見果てぬ悪夢

2006-02-28 08:23



慶応大らがユビキタスネットワーク実証実験拠点


「uPlatea」を公開


実際に触ってみると感想が変わるのかもしれないが(そういう時に私は意見をころりと変えることに関しては自信が有る)


きっとすごく時間を費やして開発しているのだろうな、、とぼんやり考える。しかし問題なのはここで扱われているアプリケーションがさっぱり面白くないことだ。



 また、複数の端末で情報をやりとりしたい場合、タイル状に端末を組み合わせ、画面上で右の端末から左側の端末にファイルを移動させるだけでコピーする、ということも可能になる。Windowsなどの共有フォルダを利用してコピーするよりも直感的な操作が可能だ。



だから何?


こういう「とにかくPCとセンサーを配置して”なんとかしよう”」という企画にはいささかうんざりしている。問題はどこにあるのか?


先日産総研増井氏の講演を聞くことがあった。増井氏は


「問題はアプリケーション。そのため誰もが気軽に面白いアプリケーションを作れる環境の整備を目指す」


といっていた。(私の聞き間違いでなければ)この主張に全面的に賛成だ。


アプリケーション不在の「ユビキタス環境」なぞいくら作っても何もでてこない、、というのが野次馬の勝手な感想。そりゃミドルウェア作ったり、センサー配置したりって労力を要するから仕事したようなき分になるだろうけど。


だから何?


という質問は残ったままだ。問題はアプリケーション。そこにつなげられなければ、この部屋でやっていることは技術者の自己満足から一歩もでることはない。


しかし不思議なことに


「自分で商品力のあるアプリケーションを造ることはできないし、やろうともしないが、他人が作ったものをけなすことは大好き」


というエンジニアが実にたくさん居る、、というのもこの世の中の姿だ。そういう人たちは永遠にハード+ミドルウェアを作って


「あとは”アプリ屋さんの仕事”」


と自己満足に浸ることができるのだろう。




メダルなんかなくても

2006-02-22 11:09



全くかまわないと思う今日の私。というかとれそうもない人間を大本営やゲッベルスなみの想像力を駆使して祭り上げるより、まず現実を見据えてはどうか。


でもってこの記事


金メダルよりも価値がある!?選手ブログに寄せられたお宝コメントたち


限られた範囲と聞きかじりの記憶で書くが、米国ではオリンピックというのもに対する関心が日本ほど(あるいはかつての日本ほどと書くべきか)高くない。すばらしいプロスポーツにどうしても隠れてしまうのか、、と思っている。あるいは無意味な愛国的熱狂がスポーツに関しては発揮されない、というべきか。


しかしいつかのオリンピックであるTV局は


「選手のエピソードを感動的に取り上げる」


方法で視聴率を伸ばしたのだそうな。つまり金だ銀だよりもその選手がいかに努力したかを訴え、視聴者の共感を得たのだろう。(ただし米国のTV局が作るものだから、日本のTV局のような幼稚で扇情的なものではないと思うが)


そこにこの記事である。つまりメダルなんかなくても観客の共感を得ることは可能なのだ。上村選手がどのように努力したか、を感じ取れば手作りの金メダルに涙をしたとしてもおかしくない。


国威発揚のために国家や企業の金をつぎ込むのは中国や韓国に任せておこうじゃないか。彼らはそれが「国威」につながると思っているのだから。日本もかつてはそうだったのかもしれない。前畑がんばれ、という声と活躍は当時の日本では今とはよほど違って受け取られていたのだろう。


しかし今はそんなにしゃかりきになって


「日本はすごいぞ」


と叫ばなくてもいいはずだ。であれば、メダルなしのオリンピックだって十分に観客の共感を呼べるはず。メダルなしでも「感動をありがとう」と言わせることはできるはずなのだ。そしてそれは狂ったような


「大本営発表」


よりもはるかに望ましいと思うのだが。




Apple Event

2006-02-22 08:12



Apple Event Set for February 28


うがー!


解っているのは「何が出るかは誰もしらない」ことだけだ。過去のExpoだのイベントを見ても予想はあまり当たらない(前日あたりに漏れてきた情報は別だが)


個人的にはいつIntel-BaseのPowerBookもしくはiBookに乗り換えるかが悩ましいところだ。15インチの大きさでは持ち歩けないので、13インチ以下の機種が望ましい。うわさを信じればそれはiBook(もしくはその後継)になるはず。一世代待つかあるいは乗り換えてしまうか。。正直今のPowerBookの遅さには辟易しはじめているのだ。


その前に面倒だが行わなくてはならないタスクがある。その昔HyperCardでつけていた日記をテキストあるいは別のメディアに変換することだ。Classic環境はほとんど使っていない。。だからIntel Macでそれが使えなくても問題はないのだが、HyperCardだけはなんとかしないと。




論文をたくさん書く方法

2006-02-20 10:40



ハッカーと画家 より



論文の数を増やす最良の方法は、間違った仮定から出発することだ。 AI研究の多くはこの規則の良い例だ。知識が、抽象概念を引数に取る述語論理式のリストで表現できる、と仮定して始めれば、それを動かすためにたくさんの論文を書くことになるだろう。



大笑い。


この文章は味わい深い、、というか少なくとも私には考えるネタをたくさん与えてくれそうなので、この後何度か引用するかもしれない(そう宣言だけしてしないかもしれない)まあそれはそれとしてとりあえず笑ったところを。


ここ2-3年論文なるものを書いて査読してもらう、ということをやりはじめた。このシステムは長い年月をかけて作り上げられたものだと思う(本当は知らん)というわけでメリットもあるのだが(社外の人間にコメントをもらえるのは貴重だ)なんだこれは、ということもある。


例えばこの引用部分に書かれていること。根本の仮定が全くの間違いで、かつそれがほぼ明確になりつつあった、としてもその分野に何故か望みを抱いている査読者に当たれば、その論文は良い評価を受けるだろう。逆に「仮定が間違い」ということが定説となっていない時期に「そりゃ間違いだぞ」と書いたところでけちょんぱんにけなされるだけだろう。


向かい合って殴りあう、とかボールを特定の部分に入れる、とかいう競技ならともかく、この論文査読というやつはフィギュアスケートの採点よりも曖昧なものだと思う。間違った仮定だろうが、それを信奉する査読者にあたればそれでOKなのだ。


研究会などに行くと時々「何故こんな仮説に基づいた研究が続けられているんだ」と思うことがある。それを信奉する人が評価する側に存在する限り、その論文は死ぬことは無い。現実には何の役に立たなかったとしても。




優秀な人材を確保、とどこも言うけれど

2006-02-20 08:37



私が仕事で使わせてもらったソフトウェアだけでもMecab, Tiny SVM。他にいくつもきわめて有用なソフトを開発・公開している


工藤拓氏。それにNamazuを初めこれまたいくつものソフトウェア開発、それにBinary2.0スクリーンセーバーセーバー高林哲氏。この二人とも現在Googleで働いている、、ような気がする。


根拠:


Google 、名大に来る。




言語処理学会第12回年次大会グーグル技術講演会


この二人がSony CSLでもNTTでも富士通でもNECでも日立でもあるいは名も無き日本のベンチャーでもなくてGoogleで働いているのだ。


彼らが書いたり発表したりしたものを読んでいる立場からすれば、これは実に「当然」なことなのかもしれない。工藤氏が書いた「研究者と技術者の乖離」にはこんな一節がある。



先日研究者として有名なある方とお話する機会があったのだが、


『Google のどこがすごいの、固有値計算してるだけやん』


とおっしゃていた。大学の教授で、ばりばりの研究土壌の人なら分からなくはないが、


企業研究者としてのこの発言には少々がっかりした。


その方は,ウェブ科学を研究テーマになさっているが、SEO, RSS , Adsense といった


最新キーワードをほとんど知らなかった。というか興味なさそうだった。


研究者と技術者の乖離を垣間見た。


個人的には、こういう研究者がいるから、企業のそして日本の総合的な技術力が


伸びないないし、技術者が冷遇され続けるのだと思う。



私が知る限り工藤氏は一旦NTTに就職したはずだ。そしてこのエントリーを読めばそこから離れた理由も(勝手に)納得がいくというもの。


しかし


この現実を「危機」と捉えている日本企業は存在するのだろうか?あるいは知ったような顔で


「優秀な人材の外国企業への流出は今に始まったことじゃない」


と言っておしまいにするのだろうか。では、そうした日本企業が集めている研究者はなんなのか。優秀でなくても、とりあえず会社の言うことを聞き、会社がだした問題に80点の解答をする人間がそろっていればいいのか。


と現在は企業の研究開発をやっている子会社(ふれこみは少なくともそうだ)で働いているサラリーマンは書くのでした。。




電車展

2006-02-17 09:01



一週間遅れで書くのもなんだが、電車展(http://densha-ten.jp/index.html)に行ってきた。


関連記事


いくつか覚えていることを書いておく。


「発車オーライト」:電車が近づくにつれ、光が走っていく。それに合わせて走っていけば電車に間に合う、というもの。


今は「おっ、電車の音がする」と走り出す。すると反対側のホームに来た電車だったりしてがっかりする、という問題が有る。光を走らせれば確かにどちらに来たかは解る。


しかしこれを設置すると間違いなく起こるのが「駆け込み乗車の増大」ではないかと思う。そりゃ光が走っていけば走るし、階段はとぶわな。その点については?と聞くとあまり明確な答えが返って来なかった。学生さんがおもいつかないのはまあいいとして、JRは何もコメントしないのか。


 「ロゴモーション」:電車の移動に合わせて、情報を閲覧したり書き込んだりできるシステム。単純そのものだが、使われるシーンをよく考えてあり、「使える」と思う内容。ただし問題は膨大な「公序良俗に反する書き込み」をフィルタリングするかだ。


 「デモコン」:電車の中が暑い、寒いという意見があるとき、携帯電話からの投票で温度を設定できるようにしよう、という試み。


意図はわかるが問題もある。「誰にとっても快適な温度」は存在しないだろう、という点だ。私は暑いと思う。隣の人間は寒いと思っている。二人が話しているときは「空調が悪いですね」で怒りを顔を見えない車掌にぶつけているから平和である。


ところが「お互いで決めよう」とした途端、怒りの対象が乗客に向けられる。そして世の中には「自分の一票は下賎な大衆の1000票より価値が有る」と頭から信じている人間はたくさんいるのだ。


トークセッション:博報堂生活総合研究所の山本貴代氏が「女性は駅に対してネガティブなイメージを持っている」と述べていた。内容は大変面白い。


聞いているうち「駅自体が悪いのではなく、”会社への入り口”として捉えられてしまうのがいけないのではないか」と思い出した。もう一人の方が発言していた「サードプレイス(家でも会社でもない場所)になればいいのかな。どうするかは知らんが。


女性の電車に対する苦情で「酔っ払いにからまれた」「吐かれた」というのが多いというのは驚き。こういうのは男性にはわからんが、とても不愉快なものだろう。電車男のヒットで、「酔っ払いに絡まれる女性を助ける男」が増えることを。


あと女性専用車両について「乗りにくい」(70代女性)という意見と「女性の敵は女性。頭のてっぺんからつまさきまでじろじろ見られた」(70代女性)という意見も男性には想像もつかない内容だった。


概して研究展示は「考えてみました」レベルで止まっているものが多かったように思う。「よく考えられている」というものももちろんあったのだが。思い付きが製品にならないのは


「そうした発想がない」


という原因のほかに


「実現できない尤もな理由が有る」


場合もある。後者の「尤もな理由」をすっとばして提案だけされても困る、と私がJRの人間なら言うところだ。


トークセッションは面白かった。私はこういうトークというものを「食わず嫌い」している人なのだが、その認識を改めるべきである、と感じた。


個人的には「席を譲ってくれオーラ、と譲ってもいいですぜオーラ」をいそやかに出せるインタフェースがないかと思っている。


席を譲ろうか、と思うときにはいつも心の中で葛藤する。この人は実はみかけより若いのではないか?元気そうなのに席をゆずられて気分を害しないか?勇気をだしてゆずったところで「すぐ降ります」といってとにかく座らない人も多い。


逆に妊娠初期の人は外見からはそうとしれないが本人はとてもつらい(らしい)そして妊娠後期の人がどれだけ大変か、ということは自分の奥さんが妊娠するまで知らなかったことだ。


こういう「秘めた願望」をオーラのように提示できないか、というのが長年持っている問題意識。




嘘ニュースだけど

2006-02-16 07:35



笑ってしまった。


偽Xbox360売った男を摘発 秋葉原


なんだか本当にあってもおかしくないような話である。


日本でXbox360が全く売れていないことは解っている。発売直後に米国で品薄になったのは確からしい。マイクロソフトが販売目標を下げたことも知っている。私が知りたいのは、果たして米国で売れているのか?ということ。


今年のどこかの時点で売り出されるであろうPS3の運命とともに、将来


「こういう製品開発をやってはいけません」


の事例として紹介されるのか、あるいは成功例として紹介されるのか。


ハードの「進歩」というのは数字で表しやすい。やれポリゴン数がどうの、やれ色数がどうの、やれ影がどうのと。


そしてそういう解りやすい「ハードの進歩」と「商品性」が比例する幸せな時期というものが存在する。


しかしいつしかそれらは乖離を始める。ハードの性能をいくら進歩させても商品性があがらなくなるときが来るのだ。私見ではPS3,XBox360はその「乖離点」を見抜けなかった失敗例として歴史に名を刻むのではないかと思う。これを避ける方法は、ゲームのルールを変えてしまう-つまり新しい使われ方を発明することだ。任天堂は次世代機でそれを目指している。そしてその戦略はDSでは少なくとも成功を収めた。PS2をこんなに小型にしましたー(つまり乖離点を見抜けずただハードを進化させた)のPSPより遥かに売れているのだ。


PCについても同じようなことが何度も言われている。やれ個人ユースに16ビットはいらない。32ビットはいらない、とずいぶん聞かされたが未だにハードは進化を続けている。


これにはPCの利用方法がハードの進歩にあわせて(どちらが先でどちらが後かは知らんが)変化してきたためだと思われる。例えばテキスト文章作るだけだったら、とっくの昔に「乖離点」を通過しているわけだ。(さすがにMacintosh SEでは文書作成もストレスがたまったが)しかし動画を扱い、あるいは巨大なDTP作業を行う、、というとまだまだパワーが必要になる。Quicktimeが発表される前は、PCで動画をがりがり使う、なんてことは考えもしなかったが。


というわけで最近やたらと動画をエンコードしている私は計算機パワーの信奉者になりつつある。小型でCore Duoが載ったMacが発売されたら、衝動買いするかもしれん。いや、私は貧乏なのだ。落ち着け落ち着け。




今時の大本営

2006-02-12 22:26



童夢&メロ、日本五輪史上初の兄妹連日メダルだ!


成田ら日本勢が予選落ち=男子ハーフパイプ


いいかげんこういう「大本営発表」はやめようじゃないか。日本はオリンピックを国威発揚、国内情勢のカモフラージュに使わなくてはならないほど貧乏な国ではなくなったのだから。


「空母12隻撃沈」という勇ましい言葉のバックに軍艦マーチを流し、現実から目をそらして幸せな妄想に生きているのは子供がやることだ。大人は現実を見据えて、その中に楽しみを見いだせるべきだ。




存在の耐えられない軽さ

2006-02-09 09:31



ネット企業は技術志向の経営を--梅田望夫氏が語るるウェブの進化より


そういう「深い技術」と「早い技術」がネットの世界にあって、この「深い技術」を極めようという気が、今の日本のネット産業の中に全くないのだろうなということですよね。


梅田氏のブログは前から何度か拝見している。いいのだけど何かがひっかかっている、、とこのサイトからもリンクはしていない。しかしこの記事は長年頭の中でもやもやしていたものをすっきりとさせてくれた。


シリコンバレーからでてくる新しい会社と日本で「ネット企業」と言われている会社の一番の違いはこの「深い技術」の有無なのだ。


エンジニアをたくさんやとっているという話と、深い技術を前面に押し出し、それでユーザに価値を提供しよう、というのは全く別の話だ。日本のネット関連企業の時価総額がどうなっただの、株価がどうだの聞いても全くぴんとこず、Googleの話を聞くたび心のどこかで歯軋りするのは私がどこかで


「深い技術で成り立っている企業」


に憧れを抱いているためだと思う。


こう書くと「いや、日本にも深い技術はある。iPodを磨けるのは日本の職人ではないか」という話がでてくるような気がする、、のだが話はそうではない。職人さんたちの技はAppleという会社の影にしか存在しない。職人技のすばらしさはすばらしさ。それが企業の経営と一体化して一般ユーザにリーチする、というところが私がGoogleに関して歯軋りする理由なのだ。


話がふらふらするが以前から日本のメディアが「ネット関連企業」という言葉を無茶苦茶なくくりとして使うのには腹が立っていた。彼らの「区分」ではライブドアもgoogleも同じネット関連企業なのだ。こんなふざけた話はない。


と憤っているよりも「深い技術」「早い技術」という解りやすい言葉があれば話はわかりやすく、、ならんかな。ライブドアの場合は「早い技術」よりは「金儲けだけの技術」だったわけだが。


ここで話は昔に飛ぶ。シリコンバレーの話(本の名前は忘れた)を読んで感銘を受けたあと、その本を貸してくれた男が「では次はこれを」といって貸してくれた本が日本のアスキーかなにかに関する話だった。


でもって冒頭西某が会議室で昼寝していたとかそんな話が「型破り」として書かれている。そこだけでもう読む気を失ってしまった。


なんなんだ。これは。シリコンバレーで起業した人間の「型破り」と会議室で昼寝する「型破り」を同じ「型破り」ということで同列にならべるのか、と。


とひとしきりわめいたところで話は自分自身に戻る。他人がやっていることをあれこれ言うのは簡単だ。さて、私は「深い技術で一般ユーザにリーチする」物を作り出すことができるだろうか。


今作っているGoromi-TVはいくつか考えるヒントを与えてくれる。その後ろに深い技術は存在し得るのだろうか。「新しい情報との出会い」「なんとなく別のもの」といった曖昧な要求にこたえる深い技術というのは存在するのだろうか?




アンフェア

2006-02-09 07:16



「メディアに対してネガティブな反応が巻き起こると言論の力で封じ、自分たちはジャブジャブ経営を続けるという、きわめてアンフェアなところにマスメディアの本質がある」


ネット社会で既存メディアはどう変化するのかより


全く同感。既得権益の上にどっかりとあぐらをかき、他人を非難することはあっても自らの非は絶対に認めないのが彼らのやり方だ。


メディアの持つコンテンツを作り上げる才能、技能は素人がまねできるものではない。しかしながらそれと彼らが自らの利益のため好き勝手に情報を操作してよい、という現実は別の話だ。


将来がどうなるかは誰にもわからない。しかし私はマスメディアに分化が起こって欲しいと思っている。彼らが提供すべきコンテンツの種類、中継、ニュース、娯楽、教養、ごとに異なる性質があり、求められる機能が有る。それらを単一の「マスメディア」が担うのではなく、形態の異なる業種が担ってもよいのではないか。。と書くだけ書いて自分の頭の中にその姿が思い浮かばない、というのは実に気分の悪いものだ。


というわけで身近なところから一つ。広告を受注するならその発注元の業界に関して客観性を装った妄想を書くのはやめる。それぐらい徹底したらいかがかな?




長い尻尾の住人

2006-02-07 07:26



昨日初めて「ロングテール」という言葉を知った。


ネット世界で利益を稼ぐ「ロングテール現象」とは何か


というわけで、新しいかなづちを手に入れた子どものように、私もなんだかこの言葉を使ってみたい気分になって、浮かれてかいてみる。


何故私がこの言葉を聴いて浮かれるかといえば、自分自身が長い尻尾の先の方に住んでいる、と思えるからだ。




例えば2002年から私の趣味になった「珍スポット巡り」というものが有る。巡り巡って


いまや本家サイトのメインコンテンツと化しているのだが(少なくともヒット数から見ればそうだ)これはインターネットというものが普及し、興味を同じくする「少数の人」の存在を知ること無しには絶対に始めなかった趣味だと思う。そもそも珍スポットとはあまり人が来ない場所なのだ(中には有名な寺でありながら裏に狂気を隠しているものもあるが石手寺)こういった場所の情報はパレートの法則に従うメジャーな書籍では絶対に手に入らない。


映画だって自分で映画評を書き、他の人の映画評を見ることなしにはここまで「趣味」と呼べるものになったか怪しいものだ。それまで新聞や雑誌に載っている映画評は「嘘のかたまり」であるという認識を持っていたのだが、ネット上には読むに値する映画評がほんの少しだが存在することを知った。そしてそれに触発され自分でも書こうと思ったわけだ。「映画評」というくくりではメジャーな分野かもしれないが、実体としては「メジャーかつ嘘の映画評」と「マイナーかつ本音の聞ける映画評」に分かれているように思える。そして後者にはネットの存在なしにはアクセスし得なかったであろう。


あとちょっとずれた「ネット」でいうと「通信カラオケ」というものの普及は私にとってまさに革命的だった。それまでは「メジャーな曲」しかないカラオケ屋ばかりで欲求不満の塊となっていたのであった。ところが通信カラオケのおかげで70's, 80'sのロックを歌うことが可能になったのである。いまカラオケ屋においてある分厚い曲名リストがどのように使われているか調べてみるときっと長ーい尻尾が登場するのではなかろうか。


というわけでインターネットの普及というのは長い尻尾に住んでいる人間にとっては誠にありがたいものだ、というお話でした。


話は飛ぶが。。


都会になるほどマイナーなユーザを対象とした商売が成り立ちやすい、というのもこの法則に関連しているのであろうか。魔都秋葉原が何故東京にあり、名古屋にないか。長い尻尾も母数を増やせば商売として成り立つ数に達する、、とかそんな理屈かな。




クリエイティブなユーザーとは

2006-02-06 08:55



Web2.0を活用する10の方法、その3より



今までのパッケージ・ソフトウェアが「市場調査に基づいて、ユーザーが何を必要としているかを探り出して、そのニーズにマッチした商品を作り込んでから市場に出す」方式であったのに対して、ソフトウェアがサービスとして提供される時代には、「そもそもユーザーがどんなものを必要としているか、どんな使い方をするかを予測するのは難しいのだから、できるだけ自由度の高いサービスを提供して、ユーザー自身がその上でクリエーティビティを発揮できるように設計しておく」方式の方が有効なのである。



ううむ。と読んでうなる。これは確かなのかもしれない、、としばし考える。しかし何かがひっかかる。それは


「ユーザーに何を作ればいいか聞いてはいけない」


という命題の存在だ。ユーザーは多くの場合クリエイティブではない。これは多くの(私がまともと考える)本に書かれているし、経験上からも確かだ。


では二つの命題はどのような関係にあるのか?


想像だが、Web2.0でユーザが新しい使い方を発見する、というのはこのように起こるのかもしれない。


まず前提として、「ほとんどのユーザは自分の欲望に正直だ」ということに着目する。つまり作る側から見て開発にいくらかかっていようが、何年かかっていようが、使う気がなければ使わない。どんな「くだらない」改善でも役に立てば敏感に取り入れる。


Webで多くの人が同一の情報を共有することにより、、その中のほんの少数の人が「なんだ、こんな使い方があるじゃないか」と気がつく。(クリエイティブな人の割合がほんのわずかでも母数が大きければ存在する可能性は高くなる)


従来ならばそうした情報はその人の周りだけにとどまっていたのかもしれない。しかしWeb2.0の世界ではそうした「ちょっとした思い付き」もたくさんの人に共有される。


すると「自分の欲望に正直」なユーザはたちまちそちらに流れていく。そして「作り手が思いもしなかった新しい使い方」の誕生だ。


ちなみに「振り込め詐欺」とか「架空請求」がたちまち「普及」するのも似たようなメカニズムに基づくのではなかろうか、、などとふと考えた。ああいうことをやって金をもうけようという人たちは何よりも欲望に忠実なのではなかろうか(会ったことないけど)「自分が長年手がけてきた事業だから」と執着することもないし。




愚痴るのが大好きな私

2006-02-06 08:40



会社でのいじめについてより



愚痴ってのは、要は「私をもっと見て」ということです。


なのでとても恥ずかしいことなのです。



心に刻んでおこう。そうだよねえ。他人にはどうでもいい自分だけに関係することをぐだぐだと述べているんだから。


何故人間は愚痴るのだろう。愚痴ることは進化の上で何が利点があったのだろうか。いや、なんでも進化の上で利点があるから存在している、なんてのは間違っていると思う。だいたいタツノオトシゴの形態にに何の利点があるというのか。いや、きっと何があるのだろうけど、観ているととてもそうには思えないのですよ。水の中でひろひろと。


話を戻す。


このブログ及び本家サイトってのはいわば私の愚痴みたいなものではなかろうかと思い出した。愚痴というか、実生活ではまず誰も聞いてくれないことばかり書いている。。おかげで昔より聞き上手になった、、のかなあ。でも相手が耳を傾けていないと知るとしゃべる気がうせるのは確か。


話はまた飛んでいくが、私が水商売系が苦手なのはそのせいかな。




透視するのだ

2006-02-02 09:12



私が定期的に見るTV番組は少ない。そのうちの一つがトリビアの泉である。


その中に視聴者からよせられた疑問を元にトリビアを探求する「トリビアの種」というコーナーがある。昨日のテーマは


「FBI超能力捜査官は福袋の中身を当てることができるか」


だった。


私がこの類の「超能力捜査官」について知っていることはごくわずかだ。行方不明になった人を探す番組でときどき見かける。


その限られた知識で書くのだが、この超能力捜査官というのは「思わせぶりと言い訳の芸術」だと思う。


例えば行方不明の人を探すときには、捜査官がいくつかのキーワードを言う。するとスタッフがそれに当てはまる場所を一生懸命探す。そんなことを繰り返す。


番組では3っつか4っつのキーワードしか取り上げない。しかし有るときちらっと写った紙には20-30は超えるであろう数のキーワードが記載されていた。


そこから推察するに、超能力を持つ人はとにかくキーワードを山ほど言うのではなかろうか、と。異国の地であってもあれこれ曖昧なキーワードを並べておけば、「あたっている」と思える場所を見つけることはそれほど難しくないのだろう。もちろんそこに行方不明者がいるかどうかは別問題である。とりあえずあちこち走りまわっていれば番組としては成立するのだ。


でもって昨日の「福袋の中身を当てる」では超能力者が苦労していた。もちろん山のようにつまれた福袋の中身なんかわかるはずがない。ここは鍛え抜かれた「言い訳」の技術を駆使するときだ。


「あっ、今それらしき袋があったけど、誰かに買われてしまったの」


とか言ってみるが、スタッフは許してくれない。候補を二つあげてもどちらか選べと言われる。開けてみた結果は気の毒なことに普通の人が買ってあたっているのと同じくらいの確率だった。「形はあってるでしょ」とか「色がちかいわね。できには満足しているは」とか言ってみたものの外れたという事実は動かない。


思うにこういう人は「白黒はっきりつけられる」場所に引きずりだされた時点負けなのだろう。とにかく曖昧で結論がまず出ないような問題に相対している間はその才能を存分にはっきりできるが。


ちなみにその「超能力捜査官」は競馬の勝ち馬を見事透視して面目を施していた。そのレース前の不安な表情、レース中の祈るような表情、勝った時の喜びの表情などは超能力とは無縁の物。しかしそうであってこそ見ているほうも安心できるというものだ。競馬の結果を透視できるなら、もっといい暮らしをしているはず、なんて野暮な突っ込みは無し無し。