題名:よしなしごとその2

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日付:1999/8/8


余生の始まり

2年前、44年続いたサラリーマン生活にも終わりがきました。

それからは、余力を余生に注ぎ込み始めました。

退職してから半年間にこんなことをしました。

まず北海道に飛び、斜里岳、黒岳、北海岳、白雲岳、五色岳、化雲岳、トムラウシ山,後方羊蹄山、余市岳、天塩岳、利尻岳と登りました。この中の4山は日本百名山なので、これで懸案の百名山を終わることができました。

次いで、1人でアルプスへ行き、ブライトホルン、アラリンホルン、モンブランと4000メートル峰を3つ登りました。言うまでもなく、モンブランは4807メートル、ヨーロッパの最高峰です。

それから、謡曲の友たちと語り合い、中国の西安、北京、上海など、謡曲に出てくる楊貴妃や玄宗皇帝の跡を訪ねました。

そのあと、41年前、アメリカのGE社スケネクタディ工場で実習していた頃知り合った友達たちから、もう何年も来い来いと言われていた宿題も果たしました。その帰路、カナディアン・ロッキーを楽しんで来ました。

次の年の春には、今まで訪れる機会のなかった岡山へ行き、日本で2番目に大きい造山古墳や鬼の城など、千数百年前の吉備王国の跡をサイクリングで見て歩きました。

夏には、仲間とモンゴルの未踏峰、テンゲル・ハイルハーン山に登りに行きました。

標高こそ3940メートルしかありませんが、樺太ほどの緯度ですから、8月でも雪が降りました。

またこの夏も、北海道を訪れ、駒ヶ岳、恵山、ニセコアンヌプリ、芦別岳、恵庭岳と稼ぎました。

秋には、メキシコの最高峰、オリサバ火山(5699メートル)を目指しました。成田を夕方に出て3日目に、高所順化としてマリンチェ山(4461メートル)には登りましたが、お目当てのオリサバ山では高山病に罹り、敗退しました。

この旅では、チチェン・イッサのマヤ遺跡、テオティワカンのアステカの遺跡にも立ち寄り、習ったことのないスペイン語の国を1人で旅したのでした。

年末には沖縄へ行きました。1人でレンタカーを借り、アメリカ陸軍省の編纂になる「沖縄戦」という本を片手に、1945年4月にアメリカ軍が上陸した地点から、83日後に日本軍が島の南部に追いつめられ壊滅した所まで、激戦の跡を辿りました。

今年に入って、2月にインドの仏教美術探訪の旅に参加しました。ムンバイからエローラ、アジャンタ、カジュラホ、タージマハル、アグラ、マツーラ、ニューデリーなどを訪ねました。

こんな風にして、人生のこの時期になってから、思いもしなかった沢山の経験をすることができたのです。

 

キリスト教、イスラム教は寛容か

その経験の中で、私にとっては、いろいろ思いがけない発見がありました。

その一つとして、宗教について述べてみましょう。

生まれてから70年間、私が接した宗教は、仏教、神道、そしてキリスト教でした。

今の日本では、普通の人は結婚式は神式で、葬式はお寺で執り行うというように、宗教的に寛容だと思われています。近頃は格好が良いからという理由で、キリスト教徒でもないのにチャペルで結婚式を挙げる人もあるそうです。また宗教上の理由から、豚とか牛とかを絶対に食べないということもありません。

それに比べて、キリスト教では、島原の乱で伝えられるように、キリストの像を踏むぐらいなら、殺された方がましだというような激しい、不寛容な宗教だと思われています。現在でも靖国神社に対する強い反発は、平均的な日本人にとっては、ちょっと理解しがたいものがあります。

世の中には、もっとはっきり物を言う人がいて、外国で起こっている宗教が原因となった紛争などに言及して、日本人は無宗教だから、穏和で争いがないのだとまで言い切ります。

ところが、メキシコシティーのグアダルーペ寺院で聞いた説明によれば、16世紀にここへ布教に来たキリスト教の神父は、その土地古来の女神様とマリア様とは同じ存在だと説いて、土地の人たちとの融和をはかり、成功したのだそうです。天照大神とマリア様は同一人だと説明するようなものです。

その壮大な寺院の前庭にある機械仕掛けの人形劇では、マリア様が土地の男の前に現れ、ここに自分を祀る寺院を造るようにと、お告げをする場面を演じていました。

そのマリア様の人形は、髪が黒く、肌は褐色なのです。そしてその話はカソリックの3大奇跡として、ローマ法王庁に認知されているとの説明でした。

またインドでは、17世紀にムガル帝国を定着させたアクバル大帝の造ったお城を訪ねました。インド大陸に住む雑多な民族を、融和、統合させる偉業を成し遂げたアクバル大帝の第一王妃はヒンズー教徒、第二王妃はキリスト教徒、第三王妃はイスラム教徒だったのだそうです。私にとっては、イスラム教も相当厳しい戒律を持つ宗教だという印象なのですけれども。

インドでヒンズー教に接したことも、わたしが受けた大きなカルチャーショックのひとつでした。

ヒンズー教は、BC500年頃、仏教などと同じ頃にバラモン教から生まれたのです。

ヒンズー教には特定の開祖はおられませんし、教典も教団もないのだそうです。

宇宙の創造と維持、破壊を司る3人の神様と、その奥さんや子供さんなど沢山の神様がおられます。「すべての川が大洋に注ぐように、すべての宗教も帰する所は一つである」という教義だそうで、仏様さえ、ヒンズー教の宇宙維持神であるビシュヌ神の変身したときのお姿の一つであるとして、取り込んでしまっているのです。

ヒンズー教徒は、インドの人口の84パーセントもいるのだと言います。国の人口が約9億人ですから、7億人以上の人が、この宗教を信じているのです。世界の人口の10パーセントを超す人がこの宗教を信じていることになります。

別の宗教の熱烈な信者は、彼らは悪魔に騙されているのだと嘆きましたが、その信者の数は膨大なのですから、どう考えたらよいものでしょうか。

ヒンズー教のほか、今でもインドには、イスラム教徒が11パーセントもいます。そして、イギリスが独立運動の力を削ぐために、長年、両者の対立を煽る政策を採ったことは通説になっています。そして現在もまだその後遺症で、ヒンズー主体のインドと、旧インドから分かれたイスラム主体のパキスタン両国では、核開発、ミサイル実験で対立を繰り返しているのです。

不信心の謗りを頂戴しそうですが、私は宗教それ自体もさることながら、むしろ、それに人がどう関わっているかが大事のように思うのです。 

前置きが、長くなりました。

 

・目から鱗が

宗教を例にとって、私が今さらのように海外で新知見を得たことを、くどくどと述べて来ました。

そんな外国での見聞録のひとつとして、敵軍が攻めてきて、母親の目の前で、赤ん坊を空に投げ上げ、落ちてくるところを、銃剣で受けて刺し殺す絵のことがあります。

そんな絵を、ひとつの国だけではなく、複数の国で見たのです。

カンボジアではもちろん、ポルポト派の所行として描かれていました。

日本兵が第二次世界大戦で、そういう残虐行為をしたと書かれた本を見たことがありました。

つまり、世界を広く見ると、そのような残虐行為があったとすることは、争ったときに、相手がいかに残虐であったかを訴えるひとつのパターンであるように思われるのです。

その絵の前で、こんな西洋小話を思い出していました。

ある大金持ちのユダヤ人が重い病気に罹りました。牧師さんに「病が治るようにお祈りして下さい。癒えたら教会を建ててさしあげます」と苦しい息の下から申しました。

牧師さんは熱心に祈り、病人は元気になりました。ところが教会を建ててくれる様子はありません。「あの時貴方はこう仰ったのだが」と催促すると、「あーあれですか、あれは私の病がどんなにひどいのかを理解してもらうために、例えとして申したのです」。

 

・隠居の役目

1945年から50数年間、戦争がなかったのは幸せなことです。しかしそのために、日本はいつまでも敗戦国としての、偏った敗戦国教育しか行えなかった傷跡は大きいと言わねばならないでしょう。

戦後教育の教条的思想のひとつに、歪んだ平等主義があります。それは機会の平等だけではなく、結果の平等にもひどく固執するものでした。

徒競走にさえ順位をつけるべきではないという主張があったことを、記憶している方もおありでしょう。

さて、卒業間近の私たちの後輩たちの中には、なぜ二葉会に入らなくてはならないのかと、質問する人がいると聞きます。

プレイランド化した大学とは違質である自分の学んだ学校に対する誇りと使命とを、はっきり口にし、態度に表しても良いのではないでしょうか。

何かを成し遂げようとして、知識,情報、そしてそれに繋がる人脈が必要になったときには、優秀な大学のネットワークは大きなツールになります。

成果を上げれば、本人の出世に繋がることは多いでしょうし、究極的には、社会のためになることなのです。

優秀な名大電気の二葉会こそは、まさにそういった大事で役に立つネットワークにほかなりません。

そんなことは、事新しく言うまでもなく、常識になっているじゃないのと言われそうではありますが、そこまではっきり言わずに、オブラートで包んだような議論に何時までも終始しているように見えるのです。

学閥を組むのは怪しからんというような物議を醸したとしても、私はすでに損得の因果を離れた世界にいるのですから、そろそろシュヴァンネン・ゲザンクを歌っても可笑しくない年頃だと思い、本音を申し上げてみました。

それにしては、美しくない声で慚愧にたえない次第なのですが。

 

 

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