2時間後の午前8時半には、次の宿泊地ニェラムに着いてしまいました。日の出前の一番冷える時間です。この街の標
高は3750mです。道路の水気という水気は、もうカンカンに凍っています。中国の若い兵隊さんたちが、白い息を吐き、かけ声をかけながら朝のランニング
をしていました。
ここの宿は、木賃宿のようなところでした。天井や壁には、けばけばしい幾何学模様の壁紙が張ってあります。その上に電気のコードを引っ張り、薄暗い電球形
の蛍光灯がつけられるようになっています。建築当初は電気はまだなかったのでしょう。元は部屋の中で食事でもしたのでしょうか、中央にがっしりした大きな
木製の机がありました。暖房はありません。その寒いことといったら大変なものでした。着られるものはみんな着込みました。そして通常の倍ほど広い毛布を二
つ折りにし、封筒のようにして潜り込みました。その上に掛ける布団は、昔を思い出させる厚くて重たい代物でした。この日のように急に高度を上げたときは、
うっかり眠ると呼吸が少なくなり、高山病になる危険があります。それで、嵐山光三朗が明治の文士たちについて書いた本を、必死に眠気を抑えて読んでいまし
た。
この日の日中、近くの標高4000mの禿山に4時間ほどのハイキングに出かけました。高所順応のためには、宿泊地より高いところの薄い空気の中で軽い運動
をしておくとよいのです。ところが、こんなに警戒していたのに、一行のうちのおひとりが、高山病にかかってしまいました。昼食、夜食がとれず、眠気に襲わ
れてしまうのです。
夜食の後に、みんなでかなり真剣に、これからどうするか検討しました。だれかが付き添ってネパールに戻り、再出国するかという案まで出されました。結果的には酸素吸入が奏功し、なんとか全行程をこなされたのでした。
わたしが罹った高所障害については、また稿を改めて記述します。
シーガル
ニェラムからシーガルまでは215km、標高差は550mです。8時間半ほどの車の旅です。昼食、休憩を含め,時速25km/hほどです。
このあたりは、まだ、かなり未舗装のダート・ロードがあります。ラサとカトマンズを結ぶ中尼公路(中国ネパールハイウエイ)は、現在、舗装率が90パーセントぐらいではないでしょうか。交通量から見れば、大変な投資をしていることになります。
ネパール内では殆ど舗装されていますが、かなり穴ぼこで荒れています。中国側に入ると舗装部分は新しく、高速で走ることができます。そして、ラサに近ずくにつれて、舗装率は上がってきます。
この日走ったあたりは、道路に沿って貧弱な配電線と電話線が走っていました。なにせ、空気が薄く、寒く、雨が少ない、人が生きてゆくのに厳しい土地です。
10戸ほどの部落が、ほんとに長い距離をおいて、ぽつんぽつんとあるだけです。こんなところに、一体どんなにして電気を供給しているのかと、いつも考えて
しまうのです。電圧は滅茶苦茶でしょうし、停電だって当たり前のことでしょう。そんな条件でも、経済的には大赤字なはずです。住民たちは中国政府の国家的
判断で、電気の恩恵に浴しているに違いありません。5000m級の峠のあたりでは、さすがに民家もなく、配電線は目にはいりません。でも、そんなところで
も通信線だけはつながっているようでした。
出発して2時間ほどで、ヤルレ・プ・シュン峠、標高5188mに着きました。峠といっても、あたりはなだらかで丸っこい禿げ山ばかりです。日本の山の峠と
はまったく異なった雰囲気です。風にはためく色とりどりの旗、タルチョ、のゲートがなかったら、どこが峠か分からないかもしれません。
この峠から、8012mのシシャパンマが見事に見えました。あまりの絶景に時の経つのを忘れてしまい、「いい加減に高度を下げましょう」と促されてしまい
ました。東へ走るにしたがって、右手に、エベレストの姿が段々大きくなってきます。ティンリで昼食しました。レストランの中央には年中ストーブが焚かれ、
上に置いた薬缶のお湯が沸いています。燃料は小粒な山羊の糞、そして大きいのはヤクの糞です。不思議ですが、まったく嫌な匂いはしないのです。
部屋はわりに混んでいました。われわれと同年代のヨーロッパ人のグループも入っていたのです。部屋の片隅で広い場所を占領し、ドンと座っている人がいまし
た。チベット仏教のお坊様でした。いっとき、むにゃむにゃお経を唱えているようでした。店の亭主や子供が、食べ物を持ってきたり、サービスしていました。
でも、私の目には、お坊様を尊敬しているというよりは、そうすることになっているからするのさ、というように映りました、インドで、牛が神聖視されている
ように。ご免なさい。つい、マスメディアの言葉狩りに引っかかったら、不良外人にされるような失言をしてしまいました。
・ヒマラヤの巨峰は雪にそろい踏み (GPS高度5.14km)
でも、私は河口慧海の「西藏旅行記」に出てくるチベット仏教の僧侶のことを思っていたのです。つまり、世界中の国の、あらゆる職業の人と同様に、そのグ
ループの中には、良い人もあれば悪い人もあるということなのです。河口慧海といわれてもご存じない方が多いでしょう。彼は堺生まれの熱烈な僧侶でした。中
国を経由して日本にもたらされた経文ではなく、原典の経文を学びたいと念じたのです。そのため、1901年35歳の時、西藏(チベット)のラサに入ったの
です。当時、チベットは鎖国でしたから、禁を犯しての入国です。まずネパールに入り、潜入ルートを行商人などから聞き取ったのです。そして、いったんは
「日本に帰る」と地元の人まで騙したうえ、途中から反転し、今度は中国人を装ってチベットに向かったのです。何カ国語をも操るというのは凄い才能です。僧
侶として、行く先々で村人たちから便宜を提供されたとしても、高山、大河を越えてゆくのは容易なことではありません。ヨーロッパ人探検家たちのチベット見
聞録が、往々にしてキリスト教信者の観点から離れられないでいるのに、慧海の「西藏旅行記」は客観性の高さからチベットについて研究するうえで、高い評価
を得ているのです。その「西藏旅行記」に、チベット仏教界の良い例と同時に、悪い事例も記されているのです。
子供はどこでも可愛い!
シーガルのホテル
夕方前、標高4200mにあるシーガルの町のホテルに入りました。
建物は、わりに新しく大きくて、見栄えはよかったのです。ところが部屋に入ると、電灯がつきません。ガイドに指摘すると「いま停電です」との返事が返って
きました。それでも、外からの光がまったく入らない洗面所だけは、薄暗い蛍光灯がボンヤリ点いていました。20時に、薄暗い食堂に集まり食事を始めまし
た。しばらくすると、急に部屋の電灯が明るくなったのです。
この町には3泊しましたが、毎日、同じ現象が繰り返されました。3日目には、電灯が明るくなる時間を確かめました。20時12分でした。
このホテルでは、建物にも部屋にも暖房はなく、寝るときは電気毛布を使うようになっていました。
このあとの宿泊地シガッツェのホテルで、ある人がこう言いました。「ここへ来て、久し振りに、鏡で自分の顔を見た。こんなひどい顔になってるとは思わなかった」。たしかに、シーガルのホテルの薄暗く寒い洗面所では、自分の顔を見た記憶はありませんでした。
「停電は計画的なのか」と、私はガイドの中国青年に尋ねました。彼は相当の愛国者で、チベットの恥になることは言いたがらぬ男でした。言下に「計画的では
ない」と答えました。でも、私は、日本でも昔、電気が不足していた時代を知っているのです。各家庭が一斉に電気を使うと電圧が下がってしまい、電球の光り
は赤く頼りなげで、ロウソク送電とけなされていました。きっと、この町では、今でも電気が不足しているのでしよう。それで、ホテルでは昼間は自家発電で最
小限の電気を灯し、夜は電力系統から電気を受けるのだろうと想像しました。それでもまだ電圧が低く、ビデオカメラのバッテリーの充電はできませんでした。
道中、数百kwと思われる、小さな玩具のような水力発電所の工事をしているのが見えました。この発電所が完成すれば、当地では大戦力になることでしょう。
一方、後日見たのですが、人口44万人といわれるラサ市の西には巨大なダム貯水池があり、立派な送電線もありました。さぞかし大きな発電所があることだろうと想像します。
チベットはこうだと、ひとことで決めつけられるものではありません。
私の高山病
シーガルでの2日目には、高所馴化のため軽ハイキングにゆきました。丘の上で昼食をとりました。カップ麺にお湯を注いでくれました。ぬるいお湯でした。標
高が高く気圧が低いので、沸騰しても温度が低いのです。山の遭難記など読むと、いよいよとなれば、カップ麺をバリバリ囓ったりするのですから、文句はいわ
ずに食べました。でも、やっと喉に流し込んだといってよいでしょう。この日の夕食のときになって、実は、わたしの体の側の問題で食欲が減退していることが
決定的になりました。食べ物によって、グッと胃が収縮し、つまり吐き気がするのです。卵とか白菜などは食べられましたが、きつい香料の入った料理は、とて
も受けつけられませんでした。おかゆに添えた、仲間の女性からいただいた梅干しが、どんなに有り難かったことでしょう。
また、便も少し緩くなりました。といっても、本当の下痢ではなく、4〜6時間は持ちましたから、一応、夜も寝られましたし、行動にも差し支えはありませんでした。
改めて過去の山旅を振り返ってみました。モンブラン、マリンチェなどで、下山路で嘔吐感を経験したことを思い出しました。日本でもどこかの山で経験したことがあったようにも思います。でも、大抵その日のうちに高度を下げているので、障害だと意識していなかったようです。
ここに滞在した3日間は、エベレスト・ベースキャンプ(5150m)など高所を巡っていたので、ここののホテル(4200m、空気は名古屋の60%)が、一番空気の濃い場所だったのです。
今回の旅行では、パルスオキシメーターという血液中の酸素濃度を測る計器で、体調を監視していました。16人も測定すると結構時間がかかるので、細かい数
値は求めず、血中酸素濃度が60パーセント以上あればパスという、ラフな感じで使っていました。一般的には、高所に滞在していると体が薄い空気に馴れてき
て、血中酸素濃度は段々上がってくるとされています。こんどの私の場合は、65とか67とかで、パスはパスでしたが、一向に馴化の効果は読み取れませんで
した。
だれも弱音は吐きませんでしたが、食事の様子、トイレでの顔の合わせ方から推察すると、私のほかにも何人かが同様の食欲減退を感じておられたようでした。
次の滞在地シガッツェ(3900m)で一泊すると、食欲はすっかり回復しましたから、まごう方なき高所障害でした。
3日間、食欲不振に悩まされて、深く反省するところがありました。
よく、海外旅行で食事が口に合わず、苦労した話を聞かされます。そんなとき、正直の話、わたしはその人をなんて神経過敏なんだろうと、心の中で軽蔑してい
たのです。でも、今回、自分が吐き気を気にしながら食事をしていて、原因はともかく、こんなにして旅を過ごしていたらどんなに辛かろうと同情する気持ちが
生まれました。また、往々にして旅行案内に、振りかけ、佃煮など嗜好品を持参するように記載してある意味も、この歳になってやっと理解できたのです。
ついでながら、空気が薄くて苦しかったという話をすると、皆さんから5000mでも、車はちゃんと動きましたかと質問されます。考えてみればそのとおりな
のですが、車のパフォーマンスには、まったく変化は感じられませんでした。もっとも、自分でアクセルを踏んだわけではありませんでしたが。
エベレスト・ベースキャンプ
ようやく東が白んできた朝8時に、シーガルの宿を出発しました。厳しい冷え込みです。学校の生徒たちが、本を読みながら、登校しているように見えました。
でも、本当は本を見ながら、何か暗記していたのかもしれません。ともかく、われわれを乗せたランドクルーザーの運転手は、日本語も英語もまったく話しませ
んから、情報量は少なかったのです。
一旦、西に戻り、間もなく南への枝道へ入り高度を上げてゆきます。このあたりの山容は、植生が極めて稀なうえになだらかで、車道がゆったりとジグザグを描きながら登っていっているのがよく見渡せました。パン・ラ峠に出ると、その大パノラマに全員声をあげました。
右にチョー・オ・ユー、左にマカルーを従え、真ん中にエベレストの鋭利な三角錐が三役土俵入りの横綱の貫禄を見せていました。峠を少し下ると、右にシシャ
パンマも見えてきます。これら八千メートル峰は、東西横一線に並び、同行の隊員から受けたレクチャー、つまりインド亜大陸がユーラシア大陸に衝突した地形
であるとの説に頷かされます。
谷の底部には礫が厚く堆積し、広い河原になっています。まるで東海道線の大井川を渡る地点のような、河原の上面につけられた道を走り、ジリジリと高度を上
げてゆきます。川の水が、氷河から流れ出る独特の灰色に変わったと気がつくころに、エベレストのベースキャンプに到着しました。
道路際にある、小さなコンクリート製の小屋の壁に、黄色のペンキで「游客止歩」の文字が、乱暴に書かれていました。ここが、游客、つまりわれわれのように、入山料を払っていない観光客に許された、立ち入り限界なのです。
目の前にある、高さ20メートルほどの丘に登ります。丘の上では、皆さん、眼前にそそり立つエベレストの雄姿に声を呑み、シャッターを押すのに余念がありません。エベレストの三角錐の鋭峰が、氷壁が、そして氷河が、文字通り眼前にあるのでした。
山屋とは、因果なものです。とても登ることのできない高峰と知りながらも、登山ルートはどこなのかしらと、自然に目を走らせているのです。右から西陵の北
面が雪を纏った急斜面になっています。その左に頂上が、その着雪さえ拒む北西壁を少し下がったところに、イエローバンドが視認できました。
北尾根の稜線を、下から上へと目で追ってゆきます。現在立っている地点は、標高5150mです。すぐそこのように見えるといっても、なお8848mの山頂
までには、3700mの標高差があるのです。つい先刻、わずか20mほどのコブに登るのに、喘ぎに喘いでいた私にとって、頂上を極めるサミッターたちっ
て、いったいどんな体と気力を持っているのかしらと、ただただ感嘆する思いでした。
・登山路を目に追う雪のエベレスト
山の標高は、地殻の隆起と浸食によって決まります。エベレストの8848mは、人類にとって、1953年になって、やっと登り得た高さだったので
す。もしも地球の最高峰がもう千メートル高かったなら、どうなることでしょうか。空気はさらに薄くなり、行動時間は長くなるのです。酸素ボンベの重量は一
本6kgもあると聞きます。はたして人類は、頂上を極めることができるでしょうか、それとも10000m峰は、永遠に人類の登頂を拒み続けるのでしょう
か。エベレストは、1900万年前から隆起を開始したとされます。今も隆起を続けていますし、侵食も受けています。当然、標高は変わり続けています。しか
し、人類が絶滅するまでと時間を限れば、そんなに大きく変わることはないでしょう。いま、偶然、8848mである因縁の不思議さを思ってしまったのです。
エベレスト・ベースキャンプに立ち、こんな「山学」めいた感慨がありました。
三大聖湖のひとつヤムドクツォ湖
チベットのお仕事
シーガルからエベレスト・ベースキャンプに行く間、検問所が2カ所ありました。往復ですから、4回、律儀にチェックを受けたのです。
こんな検問所は、ほかでも何回か出くわしました。あらかじめ提出したリストとパスポートを照合するだけですから、別にどうということはありません。まさに、お仕事を作ってあげてるといった感じです。
面白いと思ったのは、検問所の部屋の壁に、検問の心得とでもいうべき文言が、箇条書きにして大きく張り出されていることでした。漢字とチベット文字で書かれています。中国語の達者な隊員が解説してくれました。以下に少し例示してみます。
必要なことは、きっちり実施すること。
必要でないことを、要求してはならない。
オイ・コラというような乱暴な呼びかけをしてはいけない。
「あなた」、「同志」というような、親近感のある言葉を使え。
また、別の機会に、街角で何回か「法律を守って、明るい社会を築こう」というような文字が書かれた看板を見たこともありました。
荒れた土地のボロボロの家に住んでいるチベットの人たちが、法律社会以前の存在なのかどうか、私のような一介の旅人には分かりません。しかし、中国政府がどのように考えているかは分かったような気がしました。
街とお寺と
チベット第二の都市シガッツェ(3900m)では、パンチェンラマ(現在は北京に抑留中)の住居とされるタシルンポ寺を見ました。
ギャンツェ(4040m)では、15世紀の仏教美術が比較的よく保存されている、といわれる白居寺を見ました。
・繰り返す五体投地の床の冷え
ネパールからチベットに入国したころは、乾燥してまったく不毛な禿げ山でしたが、こうして東へ進むにつれて、道の周囲が雪に覆われるようになってきます。高度を下げラサ(3600m)に近づくにつれ、なんとなく地表が緑っぽくなり、やがて街路樹さえ見えてくるのでした。
ラサのホテルは立派で、部屋に酸素ボンベなど置いてあります。1本、1000円ほどで吸えるようでした。このホテルの夕食はバイキングで、鮭のお刺身や、ウナギの蒲焼きまでありました。文字通り、むさぼり食いました。
ラサでは午前中に大昭寺、午後にポタラ宮を見物しました。
オリンピック前にラサ市で起こった騒乱の気配は、街のどこでも、まったく気がつきませんでした。
大昭寺はチベット仏教の総本山で、人々は、一生に一度は訪れたいと願っているそうです。早朝から大変な人出でした。ここでは、あちこちの建物の屋上に、兵
隊さんが銃を構えて見張っているのがよく見えました。わたしの孫の年齢の可愛い兵隊さんたちが、数人で隊を組み、巡回しているのも見かけました。なんと
いっても、軍隊というものは非生産的な存在です。
チベット人たちは、老若男女、そんなことはまったく気にしていません。五体投地の祈りを繰り返し、あるいはマニ車を回し、あるいは杖をつきヨロヨロと歩い
ています。ラサでは、日本人には、ひとりも会いませんでしたし、ヨーロッパ人の観光客も、ほとんど見かけませんでした。治安の悪いラサ、というイメージ
が、世界中に定着しているのでしょう。ポタラ宮に入るとき、空港並みのボディチェックがありました。
どの寺院も、外見はエキゾチックでかなり立派に見えます。でも、内部はベルサイユ宮殿付属礼拝堂の対極で、暗くてゴタゴタしています。
・天高しポタラ宮殿南面す
いくつかの寺院では、前述の河口慧海が命をかけて求めた経典に心惹かれるものがありました。薄暗い棚にびっしり詰まっていました。盗難防止のために、金網
を巡らせたところもありました。黒くくすんで、積み重ねられた経文は、かって訪ねたオーストリアのメルクの僧院の図書館のそれとは対極的でした。メルクで
は9万冊といわれる分厚い本の金色の背表紙が壁をずらりと装い、まさに絢爛豪華でありました。
経文には、二つの面があると思います。ひとつは、文字によって表されている内容、教義、つまりソフトウエアの面で、もうひとつは、伝えてくれた先人への敬
意とか、考古学的、骨董的価値というようなハードウエアの面であります。ソフトウエアのメモリーやハンドリングは、近代技術に頼るのがよいのではないで
しょうか。ハードウエアについても、品質保持や火災、盗難から確実に守るために、やはり近代技術を取り入れ保管するのが良いのではないかと感じました。
現代の中国は、共産主義を看板にしています。共産主義では、宗教を否定していますから、ダライラマが国政と仏教を束ねて支配する国、チベットとうまくゆく
はずがありません。何回もゴタゴタはあるのです。そのなかで、決定的に寺院を破壊したのは、毛沢東の文化大革命と紅衛兵だったというのです。
たとえば、シガッツェのタシルンポ寺では「九つあったお堂のうち七つが壊され、2棟だけが倉庫として残された。4000人いた僧侶は、600人になった」
と説明を受けました。このようにどこのお寺でも、1966年紅衛兵に、手ひどく破壊されたという話を聞かされました。しかし、後で考えてみると、お寺こそ
違え、説明をしてくれたのは、同行した同じチベット人のガイドですから、彼がそういう観点から見ているということなのでしょう。
文化大革命の時代を経験した人たちも、段々数が少なくなってきました。この機会に、私の経験に少し触れておきましょう。
文化大革命とは、毛沢東の主導により、古い文化を壊し、新しい文化を創り、理想の社会を実現しようという看板のもとに。中国全国を巻き込んだ大政治運動で
した。毛沢東の実体は、マルクスの資本論を読んだかどうか不明といわれますが、ともかく共産主義者を自称していました。当時の日本の左がかった進歩的文化
人たちの毛沢東礼賛がメディア上で活況を呈し、赤い表紙の「毛沢東語録」が本屋の店頭に山積みされ、飛ぶように売れたのでした。
しかし、実体は政治的権力闘争の手段であり、大勢の文化人を殺し、多数の文化施設を破壊した「文化大破壊」だったのです。殺された人の数は1000万人とも4000万人ともいわれます。
「毛沢東」を「ヒットラー」と、「毛沢東語録」を「我が闘争」と読み替えれば、人の世には昔からあり、これからも起こる普遍的な社会現象であることがわか
ります。流行に躍る人たちは、メンタル的に、視野狭窄、健忘症ですから、その後のフォローには、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいるものです。
青蔵鉄道
チベット自治区のラサから、中国青海省西寧まで、列車を利用しました。
2006年7月に開通した青蔵鉄道(1956km)で、永久凍土の地に建設されたこと、世界最高の海抜5072mのタンク峠を通過すること、そのため気密車体を使い酸素吸入設備があること、などが売り文句で、一時、観光ブームを呼んでいました。
他方、そういった素直な大衆の好奇心への対極として、「天空を引き裂く青蔵鉄道、奪われゆくチベット」、「チベットに苦難および暗黒をもたらし、チベット
における中共の軍事化をすすめるために。チベットの資源を略奪し、そのために、チベット人の隔離を一層進める目的である」という、メディアを喜ばせるよう
なことを言ってくれる人も出てくるものです。
われわれが乗ったのは、ラサ発11時20分、西寧着翌日12時05分、所用約24時間でしたが、列車によって色々のようです。上下2段、4人一室の一等寝
台車でした。ディーゼル機関車に引かせる、16両ほどの長い編成の中央部だったうえ、密着式連結器を使っているようで、大変に静かでした 。
ラサ駅舎 いかにも共産国風
なにせ速度が遅いのです。車内通路の天井に、速度、標高、外気温度、現在時間、の電光表示が、代わる代わる出るようになっています。その表示で、私が見た最高速度は、97km/hでした。平地や下りでも、一向に速くなったという感じはありませんでした。
殆どの経過地は、登りや下りに気がつかない、つまり、かなりフラットな様子です。最高点の標高5072mの峠は、ラサを出てから約7時間半後に通過しま
す。といっても、そこまで登って、峠を越えたら下るという雰囲気は皆無です。ただ、電光板の表示の一回りして出てくる数字が、前より5m下がったから、あ
そこが最高点だったのだと理解するわけです。
なだらかな丘を縫って走るのですから、トンネルなどただのひとつもありません・・・と書きかけたのですが、凍土にトンネルを掘ったと、誇らしげに書かれた
記事を思い出しました。そういえば、ラサのすぐ北のあたりで谷間を走りましたから、そこにもトンネルがあったかもしれません。でも、鉄道に限らず、中尼公
路でも「チベットにトンネルはほとんどない」と断言してもよいと思います。
真夜中に目が覚めました。折角ですからカーテンを少しずらし、外を眺めていました。北斗七星が地面から垂直に立ち上がっていました。一番下の星からは、二
番目の星も地平線とも等間隔でした。平らな地平線の上には、丘も家もなにもありません。汚れた空気さえもないのです。月面で星空を眺めたらこんなかしらと
思えました。この歳まで生きていてよかったと大感激でした。
・柄杓星真直ぐに立てる寒夜かな
西寧
列車が到着した西寧は、人口500万人の大都市です。大きなビルが林立し、広い大通りには車が溢れ、人がうじゃうじゃと歩いています。
掏摸もいます。一行の中からも、デジカメをスラれる被害が出ました。
スーパーマーケットに入りました。私はモンゴル自治区産のチーズを求めました。日本では、メラミンが入っているとかで店頭から撤去され、手に入らない珍品
でしょうから。ところが、なんと、日本と同じような値段でした。ということは、現地では高価な品と言えます。ついでながら、ヨーグルトを、中国の乳製品と
いうことで、警戒して召しあがらない方も、一行のうちに2〜3人おられました。
でも、中国の街に、うじゃうじゃしている人たちを見ていて、食べると何か起こるなど感じない人が殆どだったようですし、それが自然というものでしょう。
11月5日、帰国の日の朝、連日快晴だった今度の旅で、始めて天気が崩れ、雪がチラチラと舞ってきました。
チベットとは
現在、日本人がチベットに対して抱いている関心は、今年夏の北京オリンピック前に起こった、一連の騒乱事件でしょう。ラサで騒乱を起こし、世界各地で聖火リレーを妨害し、独立を訴えたチベット人たちを、中国政府が力ずくで抑圧したという点でありましょう。
日本人は、地図に線で囲まれたチベット自治区が、チベットだと認識しているはずです。そのチベットならば、日本の3倍もある広さの土地に、約270万人の
チベット人が住んでいるのです。でも、世の中には色々の人がいます。チベットの独立派の中には、日本の6倍の土地に600万人のチベット人が住んでいる、
それこそがチベットなのだ、と主張する人もいます。それは、現在では中国の青海省、四川省、雲南省の一部になっている土地と、そこに住んでいるチベット族
のことも忘れるな、と主張しているのです。そんな事情を知れば、チベットの問題も、現在、クルドなど世界各地で起こっている、ごく普通の民族問題と変わり
ないことが、お分かりでしょう。
昔、日本のチベットといえば、岩手県のことでしたし、愛知県のチベットといえば津具村のことでした。また、横浜のチベットといわれるところ住んでいるとおっしゃる人に会ったことがあります。「チベット」とは、不毛の地の代名詞であります。
チベット自治区は、平均の標高が4000mを越す高原です。南の縁は、ヒマラヤ山脈でインド側から盛り上がっています。北の縁は、コンロン山脈で
タクラマカン砂漠から急に盛り上がっています。中国の重慶の西あたりからアフガニスタンまで、縦1000km、横2000kmの楕円形のアップルパイを、
地球表面に置いたような格好です。緯度は日本の奄美大島あたりから仙台までぐらいで、そんなに北ではありません。気温が低いのは、ひとえに標高が高いため
です。私たちが通ったのは南東部ですが、それでも東に来るにつれて雨量が多いようでしたから、西へ行くにしたがって水も少なくなり、さらに過酷になるので
しょう。標高1000m弱の碓氷峠でも、茄子の実がならないと聞きます。私たちが通ったところでは、細々と馬鈴薯を栽培していたようですが、10月末に
は、緑はまったく目に入りませんでした。ヤクの糞を燃料にしていたと話すと、ヤクが食べているものはあるはずだと突っ込まれました。たしかにその通りで
す。ヤクの数も、東に来るにしたがって多くなるようでした。水辺には、多少植物があるのでしょうか。
ともかく、地図をひろげて見て下さい。チベットの西部、とくに北には、まったく町の表示がないはずです。チベットの大部分は、人間が生存できる限界の土地に、細々と、しがみついているというのが実体でありましょう。
してみれば、中国政府側の主張、「1951年の平和解放から現在までは、チベットのチベット族人口が過去一千年のうち最も速く増えた期間である。1970
年から、チベット自治区の人口出生率、自然増加率はともに全国の平均水準を上回っている。人口の健康レベルも速やかに向上し、平均予期寿命は1951年の
平和解放前の35.5歳から現在の67歳に伸びた」は、数字はともかく、ストーリーとしては否定できないでしょう。
中国の一部であるために持ち込まれた、制度、物資の恩恵を受けていることは疑いのないところです。しかし、そこにこそ、伝統的な民族固有の文化をどう守ってゆくかという、少数民族問題共通の難しさがあるのです。
第一次大戦後、民族自決主義、すなわち各民族集団が自らの意志に基づいて、その帰属や政治組織、政治的運命を決定し、他民族や他国家の干渉を認めないとする集団的権利が、国際ルールとみなされています。
その格調高い、しかし実行不能なルールが唱えられてから、間もなく100年経とうとしています。民族自決のルールの下で、民族紛争はなくなるどころか、かえって地球上あちこちで、新しい紛争の種となっているのが現実です。
日本人としては、チベットのことを知るのに、マスコミ報道によるしかありません。マスコミは常に、強い者が弱い者をいじめるものだ、マスコミは、いじめを糾弾する正義の味方だ、という観点からの情報を流します。
また、こういった問題については、大国の諜報機関がウラで暗躍していることは、常識といってよろしいでしょう。
老境に入った私は、いまでは、こういう事態は、常識で考えると一番よい線をゆけると思っています。
つまり、殆どのチベット人の人は、私たちと同じで、まずは家族が安全、健康に暮らせればよい。贅沢は言わないが、生活が少しは楽になって欲しい。子供には教育を受けさせて、自分よりよい生活をさせたい。そんなことを願っているのに違いありません。
また、それとともに今の制度や地位を守りたいという人もいる反面、今の制度を変えて、公正な世の中にしなくてはと思う人もいるでしょう。
そしていつの時代にも、どこの社会にも、大部分を占める大衆とはまた別の、活動家と呼ばれる「事あれ主義」の人たちも存在するものなのです。
・念願の寺に善男善女たり
ダライラマは活仏であって、亡くなると、預言によって、子供の転生者を探し出すといわれています。でも、政治と宗教を一身に取り仕切る権力の地位が、人の集団の権謀術数の対象にならないわけはないはずです。
極貧の人たちが、10人で1人の僧尼をサポートしていた、信心深いといわれる強力な集金制度も、現代で通用するものとは思えません。
しょせん、どこまでいっても、金と権力と自己愛から逃れられないのは、人の性であります。
また世間には、住民の生活環境の改善にともなう、伝統文化や自然環境の破壊の面だけに注視し告発する人も、必ず何人かはいるはずです。
チベットは、中国、インド、旧ソビエット圏といった強大国と国境を接しているのです。人口280万人の小国が大国並みに完全な独立をするといっても、非現実的ではないでしょうか。農業など一次産業の時代ならば魅力の少ない土地でも、資源の時代になれば話は別であります。
「あなたならどうする」と自分に問いかけてみてはどうでしょうか。
私なら、まずなによりも、流血事件など、むごいことが起こるのを絶対に避けたいです。
そして、痛いこと、苦しいこと、辛いことなどから救ってくれる、文明の導入と、それを使うことのできる収入を得たいと思います。
そしてなによりも、いろいろ気に入らないことがあっても、60点取れたら満足する、心のいい加減さを持ちたいと思います。
現在のダライラマ14世が、あちらも立て、こちらも立てして、極力、流血にいたるのを避け、また、多面的ににコンタクトし、自国民のために最大の援助を引き出すようにしているのは、賢明な方法のように思われるのです。
チベットの問題点は、世界のあちこちにある民族問題と、とくに変わったものではありません。中国もチベットも、われわれと同じ、人間が作っている社会なのです。人間のすることを神様の目で見てツッコミを入れていれば、その種は尽きません。
ただチベットは、報道の自由がないといわれる中国が抱えている問題であるだけに、ツッコミのポーズをとることで食べているマスメディアにとっては、いつまでも金の卵であり続けることでしょう。
・チベットの旅の別れや秋の雪